「朝鮮問題へのレッスン」12.過渡立法議院選挙
12.過渡立法議院選挙
46年5月、米ソ共同委員会が無期休会となった直後、米国務省と米軍政当局者たちは、南における米国自身の占領政策を正当化する手段として、「選挙」を実施することを判断した。
「選挙」という関門を通過させておけば、その地域での「基本的自由」を表現したことになり、占領政策のイメージも薄める効果があると、彼ら(米国)は判断したのだろう。
国務省は6月初め、「資格のある朝鮮人をできるだけ多く責任あるポストにつかせ、それと同時に既存の南朝鮮民主議院を解体し、広範な選挙のプロセスを通じてそれに代わりうる諮問立法機関を設立するよう」にと、軍政庁に要求した。
軍政は8月24日、法令第118号を発布し、過渡立法機関の選挙を公表した。
その発表が、各地の人民委員会を瓦解させ、しかも李承晩が単独政権の樹立を要求していた直後であったため、南朝鮮に単独政府をつくる前触れではないかと、左右ともに多くの朝鮮人に疑惑を与えることとなった。
軍政の占領政策を飾り立てるために、朝鮮人の(政権)機構として創作する4番目の「過渡立法議院」の選挙は、「10月人民蜂起」の最中に行われた。
自由選挙とは言うものの、総督府時代の選挙法規定に従ったもので、右翼に有利に運用していた。
占領政策を美化する1番目の装置「顧問団」は、右翼が10対1と絶対的優勢であったから左翼側の指導者たちは参加を拒んで失敗、2番目の「南朝鮮民主議院」(46年2月)は、これも45対4で右翼が絶対優位を占めていたため左翼がボイコットし、3番目の「左右合作委員会」は左翼が迫害されている期間であったから、単なる飾り物にされるだけだとして左翼側が消極的になり、いずれの「選挙」も失敗している。
46年2月、米軍政はモスクワ会議での信託統治案が決定し、左翼側が民主主義民族戦線を結成すると、非常国民会議の最高政府委員会を「民主議院」に再編し、軍政司令官の諮問機関とした。
議長に李承晩、副議長に金九と金奎植を選出し、左翼系を除外した。
米ソ共同委員会が開かれると、李承晩は南だけの単独選挙を主張し、金奎植らは左右合作運動を推進して対立すると、民主議院の機能も停止された。その後進として、米軍政法令第118号によって、南朝鮮過渡立法議院を設置した。
民選議員45名、官選議員45名の総勢90名で構成。民選議員は間接選挙で選出されたが、これが全くの不正選挙で、李承晩系と韓民党系など極右メンバーばかりが選ばれた。
その選挙実態はどんなものか。ある地方では、隣組みの班長や役職にある者が有権者の印鑑を集め、それを勝手に使用して自分たちに都合のよい候補者に投票した。
ソウル市の選挙では呂運亨を含む10人の候補者が出たが、呂運亨以外はすべて極右メンバーで、当選した3人は極右ばかりで、呂運亨は落選している。
さらに多くの選挙区では、警察および警備隊が、投票者に銃を突き付けたまま投票行動を監視していた。
こうした投票場に出かけられる人たちは有識者で、一方、日帝時代の影響で地方在住者の多くはまだ文盲であったから、投票に行かないか、投票率を上げるために当局の強要によって、指示されるままに投票をしていた。
実際に、選挙そのものが成立していたのかさえ、疑問であった。
これが選挙風景であって、その風景は、5月10日の単選を予見させていた。米軍政なりのバランス感覚もあって、官選議員には主として中道路線や左右合作委員会系の、中道右派を任命していた。
12月12日に開院式を行って以降、そこで審議制定された法律の主なものは、親日派や対日協力者、買弁資本家に対する特別法(彼らの活動を容認すること)など、議員自身と議員のバックボーンとなっている勢力を、政治社会的に許すための悪法であった。
米軍政が占領政策の正統性を装うため、選挙を実施して、朝鮮人自身の政治機構として創作した4番目の過渡立法議院の機能もまた、米国自身の政策が単独政府樹立へと向かうと、役立たないものとして48年5月29日、過渡立法議院は単独政府のために解散させられてしまった。
この過渡立法議院成立直後からは、南朝鮮では一層の政党間の分裂、左右の理念をめぐる対立が日増しに激しくなっていった。
軍政の庇護のもとに隠れた右派は無気力で、反対に軍政からの弾圧をかいくぐっている左派は活動的であった。
それが46年の南朝鮮の政治風景であった。左派は軍政と右派からの暴力にさらされていたから、46年はまた、血なまぐさい暴力と破壊のうちに終わったとも言える。
南朝鮮単独政権の樹立を決定していた米軍政庁は47年2月5日、民政移管までの過渡政府として、「南朝鮮過渡政府」を設置した。
民政長官に安在鴻を任命したが、米軍政長官の拒否権行使のなかにあって、無力な存在(飾り物)でしかなかった。
米軍政は自身の言い訳のため、南朝鮮過渡立法議院と南朝鮮過渡政府を設置したが、いずれもその機能を発揮することもなく48年8月、単独政権が樹立されると、その行政権を移管した。
このようにこの2つの組織は、単独政権を樹立するまでのカモフラジュとして、米軍政が創作したものであった。
46年5月、米ソ共同委員会が無期休会となった直後、米国務省と米軍政当局者たちは、南における米国自身の占領政策を正当化する手段として、「選挙」を実施することを判断した。
「選挙」という関門を通過させておけば、その地域での「基本的自由」を表現したことになり、占領政策のイメージも薄める効果があると、彼ら(米国)は判断したのだろう。
国務省は6月初め、「資格のある朝鮮人をできるだけ多く責任あるポストにつかせ、それと同時に既存の南朝鮮民主議院を解体し、広範な選挙のプロセスを通じてそれに代わりうる諮問立法機関を設立するよう」にと、軍政庁に要求した。
軍政は8月24日、法令第118号を発布し、過渡立法機関の選挙を公表した。
その発表が、各地の人民委員会を瓦解させ、しかも李承晩が単独政権の樹立を要求していた直後であったため、南朝鮮に単独政府をつくる前触れではないかと、左右ともに多くの朝鮮人に疑惑を与えることとなった。
軍政の占領政策を飾り立てるために、朝鮮人の(政権)機構として創作する4番目の「過渡立法議院」の選挙は、「10月人民蜂起」の最中に行われた。
自由選挙とは言うものの、総督府時代の選挙法規定に従ったもので、右翼に有利に運用していた。
占領政策を美化する1番目の装置「顧問団」は、右翼が10対1と絶対的優勢であったから左翼側の指導者たちは参加を拒んで失敗、2番目の「南朝鮮民主議院」(46年2月)は、これも45対4で右翼が絶対優位を占めていたため左翼がボイコットし、3番目の「左右合作委員会」は左翼が迫害されている期間であったから、単なる飾り物にされるだけだとして左翼側が消極的になり、いずれの「選挙」も失敗している。
46年2月、米軍政はモスクワ会議での信託統治案が決定し、左翼側が民主主義民族戦線を結成すると、非常国民会議の最高政府委員会を「民主議院」に再編し、軍政司令官の諮問機関とした。
議長に李承晩、副議長に金九と金奎植を選出し、左翼系を除外した。
米ソ共同委員会が開かれると、李承晩は南だけの単独選挙を主張し、金奎植らは左右合作運動を推進して対立すると、民主議院の機能も停止された。その後進として、米軍政法令第118号によって、南朝鮮過渡立法議院を設置した。
民選議員45名、官選議員45名の総勢90名で構成。民選議員は間接選挙で選出されたが、これが全くの不正選挙で、李承晩系と韓民党系など極右メンバーばかりが選ばれた。
その選挙実態はどんなものか。ある地方では、隣組みの班長や役職にある者が有権者の印鑑を集め、それを勝手に使用して自分たちに都合のよい候補者に投票した。
ソウル市の選挙では呂運亨を含む10人の候補者が出たが、呂運亨以外はすべて極右メンバーで、当選した3人は極右ばかりで、呂運亨は落選している。
さらに多くの選挙区では、警察および警備隊が、投票者に銃を突き付けたまま投票行動を監視していた。
こうした投票場に出かけられる人たちは有識者で、一方、日帝時代の影響で地方在住者の多くはまだ文盲であったから、投票に行かないか、投票率を上げるために当局の強要によって、指示されるままに投票をしていた。
実際に、選挙そのものが成立していたのかさえ、疑問であった。
これが選挙風景であって、その風景は、5月10日の単選を予見させていた。米軍政なりのバランス感覚もあって、官選議員には主として中道路線や左右合作委員会系の、中道右派を任命していた。
12月12日に開院式を行って以降、そこで審議制定された法律の主なものは、親日派や対日協力者、買弁資本家に対する特別法(彼らの活動を容認すること)など、議員自身と議員のバックボーンとなっている勢力を、政治社会的に許すための悪法であった。
米軍政が占領政策の正統性を装うため、選挙を実施して、朝鮮人自身の政治機構として創作した4番目の過渡立法議院の機能もまた、米国自身の政策が単独政府樹立へと向かうと、役立たないものとして48年5月29日、過渡立法議院は単独政府のために解散させられてしまった。
この過渡立法議院成立直後からは、南朝鮮では一層の政党間の分裂、左右の理念をめぐる対立が日増しに激しくなっていった。
軍政の庇護のもとに隠れた右派は無気力で、反対に軍政からの弾圧をかいくぐっている左派は活動的であった。
それが46年の南朝鮮の政治風景であった。左派は軍政と右派からの暴力にさらされていたから、46年はまた、血なまぐさい暴力と破壊のうちに終わったとも言える。
南朝鮮単独政権の樹立を決定していた米軍政庁は47年2月5日、民政移管までの過渡政府として、「南朝鮮過渡政府」を設置した。
民政長官に安在鴻を任命したが、米軍政長官の拒否権行使のなかにあって、無力な存在(飾り物)でしかなかった。
米軍政は自身の言い訳のため、南朝鮮過渡立法議院と南朝鮮過渡政府を設置したが、いずれもその機能を発揮することもなく48年8月、単独政権が樹立されると、その行政権を移管した。
このようにこの2つの組織は、単独政権を樹立するまでのカモフラジュとして、米軍政が創作したものであった。