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「日米で朝鮮に侵攻する仕組み」

「日米で朝鮮に侵攻する仕組み」

1.
 安倍政権が7月1日、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、その内容を発表した。

 そのことを一番喜んでいたのは、高揚感のまま記者会見をしていた安倍晋三首相本人ではあるが、次いで喜んでいたのはオバマ米大統領であった。

 彼ら二人は、米政権の長年に渡る宿題の一つを仕上げたとする、安倍氏は高揚感、オバマ氏は安堵感でもって、自衛隊が海外の戦場に米軍と共に出動できるようになったことを、同時に歓迎していたのである。

 つまり、朝鮮半島有事に自衛隊が出動できるということを、歓迎していたのであり、そのことが集団的自衛権行使の中心点でもあったからである。

 安倍首相は1月24日の施政方針演説で、第2次安倍政権の国会演説で初めて集団的自衛権に言及した。当初、自民党内部にも首相の前のめり感を危倶する意見があったものの、「人事カード」(内閣改造)と党内の「安倍一強」に押し切られ、中堅層から「限定容認」論へと傾斜していった。

 さらに4月のオバマ大統領の「歓迎、支持」発言が、安倍首相には大きな援軍となった。

 日本の集団的自衛権の行使、つまり在日米軍と共に自衛隊が朝鮮半島有事に参戦し、半島内の戦場で自衛隊が米軍の戦端を切り開いていくシナリオを、米国は1949年頃には想定していたようだ。

 当時の南朝鮮は、反米、反李承晩の人民闘争がパルチザン闘争へと発展し、38度線一帯では南北両軍による「小戦争」が繰り返されていた。

 腐敗した李承晩政権は、米軍の武力と米政権の財力とで支えられている状態であった。

 そのうえ中国大陸では、米国が支えていた蒋介石政権が台湾へと逃亡し、毛沢東の共産党政権が優勢となっていた。

 東アジア情勢が危機に貧していたことを悟った米国は、日本を反共基地として育成していく道を急謹選んだ。

 48年後半から右旋回させた日本に南朝鮮を連動させて、強固な反共戦線、反共基地の建設を急いだ。

 米政治家も高級軍人たちも、アジア情勢とアジア人のことをほとんど知らず、理解をする努力さえもしてこなかった、

 ましてや日本人と朝鮮人、中国人との民族文化と民族的感情の違いなど、認識もしていなかった。特に日本と朝鮮・中国との民族対立の根源についての理解に欠けていた。

 在日朝鮮人たちの組織的対立は左派対右派ととらえ、南朝鮮では政治・治安関係で親日派を用いていたこともあって、東アジアでの対立構造全体を、共産主義勢力対自由主義勢力との問題と理解し、処理していた。

 極東軍最高司令官マッカーサーも、そうした米国の固定観念からは抜け出せていなかった一人で、日本の吉田茂首相と会談させるために50年2月16日、李承晩を東京に呼びつけたのも、朝鮮人の民族感情の理解不足からであった。

 初の日韓会談となった吉田・李の東京会談では、双方が和解し、マッカーサーの指導のもとに反共同盟で力を合わせることで合意した。

 それはあくまでもマッカーサーの手前のことであって、李承晩の意識は別のところにあった。彼は極端な反共主義者ではあったが、それ以上の反日主義者でもあった。

 一方の米国は、この頃から米アジア戦略の重要な一環として、日本を中心とした東北アジア地域同盟機構を構築するプランを練っていた。

 その中心地となる日本を、早期に太平洋戦争の終結処理をさせ、旧連合国との間での講和条約を結ばせる必要性があった。

 それが51年9月8日のサンフランシスコ講和条約(対日平和条約)であった。

 米国は、日本を反共体制の一環へと育成するため、経済的自立を優先し重視していく方向へと、日本の占領政策を方向転換させた。

 それは日本が各国に支払う賠償金を、原則として役務賠償とし、講和を結んだ国への日本企業の経済的進出を保障したことである。

 同時に日米安全保障条約(日米安保)を締結して、日本を軍事体制の中へと引き摺り込んでいった。日本の戦争責任問題をあいまいにしていく始めであった。

 それがサンフランシスコ講和体制であって、そうした体制の日本を南朝鮮に押しつけようとしたのが日韓会談でもあった。

 すでに朝鮮戦争が始まっており、その直後の50年7月8日に発足させた警察予備隊(7万5千人)では、法的にも実力的にも戦闘には間に合わなかった。

 在日米軍の後方援助のために日本列島の後方基地機能を高めていく必要性があり、その一環としての李承晩政権を支える、「日韓条約」の成立が急がれた。

 米国の指図のもとに51年10月から進められた日韓会談ではあったが、日韓双方に日本の過去を清算する準備が整っておらず、会談は進展するはずもなかった。

 米国は日韓会談・日韓条約で、「日米韓」の軍事一体化を計画していたが、南朝鮮側は過去の植民地支配を謝罪しない日本を受け入れる状態にはなっておらず、日本自身もまだ南朝鮮を支えるだけの経済的基盤がなかったことが、日韓会談の進展を妨げていた一面で
もあった。


2.
 米国もようやく、政治的な「日韓」の結び付きには時間が必要なことを認識し、それで軍事的な一体化を演出していくことになる。

 日米安保と、米韓相互防衛条約(53年8月8日締結)とのリンクであり、日韓の軍事部門関係者同士の交流を加速させて、日米韓の軍事一体化の完成を目論んでいた。

 併せて、日米軍事作戦計画を通じての、日本の軍事力のレベルアップを図ることに力を注いでいた。

 63年春に暴露された「三矢研究」が有名である。

 米軍のサゼッションで、自衛隊の幹部によって作成された三矢研究の内容は、朝鮮半島有事の際に、日米共同秘密作戦行動を行うことを計画していた。

 朝鮮戦争が終わって10年もしない段階で、日米は再度の朝鮮半島有事を想定した軍事侵攻の共同作戦・計画を研究していたことになる。

 さらに日米共同作戦の進行は、63年/三矢作戦、64年/フライング・ドラゴン(飛竜)作戦、65年/ブル・ラン(走る雄牛)作戦などを計画し、実施していた。

 これら3つの共同作戦内容は朝鮮有事を想定し、自衛隊が米軍に従属して出動し、核兵器を使用することを前提とした作戦行動であった。

 65年に「日韓条約」が成立する以前に、日米間では朝鮮半島有事を前提とする共同作戦計画・訓練が積み上げられていたことになる。

 65年以降になると、米軍をバックに日韓ともに軍幹部の交流が活発化していく。

 視察、会議、訓練見学、訓練参加、施設見学、式典参加、表敬訪問、講演、招待など、60年代後半から、様々な名目での日韓軍事部門関係者の交流が常態化していく。

 このように日韓軍事部門の交流密度が増していっても、日米韓三角軍事体制で唯一、日韓軍事協定(同盟)が締結されず、穴が開いたままになっていて、米国が計画するアジア戦略の最大の欠陥となっていた。

 そこで、李明博政権末期に、日韓軍事情報共有体制を締結させようとして、隠密裏に進められていた交渉は、調印当日になって野党と市民たちからの激しい反対行動で、破棄されてしまった。

 南朝鮮の李承晩から現朴槿恵までのどの大統領も、日本との政治、経済、文化、軍事の各部門の交流拡大政策を推進してはきたが、誰ひとりとして、朝鮮半島に再び日本軍(自衛隊)を引き寄せることになる協定など、調印する政治家はいなかった。

 かつて日韓協商条約(1905年)に調印して、日本帝国主義者を引き入れてしまった「乙巳5賊」になりたいと思う朝鮮人など、誰もいないためだ。

 ひるがえって、オバマ大統領が日本の集団的自衛権行使決定を「歓迎」したのは、サンフランシスコ講和体制の完成を意味したからであった。

 サンフランシスコ講和体制で追及してきたアジア戦略が、自衛隊が米軍と共に朝鮮に上陸して戦える体制が完了したからである。

 自衛隊は今後、日米共同軍事訓練以外に、米韓合同軍事演習にも参加していくだろう。

 旧軍の関与を認めた「河野談話」を検証したこと、さらに集団的自衛権の行使を決定したことで、朴槿恵政権はいっそう安倍晋三政権への不信感情を募らせたことであろう。

 さらに今後の日米の言動如何によっては、共和国側も不快感を隠さないだろう。

 日米ともに、朝鮮および中国人の心情を理解せず無視をして、時代錯誤的な政治を推進していけば、今後は日米対朝中の対立になってしまうだけの覚悟は必要である。

                                                           2014年7月6日 記

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