「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」16.戦線の推移
16.戦線の推移
3年1カ月間の朝鮮戦争の戦線の推移を考えるとき、およそ4段階に分けられるだろう。
朝鮮戦争はそもそも、南北の民族紛争。内戦であったものが、米軍、次いで「国連軍」(15カ国の軍隊)、中国人民志願軍(義勇軍)などの参戦があり、戦争の意味も途中から違ってきた。
従って戦線は、朝鮮半島を二度もローリングし移動して、元の38度線上での膠着状態の末、停戦協定が成立して、一応の戦火が止むことになった。
戦闘が中断したとはいえ、朝鮮戦争そのものは「終戦」となったのではなく、現在もまだ米朝間の「冷戦」状況は続いているという、長くて特異な戦争である。
その3年1カ月間の熱戦時の、戦線が推移していく様を簡単にみていこう。
1 一般に戦争勃発を50年6月25日未明としているが、研究者たちの間では、それを疑問としている。
何故なら、38度線一帯においては49年頃からほとんど毎日、戦線西部、中部、東部のどの地域とも、南北双方の部隊が越境しての紛争(小さな戦争)が続いていたからである。
50年に入って以降は、その「小さな戦争」はますますエスカレートしていて、どの時点でのどの紛争でも戦争への発火点と成り得た様相があったからである。
しかも南朝鮮の地域では、各地で遊撃戦が激しく戦われていたから、その南のパルチザンたちと、北の人民軍兵士たちとは、「朝鮮統一」戦線では一つに繋がっていたとも言えた実体があったからである。
朝鮮戦争が内戦であったとされる所以である。
ところが6月27日、トルーマン米大統領が朝鮮のその内政に、武力干渉することを広言し、米海空軍の参戦を発動した。
米国のこの参戦で、朝鮮戦争の意味と様相が一変した瞬間であった。
米軍が朝鮮に再侵略してきたのだ。
さらにトルーマンは6月30日、米陸軍の出動をも命令して、全面的に参戦した。
米軍第24師団の先遣隊は7月5日、烏州(オサン)付近で撃滅されていた。
7月7日には、マッカーサーを司令官とする「国連軍」の編成を命じている。
一方、T34型戦車(ソ連制)部隊を先頭に立てた朝鮮人民軍の勢いは、28日にソウルを解放し、8月31日には洛東江を突破している。
この時点で南朝鮮全域の90%、全人口の92%を解放していた。
李承晩は、臨時首都を大田(7月20日解放)からさらに急いで釜山に移した。
南の解放した地域の9道、108郡、1186面、1万3654里で、各級主権機関の選挙を7月25日から9月13日までの間に行っている。
こうして南でも、地方の主権機関が成立する直前だったのだ。
2 9月15日、米軍を主体とする「国連軍」が仁川上陸作戦を強行した。(8月23日に上陸作戦実施の命令が下りていた)
この仁川上陸作戦で米軍は、第8軍団(朝鮮戦線派遣軍で、その司令官が米軍団を指揮していた)を増強して、第1、第9軍団の2個軍団(イギリスと南朝鮮の軍隊で補強)、韓国軍の第1、第2軍団をその管下においた。
さらに米軍海兵第1師団と第7歩兵師団、韓国軍第17連隊と海兵大隊で第10軍団を編成した。
それを「国連軍」と称した。
この時、5万余の兵力と300余隻の艦船、1000余機の飛行機でもって、大規模な仁川上陸作戦を強行すると直ちに、洛東江界線への総攻撃戦を仕掛けた。
この仁川上陸作戦の9月15日からが、第2段階となる。(~10月24日まで)
人民軍は、圧倒的に優勢な敵との抗戦となり、一部の部隊は遊撃戦を展開して抵抗した。
仁川の関門となる月尾島の防御を担当していた人民軍部隊は、決死的な戦いを展開して、敵の上陸を遅延させた。
仁川一ソウル地区を防御していた各部隊は、敵の侵攻を14日間も食い止めた。
洛東江界線では10日余も阻止した。
しかし優勢な敵軍を前にして、人民軍は戦略的後退を始めざるを得なくなった。
包囲された人民軍主力部隊を救い出しながら、引き続き予備部隊を整え、敵を牽制しつつ後退していった。
人民軍の抵抗が激しく、仁川を上陸した敵軍は、朝鮮人民軍主力部隊を「包囲殲滅するという作戦は、初戦で失敗している。
それでも「国連軍」各部隊は9月末から10月初めに、38度線一帯にたどり着いている。38度練の北側は、共和国の領土であった。
米軍をはじめ、「国連軍」に編成された外国軍隊は、それ以上の地域を侵攻した場合、「侵略軍」となる。
さすがの米国も以前の国連安保理決議だけでは、38度線以北への進撃を「合法化」できないと理解して10月9日、国連総会を開催させた。
そこで、「国連軍」の38度線以北侵攻を「合法化」させる新たな決議を用意した。
併せて、「国連朝鮮復興委員会」の設置を決議させ、米国がさも、朝鮮半島の統一に責任をもって行動しているかのポーズを、世界に信じ込ませようとした。
だが実際は、戦線東部では10月1日に韓国軍が、戦線西部では10月7日に米軍が、それぞれ38度線を越えて越境していたから、米軍部隊は侵略軍であった。
これに対して金日成は10月11日、『祖国の寸土を血潮をもって死守しよう』との放送演説をおこなった。
「今日、われわれのもっとも重要な課題は、祖国の寸土をも血潮をもって死守し、敵に新たな決定的打撃を加えるためすべての力をととのえることであります」
そして、やむを得ず後退する場合は、いっさいの物資や運輸手段を移して一台の機関車や車両、一粒の米も敵に渡さぬようにし、敵の占領地域では遊撃戦を積極的にくりひろげて敵の指揮部を襲撃し、敵の軍需品倉庫や軍需物資を焼き払うようにと、強調した。
こうして戦争第二段階の戦略的方針を遂行するための闘争課題を明示した。
元山地域の防御戦(10月5日~14日)では、人民軍部隊が頑強な抵抗で、敵の進撃スピードを遅らせた。
3 中国人民志願軍(義勇軍)が参戦した10月25日以降を、第3段階としている(~51年6月10日まで)。
中国軍の参戦は、先遣部隊が19日に鴨緑江を渡り、朝鮮戦線にすでに参加をしていた。
基本部隊が25日前後から続々と参戦した。
中国軍の援軍を受けて力を得た戦線西部の朝鮮人民軍が、敵軍を清川以南に駆逐したことによって、戦線は第3段階へと移行していく。
マッカーサーは「すべての戦力を総動員し全速力で前進」を命じ、クリスマス以前に全朝鮮を占領しようと11月24日、全戦線にわたって一斉に北進の開始を命じた。(クリスマス攻勢)
マッカーサーは米第8軍司令部の戦況報告を聞いて、「国連軍の大包囲作戦は今や決定的な段階に入っている」、「わたしはクリスマスまでに家に帰してやると言った兵士たちとの約束を守るつもりだ」と豪語した。
マッカーサーの24日声明を西側のマスコミは、「戦争終結のための攻勢」「クリスマス攻勢」「勝利の宣言」だと判断し、評価した報道をしていた。
マッカーサー声明の翌25日、朝中人民軍連合部隊は、総反撃に打って出た。
戦線西部では、清川江付近で敵を包囲磯減し、南へと進撃している。
「国連軍」は12月1日から、戦線西部での総退却を開始している。
戦線東部では11月27日、長津湖畔で米第10軍団の包囲殲滅戦を展開し、「国連軍」の基本部隊を撃退した。
豊山、清津方面から「国連軍」は総崩れとなり、退却していった。
こうした思わぬ事態にトルーマンは11月30日、朝鮮戦線での原爆使用を考慮中だとの声明を発表して、脅しをかけた。(12月からは、化学・細菌兵器を使用している)
米国はさらに12月14日、国連第5回総会で「朝鮮停戦3人委員会」(インド、カナダ、イランの代表で構成)を結成させ、「無条件即時停戦」(この時点での米軍部隊は、38度線付近にいた)案をカモフラージュした。
16日には、米国内に「国家緊急事態」の宣言を出した。
こうした米国の時間かせぎ、核恐喝、「緊急事態宣言」「停戦劇」などによる作戦は通用せず、米軍の敗退は続いていた。
朝中人民連合軍は、12月6日に平壌を解放し、24日までには38度線以北の西部および中部地域の敵を駆逐し、戦線東部の敵は12月末、興南港から脱出した。(12月の国連軍の総退却)
人民軍連合部隊は「国連軍」を引き続き追撃し、51年1月初めには37度線まで進撃していた。同年1月4日、ソウルを再び解放している。
4 第4段階は51年6月11日頃からで、それは停戦協定が締結される53年7月まで続く。
この時期の戦線は基本的に38度線付近で膠着し、双方が陣地戦に移行していた。
また、休戦会談と戦闘が繰り返され、双方とも有利な戦闘ポイントでの線引きのために戦闘をし、会談の結論を有利に導こうとしていた側面があった。
金日成は戦争第4段階の戦略的方針で、陣地の坑道化を指示した。
陣地の坑道化は、敵の陸上および上空からの監視レーダーによる探知を妨げ、技術的に優勢な敵のあらゆる攻撃から兵員、兵器を守り、反撃と奇襲戦を準備し遂行するうえですぐれた戦法であった。
38度線付近の最前線と東西両海岸に坑道を軸とする堅固な坑道陣地を構築し、防御体制を確立していった。
第3代「国連軍」司令官クラークは、「共産軍の前線陣地は、一部の地区では後方25マイルに及ぶ地下のとりでとなっている。それは朝鮮の西海岸から東海岸につながり、構造がきわめて堅固で、そのほとんどは爆撃や砲撃にも耐えられるようになっている」(クラーク「韓国戦争史」から)と、悲鳴をあげている。
坑道陣地には、曲射砲や直射砲などの砲兵火力が増強された。
ソ連のマリク国連代表が51年6月23日、休戦会談を提唱した。
同月30日、米軍が人民軍側に休戦会談を申し入れて、休戦会談が7月10日から開城で始まった。
米国が会談の席に座った目的は、武力で達成できなかった侵略野望を会談で実現することと、朝鮮侵略を糾弾する国際世論の風を和らげることと、兵力を増強して次の新たな攻撃を準備するための時間を稼ぐこと、などであった。
米国にとっての休戦会談場は、もう一つの戦場であったのだ。
会談のテーマは、軍事境界線を確定することであったが、双方の距離はなかなか埋まらなかった。
そのため米国は、会談を一方的に打ち切ってしまった。
「国連軍」は8月18日に、戦線東部と西部での「夏季および秋季攻勢」作戦の準備ができたからである。
山岳地帯の多い朝鮮の金剛山山麓一帯での戦闘は、高地の争奪戦となった。
1211高地は戦線東部の中央部にあり、どちらの側も戦略上の重要なポイントであった。
もし「国連軍」側がこの高地を占領すれば、元山周辺まで一気に押上げ、全般的戦局を大きく左右することになる。
米第8軍司令部もこの1211高地が、「夏季および秋季攻勢」作戦での重要な攻撃対象であることを理解していた。
従って、戦いは双方とも激烈となった。
米軍は一日平均3万~4万発もの砲爆撃を加えたため、高地一帯の岩は砕け、樹齢数百年の大木までが根こそぎ吹き飛ばされ、山の頂きは平均1メートルも低くなる始末であった。
高地の攻防戦は2カ月にも及んで、人民軍が勝利の赤旗を掲げた。(10月31日)
米国発表によっても、1211高地の攻撃に「2カ月の日時を費やし、6000名(実際は1万5800余名)の兵員を失い、250トンの爆撃と69万7000余発の砲弾と、天文学的数字に達する軍需品を消耗」(米陸戦史刊行普及会編『陸戦史集』第9巻)したことと、素直に敗北を認めている。
朝鮮側はこれを「英雄高地」としているが、米軍は「傷心嶺」と呼んでいるのも対称的である。
1211高地戦が象徴するように、米軍が仕掛けた「夏季および秋季攻勢」作戦は、彼らの惨敗で終わってしまった。
その結果、一方的に打ち切っていた休戦会談の再開を、申し入れてきた。
再開休戦会談は10月25日から、板門店で始まった。
会談のテーマは、軍事境界線問題と捕虜送還問題であった。
米軍は、捕虜の「自由送還」を主張して、会談の決裂を目論んでいた。
戦闘が38度線一帯で一進一退を繰り返していたからである。
52年11月の大統領選挙で当選していたドワイト・アイゼンハワーが、就任前の12月2日に訪韓し、直ぐにソウルの米第8軍司令部に入った。
直ちに同行のウィルソン次期国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長、アーサー・ラドフォード太平洋艦隊司令長官と、クラーク国連軍司令官、バンフリート軍司令官、ライアン米軍事顧問団長、白善華(ペク・ソニョップ)韓国陸軍参謀総長らの会談をもった。
朝鮮戦線の情勢分析と戦後体制についての討論であった。
アイゼンハワーは「交渉よりも行動が第一」だとして、「新攻勢」(アイゼンハワー攻勢)への準備を指示した。
新攻勢の基本目標は、53年の初めに東西両海岸への大規模上陸作戦をおこない、北緯40度線沿いに新たな戦線を形成して、朝中人民軍側の前線と後方を分断し、人民軍主力部隊を包囲殲滅し、全朝鮮を占領することであった。
さらに必要な場合には戦術的核兵器を使用してでも、戦争を中国大陸にまで拡大するプランを提示していた。そのプランには、「中国国民党軍の師団を戦闘に引き入れる」こと、「中国東北地方と中国中心部への爆撃と中国封鎖」問題、「原爆を使用する」問題などが含まれていた。(53年2月10日の米上院外交委員会でのブラッドレーの秘密証言)
ブラッドレー証言は、朝鮮参戦を検討していた時の毛沢東が心配していた内容、米国の中国侵攻作戦が全て含まれていた。
米軍は53年1月から、海兵隊と空挺隊を中心とした「新攻勢」を実施した。
砲撃は53年1月には毎日平均2万4000余発、2月は3万3000余発、3月は4万4000余発と撃ち込んできた。
飛行機の出撃は1~4月には延べ7万2000余機。53年1~3月の攻撃回数は48
回、襲撃143回であった。(朝鮮民主主義人民共和国人民武力省戦争経験研究室資料)
それほどの「新攻勢」を粉砕したのは、朝中連合人民軍による1月25日の鉄原西方の無名高地攻撃であった。
米軍は一つの小さな稜線を占領するために、16個野砲大隊(280門)の援護射撃(一日約30万発)、数百回の飛行機出撃による支援のもとに、4個大隊(約4000名)の兵力で攻撃を開始した。
「しかし、14日間続いた戦闘で8000名の損失を出した」(クラークの『韓国戦争秘史』)。
そして丘陵地帯は一度も奪取できず、作戦は失敗したと理解した米軍は、「新攻勢」の中止を決定した。
勝手に無期休会を宣言していた休戦交渉の場に4月26日、顔を出すようになった。
米国は休戦交渉の席に座ったとはいえ、会議では駆け引き戦術に終始し、一方で共和国後方地域の発電所、貯水池への爆撃を継続していた。
金日成は、米国の帝国主義的性向が少しも変わらないことをみて、全前線にわたる強力な打撃を加える作戦を人民軍各部隊に命じた。
53年5月中旬から7月下旬までの間、3回にわたる打撃戦をくりひろげ、敵軍に甚大な損害を与えた。
この打撃戦での惨敗で米軍の各部隊は、再び戦う気力を喪失させ、これ以上戦争を続けても勝ち目がないことを、前線の各兵士たちが認識したのではなかろうか。
5月からの人民軍の打撃戦が、米軍(国連軍)を戦線から葬ったことになる。
3年1カ月間の朝鮮戦争の戦線の推移を考えるとき、およそ4段階に分けられるだろう。
朝鮮戦争はそもそも、南北の民族紛争。内戦であったものが、米軍、次いで「国連軍」(15カ国の軍隊)、中国人民志願軍(義勇軍)などの参戦があり、戦争の意味も途中から違ってきた。
従って戦線は、朝鮮半島を二度もローリングし移動して、元の38度線上での膠着状態の末、停戦協定が成立して、一応の戦火が止むことになった。
戦闘が中断したとはいえ、朝鮮戦争そのものは「終戦」となったのではなく、現在もまだ米朝間の「冷戦」状況は続いているという、長くて特異な戦争である。
その3年1カ月間の熱戦時の、戦線が推移していく様を簡単にみていこう。
1 一般に戦争勃発を50年6月25日未明としているが、研究者たちの間では、それを疑問としている。
何故なら、38度線一帯においては49年頃からほとんど毎日、戦線西部、中部、東部のどの地域とも、南北双方の部隊が越境しての紛争(小さな戦争)が続いていたからである。
50年に入って以降は、その「小さな戦争」はますますエスカレートしていて、どの時点でのどの紛争でも戦争への発火点と成り得た様相があったからである。
しかも南朝鮮の地域では、各地で遊撃戦が激しく戦われていたから、その南のパルチザンたちと、北の人民軍兵士たちとは、「朝鮮統一」戦線では一つに繋がっていたとも言えた実体があったからである。
朝鮮戦争が内戦であったとされる所以である。
ところが6月27日、トルーマン米大統領が朝鮮のその内政に、武力干渉することを広言し、米海空軍の参戦を発動した。
米国のこの参戦で、朝鮮戦争の意味と様相が一変した瞬間であった。
米軍が朝鮮に再侵略してきたのだ。
さらにトルーマンは6月30日、米陸軍の出動をも命令して、全面的に参戦した。
米軍第24師団の先遣隊は7月5日、烏州(オサン)付近で撃滅されていた。
7月7日には、マッカーサーを司令官とする「国連軍」の編成を命じている。
一方、T34型戦車(ソ連制)部隊を先頭に立てた朝鮮人民軍の勢いは、28日にソウルを解放し、8月31日には洛東江を突破している。
この時点で南朝鮮全域の90%、全人口の92%を解放していた。
李承晩は、臨時首都を大田(7月20日解放)からさらに急いで釜山に移した。
南の解放した地域の9道、108郡、1186面、1万3654里で、各級主権機関の選挙を7月25日から9月13日までの間に行っている。
こうして南でも、地方の主権機関が成立する直前だったのだ。
2 9月15日、米軍を主体とする「国連軍」が仁川上陸作戦を強行した。(8月23日に上陸作戦実施の命令が下りていた)
この仁川上陸作戦で米軍は、第8軍団(朝鮮戦線派遣軍で、その司令官が米軍団を指揮していた)を増強して、第1、第9軍団の2個軍団(イギリスと南朝鮮の軍隊で補強)、韓国軍の第1、第2軍団をその管下においた。
さらに米軍海兵第1師団と第7歩兵師団、韓国軍第17連隊と海兵大隊で第10軍団を編成した。
それを「国連軍」と称した。
この時、5万余の兵力と300余隻の艦船、1000余機の飛行機でもって、大規模な仁川上陸作戦を強行すると直ちに、洛東江界線への総攻撃戦を仕掛けた。
この仁川上陸作戦の9月15日からが、第2段階となる。(~10月24日まで)
人民軍は、圧倒的に優勢な敵との抗戦となり、一部の部隊は遊撃戦を展開して抵抗した。
仁川の関門となる月尾島の防御を担当していた人民軍部隊は、決死的な戦いを展開して、敵の上陸を遅延させた。
仁川一ソウル地区を防御していた各部隊は、敵の侵攻を14日間も食い止めた。
洛東江界線では10日余も阻止した。
しかし優勢な敵軍を前にして、人民軍は戦略的後退を始めざるを得なくなった。
包囲された人民軍主力部隊を救い出しながら、引き続き予備部隊を整え、敵を牽制しつつ後退していった。
人民軍の抵抗が激しく、仁川を上陸した敵軍は、朝鮮人民軍主力部隊を「包囲殲滅するという作戦は、初戦で失敗している。
それでも「国連軍」各部隊は9月末から10月初めに、38度線一帯にたどり着いている。38度練の北側は、共和国の領土であった。
米軍をはじめ、「国連軍」に編成された外国軍隊は、それ以上の地域を侵攻した場合、「侵略軍」となる。
さすがの米国も以前の国連安保理決議だけでは、38度線以北への進撃を「合法化」できないと理解して10月9日、国連総会を開催させた。
そこで、「国連軍」の38度線以北侵攻を「合法化」させる新たな決議を用意した。
併せて、「国連朝鮮復興委員会」の設置を決議させ、米国がさも、朝鮮半島の統一に責任をもって行動しているかのポーズを、世界に信じ込ませようとした。
だが実際は、戦線東部では10月1日に韓国軍が、戦線西部では10月7日に米軍が、それぞれ38度線を越えて越境していたから、米軍部隊は侵略軍であった。
これに対して金日成は10月11日、『祖国の寸土を血潮をもって死守しよう』との放送演説をおこなった。
「今日、われわれのもっとも重要な課題は、祖国の寸土をも血潮をもって死守し、敵に新たな決定的打撃を加えるためすべての力をととのえることであります」
そして、やむを得ず後退する場合は、いっさいの物資や運輸手段を移して一台の機関車や車両、一粒の米も敵に渡さぬようにし、敵の占領地域では遊撃戦を積極的にくりひろげて敵の指揮部を襲撃し、敵の軍需品倉庫や軍需物資を焼き払うようにと、強調した。
こうして戦争第二段階の戦略的方針を遂行するための闘争課題を明示した。
元山地域の防御戦(10月5日~14日)では、人民軍部隊が頑強な抵抗で、敵の進撃スピードを遅らせた。
3 中国人民志願軍(義勇軍)が参戦した10月25日以降を、第3段階としている(~51年6月10日まで)。
中国軍の参戦は、先遣部隊が19日に鴨緑江を渡り、朝鮮戦線にすでに参加をしていた。
基本部隊が25日前後から続々と参戦した。
中国軍の援軍を受けて力を得た戦線西部の朝鮮人民軍が、敵軍を清川以南に駆逐したことによって、戦線は第3段階へと移行していく。
マッカーサーは「すべての戦力を総動員し全速力で前進」を命じ、クリスマス以前に全朝鮮を占領しようと11月24日、全戦線にわたって一斉に北進の開始を命じた。(クリスマス攻勢)
マッカーサーは米第8軍司令部の戦況報告を聞いて、「国連軍の大包囲作戦は今や決定的な段階に入っている」、「わたしはクリスマスまでに家に帰してやると言った兵士たちとの約束を守るつもりだ」と豪語した。
マッカーサーの24日声明を西側のマスコミは、「戦争終結のための攻勢」「クリスマス攻勢」「勝利の宣言」だと判断し、評価した報道をしていた。
マッカーサー声明の翌25日、朝中人民軍連合部隊は、総反撃に打って出た。
戦線西部では、清川江付近で敵を包囲磯減し、南へと進撃している。
「国連軍」は12月1日から、戦線西部での総退却を開始している。
戦線東部では11月27日、長津湖畔で米第10軍団の包囲殲滅戦を展開し、「国連軍」の基本部隊を撃退した。
豊山、清津方面から「国連軍」は総崩れとなり、退却していった。
こうした思わぬ事態にトルーマンは11月30日、朝鮮戦線での原爆使用を考慮中だとの声明を発表して、脅しをかけた。(12月からは、化学・細菌兵器を使用している)
米国はさらに12月14日、国連第5回総会で「朝鮮停戦3人委員会」(インド、カナダ、イランの代表で構成)を結成させ、「無条件即時停戦」(この時点での米軍部隊は、38度線付近にいた)案をカモフラージュした。
16日には、米国内に「国家緊急事態」の宣言を出した。
こうした米国の時間かせぎ、核恐喝、「緊急事態宣言」「停戦劇」などによる作戦は通用せず、米軍の敗退は続いていた。
朝中人民連合軍は、12月6日に平壌を解放し、24日までには38度線以北の西部および中部地域の敵を駆逐し、戦線東部の敵は12月末、興南港から脱出した。(12月の国連軍の総退却)
人民軍連合部隊は「国連軍」を引き続き追撃し、51年1月初めには37度線まで進撃していた。同年1月4日、ソウルを再び解放している。
4 第4段階は51年6月11日頃からで、それは停戦協定が締結される53年7月まで続く。
この時期の戦線は基本的に38度線付近で膠着し、双方が陣地戦に移行していた。
また、休戦会談と戦闘が繰り返され、双方とも有利な戦闘ポイントでの線引きのために戦闘をし、会談の結論を有利に導こうとしていた側面があった。
金日成は戦争第4段階の戦略的方針で、陣地の坑道化を指示した。
陣地の坑道化は、敵の陸上および上空からの監視レーダーによる探知を妨げ、技術的に優勢な敵のあらゆる攻撃から兵員、兵器を守り、反撃と奇襲戦を準備し遂行するうえですぐれた戦法であった。
38度線付近の最前線と東西両海岸に坑道を軸とする堅固な坑道陣地を構築し、防御体制を確立していった。
第3代「国連軍」司令官クラークは、「共産軍の前線陣地は、一部の地区では後方25マイルに及ぶ地下のとりでとなっている。それは朝鮮の西海岸から東海岸につながり、構造がきわめて堅固で、そのほとんどは爆撃や砲撃にも耐えられるようになっている」(クラーク「韓国戦争史」から)と、悲鳴をあげている。
坑道陣地には、曲射砲や直射砲などの砲兵火力が増強された。
ソ連のマリク国連代表が51年6月23日、休戦会談を提唱した。
同月30日、米軍が人民軍側に休戦会談を申し入れて、休戦会談が7月10日から開城で始まった。
米国が会談の席に座った目的は、武力で達成できなかった侵略野望を会談で実現することと、朝鮮侵略を糾弾する国際世論の風を和らげることと、兵力を増強して次の新たな攻撃を準備するための時間を稼ぐこと、などであった。
米国にとっての休戦会談場は、もう一つの戦場であったのだ。
会談のテーマは、軍事境界線を確定することであったが、双方の距離はなかなか埋まらなかった。
そのため米国は、会談を一方的に打ち切ってしまった。
「国連軍」は8月18日に、戦線東部と西部での「夏季および秋季攻勢」作戦の準備ができたからである。
山岳地帯の多い朝鮮の金剛山山麓一帯での戦闘は、高地の争奪戦となった。
1211高地は戦線東部の中央部にあり、どちらの側も戦略上の重要なポイントであった。
もし「国連軍」側がこの高地を占領すれば、元山周辺まで一気に押上げ、全般的戦局を大きく左右することになる。
米第8軍司令部もこの1211高地が、「夏季および秋季攻勢」作戦での重要な攻撃対象であることを理解していた。
従って、戦いは双方とも激烈となった。
米軍は一日平均3万~4万発もの砲爆撃を加えたため、高地一帯の岩は砕け、樹齢数百年の大木までが根こそぎ吹き飛ばされ、山の頂きは平均1メートルも低くなる始末であった。
高地の攻防戦は2カ月にも及んで、人民軍が勝利の赤旗を掲げた。(10月31日)
米国発表によっても、1211高地の攻撃に「2カ月の日時を費やし、6000名(実際は1万5800余名)の兵員を失い、250トンの爆撃と69万7000余発の砲弾と、天文学的数字に達する軍需品を消耗」(米陸戦史刊行普及会編『陸戦史集』第9巻)したことと、素直に敗北を認めている。
朝鮮側はこれを「英雄高地」としているが、米軍は「傷心嶺」と呼んでいるのも対称的である。
1211高地戦が象徴するように、米軍が仕掛けた「夏季および秋季攻勢」作戦は、彼らの惨敗で終わってしまった。
その結果、一方的に打ち切っていた休戦会談の再開を、申し入れてきた。
再開休戦会談は10月25日から、板門店で始まった。
会談のテーマは、軍事境界線問題と捕虜送還問題であった。
米軍は、捕虜の「自由送還」を主張して、会談の決裂を目論んでいた。
戦闘が38度線一帯で一進一退を繰り返していたからである。
52年11月の大統領選挙で当選していたドワイト・アイゼンハワーが、就任前の12月2日に訪韓し、直ぐにソウルの米第8軍司令部に入った。
直ちに同行のウィルソン次期国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長、アーサー・ラドフォード太平洋艦隊司令長官と、クラーク国連軍司令官、バンフリート軍司令官、ライアン米軍事顧問団長、白善華(ペク・ソニョップ)韓国陸軍参謀総長らの会談をもった。
朝鮮戦線の情勢分析と戦後体制についての討論であった。
アイゼンハワーは「交渉よりも行動が第一」だとして、「新攻勢」(アイゼンハワー攻勢)への準備を指示した。
新攻勢の基本目標は、53年の初めに東西両海岸への大規模上陸作戦をおこない、北緯40度線沿いに新たな戦線を形成して、朝中人民軍側の前線と後方を分断し、人民軍主力部隊を包囲殲滅し、全朝鮮を占領することであった。
さらに必要な場合には戦術的核兵器を使用してでも、戦争を中国大陸にまで拡大するプランを提示していた。そのプランには、「中国国民党軍の師団を戦闘に引き入れる」こと、「中国東北地方と中国中心部への爆撃と中国封鎖」問題、「原爆を使用する」問題などが含まれていた。(53年2月10日の米上院外交委員会でのブラッドレーの秘密証言)
ブラッドレー証言は、朝鮮参戦を検討していた時の毛沢東が心配していた内容、米国の中国侵攻作戦が全て含まれていた。
米軍は53年1月から、海兵隊と空挺隊を中心とした「新攻勢」を実施した。
砲撃は53年1月には毎日平均2万4000余発、2月は3万3000余発、3月は4万4000余発と撃ち込んできた。
飛行機の出撃は1~4月には延べ7万2000余機。53年1~3月の攻撃回数は48
回、襲撃143回であった。(朝鮮民主主義人民共和国人民武力省戦争経験研究室資料)
それほどの「新攻勢」を粉砕したのは、朝中連合人民軍による1月25日の鉄原西方の無名高地攻撃であった。
米軍は一つの小さな稜線を占領するために、16個野砲大隊(280門)の援護射撃(一日約30万発)、数百回の飛行機出撃による支援のもとに、4個大隊(約4000名)の兵力で攻撃を開始した。
「しかし、14日間続いた戦闘で8000名の損失を出した」(クラークの『韓国戦争秘史』)。
そして丘陵地帯は一度も奪取できず、作戦は失敗したと理解した米軍は、「新攻勢」の中止を決定した。
勝手に無期休会を宣言していた休戦交渉の場に4月26日、顔を出すようになった。
米国は休戦交渉の席に座ったとはいえ、会議では駆け引き戦術に終始し、一方で共和国後方地域の発電所、貯水池への爆撃を継続していた。
金日成は、米国の帝国主義的性向が少しも変わらないことをみて、全前線にわたる強力な打撃を加える作戦を人民軍各部隊に命じた。
53年5月中旬から7月下旬までの間、3回にわたる打撃戦をくりひろげ、敵軍に甚大な損害を与えた。
この打撃戦での惨敗で米軍の各部隊は、再び戦う気力を喪失させ、これ以上戦争を続けても勝ち目がないことを、前線の各兵士たちが認識したのではなかろうか。
5月からの人民軍の打撃戦が、米軍(国連軍)を戦線から葬ったことになる。