「朝鮮問題へのレッスン」7.米ソ共同委員会
7.米ソ共同委員会
46年に入って、南朝鮮ではモスクワ3国外相会議決定の信託統治案をめぐって、左右両派間の対立が激化していた。
それは民族分裂の様相を呈していたと言ってもよい。
とくに親日派・民族反逆者たちは、信託統治案の朝鮮人による臨時統一政府(ソ連案)が樹立されるようになれば、自らの過去が問われて処断・追放されることを最も恐れていた。
そうした彼らが米占領軍にとり入り、李承晩派に結集して、反共・反ソ・反託運動をいっそう激化していった。
信託統治案は、もともと米国(ルーズベルト大統領―米国務省)が考えたものであった。(モスクワ会談の決定内容とは違うが)
現地ソウルの米軍政の先導によって、親日派、民族反逆者、右翼らの反対の声を利用して、信託統治プランを政治的に退け、かつ、彼らの声を背景にした米国は、米ソ共同委員会に臨んだ。
米ソ共同委員会を開催することは、モスクワ会議での約束だったからである。
米国側の首席代表は、アーノルド少将(米軍政長官)であった。
第1次は46年3月20日、ソウルで開催した。
米ソ間の意見対立は縮まらず、5月6日には無期休会となった。
その後、米ソ両国間で裏面交渉が続き、第2次共同委員会が47年5月21日から、一年振りにソウルで開かれた。
しかし米ソ間の対立点は氷解せず、7月10日には事実上の無期休会状態となり、米国は同年10月20日に委員会を破綻させてしまった。
米ソの対立点は、米ソ共同委員会が諮問する朝鮮の政党・社会団体の規定問題と、信託統治の設置が先決か朝鮮人自身の臨時政権樹立が先かの、問題であった。
米国は信託統治に反対する政党・社会団体も協議の対象にすることを主張したのに対し、ソ連はモスクワ協定に反対する政党・社会団体を審議の対象とすることはおかしいとして、双方は相手を非難して、反発するだけの会議時間が続いていた。
米国はこの米ソ共同委員会の無期休会、決裂を予定していたような政治パフォーマンスを続けていたが、朝鮮人側からすれば、朝鮮人不在の「大国」間に翻弄される波間に置かれていて、会議そのものを忸怩たる思いで見ていたはずだ。
だから、米ソ共同委員会の進捗とは関係なく、親日派を主体とする保守勢力たちを結集して46年2月、「南朝鮮代表民主議院」(民主議院)を設立させた米軍政は、それを実質的に南側の「政党連合体」「統一的な政府機関」として育成する方針を掲げていた。
一方、北では2月8日に創建した「北朝鮮臨時人民委員会」が政治的機能を有して動き始めていて、ソ連側もそれを「政府機関」と認識していた。
このように共同委員会の裏面では、南北双方とも、政治を実施する「政府」的機能機関が組織されていたことになる。そのようなことも、米ソ共同委員会が機能せず、対立し決裂となった原因の一つだったと思われる。
とはいえ米国の政策方針が、信託統治から反託へ、南朝鮮単独選挙、ソ連封じ込めを決定していたことが根本原因であった。
米国は、ルーズベルト時代の43年以降、戦後の朝鮮半島統治をインドシナと同様、信託統治の方針で臨んできた。
その意図は、朝鮮半島に複数国家による共同信託統治を行い、その中にソ連も率いれて、朝鮮半島におけるソ連の一定程度の利益を認めると同時に、そのことによってソ連を牽制し制約することを目論んでいた。
ソ連に対する封じ込め作戦であった。
ルーズベルトのソ連封じ込め作戦には、ジェノバ会議(1922年)での「平和共有」意識があったのかも知れない。
ジェノバ会議は、1922年4~5月にジェノバ(イタリア)で開かれた国際経済・財政会議(34カ国参加)で、資本主義と社会主義の2つの「所有制度」の同権、共存(平和共存)を認めた会議であった。
平和共存の国際関係は、諸国民が外部からのいかなる干渉も受けることなしに、社会制度を選択する権利の承認を、当然の原則とした。
この会議でソ連(レーニン)は、毒ガス兵器の禁止を提起し、それが3年後のジュネーブ会議(1925年)で、毒ガス兵器禁止ジュネーブ協定として実現した。
だが、次のトルーマン時代以下の、共産主義封じ込め政策とは違っている。
ルーズベルトは、一つの線上での対立を想定するのではなく、相互利益となる関係の中に「敵」(ソ連)を引き入れて、共同責任、若しくは過失を求めることを狙ったもので、朝鮮半島の信託統治案でいえば、まだ、ソ連との共同行動を取る余裕があった。
当時の米国は、大戦終了後の世界的安保には、米国が絶対的な優位を保ち得るとの自信があったからである。
しかし、このルーズベルトの対ソ封じ込め政策が、結局は朝鮮半島の分断を招いてしまったのだと、ブールス・カミングスは指摘している。
また、トルーマン時代以下の「封じ込め」政策は、敵との共同行動などという余裕あるものではなく、対決姿勢をはっきりと示すものとなっていた。朝鮮半島で言えば、38度線を共産主義勢力への封鎖線、若しくは対決線として利用しつつ、支配地の南側で反共勢力を育成することであった。
いつの時代も共産主義「封鎖」政治を行っていた米国は、共同委員会が決裂したことを口実(予定していた)にして、朝鮮問題を国連(47年9月の第2回総会)に持ち込んだ。
これに対してソ連は、米ソ共同委員会の再開を要求して、ソ連側首席代表のチスチャコフ中将がソウルの会合で、米国を非難しつつ、以下の内容を暴露した。(9月26日の米ソ共同委員会会議)
1 モスクワ協定は連合国の朝鮮に対する好意ある政策を表明した文書である。
2 北朝鮮においては民主改革が進捗しているのに、南朝鮮では米軍政当局が人民委員会の合法性を認めず、なんら民主改革が行われていない。
3 ソ連が朝鮮の併合を希望しているとの噂を広める者がいるが、それは事実無根である。
4 モスクワ協定では5年間の信託統治をうたっているが、米国は10年間の信託統治を強く主張した。
さらに続けて、米ソ両軍は3カ月以内(1948年初頭までに)に、同時に朝鮮半島から撤退することについても提議した。
実際、ソ連軍は48年12月、北朝鮮から完全撤退を完了させている。
46年に入って、南朝鮮ではモスクワ3国外相会議決定の信託統治案をめぐって、左右両派間の対立が激化していた。
それは民族分裂の様相を呈していたと言ってもよい。
とくに親日派・民族反逆者たちは、信託統治案の朝鮮人による臨時統一政府(ソ連案)が樹立されるようになれば、自らの過去が問われて処断・追放されることを最も恐れていた。
そうした彼らが米占領軍にとり入り、李承晩派に結集して、反共・反ソ・反託運動をいっそう激化していった。
信託統治案は、もともと米国(ルーズベルト大統領―米国務省)が考えたものであった。(モスクワ会談の決定内容とは違うが)
現地ソウルの米軍政の先導によって、親日派、民族反逆者、右翼らの反対の声を利用して、信託統治プランを政治的に退け、かつ、彼らの声を背景にした米国は、米ソ共同委員会に臨んだ。
米ソ共同委員会を開催することは、モスクワ会議での約束だったからである。
米国側の首席代表は、アーノルド少将(米軍政長官)であった。
第1次は46年3月20日、ソウルで開催した。
米ソ間の意見対立は縮まらず、5月6日には無期休会となった。
その後、米ソ両国間で裏面交渉が続き、第2次共同委員会が47年5月21日から、一年振りにソウルで開かれた。
しかし米ソ間の対立点は氷解せず、7月10日には事実上の無期休会状態となり、米国は同年10月20日に委員会を破綻させてしまった。
米ソの対立点は、米ソ共同委員会が諮問する朝鮮の政党・社会団体の規定問題と、信託統治の設置が先決か朝鮮人自身の臨時政権樹立が先かの、問題であった。
米国は信託統治に反対する政党・社会団体も協議の対象にすることを主張したのに対し、ソ連はモスクワ協定に反対する政党・社会団体を審議の対象とすることはおかしいとして、双方は相手を非難して、反発するだけの会議時間が続いていた。
米国はこの米ソ共同委員会の無期休会、決裂を予定していたような政治パフォーマンスを続けていたが、朝鮮人側からすれば、朝鮮人不在の「大国」間に翻弄される波間に置かれていて、会議そのものを忸怩たる思いで見ていたはずだ。
だから、米ソ共同委員会の進捗とは関係なく、親日派を主体とする保守勢力たちを結集して46年2月、「南朝鮮代表民主議院」(民主議院)を設立させた米軍政は、それを実質的に南側の「政党連合体」「統一的な政府機関」として育成する方針を掲げていた。
一方、北では2月8日に創建した「北朝鮮臨時人民委員会」が政治的機能を有して動き始めていて、ソ連側もそれを「政府機関」と認識していた。
このように共同委員会の裏面では、南北双方とも、政治を実施する「政府」的機能機関が組織されていたことになる。そのようなことも、米ソ共同委員会が機能せず、対立し決裂となった原因の一つだったと思われる。
とはいえ米国の政策方針が、信託統治から反託へ、南朝鮮単独選挙、ソ連封じ込めを決定していたことが根本原因であった。
米国は、ルーズベルト時代の43年以降、戦後の朝鮮半島統治をインドシナと同様、信託統治の方針で臨んできた。
その意図は、朝鮮半島に複数国家による共同信託統治を行い、その中にソ連も率いれて、朝鮮半島におけるソ連の一定程度の利益を認めると同時に、そのことによってソ連を牽制し制約することを目論んでいた。
ソ連に対する封じ込め作戦であった。
ルーズベルトのソ連封じ込め作戦には、ジェノバ会議(1922年)での「平和共有」意識があったのかも知れない。
ジェノバ会議は、1922年4~5月にジェノバ(イタリア)で開かれた国際経済・財政会議(34カ国参加)で、資本主義と社会主義の2つの「所有制度」の同権、共存(平和共存)を認めた会議であった。
平和共存の国際関係は、諸国民が外部からのいかなる干渉も受けることなしに、社会制度を選択する権利の承認を、当然の原則とした。
この会議でソ連(レーニン)は、毒ガス兵器の禁止を提起し、それが3年後のジュネーブ会議(1925年)で、毒ガス兵器禁止ジュネーブ協定として実現した。
だが、次のトルーマン時代以下の、共産主義封じ込め政策とは違っている。
ルーズベルトは、一つの線上での対立を想定するのではなく、相互利益となる関係の中に「敵」(ソ連)を引き入れて、共同責任、若しくは過失を求めることを狙ったもので、朝鮮半島の信託統治案でいえば、まだ、ソ連との共同行動を取る余裕があった。
当時の米国は、大戦終了後の世界的安保には、米国が絶対的な優位を保ち得るとの自信があったからである。
しかし、このルーズベルトの対ソ封じ込め政策が、結局は朝鮮半島の分断を招いてしまったのだと、ブールス・カミングスは指摘している。
また、トルーマン時代以下の「封じ込め」政策は、敵との共同行動などという余裕あるものではなく、対決姿勢をはっきりと示すものとなっていた。朝鮮半島で言えば、38度線を共産主義勢力への封鎖線、若しくは対決線として利用しつつ、支配地の南側で反共勢力を育成することであった。
いつの時代も共産主義「封鎖」政治を行っていた米国は、共同委員会が決裂したことを口実(予定していた)にして、朝鮮問題を国連(47年9月の第2回総会)に持ち込んだ。
これに対してソ連は、米ソ共同委員会の再開を要求して、ソ連側首席代表のチスチャコフ中将がソウルの会合で、米国を非難しつつ、以下の内容を暴露した。(9月26日の米ソ共同委員会会議)
1 モスクワ協定は連合国の朝鮮に対する好意ある政策を表明した文書である。
2 北朝鮮においては民主改革が進捗しているのに、南朝鮮では米軍政当局が人民委員会の合法性を認めず、なんら民主改革が行われていない。
3 ソ連が朝鮮の併合を希望しているとの噂を広める者がいるが、それは事実無根である。
4 モスクワ協定では5年間の信託統治をうたっているが、米国は10年間の信託統治を強く主張した。
さらに続けて、米ソ両軍は3カ月以内(1948年初頭までに)に、同時に朝鮮半島から撤退することについても提議した。
実際、ソ連軍は48年12月、北朝鮮から完全撤退を完了させている。