「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」13.ソ連の参戦はあったのか
13.ソ連の参戦はあったのか
朝鮮戦争を論じるとき、必ず出てくる問題は、ソ連・スターリンが当初から戦争を承諾しており、ソ連軍の参戦もあったというものである。
これは主として米国側が、幾重にもわたる宣伝戦によって築き上げたプロパガンダで、北を「侵略軍」とのレッテルを貼り、米軍の参戦への道を開くための虚報であった。
ソ連が朝鮮と中国を説得して戦争を始めたとするシナリオで、一番得をするのは米国である。
米国は朝鮮戦争勃発時から国連に、「北侵略軍」との偽報告を上げて、米軍が堂々と朝鮮で戦える「作文」を用意していた。
最もよく出来た作文の一つに、72年にタイム・ライフ・ブックスから刊行した『フルシチョフ回顧録』がある。
回顧録は、72年にニューヨーク・タイムズに掲載されたもので、原稿の入手経路も不明で、原稿内容の改稿も伺わせる代物である。
問題になっている部分は、朝鮮戦争勃発前後の部分である。
49年末にモスクワを訪れた金日成は、スターリンに対して、大挙して南に進攻すれば南の人民たちも蜂起し、内乱を通じて南半分も共産主義の支配下に入り、武力解放は成算があることを強調していたとしている。
49年末といえば、フルシチョフがモスクワ第一書記に就任した頃であったから、会話の内容は間接的に聞いて知っていたとしている。
同時期、毛沢東もモスクワに来ていて、「米国の介入はないだろう」と助言し、金日成の武力解放計画に同意するよう話したという。
回顧録は、朝鮮戦争の開戦は「金日成首相が自ら計画し、スターリンの南進OKのサインによって、火蓋が切られた」としている。
この部分が、ソ連参戦の証言になっていくとして、西側では盛んに用いられている。
まだ、ソ連共産党中央の中枢幹部ではなかったフルシチョフが、当時のスターリンでさえ隠しておきたい情報を、どのようにして知り得たのかが不可思議なところである。
金日成一行が49年12月、極秘にモスクワを訪問していたのは事実である。
同時期、中国の毛沢東と周恩来らもモスクワにいた。毛沢東たちは翌年2月末まで滞在し、スターリンらソ連幹部らと、建国間もない中国の国家建設問題などを協議していた。(12月には「中ソ同盟条約」を締結している)
この時、金日成ら社会主義国と各国革命党の幹部たちが、モスクワを訪れ滞在していた第一の目的は、スターリンの誕生日を祝賀するためであった。
12月生まれのスターリンを祝賀するため、各国の党幹部たちが年末にモスクワを訪れ、スターリンに会っている。
だから金日成もスターリンと会い、短時間ではあったが会談をしていたと思われるが、朝鮮での戦争問題という重要な協議を行うほどの時間はなかったであろう。
50年1月、金日成は金光侠副首相らを中国に派遣している。
中国解放軍第4野戦軍内にいる1万4千人の、朝鮮人兵士の帰国交渉であった。
毛沢東と周恩来らはまだモスクワにいたが、中国人民革命軍事委員会が許可(1月23日)をした。
その後、数回にわたり朝鮮人兵士たちは武器装備ごと、帰国していった。
同年3月、朴正愛(朝鮮労働党常務委員、のち党副委員長)が、金日成の秘密特使として訪中し、モスクワから帰国したばかりの毛沢東に、戦争準備と開戦の意向を伝えたとされている。
その時の毛沢東は米国の出方を質問しただけで、戦闘への賛否には何も答えなかったようだ。
朴正愛はその足でモスクワに行き、同じ事をスターリンに話したかも知れない。
4月には金日成が秘密裏に北京を訪れ、開戦の意図を語ったが、毛沢東は消極的な反応しか示さなかった。
北京は4月ころまでに朝鮮から直接、戦争準備についての通報を受けていたようだ。
だが中国は黙従していただけである。それは47年以降から続く内戦だと見なしていたからである。
毛沢東はこの朝鮮の内戦に、直ちに米国が朝鮮を侵略し、その矛先を中国に向けることはないだろうと判断していたからである。
また、朝鮮人民軍が朝鮮半島を制圧すれば、蒋介石に対する中国解放軍の作戦に有利となり、日本が再び大陸に向かうことを阻止することもできると考えていたから、黙従だったのである。
そのことは中国からモスクワに伝えられたであろう。
ソ連とアジア各社会主義国との関係は、東欧社会主義諸国のそれとは違って、比較的平等なものだった。
今でも西側で宣伝しているような、スターリンの命令一下、服従するといった図式ではなかった。
開戦の早い段階でスターリンが承認し、毛沢東が協力することを決定していたとする西側説の根拠の一つに、コミンフォルムの存在を言っているのではなかろうか。
コミンフォルム(共産党および労働党情報局)は、冷戦の激化に対応して47年9月、ソ連共産党とヨーロッパ8カ国の共産党との間で、情報の交換と活動の調整のため結成された機関である。
しかし結成当初の目的とは違って、単なる連絡調整機関には止まらず、国際情勢の分析などで、行動指針を出す機関になっている。
それは、米国がソ連や社会主義諸国の軍事的包囲と侵略をめざして49年7月、「北大西洋条約機構」(NATO)の結成の存在を意識していたからである。
米国は、自身の軍事的支配と加盟国の革命運動の鎮圧、共産圏に対する共同防衛を目的に設立した。
52年現在、14加盟国のうち朝鮮戦争(「国連軍」として)に参戦した国は、イギリス、カナダ、フランス、トルコ、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの7カ国である。
コミンフォルムは48年6月のユーゴスラビアの党を修正主義だと非難、50年1月には日本共産党に「米占領下でも社会主義への平和的発展の可能性がある」とする論理は誤りだと批判している。
コミンフォルムは、かつての共産党の国際組織機能をもったコミンテルン(43年5月に解散)的指導機関の役割を果たそうとしていたし、米国もNATO結成後はコミンフォルム組織への対抗意識が強くなっていった。
56年にソ連でスターリン批判があった後、その4月に解散した。
以上のようにコミンフォルムは、朝鮮や中国にはほとんど影響を与えてはいなかった。
50年4月末頃までの中国も、朝鮮側から南朝鮮でのパルチザン闘争の状況を聞き、その延長上での闘争が拡大した場合、その支援が得られるかどうかを朝鮮側から求められていたにしか過ぎないのであろう。
中ソとも、朝鮮からは開戦決定までの話は聞いていなかった、と見ていいだろう。
中国は朝鮮戦争開戦当時、平壌にはまだ大使館を設けてはおらず、そこには東北地方政府の貿易事務所があっただけであった。
開戦前までの毛沢東政権は、ある程度は開戦に関する情報を受けてはいたが、まだ朝鮮の戦争に加担、あるいは支持を与える方向にも傾いてはいなかった。
だから49年末から50年初頭までの朝ソ中、あるいは中ソ、朝中での朝鮮戦争開戦協議説は考えられない。3カ国の政権とも否定している。
「国連軍」が38度線から北上する勢いであった50年9月末の段階になって、金日成は党と軍の高官を派遣して、中国軍の出動の可能性を打診している。
10月1日にも、金日成・朴憲永の連名で、毛沢東に救援依頼をしている。
この時点でも毛沢東はまだ、中国軍の参戦への時期を探っていたのだ。
このことから、米軍の仁川上陸後にも朝中ソの間では、ソ連空軍の援護を含めた三者、または二者間の緊密な協議はなかったと思われる。
毛沢東は参戦を決定するに際して、スターリンにソ連空軍の援護出動を要請したが拒否されている。
しかし中国側からの再三の要請でスターリンは、中国東北上空の防衛と対中援助の面でやっと積極姿勢(50年10月16日頃)を示すようになった。
50年10月から12月頃になって、ソ連空軍の13個航空兵師団が中国の東北、華北中南地域に到着している。
ミグ15、ミグ19型ジェット戦闘機9個師団、ラ9型戦闘機1個師団、ミル10型攻撃機2個師団、卜2型爆撃機1個師団(以上は朱建栄著『毛沢東の朝鮮戦争』から)。
12月頃からは、ソ連軍機の飛行範囲は朝鮮領を含む鴨緑江周辺上空にまで拡大した。
朝鮮戦争に参戦したというよりは、中国東北地方の空域を防衛していたという意味合いの方が強かった。
事実、51年9月以降(中国義勇軍の第2次戦役以降)になって、ソ連空軍は朝鮮北部上空への出動に同意したものの、それは戦場が南に推移したためであった。
ソ連軍機が平壌近辺にまで飛行範囲を拡大することはあっても、中国義勇軍が支配する地域のはるか後方の上空を飛ばしているにしか過ぎず、前線の上空、海岸線の上空飛行はなかった。
スターリンは、朝鮮半島からの米ソ戦を恐れていて、それが拡大して共産主義陣営対自由主義陣営の第3次世界大戦へと発展していくことを恐れての、消極姿勢・支援に終始していたのであろう。
朝鮮戦争を論じるとき、必ず出てくる問題は、ソ連・スターリンが当初から戦争を承諾しており、ソ連軍の参戦もあったというものである。
これは主として米国側が、幾重にもわたる宣伝戦によって築き上げたプロパガンダで、北を「侵略軍」とのレッテルを貼り、米軍の参戦への道を開くための虚報であった。
ソ連が朝鮮と中国を説得して戦争を始めたとするシナリオで、一番得をするのは米国である。
米国は朝鮮戦争勃発時から国連に、「北侵略軍」との偽報告を上げて、米軍が堂々と朝鮮で戦える「作文」を用意していた。
最もよく出来た作文の一つに、72年にタイム・ライフ・ブックスから刊行した『フルシチョフ回顧録』がある。
回顧録は、72年にニューヨーク・タイムズに掲載されたもので、原稿の入手経路も不明で、原稿内容の改稿も伺わせる代物である。
問題になっている部分は、朝鮮戦争勃発前後の部分である。
49年末にモスクワを訪れた金日成は、スターリンに対して、大挙して南に進攻すれば南の人民たちも蜂起し、内乱を通じて南半分も共産主義の支配下に入り、武力解放は成算があることを強調していたとしている。
49年末といえば、フルシチョフがモスクワ第一書記に就任した頃であったから、会話の内容は間接的に聞いて知っていたとしている。
同時期、毛沢東もモスクワに来ていて、「米国の介入はないだろう」と助言し、金日成の武力解放計画に同意するよう話したという。
回顧録は、朝鮮戦争の開戦は「金日成首相が自ら計画し、スターリンの南進OKのサインによって、火蓋が切られた」としている。
この部分が、ソ連参戦の証言になっていくとして、西側では盛んに用いられている。
まだ、ソ連共産党中央の中枢幹部ではなかったフルシチョフが、当時のスターリンでさえ隠しておきたい情報を、どのようにして知り得たのかが不可思議なところである。
金日成一行が49年12月、極秘にモスクワを訪問していたのは事実である。
同時期、中国の毛沢東と周恩来らもモスクワにいた。毛沢東たちは翌年2月末まで滞在し、スターリンらソ連幹部らと、建国間もない中国の国家建設問題などを協議していた。(12月には「中ソ同盟条約」を締結している)
この時、金日成ら社会主義国と各国革命党の幹部たちが、モスクワを訪れ滞在していた第一の目的は、スターリンの誕生日を祝賀するためであった。
12月生まれのスターリンを祝賀するため、各国の党幹部たちが年末にモスクワを訪れ、スターリンに会っている。
だから金日成もスターリンと会い、短時間ではあったが会談をしていたと思われるが、朝鮮での戦争問題という重要な協議を行うほどの時間はなかったであろう。
50年1月、金日成は金光侠副首相らを中国に派遣している。
中国解放軍第4野戦軍内にいる1万4千人の、朝鮮人兵士の帰国交渉であった。
毛沢東と周恩来らはまだモスクワにいたが、中国人民革命軍事委員会が許可(1月23日)をした。
その後、数回にわたり朝鮮人兵士たちは武器装備ごと、帰国していった。
同年3月、朴正愛(朝鮮労働党常務委員、のち党副委員長)が、金日成の秘密特使として訪中し、モスクワから帰国したばかりの毛沢東に、戦争準備と開戦の意向を伝えたとされている。
その時の毛沢東は米国の出方を質問しただけで、戦闘への賛否には何も答えなかったようだ。
朴正愛はその足でモスクワに行き、同じ事をスターリンに話したかも知れない。
4月には金日成が秘密裏に北京を訪れ、開戦の意図を語ったが、毛沢東は消極的な反応しか示さなかった。
北京は4月ころまでに朝鮮から直接、戦争準備についての通報を受けていたようだ。
だが中国は黙従していただけである。それは47年以降から続く内戦だと見なしていたからである。
毛沢東はこの朝鮮の内戦に、直ちに米国が朝鮮を侵略し、その矛先を中国に向けることはないだろうと判断していたからである。
また、朝鮮人民軍が朝鮮半島を制圧すれば、蒋介石に対する中国解放軍の作戦に有利となり、日本が再び大陸に向かうことを阻止することもできると考えていたから、黙従だったのである。
そのことは中国からモスクワに伝えられたであろう。
ソ連とアジア各社会主義国との関係は、東欧社会主義諸国のそれとは違って、比較的平等なものだった。
今でも西側で宣伝しているような、スターリンの命令一下、服従するといった図式ではなかった。
開戦の早い段階でスターリンが承認し、毛沢東が協力することを決定していたとする西側説の根拠の一つに、コミンフォルムの存在を言っているのではなかろうか。
コミンフォルム(共産党および労働党情報局)は、冷戦の激化に対応して47年9月、ソ連共産党とヨーロッパ8カ国の共産党との間で、情報の交換と活動の調整のため結成された機関である。
しかし結成当初の目的とは違って、単なる連絡調整機関には止まらず、国際情勢の分析などで、行動指針を出す機関になっている。
それは、米国がソ連や社会主義諸国の軍事的包囲と侵略をめざして49年7月、「北大西洋条約機構」(NATO)の結成の存在を意識していたからである。
米国は、自身の軍事的支配と加盟国の革命運動の鎮圧、共産圏に対する共同防衛を目的に設立した。
52年現在、14加盟国のうち朝鮮戦争(「国連軍」として)に参戦した国は、イギリス、カナダ、フランス、トルコ、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの7カ国である。
コミンフォルムは48年6月のユーゴスラビアの党を修正主義だと非難、50年1月には日本共産党に「米占領下でも社会主義への平和的発展の可能性がある」とする論理は誤りだと批判している。
コミンフォルムは、かつての共産党の国際組織機能をもったコミンテルン(43年5月に解散)的指導機関の役割を果たそうとしていたし、米国もNATO結成後はコミンフォルム組織への対抗意識が強くなっていった。
56年にソ連でスターリン批判があった後、その4月に解散した。
以上のようにコミンフォルムは、朝鮮や中国にはほとんど影響を与えてはいなかった。
50年4月末頃までの中国も、朝鮮側から南朝鮮でのパルチザン闘争の状況を聞き、その延長上での闘争が拡大した場合、その支援が得られるかどうかを朝鮮側から求められていたにしか過ぎないのであろう。
中ソとも、朝鮮からは開戦決定までの話は聞いていなかった、と見ていいだろう。
中国は朝鮮戦争開戦当時、平壌にはまだ大使館を設けてはおらず、そこには東北地方政府の貿易事務所があっただけであった。
開戦前までの毛沢東政権は、ある程度は開戦に関する情報を受けてはいたが、まだ朝鮮の戦争に加担、あるいは支持を与える方向にも傾いてはいなかった。
だから49年末から50年初頭までの朝ソ中、あるいは中ソ、朝中での朝鮮戦争開戦協議説は考えられない。3カ国の政権とも否定している。
「国連軍」が38度線から北上する勢いであった50年9月末の段階になって、金日成は党と軍の高官を派遣して、中国軍の出動の可能性を打診している。
10月1日にも、金日成・朴憲永の連名で、毛沢東に救援依頼をしている。
この時点でも毛沢東はまだ、中国軍の参戦への時期を探っていたのだ。
このことから、米軍の仁川上陸後にも朝中ソの間では、ソ連空軍の援護を含めた三者、または二者間の緊密な協議はなかったと思われる。
毛沢東は参戦を決定するに際して、スターリンにソ連空軍の援護出動を要請したが拒否されている。
しかし中国側からの再三の要請でスターリンは、中国東北上空の防衛と対中援助の面でやっと積極姿勢(50年10月16日頃)を示すようになった。
50年10月から12月頃になって、ソ連空軍の13個航空兵師団が中国の東北、華北中南地域に到着している。
ミグ15、ミグ19型ジェット戦闘機9個師団、ラ9型戦闘機1個師団、ミル10型攻撃機2個師団、卜2型爆撃機1個師団(以上は朱建栄著『毛沢東の朝鮮戦争』から)。
12月頃からは、ソ連軍機の飛行範囲は朝鮮領を含む鴨緑江周辺上空にまで拡大した。
朝鮮戦争に参戦したというよりは、中国東北地方の空域を防衛していたという意味合いの方が強かった。
事実、51年9月以降(中国義勇軍の第2次戦役以降)になって、ソ連空軍は朝鮮北部上空への出動に同意したものの、それは戦場が南に推移したためであった。
ソ連軍機が平壌近辺にまで飛行範囲を拡大することはあっても、中国義勇軍が支配する地域のはるか後方の上空を飛ばしているにしか過ぎず、前線の上空、海岸線の上空飛行はなかった。
スターリンは、朝鮮半島からの米ソ戦を恐れていて、それが拡大して共産主義陣営対自由主義陣営の第3次世界大戦へと発展していくことを恐れての、消極姿勢・支援に終始していたのであろう。