「安重根石碑建立問題について」
「安重根石碑建立問題について」(2013年11月25日)
1.
安倍晋三政権の歴史認識は、やはりおかしいことが判明した。
韓国朴槿恵政権が、初代韓国統監の伊藤博文を中国東北地方(現、黒竜江省)のハルピン駅頭で暗殺した安重根(アン・ジュングン)の石碑を、暗殺現場に建立することを、中国側に依頼していた問題で、中国の習近平主席が準備は進んでいると返答したことに対して、大統領が中国に謝礼を述べたことへの、安倍政権の反応である。
菅義偉官房長官は記者会見で、「安重根は犯罪者だと韓国政府にこれまでも伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と、韓国政権を批判した。
さらに日本政府関係者のなかには、「暗殺の正当化は、初代首相として名を残す伊藤博文、さらには近代日本の歴史的評価を不当にゆがめることになる」(11月20日付、愛媛新聞)と指摘する向きがあることを報道していた。
そのような認識が自国中心史観、歴史主義に陥っているのではないか。
第2次安倍政権がスタートして以来、日韓関係(日中関係も)は、竹島(独島)、軍慰安婦、強制連行労働者への賃金支払い問題など、主として植民地時代の諸問題の認識、対応で政治対立していて、まだ首脳会談も持てないという最悪の状況になっている。
その最大の原因が安倍首相の歴史認識(特に、過去の日本を評価する姿勢に対して)にあることは、誰もが認めている。
今臨時国会で「特定秘密保護法案」「国家安保会議創設」「集団的自衛権の行使」などを成立させようとしている安倍政権の姿勢は、自らの過去を反省も直視もしてこなかった政治姿勢と重なっている。
そのような日本の政治姿勢に、朝鮮半島や中国など、かつて日本によって侵略された周辺国からは、再び軍事大国化を目指している危険な意図が見え隠れしているなどと、警戒感が表明されている。
現に10月3日、東京で開かれた日米安保会議(2プラス2協議)では、集団的自衛権(交戦権)の行使を確認している。
そのうえで自衛隊は、米軍が詐称している「国連軍司令部」(朝鮮戦争時にそのように名乗って各国を参戦させた)の指揮下に入り、第2次朝鮮戦争が勃発したおりには、自衛隊もすぐさま参戦できるようにしてしまった。
この部分は朝鮮人民はもちろんのこと、日本人にとっても驚愕すべき事柄で、絶対的に拒否しなければならない内容で、だからこそ日米ともに協議内容を公表していない。
安倍政権は、日本がいつでも「戦争」ができる準備を整えている、「戦争準備内閣」になっている。そのようなことを進めるのは、過去の歴史を清算する意図も意志もないからであろう。菅官房長官が「安重根は犯罪者だ」と発言したことに、現政権の帝国主義的傲慢な「臭気」を感じてしまう。
2.
暗殺された伊藤博文(1841~1909)は、一体、なにを実行し成し遂げたのであろうか。長州藩出身の伊藤博文は、年齢の関係で尊王攘夷運動、討幕運動、明治維新にはやや遅れて登場したが、大久保利通(1830~78)死後の明治政権の、その中枢にいた。
さらに大隈重信一派を「明治14年政変」(1881年)で追放した後は、ずっと明治政権の最高指導者に収まっている。
この政変は、国会開設の時期をめぐる政権内の争いで、漸進論の伊藤博文が、急進論の大隈重信らと対立していた。
明治天皇と右大臣岩倉具視らを見方に付けた伊藤博文らが、大隈重信(佐賀藩出身)を政権内から追放した政治陰謀事件でもあった。この陰謀事件で、薩長藩閥政権が確立した。
このように伊藤博文は、政権の中枢に登場するに際しては、陰謀や謀略事件をこととして、政権を握ってからは派閥延命政治を続けてきた。
それが伊藤博文と明治政権の性格でもあった。彼は、天皇の権威をバックボーンとする政治、近代天皇制を確立した。
1885年に初代の総理大臣になると、1901年5月までの16年余もの長期間、権力の中枢にあって、「明治」の政治を特徴付けた。(92年第2次、98年第3次、00年第4次と、それぞれ内閣を組織した)
総理大臣を退いてからも、その政治的影響力は、衰えることはなかった。1885年以降、つまり伊藤博文が権力を握って以降の朝鮮半島への関係を、時系列的に考えてみよう。
3.
1885年の前年、日本の近代化に刺激を受けた金玉均ら開化派が、日本の援助でブルジョア革命を決行(甲申政変)し、清朝を背景としていた閔妃派(事大党政権)打倒を図ったが、失敗して日本に亡命している。
明治政権は、朝鮮に開化派の政権を樹立する気はなく、清国の朝鮮からの隔離と閔妃政権打倒に、金玉均らの勢力を利用しただけである。
以後、様々なかたちでの圧力を、反日の閔妃政権に向けて、軍事介入とその侵入の口実を作り続けていく。
95年10月8日、王宮を襲撃(乙未=いつぴの変)した日本軍は、ついに閔妃(1851~95)を殺害してしまう。
この王妃殺害事件で、日本公使の三浦梧楼指揮のもと、軍、警官、壮士、浪人らとともに、親日派の朝鮮軍隊らを使って王宮に乱入し、閔妃と親露派を一掃してしまった。
だが、列強からの非難を受けて、三浦公使ら事件関係者を拘束(実際は、すぐに釈放して、諸外国への言い訳とした)し、これによって日本勢が朝鮮半島から後退を余儀なくされ、ロシア勢が優勢となった。
そのことで日露の対立は深まり、戦争へと繋がってしまう。
この乙未の変で、朝鮮半島から一時後退していた日本は98年9月、京釜(ソウルー釜山)鉄道施設権、威鏡、慶尚、全羅道など沿海の漁業権を強奪することから復活していった。
そして99年6月、林権助が公使としてソウルに着任したことから、朝鮮への着地点は旧に復している。
これ以降、他の列強と同様に、「近代法」という武器を都合4回強要して、朝鮮への植民地支配を進めていく。
第1の武器、日韓議定書の締結(1904年2月23日)。
この時期、日露間に戦雲が急迫していたので、李朝政府は「厳正中立」を宣言(1月23日)していた。しかし日本は、朝鮮半島に軍隊を上陸させるとともに、日本軍への協力を強要する6カ条の議定書を強引に結んでいる。
この協定によって朝鮮は、日露戦争における日本への間接的な協力国となってしまった。
そしてこれが、日本が朝鮮を植民地化していく第1段階の外交文書となったのである。
第2の武器、第1次日韓協約の締結(1904年8月22日)。
この協定は、日露戦争中に締結している。内容は、日本政府の推薦する財務、外交顧問を、採用することを規定した。これによって朝鮮は実質、日本の属国となった。このとき、日本政府が推薦した外交顧問が、米国人のスティーブンスで、彼は同年12月にソウルに着任している。
第3の武器、第2次日韓協約の締結(1905年11月17日)。
特命全権大使となった伊藤博文が指揮をとり、王宮と会議場に軍隊を配置して、王の高宗と政府閣僚らを脅迫して、条約文に無理やり調印させた。
とはいっても高宗は退席し、脅迫されてしぶしぶ5大臣のみが署名したもので、現在、署名は高宗の親筆が偽造されたもので、国際法上は無効な条約だとする説が有力になっている。
この条約で日本は、李朝政府の外交権を奪い、朝鮮統監府の設置を決めた。
統監政治が始まったのだ。このことを知らされた朝鮮人民は悲憤慷慨し、その怒りは調印をした5大臣に向かい、彼らを「乙未五賊」と通称し、彼らに対するテロ行為が続けられた。
その結果、軍部大臣の李根沢と農商工部大臣の権重錫の2人が殺害された。
さらに高級官僚、軍人、著名な学者、宗教家、一般市民など、多数の人々が無力な王朝と日本政府の横暴に抗議をして、自害というかたちで朝鮮人の意思を表現した。
日本のこうした無法行為と朝鮮の悲劇に対して、今回は米国をはじめとする列強からのクレームはなかった。
それは、1895年の閔妃殺害事件で日本が、諸外国からの圧力を反省しての行動があったからである。
桂・タフト密約(05年7月)によって米国から、第2次日英同盟(05年8月)によって英国から、ポーツマス条約(05年9月)によってロシアから、それぞれ朝鮮に対する支配権の承認を取り付けていたからである。
朝鮮の嘆きは、王である高宗の嘆きでもあった。
オランダのハーグで07年6月、第2回ハーグ平和会議(44カ国参加)が開催されることを知った高宗は、自らの嘆きをその会議に訴えることにした。
ハーグ会議は、ロシア皇帝のニコライ2世の提唱によって、第1回が1899年に開かれている。
親露派であった高宗にとって、日本を糾弾してもらう場所として相応しいと考え、密使(3人)をその会議に派遣した。
密使たちは、韓国全権委員として会議参加を要求したが拒絶されると、米、露に対して皇帝の意思を会議に伝えてほしいと頼んだが、これもまた拒否された。
すでに日本が、朝鮮半島支配をめぐる密約を、それらの国々と交わしていたからである。
第4の武器、第3次日韓協約の締結(07年7月24日)。この協定は、ハーグ密使事件の「罪」を問い、韓国皇帝(国号を大韓帝国、王を皇帝に改称したのは国王がロシア公使館から慶運宮に移った1897年2月)を強制退任(1907年7月19日)させた、その直後に調印している。
内容は、法令制定、重要な行政決定、高級官吏の任命権、各級裁判所や中央・地方官庁への日本人の全面的任用のほか、韓国軍隊の解散などを規定していた。
こうして朝鮮の内政権、あらゆる権利を統監の指揮監督下に置いた。日本は、この第3次日韓協約の07年7月時点で、朝鮮を植民地統治下に置いていたことになる。
1910年8月の「日韓併合条約」は、諸外国に対する近代政治の実を示すための、形式的な「法」整備、儀式にしか過ぎなかった。
4.
初代韓国統監となった伊藤博文が1906年3月2日、ソウルに着任して朝鮮併合を完全なものとする第一歩を踏み出した。
朝鮮人からみた伊藤博文は、植民地主義の明治政権を代表する人物であったのだ。欧米列強から強要されたとはいえ、近代化へと歩む明治政権の本質は、列強と同様、帝国主義であり植民地主義を体現していた政体であった。
その帝国主義的植民地を最初に、最も過酷に実施したのが朝鮮半島であった。
朝鮮民族の自主権を完全に奪ったうえで、天皇主権の抑圧政治を植え付けた。農産物と原料の供給地、資本の輸出市場、軍事拠点の独占のほか、軍隊や労働人材の供給(強制連行)など、過酷を究めた。
このような帝国主義の民族抑圧と搾取からは、必然的に民族解放運動、抗日闘争が生み出されていく。
伊藤博文は、初期日本帝国主義植民者を体現しており、その象徴的な人物として、朝鮮占領と併合を第一線で指導していた。
05年の保護条約、高宗の退位を導き、最初の朝鮮支配者として初代統監に就任した。
朝鮮人民にとってはこれだけでも、国と民族主権を奪った犯罪人としての伊藤博文を、憎しみその怒りは頂点に達していたはずだ。
彼は、全朝鮮人が日本を憎むその象徴的な人物であったから、安重根でなくとも、朝鮮人の誰からもいつかはその命を狙われたであろう。
そのことを示すのが、米国人スティーブンスン暗殺事件であった。
スティーブンスンは米外交官として、明治政権の外務省職員(お雇い外国人)だった1904年12月、朝鮮の外交顧問に就任した。
それは第1次日韓協約で、朝鮮政府は日本政府が推薦する外務、財務顧問を置くことを決定したことによるものである。
スティーブンスンは日本政府の依頼によって、第1次日韓協約妥結に関する日本の姿勢を宣伝するため08年3月21日、休暇を兼ねて米国に帰った。
サンフランシスコ到着直後の記者会見で、朝鮮人は日本の保護統治を賞賛しており、「条約は韓国民のためにとられた当然の措置で、彼らは独立の気概をもたない無知な民族である」と、日本政府のシナリオ通りのプロパガンダ的暴言を吐いた。
在米朝鮮人たちは、この発言に激しく怒り糾弾し、撤回を求めた。(3月23日)
スティーブンスンは自らの発言を撤回することなく、日本領事とともにワシントンに赴くためオークランド駅で汽車を待っていた。
彼の言動に反感を抱いた田明雲(チョン・ミヨンウン)が狙撃したが、不発に終わった。
近くで待機していた張仁煥(チャン・インファン)が射殺した。
2人とも朝鮮の独立を志向する運動家として中国またはロシアで活動していて、米国のサンフランシスコに来ていた。
米国警察に逮捕された田明雲は7年11カ月、張仁煥は25年の、それぞれの懲役刑を受けた。ところが彼らの熱烈な愛国心、独立心が米国民の同情を呼び起こし、田明雲はしばらく後に保釈され、張仁煥は10年後に特赦で出獄している。
その米国政治は裏で、日本とは「桂・タフト密約」(05年7月)を結び-朝鮮半島に関する帝国主義同士の政治的約束を交わしている。
日露戦争後のアジアにおける日米の勢力範囲について、米国のフィリピン支配を日本が認め、日本が朝鮮を植民地化することを米国が認めるという、侵略者同士の密約が結ばれていた。
米国はまだ、朝鮮領士への野心的な進出をしていなかったから、米国民個々人のなかには、朝鮮が日本の領土になることへの同情心があったのであろう。
5.
その頃の伊藤博文は、政敵を駆逐して明治政権を指導する地位に立っており、その「明治」の政治体制を帝国主義国家へと導き、朝鮮を完全に「わが手」に入れたとの思いがあったのではないか。
伊藤は帝国主義的な傲慢な姿勢で1909年10月26日、満州視察の途中にハルビン駅頭に立ったのではないか。
伊藤を待っていた安重根は、黄海南道海州で生まれている。05年の乙巳条約締結に激怒、鎮南補に出てきて「敦義学校」を設立して、反日の人材養成に力を注いでいた。
1907年に沿海州に渡り、ウラジオストクで抗日朝鮮人団体や義兵に参加した。
伊藤博文がハルピンに現れるとの情報を得て、数人の仲間とともに待機していた。
伊藤を暗殺した後の安重根の身柄は、旅順の日本監獄に移された。
翌10年3月25日、死刑が執行された。
逮捕から6カ月足らずの、スピード処刑であった。
獄中の彼は、「東洋平和論」「安応亡歴史」を執筆するなど、それ以前から唱えていた日本を含む東洋平和論を構想していたという。
また、彼を担当した日本人看守は後年、安重根の平和論や人生観などを聞き、感銘したと回顧している。
朝鮮は今でも、安重根を「義士」と尊称で呼んでいる。
それは当時も今も、日本と日本の政治指導者に対する朝鮮人の思いを代弁し、実行してくれたからであろう。
従って、安重根はテロや殺人者と同一視した「犯罪者」ではなく、国家とひとつの政権を篹奪した伊藤博文の方こそが、重大な「犯罪者」であったことを、菅官房長官らは知る必要があるだろう。
6.
安倍晋三氏は、歴史判断は歴史家に任せればよい、侵略の定義を見直す必要がある、歴史教科書の記述は政府判断を尊重することなどと、無責任的確信犯的発言を続けている。
その一方で特定秘密法案、集団的自衛権(注、残念ながら12月6日に成立してしまった)など、従来からの「平和」「脅威」「自衛」概念を崩壊させる法案づくりに邁進してきた。
だからこそ、韓国政府が中国黒竜省に安重根の石碑を建立することと、中国政府がそのことを進めていることに、「過剰反応」してまで反対したのではなかろうか。
とは言ってもそれは、自ら(日本)の過去の未清算からくる「問題」が、根底にあることに気付く必要がある。
僣越ではあるが安倍政権に対して、植民地と侵略の定義を簡単に記しておく。
植民地とは、帝国主義国により主権を奪われて、完全な政治的支配をうけることである。日本は朝鮮に対して、民族資本、地下資源、農産物などを搾取し収奪し、軍事拠点を置いて、民族的抑圧を続けた。
侵略とは、他国の主権を犯し、抑圧するために軍事力と警察力を行使して、他民族を支配下に置くことである。1933年のロンドン条約でも、他国領土への武力行使などを侵略と定義している。
朝鮮半島に対して日本は1875年9月、軍艦「雲揚号」を江華島に侵入させたときから、侵略の定義に当てはまる行為を繰り返してきた。
1975年といえば、明治政権がスタートした1868年の、わずか7年後のことである。
日本が、朝鮮半島への侵略行為、及び1945年8月までの植民地支配を実行していたのは、歴史的事実であって、誰も否定しようもないことである。
それを「定義」の見直し発言をすること自体、日本の過去を直視し反省しないだけではなく、別の解釈を展開していこうとする危険性が隠されている。
日本の「過去清算」問題には、2つの点が含まれている。
1つはもちろん、日本が植民地支配や侵略をした地域や民族に対する謝罪と賠償である。
もう1つは、日本と日本人の歴史への認識問題である。
最初の部分についても、未だに清算できていないのは、2点目の認識問題にあるから。
今になっても、朝鮮半島の植民地時代の鉄道やダム、重化学工場建設などを、日本は朝鮮に対して良いことも行い貢献したと発言する人たちがいる。
具体的に朝鮮人の民族自主権をどれだけ剥奪し、破壊してきたかを理解していないから、「良い事」発言や在日朝鮮人への差別政策と意識が続いているのだと思う。
先ずは、私たち日本人の植民地観、侵略観をしっかりと正す作業を行わないことには、過去の清算問題は解決できないという、ジレンマに陥っているとも言えるだろう。
菅氏が「安重根は犯罪者だ」と発言した同日の午後、韓国外務省の報道官が「安重根義士はわが国の独立と東洋の平和のために命をささげた方だ。日本が当時、周辺国に何をしたかを振り返れば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。
それが朝鮮人の心情であろうし、世界史のなかの位置付けであると考える。
歴史問題での日韓対立に、米国も苛立っている。
米国務省の報道官は11月22日、安重根の石碑建立問題で、日韓の対立が深刻化している問題で「米国は、歴史認識を巡る懸案を対話を通じた友好的な方法で解決するよう日韓両国に促す」とし、「この地域の国々の強固で建設的な関係が地域の平和と安定につながり、米国の国益になり」、「状況を注視している」と、記者会見で表明した。
米国の発言からは、その本音と苦慮が伺われる。本音とは、10月2~3日に韓国と日本との2+2協議で合意した内容を指している。
米国は朝鮮戦争時に使用した「国連軍司令部」の名称を復活させ、その下で日本の自衛隊と韓国軍をともに指揮下におき、第2次朝鮮戦争をいつでも戦える仕組みに合意していたことである。
この合意内容で日本は、集団的自衛権を容認し、自衛隊が米軍指揮下(国連軍司令部)で朝鮮半島に上陸し、戦争を行うということである。
だから米国にとっては、日本と韓国とが歴史問題などで対立していたのでは、朝鮮半島での共同行動、同一戦闘が行えないから、早く和解することを望むとクレームを付けたのだ。
でないと、「北朝鮮」への抑圧政策が減じてしまうから、日韓の対立に苦虫を噛み潰しているのだろう。
ところで韓国政権が安重根の石碑をどこに建立しようと、それは自主権の問題であって、誰にも止める権利などはない。
安倍政権がその建立を踏みとどまらせるよう、韓国政権に繰り返し働きかける行為こそ、逆に朝鮮人民から反発を食らうだろう。
安倍政権、ひるがえっては日本人の根底にある精神、伊藤博文は偉人で安重根は犯罪人、朝鮮半島の植民地支配にも良いことを行ったとの歴史観を、きれいにぬぐい去らない限り、日本の未来はいつまでも暗いままだ。
2013年11月25日
1.
安倍晋三政権の歴史認識は、やはりおかしいことが判明した。
韓国朴槿恵政権が、初代韓国統監の伊藤博文を中国東北地方(現、黒竜江省)のハルピン駅頭で暗殺した安重根(アン・ジュングン)の石碑を、暗殺現場に建立することを、中国側に依頼していた問題で、中国の習近平主席が準備は進んでいると返答したことに対して、大統領が中国に謝礼を述べたことへの、安倍政権の反応である。
菅義偉官房長官は記者会見で、「安重根は犯罪者だと韓国政府にこれまでも伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と、韓国政権を批判した。
さらに日本政府関係者のなかには、「暗殺の正当化は、初代首相として名を残す伊藤博文、さらには近代日本の歴史的評価を不当にゆがめることになる」(11月20日付、愛媛新聞)と指摘する向きがあることを報道していた。
そのような認識が自国中心史観、歴史主義に陥っているのではないか。
第2次安倍政権がスタートして以来、日韓関係(日中関係も)は、竹島(独島)、軍慰安婦、強制連行労働者への賃金支払い問題など、主として植民地時代の諸問題の認識、対応で政治対立していて、まだ首脳会談も持てないという最悪の状況になっている。
その最大の原因が安倍首相の歴史認識(特に、過去の日本を評価する姿勢に対して)にあることは、誰もが認めている。
今臨時国会で「特定秘密保護法案」「国家安保会議創設」「集団的自衛権の行使」などを成立させようとしている安倍政権の姿勢は、自らの過去を反省も直視もしてこなかった政治姿勢と重なっている。
そのような日本の政治姿勢に、朝鮮半島や中国など、かつて日本によって侵略された周辺国からは、再び軍事大国化を目指している危険な意図が見え隠れしているなどと、警戒感が表明されている。
現に10月3日、東京で開かれた日米安保会議(2プラス2協議)では、集団的自衛権(交戦権)の行使を確認している。
そのうえで自衛隊は、米軍が詐称している「国連軍司令部」(朝鮮戦争時にそのように名乗って各国を参戦させた)の指揮下に入り、第2次朝鮮戦争が勃発したおりには、自衛隊もすぐさま参戦できるようにしてしまった。
この部分は朝鮮人民はもちろんのこと、日本人にとっても驚愕すべき事柄で、絶対的に拒否しなければならない内容で、だからこそ日米ともに協議内容を公表していない。
安倍政権は、日本がいつでも「戦争」ができる準備を整えている、「戦争準備内閣」になっている。そのようなことを進めるのは、過去の歴史を清算する意図も意志もないからであろう。菅官房長官が「安重根は犯罪者だ」と発言したことに、現政権の帝国主義的傲慢な「臭気」を感じてしまう。
2.
暗殺された伊藤博文(1841~1909)は、一体、なにを実行し成し遂げたのであろうか。長州藩出身の伊藤博文は、年齢の関係で尊王攘夷運動、討幕運動、明治維新にはやや遅れて登場したが、大久保利通(1830~78)死後の明治政権の、その中枢にいた。
さらに大隈重信一派を「明治14年政変」(1881年)で追放した後は、ずっと明治政権の最高指導者に収まっている。
この政変は、国会開設の時期をめぐる政権内の争いで、漸進論の伊藤博文が、急進論の大隈重信らと対立していた。
明治天皇と右大臣岩倉具視らを見方に付けた伊藤博文らが、大隈重信(佐賀藩出身)を政権内から追放した政治陰謀事件でもあった。この陰謀事件で、薩長藩閥政権が確立した。
このように伊藤博文は、政権の中枢に登場するに際しては、陰謀や謀略事件をこととして、政権を握ってからは派閥延命政治を続けてきた。
それが伊藤博文と明治政権の性格でもあった。彼は、天皇の権威をバックボーンとする政治、近代天皇制を確立した。
1885年に初代の総理大臣になると、1901年5月までの16年余もの長期間、権力の中枢にあって、「明治」の政治を特徴付けた。(92年第2次、98年第3次、00年第4次と、それぞれ内閣を組織した)
総理大臣を退いてからも、その政治的影響力は、衰えることはなかった。1885年以降、つまり伊藤博文が権力を握って以降の朝鮮半島への関係を、時系列的に考えてみよう。
3.
1885年の前年、日本の近代化に刺激を受けた金玉均ら開化派が、日本の援助でブルジョア革命を決行(甲申政変)し、清朝を背景としていた閔妃派(事大党政権)打倒を図ったが、失敗して日本に亡命している。
明治政権は、朝鮮に開化派の政権を樹立する気はなく、清国の朝鮮からの隔離と閔妃政権打倒に、金玉均らの勢力を利用しただけである。
以後、様々なかたちでの圧力を、反日の閔妃政権に向けて、軍事介入とその侵入の口実を作り続けていく。
95年10月8日、王宮を襲撃(乙未=いつぴの変)した日本軍は、ついに閔妃(1851~95)を殺害してしまう。
この王妃殺害事件で、日本公使の三浦梧楼指揮のもと、軍、警官、壮士、浪人らとともに、親日派の朝鮮軍隊らを使って王宮に乱入し、閔妃と親露派を一掃してしまった。
だが、列強からの非難を受けて、三浦公使ら事件関係者を拘束(実際は、すぐに釈放して、諸外国への言い訳とした)し、これによって日本勢が朝鮮半島から後退を余儀なくされ、ロシア勢が優勢となった。
そのことで日露の対立は深まり、戦争へと繋がってしまう。
この乙未の変で、朝鮮半島から一時後退していた日本は98年9月、京釜(ソウルー釜山)鉄道施設権、威鏡、慶尚、全羅道など沿海の漁業権を強奪することから復活していった。
そして99年6月、林権助が公使としてソウルに着任したことから、朝鮮への着地点は旧に復している。
これ以降、他の列強と同様に、「近代法」という武器を都合4回強要して、朝鮮への植民地支配を進めていく。
第1の武器、日韓議定書の締結(1904年2月23日)。
この時期、日露間に戦雲が急迫していたので、李朝政府は「厳正中立」を宣言(1月23日)していた。しかし日本は、朝鮮半島に軍隊を上陸させるとともに、日本軍への協力を強要する6カ条の議定書を強引に結んでいる。
この協定によって朝鮮は、日露戦争における日本への間接的な協力国となってしまった。
そしてこれが、日本が朝鮮を植民地化していく第1段階の外交文書となったのである。
第2の武器、第1次日韓協約の締結(1904年8月22日)。
この協定は、日露戦争中に締結している。内容は、日本政府の推薦する財務、外交顧問を、採用することを規定した。これによって朝鮮は実質、日本の属国となった。このとき、日本政府が推薦した外交顧問が、米国人のスティーブンスで、彼は同年12月にソウルに着任している。
第3の武器、第2次日韓協約の締結(1905年11月17日)。
特命全権大使となった伊藤博文が指揮をとり、王宮と会議場に軍隊を配置して、王の高宗と政府閣僚らを脅迫して、条約文に無理やり調印させた。
とはいっても高宗は退席し、脅迫されてしぶしぶ5大臣のみが署名したもので、現在、署名は高宗の親筆が偽造されたもので、国際法上は無効な条約だとする説が有力になっている。
この条約で日本は、李朝政府の外交権を奪い、朝鮮統監府の設置を決めた。
統監政治が始まったのだ。このことを知らされた朝鮮人民は悲憤慷慨し、その怒りは調印をした5大臣に向かい、彼らを「乙未五賊」と通称し、彼らに対するテロ行為が続けられた。
その結果、軍部大臣の李根沢と農商工部大臣の権重錫の2人が殺害された。
さらに高級官僚、軍人、著名な学者、宗教家、一般市民など、多数の人々が無力な王朝と日本政府の横暴に抗議をして、自害というかたちで朝鮮人の意思を表現した。
日本のこうした無法行為と朝鮮の悲劇に対して、今回は米国をはじめとする列強からのクレームはなかった。
それは、1895年の閔妃殺害事件で日本が、諸外国からの圧力を反省しての行動があったからである。
桂・タフト密約(05年7月)によって米国から、第2次日英同盟(05年8月)によって英国から、ポーツマス条約(05年9月)によってロシアから、それぞれ朝鮮に対する支配権の承認を取り付けていたからである。
朝鮮の嘆きは、王である高宗の嘆きでもあった。
オランダのハーグで07年6月、第2回ハーグ平和会議(44カ国参加)が開催されることを知った高宗は、自らの嘆きをその会議に訴えることにした。
ハーグ会議は、ロシア皇帝のニコライ2世の提唱によって、第1回が1899年に開かれている。
親露派であった高宗にとって、日本を糾弾してもらう場所として相応しいと考え、密使(3人)をその会議に派遣した。
密使たちは、韓国全権委員として会議参加を要求したが拒絶されると、米、露に対して皇帝の意思を会議に伝えてほしいと頼んだが、これもまた拒否された。
すでに日本が、朝鮮半島支配をめぐる密約を、それらの国々と交わしていたからである。
第4の武器、第3次日韓協約の締結(07年7月24日)。この協定は、ハーグ密使事件の「罪」を問い、韓国皇帝(国号を大韓帝国、王を皇帝に改称したのは国王がロシア公使館から慶運宮に移った1897年2月)を強制退任(1907年7月19日)させた、その直後に調印している。
内容は、法令制定、重要な行政決定、高級官吏の任命権、各級裁判所や中央・地方官庁への日本人の全面的任用のほか、韓国軍隊の解散などを規定していた。
こうして朝鮮の内政権、あらゆる権利を統監の指揮監督下に置いた。日本は、この第3次日韓協約の07年7月時点で、朝鮮を植民地統治下に置いていたことになる。
1910年8月の「日韓併合条約」は、諸外国に対する近代政治の実を示すための、形式的な「法」整備、儀式にしか過ぎなかった。
4.
初代韓国統監となった伊藤博文が1906年3月2日、ソウルに着任して朝鮮併合を完全なものとする第一歩を踏み出した。
朝鮮人からみた伊藤博文は、植民地主義の明治政権を代表する人物であったのだ。欧米列強から強要されたとはいえ、近代化へと歩む明治政権の本質は、列強と同様、帝国主義であり植民地主義を体現していた政体であった。
その帝国主義的植民地を最初に、最も過酷に実施したのが朝鮮半島であった。
朝鮮民族の自主権を完全に奪ったうえで、天皇主権の抑圧政治を植え付けた。農産物と原料の供給地、資本の輸出市場、軍事拠点の独占のほか、軍隊や労働人材の供給(強制連行)など、過酷を究めた。
このような帝国主義の民族抑圧と搾取からは、必然的に民族解放運動、抗日闘争が生み出されていく。
伊藤博文は、初期日本帝国主義植民者を体現しており、その象徴的な人物として、朝鮮占領と併合を第一線で指導していた。
05年の保護条約、高宗の退位を導き、最初の朝鮮支配者として初代統監に就任した。
朝鮮人民にとってはこれだけでも、国と民族主権を奪った犯罪人としての伊藤博文を、憎しみその怒りは頂点に達していたはずだ。
彼は、全朝鮮人が日本を憎むその象徴的な人物であったから、安重根でなくとも、朝鮮人の誰からもいつかはその命を狙われたであろう。
そのことを示すのが、米国人スティーブンスン暗殺事件であった。
スティーブンスンは米外交官として、明治政権の外務省職員(お雇い外国人)だった1904年12月、朝鮮の外交顧問に就任した。
それは第1次日韓協約で、朝鮮政府は日本政府が推薦する外務、財務顧問を置くことを決定したことによるものである。
スティーブンスンは日本政府の依頼によって、第1次日韓協約妥結に関する日本の姿勢を宣伝するため08年3月21日、休暇を兼ねて米国に帰った。
サンフランシスコ到着直後の記者会見で、朝鮮人は日本の保護統治を賞賛しており、「条約は韓国民のためにとられた当然の措置で、彼らは独立の気概をもたない無知な民族である」と、日本政府のシナリオ通りのプロパガンダ的暴言を吐いた。
在米朝鮮人たちは、この発言に激しく怒り糾弾し、撤回を求めた。(3月23日)
スティーブンスンは自らの発言を撤回することなく、日本領事とともにワシントンに赴くためオークランド駅で汽車を待っていた。
彼の言動に反感を抱いた田明雲(チョン・ミヨンウン)が狙撃したが、不発に終わった。
近くで待機していた張仁煥(チャン・インファン)が射殺した。
2人とも朝鮮の独立を志向する運動家として中国またはロシアで活動していて、米国のサンフランシスコに来ていた。
米国警察に逮捕された田明雲は7年11カ月、張仁煥は25年の、それぞれの懲役刑を受けた。ところが彼らの熱烈な愛国心、独立心が米国民の同情を呼び起こし、田明雲はしばらく後に保釈され、張仁煥は10年後に特赦で出獄している。
その米国政治は裏で、日本とは「桂・タフト密約」(05年7月)を結び-朝鮮半島に関する帝国主義同士の政治的約束を交わしている。
日露戦争後のアジアにおける日米の勢力範囲について、米国のフィリピン支配を日本が認め、日本が朝鮮を植民地化することを米国が認めるという、侵略者同士の密約が結ばれていた。
米国はまだ、朝鮮領士への野心的な進出をしていなかったから、米国民個々人のなかには、朝鮮が日本の領土になることへの同情心があったのであろう。
5.
その頃の伊藤博文は、政敵を駆逐して明治政権を指導する地位に立っており、その「明治」の政治体制を帝国主義国家へと導き、朝鮮を完全に「わが手」に入れたとの思いがあったのではないか。
伊藤は帝国主義的な傲慢な姿勢で1909年10月26日、満州視察の途中にハルビン駅頭に立ったのではないか。
伊藤を待っていた安重根は、黄海南道海州で生まれている。05年の乙巳条約締結に激怒、鎮南補に出てきて「敦義学校」を設立して、反日の人材養成に力を注いでいた。
1907年に沿海州に渡り、ウラジオストクで抗日朝鮮人団体や義兵に参加した。
伊藤博文がハルピンに現れるとの情報を得て、数人の仲間とともに待機していた。
伊藤を暗殺した後の安重根の身柄は、旅順の日本監獄に移された。
翌10年3月25日、死刑が執行された。
逮捕から6カ月足らずの、スピード処刑であった。
獄中の彼は、「東洋平和論」「安応亡歴史」を執筆するなど、それ以前から唱えていた日本を含む東洋平和論を構想していたという。
また、彼を担当した日本人看守は後年、安重根の平和論や人生観などを聞き、感銘したと回顧している。
朝鮮は今でも、安重根を「義士」と尊称で呼んでいる。
それは当時も今も、日本と日本の政治指導者に対する朝鮮人の思いを代弁し、実行してくれたからであろう。
従って、安重根はテロや殺人者と同一視した「犯罪者」ではなく、国家とひとつの政権を篹奪した伊藤博文の方こそが、重大な「犯罪者」であったことを、菅官房長官らは知る必要があるだろう。
6.
安倍晋三氏は、歴史判断は歴史家に任せればよい、侵略の定義を見直す必要がある、歴史教科書の記述は政府判断を尊重することなどと、無責任的確信犯的発言を続けている。
その一方で特定秘密法案、集団的自衛権(注、残念ながら12月6日に成立してしまった)など、従来からの「平和」「脅威」「自衛」概念を崩壊させる法案づくりに邁進してきた。
だからこそ、韓国政府が中国黒竜省に安重根の石碑を建立することと、中国政府がそのことを進めていることに、「過剰反応」してまで反対したのではなかろうか。
とは言ってもそれは、自ら(日本)の過去の未清算からくる「問題」が、根底にあることに気付く必要がある。
僣越ではあるが安倍政権に対して、植民地と侵略の定義を簡単に記しておく。
植民地とは、帝国主義国により主権を奪われて、完全な政治的支配をうけることである。日本は朝鮮に対して、民族資本、地下資源、農産物などを搾取し収奪し、軍事拠点を置いて、民族的抑圧を続けた。
侵略とは、他国の主権を犯し、抑圧するために軍事力と警察力を行使して、他民族を支配下に置くことである。1933年のロンドン条約でも、他国領土への武力行使などを侵略と定義している。
朝鮮半島に対して日本は1875年9月、軍艦「雲揚号」を江華島に侵入させたときから、侵略の定義に当てはまる行為を繰り返してきた。
1975年といえば、明治政権がスタートした1868年の、わずか7年後のことである。
日本が、朝鮮半島への侵略行為、及び1945年8月までの植民地支配を実行していたのは、歴史的事実であって、誰も否定しようもないことである。
それを「定義」の見直し発言をすること自体、日本の過去を直視し反省しないだけではなく、別の解釈を展開していこうとする危険性が隠されている。
日本の「過去清算」問題には、2つの点が含まれている。
1つはもちろん、日本が植民地支配や侵略をした地域や民族に対する謝罪と賠償である。
もう1つは、日本と日本人の歴史への認識問題である。
最初の部分についても、未だに清算できていないのは、2点目の認識問題にあるから。
今になっても、朝鮮半島の植民地時代の鉄道やダム、重化学工場建設などを、日本は朝鮮に対して良いことも行い貢献したと発言する人たちがいる。
具体的に朝鮮人の民族自主権をどれだけ剥奪し、破壊してきたかを理解していないから、「良い事」発言や在日朝鮮人への差別政策と意識が続いているのだと思う。
先ずは、私たち日本人の植民地観、侵略観をしっかりと正す作業を行わないことには、過去の清算問題は解決できないという、ジレンマに陥っているとも言えるだろう。
菅氏が「安重根は犯罪者だ」と発言した同日の午後、韓国外務省の報道官が「安重根義士はわが国の独立と東洋の平和のために命をささげた方だ。日本が当時、周辺国に何をしたかを振り返れば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。
それが朝鮮人の心情であろうし、世界史のなかの位置付けであると考える。
歴史問題での日韓対立に、米国も苛立っている。
米国務省の報道官は11月22日、安重根の石碑建立問題で、日韓の対立が深刻化している問題で「米国は、歴史認識を巡る懸案を対話を通じた友好的な方法で解決するよう日韓両国に促す」とし、「この地域の国々の強固で建設的な関係が地域の平和と安定につながり、米国の国益になり」、「状況を注視している」と、記者会見で表明した。
米国の発言からは、その本音と苦慮が伺われる。本音とは、10月2~3日に韓国と日本との2+2協議で合意した内容を指している。
米国は朝鮮戦争時に使用した「国連軍司令部」の名称を復活させ、その下で日本の自衛隊と韓国軍をともに指揮下におき、第2次朝鮮戦争をいつでも戦える仕組みに合意していたことである。
この合意内容で日本は、集団的自衛権を容認し、自衛隊が米軍指揮下(国連軍司令部)で朝鮮半島に上陸し、戦争を行うということである。
だから米国にとっては、日本と韓国とが歴史問題などで対立していたのでは、朝鮮半島での共同行動、同一戦闘が行えないから、早く和解することを望むとクレームを付けたのだ。
でないと、「北朝鮮」への抑圧政策が減じてしまうから、日韓の対立に苦虫を噛み潰しているのだろう。
ところで韓国政権が安重根の石碑をどこに建立しようと、それは自主権の問題であって、誰にも止める権利などはない。
安倍政権がその建立を踏みとどまらせるよう、韓国政権に繰り返し働きかける行為こそ、逆に朝鮮人民から反発を食らうだろう。
安倍政権、ひるがえっては日本人の根底にある精神、伊藤博文は偉人で安重根は犯罪人、朝鮮半島の植民地支配にも良いことを行ったとの歴史観を、きれいにぬぐい去らない限り、日本の未来はいつまでも暗いままだ。
2013年11月25日