「空疎な政治家のことば」
「空疎な政治家のことば」
名田隆司
安倍晋三首相は12月26日、靖国神社を参拝した。
小泉純一郎首相が参拝(2006年)して以来、首相の参拝は7年ぶりである。
安倍首相は午前11時半ころ、首相官邸から公用車で靖国神社に到着、玉串料3万円を私費で支払い、玄関ホールにあたる到着殿で「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳。
本殿前にも首相名で花を添えた。
この日は第2次安倍政権発足1年で、周到に準備して参拝に踏み切ったものと思われる。
それを、私的参拝だと強弁している。
私的参拝ならば、公用車を使用したこと、「内閣総理大臣」と記帳したこと、首相名で花を贈ったことなどと矛盾し、いずれも憲法違反(政教分離原則)に当たる。
また、首相は日本国民を代表する立場であるから公私の区別をすることは難しい立場にあるのだから、参拝の瞬間だけが、「私的」だとする詭弁など通用しない。現憲法の手前、玉串料の私費だけをもって「私的」を演出しているのだろう。
首相が靖国神社を参拝したことで、国内外から厳しい批判の声が挙がるのは、そこがA級戦犯を合祀している場所であったからである。
日本は、A級戦犯を断罪した極東国際軍事裁判(東京裁判)を受け入れることで独立を回復し、国際社会に復帰を果たしたのだから、その「原罪」を「尊崇
する行為は、国際社会への公約違反になる。
つまり、1951年のサンフランシスコ講和条約で東京裁判の結果も受け入れていたのだから、首相がそのA級戦犯を祭っている靖国神社に参拝することは、国際公約を否定し、過去の侵略戦争を正当化する行為になっているから、政治問題化するのである。
日本の政治家たちは、靖国神社に参拝するたび、「尊い命を犠牲にされたご英霊に対して」
「国に殉じたご英霊に対して」などと、言い訳をしている。
靖国神社が政治問題化するのは、「昭和殉難者」としてA級戦犯(戦争指導者)を合祀した1978年10月以降である。
これ以降、靖国神社の性格は変化して、侵略戦争を肯定し記念する施設になっていしまったのだ。
だから、それまで靖国神社を参拝していた昭和天皇も「国を安らかにしようと奮戦した人を祭る神社に、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀する」との不快感から参拝を中止してきた経緯がある。
にもかかわらず「戦犯崇拝というのは誤解」とか、「尊い命を犠牲にされたご英霊を・・」との理屈をつけて首相や政治家たちが、靖国神社を参拝する行為は、日本の過去の歴史を肯定し、平和志向を否定する行為である。
また、平和、民主、自主を志向する日本国民の意思をも裏切る行為になっている。
今回、安倍首相は靖国神社敷地内にある「鎮霊社」にも参拝したとしている。
鎮霊社は、靖国神社に合祀されていない戦没者らを慰霊するために1965年に建てられた。
外国人も祭られているというから、無理やり日本人にされた朝鮮人や中国人(台湾)たちも合祀されている場所なのであろう。
そこを参拝したのは、南北朝鮮や中国への配慮だったとしているが、全く「政治オンチ」としか言いようがない。
安倍氏は靖国神社と鎮霊社を参拝して、「不戦の誓い」をした、「恒久平和への誓い」をした、「英霊に対して哀悼の誠をささげた」などと自らの行為を自賛して、右翼一流の高揚感を表現していた。
だが安倍首相の靖国神社参拝に対して、中国、南北朝鮮のほか、米国までもが批判している。
中国外務省報道局は27日の定例会見で、「自己の歴史と向き合わず、人を正視しないで、どうして国際社会や人を信頼させられるのか」と非難した。
程永華駐日大使は「不戦の誓いをする場所が違う」と批判をしていた。(毎日新聞12月30日付け)
韓国も「嘆かわしく、憤怒を禁じえない」との政府報道官声明を発表し、「積極的平和主義という名の下に国際社会に貢献したいというが、誤った歴史観を持ち、平和増進に寄与できると考えているのか、問わずにいられない」と厳しい。
北朝鮮は、平壌放送で「無分別な行為」「軍国主義の亡霊をよみがえらせようとしている
と報じた。
台湾では、「戦犯参拝は歴史の正義に対する挑戦だ」とする抗議集会を開いていた。
一方で米国は、在日米大使館が「失望感」を示す声明(26日)を即座に出した。
米国務省のサキ報道官もまた、「失望した」として米大使館と同一内容を発表した。
もっとも米国の「失望感」表明は、10月の日米安保協議での約束、朝鮮半島危機での日米韓、または日韓合同軍事行動と約束が前進せず、その苛立ちへの「失望感」であった。
靖国神社が「戦争肯定」施設化している現状で、首相が参拝することは、日本が過去の戦争を美化し、新たな戦争準備を進めていると、そのように見えていることを認識すべきだ。
参拝後の「平和のために」「英霊のために」との安倍氏の言葉は、彼自身の右へのハンドルを切るための政治利用としか聞こえない。
その翌日(27日)、沖縄県の仲井真弘和知事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた政府の埋め立て申請(公有水面の埋め立て)を承認(法的手続き)すると発表した。
知事は承認した理由を「環境保全措置が講じられており、基準に適合している」ので「判断して承認することとした」と説明している。
さらに、安倍晋三首相が提示した沖縄振興策と基地負担軽減策を「県の要望に沿った内容が盛り込まれており、安倍内閣の沖縄に対する思いは、かつてのどの内閣にも増して強いと感じた」と、安倍首相を評価した。
このことに対して、「やはり札束で頬を撫でられた」と揶揄されている。
知事はまた、米軍普天間飛行場の沖縄県外への移設公約に対しては「公約を変えたつもりはない」と主張した。
つまり、「5年以内に県外移設し、運用を停止することに取り組むと首相の確約を得ている」と、安倍首相からの口約束だけを「担保」にしていることになる。
知事は報道陣の質問に対して、「安倍首相は沖縄の要望をすべて受け止め、米国と交渉をまとめていくという強い姿勢を示された」「普天間の5年以内の運用停止の道筋が見えつつある」「県外移設ということも、辺野古移設が困難という考えも変わっていない。(したがって公約は変わっていない)」――などと答えている。
仲井真知事が安倍首相が説得した「ことば」をどのようにして理解へと導いたかは不明であるものの、政治家同士の言葉のキャッチボールの軽さを感じてしまう。
今回の言葉のキャッチボールでも、「辺野古埋め立て承認」と「普天間飛行場の県外移設」公約との差は、まだ埋められていないように思う。
沖縄県民の激しい怒りの声は当然、仲井真知事と安倍政権に向けられた。
27日から沖縄県庁前広場で、知事への抗議集会を開いた県民たちは、知事への「うそつき」と怒りの声を挙げていた。
「天気は晴れているのに、県民の心は号泣している」(糸数慶子参院議員)
「知事は政府と一緒になって埋め立てを承認するシナリオを作った」(移設予定地で座り込み抗議活動を続ける安次富浩さん)
「公約違反である以上に詐欺だ。県民をばかにしている」(宜野座村の仲間真さん)
「『公約は変えない』という知事の発言はまやかしだ。知事が政府に要請した普天間の5年以内の運用停止ができているのであれば、なぜ17年間も普天間は動かなかったのか。政府の負担軽減策は信用に値しない」(元沖縄県議会議長 仲里利信)
2013年12月30日
名田隆司
安倍晋三首相は12月26日、靖国神社を参拝した。
小泉純一郎首相が参拝(2006年)して以来、首相の参拝は7年ぶりである。
安倍首相は午前11時半ころ、首相官邸から公用車で靖国神社に到着、玉串料3万円を私費で支払い、玄関ホールにあたる到着殿で「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳。
本殿前にも首相名で花を添えた。
この日は第2次安倍政権発足1年で、周到に準備して参拝に踏み切ったものと思われる。
それを、私的参拝だと強弁している。
私的参拝ならば、公用車を使用したこと、「内閣総理大臣」と記帳したこと、首相名で花を贈ったことなどと矛盾し、いずれも憲法違反(政教分離原則)に当たる。
また、首相は日本国民を代表する立場であるから公私の区別をすることは難しい立場にあるのだから、参拝の瞬間だけが、「私的」だとする詭弁など通用しない。現憲法の手前、玉串料の私費だけをもって「私的」を演出しているのだろう。
首相が靖国神社を参拝したことで、国内外から厳しい批判の声が挙がるのは、そこがA級戦犯を合祀している場所であったからである。
日本は、A級戦犯を断罪した極東国際軍事裁判(東京裁判)を受け入れることで独立を回復し、国際社会に復帰を果たしたのだから、その「原罪」を「尊崇
する行為は、国際社会への公約違反になる。
つまり、1951年のサンフランシスコ講和条約で東京裁判の結果も受け入れていたのだから、首相がそのA級戦犯を祭っている靖国神社に参拝することは、国際公約を否定し、過去の侵略戦争を正当化する行為になっているから、政治問題化するのである。
日本の政治家たちは、靖国神社に参拝するたび、「尊い命を犠牲にされたご英霊に対して」
「国に殉じたご英霊に対して」などと、言い訳をしている。
靖国神社が政治問題化するのは、「昭和殉難者」としてA級戦犯(戦争指導者)を合祀した1978年10月以降である。
これ以降、靖国神社の性格は変化して、侵略戦争を肯定し記念する施設になっていしまったのだ。
だから、それまで靖国神社を参拝していた昭和天皇も「国を安らかにしようと奮戦した人を祭る神社に、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀する」との不快感から参拝を中止してきた経緯がある。
にもかかわらず「戦犯崇拝というのは誤解」とか、「尊い命を犠牲にされたご英霊を・・」との理屈をつけて首相や政治家たちが、靖国神社を参拝する行為は、日本の過去の歴史を肯定し、平和志向を否定する行為である。
また、平和、民主、自主を志向する日本国民の意思をも裏切る行為になっている。
今回、安倍首相は靖国神社敷地内にある「鎮霊社」にも参拝したとしている。
鎮霊社は、靖国神社に合祀されていない戦没者らを慰霊するために1965年に建てられた。
外国人も祭られているというから、無理やり日本人にされた朝鮮人や中国人(台湾)たちも合祀されている場所なのであろう。
そこを参拝したのは、南北朝鮮や中国への配慮だったとしているが、全く「政治オンチ」としか言いようがない。
安倍氏は靖国神社と鎮霊社を参拝して、「不戦の誓い」をした、「恒久平和への誓い」をした、「英霊に対して哀悼の誠をささげた」などと自らの行為を自賛して、右翼一流の高揚感を表現していた。
だが安倍首相の靖国神社参拝に対して、中国、南北朝鮮のほか、米国までもが批判している。
中国外務省報道局は27日の定例会見で、「自己の歴史と向き合わず、人を正視しないで、どうして国際社会や人を信頼させられるのか」と非難した。
程永華駐日大使は「不戦の誓いをする場所が違う」と批判をしていた。(毎日新聞12月30日付け)
韓国も「嘆かわしく、憤怒を禁じえない」との政府報道官声明を発表し、「積極的平和主義という名の下に国際社会に貢献したいというが、誤った歴史観を持ち、平和増進に寄与できると考えているのか、問わずにいられない」と厳しい。
北朝鮮は、平壌放送で「無分別な行為」「軍国主義の亡霊をよみがえらせようとしている
と報じた。
台湾では、「戦犯参拝は歴史の正義に対する挑戦だ」とする抗議集会を開いていた。
一方で米国は、在日米大使館が「失望感」を示す声明(26日)を即座に出した。
米国務省のサキ報道官もまた、「失望した」として米大使館と同一内容を発表した。
もっとも米国の「失望感」表明は、10月の日米安保協議での約束、朝鮮半島危機での日米韓、または日韓合同軍事行動と約束が前進せず、その苛立ちへの「失望感」であった。
靖国神社が「戦争肯定」施設化している現状で、首相が参拝することは、日本が過去の戦争を美化し、新たな戦争準備を進めていると、そのように見えていることを認識すべきだ。
参拝後の「平和のために」「英霊のために」との安倍氏の言葉は、彼自身の右へのハンドルを切るための政治利用としか聞こえない。
その翌日(27日)、沖縄県の仲井真弘和知事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた政府の埋め立て申請(公有水面の埋め立て)を承認(法的手続き)すると発表した。
知事は承認した理由を「環境保全措置が講じられており、基準に適合している」ので「判断して承認することとした」と説明している。
さらに、安倍晋三首相が提示した沖縄振興策と基地負担軽減策を「県の要望に沿った内容が盛り込まれており、安倍内閣の沖縄に対する思いは、かつてのどの内閣にも増して強いと感じた」と、安倍首相を評価した。
このことに対して、「やはり札束で頬を撫でられた」と揶揄されている。
知事はまた、米軍普天間飛行場の沖縄県外への移設公約に対しては「公約を変えたつもりはない」と主張した。
つまり、「5年以内に県外移設し、運用を停止することに取り組むと首相の確約を得ている」と、安倍首相からの口約束だけを「担保」にしていることになる。
知事は報道陣の質問に対して、「安倍首相は沖縄の要望をすべて受け止め、米国と交渉をまとめていくという強い姿勢を示された」「普天間の5年以内の運用停止の道筋が見えつつある」「県外移設ということも、辺野古移設が困難という考えも変わっていない。(したがって公約は変わっていない)」――などと答えている。
仲井真知事が安倍首相が説得した「ことば」をどのようにして理解へと導いたかは不明であるものの、政治家同士の言葉のキャッチボールの軽さを感じてしまう。
今回の言葉のキャッチボールでも、「辺野古埋め立て承認」と「普天間飛行場の県外移設」公約との差は、まだ埋められていないように思う。
沖縄県民の激しい怒りの声は当然、仲井真知事と安倍政権に向けられた。
27日から沖縄県庁前広場で、知事への抗議集会を開いた県民たちは、知事への「うそつき」と怒りの声を挙げていた。
「天気は晴れているのに、県民の心は号泣している」(糸数慶子参院議員)
「知事は政府と一緒になって埋め立てを承認するシナリオを作った」(移設予定地で座り込み抗議活動を続ける安次富浩さん)
「公約違反である以上に詐欺だ。県民をばかにしている」(宜野座村の仲間真さん)
「『公約は変えない』という知事の発言はまやかしだ。知事が政府に要請した普天間の5年以内の運用停止ができているのであれば、なぜ17年間も普天間は動かなかったのか。政府の負担軽減策は信用に値しない」(元沖縄県議会議長 仲里利信)
2013年12月30日