「朝鮮問題へのレッスン」8.信託統治案
8.信託統治案
歴代のホワイトハウス中枢部は、朝鮮半島をアジア地域における軍事要塞化するため、南朝鮮地域を占領・支配する思考しか持ち合わせていなかったのではないかと患われる。
47年6月3日、南朝鮮で単独政権を樹立させる目的から、米軍政庁を「南朝鮮過度政府」と改称して準備をすすめるため、米国に亡命していた反共主義者の李承晩を、すでに送り込んでいた。 (45年 10月 17日)
李承晩 (1875-1965)は、親米反日者ではあったが、それは余りにも米国依存型 (米国の支持なしには朝鮮は独立ができない)であった。
1912年に米国で開かれた世界メソジスト教会の大会に、朝鮮教会の代表として参加したまま、米国 (ハワイ)に留まっていた。(亡命生活)
しかし金銭や利権問題などで常に問題を起こし、米朝鮮人社会では人気がなかった。
ワシントンに移り、朝鮮の独立には米国の力と介入が不可欠であると説得して、米政界の一部とコンダクトを持つようになった。
反共者、キリスト教信者、米政治家との若干の知人があり、そして何より米国の援助による朝鮮政府樹立論などにつられて、朝鮮半島のことを何も知らない米軍政たちは、彼をソウルに迎え入れることを希望していた。
李承晩は当時すでに70歳と高齢であった。
帰国した李承晩は、米軍政が期待していた以上の働きをしたから、南朝鮮社会は瞬く間に、政治テロリストが横行する暗黒社会へと変貌してしまった。
米軍政と李承晩一味とのタッグマッチが、南朝鮮で保守右罪と親日派を登場させ、社会主義・共産主義者たちを静圧していった。
一方、国務省、陸軍省、海軍省の米3省調整委員会(45年10月24日)では、朝鮮の占領は、早急に「信託統治」に移行しなければならならず、米ソは信託統治を実施するための会議を即刻開始せねばならないとされた。
また、朝鮮が独立を果たせるようになれば (注、単一の中央集権化された行政機構のこと)、信託統治機構を解消するが、朝鮮人が独立国家を運営していける能力を身につけるまでは、連合国がそれを手助けし、信託統治のもとに置く、との方針を決定していた。
同時期の米軍政のソウルでは、南部朝鮮では保守勢力を基盤とする自治政府を樹立 (過渡的臨時政府)し、それを米軍政の監督下に置き、やがて選挙を通じて「正式な政府」を選出し、最終的にはその「政府」権力を、米軍が占領していない地域 (北部朝鮮)にまで拡大していく、とのプランを温めていた。
ワシントンとソウルとの占領政策の溝は、大きかった。
それはまた朝鮮の情勢判断の差でもあったのだ。
いずれにしても現実の朝鮮は、米ソ両軍の分割占領から生じている諸問題の解決を、早急に協議する必要性に迫られていた。
ソ連を刺激せずに統一朝鮮の建設プランをすすめるためには、可能なかぎり軍政を速やかに終えて、信託統治機構にこれを引き継がせること―米国の占領政策は、3省調整委員会の意向に沿ってまとめられた。
45年12月16-26日、米・英・ソのモスクワ 3国外相会議が開かれた。
この会議では、連合国が懸案とする占領政策の諸問題が討議された。
もちろん朝鮮独立に関する問題は、細部にわたって協議された。
朝鮮に関する米国案は、「朝鮮統一行政機構」と題して提出された。
それによると、米・英・中・ソの4カ国を信託統治の施政権者とする信託統治案を提示。
朝鮮の行政、立法、司法の権限は、高等弁務官と 4カ国の代表で構成する行政評議会を通じて行う。
朝鮮人の政治的、経済的、社会的進歩をできるだけ速やかに促進させること、信託統治の期間は5年、必要があれば延長を可能とするとした。ホワイトハウス案であった。
これに対してソ連は、朝鮮の完全な独立を前提の、「臨時政府」の設立を提示した。
その内容は、臨時政府の設立を援助するために、米ソ両軍司令部の代表で構成する「共同委員会」を設置すること。
共同委員会は、臨時政府の樹立に際しては必ず、朝鮮側の政党および社会団体と協議しなければならず、最高5年を期限とする信託統治(後援的性格)に関する提案を作成すること。
それを最終的に米・英・中・ソの 4カ国が審議すること、とした。
そして、南北朝鮮の緊急的諸問題を検討するために、米ソ両軍司令部の代表者会議を、2週間以内に招集することも合わせて提示した。
米国案では、朝鮮の独立を遠い先のこととしており、しかも朝鮮人の政治参加は、信託統治体制下の行政官、顧問、アドバイザーなど、補助的な役割しか与えていない。(朝鮮人の政治能力を疑問視していたから)
また信託期間も、5年以上の延長(10年以上)も可能としていて、全体としては朝鮮人の能力を見下げたうえでの、占領政策の延長になっている。
一方のソ連案は、南北統一の自治政府(臨時政府)の樹立を主張し、信託統治の期間を5年以内として、米ソ両軍が援助するものの、朝鮮人主体の政治機構の形成に力点を置いた内容であった。
独立を主張していた朝鮮人たちにとって、米ソどちらのプランが自分たちの考え方にマッチしていたかは、はっきりとしていただろう。
モスクワ協定では、若干修正されたソ連側のプランが発表された。
ところが、その内容をねじ曲げた米国から知らされた朝鮮人民たちは、左右を問わず、一斉に反発をした。
5年間も外国の「信託統治下」に保留されることは、即時の独立を念願していた朝鮮人たちの民族感情を、甚だしく傷つけてしまったからである。
モスクワ協定の内容が正確に伝達される前に、朝鮮人は信託統治案に感情的に反機し反対していた。
米軍が意図的に、正確な内容を伝えなかったからである。米軍政庁と李承晩派は、朝鮮人の反託感情をうまく活用したといえるだろう。
信託統治案はソ連側の提案であり、ソ連は朝鮮の独立を妨害しているのだとの、明らかに事実とは違うことを説明し、ソ連を批判して、南朝鮮での反ソ・反共キャンペーンを展開させていった。
米軍政庁は、「信託統治」との表現を実際以上に活用して、朝鮮人のナショナリズムを煽り立てて、「反託運動」に名を借りた反ソ・反共キャンペーンを盛り上げていった。
歴代のホワイトハウス中枢部は、朝鮮半島をアジア地域における軍事要塞化するため、南朝鮮地域を占領・支配する思考しか持ち合わせていなかったのではないかと患われる。
47年6月3日、南朝鮮で単独政権を樹立させる目的から、米軍政庁を「南朝鮮過度政府」と改称して準備をすすめるため、米国に亡命していた反共主義者の李承晩を、すでに送り込んでいた。 (45年 10月 17日)
李承晩 (1875-1965)は、親米反日者ではあったが、それは余りにも米国依存型 (米国の支持なしには朝鮮は独立ができない)であった。
1912年に米国で開かれた世界メソジスト教会の大会に、朝鮮教会の代表として参加したまま、米国 (ハワイ)に留まっていた。(亡命生活)
しかし金銭や利権問題などで常に問題を起こし、米朝鮮人社会では人気がなかった。
ワシントンに移り、朝鮮の独立には米国の力と介入が不可欠であると説得して、米政界の一部とコンダクトを持つようになった。
反共者、キリスト教信者、米政治家との若干の知人があり、そして何より米国の援助による朝鮮政府樹立論などにつられて、朝鮮半島のことを何も知らない米軍政たちは、彼をソウルに迎え入れることを希望していた。
李承晩は当時すでに70歳と高齢であった。
帰国した李承晩は、米軍政が期待していた以上の働きをしたから、南朝鮮社会は瞬く間に、政治テロリストが横行する暗黒社会へと変貌してしまった。
米軍政と李承晩一味とのタッグマッチが、南朝鮮で保守右罪と親日派を登場させ、社会主義・共産主義者たちを静圧していった。
一方、国務省、陸軍省、海軍省の米3省調整委員会(45年10月24日)では、朝鮮の占領は、早急に「信託統治」に移行しなければならならず、米ソは信託統治を実施するための会議を即刻開始せねばならないとされた。
また、朝鮮が独立を果たせるようになれば (注、単一の中央集権化された行政機構のこと)、信託統治機構を解消するが、朝鮮人が独立国家を運営していける能力を身につけるまでは、連合国がそれを手助けし、信託統治のもとに置く、との方針を決定していた。
同時期の米軍政のソウルでは、南部朝鮮では保守勢力を基盤とする自治政府を樹立 (過渡的臨時政府)し、それを米軍政の監督下に置き、やがて選挙を通じて「正式な政府」を選出し、最終的にはその「政府」権力を、米軍が占領していない地域 (北部朝鮮)にまで拡大していく、とのプランを温めていた。
ワシントンとソウルとの占領政策の溝は、大きかった。
それはまた朝鮮の情勢判断の差でもあったのだ。
いずれにしても現実の朝鮮は、米ソ両軍の分割占領から生じている諸問題の解決を、早急に協議する必要性に迫られていた。
ソ連を刺激せずに統一朝鮮の建設プランをすすめるためには、可能なかぎり軍政を速やかに終えて、信託統治機構にこれを引き継がせること―米国の占領政策は、3省調整委員会の意向に沿ってまとめられた。
45年12月16-26日、米・英・ソのモスクワ 3国外相会議が開かれた。
この会議では、連合国が懸案とする占領政策の諸問題が討議された。
もちろん朝鮮独立に関する問題は、細部にわたって協議された。
朝鮮に関する米国案は、「朝鮮統一行政機構」と題して提出された。
それによると、米・英・中・ソの4カ国を信託統治の施政権者とする信託統治案を提示。
朝鮮の行政、立法、司法の権限は、高等弁務官と 4カ国の代表で構成する行政評議会を通じて行う。
朝鮮人の政治的、経済的、社会的進歩をできるだけ速やかに促進させること、信託統治の期間は5年、必要があれば延長を可能とするとした。ホワイトハウス案であった。
これに対してソ連は、朝鮮の完全な独立を前提の、「臨時政府」の設立を提示した。
その内容は、臨時政府の設立を援助するために、米ソ両軍司令部の代表で構成する「共同委員会」を設置すること。
共同委員会は、臨時政府の樹立に際しては必ず、朝鮮側の政党および社会団体と協議しなければならず、最高5年を期限とする信託統治(後援的性格)に関する提案を作成すること。
それを最終的に米・英・中・ソの 4カ国が審議すること、とした。
そして、南北朝鮮の緊急的諸問題を検討するために、米ソ両軍司令部の代表者会議を、2週間以内に招集することも合わせて提示した。
米国案では、朝鮮の独立を遠い先のこととしており、しかも朝鮮人の政治参加は、信託統治体制下の行政官、顧問、アドバイザーなど、補助的な役割しか与えていない。(朝鮮人の政治能力を疑問視していたから)
また信託期間も、5年以上の延長(10年以上)も可能としていて、全体としては朝鮮人の能力を見下げたうえでの、占領政策の延長になっている。
一方のソ連案は、南北統一の自治政府(臨時政府)の樹立を主張し、信託統治の期間を5年以内として、米ソ両軍が援助するものの、朝鮮人主体の政治機構の形成に力点を置いた内容であった。
独立を主張していた朝鮮人たちにとって、米ソどちらのプランが自分たちの考え方にマッチしていたかは、はっきりとしていただろう。
モスクワ協定では、若干修正されたソ連側のプランが発表された。
ところが、その内容をねじ曲げた米国から知らされた朝鮮人民たちは、左右を問わず、一斉に反発をした。
5年間も外国の「信託統治下」に保留されることは、即時の独立を念願していた朝鮮人たちの民族感情を、甚だしく傷つけてしまったからである。
モスクワ協定の内容が正確に伝達される前に、朝鮮人は信託統治案に感情的に反機し反対していた。
米軍が意図的に、正確な内容を伝えなかったからである。米軍政庁と李承晩派は、朝鮮人の反託感情をうまく活用したといえるだろう。
信託統治案はソ連側の提案であり、ソ連は朝鮮の独立を妨害しているのだとの、明らかに事実とは違うことを説明し、ソ連を批判して、南朝鮮での反ソ・反共キャンペーンを展開させていった。
米軍政庁は、「信託統治」との表現を実際以上に活用して、朝鮮人のナショナリズムを煽り立てて、「反託運動」に名を借りた反ソ・反共キャンペーンを盛り上げていった。