「各地で『戦争展』が開かれているが」
「各地で『戦争展』が開かれているが」
梅雨明けの直後からの日本列島は、猛暑に襲われている。
35度以上の地点が200ヵ所、250ヵ所へと広がり、36度、37度と今年の夏はことのほか暑く、熱い。
この時期、夏の恒例の行事が、日本列島をさらに熱くしている。
7月中旬頃から全国各地で繰り広げられている「戦争展」「平和展」「空襲被害展」から、「8.6」「8.9」「8.15」へと続く、先の大戦にまつわる各種催し物の開催とそのスタンスである。
この一連の「真夏の行事」に共通しているテーマは、主催者が誰であれ、形式や内容がどうであれ、「戦争の悲惨さ」と「平和の大切さ」を強調する被害者展になっているきらいがある。
特に、各地での空襲展は、空襲で焦土と化した市街地と犠牲者たちの写真、出征前に寄せ書きした「武運長久の旗」「日の丸の旗」や遺品などを中心に構成している。
その展示会場からは、確かに日本人たちが受けた戦争の被害、悲惨さが十分に伝わってくる。
とはいえ、戦場や戦争現場は全くなく、ましてや旧日本軍の朝鮮や中国、アジア各地での侵略行為、旧軍や日本人の加害行為を証言するものなどはどこにもない。
このように、各地の会場で展示されている写真や図面などで、共通しているのは、米軍機による空爆の被害、外地から引き揚げる際の苦労談など、そこには日本が起こした戦争(侵略)行為と目的を隠してしまっていることだ。
さらに、空襲・空爆の主体者が、米軍であったことまでも隠している。だから、何のために、一般日本人が、空襲被害にあったのかが、会場からは何も伝わってこない。
そうした展示会場を訪れるたび、展示目的が何であったのかさえ、疑問に思えるのは当然だろう。
戦争は自然災害とは違う。
被害の前には必ず、加害者の政治判断と行為があったはずだ。
クラウゼビッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の継承である」と言っている。また、毛沢東は「政治は血を流さない戦争である。一方、戦争は血を流す政治だ」と言っている。
血を流す政治を仕掛ける政治家たちは、情報統制、増税と軍事関連支出の増大、周辺国との軋轢、ナショナリズム的強調現象が起こしていたはずだ。
こうした戦争推進政治勢力、戦争犯罪者の姿を隠したうえでの、銃隊の犠牲や被害実態だけをクローズアップさせた「平和」主張では、どこか虚しいものがある。
日本各地で行っている「夏の企画展」では、先の大戦による一般日本人たちの被害実態を教えてはくれるものの、日本が加害者であったことを都合よく忘れさせていく効果をもっている。
その結果、在日朝鮮人へのヘイトスピーチは言うに及ばず、軍慰安婦の存在や朝鮮人強制連行を否定する意見が一般化するまでになった。
それは違うと主張する者たちに「反日者」とのレッテルを貼り付けてしまうことまでが、常態化している。
国会では、戦争後方支援、兵器輸出、集団的自衛権の行使までが、何らの障害もなく議論進行している。
そのように進行している現実を「平和」だと言って良いものだろうか。
最早や、過去の被害実態だけを展示して、「平和」な時代が良いと言うだけでは済まなくなっている。
今後は過去の日本政治の加害行為をしっかりと表現するとともに、現在進行している安倍政権の「他の手段の政治」「血を流す政治」をも告発していく必要がある。
2014年7月26日 記
梅雨明けの直後からの日本列島は、猛暑に襲われている。
35度以上の地点が200ヵ所、250ヵ所へと広がり、36度、37度と今年の夏はことのほか暑く、熱い。
この時期、夏の恒例の行事が、日本列島をさらに熱くしている。
7月中旬頃から全国各地で繰り広げられている「戦争展」「平和展」「空襲被害展」から、「8.6」「8.9」「8.15」へと続く、先の大戦にまつわる各種催し物の開催とそのスタンスである。
この一連の「真夏の行事」に共通しているテーマは、主催者が誰であれ、形式や内容がどうであれ、「戦争の悲惨さ」と「平和の大切さ」を強調する被害者展になっているきらいがある。
特に、各地での空襲展は、空襲で焦土と化した市街地と犠牲者たちの写真、出征前に寄せ書きした「武運長久の旗」「日の丸の旗」や遺品などを中心に構成している。
その展示会場からは、確かに日本人たちが受けた戦争の被害、悲惨さが十分に伝わってくる。
とはいえ、戦場や戦争現場は全くなく、ましてや旧日本軍の朝鮮や中国、アジア各地での侵略行為、旧軍や日本人の加害行為を証言するものなどはどこにもない。
このように、各地の会場で展示されている写真や図面などで、共通しているのは、米軍機による空爆の被害、外地から引き揚げる際の苦労談など、そこには日本が起こした戦争(侵略)行為と目的を隠してしまっていることだ。
さらに、空襲・空爆の主体者が、米軍であったことまでも隠している。だから、何のために、一般日本人が、空襲被害にあったのかが、会場からは何も伝わってこない。
そうした展示会場を訪れるたび、展示目的が何であったのかさえ、疑問に思えるのは当然だろう。
戦争は自然災害とは違う。
被害の前には必ず、加害者の政治判断と行為があったはずだ。
クラウゼビッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の継承である」と言っている。また、毛沢東は「政治は血を流さない戦争である。一方、戦争は血を流す政治だ」と言っている。
血を流す政治を仕掛ける政治家たちは、情報統制、増税と軍事関連支出の増大、周辺国との軋轢、ナショナリズム的強調現象が起こしていたはずだ。
こうした戦争推進政治勢力、戦争犯罪者の姿を隠したうえでの、銃隊の犠牲や被害実態だけをクローズアップさせた「平和」主張では、どこか虚しいものがある。
日本各地で行っている「夏の企画展」では、先の大戦による一般日本人たちの被害実態を教えてはくれるものの、日本が加害者であったことを都合よく忘れさせていく効果をもっている。
その結果、在日朝鮮人へのヘイトスピーチは言うに及ばず、軍慰安婦の存在や朝鮮人強制連行を否定する意見が一般化するまでになった。
それは違うと主張する者たちに「反日者」とのレッテルを貼り付けてしまうことまでが、常態化している。
国会では、戦争後方支援、兵器輸出、集団的自衛権の行使までが、何らの障害もなく議論進行している。
そのように進行している現実を「平和」だと言って良いものだろうか。
最早や、過去の被害実態だけを展示して、「平和」な時代が良いと言うだけでは済まなくなっている。
今後は過去の日本政治の加害行為をしっかりと表現するとともに、現在進行している安倍政権の「他の手段の政治」「血を流す政治」をも告発していく必要がある。
2014年7月26日 記