「朝鮮問題へのレッスン」13.9月ゼネスト・10月人民蜂起
13.9月ゼネスト・10月人民蜂起
1946年の秋に入ると、南朝鮮の人民委員会が強い地域では農民、労働者、市民たちの蜂起の声が挙がっていた。
それらが反米闘争へと転換していくのに、それほどの時間を必要とはしなかった。
米軍政一年間の、占領政策への、それが朝鮮人民からの答えであった。
9月23日、釜山の約8000人の鉄道労働者がストに突入した。
鉄道ストはすぐさまソウルにも広がり、南朝鮮全域の鉄道輸送を麻陣させた。
「9月ゼネスト」の始まりである。その数日後には、ストは印刷工、電気、電報局、郵便局、その他産業の労働者に広がり、ゼネスト規模へと発展していった。
学生や市民たちまでが加わったのだ。
ソウルだけでも約295の企業でストがあり、約3万人の労働者と1万6千人の学生がこれに参加している。(「朝鮮年鑑」1948年版)
南朝鮮全土では25万1千人以上もの労働者がストに参加している。
当初、労働者たちの要求は、米の配給を増やすこと、賃金引上げ、失業者の住宅と米の支給、労働条件の改善、労働者の団結権など、ごく融和的で改良的なものであった。
従って、デモは平和的に行われていたのだ。
だが、労働者、市民たちの要求と行動に過剰反応(危機感)した米軍政は、ストライキを裏で主導しているのは、北朝鮮共産主義者たちであると非難し、的外れにも北朝鮮労働党(46年8月創建)を糾弾する始末であった。
占領者として傲慢な態度に終始していたホッジに、朝鮮の労働者たちは激怒し、ストライキは9月末には一層激化していった。
9月30日、ソウルの龍山鉄道操車場のストの現場に、労働者と同程度の3000余のスト破り(経営者側が用意した警官と右翼の青年団体)が、鉄パイプと棍棒で襲いかかってきた。
こうした暴力は各地へと広がり、大量の逮捕者を出してしまった。逮捕された労働者たちは、ストライキから抜け出すか、労働者組織の全評(朝鮮労働組合全国評議会)を脱退することを盟約すれば、復職を許された。
拒否すればその場で解雇され、解雇されると米の配給通帳を没収されるという、厳しい兵糧攻めであって、それは生存権をかけた闘いでもあった。
南朝鮮人民たちの闘争は沈静することなく、10月に入り、慶尚北道ではさらに深刻な事態が展開していた。
9月ゼネストはこのように、各地で各種ストライキと暴動を誘発し10月人民蜂起へと発展した。
10月人民蜂起は10月1日、大邸市内から始まった。
米配給の増加を要求する少人数の大邸市民のデモ隊がねり歩いていたが、デモ隊の-人が警官によって殺害された。
翌日、殺害された仲間の遺体を大邸の中央警察署まで運び、市民・労働者たちが広場に結集して糾弾した。
朝鮮人警察官の大半は、植民地時代に日本人の下で働き、同胞を弾圧してきた者たちであった。
いままた、米帝の下で同胞たちを痛め付けている現場を見てその憤怒は、一気に朝鮮人警察官たちに向かった。
大邸の市民と労働者たちの怒りは、10月6日までに38人の警官を殺害した。
彼らの怒りはさらに地主や官吏たちにも向かい、開城、釜山、仁川、和順、光州、永川、慶山から全羅南北道、忠清南北道、江原道、慶尚南北道へと、怒りは広がっていった。
つまり南朝鮮全土に、反米、反李承晩闘争と流血衝突が起こっていたのだ。
この反米闘争を鎮圧するために米軍は、戒厳令を敷き、徒手空拳の朝鮮人民たちに向かって、兵力、武器、戦車などの戦争道具を動員しながら、3カ月もの時間を要している。
10月人民蜂起に参加した者は300万人余で、来るべき「内乱」を予知する内容を示していた。
その被害もまた甚大で、死亡者300人、行方不明者3600人、負傷者26000人、逮捕された者が30000人を下らないという、苦痛の数字を残している。
一方で警察官の死者も200人余(米軍発表)、家屋など建物も甚大な被害を受け、米の収穫期と重なったために、米の収穫を犠牲にしてしまい、南朝鮮社会は大きな痛手を被ってしまった。
46年闘争では、その後半からの主張が、南朝鮮単独選挙反対へと結集している。
従ってこれらの闘争は48年以降、米国が国連で強引に創作した「国連臨時朝鮮委員団」(選挙地区への実態調査団)の入国反対闘争へと、引き継いでいくことになった。
全国的ストライキへと発展した「2.7救国闘争」(48年2月)は、朝鮮委員団のソウル入りに反対して、全国各地で起こったデモ、ストライキ闘争の総称である。
この時の主張は、1.国連朝鮮臨時委員団の調査反対、2.南の単独政府樹立に反対、3.米ソ両軍同時撤退を要求、4.朝鮮人による民主主義政府の樹立、5.親日派打倒、6.労働者、事務員を保護する労働法、社会保険制度の即時実施、7.政権を人民委員会へ、9.地主からの土地没収と農民への無償分配などであって、このような多様な要求と主張は、当時の南朝鮮の社会現象を反映していた。
この時の犠牲は、警察発表でも蜂起70件、デモ103件、放火204件、ストライキ50件、同盟休校34件、逮捕者8479人、送検者1279人としている。
2・7闘争は、次ぎの「4.3蜂起」(済州島)を呼び、「4.3蜂起」はパルチザン闘争へと発展し、「麗水・順天軍人反乱」(48年10月20日)へと繋がっていった。
パルチザン討伐のため済州島に赴く予定の第14連隊が、出発命令を拒否して反乱を起こした。
彼らは、米帝と李承晩「政権」に反対し、済州島行きへの命令を拒否し、済州島のパルチザンたちと連携をして戦ったのである。
この頃、慶尚北道連隊や各地でもパルチザン闘争が激化しており、さながら内乱の様相を呈していて、こうした反米闘争は戦争前夜のような状態になっていた。
米軍は、かつて日本人の手先となっていた朝鮮人たちを支持し、警察官や軍幹部として登用して、その彼らを朝鮮独立を要求する朝鮮人たちに差し向け、弾圧した。
左右の愛国者たちは親日派や米協力者たちとは妥協しようとはしなかったし、親日派たちはそのような彼らの思想調査をして排除することを、米軍政庁に要求していた。
そうした南朝鮮の現実から、米軍政は前に進むことも後に戻ることも出来ずに陥っていたのが、その頃の米軍の政治であった。
48年頃までの朝鮮半島の南北は、「米国とソ連が管理するそれぞれの地域に間には、何の協力関係も、また政策上の相互補完関係も有り得ないといった前提に基づくものであった。
ソ連軍は米軍と違って、北朝鮮占領政策の直後、人民共和国を承認した。
従って、これら2つの外国勢力は、それぞれ政治的主張において両極端に位置する朝鮮人と手を組んだ上、全く異なった政治機構を通じて占領政策を実施した(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第6章)と、カミングスは厳しく指摘している。
米軍政は一貫して日帝時代の親日派支配勢力を配下に置きながら、自分たちは中立だったとの言動を振りかざしてみても、何ら説得力などはない。
そのような米国の政治を、朝鮮人側からすれば拒否し反対することこそが常識であったことを、米国自身はいつになったら理解できるのだろうか。
1946年の秋に入ると、南朝鮮の人民委員会が強い地域では農民、労働者、市民たちの蜂起の声が挙がっていた。
それらが反米闘争へと転換していくのに、それほどの時間を必要とはしなかった。
米軍政一年間の、占領政策への、それが朝鮮人民からの答えであった。
9月23日、釜山の約8000人の鉄道労働者がストに突入した。
鉄道ストはすぐさまソウルにも広がり、南朝鮮全域の鉄道輸送を麻陣させた。
「9月ゼネスト」の始まりである。その数日後には、ストは印刷工、電気、電報局、郵便局、その他産業の労働者に広がり、ゼネスト規模へと発展していった。
学生や市民たちまでが加わったのだ。
ソウルだけでも約295の企業でストがあり、約3万人の労働者と1万6千人の学生がこれに参加している。(「朝鮮年鑑」1948年版)
南朝鮮全土では25万1千人以上もの労働者がストに参加している。
当初、労働者たちの要求は、米の配給を増やすこと、賃金引上げ、失業者の住宅と米の支給、労働条件の改善、労働者の団結権など、ごく融和的で改良的なものであった。
従って、デモは平和的に行われていたのだ。
だが、労働者、市民たちの要求と行動に過剰反応(危機感)した米軍政は、ストライキを裏で主導しているのは、北朝鮮共産主義者たちであると非難し、的外れにも北朝鮮労働党(46年8月創建)を糾弾する始末であった。
占領者として傲慢な態度に終始していたホッジに、朝鮮の労働者たちは激怒し、ストライキは9月末には一層激化していった。
9月30日、ソウルの龍山鉄道操車場のストの現場に、労働者と同程度の3000余のスト破り(経営者側が用意した警官と右翼の青年団体)が、鉄パイプと棍棒で襲いかかってきた。
こうした暴力は各地へと広がり、大量の逮捕者を出してしまった。逮捕された労働者たちは、ストライキから抜け出すか、労働者組織の全評(朝鮮労働組合全国評議会)を脱退することを盟約すれば、復職を許された。
拒否すればその場で解雇され、解雇されると米の配給通帳を没収されるという、厳しい兵糧攻めであって、それは生存権をかけた闘いでもあった。
南朝鮮人民たちの闘争は沈静することなく、10月に入り、慶尚北道ではさらに深刻な事態が展開していた。
9月ゼネストはこのように、各地で各種ストライキと暴動を誘発し10月人民蜂起へと発展した。
10月人民蜂起は10月1日、大邸市内から始まった。
米配給の増加を要求する少人数の大邸市民のデモ隊がねり歩いていたが、デモ隊の-人が警官によって殺害された。
翌日、殺害された仲間の遺体を大邸の中央警察署まで運び、市民・労働者たちが広場に結集して糾弾した。
朝鮮人警察官の大半は、植民地時代に日本人の下で働き、同胞を弾圧してきた者たちであった。
いままた、米帝の下で同胞たちを痛め付けている現場を見てその憤怒は、一気に朝鮮人警察官たちに向かった。
大邸の市民と労働者たちの怒りは、10月6日までに38人の警官を殺害した。
彼らの怒りはさらに地主や官吏たちにも向かい、開城、釜山、仁川、和順、光州、永川、慶山から全羅南北道、忠清南北道、江原道、慶尚南北道へと、怒りは広がっていった。
つまり南朝鮮全土に、反米、反李承晩闘争と流血衝突が起こっていたのだ。
この反米闘争を鎮圧するために米軍は、戒厳令を敷き、徒手空拳の朝鮮人民たちに向かって、兵力、武器、戦車などの戦争道具を動員しながら、3カ月もの時間を要している。
10月人民蜂起に参加した者は300万人余で、来るべき「内乱」を予知する内容を示していた。
その被害もまた甚大で、死亡者300人、行方不明者3600人、負傷者26000人、逮捕された者が30000人を下らないという、苦痛の数字を残している。
一方で警察官の死者も200人余(米軍発表)、家屋など建物も甚大な被害を受け、米の収穫期と重なったために、米の収穫を犠牲にしてしまい、南朝鮮社会は大きな痛手を被ってしまった。
46年闘争では、その後半からの主張が、南朝鮮単独選挙反対へと結集している。
従ってこれらの闘争は48年以降、米国が国連で強引に創作した「国連臨時朝鮮委員団」(選挙地区への実態調査団)の入国反対闘争へと、引き継いでいくことになった。
全国的ストライキへと発展した「2.7救国闘争」(48年2月)は、朝鮮委員団のソウル入りに反対して、全国各地で起こったデモ、ストライキ闘争の総称である。
この時の主張は、1.国連朝鮮臨時委員団の調査反対、2.南の単独政府樹立に反対、3.米ソ両軍同時撤退を要求、4.朝鮮人による民主主義政府の樹立、5.親日派打倒、6.労働者、事務員を保護する労働法、社会保険制度の即時実施、7.政権を人民委員会へ、9.地主からの土地没収と農民への無償分配などであって、このような多様な要求と主張は、当時の南朝鮮の社会現象を反映していた。
この時の犠牲は、警察発表でも蜂起70件、デモ103件、放火204件、ストライキ50件、同盟休校34件、逮捕者8479人、送検者1279人としている。
2・7闘争は、次ぎの「4.3蜂起」(済州島)を呼び、「4.3蜂起」はパルチザン闘争へと発展し、「麗水・順天軍人反乱」(48年10月20日)へと繋がっていった。
パルチザン討伐のため済州島に赴く予定の第14連隊が、出発命令を拒否して反乱を起こした。
彼らは、米帝と李承晩「政権」に反対し、済州島行きへの命令を拒否し、済州島のパルチザンたちと連携をして戦ったのである。
この頃、慶尚北道連隊や各地でもパルチザン闘争が激化しており、さながら内乱の様相を呈していて、こうした反米闘争は戦争前夜のような状態になっていた。
米軍は、かつて日本人の手先となっていた朝鮮人たちを支持し、警察官や軍幹部として登用して、その彼らを朝鮮独立を要求する朝鮮人たちに差し向け、弾圧した。
左右の愛国者たちは親日派や米協力者たちとは妥協しようとはしなかったし、親日派たちはそのような彼らの思想調査をして排除することを、米軍政庁に要求していた。
そうした南朝鮮の現実から、米軍政は前に進むことも後に戻ることも出来ずに陥っていたのが、その頃の米軍の政治であった。
48年頃までの朝鮮半島の南北は、「米国とソ連が管理するそれぞれの地域に間には、何の協力関係も、また政策上の相互補完関係も有り得ないといった前提に基づくものであった。
ソ連軍は米軍と違って、北朝鮮占領政策の直後、人民共和国を承認した。
従って、これら2つの外国勢力は、それぞれ政治的主張において両極端に位置する朝鮮人と手を組んだ上、全く異なった政治機構を通じて占領政策を実施した(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第6章)と、カミングスは厳しく指摘している。
米軍政は一貫して日帝時代の親日派支配勢力を配下に置きながら、自分たちは中立だったとの言動を振りかざしてみても、何ら説得力などはない。
そのような米国の政治を、朝鮮人側からすれば拒否し反対することこそが常識であったことを、米国自身はいつになったら理解できるのだろうか。