「朝鮮問題へのレッスン」6.米軍政庁
6.米軍政庁
朝鮮半島の位置に最も近くにいたとの理由で、沖縄駐屯の米第10軍第24軍団(司令官ホッジ中将)が、日本軍の降伏受理と武装解除のため朝鮮への派遣(進駐)を命じられた。
ホッジ中将は、マッカーサー総合司令官から8月18日、朝鮮進駐の米軍司令官に突然、任命されたばかりであって、朝鮮のことをほとんど知らない米軍内にあっても、さらにホッジの場合は、朝鮮関連の知識を全く持たず、関心もなかったようである。
しかもこの時の米第24軍団は、戦闘に疲れて力が尽き果て、人員の不足も甚だしい部隊であった。
沖縄戦での甚大な人員損傷のために補充した戦闘要員は、その大部分が訓練所を出たばかりの新兵たちであったからである。
普通なら、第一線戦闘部隊としての任務には不向きではあったが、日本軍の武装解除を担当するだけで、なおかつソ連軍との陣地取り戦闘もないことが確定していたから、この部隊に決まったようなものである。
朝鮮事情を何も知らない米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部、沖縄とソウルとの間で無線連絡が開始される。
総督府は8月22日、以南に米軍が進駐するとの内務次官からの「予告電報」を受けとっている。(これまでは、ソ連軍が朝鮮半島を占領するだろうとの予測のもとにいた)
この予告電報によって始めて、米軍が朝鮮半島の南部地域に進駐してくることを知り、彼らなりの安堵感が広がっていった。
翌23日、総督府は局長会議を開き、米軍進駐を歓迎するとし、治安維持は進駐軍と協力しつつ、これまで通り朝鮮人思想主義者への対応は総督府官吏に事情を聞くなどして、占領政策を実施することの希望を米軍に伝達することを決めた。
従って、それ以降の総督府の態度は、進駐してくる米軍に迎合的で、自己都合的な情報伝達をする一方で、建準の呂運亭などには冷淡となり、左派系のメンバーを取り締まる方向へと転換していった。
8月31日に、沖縄の米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部との間で、無線連絡の交信が始まった。
これ以降、米第24軍のホッジに伝えられる内容は、総督府からのプロパガンダ情報だけであって、それがホッジ自身の朝鮮情報の源泉となった。
南部朝鮮では北(ソ連)から侵入した「革命勢力」が活動している、だから治安維持業務は警察力ではなく軍が必要だなどとの、総督府と日本軍の存在性と必要性を示唆するものが多く、日本側にとって都合が良い情報ばかりであった。
ということは、建準をはじめとする独立政権づくりに動いていた朝鮮人活動家たちにとっては、都合の悪い内容ばかりであったことになる。
米軍側もまた、ソ連軍が約束を破って南下してこないかとの疑心があり、ソ連との対抗上からも、日本側の情報を歓迎する向きがあった。
全く、これは帝国主義者同士の会話であり、情報交換であった。
9月8日、ホッジ中将率いる米第24軍団が仁川に到着し、そこから上陸した。
日本軍との降伏文書調印後、ホッジは「・・・余の命令下にある官吏に服従すること」を、朝鮮人民に要求した。
つまり、米軍の占領政策は総督府の機構を通じて行い、朝鮮人はそれら元植民地官僚に従えというのである。
10月10日には、「米軍政庁が南朝鮮唯一の政府である」と宣言すると同時に、朝鮮人民共和国政府の解体を命じた。
43年のカイロ宣言は、朝鮮人の「奴隷状態」に言及し、暗黙裏にではあったが、連合国にとって朝鮮人は敵ではなく、日本の侵略による最初の犠牲者であることを認定していた。
8月下旬、マッカーサーも第24軍団に、朝鮮人を「解放された国民」として遇することを要求していたのだ。
ところが9月4日、ホッジは第 24軍団の将兵に対して、朝鮮は「合衆国の敵」であって、従って「降伏の諸規定と条件が適用される」と通告した。
ホッジが言う「諸規定」とは、軍事占領の国際法である「ハーグ条約」のことであろう。
同法の第43条は敵国に対するもので、占領軍は事実上、無制限の権力を行使し得るとしている。一方で、敵でない場合は、平和的な占領で、相手側との相互協定による制約を受けることになっている。
ホッジの心境変化は、8月29日以降の総督府からの無線連絡、共産主義者らが扇動しており、秩序を保つためには既存の秩序維持が必要との、情報によるものであった。
その結果、米占領軍は8月から9月にかけて、朝鮮人は準敵国人、日本人は友国人だと、傾倒した判断変化をしていた。
同時期、米国はソ連を連合国の一員とみなしていた戦時中の考え方から変化している。当然、呂運亭をはじめとする朝鮮人民たちは、強く反発し抵抗していった。
米国は解放者ではなく、日帝に代わる占領者であったことを、この頃から朝鮮人たちは理解しはじめる。
米軍は9月11日、総督府の統治機構を引き継ぐかたちで、以後は「米軍政庁」(軍政長官アーノルド少将)が、占領政策を実施すると発表した。
侵略者の姿を、はっきりと現したのである。
また、国際社会との関係から、阿部総督ら総督府幹部たちを解任(9月14日)した後も、朝鮮統治や朝鮮情報などを、解任者から得ていたため、朝鮮で民主的、自主的な朝鮮人自身の政権樹立など、初めから考えていなかったことが分かる。
米軍政庁統治の3年間(48年8月の大韓民国政府の樹立まで)は、総督府の統治機構をまるごと継承し、朝鮮人行政官吏(親日派)の留任のほか、一部の日本人官吏が顧問として留任させていた。
親日の官僚・警察官、地主、反民族的人物を再登用する一方で、社会主義者はもちろんのこと、金九など重慶臨時政府系の右派民族主義者まで徹底的に排除した。
米軍政の占領政策は、植民地統治の完全な清算を要求する朝鮮人民と、独立運動とその政権を樹立しようとした勢力に打撃を与え、親日勢力に対してはその復活を許す役割を果たしただけである。
親日勢力の復活を許した政治的後遺症は、長らく南朝鮮社会に影を落とし、今日もまだそれが清算されていない。
2013年11月7日 記
朝鮮半島の位置に最も近くにいたとの理由で、沖縄駐屯の米第10軍第24軍団(司令官ホッジ中将)が、日本軍の降伏受理と武装解除のため朝鮮への派遣(進駐)を命じられた。
ホッジ中将は、マッカーサー総合司令官から8月18日、朝鮮進駐の米軍司令官に突然、任命されたばかりであって、朝鮮のことをほとんど知らない米軍内にあっても、さらにホッジの場合は、朝鮮関連の知識を全く持たず、関心もなかったようである。
しかもこの時の米第24軍団は、戦闘に疲れて力が尽き果て、人員の不足も甚だしい部隊であった。
沖縄戦での甚大な人員損傷のために補充した戦闘要員は、その大部分が訓練所を出たばかりの新兵たちであったからである。
普通なら、第一線戦闘部隊としての任務には不向きではあったが、日本軍の武装解除を担当するだけで、なおかつソ連軍との陣地取り戦闘もないことが確定していたから、この部隊に決まったようなものである。
朝鮮事情を何も知らない米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部、沖縄とソウルとの間で無線連絡が開始される。
総督府は8月22日、以南に米軍が進駐するとの内務次官からの「予告電報」を受けとっている。(これまでは、ソ連軍が朝鮮半島を占領するだろうとの予測のもとにいた)
この予告電報によって始めて、米軍が朝鮮半島の南部地域に進駐してくることを知り、彼らなりの安堵感が広がっていった。
翌23日、総督府は局長会議を開き、米軍進駐を歓迎するとし、治安維持は進駐軍と協力しつつ、これまで通り朝鮮人思想主義者への対応は総督府官吏に事情を聞くなどして、占領政策を実施することの希望を米軍に伝達することを決めた。
従って、それ以降の総督府の態度は、進駐してくる米軍に迎合的で、自己都合的な情報伝達をする一方で、建準の呂運亭などには冷淡となり、左派系のメンバーを取り締まる方向へと転換していった。
8月31日に、沖縄の米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部との間で、無線連絡の交信が始まった。
これ以降、米第24軍のホッジに伝えられる内容は、総督府からのプロパガンダ情報だけであって、それがホッジ自身の朝鮮情報の源泉となった。
南部朝鮮では北(ソ連)から侵入した「革命勢力」が活動している、だから治安維持業務は警察力ではなく軍が必要だなどとの、総督府と日本軍の存在性と必要性を示唆するものが多く、日本側にとって都合が良い情報ばかりであった。
ということは、建準をはじめとする独立政権づくりに動いていた朝鮮人活動家たちにとっては、都合の悪い内容ばかりであったことになる。
米軍側もまた、ソ連軍が約束を破って南下してこないかとの疑心があり、ソ連との対抗上からも、日本側の情報を歓迎する向きがあった。
全く、これは帝国主義者同士の会話であり、情報交換であった。
9月8日、ホッジ中将率いる米第24軍団が仁川に到着し、そこから上陸した。
日本軍との降伏文書調印後、ホッジは「・・・余の命令下にある官吏に服従すること」を、朝鮮人民に要求した。
つまり、米軍の占領政策は総督府の機構を通じて行い、朝鮮人はそれら元植民地官僚に従えというのである。
10月10日には、「米軍政庁が南朝鮮唯一の政府である」と宣言すると同時に、朝鮮人民共和国政府の解体を命じた。
43年のカイロ宣言は、朝鮮人の「奴隷状態」に言及し、暗黙裏にではあったが、連合国にとって朝鮮人は敵ではなく、日本の侵略による最初の犠牲者であることを認定していた。
8月下旬、マッカーサーも第24軍団に、朝鮮人を「解放された国民」として遇することを要求していたのだ。
ところが9月4日、ホッジは第 24軍団の将兵に対して、朝鮮は「合衆国の敵」であって、従って「降伏の諸規定と条件が適用される」と通告した。
ホッジが言う「諸規定」とは、軍事占領の国際法である「ハーグ条約」のことであろう。
同法の第43条は敵国に対するもので、占領軍は事実上、無制限の権力を行使し得るとしている。一方で、敵でない場合は、平和的な占領で、相手側との相互協定による制約を受けることになっている。
ホッジの心境変化は、8月29日以降の総督府からの無線連絡、共産主義者らが扇動しており、秩序を保つためには既存の秩序維持が必要との、情報によるものであった。
その結果、米占領軍は8月から9月にかけて、朝鮮人は準敵国人、日本人は友国人だと、傾倒した判断変化をしていた。
同時期、米国はソ連を連合国の一員とみなしていた戦時中の考え方から変化している。当然、呂運亭をはじめとする朝鮮人民たちは、強く反発し抵抗していった。
米国は解放者ではなく、日帝に代わる占領者であったことを、この頃から朝鮮人たちは理解しはじめる。
米軍は9月11日、総督府の統治機構を引き継ぐかたちで、以後は「米軍政庁」(軍政長官アーノルド少将)が、占領政策を実施すると発表した。
侵略者の姿を、はっきりと現したのである。
また、国際社会との関係から、阿部総督ら総督府幹部たちを解任(9月14日)した後も、朝鮮統治や朝鮮情報などを、解任者から得ていたため、朝鮮で民主的、自主的な朝鮮人自身の政権樹立など、初めから考えていなかったことが分かる。
米軍政庁統治の3年間(48年8月の大韓民国政府の樹立まで)は、総督府の統治機構をまるごと継承し、朝鮮人行政官吏(親日派)の留任のほか、一部の日本人官吏が顧問として留任させていた。
親日の官僚・警察官、地主、反民族的人物を再登用する一方で、社会主義者はもちろんのこと、金九など重慶臨時政府系の右派民族主義者まで徹底的に排除した。
米軍政の占領政策は、植民地統治の完全な清算を要求する朝鮮人民と、独立運動とその政権を樹立しようとした勢力に打撃を与え、親日勢力に対してはその復活を許す役割を果たしただけである。
親日勢力の復活を許した政治的後遺症は、長らく南朝鮮社会に影を落とし、今日もまだそれが清算されていない。
2013年11月7日 記