「明治時代とは」②
2.明治憲法の体制下の国家
明治維新は幕藩体制を崩壊させたが、封建領主階級内部の改革派の主導によって成立したため、封建的な諸関係を完全には払拭できないまま、神話史観に基づく絶対主義的な天皇制国家を構築することになった。
それは近代革命とはほど遠く、曖昧さを内包した改革であった。
国家主導による資本主義生産を保護・育成するため、半封建的な寄生地主制を公認した。
結果として、4民平等を掲げながらも、皇族、華族、士族の特権身分の存在と、未解放部落民の社会的差別構造という身分差別構造を出現させる、日本型近代資本主義社会を形成した。
憲法は、近代社会の体制構築にとって、骨格となるものである。
その憲法。明治維新政府内部でも当初、憲法制定論が無くはなかったが、政府内の藩閥対立などの影響で遅れていた。
そうこうするうちに自由民権運動、議会解説要求運動などの強まりで、私設憲法が続々と民間から発表されるようになった。
結局、維新政府はこれら民間憲法に対抗、押されるようにして、憲法制定論へと向かうことになった。
明治と改元してからすでに20年が経っていた。
伊藤博文を中心に井上毅らがドイツなどの君主憲法を参考に起草した内容は、欽定憲法となり、皇室中心主義が基本方針となった。
形式的には一応、2院制、責任内閣制、司法権の独立、臣民の権利義務など、近代的な体制はとっているが、基本は天皇主権を原則とし、枢密院・貴族院などの特権的機関を置いた。
大臣も天皇により任命され、天皇に対して責任を負うなど議会制の機能は大きく制限するものであった。
国民の権利も法律により制限することができる独立命令、緊急勅命、非常大権など、議会によらない立法手段が天皇大権として規定された。
また、軍は天皇に直属し、内閣の統制外に置かれていた。(統帥権の独立)
1889年2月に発布された明治憲法(大日本帝国憲法)によって天皇大権政治がより補完され、明治憲法体制下では、天皇と直属する特権的な機関が支配し、民衆の弾圧と大陸侵攻政策が進んでいった。
天皇主権と強大な天皇大権の下、軍部、官僚、特権ブルジョアジー、大地主階級が支配する体制の中で、国民の基本的人権や社会的諸権利は非常に制限されたものとなった。
そのような体制を支えるために、国家主義、軍国主義、非合理主義(神国日本)に注力する教育を通じて、近代的自我や素朴な権利意識すらも抑圧し、「国民」となった一般民衆を戦争の渦中へと誘導する一つの「コマ」にしていった。
その一方で、産業革命・産業興産は積極的に進めた。それとて次の戦争・戦闘を準備するための資材・資本を蓄積するものであった。
民衆、特に人口の大半を占める農民層の生活は改善されず、貧しいままであった。
維新政府は、そのような民衆の声や生活を省みるよりも、機械制大工業の殖産興業政策、官業払い下げなどの産業育成を急ぎ、日本型資本主義体制を整え、日清・日露戦争体制を準備した。
いま、明治期の産業遺産で、後世に伝えようと、保存しようとしている建造物の多くは、「戦争」を準備しようとしていたもので、直接、一般庶民らの生活のためのものではない。多くの建造物に隠されていた裏面には、民衆抑圧体制、労働哀史、民衆哀史が刻まれており、そうした体制がアジア人民弾圧へと向かっていったのである。
この体制は、朝鮮および中国大陸侵略、さらには米英戦へと向かう第2次世界大戦を戦うための、「戦争」準備体制であったと言うことができる。
以下では、明治期の歴史を「戦争」というテーマで、次の5つの時代に区切ることにする。
*日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)
*外圧へと向かう期間(1873年~1893年)
*朝鮮侵略・植民地への準備期間(1894年~1903年6月)
*日露戦争期(1904年~1905年)
*日中戦争への準備期間(1906年~1912年)
ただ、時代および歴史は常に流動的に、相互補完的に動いているから、物体を切るようにはいかない。複数の関連事項が同時に作用していることが多く、一つのテーマで時代を区切るにしても、観点が違えば、別の切り方もあるだろう。特に、明治維新期は藩閥対立を引きづり、政治家の対立と離合集散が激しかった時期である。
ここでは、一つの大きな事象の終末をもってその時代の区切りとするが、どの区切りにも、また別の新しい現象が始まり動いていることを認識しつつ、その上で、これら5つの時代を改めて見直すこととする。
*日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)
1868年の鳥羽伏見の戦、69年5月の五稜郭の戦の戊辰戦争の終結をもって、旧幕府軍の組織的な抵抗は一応、終結する。
榎本武揚らが函館・五稜郭で最後の抵抗を試みたが敗れ、幕藩体制は崩壊。
明治の改元はその前年の1868年9月に行っている。
戊辰戦争による討幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚体制を不動のものにしたとの確信を持ち、以後の藩閥体制の急速な解体に進んだ。
藩民たちの日本国民意識の培養、日本国領土の確定作業などを進めながら、天皇制統一国家形成へと向かっていった。
先ず、中央集権化の一過程として、1869年、版籍奉還作業を急いだ。同年6月以降、藩主を知藩事に任命した。
次いで1870年10月の兵制統一布告(海軍は英式、陸軍は仏式)。1873年1月の徴兵令公布(72年に兵部省を廃止、陸海軍両省を設置)など、藩兵制度を廃止し、全国統一の兵制度と徴兵令をいち早く設け、内国の武力統一と外征への力量に備えた。
外征へと向かうには、先ず日本国領土の確定作業を急ぐ必要があった。
明治維新政府は日本国領土を確定するために、北海道・沖縄の地を日本国に組み入れる処置を急いだ。
五稜郭の戦いを終えた1869年5月、蝦夷地全域を占領し、8月に北海道とした。
次いで、南部の琉球。琉球国は1609年、薩摩藩に征服され、同藩の支配を受けていたが、一方で中国(明、清)とも長い間、冊封関係にあった。
維新政府は1871年、琉球を鹿児島県管轄下に置き、72年に琉球藩を設置し、政府の直轄とした。
71年末、琉球船が台湾に漂着し乗組員が高砂族に殺害された事件で、維新政府は「日本国民」の遭難として、71年に台湾へ出兵。
さらに維新政府は75年、琉球藩に対して清国との冊封・朝貢関係の停止、藩政改革を要求。
これに対して王政府内の士族層の反対運動の反対運動があったものの、79年3月に軍隊・警察の圧力のもとに琉球藩を廃止し、沖縄県設置(琉球処分)を強行した。
明治政府は、琉球が日本の領土であるとして、一方的に武力を背景に琉球処分を正当化し、沖縄県を設置したのである。
この琉球処分方式は、後の朝鮮併合のモデルとなる。
*外圧へと向かう期間(1873年~1893年)
第2期は、外征へと向いていく期間。
朝鮮、台湾、清国、ロシアなど周辺諸国への関心と、国境線の確定、さらなる拡大の野望へと向かっていく。
同時にその野望を遂げるため、幕末に結んだ列強各国との不平等条約の解消、帝国主義国家へと踏み出す学習の、欧米各国との交渉・交流も進められている。
1873年9月に岩倉具視らが欧米視察から帰国すると、10月に征韓論争(10月政変)が始まる。
政変に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが参議を辞し、下野する。
征韓論は、江戸時代後期の国学の普及とともに、朝鮮蔑視論が起こり、尊王論、攘夷論の一環をなしていった。
江戸幕府も征韓計画を検討したことがあり、維新直後から、政府担当者間では征韓認識では一致できる背景があったのだと思われる。
明治と改元した直後の1868年12月、対馬藩に新政府成立通告のため、朝鮮に遣使を出す。
朝鮮側は、従来とは違う書式、文言のため受理せず、拒否したため、維新政府は西郷隆盛らの主張でいったん征韓論に傾いた。
岩倉使節一行らは、国際情勢や日本の力量を認識して内治先決を主張し、決定を覆した。
岩倉らとて対外侵略策の推進に否定的であったわけではなく、そのための力量を高めることと、列強らへの理解を得ることの必要性が、先決であると主張した。
しかし、そこには薩長両藩出身者による政権主流権争い、それを中心とする権力対立が大きく作用していた。
岩倉政権側も、74年5月に台湾出兵、10月政変から2年後の75年9月に江華島事件で挑発し、76年2月に一方的な日朝修好条規を結ぶとともに、清国にも、対抗、侵攻の手を伸ばしている。
台湾出兵は、71年に琉球諸島の船が台湾に漂着し、乗組員が殺害されたことと、73年に岡山県の船員が略奪されたことでもって、琉球帰属問題と絡んで、征討を計画した。
出兵直前にアメリカが反対し、中止を決定したが、西郷隆盛(台湾事務都督)の強硬意見によって出兵、73年5月に台湾に上陸、占領した。
74年10月にイギリス公使ウェードの斡旋で、清国との間で、台湾問題の和議が成立。日本は銀50万両を補償金として受け取った。
一方、北辺のロシアとの国境確定は1875年5月、樺太・千島交換条約で確定された。
日露和親条約(1854年)では、エトロフ・ウルップ両島の間を国境とし、樺太は両国人雑居としていた。
このため、樺太では、南下するロシア人との紛争が多発していた。
当時の日本はまだ、財政上も軍事上でも、ロシアに対して積極策に出る力量がなく、条約によって樺太をロシア領とした。
代わりに、千島列島全島を日本領土としている。
朝鮮へは、1875年9月、軍艦雲揚号が朝鮮漢江口の江華島付近で挑発行為をし、砲撃された事件(暴力団同様の言いがかりを手口として)をきっかけに、それ以降、朝鮮侵略への機会を積極的に作り出している。
征韓論争政変で分裂した維新政府は、開国を拒む朝鮮への示威行為を行うことで一致。
朝鮮沿岸での軍事演習や海路測量を繰り返し、江華島付近の測量で朝鮮側の砲撃を受けた。
日本はこれを利用して、草芝鎮、永宗島を攻撃したうえ、軍事的圧力をかけ、76年2月に日朝修好条規(江華島条約)を締結した。
清国との宗属関係を否認し、朝鮮を独立国として承認する内容となっている。
併せて釜山など3港の開港による通商貿易、日本の一方的な領事裁判権などを規定した。
これは日本が外国にはじめて不平等条約を強制するものであった。条約の内容、軍事的圧力の方法などは、アメリカから学んだものである。
一方、清国とは、1871年7月、日清修好条規(「大日本国大清国修好条規通商程各海関税則」)を調印。
こちらの方は、日本最初の対等条約とされている。(無条約状態を改めるため、清国との間で結んだ)
最恵国待遇のないこと、領事裁判権を相互に承認し、日清戦争まで適用した。
しかし、その後、台湾・朝鮮との宗属関係を日本が強引に破棄させたことで、清国との関係は悪化していく。
(続く)
明治維新は幕藩体制を崩壊させたが、封建領主階級内部の改革派の主導によって成立したため、封建的な諸関係を完全には払拭できないまま、神話史観に基づく絶対主義的な天皇制国家を構築することになった。
それは近代革命とはほど遠く、曖昧さを内包した改革であった。
国家主導による資本主義生産を保護・育成するため、半封建的な寄生地主制を公認した。
結果として、4民平等を掲げながらも、皇族、華族、士族の特権身分の存在と、未解放部落民の社会的差別構造という身分差別構造を出現させる、日本型近代資本主義社会を形成した。
憲法は、近代社会の体制構築にとって、骨格となるものである。
その憲法。明治維新政府内部でも当初、憲法制定論が無くはなかったが、政府内の藩閥対立などの影響で遅れていた。
そうこうするうちに自由民権運動、議会解説要求運動などの強まりで、私設憲法が続々と民間から発表されるようになった。
結局、維新政府はこれら民間憲法に対抗、押されるようにして、憲法制定論へと向かうことになった。
明治と改元してからすでに20年が経っていた。
伊藤博文を中心に井上毅らがドイツなどの君主憲法を参考に起草した内容は、欽定憲法となり、皇室中心主義が基本方針となった。
形式的には一応、2院制、責任内閣制、司法権の独立、臣民の権利義務など、近代的な体制はとっているが、基本は天皇主権を原則とし、枢密院・貴族院などの特権的機関を置いた。
大臣も天皇により任命され、天皇に対して責任を負うなど議会制の機能は大きく制限するものであった。
国民の権利も法律により制限することができる独立命令、緊急勅命、非常大権など、議会によらない立法手段が天皇大権として規定された。
また、軍は天皇に直属し、内閣の統制外に置かれていた。(統帥権の独立)
1889年2月に発布された明治憲法(大日本帝国憲法)によって天皇大権政治がより補完され、明治憲法体制下では、天皇と直属する特権的な機関が支配し、民衆の弾圧と大陸侵攻政策が進んでいった。
天皇主権と強大な天皇大権の下、軍部、官僚、特権ブルジョアジー、大地主階級が支配する体制の中で、国民の基本的人権や社会的諸権利は非常に制限されたものとなった。
そのような体制を支えるために、国家主義、軍国主義、非合理主義(神国日本)に注力する教育を通じて、近代的自我や素朴な権利意識すらも抑圧し、「国民」となった一般民衆を戦争の渦中へと誘導する一つの「コマ」にしていった。
その一方で、産業革命・産業興産は積極的に進めた。それとて次の戦争・戦闘を準備するための資材・資本を蓄積するものであった。
民衆、特に人口の大半を占める農民層の生活は改善されず、貧しいままであった。
維新政府は、そのような民衆の声や生活を省みるよりも、機械制大工業の殖産興業政策、官業払い下げなどの産業育成を急ぎ、日本型資本主義体制を整え、日清・日露戦争体制を準備した。
いま、明治期の産業遺産で、後世に伝えようと、保存しようとしている建造物の多くは、「戦争」を準備しようとしていたもので、直接、一般庶民らの生活のためのものではない。多くの建造物に隠されていた裏面には、民衆抑圧体制、労働哀史、民衆哀史が刻まれており、そうした体制がアジア人民弾圧へと向かっていったのである。
この体制は、朝鮮および中国大陸侵略、さらには米英戦へと向かう第2次世界大戦を戦うための、「戦争」準備体制であったと言うことができる。
以下では、明治期の歴史を「戦争」というテーマで、次の5つの時代に区切ることにする。
*日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)
*外圧へと向かう期間(1873年~1893年)
*朝鮮侵略・植民地への準備期間(1894年~1903年6月)
*日露戦争期(1904年~1905年)
*日中戦争への準備期間(1906年~1912年)
ただ、時代および歴史は常に流動的に、相互補完的に動いているから、物体を切るようにはいかない。複数の関連事項が同時に作用していることが多く、一つのテーマで時代を区切るにしても、観点が違えば、別の切り方もあるだろう。特に、明治維新期は藩閥対立を引きづり、政治家の対立と離合集散が激しかった時期である。
ここでは、一つの大きな事象の終末をもってその時代の区切りとするが、どの区切りにも、また別の新しい現象が始まり動いていることを認識しつつ、その上で、これら5つの時代を改めて見直すこととする。
*日本国民の統一、日本領土の確定期間(1868年9月~1872年9月)
1868年の鳥羽伏見の戦、69年5月の五稜郭の戦の戊辰戦争の終結をもって、旧幕府軍の組織的な抵抗は一応、終結する。
榎本武揚らが函館・五稜郭で最後の抵抗を試みたが敗れ、幕藩体制は崩壊。
明治の改元はその前年の1868年9月に行っている。
戊辰戦争による討幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚体制を不動のものにしたとの確信を持ち、以後の藩閥体制の急速な解体に進んだ。
藩民たちの日本国民意識の培養、日本国領土の確定作業などを進めながら、天皇制統一国家形成へと向かっていった。
先ず、中央集権化の一過程として、1869年、版籍奉還作業を急いだ。同年6月以降、藩主を知藩事に任命した。
次いで1870年10月の兵制統一布告(海軍は英式、陸軍は仏式)。1873年1月の徴兵令公布(72年に兵部省を廃止、陸海軍両省を設置)など、藩兵制度を廃止し、全国統一の兵制度と徴兵令をいち早く設け、内国の武力統一と外征への力量に備えた。
外征へと向かうには、先ず日本国領土の確定作業を急ぐ必要があった。
明治維新政府は日本国領土を確定するために、北海道・沖縄の地を日本国に組み入れる処置を急いだ。
五稜郭の戦いを終えた1869年5月、蝦夷地全域を占領し、8月に北海道とした。
次いで、南部の琉球。琉球国は1609年、薩摩藩に征服され、同藩の支配を受けていたが、一方で中国(明、清)とも長い間、冊封関係にあった。
維新政府は1871年、琉球を鹿児島県管轄下に置き、72年に琉球藩を設置し、政府の直轄とした。
71年末、琉球船が台湾に漂着し乗組員が高砂族に殺害された事件で、維新政府は「日本国民」の遭難として、71年に台湾へ出兵。
さらに維新政府は75年、琉球藩に対して清国との冊封・朝貢関係の停止、藩政改革を要求。
これに対して王政府内の士族層の反対運動の反対運動があったものの、79年3月に軍隊・警察の圧力のもとに琉球藩を廃止し、沖縄県設置(琉球処分)を強行した。
明治政府は、琉球が日本の領土であるとして、一方的に武力を背景に琉球処分を正当化し、沖縄県を設置したのである。
この琉球処分方式は、後の朝鮮併合のモデルとなる。
*外圧へと向かう期間(1873年~1893年)
第2期は、外征へと向いていく期間。
朝鮮、台湾、清国、ロシアなど周辺諸国への関心と、国境線の確定、さらなる拡大の野望へと向かっていく。
同時にその野望を遂げるため、幕末に結んだ列強各国との不平等条約の解消、帝国主義国家へと踏み出す学習の、欧米各国との交渉・交流も進められている。
1873年9月に岩倉具視らが欧米視察から帰国すると、10月に征韓論争(10月政変)が始まる。
政変に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが参議を辞し、下野する。
征韓論は、江戸時代後期の国学の普及とともに、朝鮮蔑視論が起こり、尊王論、攘夷論の一環をなしていった。
江戸幕府も征韓計画を検討したことがあり、維新直後から、政府担当者間では征韓認識では一致できる背景があったのだと思われる。
明治と改元した直後の1868年12月、対馬藩に新政府成立通告のため、朝鮮に遣使を出す。
朝鮮側は、従来とは違う書式、文言のため受理せず、拒否したため、維新政府は西郷隆盛らの主張でいったん征韓論に傾いた。
岩倉使節一行らは、国際情勢や日本の力量を認識して内治先決を主張し、決定を覆した。
岩倉らとて対外侵略策の推進に否定的であったわけではなく、そのための力量を高めることと、列強らへの理解を得ることの必要性が、先決であると主張した。
しかし、そこには薩長両藩出身者による政権主流権争い、それを中心とする権力対立が大きく作用していた。
岩倉政権側も、74年5月に台湾出兵、10月政変から2年後の75年9月に江華島事件で挑発し、76年2月に一方的な日朝修好条規を結ぶとともに、清国にも、対抗、侵攻の手を伸ばしている。
台湾出兵は、71年に琉球諸島の船が台湾に漂着し、乗組員が殺害されたことと、73年に岡山県の船員が略奪されたことでもって、琉球帰属問題と絡んで、征討を計画した。
出兵直前にアメリカが反対し、中止を決定したが、西郷隆盛(台湾事務都督)の強硬意見によって出兵、73年5月に台湾に上陸、占領した。
74年10月にイギリス公使ウェードの斡旋で、清国との間で、台湾問題の和議が成立。日本は銀50万両を補償金として受け取った。
一方、北辺のロシアとの国境確定は1875年5月、樺太・千島交換条約で確定された。
日露和親条約(1854年)では、エトロフ・ウルップ両島の間を国境とし、樺太は両国人雑居としていた。
このため、樺太では、南下するロシア人との紛争が多発していた。
当時の日本はまだ、財政上も軍事上でも、ロシアに対して積極策に出る力量がなく、条約によって樺太をロシア領とした。
代わりに、千島列島全島を日本領土としている。
朝鮮へは、1875年9月、軍艦雲揚号が朝鮮漢江口の江華島付近で挑発行為をし、砲撃された事件(暴力団同様の言いがかりを手口として)をきっかけに、それ以降、朝鮮侵略への機会を積極的に作り出している。
征韓論争政変で分裂した維新政府は、開国を拒む朝鮮への示威行為を行うことで一致。
朝鮮沿岸での軍事演習や海路測量を繰り返し、江華島付近の測量で朝鮮側の砲撃を受けた。
日本はこれを利用して、草芝鎮、永宗島を攻撃したうえ、軍事的圧力をかけ、76年2月に日朝修好条規(江華島条約)を締結した。
清国との宗属関係を否認し、朝鮮を独立国として承認する内容となっている。
併せて釜山など3港の開港による通商貿易、日本の一方的な領事裁判権などを規定した。
これは日本が外国にはじめて不平等条約を強制するものであった。条約の内容、軍事的圧力の方法などは、アメリカから学んだものである。
一方、清国とは、1871年7月、日清修好条規(「大日本国大清国修好条規通商程各海関税則」)を調印。
こちらの方は、日本最初の対等条約とされている。(無条約状態を改めるため、清国との間で結んだ)
最恵国待遇のないこと、領事裁判権を相互に承認し、日清戦争まで適用した。
しかし、その後、台湾・朝鮮との宗属関係を日本が強引に破棄させたことで、清国との関係は悪化していく。
(続く)
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