「朝鮮問題へのレッスン」9.反託運動
9.反託運動
46年の初頭まで、米国の南朝鮮占領政策は相矛盾した二つの特徴をもっていた。
ワシントンとソウル、米国務省と米軍政庁の間での対立であった。
国務省の政策はソ連を含めた国際協調主義(多国間信託統治)であったのだが、軍政庁の方は共産主義封じ込めの米一国主義(単独政府の樹立)であった。
モスクワ3国外相会議(45年12月16~27日)で、米国は信託統治案を主張した。
信託統治プランは、ルーズベルト大統領の戦前からの発案であった。
従って国務省側が主張していたのは、ルーズベルトの遺産のようなものであった。
1.信託統治の期間が40年から50年(朝鮮が独立の準備を整えたと判断するまで)
2.4カ国(米・英・ソ・中)の後見的役割を強化する。
一などと、全体的に朝鮮の主体性を否定し、独立も後見役の強国からの恩恵的なもので、帝国主義的な意図が濃厚であった。
信託統治案に一貫して反対していたソ連が、モスクワ会議で出していた案は、信託統治というよりは、朝鮮人による過渡敵的臨時政府を樹立し、その発展方向にウェイトを置いていて、信託統治(後見)期間も5年を限度(5年以内)とし、場合によっては信託統治は必要ではないとすることを含んでいた。
モスクワ協定は、ソ連側の意見が多く反映された、米ソ両国の妥協の産物だったと言ってもよいだろう。
朝鮮臨時政府樹立のため、4カ国は後見役的な立場でたすけ、それも5年を限度とする。
それを実現させるために、米ソ間で緊密な協力を行う、という内容であった。
45年12月29日、モスクワ協定が発表された。
同時にホッジは、信託統治に反対の立場を表明し、朝鮮の即時的独立を主張しているのは米国なのだ、とするキャンペーンを展開した。
南朝鮮の占領政策をめぐって、ホワイトハウスの国務省側と対立していた米軍政庁の考え方は、南朝鮮内でのソ連・左翼勢力の影響を完全に封鎖することにあった。
ホッジのその考えは、仁川から上陸する以前からのもので、総督府に協力させつつ、植民地統治機構を受け継ぎ、かつ、日帝時代の親日勢力を配下(警察と下級官吏)に置く政策をとっていた。
だから南朝鮮の現実は、多くの一般朝鮮人が米軍政に反対し、ソ連側からの協力も得られない状況になっていた。
必然的に、政治的能力もない極右メンバーだけがホッジに引き寄せられて、社会全体を右傾化現象にさせてしまった自ら引き寄せた社会現象への反省もなく、ホッジは信頼できる反共の朝鮮人指導者の必要性を強く感じるようになった。
といって朝鮮の歴史や政治、朝鮮そのものについて無知なホッジは、都合の良い伝聞と情報だけで、2人を選んだ。
一人は米国に亡命していた李承晩で、もう一人は重慶臨時政府の金九であった。
在米中の李承晩の所業に否定的なワシントン側は、役立たない老人だからと、パスポートの交付を見合わせていた。
このワシントンの方針に反対していたホッジ、マッカーサー、グッドフェロー(米陸軍大佐、反国務省の立場で李承晩の保護者、後に李から朝鮮の利権を獲得)と李承晩と10月12日から15日まで東京で会談した後、李はマッカーサーの飛行機でソウルに送られた。(10月16日)
李の帰国について国務省側は全く知らず、軍政司令部の手配(渡航書の発行など)による個人の資格での帰国であった。
一方、重慶臨時政府(臨政)の金九の帰国も、個人の資格であった。
国務省が臨政の資格での帰国に反対していたが、ホッジの差配で、臨政右派の金九とその支持者15人ほどが11月23日、ソウルに到着した。
続いて12月3日、金奎植、金元鳳とその支持者20人ほども帰国している。
だがホッジは間もなく、臨政のメンバーたちの政治センスのなさに、裏切られる思いで失望していく。
金九は反託運動を指導する一方で、民族反逆者と親日分子らを批判し、「進歩的民主主義」の樹立を目指していた。45年末、全国的なストライキを呼び掛け、臨政勢力を中心とした「政権」の樹立を計画したのだ。
ホッジは金九を叱責し、46年元旦、二人は衝突した。米軍政庁は金九を見限って、反託運動の主導権を李承晩一派に移してしまった。
反託運動はそれ以降、反共反ソキャンペーンが主流となっていった。一方、ホッジ自身も信託統治には反対で、朝鮮の即時独立を主張しているのは米国であるとの、反ソキャンペーンを煽っていった。
反託運動を先導していた朝鮮人たちの多くは、主として植民地時代の親日派、民族反逆者たちであった。
彼らは、信託統治を容認してソ連の支配下に入るか、それとも朝鮮の独立を勝ち取るのかが問われているのだとして、反託運動者こそが愛国者だと、問題をすり替えて主張していた。
以後、南朝鮮社会では、モスクワ協定の意味を歪曲させた右翼連中が、自らの暗い過去を隠すために、反託を巧みに利用する運動を展開していた。
反託運動のイニシアティブが、ソ連と社会主義者、左翼を敵視する右翼たちの手中に握られ、その右翼たちの背後には米軍政が存在するといった構図が出来上がっていった。
さらにワシントン側にも、朝鮮半島政策の方針を変化させる要素が発生していた。
ルーズベルトの死後、副大統領から第33代大統領となったトルーマン(45年4月)は、47年のトルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)、中国内戦での国民政府軍を支持するなど、反共政策、対ソ封じ込め政策、冷戦体制を主導するなど、反共強硬政治に終始した。そのトルーマンの影響が出てきたのだ。
反共主義者のトルーマンであったから、ソ連と歩調をとる朝鮮半島の信託統治方式よりは、ソ連封じ込め政策へと転換していくのは時間の問題であった。
米軍政庁、ホッジのプランが、米国案として具体化していくのである。だから、モスクワ会議の決定を受けて開かれた、第1次米ソ共同委員会(46年3月20日~5月6日)と、第2次(47年5月21日~10月18日)は、単に時間を消化しただけで、ホッジたちが望む南朝鮮単独選挙を用意していった。
このような南朝鮮での反託運動は、朝鮮半島における左右対立の闘争と南北対立をより激しいものにしていった。
ソ連のタス通信は1月25日(46年)、朝鮮に関するモスクワ協定に至るまでの交渉経過について、詳細で正確な分析報道を行った。
1 信託統治を主張していたのは米国であり、
2 朝鮮人による臨時政府の早急な樹立を主張したのはソ連である、
ことを明らかにした。
これに対してホッジは、従来通りのソ連陰謀説、南朝鮮現地では共産主義者が暗躍をしているとの反論を、ワシントンに送っていた。
トルーマン時代の米国政治はすでにして、対ソ対決スタイルとなっていたため、国務省の命令違反をしていたホッジの主張の方が、米国の意見となっていた。(2月頃から)
ホッジら米軍政は占領当初から、朝鮮においては、いかなることもソ連との協力を行わないとの立場であった。
そのため朝鮮問題の解決について、その頃から、分割して統治していた南朝鮮そのものを、米国は永久的に統治することを考えていたのだろう。
今に至る米国の一国中心主義が、ホッジ自身に持ち合わせていたことの不幸が、朝鮮半島を見舞っている。
最後に米国の傲慢政治を、ホッジが46年2月に国務省に送った言葉で紹介しよう。
「…現地の軍政庁が相手にしているのは、アメリカ教育をうけた富裕な朝鮮人ではなく、40年間にわたるジャップ(日本人)支配下の甚だしい影響のため、社会訓練も学校教育もろくに受けていない奇怪な東洋人種であるという事実です。彼らは頑固にそして狂的に自分たちの好悪にしがみつき、直接的な宣伝によって激しく左右されるばかりか、理性をもって説得することはほとんど不可能な連中です。現在われわれが対決を迫られている相手は、数百万というこういう類いの連中を煽り立てる目的で組織された強力且つ冷酷な(共産主義)政治集団であるのです。」(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第7章シアレヒム社発行)
ホッジは反共主義者であると同時に、強烈な人種偏見に満ちた、典型的な米国人思考の持主であった。
46年の初頭まで、米国の南朝鮮占領政策は相矛盾した二つの特徴をもっていた。
ワシントンとソウル、米国務省と米軍政庁の間での対立であった。
国務省の政策はソ連を含めた国際協調主義(多国間信託統治)であったのだが、軍政庁の方は共産主義封じ込めの米一国主義(単独政府の樹立)であった。
モスクワ3国外相会議(45年12月16~27日)で、米国は信託統治案を主張した。
信託統治プランは、ルーズベルト大統領の戦前からの発案であった。
従って国務省側が主張していたのは、ルーズベルトの遺産のようなものであった。
1.信託統治の期間が40年から50年(朝鮮が独立の準備を整えたと判断するまで)
2.4カ国(米・英・ソ・中)の後見的役割を強化する。
一などと、全体的に朝鮮の主体性を否定し、独立も後見役の強国からの恩恵的なもので、帝国主義的な意図が濃厚であった。
信託統治案に一貫して反対していたソ連が、モスクワ会議で出していた案は、信託統治というよりは、朝鮮人による過渡敵的臨時政府を樹立し、その発展方向にウェイトを置いていて、信託統治(後見)期間も5年を限度(5年以内)とし、場合によっては信託統治は必要ではないとすることを含んでいた。
モスクワ協定は、ソ連側の意見が多く反映された、米ソ両国の妥協の産物だったと言ってもよいだろう。
朝鮮臨時政府樹立のため、4カ国は後見役的な立場でたすけ、それも5年を限度とする。
それを実現させるために、米ソ間で緊密な協力を行う、という内容であった。
45年12月29日、モスクワ協定が発表された。
同時にホッジは、信託統治に反対の立場を表明し、朝鮮の即時的独立を主張しているのは米国なのだ、とするキャンペーンを展開した。
南朝鮮の占領政策をめぐって、ホワイトハウスの国務省側と対立していた米軍政庁の考え方は、南朝鮮内でのソ連・左翼勢力の影響を完全に封鎖することにあった。
ホッジのその考えは、仁川から上陸する以前からのもので、総督府に協力させつつ、植民地統治機構を受け継ぎ、かつ、日帝時代の親日勢力を配下(警察と下級官吏)に置く政策をとっていた。
だから南朝鮮の現実は、多くの一般朝鮮人が米軍政に反対し、ソ連側からの協力も得られない状況になっていた。
必然的に、政治的能力もない極右メンバーだけがホッジに引き寄せられて、社会全体を右傾化現象にさせてしまった自ら引き寄せた社会現象への反省もなく、ホッジは信頼できる反共の朝鮮人指導者の必要性を強く感じるようになった。
といって朝鮮の歴史や政治、朝鮮そのものについて無知なホッジは、都合の良い伝聞と情報だけで、2人を選んだ。
一人は米国に亡命していた李承晩で、もう一人は重慶臨時政府の金九であった。
在米中の李承晩の所業に否定的なワシントン側は、役立たない老人だからと、パスポートの交付を見合わせていた。
このワシントンの方針に反対していたホッジ、マッカーサー、グッドフェロー(米陸軍大佐、反国務省の立場で李承晩の保護者、後に李から朝鮮の利権を獲得)と李承晩と10月12日から15日まで東京で会談した後、李はマッカーサーの飛行機でソウルに送られた。(10月16日)
李の帰国について国務省側は全く知らず、軍政司令部の手配(渡航書の発行など)による個人の資格での帰国であった。
一方、重慶臨時政府(臨政)の金九の帰国も、個人の資格であった。
国務省が臨政の資格での帰国に反対していたが、ホッジの差配で、臨政右派の金九とその支持者15人ほどが11月23日、ソウルに到着した。
続いて12月3日、金奎植、金元鳳とその支持者20人ほども帰国している。
だがホッジは間もなく、臨政のメンバーたちの政治センスのなさに、裏切られる思いで失望していく。
金九は反託運動を指導する一方で、民族反逆者と親日分子らを批判し、「進歩的民主主義」の樹立を目指していた。45年末、全国的なストライキを呼び掛け、臨政勢力を中心とした「政権」の樹立を計画したのだ。
ホッジは金九を叱責し、46年元旦、二人は衝突した。米軍政庁は金九を見限って、反託運動の主導権を李承晩一派に移してしまった。
反託運動はそれ以降、反共反ソキャンペーンが主流となっていった。一方、ホッジ自身も信託統治には反対で、朝鮮の即時独立を主張しているのは米国であるとの、反ソキャンペーンを煽っていった。
反託運動を先導していた朝鮮人たちの多くは、主として植民地時代の親日派、民族反逆者たちであった。
彼らは、信託統治を容認してソ連の支配下に入るか、それとも朝鮮の独立を勝ち取るのかが問われているのだとして、反託運動者こそが愛国者だと、問題をすり替えて主張していた。
以後、南朝鮮社会では、モスクワ協定の意味を歪曲させた右翼連中が、自らの暗い過去を隠すために、反託を巧みに利用する運動を展開していた。
反託運動のイニシアティブが、ソ連と社会主義者、左翼を敵視する右翼たちの手中に握られ、その右翼たちの背後には米軍政が存在するといった構図が出来上がっていった。
さらにワシントン側にも、朝鮮半島政策の方針を変化させる要素が発生していた。
ルーズベルトの死後、副大統領から第33代大統領となったトルーマン(45年4月)は、47年のトルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)、中国内戦での国民政府軍を支持するなど、反共政策、対ソ封じ込め政策、冷戦体制を主導するなど、反共強硬政治に終始した。そのトルーマンの影響が出てきたのだ。
反共主義者のトルーマンであったから、ソ連と歩調をとる朝鮮半島の信託統治方式よりは、ソ連封じ込め政策へと転換していくのは時間の問題であった。
米軍政庁、ホッジのプランが、米国案として具体化していくのである。だから、モスクワ会議の決定を受けて開かれた、第1次米ソ共同委員会(46年3月20日~5月6日)と、第2次(47年5月21日~10月18日)は、単に時間を消化しただけで、ホッジたちが望む南朝鮮単独選挙を用意していった。
このような南朝鮮での反託運動は、朝鮮半島における左右対立の闘争と南北対立をより激しいものにしていった。
ソ連のタス通信は1月25日(46年)、朝鮮に関するモスクワ協定に至るまでの交渉経過について、詳細で正確な分析報道を行った。
1 信託統治を主張していたのは米国であり、
2 朝鮮人による臨時政府の早急な樹立を主張したのはソ連である、
ことを明らかにした。
これに対してホッジは、従来通りのソ連陰謀説、南朝鮮現地では共産主義者が暗躍をしているとの反論を、ワシントンに送っていた。
トルーマン時代の米国政治はすでにして、対ソ対決スタイルとなっていたため、国務省の命令違反をしていたホッジの主張の方が、米国の意見となっていた。(2月頃から)
ホッジら米軍政は占領当初から、朝鮮においては、いかなることもソ連との協力を行わないとの立場であった。
そのため朝鮮問題の解決について、その頃から、分割して統治していた南朝鮮そのものを、米国は永久的に統治することを考えていたのだろう。
今に至る米国の一国中心主義が、ホッジ自身に持ち合わせていたことの不幸が、朝鮮半島を見舞っている。
最後に米国の傲慢政治を、ホッジが46年2月に国務省に送った言葉で紹介しよう。
「…現地の軍政庁が相手にしているのは、アメリカ教育をうけた富裕な朝鮮人ではなく、40年間にわたるジャップ(日本人)支配下の甚だしい影響のため、社会訓練も学校教育もろくに受けていない奇怪な東洋人種であるという事実です。彼らは頑固にそして狂的に自分たちの好悪にしがみつき、直接的な宣伝によって激しく左右されるばかりか、理性をもって説得することはほとんど不可能な連中です。現在われわれが対決を迫られている相手は、数百万というこういう類いの連中を煽り立てる目的で組織された強力且つ冷酷な(共産主義)政治集団であるのです。」(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第7章シアレヒム社発行)
ホッジは反共主義者であると同時に、強烈な人種偏見に満ちた、典型的な米国人思考の持主であった。