「朝鮮問題へのレッスン」19.朝鮮戦争前夜
19.朝鮮戦争前夜
49年に入ると、韓国軍は38度線一帯で、軍事挑発を盛んに行っている。
もちろん米軍の意図と許可がなければ、韓国軍だけの判断では一歩も動けるはずがない。(李承晩政権発足直後の48年8月24日に調印した「韓米軍事協定」による)
李承晩は武力での「北進統一」意図を、内外に向かって宣言していた。
「われわれの計画は北朝鮮人民軍を解散させ、武装解除することにある」(49年1月12日の記者会見)
「われわれの願いは、国連朝鮮委員会の助けをかりて北朝鮮を併合すること。それができなければ、国防軍は必ず北朝鮮に攻め入るべきである」(49年2月7日の国会演説)
「南北の分裂は戦争によって解決しなければならない」(49年10月31日の米巡洋艦セントポール号の甲板での演説)
「来年は、われわれだけで南北朝鮮を統一しなければならないことを忘れてはならない」(49年12月30日の記者会見)
李承晩は自己の政治的立場が悪くなるにつれ北進の必要性を、ますます主張するようになった。
それも決して口先だけの「北進」を主張していたのではなく、実際に、韓国軍を頻繁に38度線を越えさせ、北の領域を侵犯させていた。
このような「北伐」騒ぎを計画し作成し、実践化して38度線への武装侵入事件を大々的に起こしていたのだ。
49年の1年間だけでも、38度線で実に2617回の武装侵入を強行していた。
なかで最大のものは、碧城郡苔灘地区と銀波山、開城地区の松岳山、裴陽地区の高山峰などに対する武力侵攻、夢金裏(モンダンポ)港への奇襲攻撃であった。
韓国士官学校の閔幾植(ミン・キシク)は「最初に攻撃をしかけるのはたいていわが方であり、一旦攻撃が始まればそれは熾烈なものだ」と語っている。
西側の出版物でも、これらの挑発行為を「小さな戦争」だと表現している。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは「南朝鮮軍の中で目につくのは…北朝鮮を攻撃したいという彼らの露骨な希望である。南朝鮮は国境(注、38度線のこと)を越えたがっている」(49年8月5日付)
こうした北への武装侵入は、米軍事顧問団長ロバートによって計画され、彼の指示のもとに行われていた。
ロバート自身、49年10月の韓国陸軍参謀本部での師団長会議で、「38度線以北地域にたいする攻撃はわたしの命令によっておこなわれたし、また今後もおこなわれるであろう」と演説していて、自らを暴露している。
49年、38度線一帯での米軍・韓国軍共同の北部侵攻の「小さな戦争」は、彼らの「北伐」計画の可能性を試す予備戦争であったことも、その後の彼ら自身の言動によって暴露されている。
さらにロバートは49年8月2日の韓国軍師団長会議で、「わたしとわたしの同僚は、紛争事件が南朝鮮側で起こしたものであり、北朝鮮側の南朝鮮にたいするすべての攻撃(注、追撃のこと)は対抗措置であるとみている」(米民主的極東政策規制委員会編「朝鉾戦争は誰が起こしたか」より)
49年に入ってなぜ、「北伐」計画が急増したのであろうか。
それは、南朝鮮社会がインフレーションと各地での反米闘争が激化し、さらに政権側からのテロ、弾圧などで社会が麻痺し、警察国家化していて、政権そのものが崩壊寸前であったからである。
李政権を救い出す出口こそが、「北への侵攻」「武力北進」であった。
米国自身も、台湾問題への解決をはかるために、李政権への救出に手を貸していたのだ。49年末頃の韓国国会は、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職、その他の諸問題」に対する批判の声が内外から上がると同時に、李政権への改革が早急に求められていた。
国連朝鮮委員会のオーストラリア代表団のパトリック・ショウは49年7月、オーストラリア政府に次のような報告を送っていた。
「韓国政府はかつての反乱地区においても一応、法と秩序を維持しているが、それはただひとえにスパイ活動、検閲、宣伝、弾圧のごとき警察国家的手段によるものである」
「韓国では大統領及び何人かの閣僚が、過酷な警察力による弾圧を用いて不法な独裁政治をほしいままにしており、このようなことが続く限り、この国に国民の意を体した民主政権が出現する可能性はないに等しい」
米軍関係の資料も、当時の「韓国軍の30%が暴動鎮圧に動員されている」状態を認めている。
米国は50年に入ると、お得意の誘因作戦を実行してきた。
アチソン米国防長官は1月12日、連邦クラブでの「アジアの危機、アメリカ政策の試練」との演説で、米国の極東防衛線は、アリューシャン列島から日本列島を経て琉球で結ばれ、琉球からさらにフィリピンにつながると発表した。
この時、わざと朝鮮半島と台湾を外したのだ。アチソンは朝鮮戦争後になって、南朝鮮を米国の極東防衛線の圏外に置いたのではなく、その当時から圏内に置いていたことを認めている。
さらにトルーマン大統領は1月5日、「台湾不干渉主義」を発表して、中国共産党を牽制した。
実際は、台湾から蒋介石軍を呼び入れ、朝鮮戦争に投入することを目論んでいた。
朝鮮戦争後の7月27日声明で、第7艦隊の台湾占領を命令し、「台湾不干渉主義」政策は欺瞞だったことを、それは朝鮮戦争を引き起こすための煙幕であったことを、自ら認めている。
朝鮮と中国の革命勢力が結び付くことを、米国が恐れての結果だった。
49年に入ると、韓国軍は38度線一帯で、軍事挑発を盛んに行っている。
もちろん米軍の意図と許可がなければ、韓国軍だけの判断では一歩も動けるはずがない。(李承晩政権発足直後の48年8月24日に調印した「韓米軍事協定」による)
李承晩は武力での「北進統一」意図を、内外に向かって宣言していた。
「われわれの計画は北朝鮮人民軍を解散させ、武装解除することにある」(49年1月12日の記者会見)
「われわれの願いは、国連朝鮮委員会の助けをかりて北朝鮮を併合すること。それができなければ、国防軍は必ず北朝鮮に攻め入るべきである」(49年2月7日の国会演説)
「南北の分裂は戦争によって解決しなければならない」(49年10月31日の米巡洋艦セントポール号の甲板での演説)
「来年は、われわれだけで南北朝鮮を統一しなければならないことを忘れてはならない」(49年12月30日の記者会見)
李承晩は自己の政治的立場が悪くなるにつれ北進の必要性を、ますます主張するようになった。
それも決して口先だけの「北進」を主張していたのではなく、実際に、韓国軍を頻繁に38度線を越えさせ、北の領域を侵犯させていた。
このような「北伐」騒ぎを計画し作成し、実践化して38度線への武装侵入事件を大々的に起こしていたのだ。
49年の1年間だけでも、38度線で実に2617回の武装侵入を強行していた。
なかで最大のものは、碧城郡苔灘地区と銀波山、開城地区の松岳山、裴陽地区の高山峰などに対する武力侵攻、夢金裏(モンダンポ)港への奇襲攻撃であった。
韓国士官学校の閔幾植(ミン・キシク)は「最初に攻撃をしかけるのはたいていわが方であり、一旦攻撃が始まればそれは熾烈なものだ」と語っている。
西側の出版物でも、これらの挑発行為を「小さな戦争」だと表現している。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは「南朝鮮軍の中で目につくのは…北朝鮮を攻撃したいという彼らの露骨な希望である。南朝鮮は国境(注、38度線のこと)を越えたがっている」(49年8月5日付)
こうした北への武装侵入は、米軍事顧問団長ロバートによって計画され、彼の指示のもとに行われていた。
ロバート自身、49年10月の韓国陸軍参謀本部での師団長会議で、「38度線以北地域にたいする攻撃はわたしの命令によっておこなわれたし、また今後もおこなわれるであろう」と演説していて、自らを暴露している。
49年、38度線一帯での米軍・韓国軍共同の北部侵攻の「小さな戦争」は、彼らの「北伐」計画の可能性を試す予備戦争であったことも、その後の彼ら自身の言動によって暴露されている。
さらにロバートは49年8月2日の韓国軍師団長会議で、「わたしとわたしの同僚は、紛争事件が南朝鮮側で起こしたものであり、北朝鮮側の南朝鮮にたいするすべての攻撃(注、追撃のこと)は対抗措置であるとみている」(米民主的極東政策規制委員会編「朝鉾戦争は誰が起こしたか」より)
49年に入ってなぜ、「北伐」計画が急増したのであろうか。
それは、南朝鮮社会がインフレーションと各地での反米闘争が激化し、さらに政権側からのテロ、弾圧などで社会が麻痺し、警察国家化していて、政権そのものが崩壊寸前であったからである。
李政権を救い出す出口こそが、「北への侵攻」「武力北進」であった。
米国自身も、台湾問題への解決をはかるために、李政権への救出に手を貸していたのだ。49年末頃の韓国国会は、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職、その他の諸問題」に対する批判の声が内外から上がると同時に、李政権への改革が早急に求められていた。
国連朝鮮委員会のオーストラリア代表団のパトリック・ショウは49年7月、オーストラリア政府に次のような報告を送っていた。
「韓国政府はかつての反乱地区においても一応、法と秩序を維持しているが、それはただひとえにスパイ活動、検閲、宣伝、弾圧のごとき警察国家的手段によるものである」
「韓国では大統領及び何人かの閣僚が、過酷な警察力による弾圧を用いて不法な独裁政治をほしいままにしており、このようなことが続く限り、この国に国民の意を体した民主政権が出現する可能性はないに等しい」
米軍関係の資料も、当時の「韓国軍の30%が暴動鎮圧に動員されている」状態を認めている。
米国は50年に入ると、お得意の誘因作戦を実行してきた。
アチソン米国防長官は1月12日、連邦クラブでの「アジアの危機、アメリカ政策の試練」との演説で、米国の極東防衛線は、アリューシャン列島から日本列島を経て琉球で結ばれ、琉球からさらにフィリピンにつながると発表した。
この時、わざと朝鮮半島と台湾を外したのだ。アチソンは朝鮮戦争後になって、南朝鮮を米国の極東防衛線の圏外に置いたのではなく、その当時から圏内に置いていたことを認めている。
さらにトルーマン大統領は1月5日、「台湾不干渉主義」を発表して、中国共産党を牽制した。
実際は、台湾から蒋介石軍を呼び入れ、朝鮮戦争に投入することを目論んでいた。
朝鮮戦争後の7月27日声明で、第7艦隊の台湾占領を命令し、「台湾不干渉主義」政策は欺瞞だったことを、それは朝鮮戦争を引き起こすための煙幕であったことを、自ら認めている。
朝鮮と中国の革命勢力が結び付くことを、米国が恐れての結果だった。