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「老前整理などするな」

「老前整理などするな」


 最近、新聞や雑誌などで「老前整理」「身辺整理」といった表現をよく目にする。

 持ち物などの整理を十分にして、死出の旅に備えようということであろう。

 確かに齢を重ねれば重ねるほど、様々なものが溜まり、それらを十分に活用もせず放置したままで、やがて忘れ去っていくものばかりだから、整理は必要であろう。

 とはいえ私は、整理整頓が苦手である。

 現役時代(新聞社)の私のデスク上はいつでも、三方が各種資料や書籍を積み上げた山をなしていた。

 どうかすると崩れることがあったりして、原稿用紙を広げる分だけのスペースを空けただけで、原稿を書いていた。

 律儀な上司たちが来ると、彼らは「いい原稿は整理された机の上でこそ書ける」などと、それらしいことを言うが、馬耳東風であった。

 定年後の現在、朝鮮問題研究家として、講演や執筆活動が続いているから、必然的に関係資料や書籍などが身辺に溜まっていく。

 今では、ほとんど読みもしない書籍、新聞の切り抜き、各種資料類などが相当あって、部屋を3つ分も占領してしまっている。

 以前は、書斎として使っていた部屋の机の周りも「紙ごみ」類が積み上がっていて、使用できなくなってしまっている。

 それでリビングに大きなテーブルを入れて、そこで原稿を書くようになった。

 執筆中は関連資料や書籍がどうしても積み上がってしまい、書くスペースも現役時代とまったく同じ状態になってしまっている。

 部屋のことと、このテーブル上のことは時折、同居彼女(妻)からクレームを受ける。

 彼女のクレームはもっともなことと理解し、時にはテーブル上のものを除けはするのだが、しょせんは別の空間に移動させるだけであるから、日を経たずして、テーブル上は元の姿になっている。

 それはまた、執筆活動に入った時なのである。

 私は常にテーマの違う原稿を2、3本、同時進行で執筆している。だから、様々な資料が乱雑に積み上がる。

 このような状態のことは多分、他者には理解できないだろうが、それは私自身なのだ。

 各種取材ノート、それに関連する資料類などは、私の生きてきた証であり、私の分身でもあるから、捨て去り、整理することはできない。

 私の死後(痴呆以後も)、これらは全くのごみでしかなく、焼却されてしまうだろうが、それまでは私と共に生かしておきたい。

 私は地域活動の一つで、高齢者たちをサポートするボランティア活動をしている。

 その彼らから、人に迷惑をかけないよう自分の後始末をしなければと、祈りに似たような言葉をよく聞くことがある。

 そんな彼らに対して、迷惑をかけてもいい、今日を精一杯、納得して生きることを考えようと、私は話すことにしている。

 自分の身の後始末も、身辺整理も、衣類を含む持ち物の整理も、ごみ屋敷なほどに溜まっていなければ、そのままでいいじゃないか。

 後の整理のことなど、誰かがやってくれるのだ。後始末などは誰かがやってくれるのだ。

いまを懸命に生き、努力していくのは、自分しかいない。その結果、不要物が溜まっていくのは仕方がない。

 それが迷惑と言われるなら、迷惑など何ほどのことでもないと考えよう。

 そんな彼らを受け入れていく社会を作っていくために、できるだけ社会的弱者たちの声の側に立って、私は生き、活動してきたつもりである。

 老前整理を言う人たちは、効率を旨とする資本主義社会理論の延長上を主張しているにしか過ぎない。

 老前整理など、とんでもないことだ。

 無駄、無理、無用、無策、無益、迷惑、それも人生だと理解しよう!


                                          2014年4月17日 記

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愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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