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「明治時代とは」②

2.明治憲法の体制下の国家

 明治維新は幕藩体制を崩壊させたが、封建領主階級内部の改革派の主導によって成立したため、封建的な諸関係を完全には払拭できないまま、神話史観に基づく絶対主義的な天皇制国家を構築することになった。

 それは近代革命とはほど遠く、曖昧さを内包した改革であった。

 国家主導による資本主義生産を保護・育成するため、半封建的な寄生地主制を公認した。

 結果として、4民平等を掲げながらも、皇族、華族、士族の特権身分の存在と、未解放部落民の社会的差別構造という身分差別構造を出現させる、日本型近代資本主義社会を形成した。

 憲法は、近代社会の体制構築にとって、骨格となるものである。

 その憲法。明治維新政府内部でも当初、憲法制定論が無くはなかったが、政府内の藩閥対立などの影響で遅れていた。

 そうこうするうちに自由民権運動、議会解説要求運動などの強まりで、私設憲法が続々と民間から発表されるようになった。

 結局、維新政府はこれら民間憲法に対抗、押されるようにして、憲法制定論へと向かうことになった。

 明治と改元してからすでに20年が経っていた。

 伊藤博文を中心に井上毅らがドイツなどの君主憲法を参考に起草した内容は、欽定憲法となり、皇室中心主義が基本方針となった。

 形式的には一応、2院制、責任内閣制、司法権の独立、臣民の権利義務など、近代的な体制はとっているが、基本は天皇主権を原則とし、枢密院・貴族院などの特権的機関を置いた。

 大臣も天皇により任命され、天皇に対して責任を負うなど議会制の機能は大きく制限するものであった。

 国民の権利も法律により制限することができる独立命令、緊急勅命、非常大権など、議会によらない立法手段が天皇大権として規定された。

 また、軍は天皇に直属し、内閣の統制外に置かれていた。(統帥権の独立)

 1889年2月に発布された明治憲法(大日本帝国憲法)によって天皇大権政治がより補完され、明治憲法体制下では、天皇と直属する特権的な機関が支配し、民衆の弾圧と大陸侵攻政策が進んでいった。

 天皇主権と強大な天皇大権の下、軍部、官僚、特権ブルジョアジー、大地主階級が支配する体制の中で、国民の基本的人権や社会的諸権利は非常に制限されたものとなった。 

 そのような体制を支えるために、国家主義、軍国主義、非合理主義(神国日本)に注力する教育を通じて、近代的自我や素朴な権利意識すらも抑圧し、「国民」となった一般民衆を戦争の渦中へと誘導する一つの「コマ」にしていった。

 その一方で、産業革命・産業興産は積極的に進めた。それとて次の戦争・戦闘を準備するための資材・資本を蓄積するものであった。

 民衆、特に人口の大半を占める農民層の生活は改善されず、貧しいままであった。

 維新政府は、そのような民衆の声や生活を省みるよりも、機械制大工業の殖産興業政策、官業払い下げなどの産業育成を急ぎ、日本型資本主義体制を整え、日清・日露戦争体制を準備した。

 いま、明治期の産業遺産で、後世に伝えようと、保存しようとしている建造物の多くは、「戦争」を準備しようとしていたもので、直接、一般庶民らの生活のためのものではない。多くの建造物に隠されていた裏面には、民衆抑圧体制、労働哀史、民衆哀史が刻まれており、そうした体制がアジア人民弾圧へと向かっていったのである。

 この体制は、朝鮮および中国大陸侵略、さらには米英戦へと向かう第2次世界大戦を戦うための、「戦争」準備体制であったと言うことができる。

 以下では、明治期の歴史を「戦争」というテーマで、次の5つの時代に区切ることにする。

 *日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)
 *外圧へと向かう期間(1873年~1893年)
 *朝鮮侵略・植民地への準備期間(1894年~1903年6月)
 *日露戦争期(1904年~1905年)
 *日中戦争への準備期間(1906年~1912年)

 ただ、時代および歴史は常に流動的に、相互補完的に動いているから、物体を切るようにはいかない。複数の関連事項が同時に作用していることが多く、一つのテーマで時代を区切るにしても、観点が違えば、別の切り方もあるだろう。特に、明治維新期は藩閥対立を引きづり、政治家の対立と離合集散が激しかった時期である。

 ここでは、一つの大きな事象の終末をもってその時代の区切りとするが、どの区切りにも、また別の新しい現象が始まり動いていることを認識しつつ、その上で、これら5つの時代を改めて見直すこととする。


*日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)

 1868年の鳥羽伏見の戦、69年5月の五稜郭の戦の戊辰戦争の終結をもって、旧幕府軍の組織的な抵抗は一応、終結する。

 榎本武揚らが函館・五稜郭で最後の抵抗を試みたが敗れ、幕藩体制は崩壊。

 明治の改元はその前年の1868年9月に行っている。

 戊辰戦争による討幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚体制を不動のものにしたとの確信を持ち、以後の藩閥体制の急速な解体に進んだ。

 藩民たちの日本国民意識の培養、日本国領土の確定作業などを進めながら、天皇制統一国家形成へと向かっていった。

 先ず、中央集権化の一過程として、1869年、版籍奉還作業を急いだ。同年6月以降、藩主を知藩事に任命した。

 次いで1870年10月の兵制統一布告(海軍は英式、陸軍は仏式)。1873年1月の徴兵令公布(72年に兵部省を廃止、陸海軍両省を設置)など、藩兵制度を廃止し、全国統一の兵制度と徴兵令をいち早く設け、内国の武力統一と外征への力量に備えた。

 外征へと向かうには、先ず日本国領土の確定作業を急ぐ必要があった。

 明治維新政府は日本国領土を確定するために、北海道・沖縄の地を日本国に組み入れる処置を急いだ。

 五稜郭の戦いを終えた1869年5月、蝦夷地全域を占領し、8月に北海道とした。

 次いで、南部の琉球。琉球国は1609年、薩摩藩に征服され、同藩の支配を受けていたが、一方で中国(明、清)とも長い間、冊封関係にあった。

 維新政府は1871年、琉球を鹿児島県管轄下に置き、72年に琉球藩を設置し、政府の直轄とした。

 71年末、琉球船が台湾に漂着し乗組員が高砂族に殺害された事件で、維新政府は「日本国民」の遭難として、71年に台湾へ出兵。

 さらに維新政府は75年、琉球藩に対して清国との冊封・朝貢関係の停止、藩政改革を要求。

 これに対して王政府内の士族層の反対運動の反対運動があったものの、79年3月に軍隊・警察の圧力のもとに琉球藩を廃止し、沖縄県設置(琉球処分)を強行した。

 明治政府は、琉球が日本の領土であるとして、一方的に武力を背景に琉球処分を正当化し、沖縄県を設置したのである。

 この琉球処分方式は、後の朝鮮併合のモデルとなる。


*外圧へと向かう期間(1873年~1893年)

 第2期は、外征へと向いていく期間。

 朝鮮、台湾、清国、ロシアなど周辺諸国への関心と、国境線の確定、さらなる拡大の野望へと向かっていく。

 同時にその野望を遂げるため、幕末に結んだ列強各国との不平等条約の解消、帝国主義国家へと踏み出す学習の、欧米各国との交渉・交流も進められている。

 1873年9月に岩倉具視らが欧米視察から帰国すると、10月に征韓論争(10月政変)が始まる。

 政変に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが参議を辞し、下野する。

 征韓論は、江戸時代後期の国学の普及とともに、朝鮮蔑視論が起こり、尊王論、攘夷論の一環をなしていった。

 江戸幕府も征韓計画を検討したことがあり、維新直後から、政府担当者間では征韓認識では一致できる背景があったのだと思われる。

 明治と改元した直後の1868年12月、対馬藩に新政府成立通告のため、朝鮮に遣使を出す。

 朝鮮側は、従来とは違う書式、文言のため受理せず、拒否したため、維新政府は西郷隆盛らの主張でいったん征韓論に傾いた。

 岩倉使節一行らは、国際情勢や日本の力量を認識して内治先決を主張し、決定を覆した。

 岩倉らとて対外侵略策の推進に否定的であったわけではなく、そのための力量を高めることと、列強らへの理解を得ることの必要性が、先決であると主張した。

 しかし、そこには薩長両藩出身者による政権主流権争い、それを中心とする権力対立が大きく作用していた。

 岩倉政権側も、74年5月に台湾出兵、10月政変から2年後の75年9月に江華島事件で挑発し、76年2月に一方的な日朝修好条規を結ぶとともに、清国にも、対抗、侵攻の手を伸ばしている。

 台湾出兵は、71年に琉球諸島の船が台湾に漂着し、乗組員が殺害されたことと、73年に岡山県の船員が略奪されたことでもって、琉球帰属問題と絡んで、征討を計画した。

 出兵直前にアメリカが反対し、中止を決定したが、西郷隆盛(台湾事務都督)の強硬意見によって出兵、73年5月に台湾に上陸、占領した。

 74年10月にイギリス公使ウェードの斡旋で、清国との間で、台湾問題の和議が成立。日本は銀50万両を補償金として受け取った。

 一方、北辺のロシアとの国境確定は1875年5月、樺太・千島交換条約で確定された。

 日露和親条約(1854年)では、エトロフ・ウルップ両島の間を国境とし、樺太は両国人雑居としていた。

 このため、樺太では、南下するロシア人との紛争が多発していた。

 当時の日本はまだ、財政上も軍事上でも、ロシアに対して積極策に出る力量がなく、条約によって樺太をロシア領とした。

 代わりに、千島列島全島を日本領土としている。

 朝鮮へは、1875年9月、軍艦雲揚号が朝鮮漢江口の江華島付近で挑発行為をし、砲撃された事件(暴力団同様の言いがかりを手口として)をきっかけに、それ以降、朝鮮侵略への機会を積極的に作り出している。

 征韓論争政変で分裂した維新政府は、開国を拒む朝鮮への示威行為を行うことで一致。

 朝鮮沿岸での軍事演習や海路測量を繰り返し、江華島付近の測量で朝鮮側の砲撃を受けた。

 日本はこれを利用して、草芝鎮、永宗島を攻撃したうえ、軍事的圧力をかけ、76年2月に日朝修好条規(江華島条約)を締結した。

 清国との宗属関係を否認し、朝鮮を独立国として承認する内容となっている。

 併せて釜山など3港の開港による通商貿易、日本の一方的な領事裁判権などを規定した。

 これは日本が外国にはじめて不平等条約を強制するものであった。条約の内容、軍事的圧力の方法などは、アメリカから学んだものである。

 一方、清国とは、1871年7月、日清修好条規(「大日本国大清国修好条規通商程各海関税則」)を調印。

 こちらの方は、日本最初の対等条約とされている。(無条約状態を改めるため、清国との間で結んだ)

 最恵国待遇のないこと、領事裁判権を相互に承認し、日清戦争まで適用した。

 しかし、その後、台湾・朝鮮との宗属関係を日本が強引に破棄させたことで、清国との関係は悪化していく。


(続く)
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「明治時代とは」①

「明治時代とは」


1.明治期の性格

 安倍晋三政権は、明治維新から150年となる2018年に実施する明治記念事業を検討する中央関係官庁連絡会議の初会合を11月4日、首相官邸で開いた。

 複数の有識者から明治期の歴史的意義などに関する意見を聞いた上で、年内にも基本方針をまとめることを確認するとしている。

 議長を務めた野上浩太郎官房副長官は、「明治以降の歩みを次世代に残し、明治の精神を学んで日本の強みを再認識することは大変重要なことだ」と強調した。

 来年夏の18年度予算の概算要求までに具体的な施策をまとめる予定だという。

 内容としては、明治期の文書や資料の収集、デジタルアーカイブ化などを想定しているようだ。

 安倍政権は、明治期をどのように理解しているのだろうか。

 議長の野上氏が、「明治期の精神に学んで」「日本の強みを再認識」し、それらを次世代に残していく方針で検討しているから、評価をした上で検討するのではないか。

 明治期は、年号を明治と改めた1868年9月から、明治天皇が1912年7月に死去する44年間であるというのが一般的認識である。

 その始まりは明治維新である。

 明治期をもたらした明治維新は、先進資本主義列強の帝国主義、覇権主義の圧力によって、幕藩体制崩壊へと導き、日本型資本主義および近代天皇制国家形成の起点となった。

 つまり、覇権主義の暴力的手法を列強から学び、内部に向かっては、学制、地租改正、殖産興業、文明開花などの諸政策をいち早く実施しながら、民衆抑圧に向かっていったのである。

 外部に向かっては国境確定、富国強兵、徴兵令、大陸侵攻論などで先進国家の覇権主義、膨張主義を見習う、帝国主義への道を急ぐ諸政策を推進していった。

 その要として、天皇中心の統一国家、天皇主権国家を築きあげたのが、明治期であった。

 その天皇制国家は、大陸への侵略を強行するために一般民衆に圧政を敷いた政治支配権力機構で、民衆側からすれば、明治期の体制は、決して評価できるものではない。

 明治期の日本は、民衆側からすれば、アジア民衆と日本の民衆を苦難に陥れ、大陸侵略と民衆抑圧を専らとしたものである。

 明治という名称や元号には、「戦争」が附着している。

 そのような明治期の「精神に学び」、「日本の強みを再認識する」方向で、安倍政権は明治150年事業を構築しようとする姿勢は、現在進めている安保関連法での、より一層の戦争準備への整備、憲法改悪への道へとつなげていこうとする姿勢と重なって見える。

 「明治記念」事業を道具に使おうとする魂丹も見え、非常に危険だ。

 安倍晋三首相以下、多くの閣僚たちが、危うい歴史観の持ち主のため、危惧しざるを得ない。

 明治期は、その性格は絶対天皇制国家で、民衆への圧政と大陸への侵略を強行した強圧的な政治支配の時代であった。

 つまりは侵略戦争を準備し、侵略史観で覆い尽くされた「戦争期」だったと言える。

 以下、安倍政権が進めようとしている「明治記念事業」に反対の意味を込め、明治期を簡単にスケッチしてみる。

(続く)

「南朝鮮の市民パワーの勝利」

「南朝鮮の市民パワーの勝利」

 南朝鮮の国会は9日、朴槿恵大統領に対する弾劾訴追案を多数決で可決した。

 国会議員300人の3分の2以上の234人が賛成票を入れた。

 与党セヌリ党(128人)の半数近い62人の賛成があったことになり、大方の予想を超える結果となった。

 ここまで来るまでには、次の大統領選挙をめぐって、野党3党の足並みが一致せず、弾劾か即時辞任要求かで戦術が揺れていた。

 それを押したのが、毎週末の夕刻から青瓦台前のソウル市中心部を埋め尽くした市民たちの、「朴槿恵退陣」要求デモだった。

 デモは過激行動には走らず、ローソクデモの光の多さで自らの意思を表明していた。

 デモの参加者は減ることなく、4週、5週と増え続け、国会が弾劾を可決した翌10日にも「即辞任」を求める抗議デモが続けられていた。

 当初、与野党の国会議員たちは、自らの選挙を含む政局の利害関係で動いていたようだが、最後は市民たちのの声に押されて、弾劾を選んだようだ。

 これは市民たちのの勝利、「市民革命」の勝利である。

 ひるがえって日本の国会では、環太平洋経済連携協定(TPP)と関連法案、介護保険制度の見直し案、カジノ解禁法案、年金制度改革法案など、決して、生活苦にあえぐ者たちを救援しない法案が十分に審議されないまま、強行採決されている。

 攻める野党各党も、迫力に欠けた議論の展開、論点の甘さが目立った。

 一連の強行採決に「国民の声に耳を傾けていない」、「強権的な政治手法だ」と批判をしている野党側も、この間、どれほど、国民に向かって、国民の声を聞き、国民と対話し、国会に反映させる努力をしてきたのか。その努力が足りなかったように思う。

 南朝鮮の市民たちのパワーが現実の政治を動かしている一方、日本の政治と市民の間には大きな距離ができているように思える。

                                                                 2016年12月10日 記

「科学者の良心」

「科学者の良心」

 
 防衛装備庁が防衛装備品に応用できる研究を公募して資金提供する「安全保障技術研究推進制度」に対して、関西大学は7日、学内の研究者が申請することを禁止する方針を決めたことを発表した。

 他大学の申請に共同研究者として名を連ねることも認めず、軍事を所管する国内外の政府機関の研究、民間企業の軍事目的の研究にも協力しない方針を明確に打ち出している。

 「基本的人権や人類の平和・福祉に反する研究活動に従事しない」との学内の研究倫理からも、決定したという。

 英断だ。歓迎する。

 安全保障技術研究推進制度は、防衛技術の基礎強化などを目的に2015年度からスタート。

 「日本学術会議」に所属する研究者グループや新潟大学などはすでに、軍事研究との接近に抵抗感を示し、「軍事への寄与を目的とする研究は行わない」(昨年10月)との態度を示していた。

 人間を殺傷する可能性がある研究に携わらないことは、科学者の良心。

 科学者の良心の健在するところ、それは平和な社会だ。


                                                                  2016年12月9日  記

「アジア各国にこそ、慰霊すべき場所がある」

「アジア各国にこそ、慰霊すべき場所がある」


 安倍晋三首相は年末の27、28日、米ハワイの真珠湾を訪問し、日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する旅へ出発するという。

 真珠湾で沈んだ戦艦アリゾナの上に建つアリゾナ記念館での戦没者追悼、献花を行う予定だという。

 同館で現職首相が慰霊するのは今回が初めてだと、首相側は胸を張っているが、その前に考えること、やるべきことがあったのではないか。

 歴史学者を中心とする「村山首相談話を継承し発展させる会」は8日、国会内で開いた集会で、次のように安倍首相の真珠湾慰霊訪問を批判した。

 「日米同盟強化のためのパフォーマンスはいらない」、「米国追従だ」、「日本が侵略したアジアの国々にさきに行くべきだ」

 また、マレーシアの華人会の「第二次世界大戦歴史研究会」翁清玉会長は、「旧日本軍はマレーシアなどで華人らに虐殺や暴行をした。過去の問題は解決していない」と強調。

 過去の侵略戦争で謝罪も歴史清算もしてこなかった日本が、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での犠牲者への慰霊行為を行うということに、多くの人が疑問を持っているのだ。

 中国外務省の報道局長は7日、「日本が深く反省し、誠実に謝罪したいのであれば、中国側は多くの場所を慰霊のために提供できる」と述べ、南京大虐殺、満州事変、731部隊(細菌兵器を研究開発していた)に関する展示施設を挙げた。

 これまで安倍首相は、中国や東南アジアを訪問した際、各地の旧日本軍被害の施設や彼らへの慰霊、献花を行なったことがあるだろうか。そのことが問われているのだ。

 今後、日本および安倍首相に科されている宿題は、侵略した国々への慰霊、若しくは施設見学と謝罪行為である。


                                                                  2016年12月8日  記

「20世紀の巨人、カストロ氏死去」

「20世紀の巨人、カストロ氏死去」

 
11月27日付けの各紙朝刊の一面トップは、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長の死去を報じた。

 25日午後10時29分(日本時間26日午後0時29分)に死去したことを伝えている。90歳だった。

 弟のラウル・カストロ現議長(85)が25日深夜、国営テレビで「深い悲しみとともに、革命の最高司令官フィデル・カストロが死去したことを伝える」と発表した。

 死去直後のこの発表は、実弟としてつらかったろう。

 1959年1月のキューバ革命で、アルゼンチン人革命家のチエ・ゲバラらと共にパチスタ政権(親米)を打倒し、権力を握る。

 米国は61年、米系資産の接収を行い、国交を断絶した。カストロはソ連や社会主義諸国との関係を強化して、社会主義路線を歩んだ。

 以後、反米路線を核廃絶を掲げて戦い、反米闘争のカリスマとして、ベネズエラ、ボリビア、エクアドルなどで左派政権が誕生、南米での影響力は大きく、精神的な支柱となっていった。

 日本でも60年代から70年代にかけて、安保闘争を行なっていた学生、青年たちを中心に影響を与えた。

 青年時代の私も、チエ・ゲバラやフィデル・カストロの革命伝、語録、キューバ革命などを読み、貧者への視点、平等概念を学んだ。

 カストロが常に口にしていた「革命か死か。常に勝利まで戦おう!」の言葉に魅了され、キューバ革命に憧れた。

 昨年7月、米国が54年ぶりに国交を回復し、今年3月、オバマ大統領が現職大統領として88年ぶりにキューバを訪問。

 オバマ大統領の演説を「口先だけの甘い言葉」だと批判し、革命家としてのするどい意識を米国に向けていた。

 生前、巨大な銅像や肖像画を作らせず、遺体を残すことも許さず、火葬を希望していた。

 キューバ政府の発表では、26日から9日間を服喪期間とし、首都ハバナの革命広場を28、29日に追悼の場とし、その後12月4日に革命の象徴的な地、東部サンティアゴデクーバに埋葬されるという。

 最後まで思想、政治、革命の指導者であったが、自らの遺体は人民と同じように火葬、埋葬を望んだことについても改めて敬意を払う。

 フィデル・カストロはまさしく、ソ連のスターリン、中国の毛沢東、朝鮮の金日成、ベトナムのホーチミン、南アフリカのマンデラらと共に、20世紀の国際政治に大きな足跡を残した代表的な巨人として、困難な革命を勝利に導き発展させたとして、その名が残ることだろう。

 哀悼の意を表する。

                                                                2016年11月27日  記

「いま、GSOMIA締結に疑問」

「いま、GSOMIA締結に疑問」

 日韓両政府は11月23日、相互に軍事(防衛)機密情報を提供し合う「日韓秘密軍事情報保護協定」(GSOMIA)に、非公開で署名し、締結した。

 北朝鮮の脅威、核・ミサイル情報を含む機密情報を両国で保護、共有するための措置、迅速な情報交換による安全保障面での連携強化を主として、規定している。

 GSOMIAは2012年6月、当時の李明博政権との間で交渉が進み、野党および一般世論の強い反対で、署名式当日になって韓国側から延期が要請されたという経緯がある。

 GSOMIAに対して韓国世論が反発しているのは、日本が植民地支配時代の十分な清算をしていないままでは、軍隊化した自衛隊が朝鮮半島に上陸する朝鮮半島再侵略化に道を開くという嫌悪感があるからである。

 日米韓3カ国の協力体制を強化したい米国の思惑と重なり、日本の安倍政権は、北朝鮮のミサイル発射技術の向上と核弾頭の小型化が進んでいるとして、韓国にGSOMIAの早期締結を呼びかけてきた。

 ただ、急ぎ締結されたのは、こうした日米からの要請というよりは、朴槿恵本人の意向によるものが強かったのではないか。

 朴槿恵政権は今年に入り、急激に北朝鮮への強硬政策を強めてきた。

 レームダック化していく自らの力をつなぎ止めるためなのか、親友の崔氏からの「指示」なのか、それ以降の彼女の発言は、もはや政治指導者ではなく、人間失格としか思えない北への対決悪態、詭弁に終始していた。

 海外の訪問先で、「北内部の状況が大変憂慮される水準」、「急変事態が任意の時刻に到来し得る」、「重大な現実に備えて安保体制を強化すべきである」と、北崩壊説を展開。

 8月の「ウルチ国家安全保障会議」、青瓦台首席秘書官会議などでも、「北内部の動揺が大きくなっている」、「北が深刻な亀裂の兆しを見せており、体制が揺らぐ可能性が大きくなっている」などと、北は「体制危機」「体制の亀裂の深まり」「民衆蜂起」があり、対北圧力政策を集中させる必要があると力説した。

 それ以降、「国家非常事態レベルの極めて重大な状況」、「北の政権を終われせる覚悟をすべきである」など、安保危機と反北敵対感情を鼓吹して、体制の維持を図ってきた。

 このため「THAAD配備は止めるに止められない」として、野党や市民たちの反対を無視して進めた。

 その上、THAAD配備に反対する野党と市民たちを「不純勢力」「社会不安醸成勢力」などとして弾圧している。

 この時点で、朴槿恵政権は崩壊の兆しを見せていたが、GSOMIAの場合はスキャンダルが露呈し、風前の灯政権が、さらに「北の脅威」論に取り繕おうとしている哀れな姿を見せている。

 
ここで、45年前のことを思い出してみる。

 彼女の父である、朴正煕大統領の時代。

 1971年の大統領選(4期目)を前にして、反朴・反政府運動が高まっていた。

 反対運動を押さえ込むために、朴政権は、「北朝鮮のスパイが学生運動を背後から操っている」として、在日朝鮮留学生ら100数十名を71~72年にかけて、日本を経由して浸透した「スパイ団」の指導者として公表、逮捕した。

 自己の政権が不利な時に、「北カード」を切ることで、市民たちの意識をそこに向けようとした。

 「スパイ団」として疑われた学生たちは、密室での酷い拷問を受けつつ、無実を叫んで20年以上も耐え続けた。徐勝、徐俊植兄弟が有名である。

 朴正煕は、架空の「スパイ団」事件を創作して、在日朝鮮留学生と家族たちへの深い後遺症と、南朝鮮人民に北への敵対感情を植え付けた事件のことである。

 父親の朴正煕は結局、この事件から崩壊への道を歩んでいく。

 同じく架空の「北カード」を乱発した娘の朴槿恵もまた、その政権の終末を予告されている。

 彼女の場合は、南北交流に無用なTHAAD配備、GSOMIA締結、開城工業団地の全面閉鎖など、朝鮮人民が願う朝鮮統一の妨害を行った。

父親の反北政策よりも罪が大きいのではないか。

                                                                 2016年11月24日 記

「差別発言を容認する安倍政権」

「差別発言を容認する安倍政権」

 「土人」用語は明らかに差別用語である。

 そのように認識され、常識化していると思っていた。

 しかし、鶴保庸輔沖縄・北方担当相の場合は違っていたようだ。

 沖縄で米軍基地建設に反対する住民に対して、大阪府警の機動隊員が、「土人」発言をしたことに、菅義偉官房長官が記者会見で、さらに金田勝年法相が国会で、ともに、「許すまじきこと」「土人は差別用語」と認め、発言者を処分した。当然のことである。

 問題はその後の鶴保氏の発言である。

 国会で野党議員の質問に、「過去に土人という言葉ができた歴史的経緯など、様々な考え方があります」「いま現在、差別用語であるとされるものであっても、過去に流布していた事例も歴史的にはたくさんございます」「そういう意味におきましても、土人であるということが差別であるというふうには、私は個人的には断定はできません」などと、回りくどく要旨不明表現を連ね、結局は「土人」用語は、差別語ではないとした点である。

 彼は「過去に流布していた」から、差別語であるかどうか「個人的に判断できない」、判断できないから差別語であるかどうかは「断定できない」のだと言う。

 そう言いながら、「土人」用語を差別語としたことはまったく許せない。

 土人とは、一般に、未開地で原始生活をしている土着の人々としているが、文化が開けない「未開地」、自然のままの「原始生活地」など、現在ではありえない。

 野党は発言の撤回を要求したが、鶴保氏は自説を繰り返すだけである。

 この場面、国会で「土人」用語が「公認」されてしまったと受け止めた人が多くいたのではないか。

 「土人」用語が公認されたとしたら、今後、青少年の間やネット上で相手を誹謗、差別する際に、「土人」表現が使用される可能性があり、危惧される。

 この点で野党各党はもう少ししっかりと用語解釈を追及し、安倍政権に「土人」用語は差別語であることを認めさせ、政府見解を引き出す必要があったのではないか。野党の追及は弱く力不足であった。

 そうこうしている内に政府は21日、鶴保氏が機動隊員が「土人」と叫んだことを「差別と断定できない」と述べたことについて、訂正や謝罪は不要とする答弁書を閣議決定してしまった。

 答弁書は、土人という言葉に「未開の土着人」との軽蔑の意の他に、「その土地に生まれ住む人」などの意味もあり、差別語にあたるかどうか「一義的に述べることは困難」だと説明。

 後段のこの解釈、鶴保氏のためにねじ曲げ、小細工したとも言える。

 最近の鶴保氏、資金パーティー券疑惑、利益口利き疑惑、40キロ速度違反など、幾つもの疑惑が重なっている。そのような鶴保氏を何としても閣内に止め置き、安定した内閣のもと、国会を乗り切ろうとする、姑息な手段である。

 このことによって、「土人」用語が、あいまいな解釈の政府公認解釈となってしまったことを憂う。

                                                                 2016年11月22日 記

「『軍隊化』していく自衛隊」

「『軍隊化』していく自衛隊」


 安全保障関連法に基づく新任務「駆けつけ警護」が初めて付与された部隊が、11月20日から順次、南スーダンの首都ジュバに向けて出発。

 派遣部隊(青森の陸自第9師団を中心に)は計約350人、20日には約130人が青森空港から出発した。

 駆けつけ警護は、国連部隊などの要請を受け、離れた場所で武装勢力などに襲われたPKOやNGOスタッフらを武器を持って保護する任務。

 自らを守る武器使用、任務遂行のための武器使用(戦闘)が可能となった。

 また、他国のPKO要員らと共に武装勢力から宿営地を守る「共同防衛」と合わせて実施することになっている。

 これらを実施するかどうかは、自衛隊の派遣部隊長が要請内容を踏まえて判断する。

 武器を使用するかどうかの瞬時の判断が、現地の指揮官に託された。この責任は重い。

 稲田朋美防衛相は「銃撃戦が行われているような苛烈な現場で行うことは想定されない」としているが、ジュバでは7月に大規模戦闘が起きており、今も治安悪化が懸念されている。

 決して安全、安心な場所ではなく、武器使用の可能性が高い場所である。

 自衛隊の海外での武器使用をめぐっては、1992年に成立した国際平和協力法(PKO協力法)で、自衛官自身や近くの仲間を守るための必要最小限の使用、「自己保存のための自然権的権利」(自己保存型)が認められてきた。

 今回、安倍政権はこの方針を超えて、安保法によって、駆けつけ警護などを妨害された場合も武器使用を認めた。

 武器使用の幅が広がった。

 国などが相手でないことの条件(憲法違反)は、以前と同じであるものの、駆けつけ警護の場合は、自衛隊員がより危険な場所に飛び込み、一歩踏み込んだ武力行使を認めた点で、従来とは異なる。

 国会で野党から運用面での懸念を質問されて、派遣部隊が施設部隊であること、他国軍の警護は想定しない、邦人保護の側面と活動地域の限定を全面に出し、多くの「縛り」で説した。

 そうまでして新任務付与にこだわった理由は、安保法施行による自衛隊の「軍隊化」への一歩を、現実的に踏み出すことにあったと思われる。

                                                                 2016年11月21日 記 

「なぜ、『明治の日』なのか」

「なぜ、『明治の日』なのか」

「明治の日推進協議会」(塚本三郎会長=元民社党委員長)が11月1日、明治天皇の誕生日である11月3日を「明治の日」にしようと、国会内で集会を開いている。

 集会では、「明治の日」の実現を求める約63万8千筆の署名が自民党の古屋圭司議員に手渡された。

 古屋氏は「かつての『明治節』がGHQの指導で大きく変わることを強いられた。明治時代こそ大切だったと全ての日本人が振り返る日にしたい」と決意を述べた。

 続く来賓で、稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが、明治維新の精神だった。それを取り戻すべく頑張りたい」などと、架空の神武天皇像を語っている。

 同協議会は11年から運動を続けている。

 役員には、伊藤哲夫・日本政策研究センター代表、大原康男・国学院大名誉教授、桜井よしこ氏ら安倍首相のブレーンや日本会議ら右翼中枢メンバーが連ねている。

 超党派の国会議員連盟発足を目指しているが、現在、国会議員の参加は14人(自民党12人、他2人)にとどまっている現状から、さすがに国会議員も足踏みしているのだろう。

 明治維新から150年の節目にあたる2018年に、明治の日制定の実現を目指している。

 安倍政権も10月、18日の記念事業を行う方針を発表しているから、来年にはさらなる「声」を挙げるだろう。

 なぜ今、明治時代を呼び戻し、復古的な「天長節」を祝うのか。

 近代国家創設者としての明治天皇の誕生日である11月3日を「明治節」(1927年)を定めるというが、その時期は、日本が植民地国家、侵略国家、軍事国家として転換していく象徴的な時期にあたることを忘れてはいけない。

 それ故に、敗戦後、GHQは軍事的なものを解体した中で、明治天皇史観につながる「天長節」を否定した。

 しかし、新憲法公布を受けた48年の祝日法で、11月3日が「文化の日」として復活した。これが、ずっと右派の琴線にふれていたのであろう。(いつの日か復活させると)

 戦争法を制定した安倍政権のいま、その政権周辺での弁舌に力を得ている彼らの、復古節的文化運動(時代錯誤)の動きに、警戒していく必要があるだろう。

                                                                   2016年11月1日 記
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愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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