「朝鮮問題へのレッスン」15.国連臨時朝鮮委員団
15.国連臨時朝鮮委員団
米国は朝鮮問題を、ソ連との共同委員会で討議することの不利を悟り、それを国運の場に移してしまった。
国連こそ米国の国際政治にとって、米国に有利に、しかも「公的」会議を経てとの、国際世論への目隠しにも、今日でも活用されている。
国際連合(国連)は、設立時に再び戦争を無くす目的で45年10月、51カ国によって設立された。
10年後の55年に76カ国が参加しているものの、大半の国は米国からの経済援助を受けとっていた。
つまり国運は米国優位を、米国の主張を維持し操作するための機関と透っていたのだ。(米国の投票マシーンだと揶揄されてもいる)
その後、加盟国の増加(85年159カ国、2013年の現在は193カ国)があり、多少は、米国の力が減退したとはいえ、現在でも安保理常任理事国の力を背景に、米国は「国連の威信」を利用している。
それは国連の通常予算(2013年は約28億1000万ドル)への供出金が圧倒的に多い(2013年現在では米国22%、2位の日本は10.8%)という、経済大国、政治大国、軍事大国意識の傲慢さからくる、米国の言動がある。
47年当時、国連での米国の力は、圧倒的であった。
その傲慢姿勢は、まだ米ソ共同委員会が継続中で認9月にソ連が提案した米ソ両軍の同時撤退、朝鮮問題の解決を朝鮮人の自主的判断に任せるとの案を無視して、朝鮮問題を第回国連総会(47年9月17日)に提出してしまった。
上程内容は、朝鮮総選挙と「国連臨時朝鮮委員団(資料によっては委員会としている)の設置」案であった。
同年11月4日、「国連監視下で南北朝鮮の総選挙を実施する」との米提案が可決された。朝鮮民族代表の不在篭ソ連の反対を押し切ってであった。
一般に国連監視下での総選挙とは、外国軍占領下(朝鮮の場合でいえば、米軍占領下)で、外国軍の監視とアドバイス(干渉)の下で行う選挙のことであるから、民族の自主権を尊重する行為ではない。
また「自由選挙」としているが、外国軍隊が監視する下で、人民たちが自らの意思を自由に表現できるはずがない。
結局、この仕掛けは選挙の結果を国連の名で合法化したうえで、米国の占領政策、植民地体制を補完する作用を果たしているにしか過ぎない。
国連は、「国連臨時朝鮮委員団」を組織した。
委員団の構成国は、オーストラリア、カナダ、エルサルバドル、フランス、インド、シリア、フィリピン、中華民国の8カ国であった。
国連決議によって、朝鮮全土を自由に旅行し視察できる権限と任務を与えられた同委員団は48年1月8日、選挙実施の目的でソウルに入った。
李承晩ら親日派たちは歓迎したが、多くの市民や労働者たちはデモやストライキなどで、反対の意思を表明した。
さらにソ連と北朝鮮人民委員会は、同委員団の北朝鮮への立ち入りを拒否した。
これを幸いとした米国は2月26日、国連特別小委員会で「可能な地域での総選挙実施(単独選挙)の方針を、41対2で可決させた。
これは全朝鮮人民の意思を無視した暴挙で、朝鮮を分断することに他ならない。
李承晩と米軍政庁にとっては、単独政権樹立構想を国連という公の場を通じて実現するという、民族反逆罪を犯したことになる。
対立している問題を、国連の場を活用して自国に有利なように導く、これが米国流「国際政治」の方式であった。
戦争を防止するという国連組織もまた、米国政治の下請け機関でしかなかったことになる。
「国連臨時朝鮮委員団」は、米帝国主義政治の落とし子ではあったが、朝鮮史においては、永久に「悪名」として残る犯罪者であった。
同委員団は3月1日、5月10日以前に南朝鮮単独選挙を実施することを発表し、米国とホッジ司令官は3月5日、5月10日に選挙を実施する布告を出した。
この南北朝鮮の分断を固定してしまう布告は、以後、南朝鮮社会を内乱状態にまで陥れてしまった。
南での単独選挙を強行し、単独政権を成立させた後の同委員団は役割を終えて、48年12月の第3回国連総会で「臨時」をとり、「国連朝鮮委員会」と改称した。
改称した委員会の役割は、朝鮮戦争での「北侵攻」説を審判する役割を果たしている。
委員を構成する国に多少の変更があり、これまで米国の朝鮮半島政策に不満を表明していたカナダとシリアが退き、代わりにトルコが加わって7カ国となった。
改編された委員会の任務は、①第2回国連総会決議の原則にそった朝鮮統一を促進するための便宜をはかること、②48年の南単独選挙で自由な代議機関が創出されているかどうかを「監視」する任務、③朝鮮半島から全外国軍隊(米ソ両軍)が撤退するよう、「監視」すること――などの、国際社会に受ける役割が与えられた。
臨時委員団同様、改編されたこの委員会にも、そのような自立した機能も、能力も、行動もなかったことがすぐ分かってしまう。
新委員会のメンバーたちは49年1月、ソウルに到着した。
彼らに託されていた任務の①と②はどうか。
そのためには、当時(49年から50年前半)の李承晩政権の現実政治が、どのようなものであったかを知っておく必要があるだろう。
単独選挙によって成立した李承晩政権は、政権安定と政情不安とをカバーするため、警察社会と化していた。
国連委員の一部でさえ、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職」などが、政権の性格となっており、早急な改革を求めることを、彼の本国に送っていたほどである。
5月10日の選挙結果は、不安定な政党構造となっていた。
全立候補者948人中、417人(44%)が無党派層であった。
その当選者は85人で、全議席の42.5%を占めていた。
このように無党派議員が半数近くを占めていたのは、政党政治がまだ定着していない新興独立国家ではよく見受けられる現象ではあるが、南朝鮮の場合の特質は、解放直後の政治的混乱が解消せず、多数の政治勢力が離合集散を繰り返していたからでもある。
だから、選挙後の権力獲得を目的とした、政界創設図が繰り返されていたことが、政権運営に不安感を与えていた。
それに加えて、済州島「4・3蜂起」(南労働主導)や、麗水・順天における軍の反乱、智異山のパルチザン闘争などが、まだ解決せずに社会的不安をますます増加させていたことから、李承晩は焦っていただろう。
「49年4月以降のパルチザン闘争は、ますます同年10月にはパルチザン闘争の交戦回数は1330回、参加人員8万9924人。50年4月になると、1カ月だけで交戦回数2948回参加人員6万5005人」との体制側の記録がある。
そのことを解消するために、南労党を狙った。
49年5月、国会フラクション事件をでっち上げ、南労党細胞だとの言いがかりをつけた議員たちを国会内で逮捕した。
当時の南労党は、南朝鮮の最左翼であった。
フラクションとは、主に左翼政党などが勢力拡大と対立する政党をつぶす目的で、労働組合や大衆団体などの中に細胞(フラク)を送りこみ、そこで細胞組織(党中党)活動を行い、自己の勢力を拡張していく方式のことである。
南労党の国会内フラクション事件そのものは、李承晩の反共意識と野党攻勢からの恐怖感からくる造作であったとされている。
さらに韓国独立党の党首であった金九は6月25日、李承晩が放ったテロによって暗殺されている。
金九は、南朝鮮単独選挙、単独政府樹立に一貫して反対し、李承晩の政敵となっていった。
10月18日になると、李承晩政権の政策に必ずしも協力しない政党・社会団体133が強制的に解させられている。
このように李承晩は政権成立直後から南朝鮮社会一帯にテロ、暴力、弾圧を常態化し、49年末までには、反共、反北、非民主化を造り上げていた。
このような南朝鮮の政情と李承晩の独裁政治を国連委員会のメンバーたちは、どのように観て、どのように理解していたのだろうか。
なるほど、メンバーの一部(カナダ、オーストラリア、シリアなど)は、それぞれの本国にそれらの情報を送ってはいたが、どの本国も、米国に伝えることはなかった。
以上、わずかに観た南朝鮮社会の極悪な政治でさえ、国連委員会のメンバーたちは自らの能力を知ってか、見て見ぬふりをし、まして北の朝鮮民主主義人民共和国政府の情報を何一つも知らないのだから、影響力を及ぼすことなどできるはずはなかった。
③の朝鮮半島からの全外国軍の撤退問題についても、委員会は何の役にも立っていなかった。
ソ連軍が北朝鮮から撤退(48年12月26日)したのも、米軍が南朝鮮から撤退(500人の軍人顧問団を残して49年8月)したにも、それぞれの都合があったからであった。
ことほどに、この国連委員会は、立派な国際公約の看板をもらいながら、まったくの有名無実な存在であった。
否、唯一に成し遂げた「成果」こそが、朝鮮戦争時(50年6月25日)に北朝鮮軍が「侵略」したとする、国連委員会への見聞「報告」であった。
「臨時委員団」が南朝鮮単独選挙成立のための立会機会であったとするなら、この「委員会」こそは、北朝鮮軍を「侵略軍」と証言し、民族紛争に「国連軍」を引き入れる役割を果たすための、いずれも米国の「作品」であった。
米国は朝鮮問題を、ソ連との共同委員会で討議することの不利を悟り、それを国運の場に移してしまった。
国連こそ米国の国際政治にとって、米国に有利に、しかも「公的」会議を経てとの、国際世論への目隠しにも、今日でも活用されている。
国際連合(国連)は、設立時に再び戦争を無くす目的で45年10月、51カ国によって設立された。
10年後の55年に76カ国が参加しているものの、大半の国は米国からの経済援助を受けとっていた。
つまり国運は米国優位を、米国の主張を維持し操作するための機関と透っていたのだ。(米国の投票マシーンだと揶揄されてもいる)
その後、加盟国の増加(85年159カ国、2013年の現在は193カ国)があり、多少は、米国の力が減退したとはいえ、現在でも安保理常任理事国の力を背景に、米国は「国連の威信」を利用している。
それは国連の通常予算(2013年は約28億1000万ドル)への供出金が圧倒的に多い(2013年現在では米国22%、2位の日本は10.8%)という、経済大国、政治大国、軍事大国意識の傲慢さからくる、米国の言動がある。
47年当時、国連での米国の力は、圧倒的であった。
その傲慢姿勢は、まだ米ソ共同委員会が継続中で認9月にソ連が提案した米ソ両軍の同時撤退、朝鮮問題の解決を朝鮮人の自主的判断に任せるとの案を無視して、朝鮮問題を第回国連総会(47年9月17日)に提出してしまった。
上程内容は、朝鮮総選挙と「国連臨時朝鮮委員団(資料によっては委員会としている)の設置」案であった。
同年11月4日、「国連監視下で南北朝鮮の総選挙を実施する」との米提案が可決された。朝鮮民族代表の不在篭ソ連の反対を押し切ってであった。
一般に国連監視下での総選挙とは、外国軍占領下(朝鮮の場合でいえば、米軍占領下)で、外国軍の監視とアドバイス(干渉)の下で行う選挙のことであるから、民族の自主権を尊重する行為ではない。
また「自由選挙」としているが、外国軍隊が監視する下で、人民たちが自らの意思を自由に表現できるはずがない。
結局、この仕掛けは選挙の結果を国連の名で合法化したうえで、米国の占領政策、植民地体制を補完する作用を果たしているにしか過ぎない。
国連は、「国連臨時朝鮮委員団」を組織した。
委員団の構成国は、オーストラリア、カナダ、エルサルバドル、フランス、インド、シリア、フィリピン、中華民国の8カ国であった。
国連決議によって、朝鮮全土を自由に旅行し視察できる権限と任務を与えられた同委員団は48年1月8日、選挙実施の目的でソウルに入った。
李承晩ら親日派たちは歓迎したが、多くの市民や労働者たちはデモやストライキなどで、反対の意思を表明した。
さらにソ連と北朝鮮人民委員会は、同委員団の北朝鮮への立ち入りを拒否した。
これを幸いとした米国は2月26日、国連特別小委員会で「可能な地域での総選挙実施(単独選挙)の方針を、41対2で可決させた。
これは全朝鮮人民の意思を無視した暴挙で、朝鮮を分断することに他ならない。
李承晩と米軍政庁にとっては、単独政権樹立構想を国連という公の場を通じて実現するという、民族反逆罪を犯したことになる。
対立している問題を、国連の場を活用して自国に有利なように導く、これが米国流「国際政治」の方式であった。
戦争を防止するという国連組織もまた、米国政治の下請け機関でしかなかったことになる。
「国連臨時朝鮮委員団」は、米帝国主義政治の落とし子ではあったが、朝鮮史においては、永久に「悪名」として残る犯罪者であった。
同委員団は3月1日、5月10日以前に南朝鮮単独選挙を実施することを発表し、米国とホッジ司令官は3月5日、5月10日に選挙を実施する布告を出した。
この南北朝鮮の分断を固定してしまう布告は、以後、南朝鮮社会を内乱状態にまで陥れてしまった。
南での単独選挙を強行し、単独政権を成立させた後の同委員団は役割を終えて、48年12月の第3回国連総会で「臨時」をとり、「国連朝鮮委員会」と改称した。
改称した委員会の役割は、朝鮮戦争での「北侵攻」説を審判する役割を果たしている。
委員を構成する国に多少の変更があり、これまで米国の朝鮮半島政策に不満を表明していたカナダとシリアが退き、代わりにトルコが加わって7カ国となった。
改編された委員会の任務は、①第2回国連総会決議の原則にそった朝鮮統一を促進するための便宜をはかること、②48年の南単独選挙で自由な代議機関が創出されているかどうかを「監視」する任務、③朝鮮半島から全外国軍隊(米ソ両軍)が撤退するよう、「監視」すること――などの、国際社会に受ける役割が与えられた。
臨時委員団同様、改編されたこの委員会にも、そのような自立した機能も、能力も、行動もなかったことがすぐ分かってしまう。
新委員会のメンバーたちは49年1月、ソウルに到着した。
彼らに託されていた任務の①と②はどうか。
そのためには、当時(49年から50年前半)の李承晩政権の現実政治が、どのようなものであったかを知っておく必要があるだろう。
単独選挙によって成立した李承晩政権は、政権安定と政情不安とをカバーするため、警察社会と化していた。
国連委員の一部でさえ、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職」などが、政権の性格となっており、早急な改革を求めることを、彼の本国に送っていたほどである。
5月10日の選挙結果は、不安定な政党構造となっていた。
全立候補者948人中、417人(44%)が無党派層であった。
その当選者は85人で、全議席の42.5%を占めていた。
このように無党派議員が半数近くを占めていたのは、政党政治がまだ定着していない新興独立国家ではよく見受けられる現象ではあるが、南朝鮮の場合の特質は、解放直後の政治的混乱が解消せず、多数の政治勢力が離合集散を繰り返していたからでもある。
だから、選挙後の権力獲得を目的とした、政界創設図が繰り返されていたことが、政権運営に不安感を与えていた。
それに加えて、済州島「4・3蜂起」(南労働主導)や、麗水・順天における軍の反乱、智異山のパルチザン闘争などが、まだ解決せずに社会的不安をますます増加させていたことから、李承晩は焦っていただろう。
「49年4月以降のパルチザン闘争は、ますます同年10月にはパルチザン闘争の交戦回数は1330回、参加人員8万9924人。50年4月になると、1カ月だけで交戦回数2948回参加人員6万5005人」との体制側の記録がある。
そのことを解消するために、南労党を狙った。
49年5月、国会フラクション事件をでっち上げ、南労党細胞だとの言いがかりをつけた議員たちを国会内で逮捕した。
当時の南労党は、南朝鮮の最左翼であった。
フラクションとは、主に左翼政党などが勢力拡大と対立する政党をつぶす目的で、労働組合や大衆団体などの中に細胞(フラク)を送りこみ、そこで細胞組織(党中党)活動を行い、自己の勢力を拡張していく方式のことである。
南労党の国会内フラクション事件そのものは、李承晩の反共意識と野党攻勢からの恐怖感からくる造作であったとされている。
さらに韓国独立党の党首であった金九は6月25日、李承晩が放ったテロによって暗殺されている。
金九は、南朝鮮単独選挙、単独政府樹立に一貫して反対し、李承晩の政敵となっていった。
10月18日になると、李承晩政権の政策に必ずしも協力しない政党・社会団体133が強制的に解させられている。
このように李承晩は政権成立直後から南朝鮮社会一帯にテロ、暴力、弾圧を常態化し、49年末までには、反共、反北、非民主化を造り上げていた。
このような南朝鮮の政情と李承晩の独裁政治を国連委員会のメンバーたちは、どのように観て、どのように理解していたのだろうか。
なるほど、メンバーの一部(カナダ、オーストラリア、シリアなど)は、それぞれの本国にそれらの情報を送ってはいたが、どの本国も、米国に伝えることはなかった。
以上、わずかに観た南朝鮮社会の極悪な政治でさえ、国連委員会のメンバーたちは自らの能力を知ってか、見て見ぬふりをし、まして北の朝鮮民主主義人民共和国政府の情報を何一つも知らないのだから、影響力を及ぼすことなどできるはずはなかった。
③の朝鮮半島からの全外国軍の撤退問題についても、委員会は何の役にも立っていなかった。
ソ連軍が北朝鮮から撤退(48年12月26日)したのも、米軍が南朝鮮から撤退(500人の軍人顧問団を残して49年8月)したにも、それぞれの都合があったからであった。
ことほどに、この国連委員会は、立派な国際公約の看板をもらいながら、まったくの有名無実な存在であった。
否、唯一に成し遂げた「成果」こそが、朝鮮戦争時(50年6月25日)に北朝鮮軍が「侵略」したとする、国連委員会への見聞「報告」であった。
「臨時委員団」が南朝鮮単独選挙成立のための立会機会であったとするなら、この「委員会」こそは、北朝鮮軍を「侵略軍」と証言し、民族紛争に「国連軍」を引き入れる役割を果たすための、いずれも米国の「作品」であった。