「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」20.ジュネーブ会議
20.ジュネーブ会議
朝鮮停戦協定第4条(双方の関係政府に対する勧告)の第60項は、「朝鮮問題の平和的解決を確保するため、双方の軍司令官は、双方の関係国の政府に対して、休戦協定が署名され、効力を生じた後3カ月以内に、これらの国の政府がそれぞれ任命する代表により一層高級な政治会談を開催してすべての外国軍隊の朝鮮からの撤退、朝鮮問題の平和的解決その他の諸問題を交渉により解決するよう勧告する」としている。
停戦協定全63項目中、この第60項がもっとも重要な部分であろう。
そこでは、3カ月以内に政治会談を開催し、すべての外国軍隊の撤退、平和的解決のための協議など、停戦協定の中核的内容が規定されているからである。
つまり、政治会談を開催し、平和協定を締結し、すべての外国軍隊は朝鮮半島から速やかに撤退して、朝鮮半島の平和的環境を整えて、平和的解決を推進していかなければならない、としているのである。
ところが米国は、3カ月以内の政治会談開催をサボタージュし続けてきた。
すべての外国軍隊の朝鮮半島からの撤退要項が、在韓米軍が抵触するためでもあったろう。停戦協定調印1カ月もしない8月8日、「米韓相互防衛条約」に仮調印していたから
である。
米韓両国の一国が侵略された場合には共同で対応し、米軍の南朝鮮駐留を認める、とす る内容であった。
この時点での米韓両国のどちらか一国が侵略された場合の解釈に、誰が米国が侵略されることなどを想定したろうか。
それだけでもこの防衛条約は、米国の南朝鮮への永久占領を現実化するものであった。
こうした米国のルール違反に対して、北の「祖国戦線中央委員会」をはじめ、世界の平和団体などからの強い抗議があり、米国はようやく政治会談の予備会議開催に同意した。
だがそれは、国際社会へのポーズだけで、12月12日に板門店で開かれた予備会談の場では、論弁を弄して、破綻させてしまった。(それが目的であったのだろう)
協定第62項は「双方が互いに受諾できる修正および補足によるかまたは双方の間の政治的手段による平和的解決のための適当な協定の規定によって明確に取り替えられるまでは、引き続き効力を有する」としている。
米軍は、前文または第60項で定めた平和的協定を協議することを忌避して、「休戦協定」中の都合の良い文言の中に潜み、それを解釈している方が、朝鮮半島の反共政策を推進しやすいと判断していたのであろう。
国際社会は、米国の我が儘を決して許さず、54年4月26日からのジュネーブ政治会談を開催することとなった。
このジュネーブ会議は国連が主導したもので、同時にインドシナ問題も討議する「アジア会議」的性格を有し、ソ連も参加した。
朝鮮問題の討議には、停戦協定の規定に基づいて、「国連軍」側の15カ国(南アフリカ共和国が欠席)と南北朝鮮、中国、ソ連の計19カ国の外相が参加し、政治会談を開いた。
議題は一つで、朝鮮半島の平和的解決(平和的統一)を推進する問題であった。
朝鮮半島の南北統一については、双方は肯定的な発言をしながら(誰も、それを正面から否定することは出来なかった)、どのように実現していくのかの方法論と考え方の違いで、東西両陣営は真っ向から対立することになった。
南朝鮮が14項目に及ぶ「統一」方案を提案した。
以下はその概要である。
「統一民主韓国(注、大韓民国のこと)を堅持し、国連監視下で総選挙を実施」「自由選挙(注、48年の国連監視下での南単独選挙のこと)が不可能だった北部地域(注、共和国のこと)で自由選挙(注、国連監視下で)を実施」「すべての韓国立法代議員(注、南北全朝鮮のことを指す)の選出は、韓国(注、南北朝鮮のこと)人口の比例による」「選挙実施1カ月前に中共軍は朝鮮半島から完全に撤収のこと」「国連軍の撤収は、統一韓国政府が樹立され、国連によって確保されるまで撤収してはいけない」
以上、一読して分かることは、南(大韓民国)は国連によって認定された、朝鮮半島で唯一の合法政府ではあるが、北(朝鮮民主主義人民共和国)は国連監視下の選挙をまだ実施していないため、一つの勢力(注、政府機能を認めないこと)でしかないとの、認識に立っていたことが理解できる。
このため、国運藍視下の選挙を北部で実施し、韓国国会で用意している北部地域の補充議席(注、全朝鮮人口の比例で、おおよそ100余の議席)を吸収するとしている。
その段階で「統一韓国政府」の諸要件を決定していく、ことを内容とする主張であった。
そうした思考形成そのものが、米国による朝鮮政策であったことには違いないが、それを主張する彼らもまた、反共思想に染まり、民族同一性思考を放棄していたと言わざるを得ない。
米韓ともに、朝鮮戦争停戦協定を履行する意思も思考もなく、共和国を対等な相手だとの認識力にも欠けた、帝国主義者の立場での表明であった。
一方、共和国は南の提案に対して、以下のように反論した。
「6カ月以内に朝鮮半島に駐留中のすべての外国軍は撤収」「南北両軍隊削減」「外国と締結した軍事条約の破棄」「南北両国会議員らを代表とする『全朝鮮委員会』を構成し、全朝鮮の選挙を実施する」
また国連問題に対しては、国連は交戦当事者として参戦し、停戦協定に調印したため、公正な国際組織で活動できる資格を喪失しており、朝鮮半島の問題に客観的な機能を果たすことができない機関となっているとした。
従って、国連決定の合法性主張は、ナンセンスであるとの立場であった。
選挙での人口比例に関する南側の主張は、朝鮮半島全体の人口の7分の1を代表する北の立法機関と、人口の7分の6を代表する南の立法機関を同等な割合で連合しようということは、民主主義とは相反することであるとして、北が提案した「全朝鮮委員会」設置を拒否した。
これに対して北側は、米国の上院の例をあげて、人口に差があるが各州が同等な権利があることを強調し、北と南が同等の割合で「全朝鮮委員会」に参加することは、決して民主主義に反していないと反論した。
南北双方の相反した主張は、応酬合戦となり、その差は少しも縮まらず、いかなる国際的な合意も達成することができずに、ジュネーブ会議は6月19日に決裂して終了してしまった。
それ以降の米国は、共和国が再三呼び掛ける平和協定転換協議にも応じず、停戦協定さえ誠実に実行してこなかった。
ところでこのジュネーブ会議のもう一つの議題は、インドシナ問題の討議であった。
インドシナとは、地理的には中国の南部、インドに接する大半島で、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)、マライ半島が含まれている。
戦前の日本では仏印(通称)と呼んでいた。
イギリスとフランスの植民地となっていたが、太平洋戦争でいずれも日本軍が支配下に置いた。戦後に独立を宣言したが、フランスがベトナム・ラオスへの介入を強めた。
ベトナムはフランスに対して、武力抗争を続ける。
54年2月のベルリン・コミュニケを経て、このジュネーブ会議でベトナムの独立が認められた。
その後、ベトナム人民軍がデイエンビェンフーの戦闘でフランス軍に大勝利(54年5月)し、6月にフランスはベトナム独立協定に調印した。続く7月21日、インドシナ休
戦協定が成立した。
このジュネーブ会議で討議された2つの問題、朝鮮との平和協議は決裂し、インドシナ問題では、ベトナムの独立、インドシナ休戦協定を成立させた。
ところが米国はジュネーブ会談後、ベトナム・ラオス・カンボジアに軍事介入し、ベトナム戦争、カンボジア戦争を再発させた。
朝鮮半島もまた会談後の米国によって、戦争前夜状態が継続している。
朝鮮停戦協定第4条(双方の関係政府に対する勧告)の第60項は、「朝鮮問題の平和的解決を確保するため、双方の軍司令官は、双方の関係国の政府に対して、休戦協定が署名され、効力を生じた後3カ月以内に、これらの国の政府がそれぞれ任命する代表により一層高級な政治会談を開催してすべての外国軍隊の朝鮮からの撤退、朝鮮問題の平和的解決その他の諸問題を交渉により解決するよう勧告する」としている。
停戦協定全63項目中、この第60項がもっとも重要な部分であろう。
そこでは、3カ月以内に政治会談を開催し、すべての外国軍隊の撤退、平和的解決のための協議など、停戦協定の中核的内容が規定されているからである。
つまり、政治会談を開催し、平和協定を締結し、すべての外国軍隊は朝鮮半島から速やかに撤退して、朝鮮半島の平和的環境を整えて、平和的解決を推進していかなければならない、としているのである。
ところが米国は、3カ月以内の政治会談開催をサボタージュし続けてきた。
すべての外国軍隊の朝鮮半島からの撤退要項が、在韓米軍が抵触するためでもあったろう。停戦協定調印1カ月もしない8月8日、「米韓相互防衛条約」に仮調印していたから
である。
米韓両国の一国が侵略された場合には共同で対応し、米軍の南朝鮮駐留を認める、とす る内容であった。
この時点での米韓両国のどちらか一国が侵略された場合の解釈に、誰が米国が侵略されることなどを想定したろうか。
それだけでもこの防衛条約は、米国の南朝鮮への永久占領を現実化するものであった。
こうした米国のルール違反に対して、北の「祖国戦線中央委員会」をはじめ、世界の平和団体などからの強い抗議があり、米国はようやく政治会談の予備会議開催に同意した。
だがそれは、国際社会へのポーズだけで、12月12日に板門店で開かれた予備会談の場では、論弁を弄して、破綻させてしまった。(それが目的であったのだろう)
協定第62項は「双方が互いに受諾できる修正および補足によるかまたは双方の間の政治的手段による平和的解決のための適当な協定の規定によって明確に取り替えられるまでは、引き続き効力を有する」としている。
米軍は、前文または第60項で定めた平和的協定を協議することを忌避して、「休戦協定」中の都合の良い文言の中に潜み、それを解釈している方が、朝鮮半島の反共政策を推進しやすいと判断していたのであろう。
国際社会は、米国の我が儘を決して許さず、54年4月26日からのジュネーブ政治会談を開催することとなった。
このジュネーブ会議は国連が主導したもので、同時にインドシナ問題も討議する「アジア会議」的性格を有し、ソ連も参加した。
朝鮮問題の討議には、停戦協定の規定に基づいて、「国連軍」側の15カ国(南アフリカ共和国が欠席)と南北朝鮮、中国、ソ連の計19カ国の外相が参加し、政治会談を開いた。
議題は一つで、朝鮮半島の平和的解決(平和的統一)を推進する問題であった。
朝鮮半島の南北統一については、双方は肯定的な発言をしながら(誰も、それを正面から否定することは出来なかった)、どのように実現していくのかの方法論と考え方の違いで、東西両陣営は真っ向から対立することになった。
南朝鮮が14項目に及ぶ「統一」方案を提案した。
以下はその概要である。
「統一民主韓国(注、大韓民国のこと)を堅持し、国連監視下で総選挙を実施」「自由選挙(注、48年の国連監視下での南単独選挙のこと)が不可能だった北部地域(注、共和国のこと)で自由選挙(注、国連監視下で)を実施」「すべての韓国立法代議員(注、南北全朝鮮のことを指す)の選出は、韓国(注、南北朝鮮のこと)人口の比例による」「選挙実施1カ月前に中共軍は朝鮮半島から完全に撤収のこと」「国連軍の撤収は、統一韓国政府が樹立され、国連によって確保されるまで撤収してはいけない」
以上、一読して分かることは、南(大韓民国)は国連によって認定された、朝鮮半島で唯一の合法政府ではあるが、北(朝鮮民主主義人民共和国)は国連監視下の選挙をまだ実施していないため、一つの勢力(注、政府機能を認めないこと)でしかないとの、認識に立っていたことが理解できる。
このため、国運藍視下の選挙を北部で実施し、韓国国会で用意している北部地域の補充議席(注、全朝鮮人口の比例で、おおよそ100余の議席)を吸収するとしている。
その段階で「統一韓国政府」の諸要件を決定していく、ことを内容とする主張であった。
そうした思考形成そのものが、米国による朝鮮政策であったことには違いないが、それを主張する彼らもまた、反共思想に染まり、民族同一性思考を放棄していたと言わざるを得ない。
米韓ともに、朝鮮戦争停戦協定を履行する意思も思考もなく、共和国を対等な相手だとの認識力にも欠けた、帝国主義者の立場での表明であった。
一方、共和国は南の提案に対して、以下のように反論した。
「6カ月以内に朝鮮半島に駐留中のすべての外国軍は撤収」「南北両軍隊削減」「外国と締結した軍事条約の破棄」「南北両国会議員らを代表とする『全朝鮮委員会』を構成し、全朝鮮の選挙を実施する」
また国連問題に対しては、国連は交戦当事者として参戦し、停戦協定に調印したため、公正な国際組織で活動できる資格を喪失しており、朝鮮半島の問題に客観的な機能を果たすことができない機関となっているとした。
従って、国連決定の合法性主張は、ナンセンスであるとの立場であった。
選挙での人口比例に関する南側の主張は、朝鮮半島全体の人口の7分の1を代表する北の立法機関と、人口の7分の6を代表する南の立法機関を同等な割合で連合しようということは、民主主義とは相反することであるとして、北が提案した「全朝鮮委員会」設置を拒否した。
これに対して北側は、米国の上院の例をあげて、人口に差があるが各州が同等な権利があることを強調し、北と南が同等の割合で「全朝鮮委員会」に参加することは、決して民主主義に反していないと反論した。
南北双方の相反した主張は、応酬合戦となり、その差は少しも縮まらず、いかなる国際的な合意も達成することができずに、ジュネーブ会議は6月19日に決裂して終了してしまった。
それ以降の米国は、共和国が再三呼び掛ける平和協定転換協議にも応じず、停戦協定さえ誠実に実行してこなかった。
ところでこのジュネーブ会議のもう一つの議題は、インドシナ問題の討議であった。
インドシナとは、地理的には中国の南部、インドに接する大半島で、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)、マライ半島が含まれている。
戦前の日本では仏印(通称)と呼んでいた。
イギリスとフランスの植民地となっていたが、太平洋戦争でいずれも日本軍が支配下に置いた。戦後に独立を宣言したが、フランスがベトナム・ラオスへの介入を強めた。
ベトナムはフランスに対して、武力抗争を続ける。
54年2月のベルリン・コミュニケを経て、このジュネーブ会議でベトナムの独立が認められた。
その後、ベトナム人民軍がデイエンビェンフーの戦闘でフランス軍に大勝利(54年5月)し、6月にフランスはベトナム独立協定に調印した。続く7月21日、インドシナ休
戦協定が成立した。
このジュネーブ会議で討議された2つの問題、朝鮮との平和協議は決裂し、インドシナ問題では、ベトナムの独立、インドシナ休戦協定を成立させた。
ところが米国はジュネーブ会談後、ベトナム・ラオス・カンボジアに軍事介入し、ベトナム戦争、カンボジア戦争を再発させた。
朝鮮半島もまた会談後の米国によって、戦争前夜状態が継続している。