「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」17.休戦会談
17.休戦会談
50年10月から11月にかけての中国人民軍の参戦で、戦況は一変した。
その50年から51年にかけての冬、激戦のなかで「国連軍」は鴨緑江から押し戻されて12月5日には平壌を、51年1月4日にはソウルを再び放棄した後、3月14日になってソウルを奪還するという、激しい攻防戦を繰り広げていた。
米国は、戦争中も有利な国連を活用して、そこでの「場外戦」(舞台裏)を展開し、国際社会の圧力を利用する交渉術(休戦会談)で勝利ポイントを挙げることを常としていた。
中国軍の参戦以来、苦戦を強いられていたことと、作戦の間違いなどからマッカーサーが解任(51年4月11日)されたことで、米軍の前線司令部では戦線の建て直しを痛感し始めていた。
51年2月1日の国連総会で、中国を侵略者だとする決議を可決させた米国は、共産主義圏への封鎖、包囲網作戦を広く展開した。
太平洋安全保障条約を締結(51年9月1日)し、マッカーサーの後任であったリッジウェイを52年5月、北大西洋条約機構(NATO)軍の総司令官に転出させ、NATO機構の強化をはかった。
NATOは米国を中心に、共産圏への共同防衛を目的に、49年4月結成した軍事同盟(反共同盟)である。
そのNATOの理事会は52年12月15日、フランスのインドシナ(ベトナム)侵略戦争を支持した。(リッジウェイ就任直後に)
ところで戦争当事者の李承晩体制が、崩壊の危機に陥っていた。
韓国国会の内外では、李承晩派が少数であったことから、李自身が大統領に再選されない情勢となっていた。
戦争を継続させるためには、李承晩体制が倒れたのでは米国も困る。
そのために、大統領選出を従来の間接選挙(国会議員による)から、強引に国民による直接選挙制に変更をした。
臨時政権を置いていた釜山一帯に「非常戒厳令」(52年5月)を敷き、8月5日の選挙(それもテロと脅迫によって)で、彼をやっと大統領とすることができた。
米国にとって後方基地の日本の方が、もっと重要であった。
51年9月9日の同日に調印したサンフランシスコ対日講和条約と日米安全保障条約は、日本にとってよりは、米国の戦後政策の作品であった。
日本はすでにGHQによって、公職(戦争責任者)追放解除(51年6月)、兵器製造許可(52年3月)、破壊活動防止法公布(52年7月)、警察予備隊を「保安隊」に改組(52年7月)など、52年に入って戦争協力コースを走るようになっていた。
戦争中の米国にとっては、安定的な日韓体制を作り上げる必要性があったのだ。
しぶる李承晩を日本に向かわせ、日韓予備会談(51年10月)、第1次日韓会談(52年2月)、第2次日韓会談(53年4月)へと、米国のために結果を急がせた。
一方、戦場の方は51年6月以降、基本的には38度線付近で膠着し、朝中人民軍側は陣地の坑道化作戦をとり、陣地防御戦となっていた。
この時期の戦闘は、米軍の近代兵器(飛行機、戦車、105ミリ砲など)をもってして
も、人民軍の坑道を崩せず、消耗戦が続いていた。
ソ連の国連代表マリクが51年6月23日、朝鮮問題の平和的解決のため、休戦会談を提唱した。
米軍にとっても渡りに舟で、その1週間後の6月30日、人民軍側に休戦会談を申し入れた。こうして休戦会談が始まった。
朝鮮戦争の休戦会談は都合2回、途中で米軍のボイコットと新しい戦闘が繰り広げられ、また会談を再開するといったスタイルで進行した。
第1回会談は、会談場所でのキャッチボールから始まった。
6月30日にリッジウェイが、会談を元山港に停泊中のデンマークの病院船で行うことを提案。これに対して金日成と彰徳懐が7月1日、北京放送で開城を提案した。
こうして7月8日、開城で予備会談が開かれた。
本会談を7月10日、開城の民家「来鳳荘」で、双方5人づつの代表団で行われた。
当時の開城は、朝鮮人民軍の占領地内にあった。
このため開城を中心に半径3マイルを中立化地帯に設定し、会談場所を確保した。
李承晩は「われわれは統一が目的であり、今休戦することは国土の分断につながる、だから休戦会談には反対である。これが韓国の立場である」(「白善華回顧録」)として、休戦会談には反対を表明していた。
しかし米国との関係があることから、韓国側代表(オブザーバ)を1名送り出した。
「国連軍」側の首席代表は極東海軍司令官ジョイ中将、4人の代表は第8軍参謀副長ホッジス少将、極東空軍副司令官クレーギ少将、極東海軍参謀副長バーグ少将と韓国代表の韓国軍第一団長の白善華であった。
人民軍側は、首席代表が総参謀副長兼副首相の南日、代表は朝鮮側を李相朝、張平山の2人。中国軍代表を副司令官の登華と政治委員の解方(シェ・ファン)の2人であった。
双方はテーブルを挟んで、会談のテーマを設定するだけで、1週間の時間を要した。
7月26日になってやっと、イ協議事項、ロ非武装地帯(DMZ)を設定するために双方のあいだに軍事分界線(MDL)を設定すること、ハ停戦と実行に関する具体的な協定、ホ捕虜に関する協定、へ双方の関係諸国政府に対する勧告一で決定した。
会談はMDLの設定問題から始まった。
米国の提案は、地上での対峙線(戦闘線)よりはるか北方の地帯、平壌を含む朝鮮の面積の20分の1(注、50年11月頃に占領していた新義州一恵山の線)までを要求した。
それは空軍と海軍の絶対的な優位性を理由にして、軍事分界線はそのときの軍事情勢をもとに定めるべきで、同時に戦闘再発を防止するには彼我の総合的軍事力が均衡する線にするべきである、との論弁を展開した。
一方の人民軍側は、彼らの論法に対して、ではわれわれも、わが方の敵中部隊とパルチザンは再南端の釜山一帯、済州島にまで進出して戦っているのだから、軍事境界線を釜山界線に引くべきだと反論しなければならない。
しかし、そのような不毛な論戦より、現実的な問題として、最も近い38度線が合理的ではないかと、38度線を提案した。
軍事的に最終的に決着がついたのだから、元の線に戻るのが合理的ではないかという意 味である。
会談途中の8月22日夜、米軍機が開城の会談場を爆撃した。
人民軍側は当然、抗議をして休会となってしまった。
その原因は、38度線を休戦ラインとすることで始まった交渉を、米国が拒み戦闘準備をして北への侵攻作戦(8月18日からの「夏季および秋季攻勢」)を行ったからである。
中・東部戦線は、標高1000メートルを超える高地が連なっており、必然的に高地戦闘となった。
亥安(へアン)盆地では、4キロ四方の山塊を確保するのに、30日近い戦闘を行うほどの激戦が続いた。
983高地で3000人余の死傷者を出した米軍側も、そこを「流血の峰」・(ブラッディー・リッジ)、同じく2000人余の死傷者を出した931高地を「断腸の峰」(ハートブレイク・リッジ)と呼んだ。
米軍機が9月10日、再び開城を機銃掃射した。
その謝罪問題をめぐることから、再会談が10月25日から、今度は板門店で行われることになった。
それはまた、1.「国連軍」側が戦闘によって得られなかったものを、交渉によって確定しようとして(相手側に現在線から多少後退させることを説得するため)として、逆に失敗したから、2.8月22日夜、中立地区内の開城市に米軍が爆撃を加えたことで、朝鮮・中国軍の司令部を開城に置いていたため、朝鮮側が米軍の爆撃に抗議し対立していたから。
会談時、米第1軍団は臨津江を越え、砂川(サチョン)という小流域に前哨戦を張っていた。
開城市街まで10キロ地点にいた。
反対側の砂川西岸の高地には、朝中軍が堅固な陣地線を構えていた。
会談場は、両軍接触線の中間点ということで、板門店(パンムンジョム)が選ばれた。
とはいえ当時の板門店は、藁葺きの民家が数軒あるだけの、寂しい場所であった。
板門店という名称は、李朝時代に京義街道を往来する旅人相手の小さな茶店があり、その屋号が「板門店」であったことから、いつしかそれが地名となってしまった。
ソウルまで約60キロ、平壌まで約200キロの地点である。
現在の板門店会談場(停戦協定調印場)は、砂川東岸の高地にあるが、10月25日から停戦協定調印までの会談場は西岸で行われた。
地理的には、北緯37度57分20秒、東経126度40分40秒に位置し、ほぼ北緯38度線直下になる。
再開会談のテーマも、軍事分界線問題の再討議から始まった。
米軍側が前回のとほうもない案をひっ込めたことで、11月5日にMDLは、現接触線で合意した。問題は、いつの時点での接触線にするかで、再び紛糾した。
人民軍側は現在の接触線、米軍側は休戦協定に署名する時点での接触線を主張した。
結局、米軍側が30日経過しても協定が妥結しなければ無効になるとの条件付きで、現在の接触線をMDLとして認め、11月27日に暫定的な分界線を画定することになった。
次ぎの捕虜問題ではもっとも難航し、30日では妥結にいたらず、暫定的なMDLは無効となった。
米軍側は、そのことを見越しての「30日」提案だったのだろう。
51年12月18日に捕虜名簿の交換を行った。
人民軍側は1万2000千人。
一方の米軍側は13万2000千人だった。
米韓軍側は、自軍の行方不明者数が10万人余になっていることを示して、この大きな
数字の開きについてを問題視した。
共産軍部隊では、敵軍捕虜は説得して自軍に編入することを常としていた。それは同じ労農者階級との認識があったからで、まして韓国軍兵士たちは、同じ民族の朝鮮人であったから、説得と教育を積極的に行っている。
彼らを捕虜とは見なさず、同胞として扱っていた証拠である。
また、中国人民軍兵士のなかには、旧国民党軍(台湾)の将兵たちも含まれていた。
国共内戦時、国民党軍将兵たちが捕虜となった時にも、中共軍は教育と説得によって、多くを自軍に編入している。
そのような彼らのなかに、北京や東北地方ではなく、台湾へ帰ることを希望した者たちもいたであろう。彼らには家族が台湾にいたからである。
戦争捕虜の交換は、本来ならそれぞれの人数に関係なく、そのまま出身国に帰国させるための交換であった。
朝鮮戦争の場合、内戦であったからこそ、本人が希望するそれぞれの出身地に送り返す、といった意味の方が強かったはずなのだが、米軍の主張する「自由送還」の意図はまた別のところにあった。
朝中人民軍の捕虜たちが平壌や北京には帰らず、他の地域を選択し、その人数が多くいることをもって、彼らが変心して自由主義社会にあこがれた結果だとの、反共宣伝に利用することが真の目的であったためである。
人民軍兵士のなかに、元韓国軍兵や国民党軍兵が多数いることを知っていての、その彼らを利用する作戦であった。
だから、北に帰ることを希望する収容所内の捕虜たちには自由送還を強要し、そのための「嘆願書」まで無理やりに書かせることをやっていた。
それでも屈しない捕虜たちには、集団虐殺など残忍な暴行を密かに行っていた。
巨済島(コジェンド)収容所での52年2月と5月の集団虐殺が、その代表的な実例であった。
戦時中の南朝鮮内の捕虜収容所は、数万人を収容する大きなものは釜山、済州島、光州、論山(ノンサン)などで、数千人以下のものは馬山、永川(ヨンチョン)、富平(プピョン)、大郎などにあった。
巨済島収容所は釜山に次いで大きく、朝中人民軍の捕虜たちが数万人収容されていた。
その第62号捕虜収容所内での残忍な犯罪を伝える捕虜たちの手紙が、厳しい警戒網をくぐって共和国に伝達された。
「わたしたちはこのアピールを血でしたためました。昼となく夜となくわれわれの同僚が殺されない日は一日もありません。5月18日には第76号収容所で13名の同僚が、大勢の目の前で四つ裂きにされて殺されました。
同日、第77号収容所では3つの区域で米軍が、捕虜にたいし催涙ガスを使った結果、24名のわれわれの同僚が死に、46名は失明しました。
5月19日、第66号収容所でアメリカ人どもは、北朝鮮に行くことを望む捕虜は全員、夕方7時まで乗船準備をすませバラックに整列して待機しろと発表しました。
われわれが整列していると機関銃、火炎放射器を発射し、戦車まで繰り出して、127名のわれわれの同僚を殺し、多数を負傷させました。
次ぎの2日間、即ち5月20日と21日には、収容所の4つの区域から1000名以上の同僚が米軍警備詰所と収容所の長のいる建物に引かれていって、いわゆる「自由送還」についての査問を受けましたが、422名は今なお帰らず、100名余りが胸部を刃物で切られたり、背や、腕、胸に焼きごてで恥ずべき烙印を押され、腕を縛られたまま血まみれになって帰ってきました。
…22日と23日、米軍警備兵は第60号、第73号収容所で流血的な虐殺をなお行っていました。
機関銃と手榴弾で88名が殺され、39名が傷を負わされました。…」(1952年5月23日、手紙には6223名の署名があった。「現代朝鮮史」平壌刊)
果ては、細菌兵器、化学戦を実行する前に、その実験対象として実弾射撃の標的、兵器性能検査の対象にして虐殺されたとの報告もあって、731部隊の石井四郎と同じ犯罪を犯していたことを伝えている。
捕虜送還問題は52年4月、インドを立ち会い国として、帰国するか否かを公開審査することになった。その結果、祖国(北)への帰国を希望した者は7万人であった。
では他の6万2000人余は、米韓側が発表する平壌や北京への帰国を拒否して、自由主義へと変心した捕虜たちであったのだろうか。
そのことに関連して、李承晩体制が実行した2つの不可思議な事実を挙げておく。
一つは、51年7月以降から韓国軍内では、捕虜獲得作戦が盛んに行われていたという。
各師団にノルマまで課して、捕虜一人につき100万ウォンの賞金まで出していた。
捕虜を獲得するのにノルマまで課していたというのは、敵の戦闘行為を削減させる目的以外に、別の基本的な戦略が含まれていたと思われる。しかも戦場は、南朝鮮地域内でも長く激戦が行われていた。
このことから、南朝鮮地域内で捕虜として捕獲した人々のなかには、非戦闘員でかつ現地(南の住民)の人々が、相当含まれていた可能性がある。
米韓軍側が提出した捕虜名簿の13万2000名のなかに、元々は南で一般犯罪者として収容されていた人達が多く含まれていたのではないかと考えざるを得ない。
もう一つは、「反共捕虜」問題であった。
捕虜交換問題は、中立国委員会とインド赤十字が、本人たちの意思を確認することで、53年6月8日に妥結した。
審査後、帰国を希望する者はそのまま巨済島に、望まない者は(彼らを反共捕虜と呼んでいた)は別の捕虜収容所に移された。
6月17日から18日の夜間にかけて、「反共捕虜」たちが入っていた収容所を警備していた韓国軍兵士たちが、一斉に任務を放棄し、捕虜たち(約2万7000余人)が脱走した。
この大脱走劇(解放)を指示したのは李承晩自身で、米軍との事前協議はなかった。
解放された捕虜たちのなかに、中国兵(台湾への帰国希望者)が一人も含まれていなかったから、休戦会談をすすめる米国に対する李承晩の抵抗ではなく、彼らの存在(南の一般住民を戦争捕虜としていたこと)を隠すためだったと思われる。
米韓側はこの問題を秘密裏に処理し、表面化させずに休戦会談に臨んだ。
米国が主張する捕虜の「自由意思の送還」とは、表現上は正当性があるように聞こえるけれども、その真の意図は、南朝鮮地域に故郷を有する捕虜が多く居ることを知っていたが故に、「北に帰らない捕虜」が多く居ることを演出し、自由主義世界の有利さを世界に知らせることを狙ったものである。
敵側にイデオロギー的な敗北と屈辱を与えるための、米国的宣伝戦の一つであった。
一方で北の主張は、1949年のジュネーブ協定第128条で規定している、戦闘行為終結後は直ちに捕虜は解放、送還されなければならないとするものであった。
捕虜送還問題をめぐっては結局、米軍の主張が通る53年7月まで引き伸ばされた。
こうして捕虜送還問題が難航して、何も決まらないまま52年10月8日、再び中断してしまった。
米軍は会談を有利にすすめるために、会談と会談の間に、新たな軍事作戦を仕掛けている。
51年8月11日から11月初旬の「夏季および秋季攻勢」、52年10月14日から11月中旬の「秋期攻勢」、そして52年12月から53年1月初旬の「新攻勢」である。
この前後、世界の平和愛好団体が朝鮮戦争の即時停止を決議し、平和圧力を掛けている。
東京での「世界仏教徒会議」(52年9月25日)、北京での「アジア太平洋地域平和会議」(52年10月2日)、オーストラリアでの「世界平和大会」(52年12月12日)、さらにアジア・アラブ12カ国が朝鮮には派兵しないとの声明(53年2月17日)を出している。
平和を求める世界世論を無視した米軍は逆に、その爆撃の度は激烈となった。
開戦後3カ月の1950年9月までには、すでに97000トンの爆弾と780万ガロンのナパーム弾を投下している。
当初の爆撃は軍事施設に限っていたが、戦争の後半からは民間施設や一般住民など、主として戦線の後方地域を狙っている。
米陸軍のエネット・オドンネル少将(極東空軍爆撃司令官)は、米上院公聴会(51年6月)で、上院議員の北朝鮮爆撃の様子の質問に、「…破壊は完璧なものです。建物とかいう名に値するものは何一つ残っておりません。だから中国軍がやってくるまで、航空機は飛びませんでした。朝鮮に爆撃の標的がもうなかったからです」と答えている。
米軍は52年6月からは、新たな標的を狙って爆撃を開始している。
500機からなる爆撃機で、鴨緑江にある水豊(スプーン)水力発電所から始めた爆撃は、続いて5カ所の発電所を破壊し、北朝鮮全土に送電していた電力供給が停止されると同時に、中国への送電までが一部停止する状態となった。
また、攻撃の標的(高い建物、施設)がほとんど残されていない平壌をはじめ都市部に、改めて異常な激しさで爆撃を再開(52年7月、8月頃)している。
8月29日、20機もの爆撃機が平壌に697トンもの爆弾と、1万リットルのナパーム弾を投下した。
米軍パイロットは「動くものは何も見えなかった」とし、「62000発の爆薬を使って、低空掃射を行った」と報告している。
米軍の空からの爆撃のピークは、停戦協定間近の53年5月に行っている。
その目的は、灌漑用のダムで、大きなダム20ヵ所のうち5か所が破壊された。
建造物、農作物、運河などが奔流に飲み込まれてしまい、戦後復興建設にも大きな障害となった。
米軍の爆撃目的が、人民たちに飢餓をもたらし、それによってその政権を屈服させようとしていたのだ。(5月の爆撃は、農作業を破壊するのに一番適していた)
発電所を破壊し、堤防や貯水池を決壊させ、多くの民間人の生命を奪ったばかりか、その後の食糧生産にも多大な打撃を与えたことは、戦争犯罪だと言えよう。
中国は何度も警告を発したけれど、米国はそれを聞き入れなかった。
50年の9月24日と27日、米軍機および米艦船が中国領土を侵犯したとして、国連事務総長宛てに抗議電報を送っている。国連はこれを無視して逆に中国を侵略者だと決め付けてしまった。
これは「国連」の戦争だとの名分をかざした米国は、朝鮮・中国の共産主義勢力を一掃するための「正義」の騎手気取りで、同盟国を動かし、軍事的な勝利がなくなった後も、休戦交渉と宣伝戦での勝利を目指していた。
しかし、ソ連のスターリンが53年3月5日に死去したことは中朝両国に与えた衝撃は大きかったようである。
スターリンの死は、金日成と毛沢東にも大きな影響を与えたことであろう。
朝中とも「ソ連中心主義」には反発してはいたが、スターリンは社会主義国の絶対的な支柱には違いなかった。
社会主義陣営のためにも、朝鮮の戦場で必ず勝利し、米帝国主義を葬り去ることを決心した朝中人民軍は、5月13日から3次にわたる打撃戦(5月打撃戦)を用意し、休戦会談での主導権を握る作戦を展開した。
53年4月26日から始まった第2回休戦会談では結局、軍事境界線問題も捕虜送還問題も、人民軍側の主張に沿って、7月27日の停戦協定締結までにこぎつけた。
いずれの戦争も同じで、始めるよりは勝利の印象を持って休戦会談を終えることの方が重要であったろう。
会談を提起し申し入れる、協議する、協議のテーマとすすめ方、どこで折り合うのか、そのタイミングなど、両者とも難しい駆け引きがあり、しかも朝鮮戦争の場合は、断続的に継続していたなかでの駆け引きであった。
この戦争がもたらした結果は、朝鮮半島は依然として分断されたままで、38度線は強固な軍事分断線となり、朝鮮民族の統一への願望はなお強く存在するようになった。
こうして朝鮮人民の反米意識は、ますます強くなっていった。
多くの人民を殺傷したうえに、爆撃でもってダム、貯水池、水力発電所など人民生活の基本ベースを破壊し、一般市民のうえにナパーム弾と細菌弾の雨を降らせ、それらの諸業をも北の仕業、または北のデマゴーグだと押しつけてきた米国と参戦国の責任は、歴史上から永久に回避できるものではない。
さらに、朝鮮戦争に対する日本および日本人の責任問題も、重く受け止めなければならない。
日本は、米軍の後方基地となっただけではなく、一部旧軍の軍人たちが戦場に立ち、戦争の後半では各種弾丸を製造し、戦線に届けて朝鮮人を間接的に殺傷し、また左派在日朝鮮人を弾圧して、米国の戦争政策を全面的に助けている。
否、共に戦ったと言った方がよいだろう。
こうしたことの反省もなく、朝鮮への謝罪もなく、米軍主導の第2次朝鮮戦争戦略に積極的に加担する姿勢を示している、第2次安倍政権を糾弾していく必要があるだろう。
なお、日本語の「休戦」と「停戦」は、ほぼ同じ意味で使用している。
即ち、交戦中の双方が、相談した上で互いに戦闘行為を中止することを意味している。
そのことに間違いはないのだが、表現上の微妙なニュアンスの違いと、それを使用する側の政治的立場の違いは、明確にある。
朝鮮戦争の場合、西側世界では主として「休戦」「休戦会談」「休戦協定」との表現を用いているが、そこには米国の朝鮮半島戦略が反映されている。
彼らが用いる「休戦」表現には、「一定の期間に限って戦闘行為を中止する」との意味合いで使用している。
であるから、米国は国際社会の常識となっている次ぎの段階、講和条約から平和協定への転換への協議には、今日まで一切応じていない。
そればかりか、第2次朝鮮戦争を促す「挑発」を、「相手の意志」「相手の行為」にするための様々な行為を繰り返している。
そのような米国にとっては、「停戦会談」「停戦協定」との表現は都合が悪かった。
「停戦」表現には、単に戦闘を中止することだけではなく、その次に続く平和協定、講和協定の締結が予定されていた。
現実に、朝鮮停戦協定第60項で、軍人会談より一級上の政治会談で、双方は講和条約を結ぶことが規定されている。米国はそれを拒否している。
だから「休戦」と「停戦」の意味は、単純な表現上のことではなく、政治的な問題なのである。
そのたるこの原稿でも、戦闘行為の中止協議を「休戦会談」、協定を結んだことを「停戦協定」として、表現を分けた。
米国としては、一時的な戦闘行為の中止だけを目指していたのかも知れないが、「停戦協定」の精神には平和への転換目的が予定されていたことを忘れてはならない。
国際社会では、戦争に負けた国が、戦勝国や被害者および被害国に賠償を支払うことになっている。敗戦国は巨額な賠償金を必要とした。
では、朝鮮戦争の場合はどうか。
停戦協定に調印した米軍司令官は、勝利なき戦争に調印した屈辱的な将軍だと、自らを語っている。勝利したのではないが、さりとて敗北も認めたくはないことを、言下に語っている。
米国が敗戦国だったと認めた場合、巨額の賠償金を支払う必要性がでてくる。
だから、一時的な戦闘の中断で、「休戦」的表現にこだわらざるを得なかったのだ。
一方の朝鮮側はどうか。朝鮮側は「祖国解放戦争勝利」だとしている。
つまり、敗戦ではなく勝利だったとしているのだ。
だから、米軍と継続会談を行ってきた戦闘中止のための「休戦会談」を、協定調印時には「停戦協定」へと格上げし、その後の政治会談から講和協議、平和協定を予定した内容に仕上げていた。
政治会談で賠償金を要求するかどうかについては、これまでそうした要求はしてこなかった。その点で米国側に対して、平和協定への転換障害を取り除いたと言えるだろう。
50年10月から11月にかけての中国人民軍の参戦で、戦況は一変した。
その50年から51年にかけての冬、激戦のなかで「国連軍」は鴨緑江から押し戻されて12月5日には平壌を、51年1月4日にはソウルを再び放棄した後、3月14日になってソウルを奪還するという、激しい攻防戦を繰り広げていた。
米国は、戦争中も有利な国連を活用して、そこでの「場外戦」(舞台裏)を展開し、国際社会の圧力を利用する交渉術(休戦会談)で勝利ポイントを挙げることを常としていた。
中国軍の参戦以来、苦戦を強いられていたことと、作戦の間違いなどからマッカーサーが解任(51年4月11日)されたことで、米軍の前線司令部では戦線の建て直しを痛感し始めていた。
51年2月1日の国連総会で、中国を侵略者だとする決議を可決させた米国は、共産主義圏への封鎖、包囲網作戦を広く展開した。
太平洋安全保障条約を締結(51年9月1日)し、マッカーサーの後任であったリッジウェイを52年5月、北大西洋条約機構(NATO)軍の総司令官に転出させ、NATO機構の強化をはかった。
NATOは米国を中心に、共産圏への共同防衛を目的に、49年4月結成した軍事同盟(反共同盟)である。
そのNATOの理事会は52年12月15日、フランスのインドシナ(ベトナム)侵略戦争を支持した。(リッジウェイ就任直後に)
ところで戦争当事者の李承晩体制が、崩壊の危機に陥っていた。
韓国国会の内外では、李承晩派が少数であったことから、李自身が大統領に再選されない情勢となっていた。
戦争を継続させるためには、李承晩体制が倒れたのでは米国も困る。
そのために、大統領選出を従来の間接選挙(国会議員による)から、強引に国民による直接選挙制に変更をした。
臨時政権を置いていた釜山一帯に「非常戒厳令」(52年5月)を敷き、8月5日の選挙(それもテロと脅迫によって)で、彼をやっと大統領とすることができた。
米国にとって後方基地の日本の方が、もっと重要であった。
51年9月9日の同日に調印したサンフランシスコ対日講和条約と日米安全保障条約は、日本にとってよりは、米国の戦後政策の作品であった。
日本はすでにGHQによって、公職(戦争責任者)追放解除(51年6月)、兵器製造許可(52年3月)、破壊活動防止法公布(52年7月)、警察予備隊を「保安隊」に改組(52年7月)など、52年に入って戦争協力コースを走るようになっていた。
戦争中の米国にとっては、安定的な日韓体制を作り上げる必要性があったのだ。
しぶる李承晩を日本に向かわせ、日韓予備会談(51年10月)、第1次日韓会談(52年2月)、第2次日韓会談(53年4月)へと、米国のために結果を急がせた。
一方、戦場の方は51年6月以降、基本的には38度線付近で膠着し、朝中人民軍側は陣地の坑道化作戦をとり、陣地防御戦となっていた。
この時期の戦闘は、米軍の近代兵器(飛行機、戦車、105ミリ砲など)をもってして
も、人民軍の坑道を崩せず、消耗戦が続いていた。
ソ連の国連代表マリクが51年6月23日、朝鮮問題の平和的解決のため、休戦会談を提唱した。
米軍にとっても渡りに舟で、その1週間後の6月30日、人民軍側に休戦会談を申し入れた。こうして休戦会談が始まった。
朝鮮戦争の休戦会談は都合2回、途中で米軍のボイコットと新しい戦闘が繰り広げられ、また会談を再開するといったスタイルで進行した。
第1回会談は、会談場所でのキャッチボールから始まった。
6月30日にリッジウェイが、会談を元山港に停泊中のデンマークの病院船で行うことを提案。これに対して金日成と彰徳懐が7月1日、北京放送で開城を提案した。
こうして7月8日、開城で予備会談が開かれた。
本会談を7月10日、開城の民家「来鳳荘」で、双方5人づつの代表団で行われた。
当時の開城は、朝鮮人民軍の占領地内にあった。
このため開城を中心に半径3マイルを中立化地帯に設定し、会談場所を確保した。
李承晩は「われわれは統一が目的であり、今休戦することは国土の分断につながる、だから休戦会談には反対である。これが韓国の立場である」(「白善華回顧録」)として、休戦会談には反対を表明していた。
しかし米国との関係があることから、韓国側代表(オブザーバ)を1名送り出した。
「国連軍」側の首席代表は極東海軍司令官ジョイ中将、4人の代表は第8軍参謀副長ホッジス少将、極東空軍副司令官クレーギ少将、極東海軍参謀副長バーグ少将と韓国代表の韓国軍第一団長の白善華であった。
人民軍側は、首席代表が総参謀副長兼副首相の南日、代表は朝鮮側を李相朝、張平山の2人。中国軍代表を副司令官の登華と政治委員の解方(シェ・ファン)の2人であった。
双方はテーブルを挟んで、会談のテーマを設定するだけで、1週間の時間を要した。
7月26日になってやっと、イ協議事項、ロ非武装地帯(DMZ)を設定するために双方のあいだに軍事分界線(MDL)を設定すること、ハ停戦と実行に関する具体的な協定、ホ捕虜に関する協定、へ双方の関係諸国政府に対する勧告一で決定した。
会談はMDLの設定問題から始まった。
米国の提案は、地上での対峙線(戦闘線)よりはるか北方の地帯、平壌を含む朝鮮の面積の20分の1(注、50年11月頃に占領していた新義州一恵山の線)までを要求した。
それは空軍と海軍の絶対的な優位性を理由にして、軍事分界線はそのときの軍事情勢をもとに定めるべきで、同時に戦闘再発を防止するには彼我の総合的軍事力が均衡する線にするべきである、との論弁を展開した。
一方の人民軍側は、彼らの論法に対して、ではわれわれも、わが方の敵中部隊とパルチザンは再南端の釜山一帯、済州島にまで進出して戦っているのだから、軍事境界線を釜山界線に引くべきだと反論しなければならない。
しかし、そのような不毛な論戦より、現実的な問題として、最も近い38度線が合理的ではないかと、38度線を提案した。
軍事的に最終的に決着がついたのだから、元の線に戻るのが合理的ではないかという意 味である。
会談途中の8月22日夜、米軍機が開城の会談場を爆撃した。
人民軍側は当然、抗議をして休会となってしまった。
その原因は、38度線を休戦ラインとすることで始まった交渉を、米国が拒み戦闘準備をして北への侵攻作戦(8月18日からの「夏季および秋季攻勢」)を行ったからである。
中・東部戦線は、標高1000メートルを超える高地が連なっており、必然的に高地戦闘となった。
亥安(へアン)盆地では、4キロ四方の山塊を確保するのに、30日近い戦闘を行うほどの激戦が続いた。
983高地で3000人余の死傷者を出した米軍側も、そこを「流血の峰」・(ブラッディー・リッジ)、同じく2000人余の死傷者を出した931高地を「断腸の峰」(ハートブレイク・リッジ)と呼んだ。
米軍機が9月10日、再び開城を機銃掃射した。
その謝罪問題をめぐることから、再会談が10月25日から、今度は板門店で行われることになった。
それはまた、1.「国連軍」側が戦闘によって得られなかったものを、交渉によって確定しようとして(相手側に現在線から多少後退させることを説得するため)として、逆に失敗したから、2.8月22日夜、中立地区内の開城市に米軍が爆撃を加えたことで、朝鮮・中国軍の司令部を開城に置いていたため、朝鮮側が米軍の爆撃に抗議し対立していたから。
会談時、米第1軍団は臨津江を越え、砂川(サチョン)という小流域に前哨戦を張っていた。
開城市街まで10キロ地点にいた。
反対側の砂川西岸の高地には、朝中軍が堅固な陣地線を構えていた。
会談場は、両軍接触線の中間点ということで、板門店(パンムンジョム)が選ばれた。
とはいえ当時の板門店は、藁葺きの民家が数軒あるだけの、寂しい場所であった。
板門店という名称は、李朝時代に京義街道を往来する旅人相手の小さな茶店があり、その屋号が「板門店」であったことから、いつしかそれが地名となってしまった。
ソウルまで約60キロ、平壌まで約200キロの地点である。
現在の板門店会談場(停戦協定調印場)は、砂川東岸の高地にあるが、10月25日から停戦協定調印までの会談場は西岸で行われた。
地理的には、北緯37度57分20秒、東経126度40分40秒に位置し、ほぼ北緯38度線直下になる。
再開会談のテーマも、軍事分界線問題の再討議から始まった。
米軍側が前回のとほうもない案をひっ込めたことで、11月5日にMDLは、現接触線で合意した。問題は、いつの時点での接触線にするかで、再び紛糾した。
人民軍側は現在の接触線、米軍側は休戦協定に署名する時点での接触線を主張した。
結局、米軍側が30日経過しても協定が妥結しなければ無効になるとの条件付きで、現在の接触線をMDLとして認め、11月27日に暫定的な分界線を画定することになった。
次ぎの捕虜問題ではもっとも難航し、30日では妥結にいたらず、暫定的なMDLは無効となった。
米軍側は、そのことを見越しての「30日」提案だったのだろう。
51年12月18日に捕虜名簿の交換を行った。
人民軍側は1万2000千人。
一方の米軍側は13万2000千人だった。
米韓軍側は、自軍の行方不明者数が10万人余になっていることを示して、この大きな
数字の開きについてを問題視した。
共産軍部隊では、敵軍捕虜は説得して自軍に編入することを常としていた。それは同じ労農者階級との認識があったからで、まして韓国軍兵士たちは、同じ民族の朝鮮人であったから、説得と教育を積極的に行っている。
彼らを捕虜とは見なさず、同胞として扱っていた証拠である。
また、中国人民軍兵士のなかには、旧国民党軍(台湾)の将兵たちも含まれていた。
国共内戦時、国民党軍将兵たちが捕虜となった時にも、中共軍は教育と説得によって、多くを自軍に編入している。
そのような彼らのなかに、北京や東北地方ではなく、台湾へ帰ることを希望した者たちもいたであろう。彼らには家族が台湾にいたからである。
戦争捕虜の交換は、本来ならそれぞれの人数に関係なく、そのまま出身国に帰国させるための交換であった。
朝鮮戦争の場合、内戦であったからこそ、本人が希望するそれぞれの出身地に送り返す、といった意味の方が強かったはずなのだが、米軍の主張する「自由送還」の意図はまた別のところにあった。
朝中人民軍の捕虜たちが平壌や北京には帰らず、他の地域を選択し、その人数が多くいることをもって、彼らが変心して自由主義社会にあこがれた結果だとの、反共宣伝に利用することが真の目的であったためである。
人民軍兵士のなかに、元韓国軍兵や国民党軍兵が多数いることを知っていての、その彼らを利用する作戦であった。
だから、北に帰ることを希望する収容所内の捕虜たちには自由送還を強要し、そのための「嘆願書」まで無理やりに書かせることをやっていた。
それでも屈しない捕虜たちには、集団虐殺など残忍な暴行を密かに行っていた。
巨済島(コジェンド)収容所での52年2月と5月の集団虐殺が、その代表的な実例であった。
戦時中の南朝鮮内の捕虜収容所は、数万人を収容する大きなものは釜山、済州島、光州、論山(ノンサン)などで、数千人以下のものは馬山、永川(ヨンチョン)、富平(プピョン)、大郎などにあった。
巨済島収容所は釜山に次いで大きく、朝中人民軍の捕虜たちが数万人収容されていた。
その第62号捕虜収容所内での残忍な犯罪を伝える捕虜たちの手紙が、厳しい警戒網をくぐって共和国に伝達された。
「わたしたちはこのアピールを血でしたためました。昼となく夜となくわれわれの同僚が殺されない日は一日もありません。5月18日には第76号収容所で13名の同僚が、大勢の目の前で四つ裂きにされて殺されました。
同日、第77号収容所では3つの区域で米軍が、捕虜にたいし催涙ガスを使った結果、24名のわれわれの同僚が死に、46名は失明しました。
5月19日、第66号収容所でアメリカ人どもは、北朝鮮に行くことを望む捕虜は全員、夕方7時まで乗船準備をすませバラックに整列して待機しろと発表しました。
われわれが整列していると機関銃、火炎放射器を発射し、戦車まで繰り出して、127名のわれわれの同僚を殺し、多数を負傷させました。
次ぎの2日間、即ち5月20日と21日には、収容所の4つの区域から1000名以上の同僚が米軍警備詰所と収容所の長のいる建物に引かれていって、いわゆる「自由送還」についての査問を受けましたが、422名は今なお帰らず、100名余りが胸部を刃物で切られたり、背や、腕、胸に焼きごてで恥ずべき烙印を押され、腕を縛られたまま血まみれになって帰ってきました。
…22日と23日、米軍警備兵は第60号、第73号収容所で流血的な虐殺をなお行っていました。
機関銃と手榴弾で88名が殺され、39名が傷を負わされました。…」(1952年5月23日、手紙には6223名の署名があった。「現代朝鮮史」平壌刊)
果ては、細菌兵器、化学戦を実行する前に、その実験対象として実弾射撃の標的、兵器性能検査の対象にして虐殺されたとの報告もあって、731部隊の石井四郎と同じ犯罪を犯していたことを伝えている。
捕虜送還問題は52年4月、インドを立ち会い国として、帰国するか否かを公開審査することになった。その結果、祖国(北)への帰国を希望した者は7万人であった。
では他の6万2000人余は、米韓側が発表する平壌や北京への帰国を拒否して、自由主義へと変心した捕虜たちであったのだろうか。
そのことに関連して、李承晩体制が実行した2つの不可思議な事実を挙げておく。
一つは、51年7月以降から韓国軍内では、捕虜獲得作戦が盛んに行われていたという。
各師団にノルマまで課して、捕虜一人につき100万ウォンの賞金まで出していた。
捕虜を獲得するのにノルマまで課していたというのは、敵の戦闘行為を削減させる目的以外に、別の基本的な戦略が含まれていたと思われる。しかも戦場は、南朝鮮地域内でも長く激戦が行われていた。
このことから、南朝鮮地域内で捕虜として捕獲した人々のなかには、非戦闘員でかつ現地(南の住民)の人々が、相当含まれていた可能性がある。
米韓軍側が提出した捕虜名簿の13万2000名のなかに、元々は南で一般犯罪者として収容されていた人達が多く含まれていたのではないかと考えざるを得ない。
もう一つは、「反共捕虜」問題であった。
捕虜交換問題は、中立国委員会とインド赤十字が、本人たちの意思を確認することで、53年6月8日に妥結した。
審査後、帰国を希望する者はそのまま巨済島に、望まない者は(彼らを反共捕虜と呼んでいた)は別の捕虜収容所に移された。
6月17日から18日の夜間にかけて、「反共捕虜」たちが入っていた収容所を警備していた韓国軍兵士たちが、一斉に任務を放棄し、捕虜たち(約2万7000余人)が脱走した。
この大脱走劇(解放)を指示したのは李承晩自身で、米軍との事前協議はなかった。
解放された捕虜たちのなかに、中国兵(台湾への帰国希望者)が一人も含まれていなかったから、休戦会談をすすめる米国に対する李承晩の抵抗ではなく、彼らの存在(南の一般住民を戦争捕虜としていたこと)を隠すためだったと思われる。
米韓側はこの問題を秘密裏に処理し、表面化させずに休戦会談に臨んだ。
米国が主張する捕虜の「自由意思の送還」とは、表現上は正当性があるように聞こえるけれども、その真の意図は、南朝鮮地域に故郷を有する捕虜が多く居ることを知っていたが故に、「北に帰らない捕虜」が多く居ることを演出し、自由主義世界の有利さを世界に知らせることを狙ったものである。
敵側にイデオロギー的な敗北と屈辱を与えるための、米国的宣伝戦の一つであった。
一方で北の主張は、1949年のジュネーブ協定第128条で規定している、戦闘行為終結後は直ちに捕虜は解放、送還されなければならないとするものであった。
捕虜送還問題をめぐっては結局、米軍の主張が通る53年7月まで引き伸ばされた。
こうして捕虜送還問題が難航して、何も決まらないまま52年10月8日、再び中断してしまった。
米軍は会談を有利にすすめるために、会談と会談の間に、新たな軍事作戦を仕掛けている。
51年8月11日から11月初旬の「夏季および秋季攻勢」、52年10月14日から11月中旬の「秋期攻勢」、そして52年12月から53年1月初旬の「新攻勢」である。
この前後、世界の平和愛好団体が朝鮮戦争の即時停止を決議し、平和圧力を掛けている。
東京での「世界仏教徒会議」(52年9月25日)、北京での「アジア太平洋地域平和会議」(52年10月2日)、オーストラリアでの「世界平和大会」(52年12月12日)、さらにアジア・アラブ12カ国が朝鮮には派兵しないとの声明(53年2月17日)を出している。
平和を求める世界世論を無視した米軍は逆に、その爆撃の度は激烈となった。
開戦後3カ月の1950年9月までには、すでに97000トンの爆弾と780万ガロンのナパーム弾を投下している。
当初の爆撃は軍事施設に限っていたが、戦争の後半からは民間施設や一般住民など、主として戦線の後方地域を狙っている。
米陸軍のエネット・オドンネル少将(極東空軍爆撃司令官)は、米上院公聴会(51年6月)で、上院議員の北朝鮮爆撃の様子の質問に、「…破壊は完璧なものです。建物とかいう名に値するものは何一つ残っておりません。だから中国軍がやってくるまで、航空機は飛びませんでした。朝鮮に爆撃の標的がもうなかったからです」と答えている。
米軍は52年6月からは、新たな標的を狙って爆撃を開始している。
500機からなる爆撃機で、鴨緑江にある水豊(スプーン)水力発電所から始めた爆撃は、続いて5カ所の発電所を破壊し、北朝鮮全土に送電していた電力供給が停止されると同時に、中国への送電までが一部停止する状態となった。
また、攻撃の標的(高い建物、施設)がほとんど残されていない平壌をはじめ都市部に、改めて異常な激しさで爆撃を再開(52年7月、8月頃)している。
8月29日、20機もの爆撃機が平壌に697トンもの爆弾と、1万リットルのナパーム弾を投下した。
米軍パイロットは「動くものは何も見えなかった」とし、「62000発の爆薬を使って、低空掃射を行った」と報告している。
米軍の空からの爆撃のピークは、停戦協定間近の53年5月に行っている。
その目的は、灌漑用のダムで、大きなダム20ヵ所のうち5か所が破壊された。
建造物、農作物、運河などが奔流に飲み込まれてしまい、戦後復興建設にも大きな障害となった。
米軍の爆撃目的が、人民たちに飢餓をもたらし、それによってその政権を屈服させようとしていたのだ。(5月の爆撃は、農作業を破壊するのに一番適していた)
発電所を破壊し、堤防や貯水池を決壊させ、多くの民間人の生命を奪ったばかりか、その後の食糧生産にも多大な打撃を与えたことは、戦争犯罪だと言えよう。
中国は何度も警告を発したけれど、米国はそれを聞き入れなかった。
50年の9月24日と27日、米軍機および米艦船が中国領土を侵犯したとして、国連事務総長宛てに抗議電報を送っている。国連はこれを無視して逆に中国を侵略者だと決め付けてしまった。
これは「国連」の戦争だとの名分をかざした米国は、朝鮮・中国の共産主義勢力を一掃するための「正義」の騎手気取りで、同盟国を動かし、軍事的な勝利がなくなった後も、休戦交渉と宣伝戦での勝利を目指していた。
しかし、ソ連のスターリンが53年3月5日に死去したことは中朝両国に与えた衝撃は大きかったようである。
スターリンの死は、金日成と毛沢東にも大きな影響を与えたことであろう。
朝中とも「ソ連中心主義」には反発してはいたが、スターリンは社会主義国の絶対的な支柱には違いなかった。
社会主義陣営のためにも、朝鮮の戦場で必ず勝利し、米帝国主義を葬り去ることを決心した朝中人民軍は、5月13日から3次にわたる打撃戦(5月打撃戦)を用意し、休戦会談での主導権を握る作戦を展開した。
53年4月26日から始まった第2回休戦会談では結局、軍事境界線問題も捕虜送還問題も、人民軍側の主張に沿って、7月27日の停戦協定締結までにこぎつけた。
いずれの戦争も同じで、始めるよりは勝利の印象を持って休戦会談を終えることの方が重要であったろう。
会談を提起し申し入れる、協議する、協議のテーマとすすめ方、どこで折り合うのか、そのタイミングなど、両者とも難しい駆け引きがあり、しかも朝鮮戦争の場合は、断続的に継続していたなかでの駆け引きであった。
この戦争がもたらした結果は、朝鮮半島は依然として分断されたままで、38度線は強固な軍事分断線となり、朝鮮民族の統一への願望はなお強く存在するようになった。
こうして朝鮮人民の反米意識は、ますます強くなっていった。
多くの人民を殺傷したうえに、爆撃でもってダム、貯水池、水力発電所など人民生活の基本ベースを破壊し、一般市民のうえにナパーム弾と細菌弾の雨を降らせ、それらの諸業をも北の仕業、または北のデマゴーグだと押しつけてきた米国と参戦国の責任は、歴史上から永久に回避できるものではない。
さらに、朝鮮戦争に対する日本および日本人の責任問題も、重く受け止めなければならない。
日本は、米軍の後方基地となっただけではなく、一部旧軍の軍人たちが戦場に立ち、戦争の後半では各種弾丸を製造し、戦線に届けて朝鮮人を間接的に殺傷し、また左派在日朝鮮人を弾圧して、米国の戦争政策を全面的に助けている。
否、共に戦ったと言った方がよいだろう。
こうしたことの反省もなく、朝鮮への謝罪もなく、米軍主導の第2次朝鮮戦争戦略に積極的に加担する姿勢を示している、第2次安倍政権を糾弾していく必要があるだろう。
なお、日本語の「休戦」と「停戦」は、ほぼ同じ意味で使用している。
即ち、交戦中の双方が、相談した上で互いに戦闘行為を中止することを意味している。
そのことに間違いはないのだが、表現上の微妙なニュアンスの違いと、それを使用する側の政治的立場の違いは、明確にある。
朝鮮戦争の場合、西側世界では主として「休戦」「休戦会談」「休戦協定」との表現を用いているが、そこには米国の朝鮮半島戦略が反映されている。
彼らが用いる「休戦」表現には、「一定の期間に限って戦闘行為を中止する」との意味合いで使用している。
であるから、米国は国際社会の常識となっている次ぎの段階、講和条約から平和協定への転換への協議には、今日まで一切応じていない。
そればかりか、第2次朝鮮戦争を促す「挑発」を、「相手の意志」「相手の行為」にするための様々な行為を繰り返している。
そのような米国にとっては、「停戦会談」「停戦協定」との表現は都合が悪かった。
「停戦」表現には、単に戦闘を中止することだけではなく、その次に続く平和協定、講和協定の締結が予定されていた。
現実に、朝鮮停戦協定第60項で、軍人会談より一級上の政治会談で、双方は講和条約を結ぶことが規定されている。米国はそれを拒否している。
だから「休戦」と「停戦」の意味は、単純な表現上のことではなく、政治的な問題なのである。
そのたるこの原稿でも、戦闘行為の中止協議を「休戦会談」、協定を結んだことを「停戦協定」として、表現を分けた。
米国としては、一時的な戦闘行為の中止だけを目指していたのかも知れないが、「停戦協定」の精神には平和への転換目的が予定されていたことを忘れてはならない。
国際社会では、戦争に負けた国が、戦勝国や被害者および被害国に賠償を支払うことになっている。敗戦国は巨額な賠償金を必要とした。
では、朝鮮戦争の場合はどうか。
停戦協定に調印した米軍司令官は、勝利なき戦争に調印した屈辱的な将軍だと、自らを語っている。勝利したのではないが、さりとて敗北も認めたくはないことを、言下に語っている。
米国が敗戦国だったと認めた場合、巨額の賠償金を支払う必要性がでてくる。
だから、一時的な戦闘の中断で、「休戦」的表現にこだわらざるを得なかったのだ。
一方の朝鮮側はどうか。朝鮮側は「祖国解放戦争勝利」だとしている。
つまり、敗戦ではなく勝利だったとしているのだ。
だから、米軍と継続会談を行ってきた戦闘中止のための「休戦会談」を、協定調印時には「停戦協定」へと格上げし、その後の政治会談から講和協議、平和協定を予定した内容に仕上げていた。
政治会談で賠償金を要求するかどうかについては、これまでそうした要求はしてこなかった。その点で米国側に対して、平和協定への転換障害を取り除いたと言えるだろう。