fc2ブログ

「朝鮮問題へのレッスン」17.南単独選挙

17.南単独選挙


 南朝鮮では48年5月10日、左派と民主主義右派のボイコットの中で、選挙が強行された。

 その選挙の実施の「監視」役として、国連(米国)によって結成された国連臨時朝鮮委員団が、果たした役割こそは、今日にまで至る朝鮮半島の南北分断の固定化作業に、「国連」という公的機関の名称を冠せ、「史」を欺いたことである。

 その第1は、実際上の「監視」機能を果たしていなかったことである。当時の南朝鮮の人口は2000万余、面積は10万平方キロ余であった。

 これに対して、臨時朝鮮委員団は事務職員を含めて総勢30人を超えることはなかったから、南朝鮮全域をカバーする選挙の実態を監視することなど、誰が考えても物理的に不可能であったことが分かる。

 にもかかわらず、国連も、米国も、委員団も、名目的な「儀式」で済まして、民族分断という大罪を犯している。臨時委員団の監視班たちは、米軍政庁が指定したわずかばかりの投票所(全体の2%)を、米軍が用意した交通手段に依存して移動していたのだから、米軍の掌の中で動いていたにしか過ぎない。

 第2は、国連決議では「自由な選挙」の実施としているが、この時の選挙は決して「自由な雰囲気」の中で施行されたのではない。

 米軍政庁側の発表でも、単独選挙が発表された3月下旬から5月10日までに、589人が殺害(候補者、運動員、選挙反対者)され、1万人以上が検挙されている。

 どの投票所にも警察や予備隊、または右翼の青年団たちが包囲し、監視し、選挙の投票をコントロールするため、米軍によって組織された準警察組織の郷保団(ヒヤンボダン)が監視していた。

 そのうえ、ソウルなど主要な地域では、戦車が砲身を向け、機関銃を構えた米軍が要所に立っていた。

 委員の中では、こうした現像の方向を列挙したものもあったが、委員会としての独自調査は行っていない(そうした能力なかった、と言えるかもしれない)。

 第3は、委員団のメンバーのすべてが、この選挙の意図や意味をまるで理解していなかったことである。

 朝鮮のことについては、米軍政庁の要人の誰もが理解していなかった以上に、各団選挙監視メンバーたちは、朝鮮について何も知らなかった。

 この選挙が、南朝鮮だけで実施されているとのレクチャー(米国にとっては都合が悪いからなおのこと)も受けていなかったこともあって、自分たちが「監視」していた地域は、朝鮮半島における一つの地域だと理解していたのだ。

 このことについては全く信じられないことだが、委員団メンバーたちは、米国の傀儡以下の役割を演じていたことになる。

 選挙を合法的なものとして承認することを迫る米国の圧力の中で、米軍臨時朝鮮委員団の討議は、7週間も続いた。

 さすがに実際に見た現実に、米国が望む結論には、容易に到達できなかったのであろう。

 そのうち、シリアの代表がパレスチナ問題で委員会から脱退(5月末)し、オーストラリア代表が病気で入院(6月下旬)するというハプニングがあって、結果作業を急いだ。

 委員団は6月25日、「選挙は朝鮮において同委員団が立ち入り可能であった部分における選挙民の適法な自由意志の表現であった」との内容を決議した。

 名誉のために付加すると、委員団の可決後、オーストラリア、カナダ、インドの各政府は、それぞれ個別に米国政府に対して、この選挙結果によって誕生したソウル政府は、第2回国連総会決議文(47年11月)による南北全朝鮮の「国民政府」とはみなしえないものであることを伝えた。

 このように、国連臨時朝鮮委員団の監視メンバーたちが「監視」したもの、「理解」したもの、「討議」したものが果たして何であったのか、彼らがどこまで認識していたのかは疑問である。

 世界から疑問視されていても、米国と李承晩一派は7月から8月にかけて予定通りに事を進めていった。

 選挙で当選した「議員」たちは、「国会」設置し、「国会」は「憲法」を制御し、李承晩を「大統領」に選挙した。

 米国は8月12日、5・10選挙で成立した機構を一国の国会を認め、そこから誕生する政府は第2回国連総会決議構文の「全朝鮮の国民政府」として承認することを宣言した。

 李承晩も自らは国連臨時朝鮮委員団の決定に基づいて行動していると、主張しはじめた。

 だが、委員団を構成している各国政府、および委員は遅まきながらも李承晩が全朝鮮を代表する大統領として行動することに、誰ひとり同意してはいなかった。それでも8月15日、李承晩を大統領とする大韓民国は成立した。その政権を、第一共和国としている。

 その後、米国の猛烈な国連ロビー活動によって、パリで開催された第3回国連総会(48年12月)に「国連臨時朝鮮委員団が監視しえた朝鮮半島の部分において、有効にこれを管理し統轄しうる合法政権が樹立された」こと、および「朝鮮でこの種の政権としてはこれが唯一のもの」との決議文を可決した。

 米国、オーストラリア、中国(台湾)が起草したこの国連の決議を根拠に、その後の米国と「韓国」は、大韓民国政府こそが、朝鮮半島全域を支配しうる唯一の政党政府(合法)であると主張するようになった。以上のように米国が考案した南朝鮮単独・分離政権は、国連が生みの親となってしまった。

 南だけの単独選挙で分離政権を樹立させるという国連のやり方に対して、南では激しい抵抗が各地に起こっている。最も激烈で象徴的な抵抗運動は、済州島での「4・3蜂起」(48年から49年が最も激しく、最も残酷な弾圧が加えられた)であった。

 その結果、一年遅れで済州島選挙を実施したときに、臨時委員団を「監視」役として送り込んでいる。

 選挙結果について、「島の安寧秩序が保たれていることを強く印象づけられ、選挙は適正でありきわめて平穏だった」との、国連発表文を作成する必要からのものであったろう。

 第1回国会の閉会式(48年12月18日)で李承晩は、国連と協議しながら、北朝鮮の選挙を通じて統一を実現していくと、次のように言及している。

 1.大韓民国政府はその憲法の規定に従い、朝鮮半島に対する主権を持つ唯一の合法政府だからである。

 2.選挙が保留された北朝鮮で速やかに民主的選挙を実施し、国会において北朝鮮同胞に空席として残した100席の議席を埋めなければならない。

 3.北朝鮮修復は北朝鮮同胞の自発的意思を継続的に封鎖する場合には、大韓民国は武力を使用してでも北朝鮮に対する主権を回復する権限を有する。

 つまり、北朝鮮への選挙を呼び掛けるが、それが不可能な場合は武力を用いると、彼自身の本音を言っている。

 北朝鮮への150議席とは、48年6月12日の北朝鮮の人工に比例するもので、北の100名の議員と合流させる方式で統一を実現するというものであった。

 だが、李承晩の本音は最後まで、武力を使用してでも北の共産政権を打倒することであったが、公的には国連との協力を通じての自由選挙実施だと発言している。

 米国大統領トルーマンは、この大韓民国樹立観を、議会に送った教書(49年6月7日)のなかで、次のように言っている。「大韓民国は共産主義に抵抗して、民主主義の成功とその力強さを実証することによって、すでに共産主義の支配下に入った北アジア人民の抵抗に励ましを与え希望の光を放つことになろう」

 朝鮮半島そのもの、ないしは米軍が占領している南半分だけでも、反共の保塁を造るという目的が米国の朝鮮半島政策であったことを隠さずに言っているのだ。

 そうした米国の本質、態度は、現オバマ政権となっても引き継いでおり、朝鮮停戦協定を朝米平和協定へと転換することを拒否している。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

takasi1936

Author:takasi1936
愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR