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「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」15.731部隊の後遺症

15.731部隊の後遺症

 中国と朝鮮の当局者は52年2月、ペスト、チフス、炭素病その他の病気を蔓延させる細菌爆弾を、低空飛行の米軍機が朝鮮と中国東北地方に投下しているとの、非難声明を出した。

 さらに放送(ラジオ)で、捕虜となった米軍飛行士の告白内容を元に、投下地点、犠牲者の数、バクテリアの種類、細菌弾の仕組みなどの子細を立証して公表した。

 これに対して米国とその同盟国は、共産主義者のプロパガンダで、告白した飛行士たちは「洗脳」されていると反論した。

 このため中立的立場の第三者機関が調査する必要性が求められた。

 しかし国連機関は戦争の当事者となっており、中立機関には成り得ない。

 国際赤十字については、米国は同意したものの、中国はかつて赤十字が中立諸国からの調査依頼を断っていたことを理由に、「中立的」とはいえないとして拒否した。
 
 同様の「世界保健機構」(WHO)も、中国が国連の一機関だとして受け入れなかった。

 結局、世界平和協議会の斡旋でブラジル、イギリス、フランス、イタリー、スウェーデン、ソ連らの専門家で構成する「朝鮮・中国における細菌戦に関する事実調査のための国際科学委員会」(ISC)を組織することになった。

 同調査委員会は1952年6月から8月にかけて、朝鮮と中国を調査した。

 ISCの結論報告は、以下のようであった。

 「実際において朝鮮と中国の人びとは細菌兵器の標的にされていた。細菌兵器を使用したのは米軍部隊であるが、彼らは細菌戦のために実に様々な方法を動員しており、その中のいくつかは第2次世界大戦中日本軍が実施したものに改良を加えたもののようである」

 また、細菌戦の遂行において捕虜となり、証言をしたもっとも位の高い米軍将校は、フランク・シュワープル海兵隊大佐であった。

 彼は、北朝鮮上空を偵察飛行中に撃墜された。

 「平壌の南側、つまり朝鮮半島のくびれた部分を横断する形で汚染地帯をつくり出すことが目的であった。それは『絞殺作戦』で、空軍力を使って戦闘の最前線に人員や物資を送るすべての動きを止めさせるために計画された作戦計画のコード・ネームであるが、しかしこの作戦は成功しなかった」と、作戦の目的を告白している。

 このISCの報告からは、中国のハルビン近郊にあった関東軍防疫給水部隊、つまり悪名高い石井四郎部隊の「731部隊」が実施した細菌戦に行き着いてしまう。

 関東軍が1931年に防疫給水部隊を設立して以来、その部隊はペスト、発疹チフス、赤痢、壊疽、出血性熱病、腸チフス、コレラ、炭疽菌、ポツリヌス中毒、プルセラ病などを発病させる病原体を研究、開発し、伝染散布するなどして中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人、米英捕虜たちに対して実験を行っていた。

 モルモットにされた人々は4000人とも6000人とも言われ、実体は不明である。

 45年8月、ソ連軍が進軍してくる直前、実験予定の生き残った人々を全て、毒ガスや銃殺で殺害した後、日本へと逃げ帰っている。

 その石井四郎は膨大な量のバクテリアと研究資材と資料と共に、いち早くハルピンから脱出して東京に潜んでいた。

 そうした研究データもろとも石井四郎を必要としていたのは、米軍でありソ連であった。

 米国も41年頃から細菌戦に関する研究を開始していたが、細菌弾の実用化までには達していなかった。

 それで早くから731部隊の石井四郎に目を付けていた。

 本来ならA級戦犯として裁かれるはずの石井四郎の生命と、彼の実験データとを取引した米国は、45年から52年にかけて、細菌戦のレベルを上げている。

 石井四郎たちが、密かに東京で米軍の要望に応えていたからである。

 石井四郎が51年に2,3度、朝鮮の前線に立っている姿を新聞記者たちが目撃している。

 米軍は当時、中国軍の参戦によって苦戦を強いられていた。

 すでに戦線を逆転できる状況にはないため、51年後半からの開城、板門店での停戦会談と戦闘の継続を繰り返していた。

 米軍捕虜のシュワーブルが証言した「絞殺作戦」は、停戦会談を有利に進めるための、後方の人民たちに被害を与え、厭戦社会を作り出すという狡猾な作戦であった。

 ISCの報告は朝鮮戦争での細菌戦は、40年から45年の間に日本軍が行った実験の継続であるように思われる、との結論を出していた。

 にも関わらずISCはこの問題について、それ以上には踏み込むことが出来なかったようである。

 だから米国も日本も、このような作戦はなかったのだと、堂々と否定することが出来たのだ。

 ISC側の事情は、朝鮮や中国での細菌被害が白日にさらされてしまうと、日本軍が行った巨悪で非人道的な内容を、十分な調査もせず糾弾もせず、逆に日本のその凶悪な兵器と手法を借用した米国自身の日本占領政策が問われていくことに怠ってしまうからだ。

 一方でソ連は、一部の731部隊幹部たちを、ハバロフスクの戦争犯罪の裁判にかけていた。

 そこからの証言内容を50年(朝鮮戦争の直前)に、英語の単行本として出版していた。

 米国は、これはソ連側の宣伝キャンペーンであるとして、強く否定した。

 このためISCが、米軍による細菌戦であったことを強調すればするほど、米国側が言うソ連のハバロフスク戦犯裁判のプロパガンダ性と、ソ連側による裁判報告だけをアピールしてしまう結果になっていると、西側勢力は批判していたのだ。

 そのためISC側が米国を告発する一歩手前で、妥協したことになる。

 だが私は90年代後半に、子供の頃に細菌戦の被害に合って、その後遺症に今も苦しんでいる数人の朝鮮人たちにインタビューして、当時の状況を聞いている。

 結論から言えば、米国は旧日本軍の細菌兵器と細菌戦の実績を引継ぎ、それを朝鮮戦争の後半期(戦線が膠着状態になっていたのを挽回する目的で)に朝鮮と中国東北地方に、細菌弾と毒ガス弾を使用したのは事実であったと言える。

 しかも朝鮮北部や中国東北地方の山岳地帯の地理を、旧日本軍将校たちからレクチャーを受け、実際に一部の旧将校たちが米軍とともに前線に出て、実地案内をしていたことも単なる風聞だけではなかろう。

 米国が、細菌作戦を共産主義者たちのデマゴーグだと言い張るのは、細菌弾製造の実験から投下まで、731部隊の幹部たちを活用してきたことを、記録や記憶、歴史上からも抹殺しておく必要性があったからである。

 だが、米軍の飛行機が低空飛行から細菌爆弾を投下している事実を目撃している人々がおり、捕虜となった米軍パイロットたちの証言もあり、何よりもその細菌戦の被害で苦しんできた朝鮮、中国の人たちが存在している事実を、米国は歴史から抹消してしまうことばできないだろう。

 米軍が朝鮮戦争で行った細菌戦は、後のベトナム戦での先駆けとなった。(同時期、米国は神経毒ガスのサリン兵器の開発も行っていた)

 また復帰前の沖縄では、名護市の辺野古弾薬庫などに、核兵器及び毒ガス弾が大量に貯蔵されていて、その一部が漏洩していた事故が隠されている。

 この辺野古の毒ガス弾は、瀬戸内海の大久野島にあった旧日本軍のものが持ち込まれ、辺野古から朝鮮と中国東北地方に投下された。

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愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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