「朝鮮問題へのレッスン」14.済州島『4・3蜂起』
14.済州島『4・3蜂起』
「4.3蜂起」の現場は、済州島(チェジュド)である。
済州島は、朝鮮半島の最南端からおおよそ80キロ、日本とは最短距離で約160キロの地点に位置している。
島の面積は1845キロ平方、その中心に朝鮮半島で2番目の高さを誇る張る漢拏山(ハルラサン、標高1950m)が聳えている。
漢拏山は死火山で、頂上に火口湖白鹿漂があり、周囲に約400もの寄生火山が分布し、ゆるやかな傾斜地に多くの小さな峰や溶岩窟が存在している。
敗戦直前の日本は、米軍が日本本土を侵攻する際、この済州島を足場にすると判断し、島を重要な戦略拠点(一時期、約50万もの守備隊が駐屯していたという)とし、漢拏山の自然的地形を利用した地下洞窟を、要塞化して守備陣地を固めていた。
47年後半、南朝鮮単独選挙反対、反米闘争を掲げた済州島パルチザンたちが、この日本軍が残した自然の要塞跡を利用して戦った。
済州島の気候は温暖で、海と山が織り成す美しい風景が広がっており、ゴルフ場もあることから、現在では南朝鮮の観光メッカとなっている。
観光での訪問者は必ず、済州島飛行場に降り立つ。その彼らの足元に、60数年前、数万人もの人たちが無残に殺害(処刑)されていたことを、果たして知っていただろうか。
いまも飛行場周辺の土地から、骨片が発見されることがある。48年の「4・3蜂起」事件の全容が、いまもって不明なまま、解明されていないから、犠牲者が白骨化してからでしか発見されないのだが、そのことを歴史の闇のなかに葬ったのでは、朝鮮半島統一史は語れないし、白骨も悲しかろう。
45年末頃から米軍の南朝鮮占領政策は、むきだしの暴力性を隠すことなくすすめ、それを親日派および民族反逆者たちを、警察と官吏部門で使用することによって、自らの姿を隠したままで南朝鮮社会に強権をふるっていた。
朝鮮人民たちが、反米感情を沸き上がらせたのは当然である。そこに、信託統治案と南朝鮮単独選挙(単選)実施などという、反民族政策が飛び出してきたから、民族主義右派の金九勢力なども、反米・単選反対運動に合流していくことになる。
米軍政の政策を支持する勢力は、李承晩一派ら極右メンバーたちだけの、ごく少数であった。
少数が多数を支配していく方式は、暴力と弾圧の強権を用いるしかない。そのうえ、南朝鮮社会の実情を無視した米軍政は、経済政策で「米国式自由市場(米国的生活様式)」を導入したために、インフレーションと混乱、災害、反発、対立、反米感情をよけいにもたらし、社会を破綻へと導いてしまった。
そのまま46年を迎えると、労働者、農民、市民たちのストライキは各地に広がり、それが必ず反米スローガンを含み、やがては単選反対、朝鮮分断阻止などの主張が加わるようになっていったのは、当然のことであった。
ちなみに46年に入ってからの主な闘争を、以下に掲げてみる。
三渉炭鉱の労働者4000名がストライキ(6月1日~)
全羅南道荷衣島農民の暴動(8月2日~)
解放1周年集会に参加した全羅南道光州和順炭鉱労働者の光州虐殺事件(8月15日)
全鉄道労働者が反米ゼネスト(9月ゼネスト9月24日~)
各都市の市民らが反米抗争に決起する(10月人民抗争、10月1日~)
大邸人民抗争(10月2日~)
そして47年。
20余万の労働者が反米の24時間ゼネスト(3.22ゼネスト)
勤労人民党党首の呂運亨が暗殺される(7月19日)
さらに48年。
「国連朝鮮臨時委員団」がソウルに入る。
南朝鮮全域の労働者たちが、反米と単選反対の全国ストライキ(2・7救国闘争)。
これに呼応して、北朝鮮側でも「救国闘争」が起こる。
米国はこのような朝鮮人民たちの声を無視して、国連で「南朝鮮での単独選挙実施」の決議案を強行し採決させる。(2月26日)
この国連決議を受けた米国は3月10日、南朝鮮単独選挙を5月10日に実施することを公告した。
同日、南北朝鮮では単選反対の救国闘争が燃え上がる。このようにして済州島人民たちの蜂起(4.3蜂起)、さらには 単選反対のゼネスト(5月8日)が各地へと広がっていく。
朝鮮戦争までの南朝鮮は、まるで内戦の様相を呈していた。その最も象徴的で、最も過酷だった闘争は、済州島の「4.3蜂起」であった。
穀物の収穫が少ない済州島での生活は厳しく、必然的に島外に出て生活を確保する人々が多かった。
1920年代の初め、大阪への直通定期航路が開かれると、多くの人たちが大阪を足場に日本へと渡っていった。
また、それとは逆方向の中国東北地方へと向かう人たちも増加している。
解放後、外地に出ていた島民たちが帰還すると、8月15日時点で約15万人であった人口が、一躍30数万人に急増してしまった。
帰還者のなかには、日本軍に従事していた軍人、軍属、徴用労働者たちや、中国での八路軍や義勇軍に参加していた人たちが多くいた。
彼らの政治意識は高く、島民たちに何らかのかたちで覚醒させ、影響を与えただろう。
その一方で、人口急増現象は、深刻な経済問題、食糧問題をもたらした。
政治に覚醒した人たちの影響で、9月15日に「済州邑人民委員会」が出来ると、22日には全島の「済州島人民委員会」が結成された。
人民委員会は、1.広範な民主的全島民の力を結集、2.自主的な統一、独立と民族の完全解放のための闘争、3.日帝残滓勢力と国際ファシストたちの清算、4.わが民族の民主主義発展に寄与する-などの基本政策路線を採択した。
以下では、参考までに45年9月からの済州島での政治的な動静を記録しておく。
*45年
9月29日、米軍、済州島米軍政庁を設置する。
10月9日、建国準備委員会の済州島委員会が結成される。
10月10日、日本軍の残留兵、済州港から佐世保へ移送(軍人と民間人総計5万人)
11月10日、米第6師団20連隊が進駐、本格的な米軍政の占領政策を始める。
12月9日、朝鮮共産党の済州島委員会が組織される。
*46年
11月23日、南朝鮮労働党(南労党)結成、下部の済州島委員会発足。
*47年
3月1日、済州島3.1事件発生。
3月5~22日、済州島の産別、官公労働者らがゼネスト決行。
10月17日、地下の南労党、左翼団体の活動家たちが漢拏山への入山を開始。
*48年
1月23日、警察、済州島の全活動家に対して逮捕令を出す。
2月13日、警察、住民たちを襲撃、武力衝突。(活動家が紛れ込んでいるとして)
2月中旬、島民たちが郡、面、里毎に自衛隊を編成する。
3月下旬、各自衛隊、武装化を完了。
こうして4月3日には、人民武装自衛隊を中心とする武装蜂起が起こった。
以上で明らかなように、南労党員を中心とする武装自衛隊の組織化、彼らの武装蜂起が突然に発生したのではないことが分かる。
米軍は、済州島に軍政庁を設置した後、本土と同様に右翼勢力(光復青年会、北西青年会、大韓独立促成会、報国独立党、非常国民会、漢拏団など)と警察力(親日派)を強化して、島民たちの民主化組織を徹底的に弾圧していった。
一方、島民側は人民委員会、建準委員会、朝鮮共産党、南労党、民戦などの各民主組織など、本土と同様の左翼組織を組織して、島民と結束しながら闘争を繰り広げていた。
47年4月頃には、島民の8割以上が左傾化していたと言われている。
例えば、済州島知事の朴景勲が人民闘争委員長、済州邑長が同副委員長、各面長が面闘争委員長に就任していたから、現実的には済州島人民共和国が実現していたような状況下にあったのだ。
46年の半ばから、反米街頭デモ、同盟休校、産別ゼネスト、ストライキ、警察署への武装襲撃、警官隊との武力衝突など、全島が反米、反右翼、反李承晩、反単選の闘争を繰り返していた闘争は、本土での同様闘争よりも激しかった。
それらの闘争は、コレラの発生(46年6月から)、凶作(46年10月)、インフレ(46年以降)など、厳しい社会的な要因も加わり、なお一層、反権力闘争へと向かわせていったと思われる。
48年4月3日午前2時、漢拏山のいたるところの溶岩窟や小高い山(オルム)からの狼煙と銃声を合図に、島民たちの武装蜂起が始まった。
彼らは、「米帝は即時撤退せよ」「売国単選反対」「単政絶対反対」「国連朝鮮委員団は撤退せよ」「米帝の走狗を打倒しよう」「朝鮮独立万歳」などのスローガンを掲げて、勇敢に戦った。
同時に各面単位で編成した「人民自衛隊」「女性同盟員」「児童団員」などの武装または非武装3000余名が、島内警察署14カ所(全15カ所のうち)の支署を奇襲、占領、放火した。
さらに南労党の武装隊(第9連隊)が完全武装し、トラック3台に分乗して、済州島監察官(道庁)と済州警察署を占領した。
のちに党の武装隊500名、地方隊員1000余名が合流している。(注、この時の南労党の行動が、党中央からの指令、もしくは事前承認を得ていたのか、それとも済州島責任者の文相吉の判断なのかは、未だにはっきりしていない。そのことを今になって批判する者は、当時の歴史を正しく認識しようとする立場から離れているだろう)
警察側は同日、「済州島地方非常警備司令部」を設置し、各道警察局から選抜した1700名で構成した警察討伐隊を組織した。
警察討伐隊と右翼団体の隊員たちは、なんら罪もない住民たち30余名を、「アカの家族」だと決め付けて拘束し、虐殺したのちに窪地に投棄(4月6日)する蛮行から、一連の暴行を始めている。
「4・3蜂起」は、朝鮮戦争中も続けられており、57年4月2日に最後の「遊撃隊員」呉元権が捕らえられるまでの10年間継続していた。
だが闘争と抵抗の集中は、49年春までの1年余であった。彼らの闘争は、南朝鮮単選の投票当日の5月10日には、各投票所を破壊し放火し、投票所に出てきた島民たちにボイコットを呼び掛けるなどの妨害を行っている。
この彼らの戦いによって事実上、選挙は不可能となり、北済州郡の2選挙区では投票者が足りず、選挙が無効となった。
米軍政庁も選挙の無効を認め(6月10日)、再選挙を6月23日に実施することを布告するほどであった。以後、討伐隊の弾圧は過酷を極め、島全域が処刑場と化すほどであった。
討伐部隊が展開した焦土作戦は、遊撃隊員と島民とを区別せず無差別、集団虐殺を展開していったため、それ以降の時期が一層凄惨な現場を現出したといえる。
48年12月31日、米軍と警察は済州島地区共匪掃蕩作戦が一段落したとして、「戒厳令」を解除している。
だが実際は、朝鮮戦争勃発後は事件の関連者やその親族などの処刑、虐殺が再燃しており、むしろ戦争に名を借りた蛮行が急増し、済州島は暴力と殺人の島となっていた。
こうした鎮圧作戦は、朝鮮停戦協定が結ばれた後の59年後も続けられていた。
島民たち蜂起の敗北は、島という地理的な孤立性のため、遊撃隊への兵力と補給物資が途絶したため、勢力が弱化していく一方となったことが、大きな原因であったろう。
それに、討伐軍の圧倒的な武力と暴力性によって49年半ばまでには、ほぼ壊滅させられていた。(49年初期の遊撃隊の状況は、入山した者たちの糧穀と副食物は、全て失っていたとも伝えている)
討伐部隊側は、暴徒刺殺約8000、捕虜約7000、帰順者約2000、軍隊警察側は死者209、負傷1142、罹災民9万、民間死傷者3万―だと発表しているけれども、随分とパルチザンたちを過少評価した数で、信頼できない。
研究者や済州島の関係者たちによると、死者数を15万から20万人だと発表しているから、当時の島民の半数以上の人たちが虐殺されていたことになる。
だが、済州島の悲劇はこれに止まらなかった。
李承晩はもちろんのこと、歴代の南朝鮮政権によって、この事件が「共産主義者の暴動」であるとの烙印が押されてしまったから、以後は語ることも、告発することも、まして死者たちを弔う行為さえも許されなかったからである。
事件関係者と何らかのかたちでつながりがあることさえ、タブー視して、当事者たちも沈黙を強いられてきた。
李承晩政権が用意した「国家保安法」(48年12月に制定、最高刑が死刑)が、よけいに沈黙を強いた。
反国家団体の構成員や同調者などと見なされれば処罰される同法は、現在では反北の「武器」となって、南北統一運動を大きく妨げている。
87年になって、与党の次期大統領候補の盧泰愚(ノ・テウ)がソウル・オリンピック開催を控えて、大統領直接選挙と民主化運動関連政治犯の赦免、復権を約束した「民主化」宣言以降、事件の真相を究明する動きがやっと出てくるようになった。
すでにして40数年もの時間が過ぎ去っていたから、犠牲者たちの名前や遺骨さえ、探す手がかりを失ってしまっていた。
2000年1月に「済州4・3事件真相究明及び犠牲者の名誉回復に関する特別法」が制定されるに及んで、済州島以外でも追悼会、講演会、集会などが開かれ、犠牲者たちとの「対話」が試みられるようになった。
それさえ、李明博政権などのように「反北、反共」を標傍する政権が登場すると、再び語り部たちの声も消えがちとなってしまっていた。
長年付き合っていた在日朝鮮人一世の-人から、彼を見舞っていた病床で突然、「先生に本当のことを話しておきます」と前置きをして、自身が南労党の党員で、済州4.3蜂起にも参加して、49年にかろうじて脱出したが、今日まで家族にさえ本当のことが話せず苦しかった。しかし「革命家」としての矜持だけは捨てず、自分の意志は今も漢拏山にある。死んでも漢拏山から米国と民族反動政権と戦っていますよと、私の手を強く包んでくれた朝鮮人活動家と別れた経験がある。90年代後半のことである。
済州島蜂起の当初は、その中心部隊は済州島の南労党党員500余名と、その支持者1000余名だったが、単選を強行して「大韓民国」が成立(8月)した11月以降、討伐作戦は凄惨を極め、多数の島民たちを巻き込む流血事態を現出させている。
この4・3蜂起を語るとき、蜂起に走った済州島の南労党の極左的冒険主義と責任論が出てくるが、その前に、これほどの犠牲と長年にわたる事件の放置をもたらしてきた政権側の、真の責任を問わなければいけないと思う。
なお1940年頃、大阪に済州島出身留学生たちの「反日親睦会」が存在していて、彼らは京阪神の近隣組織と提携して、朝鮮の「祖国光復会」の下部組織へと発展し、祖国解放運動を続けていたことを伝えている歴史も忘れてはいけない。
「4.3蜂起」の現場は、済州島(チェジュド)である。
済州島は、朝鮮半島の最南端からおおよそ80キロ、日本とは最短距離で約160キロの地点に位置している。
島の面積は1845キロ平方、その中心に朝鮮半島で2番目の高さを誇る張る漢拏山(ハルラサン、標高1950m)が聳えている。
漢拏山は死火山で、頂上に火口湖白鹿漂があり、周囲に約400もの寄生火山が分布し、ゆるやかな傾斜地に多くの小さな峰や溶岩窟が存在している。
敗戦直前の日本は、米軍が日本本土を侵攻する際、この済州島を足場にすると判断し、島を重要な戦略拠点(一時期、約50万もの守備隊が駐屯していたという)とし、漢拏山の自然的地形を利用した地下洞窟を、要塞化して守備陣地を固めていた。
47年後半、南朝鮮単独選挙反対、反米闘争を掲げた済州島パルチザンたちが、この日本軍が残した自然の要塞跡を利用して戦った。
済州島の気候は温暖で、海と山が織り成す美しい風景が広がっており、ゴルフ場もあることから、現在では南朝鮮の観光メッカとなっている。
観光での訪問者は必ず、済州島飛行場に降り立つ。その彼らの足元に、60数年前、数万人もの人たちが無残に殺害(処刑)されていたことを、果たして知っていただろうか。
いまも飛行場周辺の土地から、骨片が発見されることがある。48年の「4・3蜂起」事件の全容が、いまもって不明なまま、解明されていないから、犠牲者が白骨化してからでしか発見されないのだが、そのことを歴史の闇のなかに葬ったのでは、朝鮮半島統一史は語れないし、白骨も悲しかろう。
45年末頃から米軍の南朝鮮占領政策は、むきだしの暴力性を隠すことなくすすめ、それを親日派および民族反逆者たちを、警察と官吏部門で使用することによって、自らの姿を隠したままで南朝鮮社会に強権をふるっていた。
朝鮮人民たちが、反米感情を沸き上がらせたのは当然である。そこに、信託統治案と南朝鮮単独選挙(単選)実施などという、反民族政策が飛び出してきたから、民族主義右派の金九勢力なども、反米・単選反対運動に合流していくことになる。
米軍政の政策を支持する勢力は、李承晩一派ら極右メンバーたちだけの、ごく少数であった。
少数が多数を支配していく方式は、暴力と弾圧の強権を用いるしかない。そのうえ、南朝鮮社会の実情を無視した米軍政は、経済政策で「米国式自由市場(米国的生活様式)」を導入したために、インフレーションと混乱、災害、反発、対立、反米感情をよけいにもたらし、社会を破綻へと導いてしまった。
そのまま46年を迎えると、労働者、農民、市民たちのストライキは各地に広がり、それが必ず反米スローガンを含み、やがては単選反対、朝鮮分断阻止などの主張が加わるようになっていったのは、当然のことであった。
ちなみに46年に入ってからの主な闘争を、以下に掲げてみる。
三渉炭鉱の労働者4000名がストライキ(6月1日~)
全羅南道荷衣島農民の暴動(8月2日~)
解放1周年集会に参加した全羅南道光州和順炭鉱労働者の光州虐殺事件(8月15日)
全鉄道労働者が反米ゼネスト(9月ゼネスト9月24日~)
各都市の市民らが反米抗争に決起する(10月人民抗争、10月1日~)
大邸人民抗争(10月2日~)
そして47年。
20余万の労働者が反米の24時間ゼネスト(3.22ゼネスト)
勤労人民党党首の呂運亨が暗殺される(7月19日)
さらに48年。
「国連朝鮮臨時委員団」がソウルに入る。
南朝鮮全域の労働者たちが、反米と単選反対の全国ストライキ(2・7救国闘争)。
これに呼応して、北朝鮮側でも「救国闘争」が起こる。
米国はこのような朝鮮人民たちの声を無視して、国連で「南朝鮮での単独選挙実施」の決議案を強行し採決させる。(2月26日)
この国連決議を受けた米国は3月10日、南朝鮮単独選挙を5月10日に実施することを公告した。
同日、南北朝鮮では単選反対の救国闘争が燃え上がる。このようにして済州島人民たちの蜂起(4.3蜂起)、さらには 単選反対のゼネスト(5月8日)が各地へと広がっていく。
朝鮮戦争までの南朝鮮は、まるで内戦の様相を呈していた。その最も象徴的で、最も過酷だった闘争は、済州島の「4.3蜂起」であった。
穀物の収穫が少ない済州島での生活は厳しく、必然的に島外に出て生活を確保する人々が多かった。
1920年代の初め、大阪への直通定期航路が開かれると、多くの人たちが大阪を足場に日本へと渡っていった。
また、それとは逆方向の中国東北地方へと向かう人たちも増加している。
解放後、外地に出ていた島民たちが帰還すると、8月15日時点で約15万人であった人口が、一躍30数万人に急増してしまった。
帰還者のなかには、日本軍に従事していた軍人、軍属、徴用労働者たちや、中国での八路軍や義勇軍に参加していた人たちが多くいた。
彼らの政治意識は高く、島民たちに何らかのかたちで覚醒させ、影響を与えただろう。
その一方で、人口急増現象は、深刻な経済問題、食糧問題をもたらした。
政治に覚醒した人たちの影響で、9月15日に「済州邑人民委員会」が出来ると、22日には全島の「済州島人民委員会」が結成された。
人民委員会は、1.広範な民主的全島民の力を結集、2.自主的な統一、独立と民族の完全解放のための闘争、3.日帝残滓勢力と国際ファシストたちの清算、4.わが民族の民主主義発展に寄与する-などの基本政策路線を採択した。
以下では、参考までに45年9月からの済州島での政治的な動静を記録しておく。
*45年
9月29日、米軍、済州島米軍政庁を設置する。
10月9日、建国準備委員会の済州島委員会が結成される。
10月10日、日本軍の残留兵、済州港から佐世保へ移送(軍人と民間人総計5万人)
11月10日、米第6師団20連隊が進駐、本格的な米軍政の占領政策を始める。
12月9日、朝鮮共産党の済州島委員会が組織される。
*46年
11月23日、南朝鮮労働党(南労党)結成、下部の済州島委員会発足。
*47年
3月1日、済州島3.1事件発生。
3月5~22日、済州島の産別、官公労働者らがゼネスト決行。
10月17日、地下の南労党、左翼団体の活動家たちが漢拏山への入山を開始。
*48年
1月23日、警察、済州島の全活動家に対して逮捕令を出す。
2月13日、警察、住民たちを襲撃、武力衝突。(活動家が紛れ込んでいるとして)
2月中旬、島民たちが郡、面、里毎に自衛隊を編成する。
3月下旬、各自衛隊、武装化を完了。
こうして4月3日には、人民武装自衛隊を中心とする武装蜂起が起こった。
以上で明らかなように、南労党員を中心とする武装自衛隊の組織化、彼らの武装蜂起が突然に発生したのではないことが分かる。
米軍は、済州島に軍政庁を設置した後、本土と同様に右翼勢力(光復青年会、北西青年会、大韓独立促成会、報国独立党、非常国民会、漢拏団など)と警察力(親日派)を強化して、島民たちの民主化組織を徹底的に弾圧していった。
一方、島民側は人民委員会、建準委員会、朝鮮共産党、南労党、民戦などの各民主組織など、本土と同様の左翼組織を組織して、島民と結束しながら闘争を繰り広げていた。
47年4月頃には、島民の8割以上が左傾化していたと言われている。
例えば、済州島知事の朴景勲が人民闘争委員長、済州邑長が同副委員長、各面長が面闘争委員長に就任していたから、現実的には済州島人民共和国が実現していたような状況下にあったのだ。
46年の半ばから、反米街頭デモ、同盟休校、産別ゼネスト、ストライキ、警察署への武装襲撃、警官隊との武力衝突など、全島が反米、反右翼、反李承晩、反単選の闘争を繰り返していた闘争は、本土での同様闘争よりも激しかった。
それらの闘争は、コレラの発生(46年6月から)、凶作(46年10月)、インフレ(46年以降)など、厳しい社会的な要因も加わり、なお一層、反権力闘争へと向かわせていったと思われる。
48年4月3日午前2時、漢拏山のいたるところの溶岩窟や小高い山(オルム)からの狼煙と銃声を合図に、島民たちの武装蜂起が始まった。
彼らは、「米帝は即時撤退せよ」「売国単選反対」「単政絶対反対」「国連朝鮮委員団は撤退せよ」「米帝の走狗を打倒しよう」「朝鮮独立万歳」などのスローガンを掲げて、勇敢に戦った。
同時に各面単位で編成した「人民自衛隊」「女性同盟員」「児童団員」などの武装または非武装3000余名が、島内警察署14カ所(全15カ所のうち)の支署を奇襲、占領、放火した。
さらに南労党の武装隊(第9連隊)が完全武装し、トラック3台に分乗して、済州島監察官(道庁)と済州警察署を占領した。
のちに党の武装隊500名、地方隊員1000余名が合流している。(注、この時の南労党の行動が、党中央からの指令、もしくは事前承認を得ていたのか、それとも済州島責任者の文相吉の判断なのかは、未だにはっきりしていない。そのことを今になって批判する者は、当時の歴史を正しく認識しようとする立場から離れているだろう)
警察側は同日、「済州島地方非常警備司令部」を設置し、各道警察局から選抜した1700名で構成した警察討伐隊を組織した。
警察討伐隊と右翼団体の隊員たちは、なんら罪もない住民たち30余名を、「アカの家族」だと決め付けて拘束し、虐殺したのちに窪地に投棄(4月6日)する蛮行から、一連の暴行を始めている。
「4・3蜂起」は、朝鮮戦争中も続けられており、57年4月2日に最後の「遊撃隊員」呉元権が捕らえられるまでの10年間継続していた。
だが闘争と抵抗の集中は、49年春までの1年余であった。彼らの闘争は、南朝鮮単選の投票当日の5月10日には、各投票所を破壊し放火し、投票所に出てきた島民たちにボイコットを呼び掛けるなどの妨害を行っている。
この彼らの戦いによって事実上、選挙は不可能となり、北済州郡の2選挙区では投票者が足りず、選挙が無効となった。
米軍政庁も選挙の無効を認め(6月10日)、再選挙を6月23日に実施することを布告するほどであった。以後、討伐隊の弾圧は過酷を極め、島全域が処刑場と化すほどであった。
討伐部隊が展開した焦土作戦は、遊撃隊員と島民とを区別せず無差別、集団虐殺を展開していったため、それ以降の時期が一層凄惨な現場を現出したといえる。
48年12月31日、米軍と警察は済州島地区共匪掃蕩作戦が一段落したとして、「戒厳令」を解除している。
だが実際は、朝鮮戦争勃発後は事件の関連者やその親族などの処刑、虐殺が再燃しており、むしろ戦争に名を借りた蛮行が急増し、済州島は暴力と殺人の島となっていた。
こうした鎮圧作戦は、朝鮮停戦協定が結ばれた後の59年後も続けられていた。
島民たち蜂起の敗北は、島という地理的な孤立性のため、遊撃隊への兵力と補給物資が途絶したため、勢力が弱化していく一方となったことが、大きな原因であったろう。
それに、討伐軍の圧倒的な武力と暴力性によって49年半ばまでには、ほぼ壊滅させられていた。(49年初期の遊撃隊の状況は、入山した者たちの糧穀と副食物は、全て失っていたとも伝えている)
討伐部隊側は、暴徒刺殺約8000、捕虜約7000、帰順者約2000、軍隊警察側は死者209、負傷1142、罹災民9万、民間死傷者3万―だと発表しているけれども、随分とパルチザンたちを過少評価した数で、信頼できない。
研究者や済州島の関係者たちによると、死者数を15万から20万人だと発表しているから、当時の島民の半数以上の人たちが虐殺されていたことになる。
だが、済州島の悲劇はこれに止まらなかった。
李承晩はもちろんのこと、歴代の南朝鮮政権によって、この事件が「共産主義者の暴動」であるとの烙印が押されてしまったから、以後は語ることも、告発することも、まして死者たちを弔う行為さえも許されなかったからである。
事件関係者と何らかのかたちでつながりがあることさえ、タブー視して、当事者たちも沈黙を強いられてきた。
李承晩政権が用意した「国家保安法」(48年12月に制定、最高刑が死刑)が、よけいに沈黙を強いた。
反国家団体の構成員や同調者などと見なされれば処罰される同法は、現在では反北の「武器」となって、南北統一運動を大きく妨げている。
87年になって、与党の次期大統領候補の盧泰愚(ノ・テウ)がソウル・オリンピック開催を控えて、大統領直接選挙と民主化運動関連政治犯の赦免、復権を約束した「民主化」宣言以降、事件の真相を究明する動きがやっと出てくるようになった。
すでにして40数年もの時間が過ぎ去っていたから、犠牲者たちの名前や遺骨さえ、探す手がかりを失ってしまっていた。
2000年1月に「済州4・3事件真相究明及び犠牲者の名誉回復に関する特別法」が制定されるに及んで、済州島以外でも追悼会、講演会、集会などが開かれ、犠牲者たちとの「対話」が試みられるようになった。
それさえ、李明博政権などのように「反北、反共」を標傍する政権が登場すると、再び語り部たちの声も消えがちとなってしまっていた。
長年付き合っていた在日朝鮮人一世の-人から、彼を見舞っていた病床で突然、「先生に本当のことを話しておきます」と前置きをして、自身が南労党の党員で、済州4.3蜂起にも参加して、49年にかろうじて脱出したが、今日まで家族にさえ本当のことが話せず苦しかった。しかし「革命家」としての矜持だけは捨てず、自分の意志は今も漢拏山にある。死んでも漢拏山から米国と民族反動政権と戦っていますよと、私の手を強く包んでくれた朝鮮人活動家と別れた経験がある。90年代後半のことである。
済州島蜂起の当初は、その中心部隊は済州島の南労党党員500余名と、その支持者1000余名だったが、単選を強行して「大韓民国」が成立(8月)した11月以降、討伐作戦は凄惨を極め、多数の島民たちを巻き込む流血事態を現出させている。
この4・3蜂起を語るとき、蜂起に走った済州島の南労党の極左的冒険主義と責任論が出てくるが、その前に、これほどの犠牲と長年にわたる事件の放置をもたらしてきた政権側の、真の責任を問わなければいけないと思う。
なお1940年頃、大阪に済州島出身留学生たちの「反日親睦会」が存在していて、彼らは京阪神の近隣組織と提携して、朝鮮の「祖国光復会」の下部組織へと発展し、祖国解放運動を続けていたことを伝えている歴史も忘れてはいけない。