「私は、朝鮮の自主的平和統一を支持します」
「私は、朝鮮の自主的平和統一を支持します」
数年前から私は、「私は朝鮮の自主的平和統一を支持します」のネームタグを首からぶら下げて歩いている。
大きなものではないから、通行中の対面者には文字が読めないものの、ネームタグをぶら下げていることは分かるだろう。
時折、知人と出会い、立ち止まって話をすることがあり、その際、相手とはタグの文字が読める程度の距離まで近づき、話をすることになる。
ここで少し、私の近い過去のことを記す。
80年代初めの私は、朝鮮統一支持県民連合、日朝協会、玉串料訴訟を支援する会、県消費者団体連合会、県高齢者協同組合、環境問題団体連絡会など、幾つもの会や団体組織の会長や、共同代表の立場で活動していた。
忙しかったのは事実だが、それら多方面の運動を行う目的は、日本の自主化実現、社会主義システムの実現であった。
だからどの団体の創立呼び掛けには、旧社会党と日本共産党を説得し、共に加入してもらうことに力を注いだ。
すでに社共は反発しあう関係であったのだが、せめて市民運動の場での「社共統一」を願っていたからである。
そのような私の秘かな努力も虚しく、日本共産党側は私を「新左翼分子」(北朝鮮支持者だとは言わず)だとレッテルを貼り、批判を繰り返して、それぞれの団体からの追放劇を試みてきた。
それでもどの団体も私が中枢にいて指導していると、彼らは自分の意見だけを強要したり、会議中に引き揚げたり、新聞「赤旗」で私が会議や活動の進行を妨害していると記事を掲載した。
また、同時期、勤務する新聞社内でも、私はピンチに立たされていた。
年に2回開かれる社長談話・訓示の全員集会で、社長が私を名指しして、「北朝鮮のスパイ」だとレッテルを貼り、存在を否定した。
私の北朝鮮や朝鮮総連との関係、県知事を被告とする玉串料訴訟での市民運動を指導していたことが、彼にそのような発言をさせたようだ。
事実、役員室には、「名田が在籍する限り」新聞不買運動を広めると脅す団体や、右翼連中が出入りしていたと、後日になって聞かされた。
私自身から退社するようにとの社長からの圧力発言であったのだろうが、この発言に影響された幹部や社員たちは、私と距離を置き、しばらくは返事もしてくれない冷たい空気が支配し、私は孤立した。
そのような社内の出来事を誰にも話さずにいたから、私に関する誹謗中傷だけが、各種団体に流れ、そこでも不当な非難の目が注がれることがあった。
もう一点、私自身の周辺に変化が生じていた。
右翼団体や右派組織(勝共連合など)のほか、公安警察などが私を尾行し始めたのだ。
特に右翼団体と公安警察はしつこかった。
80年代中、右翼団体は街宣車を私が勤務する新聞社周辺と朝鮮総連事務所周辺に走らせ、北朝鮮と私への罵声を浴びせた。
それ以外にも、街中を歩いている私を見つけると、街宣車を近づけてボリュームを上げて威嚇したり、無言の圧力を掛けてきたりした。
一人では街中を歩かないようにと友人たちから助言を受けていたが、仕事柄そうもいかず、80年代中頃までは右翼連中から襲撃されるかもしれないという警戒心で、通行していた。
それ以外に右翼は連日、自宅に無言電話、暴言電話や、真夜中から午前3時頃までの数回、いやがらせ電話を、90年代初めまで掛け続けてきた。
公安警察の方はもっと陰湿で、私が定年退社する日まで、社の周辺で私の動静を見張っていた。
それでも足りないのか、北朝鮮との関係が緊張している時や、私が訪朝する前後などは、様々な人物を様々な理由をつけて私と接触(間接的な場合も)させて、しつこいほど情報を探ろうとした。
80年代から90年代にかけての、私の社会的身辺的状況を長々と振り返ったのは、もう一面での私が置かれた状況と関連するからである。
私は朝鮮問題、消費者問題、環境問題、高齢者問題などの代表として、第一線で活動していたため、様々な局面で、県内のマスメディアの注目を受け、年に数回はニュース番組に私の顔と名前が登場した。時には短い番組にも出演した。
私の意図することとは違って、私の名前と顔は県内に広がり、知られる存在となってしまった。
そのことを利用した団体や個人から、松山市議や県議選挙に出ることを要請されたこともあった。ただ、私は政治家になるつもりはなかったから、彼らの期待には応えられなかった。
意図せず有名人になったことでただ一つよかったことは、街中で右翼から襲撃を受けることがあったとしても、周囲の人間によってそれを防ぐことができるという安心感だった。この考えから、有名人であることに甘んじていたのも事実である。
その結果、80年代中頃以降になると、何気なく街中を歩いていると、私の顔をまじまじと見つめ、後ろを振り返る人たちの存在に気付くようになった。
彼等彼女らは、すれ違うまで私を見つめ、通り過ぎて後ろを振り返り、「あの人」「見たことがある」「テレビに出ていた」などと、連れ立つ人々と言葉を交わしていた。一時間ほど歩くと、4、5回そのような人々と出会うこともあったが、さすがに2000年代になる、1~2回までに減った。(それも中年以上の人たち)
そのような現象を経験してきたから、街中で出会う知人たちの大部分は、私が朝鮮問題関連の活動家で、北朝鮮を支持していることを知っている。
知ってはいても、彼ら自身の人生の立ち位置によって、朝鮮関連のテーマを無視して話さなかったり、無難な話題で終わったり、わざと韓国のことを持ち出したりして挑発するなど、朝鮮問題を避けていた。彼らは、私がぶら下げているネームタグの文字は見ないふりをしていた。
ただ、ごく少数の者の中にネームタグの文字を読み、朝鮮半島情勢のことを質問し、教えてほしいと言う者もいた。そんな彼らの中には長年の同志もいる。時には、「立派な立場だ」「尊敬する」などの言葉をかけてくれることもあった。
こうした街中での人々との出会いでさえ、朝鮮半島の政治情勢によって、変化が出てくる。
私の北朝鮮との立ち位置は、どの時も何ほどの変化もないにも関わらず、身近な人々の方が豹変し、社会現象の変化や政治状況によって、私への偏見が増減していることも、また面白い。
北朝鮮が核実験やミサイル発射実験をした直後や、拉致問題がマスメディアで取り上げられた後などは最も厳しく、ある人などは遠くで私を見掛けると、ふいに近くの路地を曲がって姿を消してしまう。
だから私は、「朝鮮の自主的平和統一を支持」して、その実現に努力していることを、誰に対しても表明することにしている。
――これらが「私自身」なのである。
これまで、いつでも、誰に対しても、臆することなく、私は、朝鮮の自主的平和統一支持を表明してきた。これを証明するため、私はネームタグをぶら下げているのである。
2016年1月23日 記

数年前から私は、「私は朝鮮の自主的平和統一を支持します」のネームタグを首からぶら下げて歩いている。
大きなものではないから、通行中の対面者には文字が読めないものの、ネームタグをぶら下げていることは分かるだろう。
時折、知人と出会い、立ち止まって話をすることがあり、その際、相手とはタグの文字が読める程度の距離まで近づき、話をすることになる。
ここで少し、私の近い過去のことを記す。
80年代初めの私は、朝鮮統一支持県民連合、日朝協会、玉串料訴訟を支援する会、県消費者団体連合会、県高齢者協同組合、環境問題団体連絡会など、幾つもの会や団体組織の会長や、共同代表の立場で活動していた。
忙しかったのは事実だが、それら多方面の運動を行う目的は、日本の自主化実現、社会主義システムの実現であった。
だからどの団体の創立呼び掛けには、旧社会党と日本共産党を説得し、共に加入してもらうことに力を注いだ。
すでに社共は反発しあう関係であったのだが、せめて市民運動の場での「社共統一」を願っていたからである。
そのような私の秘かな努力も虚しく、日本共産党側は私を「新左翼分子」(北朝鮮支持者だとは言わず)だとレッテルを貼り、批判を繰り返して、それぞれの団体からの追放劇を試みてきた。
それでもどの団体も私が中枢にいて指導していると、彼らは自分の意見だけを強要したり、会議中に引き揚げたり、新聞「赤旗」で私が会議や活動の進行を妨害していると記事を掲載した。
また、同時期、勤務する新聞社内でも、私はピンチに立たされていた。
年に2回開かれる社長談話・訓示の全員集会で、社長が私を名指しして、「北朝鮮のスパイ」だとレッテルを貼り、存在を否定した。
私の北朝鮮や朝鮮総連との関係、県知事を被告とする玉串料訴訟での市民運動を指導していたことが、彼にそのような発言をさせたようだ。
事実、役員室には、「名田が在籍する限り」新聞不買運動を広めると脅す団体や、右翼連中が出入りしていたと、後日になって聞かされた。
私自身から退社するようにとの社長からの圧力発言であったのだろうが、この発言に影響された幹部や社員たちは、私と距離を置き、しばらくは返事もしてくれない冷たい空気が支配し、私は孤立した。
そのような社内の出来事を誰にも話さずにいたから、私に関する誹謗中傷だけが、各種団体に流れ、そこでも不当な非難の目が注がれることがあった。
もう一点、私自身の周辺に変化が生じていた。
右翼団体や右派組織(勝共連合など)のほか、公安警察などが私を尾行し始めたのだ。
特に右翼団体と公安警察はしつこかった。
80年代中、右翼団体は街宣車を私が勤務する新聞社周辺と朝鮮総連事務所周辺に走らせ、北朝鮮と私への罵声を浴びせた。
それ以外にも、街中を歩いている私を見つけると、街宣車を近づけてボリュームを上げて威嚇したり、無言の圧力を掛けてきたりした。
一人では街中を歩かないようにと友人たちから助言を受けていたが、仕事柄そうもいかず、80年代中頃までは右翼連中から襲撃されるかもしれないという警戒心で、通行していた。
それ以外に右翼は連日、自宅に無言電話、暴言電話や、真夜中から午前3時頃までの数回、いやがらせ電話を、90年代初めまで掛け続けてきた。
公安警察の方はもっと陰湿で、私が定年退社する日まで、社の周辺で私の動静を見張っていた。
それでも足りないのか、北朝鮮との関係が緊張している時や、私が訪朝する前後などは、様々な人物を様々な理由をつけて私と接触(間接的な場合も)させて、しつこいほど情報を探ろうとした。
80年代から90年代にかけての、私の社会的身辺的状況を長々と振り返ったのは、もう一面での私が置かれた状況と関連するからである。
私は朝鮮問題、消費者問題、環境問題、高齢者問題などの代表として、第一線で活動していたため、様々な局面で、県内のマスメディアの注目を受け、年に数回はニュース番組に私の顔と名前が登場した。時には短い番組にも出演した。
私の意図することとは違って、私の名前と顔は県内に広がり、知られる存在となってしまった。
そのことを利用した団体や個人から、松山市議や県議選挙に出ることを要請されたこともあった。ただ、私は政治家になるつもりはなかったから、彼らの期待には応えられなかった。
意図せず有名人になったことでただ一つよかったことは、街中で右翼から襲撃を受けることがあったとしても、周囲の人間によってそれを防ぐことができるという安心感だった。この考えから、有名人であることに甘んじていたのも事実である。
その結果、80年代中頃以降になると、何気なく街中を歩いていると、私の顔をまじまじと見つめ、後ろを振り返る人たちの存在に気付くようになった。
彼等彼女らは、すれ違うまで私を見つめ、通り過ぎて後ろを振り返り、「あの人」「見たことがある」「テレビに出ていた」などと、連れ立つ人々と言葉を交わしていた。一時間ほど歩くと、4、5回そのような人々と出会うこともあったが、さすがに2000年代になる、1~2回までに減った。(それも中年以上の人たち)
そのような現象を経験してきたから、街中で出会う知人たちの大部分は、私が朝鮮問題関連の活動家で、北朝鮮を支持していることを知っている。
知ってはいても、彼ら自身の人生の立ち位置によって、朝鮮関連のテーマを無視して話さなかったり、無難な話題で終わったり、わざと韓国のことを持ち出したりして挑発するなど、朝鮮問題を避けていた。彼らは、私がぶら下げているネームタグの文字は見ないふりをしていた。
ただ、ごく少数の者の中にネームタグの文字を読み、朝鮮半島情勢のことを質問し、教えてほしいと言う者もいた。そんな彼らの中には長年の同志もいる。時には、「立派な立場だ」「尊敬する」などの言葉をかけてくれることもあった。
こうした街中での人々との出会いでさえ、朝鮮半島の政治情勢によって、変化が出てくる。
私の北朝鮮との立ち位置は、どの時も何ほどの変化もないにも関わらず、身近な人々の方が豹変し、社会現象の変化や政治状況によって、私への偏見が増減していることも、また面白い。
北朝鮮が核実験やミサイル発射実験をした直後や、拉致問題がマスメディアで取り上げられた後などは最も厳しく、ある人などは遠くで私を見掛けると、ふいに近くの路地を曲がって姿を消してしまう。
だから私は、「朝鮮の自主的平和統一を支持」して、その実現に努力していることを、誰に対しても表明することにしている。
――これらが「私自身」なのである。
これまで、いつでも、誰に対しても、臆することなく、私は、朝鮮の自主的平和統一支持を表明してきた。これを証明するため、私はネームタグをぶら下げているのである。
2016年1月23日 記

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