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「少女像について」

「少女像について」


 慰安婦問題を象徴する少女像(平和の碑)問題で、昨年末から日韓両政府は対立している。

 安倍政権は、釜山総領事館前に設置した少女像が、公館内の建造物にあたるとして、同ソウル大使館前の像を含めて、移転、撤去を要求すると共に、大使と公使を一時帰国という手段に出た。

 日本側が要求(抗議)している内容が、少女像そのものの建立拒否なのか、公館前の建造物への抗議なのか、はっきりとしない。

 毎週水曜日、ソウルの日本大使館前の少女像で、「『慰安婦』問題解決のための定期水曜集会」を開催している韓国挺身隊問題対策協議会は、「日本政府が過去の過ちを隠蔽するために、韓日『慰安婦』合意を口実に少女像の撤去を要求している」と批判している。

 そのうえで、日本政府による日本軍「慰安婦」問題への公式謝罪と「和解・癒し財団」の解散を要求した。

 一方、京畿道の与野党議員らが16日、竹島(独島)に少女像を設置するための募金運動を始めたことが報道された。

 他にも、南朝鮮各地での設立運動があり、全体で60体近くの少女像設置が予定されているという。

 これら動きは、日韓慰安婦合意後のことである。

 オバマ米政権の斡旋、日本政府の10億円拠出による手打ち式で、最も欠けていたのは日本政府による慰安婦たちへの公式謝罪であった。

 改めてこのことに、朝鮮社会は怒っているのだ。

 安倍政権が、日韓合意の尊重、10億円を拠出した、公館前の建造物は国際法違反、などと、慰安婦問題の解決とはほど遠い問題を提示するパフォーマンスを行っても、問題への解決は逆に遠のくばかりである。

                                                                  2017年1月18日 記
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「明治時代とは」③

「明治時代とは」③

*朝鮮侵略・植民地への準備期間(1894年~1903年6月)

 
 第3期は、朝鮮植民地支配への準備期間である。

 日清戦争・日露戦争はともに朝鮮半島の権益を対立点とする戦争ではあったが、日本を取り巻く国際関係の違いによって、3期と4期に分けて考察することとした。

 1894年、朝鮮に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こった。

 東学は、欧米文化(日本も)の侵入に反発して、特に貧農層に急速に広まった民族的宗教で、朝鮮政府はこれを弾圧した。

 92年には迫害中止を求める大請願運動を起こし、外国の侵略と政府の悪政に反対する「斥倭洋倡義」のスローガンを掲げて挙兵した。

 挙兵は朝鮮全土に広がり、農民戦争へと発展した。

 朝鮮政府は清国に出兵を求めたため、日本は清国に対抗して、農民反乱から公使館員・居留民保護を名目とした出兵(1894年6月)に決定、ソウル・牙山の間に清国と対立した。

 ロシア、イギリスなどが調停をしたが失敗。

 この時の日本の出兵が、日清戦争の直接的契機となった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で実質、戦争開始。

 8月に宣戦布告する。

 9月に陸軍が平壌を占領、海軍も黄海海戦で勝利して、制海権を握った。

 旅順占領(11月)の後、翌95年4月、下関で日清講和条約を調印した。

 内容は、清国が朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲、軍事費賠償2億両(約3億円)の支払い、沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港であった。

 同月、露・独・仏3国が日本の遼東半島領有は、清国の首都・北京を危うくし、朝鮮の独立を有名無実化するとの理由のもとに、清国に還付を要求(三国干渉)した。

 満州南部に関心をもつロシアが主導した。

 これが後に、日露戦争へと導くことになる。

 当時の日本は、まだ三国干渉をはねつける力はなく、受諾(5月)し、遼東半島を返還した。

 このことで、日本の世論は、弱腰外交などと、政府に非難を向ける。

 すでに立派な帝国臣民が育成されていた。

 そのような国民に対して、明治政府は、「臥薪嘗胆」をスローガンに、対露敵対心を養い、来るべき日露戦争へと世論を導いていった。

 列強各国はこの三国干渉後に、禿鷹の如く中国分割に着手している。 

 列強が中国を分割した結果、鉄道建設や外国商品の流入によって、中国農民は土地や副業などを失い、没落した。

 都市部の手工業者や交通労働者たちも失業し、中国社会は疲弊、混乱した。

 これに対して、ドイツが侵出していた山東省で、呪文を唱え挙法を武器とする秘密結社義和団が起こり、またたく間に貧農層の間に勢力を広げ、1900年に入ると都市手工業者、鉱山労働者、遊民など雑多な階層を巻き込んでいった。

 彼らは、「扶清減洋」をスローガンに掲げて、反帝闘争を展開した。

 乱はまたたく間に満州を含む中国全土に広がったため、6月に日本を含む英・米・仏・露・独・伊・オーストリアの8カ国連合軍が結成され、義和団に向かった。

 清国政府は義和団が主張する国権回復を利用、8カ国に宣戦布告をしたため、北清事変(戦争)へと発展した。

 日本はイギリスの再三の要請に応じて7月、大軍の派兵を決定(2万2000名、列国中で最大の軍隊)し、チャンスとばかりに出兵した。

 日本はこのような機会を狙っていたのだ。

 8月、西大后ら中国政府が西安に逃亡すると、列国連合軍が北京に入城し、義和団を鎮圧した。

 北清戦争後、日本の軍事力がアジア民衆の反乱の鎮圧に有用な軍事力(極東の憲兵)として列国に評価(帝国主義的思考)された。

 このため、日本は中国で最大の軍隊を駐屯し、満州侵攻から日中戦争へと駆け抜けていくスタートラインに立った。

 ロシアもまた、北清戦争後に満州を軍事占領したため、日露間の緊張が一層高まり、日本国内での対露感情も沸騰していった。

 一方、朝鮮への明治政権の干渉は、より暴力的になっていった。

 ロシアとの対立点の中国東北部(満州)、中国侵攻への通路となる朝鮮の安定化を急いでいたからである。

 親清派であった閔氏一族(閔妃は李氏朝鮮26代高宗の妃)を中心とする事大党(清国を背景に保守政策を推進)は、1894年、日清戦争開戦時に日本政府の干渉で内政改革を退けられていたが、三国干渉後に親露政策を推進し、ロシアのバックボーンによって台頭する。

 95年7月に親日勢力を追放して、政権を奪回した。

 これに対して10月、日本公使三浦梧楼扇動のもと、壮士20数名、警官、日本軍隊などが、親日朝鮮軍とともに王宮に乱入、閔妃を惨殺(閔妃暗殺事件)し、親露派を一掃してしまった。

 そして、中心とする親日政権を再び組織した。

 この閔妃惨殺事件は、事件の凄惨さ、明治政権の事件後の処理の曖昧さなどから、今も朝鮮人民たちから批判されている。

 日本の横暴な行為に対して、親露派が、国王の高宗をロシア公使館に移し(96年2月)、親露派内閣を組織(親露派クーデター)した。

 96年10月、朝鮮王朝は、国号を「大韓帝国」、王を「皇帝」に改称すると、翌97年2月に、慶運宮に移った。

 こうした一連の事件で、日露の対立は激化するばかりとなった。

 この頃から、日本により解散させられた朝鮮軍に代わり、朝鮮各地で反日義兵部隊(まだ、相互に連携していない)が組織され、日本関連施設を襲撃するようになった。


*日露戦争期(1904年~1905年)


 第4期目は、日露戦争期である。

 明治政府は、三国干渉があった日清戦争までの間で、列強との協調の必要性を学び、この期間にそうした方向にも力を入れている。

 一方で、ロシアとの対立は、朝鮮および中国での権益上の問題から、沸点が上がるばかりで、国民世論も「対露戦」へと傾いていく。

 1903年6月頃から政権の内外では対露強硬論が発出、8月には対露同志会が結成されている。

 日露双方は、中国東北地方、朝鮮への進出などでの侵略意図が衝突。1903年8月以降、数次の交渉をもったが、妥協点には達しなかった。

 04年2月、日本海軍が仁川沖・旅順港のロシア艦隊奇襲で戦争開始。

 ともに大群を投下して戦ったが、両国とも軍事的、財政的に戦争遂行能力の限界に達していた。

 特に・ロシアは打ち続く敗戦に兵士の士気が喪失していたうえ、05年1月の革命(1905年革命)で、革命鎮圧の方が切迫する問題となり、停戦へと動いていった。

 3~4月の間に、米・仏両国の講話斡旋、8月に米大統領ルーズベルトの勧告で、ポーツマスで講和会議が開かれ、9月に条約調印(ポーツマス条約)にこぎつけた。

 その後、日露協約が4次にわたって結ばれた。

 第1次(1907年)。東アジアの現状維持と日本の朝鮮に対するロシアの外蒙古に対する特殊利益を相互に認め合い、満州の南北にそれぞれ利益範囲を設定する。

 第2次(1910年)。満州の現状維持と鉄道権益確保の協力を規定。

 第3次(1912年)。外蒙古独立に対するロシアの支援(辛亥革命=中国革命に対応)。

 第4次(1916年)。第1次大戦における日露関係の密接化、敵意ある第3国の中国進出の防止。

 以上、いずれも、17年のロシア革命によりソビエト政府が秘密協定を公表して、破棄されるまで続く。

 その間、明治政府は朝鮮の権益擁護のために、国際協力(保障)へと動き出している。

 イギリスとの間では、1902年1月に締結した日英攻守同盟、条約(第3次まで改訂)。

 条約の骨子は、第1次(1902年)で、日本の朝鮮・中国における、イギリスの中国における利益擁護のための相互援助。

 第2次(05年8月)で、日本の朝鮮保護権を確認し、適用範囲をインドまで拡大したこと。

 第3次(11年7月)で、アメリカへの適用除外例を設ける。

 日本の第1次大戦参戦は、この同盟の参戦義務遵守を名目としている。

 さらに、アメリカとの密約、「桂・タフト協定」がある。

 1905年7月、日露戦争の講和直前に来日した米大統領特使のタフト陸軍長官と桂太郎首相との間で秘密覚書を交わした。

 内容は、日本の朝鮮に対する優越的支配、アメリカのフィリピン統治を相互に認め合い、極東の平和維持は、日米英3国の協力によるなどと規定した。

 これらの密約によって、日本の朝鮮併合の布石が打たれたことになる。

 このように、ロシア、イギリス、アメリカなど、当時の列強大国からの朝鮮支配への承認を得た日本は、その具体的な地歩を安心して朝鮮に印すことになる。

 朝鮮の植民地化を確実に進めるため、3次にわたる日韓協約の締結である。

 第1次は、日露戦争中の1904年8月。

 朝鮮は、日本政府の推薦する財政・外交顧問を採用すること。

 重要な外交案件は日本政府と競技することとした。

 朝鮮の外交権を奪い合ったのである。

 第2次は、05年11月に締結。

 「韓国保護条約」(乙巳保護条約)である。

 この条約で、ソウルに韓国総監府を設置し、総監が一切の外交事務を統括した。

 日本側の圧力と軍事力を背景にしての強要であったとはいえ、この時に調印した李完用ら5人の大臣たちを、朝鮮では今も売国奴と呼び、「乙巳5賊」と蔑んでいる。

 李完用は日本の支援を得て、07年5月、首相となり、政権を成立させた。

 日本の完全なる傀儡政権であり、日本の朝鮮植民地化はこの保護条約から始まったと見てもいい。

 第3次は、07年7月に締結。

 日本の傀儡、李完用政権時に調印した。

 皇帝の高宗は、保護条約は形式的にも内容的にも、国際協約上無効であることを訴えるため、3人の密使(ハーグ密使事件)をオランダのハーグで開催されている国際平和会議に送った。(06年10月)

 日本はこのハーグ密使事件を理由に高宗に韓国皇帝を退位させ、その直後に強圧下で調印させた。

 朝鮮の内政権のすべては総監の指導監督下におかれ、法令制度、重要な行政決定、高級官吏たちの任免などは、総監の同意を必要とした。

 また、総監の同意のない外国人雇用は禁止とした。

 各約裁判所や中央・地方官庁への日本人の全面的任用、韓国軍隊への監督強化(7月には韓国軍隊を完全に解散させている)など、韓国の内政を完全に日本が握り、この時点で外交・内政とも日本の意図通りとなった。

 ちなみに、オランダのハーグで開催されていた国際会議、ハーグ平和会議とは何か。

 ロシアの皇帝ニコライ2世の提唱で1899年と1907年の2回開かれた。

 第1回は26カ国、第2回は44カ国が参加した。

 議題は軍備縮小と世界平和であった。陸戦法規、ダムダム弾および毒ガス使用など戦時国際法の面で成果はあった。

 韓国皇帝が密使を送ったのは2回目の会議時で、すでに外交権を失っていたので、イギリス人ベッセル、アメリカ人ハルバートらに相談、ハーグ会議に韓国全権委員として参加を要求したが、拒否された。

 別途、米・露両政府に依頼をしていたが、これも拒否されて、会議への参加は適えられなかった。

 韓国の切実な訴えを聴こうともしなかった国際平和会議とは、日本の妨害工作があったとはいえ、会議参加国間の帝国主義的利権論の場にしか過ぎなかったと言える。



*日中戦争への道


 第5期は、日中戦争への準備期にあたる。

 覇権意識が朝鮮から満州へと拡大していく時期で、日清協約調印(09年9月)、清国から満蒙5鉄道敷設権獲得(14年11月)へと、確実に目的をもって、中国へと地歩をのばしている。

 この間、日本を含む周辺国では大きな政治変動が起こっている。

 日本は明治天皇が死去(12年7月)し、明治期が閉じる。

 ロシアで1905年12月、第1次革命(血の日曜日事件)が勃発したことで、それ以降、反帝人民闘争がアジア各国に広がるきっかけとなった。

 保護条約以後の朝鮮では、民族主義活動家たちの多くが、自らの活動の場を広げるために、朝鮮を出て、中国東北部の吉林などに移って反日活動を続けた。

 吉林を含む間島地方は、19世紀中ごろから朝鮮の貧農たちが移住を始め、清韓両国間でしばしば国境紛争が起こっていた地域であった。

 日露戦争後の09年9月、日本と清国との間で国境を確定し、朝鮮人の移住を認める協約(「日清協約」)を結んだ。

 日本は、朝鮮人の移住をテコに、東北地方での日本領土拡大を目的としていたために、朝鮮人たちの渡満を許していた。

 しかし、韓国併合後、日本の支配と抑圧から逃れ出た多数の朝鮮人が移住すると、中国側は朝鮮人を圧迫しだした。

 多くの朝鮮人の抗日運動の重要な地域、一大拠点となるに従い、朝中間でしばしば問題や事件が発生した。

 日本はこれらの問題と紛争を、朝鮮人たちの抗日運動を弾圧する目的のもと、満州侵略の世論を煽るために利用した。

 日・清・韓、入り乱れての複雑な地域であったが、それを積極利用した日本は06年11月、南満州鉄道株式会社を設立(07年4月開業)して、朝鮮から満州へと触手をのばしている。

 09年9月、初代韓国総監であった伊藤博文が、視察途次のハルピン駅頭で、安重根によって暗殺される。

 安重根は、朝鮮平安南道鎮南浦出身。ウラジオストックに移り、抗日朝鮮人団体に加入、同志と共に抗日運動を続け、朝鮮国を消滅させた元凶・伊藤博文の暗殺を早くから計画していた。

 伊藤博文暗殺の翌年、死刑にされたため、日本では詳しい思想的経緯などは抹殺されていて、殺人犯の面だけが強調されている一方、朝鮮では英雄となっている。

 伊藤博文暗殺から約1年後の10年8月、日本は、「日韓併合条約」(韓国併合に関する条約)に調印した。

 条約で、大韓帝国の皇帝が統治権を日本の天皇に「譲与」すると記載されているが、ハーグ密使事件などから、実際に韓国皇帝の意志であったのかと、疑問視する歴史家が多くいる。日本側の作文、日本側の強要の可能性が高い。

 実質の植民地化は05年で完了していて、朝鮮の植民地支配については、主な列国から同意を取り付けていたから、「併合条約」は国際協約上の形式的な手続きにしか過ぎなかった。

 とはいえ、国を奪われた朝鮮人たちの抵抗は持続的となり、反日反帝闘争となり、武装闘争を展開していくこととなった。

 一方、日本軍に侵食されていた中国での闘争も、革命化の色彩を帯びていった。

 1900年以降、清朝に反対する勢力は、次第に増大し、05年に孫文が中国革命同盟を結成して三民主義を唱えた。

 11年の四川省暴動を契機に、各地の革命団体が呼応、12月に南京で孫文を大統領とする中華民国臨時政府を樹立した。

 しかし、革命政府はまだ弱体であったから、清朝から大権を与えられた袁世凱と妥協し、孫文は辞職して袁が大統領となった。(清帝は退位し、清朝は滅びた)

 以後、内戦と軍閥割拠の混乱の中、革命は成功しなかった。

 日本軍はその隙間をぬって、東北地方を含む中国の地に、軍事拠点を築いていった。

 1912年7月30日、大正と改元。明治期の44年間は終わったが、中国を中心に戦争の火種を確実に残していった。

 

3.まずは歴史清算から


 16~20世紀、欧米列強はアフリカ、中南米、アジアの大部分を植民地支配した。

 日本は遅れて、その植民地争奪戦に参加、周辺のアジア地域に出た。
 
  日清戦争後の下関条約で台湾を、日露戦争後の1905年に大韓帝国の外交権を奪い、朝鮮を植民地とした。
 
 そこまでが明治期ではあるが、その明治期が作り上げた戦争体制を土台にして、第1次世界大戦で対独宣戦をし、中国・青島を占領。
 
 この第1次世界大戦参戦直後から日本は、政治・経済・社会システムのあらゆる力を戦争遂行に結集させる体制となった。
 
 すべてを戦争に結集させて戦う、国家「総動員」体制をつくり上げ、それを植民地にした台湾・朝鮮をも組み込んでいく、総力戦を発出させた。
 
 戦争遂行の資源・物資不足を補うため、特に植民地下の台湾・朝鮮での鉄道・鉱山・ダム・工場建設と整備、人・物の動員体制は過酷を極めた。
 
 以上、明治期は台湾出兵から始まり、朝鮮出兵・農民戦争、日清戦争、中国・北清戦争(義和団戦争)、日露戦争からの第1次世界大戦、シベリア出兵に至る戦争の連続であったことがわかる。
 
 間違いなく明治期は外征、覇権を追求していた時期であり、産業革命や産業振興なども、そうした戦争の準備をするためのものであったと言える。
 
 明治期はまさしく、侵略戦争期であった。そして、その最大の犠牲と被害を被ったのが、朝鮮と中国である。
 
 日本はまだ、朝鮮や中国に対して、植民地支配や戦争被害へのしっかりした謝罪はしておらず、歴史清算もあいまいのままで過ごしている。

 1995年の村山富市首相が談話で、「植民地支配と侵略」により「とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました」として、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明したことが、日本政府の謝罪となっている。

 それとて決して歴史清算したものとは言えず、不十分である。

 明治期を日本の産業革命、文明開化の面だけを見て評価するなら、この村山談話さえ、無視することにつながりかねないのである。

(終)
 

「真珠湾演説と靖国参拝の落差」

「真珠湾演説と靖国参拝の落差」

 稲田朋美防衛相が12月29日早朝、靖国神社を参拝した。

 28日まで安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問に同行し、帰国翌日のことであったから、政治的な問題を国内外に投げかけている。

 首相が真珠湾で「和解」と「不戦の誓い」を表明した直後であったこと、外交・安全保障政策を担う現職閣僚が初めて参拝したことなどを考えると、首相同意の下での参拝であったように思う。

 安倍氏が真珠湾で力説していた「和解の力」「未来志向」の言葉が、早くも虚しく響いている。

 安倍氏は、「首相」の立場では靖国参拝ができないため、稲田氏に代理としてやらせるために、彼女を防衛相にしたのではないか。

 参拝後、稲田氏は記者団の質問に、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝した」と、いつもながら意味不明で右翼チック、短絡的な言葉を並べて説明をしていた。

 「防衛大臣」は閣僚で、単なる一国民ではないし、辞任しない限り24時間「大臣」である。

 「稲田朋美」は大臣であるとともに個人でもある。では、彼女は、いつどの時点で、「一国民」に変身したのであろうか。

 記帳には、「防衛大臣、稲田朋美」と、公務の稲田朋美を記入しているのだから、玉串料を私費で納めたといつもながらの言い訳をしているが、公と私を継ぎ合わせた矛盾した言動を恥じることもない。

 彼女は記者団に、「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵味方であろうとも、祖国のために命を捧げた方々に対して感謝と敬意を表すのは、どの国でも理解をしていただけるものだと考えている」と発言している。

 靖国神社のA級戦や戦争指導者たちを、「祖国のために命を捧げた方々」だと理解しているのであれば、先の大戦が、侵略戦争であったことや、朝鮮・中国を含むアジア諸国人民に多大の犠牲を強いた歴史までをも、否定する解釈をしていることになる。

 彼女自身がどうであれ、「どの国でも理解して頂ける」ことにはならない。

 中国外務省の報道官は29日の記者会見で、「昨日は和解と寛容を言いながら、今日はA級戦犯が祭られている靖国神社に参拝する。『和解の旅』に対する大きな皮肉となった」と、彼女の言動(安倍政権の姿勢)を批判したのは、当然のことであった。

 一方、安倍氏が現在の日米関係を明日を拓く「希望の同盟」だと誇った当の米国から29日、「我々は歴史問題に癒しと和解を促進して取り組むことが重要だと強調し続ける」として、日本に慎重な対応を求めた。

 閣僚の靖国神社参拝で米国がコメントを出すのは異例のことで、安倍氏の真珠湾表現と稲田氏の靖国参拝との開きの大きさと、アジア諸国への配慮を欠いた歴史認識に、さすがの米国も怒りを表明したのだろう。

 また、残念なのは、民進党の蓮舫代表のコメントである。

 地方遊説先での29日、「日米のトップがまさに不戦の誓いをした直後なので、間違ったメッセージとして米国に届かないのか。そこは少し心配している」とコメント。

 野党第1党の党首として、米国への配慮などはする必要はなく、閣僚の靖国参拝を厳しく批判し、追及していく姿勢を表明するべきであったろう。

 蓮舫氏の戦争観、歴史観も心配だ。


                                                                 2016年12月30日 記

「産学官体制へと誘う安倍政権」

「産学官体制へと誘う安倍政権」

 2017年度の防衛省予算案が5・1兆円と、過去最高となっている。

 その予算案の中の研究費制度、大学などの研究機関を対象とした研究費制度の費用として、概算要求通りの110億円が盛り込まれていることが分かった。

 武器輸出を進める自民党国防部会の提言に従い、2016年度の6億円から大幅アップとなっている。

 従来は比較的小規模テーマに、1件で年間最大約3千万円が支給されていたものが、17年度からは1件あたり5年で数億~数十億円の大規模プロジェクトが新設された。

 防衛装備庁は、純粋な基礎科学ではなく、「装備品の研究開発を効率的・効果的に行うために、民生用にも使える効果的な基礎研究を求めている」と、従来の「基礎」「民生用」研究であることを引っ込め、本音を語っている。

 予算急増の背景には、軍産学の連携を重視し、進めている政府の方針があるからである。

 13年に閣議決定された防衛計画の大網、「武器」を「防衛装備品」と言い替え、「武器輸出三原則」を葬り、「防衛装備移転三原則」を成立させ、2016年1月の第5期科学技術基本計画で「国家安全保障上の諸課題に対し、関係省庁・産学官連携の下」で、科学も防衛研究に貢献する――などの方針指示がある。

 安倍政権が進めている「軍国日本」ロードに、産学官連携強化は必須である。

 これに対する日本学術会議は、その方針を検討している。

 戦争に協力した過去の反省から軍事研究を禁じて発足した日本学術会議の対応が注目されているのは、科学者や研究者たちが、制度を拡充させている政府に迎合するのかどうかをみているからである。

 私たちは、口先だけの戦争反対を主張する科学者より、防衛省の研究制度への応募をしないことを表明した科学者の良心を信じている。

 それが戦争反対論への一里塚になるからである。


                                                                 2016年12月30日 記

「過去とアジアへの視線を欠いた安倍真珠湾演説」

「過去とアジアへの視線を欠いた安倍真珠湾演説」


 安倍晋三首相は12月27日(日本時間28日)、米ハワイ真珠湾の追悼施設「アリゾナ記念館」を訪問した。慰霊後の演説で、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない」と、彼なりの不戦の決意を表明した。

 続く演説で、敵国だった日米が「明日を拓く『希望の同盟』」になったのは、「寛容の心がもたらした『和解の力』だ」と強調し、不動の同盟関係になったことを誇っていた。

 謝罪はなく、先の大戦の歴史認識にはほとんど触れず、アジア各国への被害についても何も触れず、「戦後」に区切りをつける「未来志向」を強調していた。

 つまりは、「太平洋戦争」を念頭での、日米和解史を語り、戦後が終わったことを宣言しようとしたのだ。

 これに対して、中国外務省報道局は28日、「アジアの被害国にとって、何度も抜け目ないパフォーマンスをするより、一回の誠実で深い反省の方が意義がある」と批判し、「加害者の誠実な反省の基礎があってこそ、被害者との和解が真実で信用できるものになる」と語った。

 安倍首相も言う「先の大戦」は、太平洋戦争だけではない。太平洋戦争へとつながる朝鮮・中国への侵略前史があり、それを忘れた戦争観など、「先の大戦」とは言えないのではないか。

 そのような認識と、戦争の惨禍を与えたアジア諸国への謝罪と和解がなければ、安倍外交が展開しようとする「未来志向」は、いつまで経っても開かれないだろう。

 であるから、日米和解を唱えたからと言って、それで日本の戦後が終わることにはならない。

 先の大戦で最も惨禍と被害を与えたアジア諸国と人民たちに、パフォーマンスではない謝罪と補償、和解ができない限り、日本の戦後は終わることはないのである。

 安倍政権は「戦後」を整理も処理もせず、安全保障関連法を強行採決して、いつでも戦争ができる国に変えてしまったからなお、戦後を早く終わらせたかったのだろう。

 「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない」とする不戦の誓いも、新しい戦争準備をしている政権の言葉であれば、口先だけのパフォーマンスにしか聞こえない。

 今回の安倍氏の真珠湾演説では、「過去」への視線とともに、アジアへの視線が抜け落ちていたことが、もっともよく安倍歴史観を反映している。

 朝鮮侵攻、植民地支配、満州事変、日中戦争と、30余年にわたる朝鮮・中国への侵略、その行き詰まりからの打開に、英米などの開戦があった。

 そうした戦争観に欠けた、今回の安倍演説であった。

 安倍氏がハワイに出発した翌日、沖縄県民の反対を押し切って、名護市辺野古での埋め立て工事を再開したことで、安倍政権が米政権の意向に左右されている「日米同盟」であったことを物語っている。

 今後、安倍政権に与えられている課題は、全国の米軍専用施設の7割が沖縄に集中している現状からの解消と努力をすること、中国および朝鮮・韓国を含むアジア諸国との真の意味での和解への努力、こうしたアジアに残る「戦後」に対して、真摯に向き合うことである。

 そのことで初めて、自身が唱える「未来志向」の完結へと繋がる。


                                                                 2016年12月30日 記
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Author:takasi1936
愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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