「朝鮮問題へのレッスン」4.北緯38度線
4.北緯38度線
朝鮮半島上の北緯38度線は、南北朝鮮分断線の象徴的ラインとなっている。
ところが、38度線を南北朝鮮の分断線と決定したのは誰で、それがいつ頃であったのかについての説明が、朝鮮問題を論じている多くの書籍に欠けているようだ。
日本は45年8月10日、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを連合国軍側(米国)に伝えた。
同日夜、米政権の高官と軍将官たちがワシントンに集まり、緊急会議を開催している。議題は、日本の占領政策ではあったが、必然的に朝鮮半島に関する問題も熟をおびていった。
朝鮮と朝鮮人のことをほとんど何も知らない米高官たちの議論の中心は、朝鮮半島上でのソ連軍との住み分け、効率のよい軍事占領、朝鮮半島支配の政策などであった。
9日から参戦していたソ連軍は、日本が降伏する15日前後には、朝鮮北部から入って半島全域を占領するだろうとの判断をしていた。
一方の米軍自身は、沖縄戦で予想外に足留めされて、消耗しており、軍勢を整えた部隊が朝鮮半島に到着できるのは、早くても9月上旬頃になるだろうと見積もらざるを得ない状況であった。
戦後は、ソ連との政治的軍事的対決は避けられないと考えていたトルーマン米大統領は、朝鮮半島の位置取りでソ連軍が優位に立つであろうことを判断し、そのソ連軍の勢いを止めるための停止線と、それへの理由を見つけることの指示を出した。
朝鮮半島の地図を広げて眺めていると、一人の高官がこころみに鉛筆で、北緯38度線上を東西に線を引いてみた。
米軍が朝鮮半島に上陸できるのは南部の港でしかないことと、こころみに線を引いてみた38度線の南側には、行政の中心点となるソウルが入っていることによって、全員の意見が一致した。地理的に有利なポイントを占めると判断したのである。
さらに詳しく調べてみると、朝鮮を防衛していた日本の朝鮮軍司令部の組織替えが45年 2月にあり、南部(ソウルに司令本部)の防衛を野戦部隊の第17方面軍(約23万人)北部(羅南に司令本部)の防衛を朝鮮軍管区第19司令部(約117千人)が、それぞれ担当していることが分かった。
米国にとって全く好都合な理由が存在していたことになる。米ソ両軍の朝鮮半島占領担当は、38度線を南北で分割し、南部の日本軍の武装解除と降伏受理を米軍が担当するプランは、瞬く間に出来上がってしまった。このプランを13日にトルーマン大統領が裁可し、15 日に米陸軍太平洋司令官マッカーサーへの「一般命令第1号」として伝達した。
当然、ソ連のスターリンにも同内容が伝えられた。スターリン自身、過酷な朝鮮の植民地状況の知識に精通していなかったことと、当時はまだ朝鮮半島が戦略上の重要なポイントになるとの認識もなく、それで米国提案を修正もなく合意してしまった。
このように、日本軍の降伏接収の境界線として規定した北緯38度線は、やがて朝鮮民族を南北に分割する悲劇の分断線となってしまった。
その米国の発案の段階から、政治的利用を経て、アジア政策と反共政策の結果として米国が必要とした38度線は、全く、米国の軍事戦略上に必要なラインであったのだ。
ホッジは朝鮮に到着して4日後の9月12日、早くも38度線に沿って交通遮断の分断機を設置するように命じ、10月15日までに20カ所に、道路上に設置させた。
さらに米軍政庁は46年5月23日、朝鮮人民の38度線越境を、一方的に禁止措置とした。38度線は、現在の軍事分境線とは若干、異なっている。
このように朝鮮人の大地を、朝鮮人自身が自由に往来できないことほど、人間としての苦痛はない。
そのことを米国市民は知っているのだろうか。日本人についても同じことを問う。
2013年11月5日 記
朝鮮半島上の北緯38度線は、南北朝鮮分断線の象徴的ラインとなっている。
ところが、38度線を南北朝鮮の分断線と決定したのは誰で、それがいつ頃であったのかについての説明が、朝鮮問題を論じている多くの書籍に欠けているようだ。
日本は45年8月10日、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを連合国軍側(米国)に伝えた。
同日夜、米政権の高官と軍将官たちがワシントンに集まり、緊急会議を開催している。議題は、日本の占領政策ではあったが、必然的に朝鮮半島に関する問題も熟をおびていった。
朝鮮と朝鮮人のことをほとんど何も知らない米高官たちの議論の中心は、朝鮮半島上でのソ連軍との住み分け、効率のよい軍事占領、朝鮮半島支配の政策などであった。
9日から参戦していたソ連軍は、日本が降伏する15日前後には、朝鮮北部から入って半島全域を占領するだろうとの判断をしていた。
一方の米軍自身は、沖縄戦で予想外に足留めされて、消耗しており、軍勢を整えた部隊が朝鮮半島に到着できるのは、早くても9月上旬頃になるだろうと見積もらざるを得ない状況であった。
戦後は、ソ連との政治的軍事的対決は避けられないと考えていたトルーマン米大統領は、朝鮮半島の位置取りでソ連軍が優位に立つであろうことを判断し、そのソ連軍の勢いを止めるための停止線と、それへの理由を見つけることの指示を出した。
朝鮮半島の地図を広げて眺めていると、一人の高官がこころみに鉛筆で、北緯38度線上を東西に線を引いてみた。
米軍が朝鮮半島に上陸できるのは南部の港でしかないことと、こころみに線を引いてみた38度線の南側には、行政の中心点となるソウルが入っていることによって、全員の意見が一致した。地理的に有利なポイントを占めると判断したのである。
さらに詳しく調べてみると、朝鮮を防衛していた日本の朝鮮軍司令部の組織替えが45年 2月にあり、南部(ソウルに司令本部)の防衛を野戦部隊の第17方面軍(約23万人)北部(羅南に司令本部)の防衛を朝鮮軍管区第19司令部(約117千人)が、それぞれ担当していることが分かった。
米国にとって全く好都合な理由が存在していたことになる。米ソ両軍の朝鮮半島占領担当は、38度線を南北で分割し、南部の日本軍の武装解除と降伏受理を米軍が担当するプランは、瞬く間に出来上がってしまった。このプランを13日にトルーマン大統領が裁可し、15 日に米陸軍太平洋司令官マッカーサーへの「一般命令第1号」として伝達した。
当然、ソ連のスターリンにも同内容が伝えられた。スターリン自身、過酷な朝鮮の植民地状況の知識に精通していなかったことと、当時はまだ朝鮮半島が戦略上の重要なポイントになるとの認識もなく、それで米国提案を修正もなく合意してしまった。
このように、日本軍の降伏接収の境界線として規定した北緯38度線は、やがて朝鮮民族を南北に分割する悲劇の分断線となってしまった。
その米国の発案の段階から、政治的利用を経て、アジア政策と反共政策の結果として米国が必要とした38度線は、全く、米国の軍事戦略上に必要なラインであったのだ。
ホッジは朝鮮に到着して4日後の9月12日、早くも38度線に沿って交通遮断の分断機を設置するように命じ、10月15日までに20カ所に、道路上に設置させた。
さらに米軍政庁は46年5月23日、朝鮮人民の38度線越境を、一方的に禁止措置とした。38度線は、現在の軍事分境線とは若干、異なっている。
このように朝鮮人の大地を、朝鮮人自身が自由に往来できないことほど、人間としての苦痛はない。
そのことを米国市民は知っているのだろうか。日本人についても同じことを問う。
2013年11月5日 記