「朝鮮問題へのレッスン」10.平壌市群衆大会
10.平壌市群衆大会
一方、解放直後の北部朝鮮の状況は、どうであったのか。
ソ連第25軍が8月10日、雄基と羅津を攻撃し、つづいて清津など多くの地域を解放して進撃した。
日本が降伏(15日)した後、21日に元山、24日には咸興市と平壌市に進出した。
このようにソ連軍は、朝鮮半島上で実際に日本軍と戦い、朝鮮を解放したが、米軍の場合は、朝鮮の地では戦闘も交えず、9月になってからやってきた。
朝鮮人の心情からすれば、米ソ両軍のどちらを歓迎し、好意的になっていたかは、この事柄だけでもはっきりとしていただろう。
26日に占領軍司令官チスチャコフ大将が、「朝鮮人に与える赤軍布告文」を発表した。
「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍隊は、朝鮮から日本の略奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった。しかし、これはただ新しい朝鮮の第一ページにすぎない。華麗なる果樹園は人の努力と苦心の結果である。これと同じく朝鮮の幸福も、朝鮮人民の英雄的闘争と勤勉な努力によってのみ達成される。…今は、すべてのものがあなたがたの努力いかんによるのである。…」米軍の布告文とは対照的に、文学的な表現になっていて、かつソ連軍は朝鮮人の民族的独立を手助けする存在でしかないことを表明していた。
米ソ両軍の布告文から感じることは、ソ連軍は進駐軍としての性格をもち、米軍は占領軍の性格を持っていたということである。
朝鮮北部に進駐したソ連軍の目的は、北部朝鮮に「ソビエト秩序」を打ち立てるつもりはなく、朝鮮を日本の支配から完全に解放することと、民族自決の統一国家を樹立することだと、折りに触れて表明していた。
そのため、朝鮮人が組織した人民委員会に、各地の行政機構的な権限を与え、ソ連軍民政部は間接統治の政策を実施していた。
だが、ソ連も米国同様、朝鮮についての十分な知識がないまま、占領政策の軍政を始めている。
とは言っても、米軍とは違って、朝鮮人自身の独立した政府が樹立できる期間だけ、サポーター的役割を果たす目的での占領政策だったという点が、米軍との決定的な違いで、朝鮮人から政治的にも好感を持たれていた。
行政指導も、日本の植民地機構を否定し、日本人と親日派を追放して、各地で自発的に誕生していた人民委員会を通じて行っている。その結果、親日派と地主、植民地時代に同胞を弾圧していた警官と官吏たちは、逃れるようにして38度線を南下していった。
金日成主席(当時は将軍と呼ばれていた)らパルチザン部隊の一部が、ハバロフスクから元山港に上陸したのは9月19日であった。
翌20日に列車に乗り、22日に平壌に到着している。
なぜ8月15日、またはソ連軍の先遣隊としてそれ以前に、朝鮮国内で日本軍と戦い、凱旋していなかったのであろうか。
金日成とその部隊は、解放の曰まで抗日武装闘争を続けていた。
金曰成の朝鮮人部隊が所属していた東北抗日連軍第1路軍の部隊は40年後半、日本軍によって追い詰められていた。
同時期にコミンテルンからの要請もあり、反ファシズム戦線を強化する目的で、中国東北地方で戦っていた朝中連合の東北抗日連軍とソ連極東軍とが連合して、日本軍との決戦に備えることになった。
そこで東北抗日連軍は部隊毎に、40年後半から42年前半までに、ハバロフスクのソ連軍事基地に結集した。
金日成が小部隊を率いてハバロフスクに入ったのは、40年11月末頃であった。
41年に入り、ボロシーロフ付近の南キャンプ(臨時の訓練基地、オケアンスカヤ)で、朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍第1路軍および同第2路軍第5軍らが、近代戦と革命論の講義、各種軍事訓練を行っている。
その間にも、朝鮮国内と満州方面での小部隊活動、日本軍基地の偵察行動などの軍事活動は続けていた。
プロレタリア国際主義に基づいて42年8月、朝・ソ・中3国の革命武力の団結と協力のため、国際連合軍を編成することになった。
形式上の部隊名を「ソ連極東軍独立88旅団」、対外番号を「第8461歩兵特別旅団」とする連合軍が編成された。
金日成は、その第1支隊(朝鮮部隊)の隊長となった。
部隊は、ハバロフスク付近の北キャンプに結集し、軍事訓練と同時に、朝鮮国境周辺の偵察も続けていた。
ソ連軍は45年7月頃、ワシレーフスキーを総司令官とする「ソ連極東軍総司令部」を創設し、その下に3つの戦線軍を編成した。
第1極東戦線軍(メレツコフ司令官)は、ハルビン以南の中国東北の一部と朝鮮への攻撃を担当することになり、金日成の第1支隊が共に戦うこととなった。
7月下旬、国際連合軍の最終の対日作戦会議(ソ連軍総参謀部主催)があり、金日成ら連合軍側指揮官、各戦線責任者たちが出席した。
第1支隊の朝鮮人民革命軍部隊は、3つに分けられた。1隊はソ連極東軍の先遣隊として、総攻撃の直前に東満および朝鮮に出撃する。
他の1隊は空挺隊として朝鮮に出撃し、朝鮮に進撃してきたソ連極東軍を先導する。
残りの主力部隊はソ連極東軍とともに出撃し、地理案内を兼ねた先導役を努める、との計画であった。
金日成は空挺隊の責任者として8月11日、隊員と共にアムール川まで移動し、トラックで飛行場に向かい、そこで待機していた。
13日、出撃中止と現地待機の命令を受けた。
9月に入り、ソ連側から国際連合軍の解散、東北抗日連軍隊員たちの帰国問題が討議され、9月5日から4陣に分かれて帰国(朝鮮および中国東北地方)することになった。
金日成は第1陣朝鮮帰国組の引率者として、隊員を率いてハバロフスク、牡丹江、汪清、図們を経て、列車で祖国の朝鮮に入るコースを決め、ハバロフスクからポロシーロフまで汽車で南下し、そこから中東鉄道で牡丹江駅に着いた。
牡丹江では、市民たちの歓迎集会などがあって、3日間ほど滞在した。
その滞在中に、関東軍の敗残兵らによって牡丹江南の鉄道トンネルや新義州の鴨緑江越えの鉄橋が爆破されて、通行不能になっているとの情報がもたらされた。
で、やむをえず牡丹江からボロシーロフに戻り、そこからウラジオストクに出て、ソ連軍の「ブガチョフ」号で1昼夜かけて9月19日、元山港に到着した。
隊員は60~80名(資料によって人数が違っている)であった。
金日成主席が8月15日に平壌に居なかったのも、日本軍の武装解除を担当出来なかったのも、以上のような偶然の重なりがあったからである。
その後、朝鮮人民革命軍の部隊員は、分散して帰国している。
一部の人たちが、金日成将軍が帰国しているのを知るのは、10月に入ってからのことになる。(まだ、生家の万景台には寄っていなかったから)
平安南道人民政治委員会が密かに帰国歓迎行事の準備を進めていたから、やがて、そのことで金日成将軍が帰国していて姿を現すらしいとの噂が、一気に広まっていった。
「金日成将軍」の名前は、朝鮮人民のなかでは民族の希望、解放の太陽であった。朝鮮人なら誰でも、ひと目でも見たい、会いたい、その声を聞きたいと願っていたのは、当然のことであったろう。
特に、1936年5月5日に創建した「祖国光復会」(反日民族統一戦線の団体)は、金日成将軍の名と共に反日闘争の組織を朝鮮国内に広め、闘争を発展させていった。
茂山、雄基、羅津、清津、咸興、元山、平壌、ソウル、仁川などに、地下革命組織が出来て、朝鮮人民革命軍の政治工作員と連絡をとり、解放の日を用意した。
金日成将軍の名前をさらに高めていったのは、普天堡(ポチョンボ)戦闘(37年6月4日)、茂山地区戦闘(39年5月18~23日)、苦難の行軍ののち鴨緑江沿岸に進出したこと(38年12月~39年3月)などがある。
45年10月14日、平壌市牡丹峰の公設運動場で「平壌市群衆大会」(別名、金日成将軍の祖国凱旋歓迎大会)が、盛大に開かれた。
当時の平壌市の人口は40万人だが、会場には40万人余もの人々が集まった。
大会にはソ連第25軍司令官チスチャコフ大将、レベゼル少将が出席、曹晩植が金日成を紹介した。
金日成人気は当時すでに、「全羅道の金日成」だの「咸鎮道の金日成」だのというニセモノが出現していたという。
これなど、後日の「金日成ニセモノ」説や「4人の金日成」説などを流布していたことと似ている。
演説で金日成は「力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を」と、新民主朝鮮建設への結集を呼び掛けた。
抗日武装闘争から一躍、朝鮮人民の前に政治指導者として登場した金日成を、ソ連によって予定されていたもので、ソ連軍の後押しがあったからだと主張している人たちがいる。
これなど、米軍政庁のバックボーンによって登場した南の李承晩と対比して、理解し喧伝しているのだが、見当外れも甚だしい。
米国の庇護を求めて権謀術数を計り、極右勢力だけの権力樹立を目指し、何より日本植民地時代にはそれと戦うこともなかった李承晩と、金日成とは全く正反対の立場に位置している。
比較するほどのこともない。日本による抑圧政策に打ちひしがれ、それがいつ終わるとも知れない状況の中で絶望していた朝鮮人たちに、屈服以外に抵抗する道があって、実際にも、その日本軍に対して戦い、勝利している朝鮮人部隊が存在している事実を朝鮮人に知らしめた人物こそ、金曰成将軍であった。
なお、歴史実証主義者に対しては、「朝鮮人民革命軍」のことについて書いておく必要があるだろう。
金日成が率いた部隊は確かに、中国共産党満州省委員会下の東北抗日連軍第1路軍であった。
この部隊は別名、朝中連合軍とも言っていた。金日成の部隊構成員は常に、朝鮮人隊員が80~90%を占めていたから、朝鮮人部隊だとも呼ばれていた。その活動範囲も白頭山麓を中心とする朝中国境地帯であり、そこは朝鮮人多住地帯で、しばしば朝鮮国内にも進出していた。
それで朝鮮人たちの前では、自らの部隊を「朝鮮人民革命軍」と名乗っていたから、彼らに解放への大いなる希望を与えたと、金日成は回顧録に記している。
事実、36年2月の南湖頭会議(朝中軍政幹部会議)で、満州省から「朝鮮人民革命軍」と名乗ることを認められている。(前35年のコミンテルン会議で、戦闘部隊を朝中別々にすることが認められていたものの、金日成は、それでは部隊の戦闘力が低下するとして、従来通りの朝中合同軍とした)
従って、10月14日の「平壌市群衆集会」に姿を現し、以後、朝鮮政治の中心に位置している金日成は、誰か、外国勢のバックボーンや権謀術数があったものではなく、朝鮮人民たちの強い願いからのものであった。
呂運亨の代理で演説をした趙斗元は、「1931年以降、一つの勇猛な抗日闘争勢力があって、これが日本の満州侵略、中日戦争、そして第2次世界大戦を通じて日本軍と直接的な闘争を展開した。この闘争は、金日成将軍を中心とする義兵運動であった」とした。(45年11月24日、ソウルの人民委員会全国代表者会議)
趙斗元の発言はすなわち、全朝鮮人の意思であった。
このように、開放後の朝鮮政治に登場してくる主要な人物、勢力(例えば呂運亨、金九、武亭、中国国内、ソ連内で活躍していた共産主義、民族主義者の派閥)を問わず,日本、中国、ソ連、米国務省の一部にまで、金日成の名前は浸透しており、開放後の朝鮮政治を指導する人物だと、早くから認知されていた。
しかも解放の日まで、日本軍と実際に戦っていた部隊を率いていたことなどから、解放後の新生朝鮮の政治を指導していける指導者として、金日成に対抗できる人物は誰もいなかったことを、朝鮮人自身も周辺国も理解していた。
しかし、金日成が根拠地として戦っていた満州という場所の理解について、米国をはじめとする西側にとっては、大戦中は関心外の地域であった。
そのことが、そこで熾烈に戦っていたパルチザンのこと、抵抗運動のことなどの実態についての認識が、西側の知識から完全に抜け落ちていたから、事実とは異なる誹謗情報を許してしまっているのだ。
知名度が先行していた金日成のことに対しても、反対者側からすれば、誹謗情報を創作しやすかったのだろう。
現在にもつながる誹謗情報源は、主に2つの勢力のことが考えられる。
一つは、日本軍は転向した抗日パルチザンたちで編成した「金日成討伐特別部隊」(約50人)を組織し、金曰成とその部隊を追跡させた。その元隊員たちによるもの。
他の一つは、解放後に南へと逃れていった地主や親日派たち。彼らは、自身の後ろ暗い過去を消して現在を確立するためにも、金日成への非難情報を発信する必要があった連中たちである。
そうした彼らの保身情報を、米国と李承晩ら右派陣営は、反北、反ソ、反金キャンペーンとして活用してきた。
「ニセモノ」「ソ連の傀儡」「ソ連り大尉」「ソ連系朝鮮人」などと、金曰成の過去をめぐる真相に対してのプロパンダ的情報が、いまもって流布されている。
1931年以降、金日成よりも大規模に、あるいは積極的に、継続的に抗日闘争を行っていたことを立証できる朝鮮人は、民族主義者たちも含めて全く存在していなかったというのにである。
金日成は、ソ連軍ないし中国軍に所属していたことはあったが、-度たりともソ連軍や中国軍の一員として戦ったことはない。
常に朝鮮の解放を考え、朝鮮の解放のために、自らの立場を最大限に活用して戦ってきた。
一方、解放直後の北部朝鮮の状況は、どうであったのか。
ソ連第25軍が8月10日、雄基と羅津を攻撃し、つづいて清津など多くの地域を解放して進撃した。
日本が降伏(15日)した後、21日に元山、24日には咸興市と平壌市に進出した。
このようにソ連軍は、朝鮮半島上で実際に日本軍と戦い、朝鮮を解放したが、米軍の場合は、朝鮮の地では戦闘も交えず、9月になってからやってきた。
朝鮮人の心情からすれば、米ソ両軍のどちらを歓迎し、好意的になっていたかは、この事柄だけでもはっきりとしていただろう。
26日に占領軍司令官チスチャコフ大将が、「朝鮮人に与える赤軍布告文」を発表した。
「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍隊は、朝鮮から日本の略奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった。しかし、これはただ新しい朝鮮の第一ページにすぎない。華麗なる果樹園は人の努力と苦心の結果である。これと同じく朝鮮の幸福も、朝鮮人民の英雄的闘争と勤勉な努力によってのみ達成される。…今は、すべてのものがあなたがたの努力いかんによるのである。…」米軍の布告文とは対照的に、文学的な表現になっていて、かつソ連軍は朝鮮人の民族的独立を手助けする存在でしかないことを表明していた。
米ソ両軍の布告文から感じることは、ソ連軍は進駐軍としての性格をもち、米軍は占領軍の性格を持っていたということである。
朝鮮北部に進駐したソ連軍の目的は、北部朝鮮に「ソビエト秩序」を打ち立てるつもりはなく、朝鮮を日本の支配から完全に解放することと、民族自決の統一国家を樹立することだと、折りに触れて表明していた。
そのため、朝鮮人が組織した人民委員会に、各地の行政機構的な権限を与え、ソ連軍民政部は間接統治の政策を実施していた。
だが、ソ連も米国同様、朝鮮についての十分な知識がないまま、占領政策の軍政を始めている。
とは言っても、米軍とは違って、朝鮮人自身の独立した政府が樹立できる期間だけ、サポーター的役割を果たす目的での占領政策だったという点が、米軍との決定的な違いで、朝鮮人から政治的にも好感を持たれていた。
行政指導も、日本の植民地機構を否定し、日本人と親日派を追放して、各地で自発的に誕生していた人民委員会を通じて行っている。その結果、親日派と地主、植民地時代に同胞を弾圧していた警官と官吏たちは、逃れるようにして38度線を南下していった。
金日成主席(当時は将軍と呼ばれていた)らパルチザン部隊の一部が、ハバロフスクから元山港に上陸したのは9月19日であった。
翌20日に列車に乗り、22日に平壌に到着している。
なぜ8月15日、またはソ連軍の先遣隊としてそれ以前に、朝鮮国内で日本軍と戦い、凱旋していなかったのであろうか。
金日成とその部隊は、解放の曰まで抗日武装闘争を続けていた。
金曰成の朝鮮人部隊が所属していた東北抗日連軍第1路軍の部隊は40年後半、日本軍によって追い詰められていた。
同時期にコミンテルンからの要請もあり、反ファシズム戦線を強化する目的で、中国東北地方で戦っていた朝中連合の東北抗日連軍とソ連極東軍とが連合して、日本軍との決戦に備えることになった。
そこで東北抗日連軍は部隊毎に、40年後半から42年前半までに、ハバロフスクのソ連軍事基地に結集した。
金日成が小部隊を率いてハバロフスクに入ったのは、40年11月末頃であった。
41年に入り、ボロシーロフ付近の南キャンプ(臨時の訓練基地、オケアンスカヤ)で、朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍第1路軍および同第2路軍第5軍らが、近代戦と革命論の講義、各種軍事訓練を行っている。
その間にも、朝鮮国内と満州方面での小部隊活動、日本軍基地の偵察行動などの軍事活動は続けていた。
プロレタリア国際主義に基づいて42年8月、朝・ソ・中3国の革命武力の団結と協力のため、国際連合軍を編成することになった。
形式上の部隊名を「ソ連極東軍独立88旅団」、対外番号を「第8461歩兵特別旅団」とする連合軍が編成された。
金日成は、その第1支隊(朝鮮部隊)の隊長となった。
部隊は、ハバロフスク付近の北キャンプに結集し、軍事訓練と同時に、朝鮮国境周辺の偵察も続けていた。
ソ連軍は45年7月頃、ワシレーフスキーを総司令官とする「ソ連極東軍総司令部」を創設し、その下に3つの戦線軍を編成した。
第1極東戦線軍(メレツコフ司令官)は、ハルビン以南の中国東北の一部と朝鮮への攻撃を担当することになり、金日成の第1支隊が共に戦うこととなった。
7月下旬、国際連合軍の最終の対日作戦会議(ソ連軍総参謀部主催)があり、金日成ら連合軍側指揮官、各戦線責任者たちが出席した。
第1支隊の朝鮮人民革命軍部隊は、3つに分けられた。1隊はソ連極東軍の先遣隊として、総攻撃の直前に東満および朝鮮に出撃する。
他の1隊は空挺隊として朝鮮に出撃し、朝鮮に進撃してきたソ連極東軍を先導する。
残りの主力部隊はソ連極東軍とともに出撃し、地理案内を兼ねた先導役を努める、との計画であった。
金日成は空挺隊の責任者として8月11日、隊員と共にアムール川まで移動し、トラックで飛行場に向かい、そこで待機していた。
13日、出撃中止と現地待機の命令を受けた。
9月に入り、ソ連側から国際連合軍の解散、東北抗日連軍隊員たちの帰国問題が討議され、9月5日から4陣に分かれて帰国(朝鮮および中国東北地方)することになった。
金日成は第1陣朝鮮帰国組の引率者として、隊員を率いてハバロフスク、牡丹江、汪清、図們を経て、列車で祖国の朝鮮に入るコースを決め、ハバロフスクからポロシーロフまで汽車で南下し、そこから中東鉄道で牡丹江駅に着いた。
牡丹江では、市民たちの歓迎集会などがあって、3日間ほど滞在した。
その滞在中に、関東軍の敗残兵らによって牡丹江南の鉄道トンネルや新義州の鴨緑江越えの鉄橋が爆破されて、通行不能になっているとの情報がもたらされた。
で、やむをえず牡丹江からボロシーロフに戻り、そこからウラジオストクに出て、ソ連軍の「ブガチョフ」号で1昼夜かけて9月19日、元山港に到着した。
隊員は60~80名(資料によって人数が違っている)であった。
金日成主席が8月15日に平壌に居なかったのも、日本軍の武装解除を担当出来なかったのも、以上のような偶然の重なりがあったからである。
その後、朝鮮人民革命軍の部隊員は、分散して帰国している。
一部の人たちが、金日成将軍が帰国しているのを知るのは、10月に入ってからのことになる。(まだ、生家の万景台には寄っていなかったから)
平安南道人民政治委員会が密かに帰国歓迎行事の準備を進めていたから、やがて、そのことで金日成将軍が帰国していて姿を現すらしいとの噂が、一気に広まっていった。
「金日成将軍」の名前は、朝鮮人民のなかでは民族の希望、解放の太陽であった。朝鮮人なら誰でも、ひと目でも見たい、会いたい、その声を聞きたいと願っていたのは、当然のことであったろう。
特に、1936年5月5日に創建した「祖国光復会」(反日民族統一戦線の団体)は、金日成将軍の名と共に反日闘争の組織を朝鮮国内に広め、闘争を発展させていった。
茂山、雄基、羅津、清津、咸興、元山、平壌、ソウル、仁川などに、地下革命組織が出来て、朝鮮人民革命軍の政治工作員と連絡をとり、解放の日を用意した。
金日成将軍の名前をさらに高めていったのは、普天堡(ポチョンボ)戦闘(37年6月4日)、茂山地区戦闘(39年5月18~23日)、苦難の行軍ののち鴨緑江沿岸に進出したこと(38年12月~39年3月)などがある。
45年10月14日、平壌市牡丹峰の公設運動場で「平壌市群衆大会」(別名、金日成将軍の祖国凱旋歓迎大会)が、盛大に開かれた。
当時の平壌市の人口は40万人だが、会場には40万人余もの人々が集まった。
大会にはソ連第25軍司令官チスチャコフ大将、レベゼル少将が出席、曹晩植が金日成を紹介した。
金日成人気は当時すでに、「全羅道の金日成」だの「咸鎮道の金日成」だのというニセモノが出現していたという。
これなど、後日の「金日成ニセモノ」説や「4人の金日成」説などを流布していたことと似ている。
演説で金日成は「力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を」と、新民主朝鮮建設への結集を呼び掛けた。
抗日武装闘争から一躍、朝鮮人民の前に政治指導者として登場した金日成を、ソ連によって予定されていたもので、ソ連軍の後押しがあったからだと主張している人たちがいる。
これなど、米軍政庁のバックボーンによって登場した南の李承晩と対比して、理解し喧伝しているのだが、見当外れも甚だしい。
米国の庇護を求めて権謀術数を計り、極右勢力だけの権力樹立を目指し、何より日本植民地時代にはそれと戦うこともなかった李承晩と、金日成とは全く正反対の立場に位置している。
比較するほどのこともない。日本による抑圧政策に打ちひしがれ、それがいつ終わるとも知れない状況の中で絶望していた朝鮮人たちに、屈服以外に抵抗する道があって、実際にも、その日本軍に対して戦い、勝利している朝鮮人部隊が存在している事実を朝鮮人に知らしめた人物こそ、金曰成将軍であった。
なお、歴史実証主義者に対しては、「朝鮮人民革命軍」のことについて書いておく必要があるだろう。
金日成が率いた部隊は確かに、中国共産党満州省委員会下の東北抗日連軍第1路軍であった。
この部隊は別名、朝中連合軍とも言っていた。金日成の部隊構成員は常に、朝鮮人隊員が80~90%を占めていたから、朝鮮人部隊だとも呼ばれていた。その活動範囲も白頭山麓を中心とする朝中国境地帯であり、そこは朝鮮人多住地帯で、しばしば朝鮮国内にも進出していた。
それで朝鮮人たちの前では、自らの部隊を「朝鮮人民革命軍」と名乗っていたから、彼らに解放への大いなる希望を与えたと、金日成は回顧録に記している。
事実、36年2月の南湖頭会議(朝中軍政幹部会議)で、満州省から「朝鮮人民革命軍」と名乗ることを認められている。(前35年のコミンテルン会議で、戦闘部隊を朝中別々にすることが認められていたものの、金日成は、それでは部隊の戦闘力が低下するとして、従来通りの朝中合同軍とした)
従って、10月14日の「平壌市群衆集会」に姿を現し、以後、朝鮮政治の中心に位置している金日成は、誰か、外国勢のバックボーンや権謀術数があったものではなく、朝鮮人民たちの強い願いからのものであった。
呂運亨の代理で演説をした趙斗元は、「1931年以降、一つの勇猛な抗日闘争勢力があって、これが日本の満州侵略、中日戦争、そして第2次世界大戦を通じて日本軍と直接的な闘争を展開した。この闘争は、金日成将軍を中心とする義兵運動であった」とした。(45年11月24日、ソウルの人民委員会全国代表者会議)
趙斗元の発言はすなわち、全朝鮮人の意思であった。
このように、開放後の朝鮮政治に登場してくる主要な人物、勢力(例えば呂運亨、金九、武亭、中国国内、ソ連内で活躍していた共産主義、民族主義者の派閥)を問わず,日本、中国、ソ連、米国務省の一部にまで、金日成の名前は浸透しており、開放後の朝鮮政治を指導する人物だと、早くから認知されていた。
しかも解放の日まで、日本軍と実際に戦っていた部隊を率いていたことなどから、解放後の新生朝鮮の政治を指導していける指導者として、金日成に対抗できる人物は誰もいなかったことを、朝鮮人自身も周辺国も理解していた。
しかし、金日成が根拠地として戦っていた満州という場所の理解について、米国をはじめとする西側にとっては、大戦中は関心外の地域であった。
そのことが、そこで熾烈に戦っていたパルチザンのこと、抵抗運動のことなどの実態についての認識が、西側の知識から完全に抜け落ちていたから、事実とは異なる誹謗情報を許してしまっているのだ。
知名度が先行していた金日成のことに対しても、反対者側からすれば、誹謗情報を創作しやすかったのだろう。
現在にもつながる誹謗情報源は、主に2つの勢力のことが考えられる。
一つは、日本軍は転向した抗日パルチザンたちで編成した「金日成討伐特別部隊」(約50人)を組織し、金曰成とその部隊を追跡させた。その元隊員たちによるもの。
他の一つは、解放後に南へと逃れていった地主や親日派たち。彼らは、自身の後ろ暗い過去を消して現在を確立するためにも、金日成への非難情報を発信する必要があった連中たちである。
そうした彼らの保身情報を、米国と李承晩ら右派陣営は、反北、反ソ、反金キャンペーンとして活用してきた。
「ニセモノ」「ソ連の傀儡」「ソ連り大尉」「ソ連系朝鮮人」などと、金曰成の過去をめぐる真相に対してのプロパンダ的情報が、いまもって流布されている。
1931年以降、金日成よりも大規模に、あるいは積極的に、継続的に抗日闘争を行っていたことを立証できる朝鮮人は、民族主義者たちも含めて全く存在していなかったというのにである。
金日成は、ソ連軍ないし中国軍に所属していたことはあったが、-度たりともソ連軍や中国軍の一員として戦ったことはない。
常に朝鮮の解放を考え、朝鮮の解放のために、自らの立場を最大限に活用して戦ってきた。