「日米の戦争犯罪を裁く」
「日米の戦争犯罪を裁く」
名田隆司
1. 日本の現在形
いま(14年5月現在)、安倍晋三政権は国会内の「一強多弱」的背景を受けて、日本が戦争の出来る国へと、その環境づくりに専心しているように見える。
国の安全保障にかかわる情報を漏らした公務員らに厳罰を科す「特定秘密保護法」(13年12月成立)、「集団的自衛権の行使容認」(今夏までに閣議決定を目指す)、さらに国連平和維持活動(POK)などでの自衛隊による「駆け付け警護」(条件付きで容認)など-と、現状でも十分に、自衛隊が武器を携行して、他国領土の戦闘現場に進出することが可能な日本になっている。
レーニンは、軍隊が他国領土に進出して戦闘行為を行うことを「侵略」だとしている。安倍政権は自衛隊が海外へ出ることを、「自衛権」とか「平和維持」などの表現を使用しているが、レーニン流では虚偽表現となる。
首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は、駆け付け警護と多国籍などへの後方支援は憲法第9条違反ではないとして、全面的容認を提言した。
さらに政権の外部からは、日本が侵略戦争をしたとか、南京大虐殺をしたとか、軍慰安婦を強制連行したとかはみな嘘で、首相や閣僚は靖国神社を参拝すべきで、日本は核武装して自主防衛体制をつくるべきだなどと、安倍氏の本心を代弁する声がますます大きくなってきている。
敗戦後70年近く、二度と戦争をしない、軍隊を保有しないとした憲法の下に暮らしてきたつもりが、現状は、戦前の侵略戦争史を平気で肯定する政治的風土にまでなっている。
こうした現象は、米国のアジア太平洋戦略と連動した結果である。
今年4月、オバマ米大統領が日本、韓国など東南アジア4カ国を歴訪したが、その主な目的は、中国と北朝鮮への敵対観を強調することで、日本と韓国に高額な軍事費を負担させて、たがが緩んでしまったアジア安保の締め直しを図ることにあった。
安倍晋三氏と朴槿恵氏の二人はオバマ氏に応えて、彼に満足感を与えた。
安倍政権は集団的自衛権行使の容認、武器輸出3原則変更計画をすすめている姿を見せることで、朴政権は米国との合同軍事演習強化と米軍の中古武器購入の約束をすることによって、アジア地域同盟国の絆を米国に誓った。
その一環で、安倍政権の軍事環境突出をオバマは容認した。(オバマ政権は、安倍政権の安全保障政策を容認している)
米国は、朝鮮半島を中心としたアジア地域を、「戦時」のままにしておくことで、広大なアジア地域の政治支配と商品市場化をすすめている。
その戦略基地に引き続き、日本列島を置いた。
その基地が独り歩きしないよう、日米安保の鎖でしっかりと繋ぎ留めてもいる。
日本の歴代政権が先ず、日米安保は日本政治の基軸だと唱えてみせるまでに、米国は日本政治をうまくコントロールしてきた。
その姿が、日本政治の現在形である。
2.サンフランシスコ講和条約とは
日本の現在形は、米国の戦後政治の産物でもある。
アジア太平洋地域戦略の要の位置に日本列島を置いた米国は、戦後いち早く日本を、反共戦線の要塞化作業に取り掛かった。
1951年9月4日から8日までの、サンフランシスコ対日講和会議で、その作品を提示した。
会議で討論された対日平和条約案は、冷戦思考に基づいて米国が作成したもので、誰からの異論も受け付けずに決議した。
その特徴は、1日本の再軍備と外国軍隊(米軍)の駐留継続を許容。2日本の個別的、集団的自衛権を承認。3朝鮮の独立。4台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の領土権の放棄(但し、その帰属先を規定しなかったため、現在、問題となっている)。5賠償は原則として役務、技術提供のかたちにする、とした。
日本は完全に米国の軍事戦略下に入り、戦争責任や植民地清算をあいまいに処理することが許された内容であったから、旧連合国55カ国中48カ国しか調印(51年9月8日)しなかった。
朝鮮や中国代表は、会議への出席にも要請されなかった。
同日には日米安全保障条約(日米安保)を調印し、米国の要請通り、日本は朝鮮戦争の安定的な後方基地の役割を担い、その後も、米軍のアジア太平洋地域の強固な軍事基地の役割を果たしてきた。
アジア各国はそのような日本の姿に不安と不満を持ちつつも、米国との経済関係のなかで、日本との賠償協定(経済協力)に調印している。
唯一、日本と賠償協定を結んでいない国が、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)である。
日本は北朝鮮と国交正常化を結ぶこと自体が、自らの戦争責任への宿題、歴史清算を果たすことになるのだが、日本の歴代政権はサボタージュしてきた。
この問題は、日本自身の政治責任問題であったにも関わらず、米国のアジア地域の戦略と戦時政策と日米安保体制内に組み込まれてしまい、日本は自立的に問題解決をすることを放棄してきた。
日本は独自の朝鮮問題を提起し解決できず、常に米国の補完的な立場を担ってきた。
現在、北朝鮮とは拉致問題や戦後の遺骨問題など、可及的速やかに解決しなければならないテーマがあるにも関わらず、それすら交渉が一定以上には進んでいない理由が、日米関係にあったことを、十分に理解しておく必要がある。
その根元に、日本の戦争責任処理のあいまいさと共に、米国の朝鮮戦争責任(戦犯問題)への未処理が絡まっている。
つまり、日米の戦争責任問題の未解決問題だということである。
日本が、北朝鮮と国交正常化をすすめていくためには、最初に日本の戦争責任問題を明らかにし、清算する必要がある。
日本が北朝鮮との間で、戦争責任を明らかにし清算する過程では、米国が推進したサンフランシスコ講和的なものと、朝鮮戦争停戦協定問題が浮上してくるだろう。(日本の旧軍メンバーが、朝鮮戦争に直接参戦していたことも含めて)
3.日本の戦争責任処理
近代政治は、以下のような戦後処理を経て、敗戦国から莫大な賠償金を支払わせている。
一般的には休戦会談(当事国同士、または第三国の斡旋)を経て停戦協定締結、講和会議、賠償交渉、平和協定および国交回復へと進んでいく。
日本自身、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)、第1次世界大戦(1914年7月~18年11月)などで、相手国から高額賠償金を取り、さらに朝鮮半島の独占的支配権を手にして、重化学工業など帝国産業発展への道を開いていった。
では、第2次世界大戦で敗北した日本は、どうだったのか。
第1次世界大戦は帝国主義国間の戦争ではあったが、第2次は日・独・伊のファシズム国家対反ファシスト連合国(社会主義国も含む)諸勢力の戦争という、少し複雑な様相をもっていた。
それで敗戦国日本への処理は従来とは多少違って、連合国を代表する米国主導で進行していった。
A.休戦会談に代えて
連合国側(米国中心)が、4回の協議で枠組みを決定した。
カイロ宣言(43年11月27日)、テヘラン会談(43年12月2日)、ヤルタ会談(45年2月4日)、ポツダム宣言(45年7月17日)の連合主要国会談である。
テヘラン会談でソ連の対日戦を確認し、ヤルタ会談で戦後処理の大枠を確定し、まだ戦闘を続ける日本にポツダム宣言を突き付けた。
日本は45年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。(8月15日)
B.停戦協定に代えて
東京湾上のミズーリ号で、重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が45年9月2日、降伏文書に調印した。
内容は、ポツダム宣言の正式受諾、戦闘行為の停止、日本の統治権を連合国最高司令官(マッカーサー)の下に従属させること、戦争犯罪者を裁くことなどであった。
C.戦争責任者の裁判
ポツダム宣言ならびに降伏文書などによって、日本は連合国に戦犯を引き渡した。
A級戦犯を裁いた東京裁判所では28人を訴追。うち2人は公判中に病没、1人は精神障害となり免訴。25人が判決を受け7人が死刑、他は終身刑から禁固7年。
BC級戦犯は全体で5700人余、8カ国9政府(中国が中華民国と中華人民共和国、ソ連は実態がつかめず数値に入らず)51カ所の裁判所が裁いた。
D.講和協議に代えて
対日講和を目的にサンフランシスコ講和会議(51年9月4日~8日)が開かれ、対日平和条約(9月8日調印、52年4月28日発効)が成立した。
連合国55カ国のうち48カ国との条約(ソ連、ポーランドチェコスロバキアは調印せず、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは欠席、中国は招請されず)
同時に、米軍の日本への駐留を認める日米安全保障条約と抱き合わせであったから、共産圏、東南アジア諸国からの反対が強く、完全な講和条約とは言えなかった。
E.日本の賠償問題
ポツダム宣言では、日本人が生存に必要とするもの以外のすべてを連合国に引き渡すこと、実質賠償を原則としていた。
ところがサンフランシスコ講和会議では、各国への賠償は、技術提供など役務賠償が中心となった。
米国が日本を反共体制に組み込むため、経済再生発展政策を重視したためである。
戦後処理と防衛問題をリンクして、日本を活用するためであった。
中国国民政府、インド、ソ連などは国交回復にあたって賠償請求権を放棄した。
現在、北朝鮮とのみ未解決。だから日朝間の基本問題は、講和問題であり、植民地支配への謝罪と賠償などの清算問題が、日本の責任として残っている。
以上、日本の敗戦処理は米国の冷戦対策と連動して、サンフランシスコ講和条約によって緩和された内容で、米国主導で進められた。
サンフランシスコ体制によって、日本は米軍の朝鮮戦争後方基地へと変身し、以後は米国のアジア防衛。安保の補完基地体制に組み込まれていった。その現在形が、安倍政権の準戦時国家になっている。
4.戦争責任問題の規定
日米の戦争責任観の所在を考えるとき、その原初は、日本とドイツの戦争責任を裁いた「国際軍事裁判所条例」にあるだろう。
米国を中心とする連合国(米英仏中)は45年8月8日、日本とドイツの戦争責任を裁く国際法規の「国際軍事裁判所条例」を制定した。
この時、戦争犯罪の考え方を、以下の3つのカテゴリーに分類している。
A項「平和に対する罪」
侵略戦争または条約に違反する違法戦争の計画、準備、開始、遂行、共同謀議。
B項「通例の戦争犯罪」
戦争の法規、従来の国際法(1907年のハーグ陸戦法と1929年のジュネーブ条約)への違反。
注、ハーグ陸戦法は民間人を無差別に殺してはいけないとする、国際人権・人道法。
ジュネーブ条約は捕虜の取扱を定めたもの。
C項「人道に対する罪」
一般住民に対する殺りく、戦闘行為以外の大量殺りく、虐待などの非人道的行為、
または政治的、人種的、宗教的理由とする迫害など。
日本ではこのカテゴリーを、分類記号的にそれぞれをA級、B級、C級とした。
ABCはあくまで分類記号であって、軽重ではない。
ここでは、命令による行為も罰せられたこと、人道に対する罪が厳しくしていたことを、理解しておく必要があるだろう。
日本は、戦闘行為や捕虜監視の第一線にいた下級の軍人軍属の多くが裁かれた。
また、戦闘行為以外での一般住民の無差別殺害、集団虐殺、ジュータン爆撃、毒ガス・細菌兵器の使用、捕虜への虐待なども非人道的行為として戦争犯罪のカテゴリーに入り、重視された。これらの戦争犯罪は、米軍が朝鮮戦争で犯した犯罪と重なっている。
5.朝鮮人BC級戦犯
旧連合国はA級戦犯28名、BC級戦犯5724名の日本人戦争犯罪者を裁いた。
BC級戦犯5724名のうち、植民地出身の朝鮮人148名、台湾人173名が含まれていた。
戦犯のなかに朝鮮人・台湾人が多くいたことは、第一義的には日本の植民地政策によるものではあったが、欧米人のアジア蔑視観と米国の朝鮮理解への欠如とが重なった結果であった。
日本軍は41年12月以降、破竹の勢いでビルマ、マレーシア、フィリピン、インドネシアに侵攻し、諸戦で勝利を収めた。その結果、連合国側の捕虜数が計26万1000人以上となり、予想をはるかに超えた。
戦線が拡大し、不足する人員を補う意味で日本は、欧米人捕虜の労働酷使とその捕虜たちの監視員を必要とした。
42年5月、朝鮮と台湾から「俘虜収容所監視員」(軍属)の募集を開始した。
日本軍が植民地青年たちを白人捕虜の監視員にしたのは、1戦争激化による人力不足を補填するため、2内鮮一体の実をあげ、朝鮮人を戦争に駆り立てやすくするため、3英米人捕虜を植民地人に見せつけることで、帝国の実力を現実認識させる一などの狙いがあった。
一方、日本軍の戦犯を裁く連合国側は、1日本軍の捕虜虐待を重視したこと、2朝鮮人・台湾人を「敵国に使用された者」として、日本人として裁いたこと、3上官の命令に基づく行為も実行者の責任としたことなどから、朝鮮人・台湾人の戦犯が多く、死刑となる比率も、日本人よりも多くなった要因だと考えられる。
朝鮮人の軍属は12万6047名、うち1万6004名が死亡・不明(12.7%)。戦犯148名、うち死刑が23名。いずれも日本人の比率よりも高いのは、日米双方による朝鮮人蔑視観が作用しあった結果であった。朝鮮人の無念を思う。
現実的には、日本人の戦争責任者で戦犯裁判まで持ち込まれたのはほんの一部であって、その彼らの大半も52年のサンフランシスコ講和条約成立後に釈放されている。
そのことを考えると、「朝鮮人戦犯」というレッテルを貼られた彼らは、日本の戦争の犠牲者で、犠牲者の朝鮮人側からすれば、日米両国への怨念と無念の思いは、いつまでも解けないだろう。
彼らを日本人として裁き、52年以降は朝鮮人として放置したことは、人道上からも許せることではない。
こうした日本政府の朝鮮人差別政策は、45年9月に南朝鮮に上陸した米軍政庁の、朝鮮統治政策と連結している。
米軍政庁は、日本の朝鮮総督府統治方式を引継ぎ、親日派を多用して、主体性を主張する朝鮮人を弾圧していった。
何のことはない、南朝鮮での統治主体が日本から米国に代わっただけで、日本植民地当時の政治が復活していたから、米国は北を侵攻する戦争を必然性のように準備し、朝鮮戦争への導火線を引いた。
6.朝鮮戦争での米軍
制空権を握っていた米軍は、都市部へのジュータン爆撃を繰り返し、多くの一般住民を殺傷している。
米軍パイロットが、北部朝鮮での目標物は何もないと、米上院の公聴会で証言するほどであった。
さらに52年後半からは、主として発電所、ダム、貯水場、農業関連施設など、人民の日常生活に直結する施設を狙って爆撃し破壊していった。
こうした行為は、旧連合国側が設定した最も憎むべき戦争犯罪行為で、戦闘行為以外の大量殺りくの非人道的行為に該当する。
また、52年に入ってのナパーム弾、細菌弾、化学弾などの使用は、民間人を無差別に殺傷し後遺症を与え、自然環境を破壊するなど、重大な戦争犯罪行為に当たる。
米軍が通過した後の地域での、一般住民への集団虐殺行為と、釜山など捕虜収容所での捕虜虐待行為こそ、自らが日本やドイツに対して戦争犯罪行為で裁き、処刑した行為そのものではないか。
特に、12万名以上の住民を虐殺した黄海道、住民の4分の1にあたる3万5千余名を虐殺した信川郡での米軍の蛮行を考えるとき、裁かれるべきは米軍の兵士たちである。
米軍は、住民たちを銃殺、撲殺、生き埋め、眼球をくり抜き、乳房を切り取り、舌を切り、頭や全身の皮膚をはいで殺し、唇をえぐり、斧で手足を打ち切り、身体を鋸で引き、火あぶりにし、熱湯に投げ入れ、鼻と耳に針金を通して引き回し、戦車でひき殺し、考えられないほどの残忍極まる方法で朝鮮人民たちを虐殺した。
この米軍の犯罪は永久に記録され、記憶され、語っていく必要がある。
現地で調査した国際民主法律家協会調査団は、報告書で米軍の蛮行を戦争犯罪とした。
「婦人と子どもを含む朝鮮の一般住民に対するアメリカ軍の大量殺りくと個別的虐殺および獣的行為の証拠は、その犯罪の量においても、また、彼らが使用した方法の多様性においてもかつて例のないものである」(1952年3月)
51年7月から休戦会談と新攻勢作戦を繰り返していた米軍は、勝利の見込みがないことを認めて、53年7月27日に「停戦協定」に調印した。
停戦協定第60項は、3カ月後の政治会談開催を規定し、そこで朝鮮半島からの外国軍撤退と朝鮮半島の平和安定を協議することになっていた。
7.米軍の戦争犯罪
停戦協定規定の実行をサボタージュしてきた米国も、国際世論に押されて54年4月、ジュネーブ会議(朝鮮、インドシナ問題)に出席した。
停戦協定を実行するということは、米国にとっては朝鮮との講和、賠償、戦争責任問題を協議し、消化することでもあった。
だがその前に米国は、韓国との間に「米韓相互防衛条約」を調印(53年10月1日)していて、協定違反をすでに犯していた。
このため、ジュネーブ会議を破綻するしかなかった米国は、朝鮮側の提案にことごとくクレームを付け、停戦協定の実行を無視した。
その後、朝鮮からの朝米平和協定協議をも無視することで、自らの戦争責任問題と協定違反の在韓米軍問題の糾弾から免れようとしている。
米国は決して、その戦争犯罪から逃れることはできないだろう。
朝鮮停戦協定から60余年が過ぎ去ったとはいえ、また、当時の戦争指導者たちが死去しているとはいえ、彼らの名前を歴史に記憶させ、歴史と正義の名によって裁き、近い将来に成立する朝米平和協定に備えて、彼らの名前をここに掲げておく。
以下はAとB項の戦犯者たちである。
トルーマン米第33代大統領(最初に米軍出動を命じた)、アイゼンハワー第34代大統領、ダレス国務長官特別顧問、マッカーサー国連軍司令官、アチソン国務長官(戦争開戦を誘導した)、ムチョー駐韓米大使(偽証罪)、ウォーカー米第8軍司令官、バンフリート米第8軍司令官(第3代)、リッジウェイ国連軍司令官(第2代)、クラーク国連軍司令官(第3代)、オドンネル米極東空軍爆撃機飛行隊司令官(細菌弾投下責任)などを列挙しておこう。
彼らはみな死刑である。だが残念ながら60年余の時間は、全員が米本土で自然死している。しかも戦犯というレッテルを誰からも貼られることもなく、米国の政治家または高級軍人として生を全うしていることである。
BC項戦犯者たちは、ナパーム弾、細菌弾、化学弾などの投下当事者(飛行士)、大量虐殺、無差別爆撃などを実行した者たちである。
米国が日本人戦犯たちを裁いた項目を適用していけば、余りにも多くの米軍将兵たちが該当する。
以上の米国人戦争責任者。犯罪者のなかに、新たにオバマ氏がそこに加わることがないためにも、今後の米国の対朝鮮政策は重要な節目を迎えている。
それは、米国にとってという意味である。
8.オバマのジレンマ
日米ともに朝鮮との関係で、様々に論じて問題を複雑化しているが、いずれも基本的な問題の解決には言及せず、その努力もしていない。
日本は先の植民地・戦争問題の清算であり、米国は停戦協定の履行と朝鮮戦争の清算問題である。
以上の諸問題が進展すれば、朝鮮半島の平和安定と繁栄は約束されている。
そのことから南北統一問題、日朝交流と国交正常化、朝米間の正常化も、すべてがスムーズに実現していく。
そうした基本問題を解決していく道程を阻んでいる政治力学こそ、米国の対朝鮮政策であった。
米国は45年9月に南朝鮮に進駐して以降、朝鮮の社会主義体制を崩壊させることだけを目指してきた。
朝鮮戦争後は経済制裁を追求し、今また脱北者や人権問題などを掲げて、反朝鮮キャンペーンを行っている。
歴代の米国政権が実施してきた北朝鮮封じ込めと核脅迫外交は、すでにして破綻している。
今や共和国は3回の核実験を実施し、核保有を宣言するようになった。
それにも関わらず米国は、共和国の核保有を認めず、従来通りの制裁と圧力政策を続けている。
オバマ政権は12年2月以来、公式の交渉には応じない「戦略的忍耐」方針を崩さずに強めている。
その間、共和国は中距離弾道ミサイルに小型化した核を積み込める技術を手に入れた。
さらに米本土を攻撃できる能力をもつ、大陸間弾道ミサイルの完成に向かって進んでいる。
米国は共和国に「時間」を与えた感がある。
そのことで焦っているのは米国だ。
だから米国の本心は、共和国が小型化した核を保有(複数個)することと、その核を弾頭に付けて米ワシントンにまで到達する大陸間弾道ミサイルの開発と保有することを最も恐れている。それにも時間がないことを、米国は理解しておく必要がある。
焦っているオバマ政権の今回のアジア4カ国歴訪は、必ずしも成功したとは言い切れない。
日本も、南朝鮮も、余りにも多くの内政問題を抱えていて、米国が希望する「日韓2国軍事体制」はまだ築ける現状にはない。
だからか、この夏にも南朝鮮一帯で、大規模な米韓合同軍事演習(自衛隊の参加を検討している)を予定している。
すでにして数十年前から朝鮮半島周辺で実施している合同軍事演習は、「演習」という名を越えて、戦争前夜段階の実戦の様相を呈している。
ほとんど毎月、どこかの地域で軍事演習を実施して、共和国に威嚇を与えているのは、朝米会談、平和協定会談を拒否する姿勢になっている。
帝国主義国家、産軍体制国家としての米国は、必ず軍事的脅威国家を必要としており、そうした脅威論を作り続ける必要があった。
東アジアにおいては、それが共和国であって、共和国の核脅威論を、米国の政治は実際以上に見せる必要性もあったのだ。それが米国政治のジレンマである。
幻影であったものが、いつの間にか現実的な脅威感に変わっていて、そのことに脅かされている米国。
脅かされ、焦っていて、対朝鮮政策の変更に迫られているのが、現在のオバマ政権である。
オバマ政権が新しい選択をするための時間、その時間はそれほど残されてはいない。
2014年5月12日 記
名田隆司
1. 日本の現在形
いま(14年5月現在)、安倍晋三政権は国会内の「一強多弱」的背景を受けて、日本が戦争の出来る国へと、その環境づくりに専心しているように見える。
国の安全保障にかかわる情報を漏らした公務員らに厳罰を科す「特定秘密保護法」(13年12月成立)、「集団的自衛権の行使容認」(今夏までに閣議決定を目指す)、さらに国連平和維持活動(POK)などでの自衛隊による「駆け付け警護」(条件付きで容認)など-と、現状でも十分に、自衛隊が武器を携行して、他国領土の戦闘現場に進出することが可能な日本になっている。
レーニンは、軍隊が他国領土に進出して戦闘行為を行うことを「侵略」だとしている。安倍政権は自衛隊が海外へ出ることを、「自衛権」とか「平和維持」などの表現を使用しているが、レーニン流では虚偽表現となる。
首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は、駆け付け警護と多国籍などへの後方支援は憲法第9条違反ではないとして、全面的容認を提言した。
さらに政権の外部からは、日本が侵略戦争をしたとか、南京大虐殺をしたとか、軍慰安婦を強制連行したとかはみな嘘で、首相や閣僚は靖国神社を参拝すべきで、日本は核武装して自主防衛体制をつくるべきだなどと、安倍氏の本心を代弁する声がますます大きくなってきている。
敗戦後70年近く、二度と戦争をしない、軍隊を保有しないとした憲法の下に暮らしてきたつもりが、現状は、戦前の侵略戦争史を平気で肯定する政治的風土にまでなっている。
こうした現象は、米国のアジア太平洋戦略と連動した結果である。
今年4月、オバマ米大統領が日本、韓国など東南アジア4カ国を歴訪したが、その主な目的は、中国と北朝鮮への敵対観を強調することで、日本と韓国に高額な軍事費を負担させて、たがが緩んでしまったアジア安保の締め直しを図ることにあった。
安倍晋三氏と朴槿恵氏の二人はオバマ氏に応えて、彼に満足感を与えた。
安倍政権は集団的自衛権行使の容認、武器輸出3原則変更計画をすすめている姿を見せることで、朴政権は米国との合同軍事演習強化と米軍の中古武器購入の約束をすることによって、アジア地域同盟国の絆を米国に誓った。
その一環で、安倍政権の軍事環境突出をオバマは容認した。(オバマ政権は、安倍政権の安全保障政策を容認している)
米国は、朝鮮半島を中心としたアジア地域を、「戦時」のままにしておくことで、広大なアジア地域の政治支配と商品市場化をすすめている。
その戦略基地に引き続き、日本列島を置いた。
その基地が独り歩きしないよう、日米安保の鎖でしっかりと繋ぎ留めてもいる。
日本の歴代政権が先ず、日米安保は日本政治の基軸だと唱えてみせるまでに、米国は日本政治をうまくコントロールしてきた。
その姿が、日本政治の現在形である。
2.サンフランシスコ講和条約とは
日本の現在形は、米国の戦後政治の産物でもある。
アジア太平洋地域戦略の要の位置に日本列島を置いた米国は、戦後いち早く日本を、反共戦線の要塞化作業に取り掛かった。
1951年9月4日から8日までの、サンフランシスコ対日講和会議で、その作品を提示した。
会議で討論された対日平和条約案は、冷戦思考に基づいて米国が作成したもので、誰からの異論も受け付けずに決議した。
その特徴は、1日本の再軍備と外国軍隊(米軍)の駐留継続を許容。2日本の個別的、集団的自衛権を承認。3朝鮮の独立。4台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の領土権の放棄(但し、その帰属先を規定しなかったため、現在、問題となっている)。5賠償は原則として役務、技術提供のかたちにする、とした。
日本は完全に米国の軍事戦略下に入り、戦争責任や植民地清算をあいまいに処理することが許された内容であったから、旧連合国55カ国中48カ国しか調印(51年9月8日)しなかった。
朝鮮や中国代表は、会議への出席にも要請されなかった。
同日には日米安全保障条約(日米安保)を調印し、米国の要請通り、日本は朝鮮戦争の安定的な後方基地の役割を担い、その後も、米軍のアジア太平洋地域の強固な軍事基地の役割を果たしてきた。
アジア各国はそのような日本の姿に不安と不満を持ちつつも、米国との経済関係のなかで、日本との賠償協定(経済協力)に調印している。
唯一、日本と賠償協定を結んでいない国が、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)である。
日本は北朝鮮と国交正常化を結ぶこと自体が、自らの戦争責任への宿題、歴史清算を果たすことになるのだが、日本の歴代政権はサボタージュしてきた。
この問題は、日本自身の政治責任問題であったにも関わらず、米国のアジア地域の戦略と戦時政策と日米安保体制内に組み込まれてしまい、日本は自立的に問題解決をすることを放棄してきた。
日本は独自の朝鮮問題を提起し解決できず、常に米国の補完的な立場を担ってきた。
現在、北朝鮮とは拉致問題や戦後の遺骨問題など、可及的速やかに解決しなければならないテーマがあるにも関わらず、それすら交渉が一定以上には進んでいない理由が、日米関係にあったことを、十分に理解しておく必要がある。
その根元に、日本の戦争責任処理のあいまいさと共に、米国の朝鮮戦争責任(戦犯問題)への未処理が絡まっている。
つまり、日米の戦争責任問題の未解決問題だということである。
日本が、北朝鮮と国交正常化をすすめていくためには、最初に日本の戦争責任問題を明らかにし、清算する必要がある。
日本が北朝鮮との間で、戦争責任を明らかにし清算する過程では、米国が推進したサンフランシスコ講和的なものと、朝鮮戦争停戦協定問題が浮上してくるだろう。(日本の旧軍メンバーが、朝鮮戦争に直接参戦していたことも含めて)
3.日本の戦争責任処理
近代政治は、以下のような戦後処理を経て、敗戦国から莫大な賠償金を支払わせている。
一般的には休戦会談(当事国同士、または第三国の斡旋)を経て停戦協定締結、講和会議、賠償交渉、平和協定および国交回復へと進んでいく。
日本自身、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)、第1次世界大戦(1914年7月~18年11月)などで、相手国から高額賠償金を取り、さらに朝鮮半島の独占的支配権を手にして、重化学工業など帝国産業発展への道を開いていった。
では、第2次世界大戦で敗北した日本は、どうだったのか。
第1次世界大戦は帝国主義国間の戦争ではあったが、第2次は日・独・伊のファシズム国家対反ファシスト連合国(社会主義国も含む)諸勢力の戦争という、少し複雑な様相をもっていた。
それで敗戦国日本への処理は従来とは多少違って、連合国を代表する米国主導で進行していった。
A.休戦会談に代えて
連合国側(米国中心)が、4回の協議で枠組みを決定した。
カイロ宣言(43年11月27日)、テヘラン会談(43年12月2日)、ヤルタ会談(45年2月4日)、ポツダム宣言(45年7月17日)の連合主要国会談である。
テヘラン会談でソ連の対日戦を確認し、ヤルタ会談で戦後処理の大枠を確定し、まだ戦闘を続ける日本にポツダム宣言を突き付けた。
日本は45年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。(8月15日)
B.停戦協定に代えて
東京湾上のミズーリ号で、重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が45年9月2日、降伏文書に調印した。
内容は、ポツダム宣言の正式受諾、戦闘行為の停止、日本の統治権を連合国最高司令官(マッカーサー)の下に従属させること、戦争犯罪者を裁くことなどであった。
C.戦争責任者の裁判
ポツダム宣言ならびに降伏文書などによって、日本は連合国に戦犯を引き渡した。
A級戦犯を裁いた東京裁判所では28人を訴追。うち2人は公判中に病没、1人は精神障害となり免訴。25人が判決を受け7人が死刑、他は終身刑から禁固7年。
BC級戦犯は全体で5700人余、8カ国9政府(中国が中華民国と中華人民共和国、ソ連は実態がつかめず数値に入らず)51カ所の裁判所が裁いた。
D.講和協議に代えて
対日講和を目的にサンフランシスコ講和会議(51年9月4日~8日)が開かれ、対日平和条約(9月8日調印、52年4月28日発効)が成立した。
連合国55カ国のうち48カ国との条約(ソ連、ポーランドチェコスロバキアは調印せず、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは欠席、中国は招請されず)
同時に、米軍の日本への駐留を認める日米安全保障条約と抱き合わせであったから、共産圏、東南アジア諸国からの反対が強く、完全な講和条約とは言えなかった。
E.日本の賠償問題
ポツダム宣言では、日本人が生存に必要とするもの以外のすべてを連合国に引き渡すこと、実質賠償を原則としていた。
ところがサンフランシスコ講和会議では、各国への賠償は、技術提供など役務賠償が中心となった。
米国が日本を反共体制に組み込むため、経済再生発展政策を重視したためである。
戦後処理と防衛問題をリンクして、日本を活用するためであった。
中国国民政府、インド、ソ連などは国交回復にあたって賠償請求権を放棄した。
現在、北朝鮮とのみ未解決。だから日朝間の基本問題は、講和問題であり、植民地支配への謝罪と賠償などの清算問題が、日本の責任として残っている。
以上、日本の敗戦処理は米国の冷戦対策と連動して、サンフランシスコ講和条約によって緩和された内容で、米国主導で進められた。
サンフランシスコ体制によって、日本は米軍の朝鮮戦争後方基地へと変身し、以後は米国のアジア防衛。安保の補完基地体制に組み込まれていった。その現在形が、安倍政権の準戦時国家になっている。
4.戦争責任問題の規定
日米の戦争責任観の所在を考えるとき、その原初は、日本とドイツの戦争責任を裁いた「国際軍事裁判所条例」にあるだろう。
米国を中心とする連合国(米英仏中)は45年8月8日、日本とドイツの戦争責任を裁く国際法規の「国際軍事裁判所条例」を制定した。
この時、戦争犯罪の考え方を、以下の3つのカテゴリーに分類している。
A項「平和に対する罪」
侵略戦争または条約に違反する違法戦争の計画、準備、開始、遂行、共同謀議。
B項「通例の戦争犯罪」
戦争の法規、従来の国際法(1907年のハーグ陸戦法と1929年のジュネーブ条約)への違反。
注、ハーグ陸戦法は民間人を無差別に殺してはいけないとする、国際人権・人道法。
ジュネーブ条約は捕虜の取扱を定めたもの。
C項「人道に対する罪」
一般住民に対する殺りく、戦闘行為以外の大量殺りく、虐待などの非人道的行為、
または政治的、人種的、宗教的理由とする迫害など。
日本ではこのカテゴリーを、分類記号的にそれぞれをA級、B級、C級とした。
ABCはあくまで分類記号であって、軽重ではない。
ここでは、命令による行為も罰せられたこと、人道に対する罪が厳しくしていたことを、理解しておく必要があるだろう。
日本は、戦闘行為や捕虜監視の第一線にいた下級の軍人軍属の多くが裁かれた。
また、戦闘行為以外での一般住民の無差別殺害、集団虐殺、ジュータン爆撃、毒ガス・細菌兵器の使用、捕虜への虐待なども非人道的行為として戦争犯罪のカテゴリーに入り、重視された。これらの戦争犯罪は、米軍が朝鮮戦争で犯した犯罪と重なっている。
5.朝鮮人BC級戦犯
旧連合国はA級戦犯28名、BC級戦犯5724名の日本人戦争犯罪者を裁いた。
BC級戦犯5724名のうち、植民地出身の朝鮮人148名、台湾人173名が含まれていた。
戦犯のなかに朝鮮人・台湾人が多くいたことは、第一義的には日本の植民地政策によるものではあったが、欧米人のアジア蔑視観と米国の朝鮮理解への欠如とが重なった結果であった。
日本軍は41年12月以降、破竹の勢いでビルマ、マレーシア、フィリピン、インドネシアに侵攻し、諸戦で勝利を収めた。その結果、連合国側の捕虜数が計26万1000人以上となり、予想をはるかに超えた。
戦線が拡大し、不足する人員を補う意味で日本は、欧米人捕虜の労働酷使とその捕虜たちの監視員を必要とした。
42年5月、朝鮮と台湾から「俘虜収容所監視員」(軍属)の募集を開始した。
日本軍が植民地青年たちを白人捕虜の監視員にしたのは、1戦争激化による人力不足を補填するため、2内鮮一体の実をあげ、朝鮮人を戦争に駆り立てやすくするため、3英米人捕虜を植民地人に見せつけることで、帝国の実力を現実認識させる一などの狙いがあった。
一方、日本軍の戦犯を裁く連合国側は、1日本軍の捕虜虐待を重視したこと、2朝鮮人・台湾人を「敵国に使用された者」として、日本人として裁いたこと、3上官の命令に基づく行為も実行者の責任としたことなどから、朝鮮人・台湾人の戦犯が多く、死刑となる比率も、日本人よりも多くなった要因だと考えられる。
朝鮮人の軍属は12万6047名、うち1万6004名が死亡・不明(12.7%)。戦犯148名、うち死刑が23名。いずれも日本人の比率よりも高いのは、日米双方による朝鮮人蔑視観が作用しあった結果であった。朝鮮人の無念を思う。
現実的には、日本人の戦争責任者で戦犯裁判まで持ち込まれたのはほんの一部であって、その彼らの大半も52年のサンフランシスコ講和条約成立後に釈放されている。
そのことを考えると、「朝鮮人戦犯」というレッテルを貼られた彼らは、日本の戦争の犠牲者で、犠牲者の朝鮮人側からすれば、日米両国への怨念と無念の思いは、いつまでも解けないだろう。
彼らを日本人として裁き、52年以降は朝鮮人として放置したことは、人道上からも許せることではない。
こうした日本政府の朝鮮人差別政策は、45年9月に南朝鮮に上陸した米軍政庁の、朝鮮統治政策と連結している。
米軍政庁は、日本の朝鮮総督府統治方式を引継ぎ、親日派を多用して、主体性を主張する朝鮮人を弾圧していった。
何のことはない、南朝鮮での統治主体が日本から米国に代わっただけで、日本植民地当時の政治が復活していたから、米国は北を侵攻する戦争を必然性のように準備し、朝鮮戦争への導火線を引いた。
6.朝鮮戦争での米軍
制空権を握っていた米軍は、都市部へのジュータン爆撃を繰り返し、多くの一般住民を殺傷している。
米軍パイロットが、北部朝鮮での目標物は何もないと、米上院の公聴会で証言するほどであった。
さらに52年後半からは、主として発電所、ダム、貯水場、農業関連施設など、人民の日常生活に直結する施設を狙って爆撃し破壊していった。
こうした行為は、旧連合国側が設定した最も憎むべき戦争犯罪行為で、戦闘行為以外の大量殺りくの非人道的行為に該当する。
また、52年に入ってのナパーム弾、細菌弾、化学弾などの使用は、民間人を無差別に殺傷し後遺症を与え、自然環境を破壊するなど、重大な戦争犯罪行為に当たる。
米軍が通過した後の地域での、一般住民への集団虐殺行為と、釜山など捕虜収容所での捕虜虐待行為こそ、自らが日本やドイツに対して戦争犯罪行為で裁き、処刑した行為そのものではないか。
特に、12万名以上の住民を虐殺した黄海道、住民の4分の1にあたる3万5千余名を虐殺した信川郡での米軍の蛮行を考えるとき、裁かれるべきは米軍の兵士たちである。
米軍は、住民たちを銃殺、撲殺、生き埋め、眼球をくり抜き、乳房を切り取り、舌を切り、頭や全身の皮膚をはいで殺し、唇をえぐり、斧で手足を打ち切り、身体を鋸で引き、火あぶりにし、熱湯に投げ入れ、鼻と耳に針金を通して引き回し、戦車でひき殺し、考えられないほどの残忍極まる方法で朝鮮人民たちを虐殺した。
この米軍の犯罪は永久に記録され、記憶され、語っていく必要がある。
現地で調査した国際民主法律家協会調査団は、報告書で米軍の蛮行を戦争犯罪とした。
「婦人と子どもを含む朝鮮の一般住民に対するアメリカ軍の大量殺りくと個別的虐殺および獣的行為の証拠は、その犯罪の量においても、また、彼らが使用した方法の多様性においてもかつて例のないものである」(1952年3月)
51年7月から休戦会談と新攻勢作戦を繰り返していた米軍は、勝利の見込みがないことを認めて、53年7月27日に「停戦協定」に調印した。
停戦協定第60項は、3カ月後の政治会談開催を規定し、そこで朝鮮半島からの外国軍撤退と朝鮮半島の平和安定を協議することになっていた。
7.米軍の戦争犯罪
停戦協定規定の実行をサボタージュしてきた米国も、国際世論に押されて54年4月、ジュネーブ会議(朝鮮、インドシナ問題)に出席した。
停戦協定を実行するということは、米国にとっては朝鮮との講和、賠償、戦争責任問題を協議し、消化することでもあった。
だがその前に米国は、韓国との間に「米韓相互防衛条約」を調印(53年10月1日)していて、協定違反をすでに犯していた。
このため、ジュネーブ会議を破綻するしかなかった米国は、朝鮮側の提案にことごとくクレームを付け、停戦協定の実行を無視した。
その後、朝鮮からの朝米平和協定協議をも無視することで、自らの戦争責任問題と協定違反の在韓米軍問題の糾弾から免れようとしている。
米国は決して、その戦争犯罪から逃れることはできないだろう。
朝鮮停戦協定から60余年が過ぎ去ったとはいえ、また、当時の戦争指導者たちが死去しているとはいえ、彼らの名前を歴史に記憶させ、歴史と正義の名によって裁き、近い将来に成立する朝米平和協定に備えて、彼らの名前をここに掲げておく。
以下はAとB項の戦犯者たちである。
トルーマン米第33代大統領(最初に米軍出動を命じた)、アイゼンハワー第34代大統領、ダレス国務長官特別顧問、マッカーサー国連軍司令官、アチソン国務長官(戦争開戦を誘導した)、ムチョー駐韓米大使(偽証罪)、ウォーカー米第8軍司令官、バンフリート米第8軍司令官(第3代)、リッジウェイ国連軍司令官(第2代)、クラーク国連軍司令官(第3代)、オドンネル米極東空軍爆撃機飛行隊司令官(細菌弾投下責任)などを列挙しておこう。
彼らはみな死刑である。だが残念ながら60年余の時間は、全員が米本土で自然死している。しかも戦犯というレッテルを誰からも貼られることもなく、米国の政治家または高級軍人として生を全うしていることである。
BC項戦犯者たちは、ナパーム弾、細菌弾、化学弾などの投下当事者(飛行士)、大量虐殺、無差別爆撃などを実行した者たちである。
米国が日本人戦犯たちを裁いた項目を適用していけば、余りにも多くの米軍将兵たちが該当する。
以上の米国人戦争責任者。犯罪者のなかに、新たにオバマ氏がそこに加わることがないためにも、今後の米国の対朝鮮政策は重要な節目を迎えている。
それは、米国にとってという意味である。
8.オバマのジレンマ
日米ともに朝鮮との関係で、様々に論じて問題を複雑化しているが、いずれも基本的な問題の解決には言及せず、その努力もしていない。
日本は先の植民地・戦争問題の清算であり、米国は停戦協定の履行と朝鮮戦争の清算問題である。
以上の諸問題が進展すれば、朝鮮半島の平和安定と繁栄は約束されている。
そのことから南北統一問題、日朝交流と国交正常化、朝米間の正常化も、すべてがスムーズに実現していく。
そうした基本問題を解決していく道程を阻んでいる政治力学こそ、米国の対朝鮮政策であった。
米国は45年9月に南朝鮮に進駐して以降、朝鮮の社会主義体制を崩壊させることだけを目指してきた。
朝鮮戦争後は経済制裁を追求し、今また脱北者や人権問題などを掲げて、反朝鮮キャンペーンを行っている。
歴代の米国政権が実施してきた北朝鮮封じ込めと核脅迫外交は、すでにして破綻している。
今や共和国は3回の核実験を実施し、核保有を宣言するようになった。
それにも関わらず米国は、共和国の核保有を認めず、従来通りの制裁と圧力政策を続けている。
オバマ政権は12年2月以来、公式の交渉には応じない「戦略的忍耐」方針を崩さずに強めている。
その間、共和国は中距離弾道ミサイルに小型化した核を積み込める技術を手に入れた。
さらに米本土を攻撃できる能力をもつ、大陸間弾道ミサイルの完成に向かって進んでいる。
米国は共和国に「時間」を与えた感がある。
そのことで焦っているのは米国だ。
だから米国の本心は、共和国が小型化した核を保有(複数個)することと、その核を弾頭に付けて米ワシントンにまで到達する大陸間弾道ミサイルの開発と保有することを最も恐れている。それにも時間がないことを、米国は理解しておく必要がある。
焦っているオバマ政権の今回のアジア4カ国歴訪は、必ずしも成功したとは言い切れない。
日本も、南朝鮮も、余りにも多くの内政問題を抱えていて、米国が希望する「日韓2国軍事体制」はまだ築ける現状にはない。
だからか、この夏にも南朝鮮一帯で、大規模な米韓合同軍事演習(自衛隊の参加を検討している)を予定している。
すでにして数十年前から朝鮮半島周辺で実施している合同軍事演習は、「演習」という名を越えて、戦争前夜段階の実戦の様相を呈している。
ほとんど毎月、どこかの地域で軍事演習を実施して、共和国に威嚇を与えているのは、朝米会談、平和協定会談を拒否する姿勢になっている。
帝国主義国家、産軍体制国家としての米国は、必ず軍事的脅威国家を必要としており、そうした脅威論を作り続ける必要があった。
東アジアにおいては、それが共和国であって、共和国の核脅威論を、米国の政治は実際以上に見せる必要性もあったのだ。それが米国政治のジレンマである。
幻影であったものが、いつの間にか現実的な脅威感に変わっていて、そのことに脅かされている米国。
脅かされ、焦っていて、対朝鮮政策の変更に迫られているのが、現在のオバマ政権である。
オバマ政権が新しい選択をするための時間、その時間はそれほど残されてはいない。
2014年5月12日 記