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「管理者から」

 諸事情により、長期間、ブログ更新を休んでいましたが、その間に書き溜めた原稿を掲載しました。

 今後はこまめに更新していく予定ですので、よろしくお願いします。
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「東京電力福島第一原発は安全か」

「東京電力福島第一原発は安全か」


 韓国は2013年9月から、東京電力福島第一原発からの汚染水流出を理由に、福島、茨城、群馬、宮城、岩手、栃木、千葉、青森の8県の水産物輸入を禁止している。

 東北各県の農水産物の輸入を禁止しているのは、韓国だけでなく、タイ、台湾、アジア周辺数カ国に及んでいる。

 未だに東京電力福島第一原発からの汚染水流出の不手際があったり、東北3県の汚染土壌・残土処理がスムーズに進んでいない現状から、そこでの農水産物の放射能汚染は誰もが気にするのは当然のことである。

 それに対する日本政府、東京電力、東北3県を含む行政関係者たちの対応は被害が深刻ではない地域の汚染数値を示して、「安心」を宣伝してきた。

 それに呼応してきたのが、「風評被害」をなくしていくとして「復興」や「元気」を叫ぶ官製版ボランティアや、「安心安全」を合唱する支援ボランティアたちのうねりであった。

 日本政府と東京電力は、支援ボランティアたちの善意の声に隠れて、核汚染、被害者の実態、その除去作業の進捗度をしっかりと公表してこなかった。

 そのため、風評被害の声は広がっていくだけである。

 特に水産物への疑念が消えないのは、潮流現象の自然環境もある。

 そうした内外の疑念に政府は、「科学的根拠がない」として無視するだけで、「科学的な説明」をしてこなかった。

 そのことが未だに疑念と風評被害を払拭できずにいるのだ。

 林芳正農林水産大相は21日の記者会見で、韓国を世界貿易機関(WTO)に提訴する方針を明らかにした。

 日本側が「科学的根拠がない」として撤回を求めていたが、韓国が応じなかったからで、5月下旬頃から韓国提訴に向けた手続きを開始していたようである。

 世界文化遺産登録問題といい、戦前の強制労働者の問題といい、安倍政権に日韓首脳会談を開催する気があるのか疑問に思える対応をしている。

 なぜ韓国だけをWTOに提訴するのか、なぜ日韓協議が続けられないのか、安倍政権の韓国対応は分かりにくい。


                                                                  2015年7月22日 記

「中韓の強制労働者にも謝罪せよ」

「中韓の強制労働者にも謝罪せよ」


 三菱マテリアルは19日、前身の三菱鉱業が第2次世界大戦中に旧日本軍の捕虜になった米国人に、日本国内の銅山や鉱山(国内4か所の鉱山で約900人)などで元捕虜と遺族らに謝罪した。

 三菱マテリアルの木村光常務執行役員と社外取締役の岡本行夫氏らが、カリフォルニア州に住むジェームス・マーフィー氏(94)らと面会し、「このような不幸な出来事を二度と起こさない」と謝罪の言葉を直接伝えた。

 「このような不幸な出来事」とは、戦争のことなのか、強制労働のことなのか、捕虜虐待のことなのか、よく分からない。

 それに「出来事」とは、まるで他人事表現である。

 加害企業側としての謝罪というより、パフォーマンスを演じている人間のセリフとしか言えない。

 日本政府は2009年と10年に、米兵捕虜が受けた強制労働に対して公式に謝罪しているが、企業側が元捕虜に公式謝罪するのは初めてである。

 面会後の式典で、木村常務は、「道義的責任を痛感している。おわびは過去の不幸な出来事を反省し、よりよい未来に向けて一層の努力を重ねる決意を示すものだ」と語った。

 マーフィーさんは、「歴史的だ。私たちは70年間これを望んでいた」と謝罪を受け入れ、「他の日本企業にも広がってほしい」と期待した。

 米国では元捕虜が日本企業に賠償や謝罪を求める提訴が相次いだが、00年代初頭、個人の賠償請求権放棄を定めたサンフランシスコ平和条約を理由に退けられている。

 木村氏は、「事業を継承する会社として道義的な責任を感じている」として、謝罪の表明は自社単独で決断したことを強調した。

 今になって、米国人にだけ謝罪したり、自社単独の決断だったと、彼の言葉はどこかうさんくさい。

 韓国の聯合ニュースは同日、「安倍晋三首相が発表する戦後70年談話を前に、米国との友好ムードをつくるための布石」だとの見方を伝えた。

 またニュース専門局YTN(韓国)は20日、「韓国人の被害者には背を向けている」と、批判的に伝えた。

 ここでもまた、アジア人に背を向けている日本の情けない姿勢が見える。


                                                                   2015年7月21日 記

「朝米敵対関係の今後」

「朝米敵対関係の今後」


 イランが核開発を制限する合意を米欧と結んだことを受けて、早くも各国は経済制裁の解除をにらんだ商機・経済進出への動きをみせ始めている。

 イランは人口約7850万人と中東屈指で、購買力の高い30才未満の若者が6割を占め、原油の埋蔵量が世界4位の資源大国と、米欧や日本などでは魅力ある市場ととらえられている。

 このことから、国連安保理での制裁(06年から計4回)などが解除されれば、一気の市場争奪戦が始まるだろう。

 ドイツは最も早く19日に経済代表団(企業トップら約60人)を送り、フランスも大型経済団の派遣を検討している。

 イギリスは大使館の再開(2011年に閉鎖)を目指し、ロシアも輸出再開を準備している。

 日本もまた、インフラ整備や自動車、家電などの売り込みを官民あげて狙っている。強欲な資本主義の侵入が、政治的整備の隙間を目掛け、隙間を拡大しつつ、イランに向かっている姿が映し出されている。

 最高指導者のハメネイ師は18日、テへラン市内で演説し、「傲慢な米政府に対する政策は(今後とも)変えない」と述べた。

 政治姿勢として、今後とも反米を継続し、米国とは建設的な対話をする意思はないと表明したことになる。

 しかしイラン国民の多くは、疲弊した現経済を再建するために、米欧との合意と接近を歓迎している。このためイラン国内では今後、国内世論とのバランスを取りながら、米欧との関係を発展させていくだろう。

 イランにとっても、米欧側にとっても、ともに最終合意の内容に縛られながらの関係を進め、続けていくことになる。

 一方、イランとの最終合意に達する直前、オバマ米政権はキューバとの関係改善で、61年振りに国交正常化へ道へと進めた。

 キューバに米大使館を再開し、米・キューバの交流は経済、人的など、急激に拡大している。

 米国は例によって民主主義と人権など、米国式を輸出することを広言しているが、キューバのカストロ国家評議会議長は、どのようなことがあってもキューバ式社会主義は堅持する、米国方式の政治は受け入れないことを主張していた。

 イランもキューバも米国との国交正常化は、自国経済発展のためであったからである。

 グローバル化した世界経済の現在、米国(世界通貨のドル、世界言語の英語)というツールを通じてしか、との国も経済交流は出来なかったのであろうか。

 米国が国交を持っていない国は2015年1月現在、キューバ、イラン、ブータン、シリア、北朝鮮の5カ国であった。

 キューバとイランとの国交が進んでいる現在(2015年7月)、未国交は3カ国だけとなったうちブータンとはインドを通じて外交関係を持っており、シリアとの外交関係は維持したまま、2012年にダマスカスの大使館機能を凍結している。

 唯一、米国が国交を持っていないのは、北朝鮮だけである。

 朝米関係は、米シャーマン号が大同江に侵入して以来、150年間もの長い間、敵対関係が続いている。

 これほどの長い歳月、敵対的な国家関係が続いているのは、世界史の常識からしても、自主時代の世紀からしても異常な事柄である。

 その異常さを転換していく力量も意識も、残り任期が2年を切ったオバマ政権には不足しているのは事実である。

 とは言っても、彼が歴史に名を残しておきたいとの思いが強ければ、ピョンヤンとワシントンのそれぞれに、連絡事務所を設置するプランはまだ残されている。

 選挙後の新政権が例え共和党になったとしても、連絡事務所を拠点とした新しい朝米関係がそこから始まっていくだろう。

 朝米連絡事務所の設置によって、米国は世界の全ての国家との関係を持ち、世界平和への道筋を明示できることになる。

 それがオバマ氏に残された選択であったと思う。

                                                                 2015年7月19日 記

「米国の細菌戦を糾弾する」

「米国の細菌戦を糾弾する」


 米国のユタ州にある米国防総省の細菌兵器研究施設のダグウェイ実験場が、極秘裏に炭疽菌を米本土の9つの州にある18の生物兵器研究所と南朝鮮の鳥山米空軍基地の細菌兵器研究所に送付していたことが5月27日、明るみに出た。

 一部研究所に配達された炭疽菌が活性状態であったことかをメディアに公開したことから、米国が密かに細菌戦を準備し、その一環として悪性炭疽菌を恒常的に米本土と南朝鮮の烏山米空軍基地の細菌兵器研究所に送付していたことが発覚したのだ。

 炭疽菌は、動物の排泄物、死体、土壌、空気等を通じて人体の皮膚、呼吸器、消化器に感染し、毒性と伝染力が非常に強く、感染すると24時間内に人体の機能を完全に麻痺させ、その致死率が95%以上という悪質の細菌で、「殺人兵器」「悪魔の兵器」と呼ばれている。

 米国防総省報道官は5月27日、活性状態の炭疽菌の送付を認めながらも、「あくまでも実験用であり、被害はない」と弁明するだけであった。

 米陸軍参謀総長も翌28日、「送付した全ての炭疽菌サンプルが規定通りに廃棄されて、人命被害はなかった」と、こちらも弁明に一生懸命で、その実態と事実を急いで隠そうとしていた。

 また南朝鮮駐屯米軍指令部も28日、烏山米空軍基地の細菌兵器研究所「合同脅威認識研究所」で、事実を認めたうえで、徹底した予防策を立てたから何等の問題もないと他人事のようであった。

 そのうえ、炭疽菌の南朝鮮送付の目的が、北の「炭素疽菌適用」に対処するための「純粋にワクチン開発」であったとの論弁を弄した。

 それでも内外世論の耳目からそらすには不十分と考えた米国は、ケリ一国防長官の口から、北が「膨大な量の炭疽菌を持っている」「ミサイルの弾頭や無人機でそれを、数キロだけでもソウル上空にまけば、数百万人が無防備の状態で命を失うことになる」「それで予防策の一環として研究が行われてきた」など、弁明とは全く違う新たな「北の脅威」説を流布し、北への恐怖心を呷るための画策に躍起となっていた。

 いつもの米国の戦略とはいえ、黒白転倒に大声をあげ、事実を隠し、でたらめを繰り返して、共和国の孤立化を図ろうとする。

 米国こそ、朝鮮半島を人が生きられない死の地、朝鮮人民が苦しむ地、生物・化学兵器の試験場にすることに、何等ためらわない殺人鬼、悪魔であったことを、今回のことだけでもあますことなく証明している。

 その悪魔と同居している朴槿恵政権は、自らの地が細菌戦の惨事が起こるであろう死の地にしている米国に、抗弁もできないでいることに、野党や市民団体が強く批判し抗議している。

 やっと韓国外務省は7月12日、正確な事実関係の確認、再発防止対策のために、駐韓米軍駐屯軍地位協定(SOFA)合同委傘下に両国関係省庁や専門家などによる合同実務団を7月11日に構成したと発表した。

 合同実務団は、現場の駐韓米軍・烏山基地を今月中に訪問し、調査する予定だという。

 7月中(日程も定まらない)に訪問し、調査(検査ではない)をすることになったということの決定そのものも遅い。

 野党や市民団体からは、「遅すぎる」との批判が集中しているのは当然だ。

 しかもその調査も独自ではなく、米国側の調査結果を待つての、米国調査内容を報告するだけだから、主権国家として「恥ずかしい」と、政権批判が高まっているのも、当然といえば当然のことだろう。

 そのような朴槿恵政権に比べ、共和国の国防委員会スポークスマンは6月3日、以下のような声明を出している。

 「わが祖国の半分の土地である南朝鮮は決して、わが民族を抹殺するために危険極まりない核戦争と極悪非道な細菌戦の悪巧みを企て、それを実行しようと米国の殺人鬼が自由にのさぼる舞台ではない」「世界は国際的に厳しく禁止されている細菌戦の準備も辞さない米国の悪巧みを、平和に対する最も悪辣な挑戦、人間殺戮を狙った特大型の犯罪であると断じ、容赦なく懲罰しなければならない」「国際刑事裁判所(ICC)は、犯罪の首謀者である米国の大統領と国防長官、南朝鮮占領米帝侵略軍司令官、それに同調したかいらいの頭目を、人類共同の法廷に引きずり出して公正な審判を下さなければならない」「核で威嚇し、核で自主権を侵害したばかりか、細菌兵器でわが民族を皆殺しにしようと画策している米国の悪行は天罰を免れないだろう」「米国の細菌戦の悪巧みは、われわれ最後の反米対決戦をどう行うべきかを、さらにはっきりと教えている」

 米国の炭疽菌兵器、炭疽菌作戦は、朝鮮だけではなく、人類と平和への裏切りである。


                                                                 2015年7月17日 記

「中国脅威論の安保法制は間違い」

「中国脅威論の安保法制は間違い」

1.
 憲法違反の問題を解明しないまま、安全保障関連法案は、衆院平和安全特別委員会で15日、衆院本会議で16日、いずれも与党単独で強行裁決されてしまった。

 安倍政権はこの安保法案をめぐる議論の前提として、中国の軍事的台頭、北朝鮮の脅威、朝鮮半島の有事とともに、米国の国力後退による日米一体化の必要性を説明していた。

 アジア太平洋地域への回帰政策を掲げる米国の、その力が足りなくなっている部分を、日本など同盟国が補い、中国や朝鮮に対する抑止力を維持していくために、いつでも自衛隊が米軍と一体行動ができる体制を、法的に整備することを安倍政権は追及してきた。その前提としての中国および朝鮮の脅威と、中米、朝米の対立を過度に強調している。

 その間、中米関係の冷静な議論や分析など、国会論戦では一度もなかったのはどうしたことか。

 メディアもまた、米国情報を下敷きとした中国の南シナ海や西太平洋地域への海洋進出を報道していたため、中国危機感を過度に呷る役割を果たしていた。情けない。

 安倍政権と同政権を支える勢力が、日本国内で中国・朝鮮脅威論をつくり上げていた同じ時期、中国と米国の両政府は6月23,24の2日間、ワシントンで開いていた「米中戦略・経済対話」の閣僚級協議を終えている。

 一部の政治問題で対立的な課題を残したものの、経済問題、安全保障、地球温暖化、環境保護、海洋保護、投資や金融、人的交流や野生動物の保護など、幅広い分野の127項目のほか、投資協定交渉の加速化や国際金融システムに関する協力強化でも合意している。閉幕後の記者会見でケリー米国務長官は、米中関係は良い方向に向かっているとの認識で、「いくつかの問題で対立があったのは間違いない」と認めたものの、深刻さはなかったことを語っていた。

 一方、中国側は「(中米の)摩擦が増えているのは、中国の国力が増したことに米国が適応できないからだ」(中国政府系研究者)と分析し、中国側に余裕があることを指摘していた。


2.
 日本は2015年度の防衛白書で、東シナ海、南シナ海を含む西太平洋域への中国の海洋進出を「高圧的な対応を継続している」と、非難報告をしている。

 あえて中国への対決姿勢を強め、安保関連法案成立の後押しに寄与することを狙った報告になっている。

 こうした主張をする根底には、中国の海洋進出を覇権主義的な軍事膨脹政策だとみなして批判する一方で、米国のアジア太平洋地域回帰政策については、肯定的に理解しようとしているためである。

 米国のアジア回帰は、日豪などの同盟国とともに中国沿岸にまで進出していて、中国側からみれば米国の覇権主義的軍事膨脹政策だと映っている。

 米本土から数千マイルも離れた太平洋地域で、米国の優位性・独占性を復活 (第2次世界大戦前の)させることで、経済と軍事上の覇権国としての中国の台頭を阻止することが、米国のアジア回帰政策の本質であった。

 米国の対中国政策に関して、米軍国家戦略研究所(SSI)の報告書(2006年)は、中国との将来形成を「中国を責任ある利害関係者として、現行の国際システムに首尾よく統合することはアジア地域や世界全域の諸国の繁栄と安全保障のために必要だ」としている。

 米国が使用する「国際システム」とは、米金融資本、米政府、英政府、欧州連合(EU)によって作られた「秩序」のことである。つまりウォール街、ワシントン、ロンドン、ブリュッセルの金融資本の安定化のことである。

 中国の巨大な資本を「現行の国際秩序」に統合していくことが、米国の中心的な戦略であり、そうすることによって米国を中心とする自由主義圏資本が安定する。

 しかし予測を超えて、米国の資金力より中国の経済成長力が上回ってくると、米国のこれまでの秩序は、中国のニーズにそぐわなくなってしまった。

 中国の指導者たちが、自分たちの国際システムのルールを作り上げていたからである。

 米中は別個の「国際システム」という対立システムを持ちつつも、その対立点を危機的な状況にまで高めないことでは一致している。

 そのための戦略対話の場を設定し、機能させていたのが6月の「米中戦略・経済対話」であった。

 米国家安全保障会議の元アジア上級部長のジェフリ・ベーダ一氏は論文で、「中国を現在、あるいは将来の敵とみなすような戦略は我々や同盟国の安全保障には役立たない」と断言している。

 米国自身が2010年以降、力不足を認めて、対中国への対立緩和へと動きを進めてきたのだ。

 経済的軍事的に台頭してきた中国と、米国との関係は今後とも複雑で重層的で、部分的な利害や衝突もあり得るだろうが、決定的な衝突・対立は避けていくだろう。

 戦後一貫して太平洋地域での緊張感を高めてきた「犯人」こそ、米国なのだ。その米国の力が弱くなり、日本(安倍政権)が力を貸すことで、逆に日本は安保関連の自立化(軍事強国)を狙っている。

 その安倍プランを実現させるために、米中の対立を過大視し、中国への警戒感を高めることで、安保法制の成立に利用してきた。

 安倍政権は現実の国際政治を直視せず、実態から離れた議論を国会のなかで展開し、法案成立後、国際的孤立を引き寄せてしまった。

3.
 米中両国は、相手を覇権国家だと認識しつつも、対立点を回避するための戦略対話への席は、いつでも用意している。

 その点で、一時的な危機状況が訪れることはあっても、戦争へと直結するようなことはないと思う。

 何らかの形で「対話の席」が用意されている自省の関係が続いていけば、将来的には平和共存体制を構築する方向へと進んでいくかも知れない。

 そうなれば、朝鮮半島の「冷戦体制」も氷解し、朝米平和体制の構築へも進んでいく可能性もあり得る。

 そうした意味から、16日に衆院本会議で採択された安保関連法案(「国際平和支援法案」「平和安全法制整備法案」)の未来は、中国および朝鮮に脅威を与えることになる。

 時代的にも、憲法的にも、国民の意思にも背いて、強行裁決された安保関連法案は、平和への距離を遠ざけるだけである。

                                                                   2015年7月16日 記

「イランと朝鮮の『6者協議』の違い」

「イランと朝鮮の『6者協議』の違い」


1.
 イラン核問題の包括的解決を目指し、ウィーンで交渉を続けてきた国連安保常任理事国(米英仏露中)とドイツの6カ国とイランは14日、合意文書として「包括的共同行動計画」を公表し、最終合意したと発表した。

 計画書の骨子は、

 1.イランはウラン濃縮活動などの核活動を10~15年は抑制し、
 2.イランによる措置の履行を国際原子力機関(IAEA)が厳格な査察を実行し、
 3.欧米は、原油輸出の制限など核関連の経済制裁を解除・凍結し、
 4.国連安全保障理事会決議に基づく弾道ミサイル開発制限は最大8年間を継続する―とした。

 7月中にも国連安保理で、国際社会として行動計画を承認する決議を採択する。

 イラン核協議が最終合意に達するためには、関係各国の忍耐強く長い交渉姿勢が必要であった。(両者の粘り強い交渉と妥協は「外交の勝利」である)

 米国とイランの長い対立と緊張関係は、核兵器の拡散を防ぐ場合でも、世界のエネルギ一政策上でも、その他数多くの分野でも、国際社会の行動を制約してきた。

 近年、不毛とも言える対立に両国とも疲弊しつつあり、イランは経済再建で、米国は過激派組織「イスラム国」対策やイラクその他中東地域での安定対策に、それぞれの協力を得る必要上からの変化をしてきた。

 さらにイランが2年前の大統領選挙(13年6月) で、保守穏健派のロウハニ師を選んだことで、核協議の方向へと動き出し、合意への準備を行ってきた。

 オバマ米大統領とロウハニ師との電話会談(13年9月27日)、6カ国とイランが包括解決に向けた交渉を開始(14年2月28日)、交渉期限の延長(14年7月18日) 、交渉期限の再延長・15年6月末に設定(14年11月28日) 、6カ国とイランが枠組み合意(15年4月2日)、さらに最終合意を巡って6月下旬から18日間連続で交渉、6月末と定めていた期限を3度延長して7月14日に最終合意に達した。

 イランに限定的なウラン濃縮能力を与えつつ、国際機関の厳しい環視下に置く核管理で、核武装化を防ぐとした内容になった。

 イランの核開発疑惑発覚から13年、最後の18日間交渉と、難航のロングラン交渉であった。

 イランも米国も、交渉の決裂は望まず、合意を必要としていた。

 合意後の共同記者会見で、交渉の調整役を果たした欧州連合(EU)のモゲリー外務・安全保障政策上級代表は「歴史的な日だ。平和への共同の関与が実現した」と意義を強調。

 イランのザリフ外相は「新たな章を開く合意だ。イランと主要国の信頼構築を助けるものだ」と、満面の笑みを浮かべていた。

 オバマ米大統領は合意後にワシントンでの演説で、「中東に核兵器が拡散する危険を防ぐことが出来た。イランの核兵器への全ての道は断たれた」と成果を強調。

 イランのロウハニ大統領は国民向けテレビ演説で、「世界の大国がイランにウラン濃縮の権利を認めた。イランが核兵器をつくることは決してない」と、イランの立場を説明していた。

 一方、イスラエルのネタニヤフ首相は14日、「今回の合意は、世界にとって歴史的な過ちだ」と述べ、米国など6カ国がイランに大きな譲歩を許す結果になったと批判した。

 米国とイランとの関係改善や中東情勢の安定化への道程への寄与に、今回の最終合意が最初の一歩になるかも知れないが、中東情勢の対立は根深く、単純ではないことも事実だ。
 
 今後、合意実施の手続きや方法を巡っての対立や意見の違いもあろうが、かつて米国を「大悪魔」と呼んだイランと、イランを「悪の枢軸」と呼んだ米国が、歩み寄ったことは歴史の事実である。

 
2.
 イラン核問題の6カ国協議交渉で、米国側の主導的役割を果たしたシャーマン国務次官は16日、国務省内で記者会見した。

 今回の合意が国際的な制裁を受けながら核兵器開発を進める北朝鮮に与える影響について質問され、シャーマン氏は「イランが約束を果たし制裁が解除されれば、北朝鮮が進めている非常に危険な道について考え直すかもしれない」と述べ、期待を表明した。

 さらにシャーマン氏は「独自の状況や歴史があり、比較にはあまり価値がない」と断りつつ、今回の合意は、北朝鮮に「孤立や制裁から抜け出して世界の一員になることが可能であることを示した」と、イランとの合意履行が進めば、北朝鮮が交渉による核問題の解決に向かうよう影響を与えることに期待感を示した。

 北朝鮮核問題に関する6カ国協議について「今も重要だ」と主張し、イラン核問題で示した多国間外交の機能の意義をも強調した。

 だが、イランの核問題と朝鮮の核問題での6者協議は、似ている点はあるものの基本的には違っている。

 イラン核問題の解決に向けた同国と主要6カ国との最終合意(7月14日)を受け、同じく「6カ国協議」枠で「核問題」の討議を重ねている朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の動向に、米国を始めとする関係国が注目している。

 しかし、イランと朝鮮の核問題協議は基本的には違っている。

 協議の構成国が、イランの場合は国連常任国を中心とする7カ国(イランを含む)であったが、朝鮮の場合は周辺国の6カ国(6者)であった。

 さらに、イランが核開発疑惑での協議であったが、朝鮮の場合は核開発疑惑から現在では核保有国となっている点。朝鮮半島が南北に分断されている現状から、民族統一問題が含まれていた点。朝鮮と米国がまだ「停戦協定」状態の、戦争継続中であった点で、協議ポイントは大きく違っている。

 朝鮮の核が問題となったのは、フランスの商業衛星SPOTが1989年、寧辺(ヨンビョン)の核施設写真を公開したことからである。

 朝鮮は1974年9月に国際原子力機関(IAEA)に、85年12月に核不拡散条約(NPT)に、それぞれ加入していたが、IAEAとの保障措置協定には遅れて92年1月に署名した。

 IAEAは92年5月から93年2月まで計6回の臨時査察を行った。

 しかし朝鮮側が提出していた報告書と、実際の状況に「不一致」(プルトニウム抽出量、抽出時期、未申告施設など)があるとして、IAEA側が追加情報のための特別査察を要求した。

 朝鮮側はこれを拒否(一般軍事施設が含まれているとして)した。

 このことから朝鮮がNPTからの脱退(93年3月)、IAEAからも脱退(94年6月)したため、米国は国連安保理に制裁案を提案した。朝米間は極度の対立と緊張関係に陥ったものの、裏面折衝を重ね、緊張関係を回避するために「朝米枠組み合意」が調印された。(94年10月)

 「枠組み合意」の内容は、朝鮮が核計画を凍結し最終的に解体することで、その代替えとしてのエネルギー補償を米日韓が中心となる朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉2基を建設するとした。

 米国は、KEDOの工期を進めず(94年に金日成主席が逝去し、社会主義圏の崩壊などが重なり、いずれ朝鮮労働党も崩壊すると米国は判断していた)、2006年5月に正式に廃止とした。

 このKEDO問題と絡んで、濃縮ウランによる核開発疑惑が2002年6月に浮上した。米国は、朝鮮の核問題を解決するために、中国を議長国とする6者協議(南北朝鮮、米国、中国、日本、ロシア)が03年8月から開催された。

 米国の提案は、北朝鮮の核廃棄を前提に、これに相応する措置をとることを約束したが、朝鮮は多者間の安全保障は必要なく、最大の脅威である米国との間での「不可侵条約」の締結がまず必要であるとした。

 それは即ち、朝鮮戦争停戦協定の「朝米平和協定」への転換要求でもあった。朝米間はまだ、戦争体制のままであったのだから、核問題の解消は同時的に、戦争の終結、講和条約へと発展していくことの必要性があった点で、イラン核協議とは大きく違っていた。

 ということは、核問題解決の前に、朝米間では戦争終結問題をしっかりと話し合う必要性があったということである。

 もう1点、イラン核問題と違っていることは、朝鮮半島が南北に分断され、民族が分裂していることと、その相手の南朝鮮が米国の核の傘の中にいたことである。

 つまりは、これまでの朝鮮半島の6者協議構成体は、5核保有国対非核の北朝鮮という構図であったということである。

 このため朝鮮は「朝鮮半島」の非核化を主張した。

 南朝鮮には米軍が持ち込んだ各種核兵器が存在し、その核兵器の査察と撤去とを、同時的に実施することを提案していた。

 米国が主張していた「北朝鮮」核計画放棄とは対立し、対立したまま6者協議は休会となってしまった。

 その間、米国は毎年実施する米韓合同軍事演習などで、朝鮮に核の脅しを繰り返してきた。

 朝鮮は米国の核威嚇を跳ね返すために、米国と同様、核抑止戦略を採用し、核保有国となった。6者協議参加国のすべてが、核保有国となり、朝鮮半島の非核化が問題として浮上し、朝鮮側が主張している「朝鮮半島の非核化」問題の協議こそが合理性と認識された。

 米国が主張する「北朝鮮の核政策の放棄」論は、米国の一方的な要求で、不合理で矛盾した関係のものになってしまった。

 
3.
 朝鮮半島の6者協議は現在休会中で、解消したのでも、関係国が放棄したのでもない。

 だが、そこでのテーマは当初に比べて違ってきている。

 米国が考えていたのは核拡散防止、北朝鮮の核政策計画を中止させることで、NPT体制とIAEA体制、国連安保理体制、朝鮮半島の南北分断体制の、それぞれの現状維持というご都合主義そのものであった。

 ところが、6者協議が進行するに従って、米国の思惑は大きく外れ、朝鮮の外交的勝利で、朝鮮半島の非核化、朝米平和協定の締結問題などのテーマが中枢になってしまった。米国が6者協議を忌避している聞に、朝鮮は核保有国となってしまったことも、米国にとっては大きな誤算で、6者協議の風景は一変してしまったのだ。

 以上、朝鮮の6者協議の現況を簡単に整理してみた。

 政権も残り2年を切り、外交分野での大きなレガシー(遺産)を重視しているオバマ米大統領は果たして、朝鮮問題の解決に手を出す勇気を持っているのだろうか。

 朝鮮問題の核、6者協議の進展のすべてで、NPT体制の変化が伴う可能性があるため、集中協議を行っても時間切れとなる可能性がある。

 しかも朝鮮は、イラン核合意で「北朝鮮」の核放棄につなげようとする思惑を持ち始めた連中の「期待」感に、「荒唐無稽」だと一蹴している。

 「全世界の非核化が実現し、核戦争の危険が最終的になくなるまで、核抑止力を強化し続ける」(ウェブサイト)と、朝鮮半島の非核化から、さらに世界の非核化実現を主張している。

 米国が要求している「北朝鮮の核放棄」とは、条件が大きく違ってきている。この朝鮮の主張に対して、最も接近し可能性があるテーマは、朝米両国の首都に連絡事務所を設置する方向での協議であろうと思う。

 朝米両国は連絡事務所を設置し、日常的な交流、協議を重ねていくことで、これまでの政治的不信感を先ずは払拭し、双方の発言内容の信頼度を高めていくシステムづくりから始め、敵国感情を薄めていく必要性があるだろう。

 幸いクリントン政権末期に、朝米はこの問題で確実に接近した経験を持っている。戦後も70年、米国はいたずらに朝米敵対関係の年月を重ねていくことで、自らの帝国主義的悪弊を世界に晒していくことを避けなければならない。

 オバマ氏が個人的にも、自らの名前を歴史的に残して置きたいと考えいるのであれば、朝鮮との歴史的、政治的敵対関係の距離を縮めていく端緒を残しておくことこそが、彼自身の最上のレガシーになるのではないだろうか。

                                                                  2015年7月16日 記

「62年目の『朝鮮停戦協定』」

「62年目の『朝鮮停戦協定』」


 朝鮮戦争の停戦協定から62年目を迎える。

 本来ならば戦闘終結確認後の停戦協定調印、講和条約、平和協定、国交正常化へと進むはずの国際慣行が、朝鮮半島では停戦協定のままで止まっている。

 それ以上に進行していかない最大の理由は、米国のアジア戦略にあった。

 米国のアジア戦略の要に、駐韓米軍が存在しているからである。

 停戦協定では、朝鮮半島から外国軍撤退が規定されていて、中国軍はすでに完全撤退している。朝鮮半島に駐屯している外国軍は、駐韓米軍だけである。

 米国は駐韓米軍の存在理由について、「米韓相互防衛条約」(53年8月)を挙げ、南朝鮮政権からの要請だとうそぶいている。

 だが、米韓相互防衛条約そのものは、朝鮮停戦協定に違反している。

 そのため米国も、朝鮮戦争時に名乗っていた「国連軍司令部」の名称を被せてカモフラージュし、米軍そのものではないと主張をしている。

 このように米国は解放直後の米軍政庁支配以降、南朝鮮で軍事支配を続け、現在に至るまで様々な小細工とプロパガンダ戦術で、朝鮮半島への侵略策動を行ってきた。

 共和国は一貫して、朝鮮半島の平和と安定化のため、米国に米軍撤退と平和協定の締結を要求してきた。

 米国はその共和国の要求にはまともに応えず、逆に、朝鮮脅威論をつくり出しては、共和国との政治的距離を遠ざける謀略行為を行ってきた。

 停戦協定から62年経って、むしろ米帝国主義の本性はひどくなり、対朝鮮敵視政策は狡滑で、なおかつ甚だしくなってきている。

 南朝鮮との「年次合同軍事演習」のレベルはますます高度となり、それを毎年繰り返して、朝鮮半島有事をつくり、緊張の度合いを高めている。

 軍事演習以外にも、共和国を政治的に孤立させ、圧殺するために様々な現象を活用して、共和国への非難の度合いを増大し、国連機関や同盟国政府、各メディアなどを使って、繰り返し反北宣伝(プロパガンダ戦)を行っている。

 最近では、共和国の最高権威(尊厳)をむやみにそしり、傷つけ、誹謗することによって、共和国人民の生のよりどころを破壊し、チュチェ朝鮮の体制を崩壊させようとしている。

 共和国の「首脳部除去」を狙った「米韓連合師団」を編成し、核および細菌戦の準備から中核的な戦略対象物(党中央委員会)のみを攻撃する「サージカル・ストライク」計画まで進めている。

 地政学上、近隣に軍事支援国をもたない共和国は、米軍とその同盟国軍の核攻撃に反撃する唯一の手段として、核戦力で武装(核抑止力)する選択を選んだ。

 米国が核兵器の圧力を続けている状況下で、共和国は核兵器の潜在的能力の向上を絶えず続けざるを得なかったからである。

 共和国は5月8日、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の試射実験に成功したことを発表した。

 これにより共和国は、敵対勢力を任意の水域で攻撃、掃滅できる水準の戦略兵器を持ち、自在に水中作戦を行えるようになった。

 つまり共和国は、宇宙、空中、地上.海上、海中、サイバ一戦、通常戦、核戦争のすべての戦域で準備ができていることを、米国に警告したことになる。

 米国政治は長年、朝鮮半島への理解力を欠いたまま、圧力と対話拒否外交をベースにしてきたが、現在もまだその同じ条件下に立ったままで、何の進歩もない。

 最近になって米国内の一部に、朝鮮の現実を判断できる知性が存在して、その彼らが朝鮮の核保有政策を認め、現実の朝鮮と交渉することを提唱している。

 朝鮮防委員会は「6・25声明」で、世界平和と人類の真性の正義を守るために、世界的な反米対決戦の陣頭に変わりなく立ち、たたかっていくことを表明した。

 米国とは対話でも戦争でも、いずれの立場になっても、しっかりとした準備が整っているとのメッセージを、停戦協定62年を前にして米国に発信したのだ。

 朝米対話とはつまり、現停戦協定を平和協定へと転換し、朝鮮戦争の終結をしっかりと定める内容のことであった。

                                                                   2015年7月14日 記

「日韓の新たな確執」

「日韓の新たな確執」


1.
 「過去」および「歴史」認識の日韓間の対立に関して、ドイツのボンで開かれていた世界遺産委員会の場にまで持ち込まれた「明治日本の産業革命遺産」が、どうにか世界文化遺産登録に決まった。

 登録された「遺産」は、8県にまたがる23資産である。

 うち7資産で、朝鮮半島からの労働者たちが、「強制労働」をさせられていた場所だとして韓国政府が、当初は世界遺産にふさわしくないとして反対していた。

 世界遺産は、国境を越えて伝えていく人類未来の共通遺産で、なかには「負の遺産」も登録されている。

 韓国側が、7資産を負の遺産とし、朝鮮人が強制労働させられていたことを説明する表示板を設置することで、6月末の日韓外相会談で妥協した。

 韓国側は「強制労働」だとの認識であったものの、日本側は会場外で「戦時徴用」だったと主張した。

 日韓双方は、それぞれの国内向けに都合よく解釈して、世界遺産委員会に持ち込んだことになる。

 
2.
 以下は、世界遺産委員会で行った日本政府代表団の声明要旨(注―日韓間の妥協点のみ)である。

 各サイトの歴史全体について理解できることの勧告に対して、「日本は1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいたこと」、また、「第2次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる所存である」と説明した。

 前段の説明を韓国側が受け入れて、「明治日本の産業革命遺産」23資産は、世界文化遺産に登録された。

 日本政府代表団は、戦時中に各資産で働いた朝鮮半島出身者を、英語で、「forced to work」と表現して、単に「働かされた」意味だと訳した。

 登録直後、岸田文雄外相ら日本政府側は、「強制労働があったと認めるものではない」、「戦時徴用工制度下の労働」であるとの説明だったと、後段部分のみを強調する発言を繰り返していた。

 日本政府の対応はおかしい。

 これまでの日韓政府間協議、同外相会議での妥協点さえ踏みにじる行為で、外交上の信義にも欠けるふるまいだ。

 日本政府は、朝鮮半島出身の労働者が存在していたことは認めるものの、それは日本人にも適用した国民徴用令(1944~45年)による戦時徴用だと位置づけている。

 ずっと時代を下げたうえ、「日本人」として法適用した内容のものだと、臆面もなく言っていることに、あきれてしまう。

 その上で、制度上は賃金や労働条件などで、日本人労働者との差はほとんどなく、国際労働機関(ILO)が条約で禁止する「強制労働」ではないとする。

 日本政府が説明する実態は、現実を見ない官僚作文を読み上げているにしか過ぎない。

 現実は、国民徴用令を適用するはるか以前から、朝鮮半島出身労働者たちは、各資産で働かされていた。

 その労働環境も、日本人労働者と差がなかったなどとは言えない過酷な実態が、朝鮮人労働者にはあった。

 日本政府は、歴史事実をふさぎ、自己に都合の良い解釈に立って、内向きに問題を処理しようとしている。

 当然、韓国側は反発し、「外交詐欺だ」と批判をしている。

 朝鮮半島出身の労働者たちは、「自己の意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされていた」ことは歴史的事実で、その歴史を隠蔽することはできない。

 日本の研究者や歴史家も、その事実を証明している。

 外村大・東京大学教授は、「意思に反したことが強制したことである。言葉のごまかしは国際社会では通じない」(7月8日付、朝日新聞社説)と指摘している。

 日本政府は世界遺産委員会で、「犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と、「負の歴史」も踏まえて情報発信することを約束していたのだ。

 その舌の根が渇かない内から、強制労働を否定する日本政府の姿は、言葉の言い替えで、日本国内を含む世界を裏切ったことになる。

 中国の外務省も、華春瑩副報道官は7日の定例会見で、「大きな是非をめぐる問題で最低限の誠意が欠けていることを改めて証明するだけだ」と批判した。

 韓国政府との約束を破り、中国を含む周辺国から批判されてまで、言い替えようとしている「徴用労働」は、日本帝国主義時代の制度で、植民地下の朝鮮人には「強権」であった。

 日本政府の説明は破綻している。

 説明を言い替えてでも、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産に登録する必要があったのだろうか。


                                                                    2015年7月8日 記

「米国家軍事戦略と安保関連法案」

「米国家軍事戦略と安保関連法案」

1.
 米統合参謀本部は7月1日、米軍の運用方針などを定めた「国家軍事戦略」を発表した。2011年以来の改定だという。

 同戦略で、米国の安全保障を脅かす国家として、ロシア、イラン、北朝鮮、中国の順に列記している。

 とくに中国の軍事活動に対して、「アジア太平洋地域で緊張を高めて」おり、南シナ海での岩礁理立てなど「国際的なシーレーンにまたがった軍事力の配置を可能にする」などと、警戒感を高めている。

 今回の報告では、中東での「イスラム国家」(IS)の台頭を強く意識し、国家主体と非国家主体の紛争が混在した「ハイブリッ卜な紛争」に備える必要性を強調。

 こうした事態に対処していくために、訓練や演習を通じて同盟国・友好国の能力を強化していく方針を示した。

 その具体的な対象先として、北大西洋条約機構(NATO)、豪州日本、韓国との連携を挙げている。

 なかでも国際秩序維持のためだとして、アジア太平洋地域に米軍を重点配備し日本を中心に豪州、韓国、フィリピン、タイなどとの関係協力を強化していくとの方針を掲げた。

 同戦略は、米国の厳しい財政事情を背景に、同盟国への依存を強め、一体的運用を重視する姿勢を示すなかで、特に日本との関係強化を強調している。

 安倍政権が最重要法案だと位置付けている安全保障関連法案そのものが、まさに米国家軍事戦略の重要ポイントだとしている内容と一致している。


2.
 安倍首相が4月に、オバマ米大統領に約束した安保関連法案がいま、国会で審議中である。この法案の骨子は自衛隊が米軍とともに、世界のどこでも出動して、戦闘行為が出来るようにすることにある。

 こうした一連のシナリオこそが、米軍のアジア太平洋地域の防衛分担と必要経費の負担を、自衛隊と米軍の一体化作戦で実現させようとしている。

 これは日米の裏取引であったろう。そのことを、「米国家軍事戦略」が表現している。しかし安倍政権は、憲法問題を乗り越えていかねばならない。

 「集団的自衛権」「固有の自衛権」「武力攻撃事態」など、憲法上は「認められていない」、または「限定的に容認されている」との憲法論議が、首相と各野党とで噛み合わず、一般国民にはなおわかりづらい論戦となっている。

 自衛隊はそもそも、米国のアジア戦略上の必要性から発足し、発足当初から憲法第9条との関係性を疑問視されてきた。

 安保関連法案を解説する安倍氏は、自衛隊と米軍との一体化を強調して、これまでの対米従属から、米国との対等な同盟関係になることを説明している。

 しかし安倍氏の目論見は、「米国家軍事戦略」が否定しているのも事実である。

 その矛盾点が、国会での論戦をわかりにくくしている。

                                                                    2015年7月3日 記

「暴言は許せない」

「暴言は許せない」


 国会議員も様々だが自民党に所属する議員には、人間性さえ疑いたくなるような人物がいたりする。

 大西英男衆院議員(東京16区)も、その一人のようだ。

 彼は自民党の若手議員勉強会「文化芸術懇話会」に所属していて、同会が6月25日、作家の百田尚樹氏を講師に招いての勉強会での発言が、一般常識からは大きく外れていたことが問題となっている。

 現在、国会で審議している安全保障法制について「全く事実無根の、戦争に導く、あるいは徴兵制に移行するような報道(をしている)。全く関係ないじゃないか、日本が戦争に巻き込まれないための抑制力を高めようとしているのに。(批判的に)報道している一部マスコミがある。こういうことを懲らしめなければいけないんじゃないか」「日本の国を過つようなマスコミに対して、広告なんかは自粛すべきじゃないかなと個人的には思う」などと発言していた。

 安保関連法制案が戦争抑止力のためだとする考え方は自民党の保守系が引き継いでおり、一部マスコミは偏向しているとの考え方は安倍首相と同じスタンスである。

 安保法制の審議が重要な場面に差し掛かっているときの、報道機関への圧力を求める発言は結局、「言いたい放題を言って歩いたらいいというもんじゃない」(二階俊博自民党総務会長)と叱責され、白民党は彼を厳重注意処分(27日)にした。

 ところが30日、国会内での記者団の質問に、「問題があったとは思わない」「日本の国を過てるような報道に対しては広告を自粛すべきだと個人的には思う」と、自らの発言の正当性を訴え、厳重注意処分に反論していた。

 彼の発言自体が、現自民党中枢部の考え方と同じであったとはいえ、再びのマスコミ(朝、毎、東京、沖縄2紙)圧力発言に、自民党はどうするのか。彼が国会議員だったことに、私たちは恥ずかしさを覚える。

 彼らの勉強会で、「つぶさないといけない」と直接、名指しされた沖縄県の琉球新報と沖縄タイムズ2紙の編集幹部2人が2日、日本記者クラブで会見した。

 彼らは「2紙だけの問題ではなく、全メディア、言論の自由への挑戦」で、「共にあらがっていきたい」と訴えた。

 また、安倍首相が公明党の山口那津男代表に陳謝(l日)したことに対して、「謝罪の時期と場所が間違っている。問題発覚直後に国会や国民の前ですべきだ」(琉球新報の潮平芳和編集局長)と自民党への怒りをあらわにしていた。

 沖縄県議会も2日、「県民を愚弄するもので、断じて許すわけにはいかない」と、抗議の決議を可決した。

 安倍首相は議員の処分について問われ、「党の私的な勉強会で、いろんな自由闊達な議論がある。党としての考えがあるわけで、言論の自由は民主主義の根幹をなすもので我々は尊重している」と、「言論の自由」を強調していた。

 憲法第21条は、国民に「一切の表現の自由」を保障しているが、権力による検閲は禁じている。

 言論の自由は、誰でも何を言っても構わないとか、人の発言を抑制したり、遮ったりする権利までは含まれていないだろう。

 特に権力者や政治家たちにそれを許せば、言論の自由も失われていく社会を招いてしまう。故に、大西英男議員ら自民党若手(安倍首相グルプ)らの発言を、徹底的に糾弾する必要がある。

                                                                   2015年7月2日 記

「拉致問題の政治利用」

「拉致問題の政治利用」


1.
 安倍政権は「安保法制を進めるために拉致問題を政治的に利用したのではないか、との思いが日に日に増している」と語るのは、元拉致被害者家族連絡会副代表の蓮池透氏である。

 蓮池氏は毎日新聞の「安保法制―私はこう考える」欄の紙面(6月30日付け)で、それに続けて安倍政権批判を展開している。

 「安倍政権はすでに、拉致を含む日朝間の諸問題について北朝鮮と交渉を始め、見返りとして独自制裁の一部解除に踏み切った。対話を進める一方で北朝鮮の脅威をあおり、安保法制を推し進めていることは、そもそも矛盾ではないのか」

 蓮池氏が拉致被害者家族会と距離を取るようになったのは、安倍首相の誠意のない美辞麗旬、勇断解決、北朝鮮批判だけの言動に疑問を感じたからであろう。

 安倍首相は、拉致被害者5人の一時帰国約束無視を主導して以来、拉致問題の政治利用を進めている。

 それも、解決する方向に進めるのではなく、関連する情報を一元化し、発信する情報も自らの言語のみとするシステムを作り上げてしまった。

 つまり、安倍晋三個人のもとに情報を集め、情報をコントロールしたうえで、北朝鮮情報の過誤性、北朝鮮の脅威に対応していると発信することで、拉致問題の解決に向かつて進めているとの情報発信をしてきた。

 昨年のストックホルム会談で、北朝鮮から調査報告(6月下旬から7月にかけて)があるとしながら、朝鮮総聯中央会館の競売問題、数年前のマツタケ不正輸入問題での朝鮮総聯議長宅の強制捜査事件など、朝鮮総聯を介在させた対北朝鮮抑圧問題を起こしている。

 どの事件も、拉致問題協議で一つの結論が出される直前のことで、一般には、なぜこの時期にこのような情報事件が起こされたのか不思議に思っていた。

 あまりのことに北朝鮮は、これ以上問題を起こすと「日本人行方不明者の調査が出来なくなる」と、抑制的な警告を発信していた。

 ところが安倍政権にとっては、この抑制が不満であったようである。

 なぜなら、北朝鮮から「調査中止」表明を引き出そうとしていたからである。安倍氏は拉致問題を自分の政権中に解決すると、大見栄を切っている。

 その一方で、これまでの北朝鮮との交渉の中で、自ら広言したシナリオの難しさをも、また一番よく認識しているはずだ。

 今後、安倍氏が拉致問題で進めようとしているのは、北朝鮮側から「調査は行わない」と表明させるための、様々な圧力政策だけになるだろう。


2.
 拉致問題は、日朝間に深く突き刺さったトゲとなっている。

 日朝両政府は、早期に引き抜く努力をしてきたものの、その全容と解決内容とが不明のため、今では政治問題化してしまっている。

 安倍政権になっての政治利用はひどく、それも矛盾した政策を実行し、情報管理を徹底して、国民には自己都合のものだけを流している。

 一年前のストックホルム協議の報告で、「特定失踪者を含む拉致被害者の再調査」をすることで合意したと伝えたのもその一つだ。

 その報告内容に虚偽性はないものの、全くの真実でもなかった。
 
「特定失踪者」の調査がなぜ、含まれたのかを考える必要がある。

 ストックホルムの約束は、拉致被害者の再調査のほか、特定失踪者(約880人)―日本人行方不明者の調査、戦後に北部朝鮮で死亡した方々の調査、日本引き揚げ時に亡くなった人の調査、日本人妻とその子供たち(帰国事業で朝鮮に渡った日本国籍を有する人々)、戦中・戦後朝鮮で亡くなった方の遺骨収集などの調査を、特別調査委員会を設けて、同時的に実施することで合意したのである。

 つまり、戦中・戦後の混乱期に朝鮮北部で死亡した日本人及び行方不明者の調査を行うという、大掛かりな調査事業を実施することになったのである。

 単に拉致被害者や「特定失踪者」(日本人行方不明者)だけの調査ではないのである。なお、「特定失踪者」の調査が今回含まれたのは、日本側が言っている「北朝鮮に拉致された疑い」の「特定失踪者」ではなく、「日本人一般行方不明者」が朝鮮に入国していたかどうかの調査のことである。この点でも、安倍政権側はごまかしている。

 約束どおり、朝鮮側では調査が進行していた。

 安倍政権はストックホルム協議合意直後から、拉致問題の一年内の調査結果の発表とだけ、日本向けに発表していた。

 北朝鮮から日本人遺骨と名簿などの調査が繋ったとの報告を受けても、そのことには応えず、拉致被害者の生存確認調査だけを強調して、日朝合意を無視する態度を貫いて、今日まできている。

 水面下での日朝交渉でも、協議後に日本が勝手に作り出した2点、拉致被害者調査の一年以内の公表、拉致問題先行調査の問題がネックとなって、進展をみていない。

 この拉致問題で日本社会は一気に反北朝鮮、嫌北朝鮮に傾いてしまっている。朝鮮関連情報でも、政府やマスメディア発表であれば信じるが、北朝鮮からの情報は全く信じないという現象が、今の日本社会にはある。

 安倍政権にとっては真に都合のよい社会で、情報操作ができる環境が整っている。
 
                                                                  2015年6月30日 記

「まだ、課題山積の日韓」

「まだ、課題山積の日韓」


 安倍晋三首相と韓国の朴槿恵大統領は22日、東京とソウルで開かれた(各大使館)国交正常化50年の記念行事に、相互出席した。

 2人とも、米国からの強い説得を受けての演出であり、行動であった。

 安倍氏は祝辞で「朴大統領と力を合わせて共に努力していきたい」とする関係改善を呼び掛けたが、この言葉からは、日韓間で問題となっている原因について、相手側に押しつけているような表現となっている。韓国側は不満だろう。

 安倍氏は続けて「日本にとって韓国が、韓国にとって日本が最も重要な隣国だ。両国は信頼し合いながら関係を発展させていかなければならない」と、朴槿恵氏に関係改善へのメッセージを送った。

 「われわれは多くの戦略的利益を共有している。日韓と日米韓の協力はアジア太平洋地域の平和と安定にとって、かけがえのないものだ」として、北朝鮮の核・ミサイル開発に対応することを念頭に、安全保障面での連携強化を訴え、米国の代弁を果たしている。

 一方の朴氏は「最大の壁である歴史問題という重荷を和解と共生の心をもって下ろせるようにしていくことが重要だ。そうしたスタートをすれば、未来を切り開く元年になる」と、安倍氏に対して慰安婦問題と歴史認識問題を解決していくことを、ここでも促している。

 「両国民の信頼と友情を積み重ねることが重要。心のつながりを強くし信義を深くするため共に措置を講じたい」と述べて、「国交正常化50年の今年は、両国が未来に向かつて進んでいくことのできる歴史的な機会」だとしながらも、安倍政権への疑義がまだ解消されてはいないとの態度で、安倍氏の首脳会談への意欲的な言辞とは対称的であった。こうして間接的な「首脳会談」となったものの、両者の思惑はすれ違っている。

 そればかりか、直前まで対立していた幾つかの懸案問題、慰安婦問題、竹島問題などの歴史認識や領土問題は棚上げし、さらに合意したという世界文化遺産問題は、表現や認識の違いなどが残っており、今後にまだ対立する可能性を秘めている。

 これまでの対立的諸懸案の全てが解決した上での、未来志向の「祝辞」合戦ではなく、米国への面子を立てるためであったことの方が第一義的な、米国向けの演技を両氏は演じていたのであろう。

 演技のなかでの舞台セリフ以上に、国交正常化の中核であった「日韓基本条約」そのものが、いつでも政治的歴史的に対立する問題点を孕んでいる。

 そうした点からも日韓間は常に政治的対立を呼び込んでしまう様相をもっている。

 日本政治が植民地時代の歴史問題を清算してこなかったことと、米国の稚拙なアジア政策が招いた結果からくる問題であったことの認識を日本が欠いての言動があった場合、必ず朝鮮との政治対立は起こって来る。

 日韓との再びの政治的対立の構図は、遠い先のことではなく、この8月にもやってくるかも知れない。

 靖国神社に参拝(本人はもちろん、閣僚たちも)したり、発表する「安倍談話」の表現いかんでは、首脳会談を期待するどころか、中国や米国からも批判され、安倍政権自身の存続危機が訪れてくるかも知れない。


                                                                   2015年6月23日 記

「誰のための『日韓基本条約』か」

「誰のための『日韓基本条約』か」

1.
 きょう6月22日、日韓基本条約締結(日韓国交正常化)50周年の節目を迎えた。

 日韓両国は、関係改善が進まず、幾つかの問題がネックとなり、未だに安倍首相と朴大統領との首脳会談が一度も聞かれないほど、政治関係は冷え込んでいる。

 さらに具体的な懸案として、1慰安婦問題、2植民地時代の強制連行・強制労働問題、3世界遺産登録問題、4竹島の傾有権問題―などをめぐっても、両国での主張の隔たりは大きく、政治対立の原因となっている。

 これらの問題を解決に向けて前進させるために、韓国のユン・ビョンセ外相が、急速来日した。

 韓国の外相が来日するのは4年ぶりで、首脳会談が聞かれないことと併せて、近年の日韓間の政治的異常さを物語っている。

 この状況に、アジア・リバランス戦略を進める米国は、苛立ちを隠せず、再三にわたって日韓両国に会談ができる妥協点を促してきた。

 米国からの強い圧力があって、やっと動きだし、国交正常化50周年を迎える前日の21日、東京で外相会談を聞き、双方が懸案としている6項目の問題を話し合ったところまで、やっとこぎつけた。


2.
 外相会談は、

 1 国交正常化50周年となる22日に、韓国政府が東京(韓国大使館)で聞く記念行事に安倍晋三首相が、日本政府がソウル(日本大使館)で聞く行事に朴大統領が、それぞれ出席することで調整。(間接的共同行事)

 2 首脳会談については、「適切な時期に実現すべく共に努力していく」(岸田外相)とし、その伏線として外相の相互訪問、国際会議の場での日韓外相の相互訪問、国際会議での日韓外相会談の定例化で一致した。苦心の末の妥協点をアピールしていた。

 3 日本側が懸案とした「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録問題については、協力していくことで一致した。23資産のうち7資産で、朝鮮半島出身者が「強制労働させられた」とする問題で、日本側が「徴用工」表現をしていることが、今後、問題となる可能性は残っている。

 4 慰安婦問題については、「局長級協議を通じて、引き続き協議を続けていくことで一致した」レベルに終わっている。日本はこの問題で、65年の国交正常化行事に結んだ請求権協定で「解決済み」との立場を崩していない。韓国側は、国交正常化交渉時では話し合われず、それはまだ未解決だとの見解に立っていて、政治的な対立点は相当に深いものがある。

 5 韓国政府による日本の水産物の輸入禁止措置の問題。東京電力福島第1原発事故を受けて、韓国が東北などからの水産物の輸入制限(核の汚染への疑い) をしていることへの、解除を日本が要求した。福島原発事故後、各国の日本産食品の輸入制限は米国をはじめ多くの国が実施したが、中国や韓国などアジア周辺の約40国・地域では、現在も何らかの規制を継続している。日本政府が科学的根拠はない、食品への検査は確実に実施していると言っても、国際社会は日本政府の経済政策優先、原発政策推進路線下での「安全宣言」を信頼していない。そのことを、韓国政府が代弁していたとも言える。
 
 6 竹島(独島)問題。日韓双方とも、固有の領土だと主張していて、最も難しい問題だろう。首脳会談が実現してこなかったのも、慰安婦問題とともにこの竹島問題、領土問題と歴史認識への問題が横たわっていた。領土問題は、国民にナショナリズム意識を岬るだけで、慰安婦問題よりも厄介な事柄となる可能性がある。


 以上、日韓外相会談では、当面する懸案事項では妥協点を探り、従来からのテーマは引き続いての協議方式として、一応は握手をした。

 俄か仕立ての、短時間内での協議としては、それが精一杯の内容だったとはいえ、会議そのものも含めて、米国に向けたパフォーマンス、儀式以上ではなかった。


3.
 日韓基本条約は、14年余の歳月をかけて、1965年6月22日に締結された。

 アジア戦略を重要視する米国が、その要石となる日本と、反共最前線にある韓国との一体化(経済的軍事的)を意図したことから、日韓を結ぶ交渉が始まる。

 締結までに、どうして14年もの時間が必要であったのか。

 その底流にあるのは、日本の朝鮮植民地支配とそれへの歴史認識の欠如が、朝鮮人からの強い抵抗を招いていたからである。

 そのため、時間を掛けた割りには、この条約は欠陥品となっている。欠陥品として、3点だけを指摘する。

 第1は、今でもそうであるが、アジア地域を蔑視している米国は日本や朝鮮についての知識が十分ではなく、単にデスク上での情報資料と自己の戦略上での利点だけを繋ぎ、日韓両国をくっつけようと画策した反共同盟主体だったからである。

 第2は日本がサンフランシスコ講和条約体制を、韓国に一方的に押しつけた点にある。サンフランシスコ体制では日本を早く経済的に復興させて、経済力でアジアにおける米軍基地・米軍への負担を軽減させようと、米国は意図していた。

 そのため、日本の戦争賠償問題は日本の経済発展を第一義とし、その後にむすぶ2国間条約では専ら日本からの経済援助(投資)や役務であることを、米国は各国に約束させた。

 しかし韓国はサンフランシスコ講和条約に調印していないため、サンフランシスコ体制に縛られる事なく、日本との2国間条約を結ぶことが出来る立場にあった。

 その韓国の主体的立場の行使を米国は許さず、日本もまた韓国への経済的支援を中心とする内容で推進していった。

 第3に、南朝鮮単独選挙と朝鮮戦争を挟んで、朝鮮半島は2つの政治体制に分裂していた点、にある。

 これも米国の軍事戦略から出発した謀略だったとはいえ日本が韓国と正常化交渉を進めることは、同時的に朝鮮半島の南北分断を固定化していく戦略を推進することになる。

 以上の3点は日韓基本条約のもつ表層的な問題点である。

 
4.
 日韓基本条約の姿が明らかになっていくにつれて、日韓での市民反対運動は激しくなった。特に韓国では日本が自らの過去を謝罪もせず清算もしないままでの、経済的支援だけの条約では、再び日本からの侵略(経済的に、軍事的に)を招く可能性があるとして、全国民の反対運動となった。

 条約を調印した当時の朴正熙大統領を「第2の李完用」だと糾弾したのもそのためだ。この時の日本からの経済援助で、韓国の70年代は「ハンガンの奇跡」と言われる経済成長を遂げたものの、日本も経済進出の基盤をしっかりと築いたのは確かである。

 同時に問題となっていたのは日本が朝鮮を植民地化した「日韓併合条約」に関して、無効となった時期を明示しないで同条約の無効を確認していた点である。

 また、本条約の管轄権問題を「韓国政府を朝鮮における唯一の合法的政府である」とした点にもある。

 その後の協議で、国連決議第195号を確認するとともに、同決議が韓国政府の施政権を北緯38度以南に限定し、以北に別個の政権の存在を暗示している点にも留意するとの妥協点が成立した。

 さらに在日朝鮮人の法的地位(韓国籍)を決めた点。

 このように日韓基本条約は日韓併合条約時点での解釈をあいまいにし日本の歴史清算を棚上げにしたうえで、朝鮮半島と在日朝鮮人社会に民族分断政策と、反北朝鮮政策を推進していくための基本原則を提供した。

 これを「1965年体制」と呼ぶ。

 65年体制は、米帝国主義体制下で反共冷戦システムに組み込まれて行った。

 その後、日韓両政権は「65年体制」に固執し、経済発展と安保(反北朝鮮)を最優先政策としたため、戦争・植民地支配体制下での各被害者らの被害回復、補償、人権確立問題などは無視をして、専ら経済発展優先を固執してきた。

 民族自主権意識が高まってくる90年代以降、「日帝強制動員被害」などの個人補償問題の側面から、特に韓国民衆から「65年体制」への批判が高まっていった。

 
5.
 今後とも日本政府は「65年体制」に固執して、朝鮮人への個人補償問題は「法的に解決済み」などとの答弁を繰り返すなら、日韓間での政治的対立は再燃し、さらに日朝間での懸案事項問題への解決さえも遅れてしまうだろう。

 問題含みの日韓基本条約は当初から、民族自主権と人権を無視した内容となっていて、朝鮮半島の政治的現象とはマッチしていなかったのだ。

 日韓首脳会談さえ開催できない現実が、すでにして条約の破綻現象が生じていることを証明している。

 日韓国交正常化50周年の記念行事を、何とか取り繕って開催できたものの、果たして、どれほどの日本人と朝鮮人が、それを評価していただろうか。

 平和安定的な朝鮮半島には、日韓基本条約は必要がないのである。

 朝鮮半島の自主的平和統一の前には、その条約はじゃまな存在で、妨害をしている。

 
                                                                  2015年6月22日 記

「特定失踪者」とは

「特定失踪者」とは


 神奈川県警は18日、「北朝鮮による拉致の疑いが排除できない」(特定失踪者の会が認定)とする行方不明者880人のうち、60代の男性一人を国内で発見したと発表した。

 同県警によると、男性は20代だった1980年代に失踪していたが、今月になって発見された。

 本人に事情を聴くなどして、北朝鮮による拉致事件に巻き込まれた可能性はないと判断したとしている。

 それにしても失踪から40年近く経って、偶然的に神奈川県で発見されたことには驚くしかない。

 失踪当初は、家族も行方不明者として警察に届け出、警察もそれなりに捜索はしていたのだろうが、本人の意思による失踪の場合の捜査は難しいだろう。

 さらに失踪者発見を困難にしているもう一つの側面は、民間団体の「特定失踪者の会」が、行方不明者たちの多くを「北朝鮮による拉致の疑いが排除できない」と認定していることにある。

 なぜ「北朝鮮による拉致を排除できない」と認定したのかについては、その基準を不明にしたまま、すでに880余人もの人達を「拉致」されたと認定している点にある。

 行方不明者を探す家族たちは、警察でさえ発見できず、生死さえ不明のままであったところを、「北朝鮮が拉致」した疑いがあると認定されただけで、ひょっとして「北朝鮮で生きているかも知れないとの、はかない望みを与えられたとして同会の運動に連なっている。それが「特定失踪者が増加していく原因でもある。

 警察関係者の方でも、国内での捜索を打ち切る原因となったのであろう。

 「特定失踪者の会」の言説はまた、拉致被害者家族会の活動を支援する応援団ではなく、むしろ反北朝鮮の声のボルテージを上げることを目的としていた。

 安倍政権は表面的には、「拉致被害者家族会」とは密接な関係を演技する一方で、「特定失踪者の会」とは希薄な関係を装い続けている。

 しかし、その裏面では、「特定失踪者の会」側の主張を利用して、反北朝鮮スタンスをとっている。

 つまり、「特定失踪者の会」を反北朝鮮問題の応援団としている安倍政権は、その当初から「拉致」問題を利用して、「北朝鮮脅威論」、「北朝鮮恐怖論」を広め続け、今や米軍との集団的自衛権の行使、安保体制を仕上げようとしている。

 安倍晋三氏にとって、「特定失踪者の会」は必要不可欠の存在となっており、多くの行方不明者家族たちこそ、安倍政治に利用されていることを、もういいかげんに自覚すべきではないだろうか。

 私が以前から主張していたように、「特定失踪者の会」に所属する家族たちは、もう一度警察に、行方不明者として捜索願を出すべきではないだろうか。

                                                                   2015年6月20日 記

「国連常任理事国入りに拘る日本」

「国連常任理事国入りに拘る日本」


 日本は1994年以来、国連安全保障理事会の常任理事国入りへのアプローチを続けている。

 旧連合国との間(48カ国)でサンフランシスコ講和条約(51年9月)を結んだ日本は、形式上の主権国家となった。(サンフランシスコ体制)その5年後の1956年、国際連合(国連)への加盟が認められた。

 そのいずれの場合も、米国指導下によるもので、米国の世界戦略上から、日本をアジアの軍事的経済的な拠点にする意図からであった。

 日本はその米国の要請に忠実に応え、経済的な成長を遂げると、米軍基地の提供だけではなく、米軍関連経費まで負担をするようになった。

 その中に、国連への供出予算の大幅負担問題も含まれていた。国連はその発足当初から米国の影響下にある、といっても過言ではないほど、現在も米国自身が国際力を発揮する際の源泉としている。

 国連予算の負担も、米国が圧倒的ではあったが、その経済力が衰えるに従って、その一部を日本に求めた。

 日本は現在、国連予算の10・83%を負担していて、米国に次いで2番目となっている。

 そのため、この負担金に見合うポジションを国連内で獲得しようと、ずっと日本は動いてきた。常任理事国入りを目指していたのである。

 2005年からはドイツ、ブラジル、インドとの4カ国グループ(G4)を組み、国連総会(193カ国)に安保理拡大議案を提出したが、米中の反対で廃案となっている。

 現在の常任・非常任理事国は15カ国体制で、それを双方で25~26カ国への拡大を目指しているのだ。

 国連改革は国連憲章の改正を伴い、加盟国の3分の2の賛成多数で採択された後、5常任理事国を含む3分の2の国が、常任理事会で批准する必要がある。

 日本は非常任理事国(任期2年)に10回選出(ブラジルとともに最多) されており、安保理での実績を積んできたと強調している。

 今年、日本は中南米諸国会議を開催し、各国首脳たちに経済支援を約束して、G4提案の支持を訴えた。

 現5常任理事国体制が強固であるとはいえ、日本の常任理事国入りは、日本にはまだその資格がないと国際社会が判断しているため果たしていない。

 日本が経済力で訴えても、今日まで実現していない理由は、日本側にある。言わずと知れた過去の戦争責任問題、侵略と植民地支配への歴史的清算を果たしていないからである。

 現在でもまだ、その歴史認識をめぐって中国や韓国と対立していて、未だに首脳会談がもてない日本に、どの国が信頼感を寄せるだろうか。

 しかも自衛隊が米軍とともに、世界のどの地域にも出動することが出来る、安保関連法案を審議している日本の姿に、各国はますます脅威を抱いて見ているだろう。

 過去の戦争についての反省も謝罪も清算も出来ない国、日本に対して誰もが警戒をしている。だから日本は、常任理事国入りの支持票を金(経済的支援)で買収するしかないのだが、民族自主権が確立されている21世紀の現実は、かつてのように金銭や軍事力で各国を動かせるものではない。

 日本はまだ、過去の古い価値観、20世紀前半の秩序観からも脱していないことを証明している。

                                                                   2015年6月18日 記

「『明治産業革命遺産』について」

「『明治産業革命遺産』について」


1.
 安倍晋三政権はいま、「日本の明治産業革命遺産」の世界文化遺産登録をめざして、世界遺産委員会の委員国(委員国は日韓を含めて21カ国で、審議は当事国を除いて20カ国)への説得工作を行っている。

 果たして、「明治産業革命遺産」が世界文化遺産に相応しいのかどうかについてを、誰も議論しないのはどうしてなのか。

 以下、世界遺産とするには危やういことを、2点だけ指摘したい。

 先ずは、明治という「時代」の政治内容の危やうさである。

 幕藩体制を倒した明治維新勢力は、中央集権的国家・近代天皇制国家の形成を目指した。

 1867年の大政奉還・王制復古、68年の戊辰戦争、69年の版籍奉還・藩政改革、71年の廃藩置県などの改革によって、天皇中心の統一国家を形成し、「日本国民」を誕生させた。

 近代天皇制国家は西欧列強に対抗することを目的に、富国強兵をスローガンに掲げ、やつぎ早やに徴兵令、学制、地租改正、殖産興業、文明開化などの諸政策を遂行し、国内体制を固めて行った。

 これらの政策のしわ寄せを受けた民衆たちは、反対運動や一揆で抵抗した。

 また、幕藩体制時代の特権を奪われた士族たちも、主に西日本を中心に反乱を起こした。福岡秋月の乱・山口萩の乱・佐賀の乱(1874年)、熊本神風の乱(1876年10月)、西郷隆盛の西南戦争 (1877年2月)へと至った。

 西南戦争に勝利して国内体制の統一を果たした明治政権は、同時に国境の確定、周辺国への侵攻という、近代帝国主義国家がもつ姿勢を、同時的に表現していく。

 国境に関しては、南端の琉球と北端の北海道を確定させると同時に、隣接する清国とロシアからの「脅威」論を呷り、外敵に対する国民の団結心と愛国心を培う作業を施した。


2.
 琉球は1609年に薩摩藩に征服されて以来、実質的には同藩の支配を受けていたが、一方、中国(明、清)とも長い間冊封関係にあり、中国は琉球に対して宗主権をもつと主張していた。

 明治政権は1872年9月、琉球国を琉球藩とし、琉球の対清関係の廃絶を通告し、完全に日本の版図に組み入れる工作を行った。

 まず琉球がこれに反対し、清国も強く抗議を行った。

 これに対して明治政権は1879年4月、琉球の王国体制を解体(琉球処分)し、沖縄県とした。

 清国の抗議で交渉した結果、宮古・八重山を清国に分島する日本案で妥結したが、批准はしなかった。

 未解決の問題は、日清戦争後の下関条約(1895年4月)によって、琉球の日本帰属問題は確定した。

 北海道に関しては、1869年5月の函館戦争(五稜郭の戦)終了後、開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改称した。(1869年8月)

 北海道開拓は、士族授産の一環としての集団的移住、屯田兵制の施行、零細農漁民の移住など、積極的に植民政策を推進した。

 その過程でアイヌの漁猟、伐木権や土地を奪い、膨大な官有地を編成した。

 開拓使は82年に廃止、従来の直接保護政策を間接保護政策に転換(囚人労働を炭鉱、道路、河川工事に投入) し、北海道旧土人保護法(1899年)を公布施行した。

 アイヌ民族を旧土人と呼び、保護を名目に貧窮と差別を固定化した。

 明治維新以来、アイヌに対して生業剥奪、強制移住、言語と生活風俗の禁圧など、日本人化への同化強制を実施してきたが、明治中期に保護論が高まり、保護法が施行された。

 農業従事者への農地の下付、医療・教育面での扶助を与える、といったものであった。しかし、これらはかえってアイヌ差別と困窮を固定化した。

 日露和親条約(1854年)の時、千島ではエトロフ、ウルップ両島の聞を国境とし、樺太(サハリン)は両国人の雑居地とした。

 その後、樺太は南下してくるロシア人(漁民)との紛争が頻発したが、日本側は財政難などの事情から、政権内では樺太放棄論が主流となった。

 このためロシア側と「樺太・千島交換条約」(1875年5月)を結んだ。

 樺太はロシア側とし、千島列島全島を日本領土とする取決めで、ロシアとの国境線が確定した。

 日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で、樺太の北緯50度以南(南樺太)を、日本領とし、樺太庁(行政官庁)を置いた。

 豊富な木材を利用したパルプ、製紙工業は日本の軍需経済に貢献したが、そこでは多くの朝鮮人労働者たちが劣悪な労働環境と低賃金で苦しみ、死亡している。

 サンフランシスコ講和条約(1951年9月)で、日本は樺太についての一切の権利を放棄するのだが、朝鮮人労働者・家族たちの問題を放棄し、朝鮮人たちを放置してさらにまだ、朝鮮人たちを苦しめた。(サハリン朝鮮人問題)

 日清・日露の両戦争の第一目的は、日本の朝鮮半島権益の独占、植民地支配の確定にあったが、そのことと付随する問題として、日本自身の国境線を朝鮮半島よりさらに後方に下げて確定させることにもあった。

 領土内の安定化と国境線の確定が終われば、さらなる領土拡大、植民地経営への野望が膨らんでいくのが帝国主義国家の常套手段であった。
 
 明治政権の場合、帝国主義国家としては後発組みでかつ列強各国との不平等条約下にもあったから、先行帝国主義国家の動向も十分に注視する必要性があった。

 早急に先発組と肩を並べる意図からも、国内の統一と安定化、周辺国・地域との国境線確定作業、近隣国への軍事行動などの膨脹政策を同時的に実施していった点が、明治日本の帝国主義国家の特徴として指摘することができる。

 
3.
 以上の明治日本の姿を理解したうえで、「明治日本の産業革命遺産」を考えてみよう。安倍政権がユネスコの世界文化遺産への登録申請をしたのは、炭鉱・造船所・製鉄所・教育施設など23資産であった。

 これらの資産は、1850年代(江戸末期)から1910(明治43) 年に、西洋発祥の産業化の伝授が成功した施設として、普遍的価値があるとしている。

 ところが韓国側は23施設のうち7資産で、日本の植民地時代に朝鮮半島出身者計5万7900人が「強制労働をさせられた」場所だとして、世界文化遺産登録には抵抗感があると、反対している。

 日韓両政権担当者は5月22日以降、何度か会合をもち協議を重ねているが、平行線のままである。

 日本側は、資産は1910年までの「明治産業革命遺産」として価値あるものとして認められるもので、第2次世界大戦中の「徴用工」問題とは時期も背景も異なると主張。

 一方の韓国側は、「登録しても当該施設(7資産)を除外するか、強制労働があった事実を明確に付記すること」などの解決案を提案している。

 日本側はそれも拒否している。

 
4.
 ユネスコが登録する世界文化遺産とは、何だろうか。

 人類普遍的な価値ある遺産として、世界が記録し、語り継ぎ、遣し保存すべきものとして登録し、人類共通の文化的財産的価値あるものを選定するとしている。

 そこには負の遺産もあるだろう。

 負の遺産が登録されるには、世界がそこから学び、再び過ちを繰り返さないための、人類共通の記憶として遣すとの、意味合いが込められているのだろう。

 安倍政権は「明治日本の産業革命遺産」について、西洋発祥の産業化の伝授が成功し、日本の近代産業、近代国家発展の原動力になったと、プラスの面だけを強調している。

 しかも「明治日本」にこだわっているのは、安倍晋三首相の強い思い入れがあると伝えられている。

 彼のその強い意向とは、幕末の私塾「松下村塾」を23資産の一つに入れたことでも分かる。

 「松下村塾」は近代産業施設ではなく、それを挿入したことに誰もが違和感を覚えるだろう。

 松下村塾は、出獄した後の吉田松陰が塾を受け継いだ1855年から有名となり、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥次郎らを輩出、長州藩尊攘討幕派の一拠点となった。

 門弟たちの明治維新に与えた力は大きく、明治政権が掲げた絶対天皇制国家建設の原動力となった。

 安倍晋三氏は、吉田松陰と彼が唱えた尊王論と攘夷論、国学などを信奉している。同時に、その門下生で太政官制度廃止後の最初の首相となった伊藤博文についても、尊敬の心をもっている。

 安倍氏も含めて長州出身で、その点でも彼らの思考を尊敬しているのであろう。

 
5.
 尊攘論者たちが作り上げた明治政権の性格は、彼らが思考していた天皇中心と、周辺国への蔑視と侵略的性向が色濃く反映していたのは、当然でもあった。

 明治政権の本質については、1.で展開したように軍国体制、軍産国家であった。つまり、「明治産業革命」の基本的産業は、軍備増産、侵略体制を支えていくものとして、国家からの資金と労力を潤沢に提供されて、発展を遂げていったのである。

 そうした歴史的な事実を隠し、日本の近代産業発展面だけを謡歌するのは、過去の歴史を隠蔽し、都合の良い側面だけを主張する行為と同じである。

 もう1点は、「明治産業革命」と言いながら、なぜ、1910年までとしたのかに疑問がある。

 明治は1912年まである。

 明治天皇が死去するのは1912年7月で、同7月30日に「大正」と改元している。

 「明治」を主張するのであれば1912年が正解であったにも関わらず、なぜ、1910年としたのであろうか。

 1910年は「日韓併合」の年であり、朝鮮の植民地支配を確定した年で、朝鮮人たちにとっては「民族的な恨み」の始まり、反日意識で団結した年である。

 その1910年の時までが「明治産業革命」の礎を築いたとすれば、明治産業が朝鮮植民地化への基礎を築いたことを暗黙の内に認めたことになる。

 朝鮮人にとっては、決して認められるものではないだろう。

 同時に、明治政権の朝鮮侵略、朝鮮植民地支配の事跡を、負の遺産として登録したいのであれば、もっと歴史的にも整理し、南北朝鮮に謝罪をし、きちんとした歴史清算をすべきである。

 そうでないのならば、韓国政権側が提案している7資産を除外するか、負の歴史としての記述説明をすべきであろう。

 
6.
 日本が韓国からの反対にも関わらず、世界文化遺産登録に拘っていることの理由に、現在、国会で審議中の安保関連法制の成立時期とも関係しているからであろう。

 「明治日本の産業革命遺産」は、6月下旬頃から世界遺産委員会で審議される。委員会は諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)の勧告に基づき審議する予定で、日韓両国政権は賛成、反対の政治的運動を行っている。

 7月上旬には、登録または審議延長のいずれかの判断が下されるだろう。

 安倍政権は「登録決定」となることを前提に、「明治産業革命遺産」を安保法制関連法案の国会採択と、安倍的「70年談話」発表内容に利用しようとしている。

 明治産業革命遺産が世界文化遺産に登録されるということは、国連機関、ユネスコ、国際社会が日本の「明治時代」の政策を、ともかくも認めてくれたのだとの、自己満足的な思いを背景として宣伝をし、安保関連も70年談話も通過させようとの、黒い魂胆が隠されている。

                                                           2015年6月16日 記

「先の大戦とは」

「先の大戦とは」


1.
 「先の大戦」を侵略戦争であったことを認めたがらない安倍晋三首相の意識の原点には、祖父・岸信介(元首相) の思考がインプットされているのだとよく言われている。

 岸信介氏は戦前の満州国実業部次長(1936年)、東条内閣の商工相(1941年)、国務相謙軍需省次官などの経歴から、戦争指導者として、連合国軍総司令部(GHQ)からA級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンに収監された。

 巣鴨プリズンには、太平洋戦争開戦時に首相であった東条英機らA級戦犯容疑者25人が入っていた。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、満州事変以来の日本の侵略を追及している。

 48年11月12日に絞首刑7名、終身禁固16名など全員に有罪判決が下った。(被告のうち大川周明は精神病で除外、松岡洋右と永野修身は審理中に死亡)

 終身刑となったはずの岸信介らは、東条らが死刑を執行された翌日、不起訴となって釈放された。

 岸は獄中、「大東亜戦争を侵略戦争というのは、これを歪曲している」「新憲法は占領軍から押しつけられたもので、民族的自信と独立の気概を知り戻すためにも、独自の憲法が必要」 だと、憲法改正論者になっていた。

 首相として再登場して以来の安倍晋三氏の言動からは、かつて岸信介氏が主張していた侵略戦争否定論、改憲論が蘇ったかのようにして、聞こえてきた。

 安倍氏の保守的ナショナリズム観は祖父に感化され、その祖父が歩んできた政治コースと人生観を守りたいとする、家族主義思考が反映されているようである。

 さて、安倍政権の安保法制法案を賛成する側も反対する側も、日本が侵略戦争を行ったかどうかを論じる際に、「先の大戦」を表現している。

 先の大戦とは、いつ頃からで、どの戦争を指しているのであろうかが、分かりにくい。日本の過去の戦争を「侵略戦争」だったと認める場合でも、戦争の起点、その名称、の違いによっては、論点が微妙に違っている。


2.
 日本の主な戦史は、以下のように記録されている。

 台湾出兵(1874年5月)、江華島事件(1875年9月)、日清戦争(1894年7月)、日露戦争(1904年2月)、第1次世界大戦参戦(1914年8月、対独宣戦布告)、山東出兵(1927年5月)、済南事件(1928年5月)、満州事件(1931年9月)、盧溝橋事件・日中戦争(1937年7月)、第2次上海事件・日中全面戦争突入(1937年8月)、ノモンハン事件(1939年5月)、仏印転戦(1940年9月)、太平洋戦争(1941年12月) と、列記している。

 これらは別個の戦記ではなく、日本帝国主義の野望と膨脹政策が戦線を拡大し、新しい相手と戦争が始まったことを意味しているのだ。

 それにしても事変、事件、出兵と表現している戦争が多いことに、改めて気付くことだろう。

 政府関係者や右翼イデオローグたちは、これは宣戦布告をしていないから戦争でも、侵略でもないと都合の良い解釈をしている。

 そうしたトータルな言論からは、日本の戦争は自衛であって、アジア解放という崇高な目的をもっていたのだと、日本の侵略戦争を否定する結論を、今日の安倍晋三氏までの系譜たちが主張してきた。

 宣戦布告をしたのは、第1次世界大戦での対ドイツ、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争での対米英の4回だけで、この点からも、対米英戦争を終結するためにポツダム宣言を受け入れたのだとする、論理も展開している。


3.
 戦前、日本は中国を「支那」と蔑称していた。その結果、日中戦争を「支那事変」と呼称している。

 もっとも、1937年7月7日の盧溝橋事件を、後に「北支事変」と呼ぶことにしていた。(第1次近衛内閣)

 次いで8月13日の上海事件(日中両軍の衝突)から、中国との全面戦争が拡大すると、9月2日には「支那事変」と改称した。

 宣戦布告を行わなかったことを理由に、この戦争を日本は最後まで支那事変と呼んでいた。(戦後、日華事変の呼称を用いる人たちもいた)

 太平洋戦争とは、第2次世界大戦のうち、アジア地域での日本と米英中蘭など連合国との戦争を言っている。

 戦前の日本情報局は、今次の対米英戦は支那事変を含めて、大東亜戦争と呼ぶと発表した。

 つまり、日中戦争以降、敗戦までの戦争を戦前の本側は、大東亜戦争だと規定していたから、そのなかに太平洋戦争も含まれていることになる。

 ところで一般に「先の大戦」と言っているが、戦前の日本が指定した大東亜戦争のことを指しているのであれば、呼称問題がひっかかることになる。

 仮に太平洋戦争のことを言っているのであれば、対米英戦争に限定されてしまい、これにも問題がある。

 極東国際軍事裁判所は、満州事変以降の日本の戦争は連続しており、それは侵略戦争だったとして、その期間の戦争指導者たちを戦争犯罪人として裁いた。


4.
 日本軍は1875年9月、朝鮮の江華島に不法侵入して以来ずっと、侵略した先々の国や地域で、正規軍およびパルチザンたちからの反撃を受けてきた。

 朝鮮人たちの抵抗は、1905年11月の「日韓保護条約」前後、朝鮮王朝軍が解散させられた後も、農民や市民たちが各地で日本軍と戦っている。

 併合後、総督府の厳しい弾圧を避けた民族主義者や社会主義者たちは中国東北地方に結集し、そこから反日、抗日の軍事闘争を展開してきた。

 中国共産党は1935年6月、「8・1宣言」のなかで抗日宣言を行うと同時に、国共合作と中朝連合軍などを結成し、広く人民たちを結集して日本軍と戦った。

 日本軍は1937年以降、中国の奥地深くに誘い込まれて、部隊は疲弊していた。その頃、コミンテルン(国際共産主義組織)は反ファショ人民戦線の結成を呼び掛けて、日本軍などファシズム軍との戦いに、ファシズムに反対するすべての人民との団結を呼び掛け、勝利するまで抵抗し戦うことをアピールした。

 このような世界人民たちの抗日闘争と、反ファシズム統一戦線に結集した各国人民たちの圧力とによって、日本軍は1940年9月、成算なき仏印(インドシナ)にまで戦線を広げる結果となってしまった。

 そこでも当然、反日人民戦線に結集した勢力が、民族自主権への戦いを展開している。朝鮮人および中国人たちと、東南アジア各地の人民たちは、抗日戦線上で結び付き、民族の尊厳と自主権の獲得を目指してたたかい、日本ファシズム軍に勝利した。

 このように1920年代の朝鮮人民たちの抗日闘争が、1940年代の日本侵略と戦う戦争へとつながっていったのである。

 ポツダム宣言には、日本軍国主義を永久に駆逐することと、各国の民族自主権を尊重することで、戦後の新しい時代を建設していくことを要求している。

 ポツダム宣言を受け入れて敗戦を認めた日本は、「あの大戦」を論議する前に、このポツダム宣言の前にいま一度立つべきではないだろうか。


                                                                    2015年6月8日 記

「朝鮮と米国の長い敵対関係史考」

「朝鮮と米国の長い敵対関係史考」

1.はじめに

 朝鮮半島は6・15、6・25、7・27、8・15など、民族統一と民族自主化闘争を記念する貴重な日を迎えていく。

 このように多くの記念日を記録するのは、それが単なるメモリアルとしてではなく、朝鮮人民の各民族自主権闘争を勝利で迎えたとする、もう一つの表現でもあった。

 なかでも民族統一、南北統一関連を記録する記念日が多くあるのは、それが朝鮮人たちにとっての世紀的宿願、民族的願望であったからである。

 そのことは、世界の誰もが認識することで、それに向かっての朝鮮人民たちの願望と闘争を誰も止めることは出来ない。
 
 だが、南北統一事業推進へのメモリアルが増えて行くこと自体は、一面では好ましい事柄とも言えず、それでも米国のアジア太平洋戦略が存在する限り、朝鮮人民の民族自主権闘争が自ずと、そうした記念日を今後とも記録していくであろう。

 朝鮮半島の自主的平和統一を阻んでいる最大の政治勢力が、米国であることに誰も反対をしないだろう。

 米国のアジア政策は、朝鮮人たちを不幸のどん底に突き落としながら、時には日本の政治的野心を活用して、自らの帝国主義的野望を実施し、今もまだ実行している。

 米国は第2次世界大戦後、南朝鮮での軍政、単独選挙の強行、単独政府の樹立(大韓民国)、朝鮮戦争などと、一連の朝鮮半島分断政策の実行を、今日に至る70年間も朝鮮敵視政治を続けている。しかし、それ以前にすでに朝鮮を敵国扱いにする歴史をもっていた。

 有名なシャーマン号事件から数えれば150年余、米国は朝鮮を敵国扱いし、朝鮮は米国と敵対関係を続けてきたという歴史である。

 朝鮮半島と米国とは、150年余も敵対関係の歴史を重ねてきたのは、帝国主義史上においても異例で、全く異常なことである。

 以下、簡単に朝米敵対関係史を紐解き、米国政治の独善性を解剖する。


2.シャーマン号事件

 米国が朝鮮史に足跡を残すのは、シャーマン号が大同江上流まで侵入し、大砲を放って平壌市民たちを脅し、殺裁を繰り返し、貴重な文化財を略奪するという海賊的行為から始まっている。

 シャーマン号の侵入は1866年8月15日頃で、目的を果たした後に引き揚げようとして大潮のため、艦が坐礁して動けなくなった。

 その様子を見ていた平壌守備隊と市民たちは協力して、シャーマン号を火攻めにして轟沈させた。9月2日のことであった。

 朝鮮半島近海に外国船が接近してくるのは、1816年のイギリス艦船が最初である。

 1840年代になると、イギリス、フランス、ロシアなどの艦船が頻繁に侵入し、沿岸の不法測量、通商要求を行うなど朝鮮王朝を圧迫している。(1845年にはアメリカ艦隊も通商を要求している)

 欧州列強がアメリカよりも早く朝鮮半島に到着していた理由は、清国侵略(1840年にはアヘン戦争) への寄り道として、朝鮮近海に姿を現していたからである。

 米国の艦隊は太平洋を西進し、日本 (1853年に浦賀に)、中国へと進路を取っていた分だけ遅れていた。

 当時の米艦船は、捕鯨基地(燃料、水、食料補給)確保として日本、朝鮮を必要としていた。

 日本と日米和親条約(1854年3月)を結んで以降は、日本を基地として朝鮮や中国への侵入、補給が容易となっていた。

 1868年4月にシェナンドア号が侵入し不平等条約を要求し、続いてチャイナー号が徳山郡伽揶洞に侵入し王族の墳墓を盗掘している。

 このように、米国の朝鮮関与は砲艦外交、強盗的行為から始まっていた。


3.日本の場合は

 一方日本は、明治維新を経て1868年1月、近代的天皇制国家の明治政権を樹立した。

 同年12月、新政府成立通告のため、対馬藩の遣使を朝鮮に派遣した。

 当時の朝鮮外交使は、釜山にある倭館止まりであった。

 倭館は、李氏朝鮮政府が日本からの通交使接待のために設けた客館(外交使節の接待と貿易管理の窓口)で、ソウル(京城)と釜山など3カ所に設けていた。

 豊臣秀吉軍の侵攻(第1次1591年9月、第2次1597年)があって日本を警戒し、1609年以降は日本使節の上京を禁じ、釜山倭館だけの窓口とした。

 江戸時代は対馬宗氏が幕府からの朝鮮通交貿易の独占権を得て、日朝双方の使節接待役(窓口)を努めていた。

 朝鮮国王への挨拶文は、儒学的な形式を踏んだ対等関係な表現であった。

 明治政権が最初(1868年12月)に出した書式は、これまでの形式を無視したもので、日本が近代天皇制国家を樹立したことを表明し、以後は近代社会システムでの国家間関係を要求した。

 釜山倭館側は書式が整わない文書の受け取りを拒否した。

 尊王思想で固まっていた明治政権指導者たちは、朝鮮側の態度を不敬だ不埒だと不満を募らせて、1871年頃まで数度、通商条約を要求する使節を出した。

 その都度、朝鮮側が拒否したことに怒った明治政権中枢部たちは、朝鮮を懲らしめる必要があることで意見一致をみていた。

 1871年11月、岩倉具視らが欧米視察旅行(不平等条約解消と近代的二国間条約の締結交渉を求めて)へと出発した。(1873年9月帰国)

 留守政権を預かった西郷隆盛らは、朝鮮への軍事的侵攻の準備を進めていた。

 岩倉らが2年間の欧米視察から帰国した直後の10月閣議で、征韓論争で紛糾し、閣僚(参議)たちは分裂した。

 紛糾点は、征韓の方法とその時期であった。

 決して征韓、非征韓の対立ではなかった。

 彼ら全員は、朝鮮を軽視する国学思考に染まっており、尊王論の観点からの征韓論については一致していた。

 欧米視察組みの岩倉具視、大久保利通、木戸孝弁らは内治先決を主張し、西郷隆盛、板垣退助らの即刻征韓主張は覆され、彼らは下野してしまった。

 欧米視察組は、米国から朝鮮開放のサゼッスチョンを受けていたから、それを実行する国力増強策を優先する主張をしていたのだ。

 米国が日本にアドバイスした征韓論の内容は、清国とロシアの対朝鮮関与の力を殺ぐこと、英米などの列強からの同意を得ておくこと、国力・軍事力(1871年2月で薩摩、長州、土佐3藩から親兵1万を徴収する程度であった)を高めておくこと、朝鮮侵略は軍事力を背景とした砲艦外交(米国が日本に実施した方法)で行うことなどを伝授した。

 米国は、朝鮮半島の入口まで到達しながら、なぜ、日本に朝鮮侵攻へのアドバイスを行ったのであろうか。

 当時の米国は、南北戦争(186165年)と、その後のリンカーン大統領暗殺事件などで、政治的に社会的に混乱が続いており、対日政策や対朝鮮政策などに対して消極的であったことが第1で、その消極的な時期に他の列強が朝鮮開放を強行することを防ぐという意味もあった。
 
 米国のアジア政策で、日本を利用しコントロールするといった事柄は、今日でも続けられている。

 さらに1871年5月、6月、10月、11月と続けた米艦隊での朝鮮不法侵入、通商要求行為が失敗したことなども、日本にその権利を引き渡した理由だったと思われる。


4.江華島条約

 征韓論争後の明治政権は、琉球諸島の船員が殺害されたことを理由として(真の理由は、琉球帰属問題であった)、大久保利通らが台湾出兵計画を進めた。

 西郷従道(西郷隆盛の実弟)を台湾事務都督に任じ出兵させようとしたが、米国からの反対と政府内からも異論が出たことで中止とした。

 しかし西郷従道の強硬意見で1874年5月に出兵、同月22日に台湾に上陸し占領してしまった。

 台湾占領に気を良くした明治政権は翌75年9月、軍艦雲揚号を江華島に侵入させ、不法測量と武力挑発の事件 (江華島事件)を起こした。

 江華島事件は、本来なら日本側が朝鮮に謝罪すべき事柄ではあったが、帝国主義国の入口に立っていた日本は、米国のアドバイス宜しく、軍事力を背景に威嚇して、不平等条約「日朝修好条規」(江華島条約)を1876年2月、強引に結んでしまった。

 内容は、朝鮮を独立国として承認し、清国との宗属関係を否認する。釜山など3港の開港を要求し、日本の一方的な領事裁判権と無関税特権を要求した。

 この条約は、日本が外国との始めての不平等条約を強制し、締結したものであった。日本代理公使の花房義質が1877年10月、ソウルに着任した。

 こうして日本が、朝鮮王朝の堅い門戸をこじあけたのは事実ではあるものの、そこには米国の暗黙の了解と後押しがあったから実現した。

 米国も1882年5月、朝米通商条約を調印し、米公使フートは翌年5月、ソウルに着任している。

 米国が朝鮮と通商条約を結ぶと、イギリス・フランス、イタリア、ロシアなどの欧州列強国が次々と条約を結んでいることで、米国が朝鮮の門戸開放の中心的役割を果たしていたことが分かる。

 さらに米国は、朝鮮王朝と深い関係を持つ清国とロシア両国を、朝鮮から切り離すことを画策し、それを日本に押しつけた。

 結局は、日清・日露戦争として表現されることになる。

 日清戦争(1894年7月)後の「日清講和条約」(下関条約、1895年4月調印)では、清国が朝鮮の独立を承認するという、日本と米国の当初プランが実現した。

 次いで日露戦争(1904年2月)後の「日露講和条約」(ポーツマス条約、1905年9月調印)で、日本の朝鮮権益を認めさせた。

 日露戦争は実際のところ、直接的には朝鮮の権益を巡る日露間の争いではあったものの、その真相は、英、米、仏、露の中国東北地方の権益問題が介在していた。

 ドイツの進出を防ぐための英、仏、露3国協商の強化、英、米、仏の中国進出のための日露関係の安定化が必要であった。狡猾な欧米列強たちは、日本に代役をやらせたのだ。米国は結局、日本に戦争の代役をやらせたことで、日本を朝鮮に張り付け、列強たちの中国植民地化政策に対して門戸開放要求のポジションを握ったことになる。

 さらにロシアの南下政策を食い止める事が出来たという、懸案の現実的な利益を得ていたことになる。

 朝鮮半島への米国の野望は、新興の日本帝国主義を利用し、実現していたことになる。

 そのためには、日本帝国主義の朝鮮植民地化政策と独占化が他の列強から批判され、妨害されないようにしなければならない。

 当時の列強勢力の中心にあった米国と英国とで、日本の朝鮮支配の承認策を進めた。日本は英国と1902年1月、日英同盟で英国の中国、日本の朝鮮・中国における利益擁護の相互援助を約した。

 1905年8月の改定では、日本の朝鮮保護権を確認している。

 米国とは1905年7月、「桂・タフト秘密協約」(桂太郎首相、タフト米陸軍長官)によって、米国のフィリピン統治を、日本の朝鮮への優越的支配を、相互に認め合うこととした。

 さらに、極東の平和維持は日米英3国が協力していくことなどを約束し、日本の韓国併合に至る布石を敷いた。

 世界史からみれば、米国が朝鮮を日本に手渡したことになるだろう。

 その後の日本帝国主義は、予想以上の膨脹政策の果てに太平洋戦争へと突入し消耗して、滅び去ってしまった。


5.朝鮮解放

 米国が再び朝鮮半島に関与するのは、第2次世界戦争終了直前に開催した4回の首脳会談からである。

 カイロ宣言(43年11月、米英中の首脳)、テへラン会談(43年12月、米英ソの首脳)、ヤルタ会談(45年2月、米英ソの首脳)、ポツダム宣言(45年7月、米英中、後にソ連のスターリンも参加)で、それぞれ対日戦および戦後処理問題が討議された。

 日本の領土問題処理方針を協議したカイロ宣言で、朝鮮の独立を決定していた。その後のいずれの会談でも、朝鮮独立は保証され、それは国際公約的な性格を帯びていた。

 戦後、モスクワで開催された米英ソ3国外相会議(45年12月29日)においても、戦前の4回の決議を受けて、朝鮮の独立を保証することを決定した。

 朝鮮人たちもまた自主独立を望み、そうした運動を展開していた。

 呂運亨に代表される左派勢力たちによって組織された「建国準備委員会」は、短期日のうちに全国145支部にまで広がった。

 準備委員会は、再建された朝鮮共産党組織とともに、米軍上陸前に樹立した「朝鮮人民共和国」名で、米軍を迎えようとしていた。(解放軍として)

 一方の右派勢力は、朝鮮独立の正統政府として「大韓民国臨時政府」の存在を、米軍に認知させようと画策していた。

 大韓民国臨時政府は、「3・1独立運動」(1919年3月)のあと、中国・上海に逃れた独立運動家たちによって組織された、一応の「亡命政府」であった。

 李承晩、安昌浩、金奎植、金九らで、彼らは解放までの26年間、激しい内部対立と離合集散、金銭的疑惑などを繰り返すだけで、抗日部隊も組織せず、どこの国からもその存在を承認されないという、実態の分からない組織であった。

 金九が代表を務めていたころに蒋介石の国民党政府とともに重慶に逃れて、テロリズム活動での名が残すぐらいであったとても亡命政府とは言えない。

 45年9月9日に仁川から進駐し南朝鮮を占領した米第24軍団のホッジ中将は11日、「38度線以南の朝鮮領土と朝鮮人に対する統治の全権は、当分のあいだ私の権限下におかれる」と、軍政の実施を布告した。

 同時に建国準備委員会と朝鮮人民共和国を否認、大韓民国臨時政府の存在についても否定した。


6.北緯38度線の存在

 ソ連軍は、テへラン会談やヤルタ会談での米国との密約に従い8月9日未明、ソ満国境を3方面から突破した。

 ソ連軍とともに張鼓峰から侵入を開始した金日成軍の朝鮮抗日パルチザン部隊も、8月12日には羅津、清津、雄基一帯を解放していた。

 ソ連軍は20日には平壌と元山に進駐し、23日には開城に到達していた。

 だが、ソ連軍はそれ以上の南進を止めて、部隊の前進を北緯38度線の手前までとした。

 その直前の米国海外向けラジオ放送は、北緯38度線を境界として、米ソ両軍が朝鮮半島を分割占領する方針を伝えていた。

 米軍は、ずっと関東軍の武力を過大評価していたから、日本本土決戦後も、関東軍・朝鮮軍の抵抗はまだ続くと認識し、日本の完全降伏は早くて46年後半になるだろうと試算していた。

 こうした米政権中枢部の予想よりは早い日本の降伏と、ソ連軍の怒涛のごとき満州戦線突破、朝鮮半島南下の勢いに、トルーマン米政権は慌ててしまった。

 8月13日、トルーマン大統領は「38度線を境として、南は米軍が、北はソ連軍が、日本軍の降伏を受け入れる」との、米合同参謀部議長の草案に同意した。

 直ちに、ソ連政府とイギリス政府、マッカーサ一司令官(一般命令第1号)に伝達した。スターリンは異存のないことを伝えた。

 38度線は、日本の武装解除にあたっての、米ソの担当地域を分担するものとしての一時的な軍事分境線として米国が設定したものである。

 朝鮮半島への米軍到達の遅れ、早期の日本軍敗北など、米国にとって都合の良い現実的な理由は幾つも語られているが、それらは表面的な事実をつなぎ合わせたにしか過ぎない。

 その後の米国の朝鮮半島政策の推移をみれば分かるように、対ソ連を意識した米国のアジア戦略上の利益線が、38度線であったのだ。

 38度線の設定が米国にとって都合良く(ソ連の抵抗もなく)存在していた現実は、日本の側にもあった。

 最終決戦態勢を整えるための大本営命令(5月30日)が、「朝鮮と満州における対米作戦および対ソ作戦準備強化」として、朝鮮半島の作戦分担を38度線で南北に分けるとしたことにもよる。

 北は関東軍指揮下に、南は大本営直轄の第17方面軍に、それぞれ再編成していた。

 日本軍の作戦分担の必要性からの38度線を、米国が朝鮮半島占領の分割線として利用したことになる。


7.信託統治案

 解放後の朝鮮を、米英ソ中(国民党政府)4国による信託統治構想、は、ヤルタ会談でルーズベルト米大統領(第26代、45年4月に死亡)が提案していた。

 期間を50年間ぐらいは必要だとしていたが、期間は短い方がいいというスターリンも、信託統治方式には賛成していた。

 ルーズベルトが考えていた朝鮮半島の信託統治プランは、住民がまだ自治政治を行うに至っていない地域を対象とする、国際連盟の委任統治制度案を受け継いでいる。

 朝鮮に関する情報と知識を十分に持っていなかった米政権は、朝鮮人の独立志向の熱気を無視して、国連統治下の朝鮮信託統治構想を早くから持っていた。

 その期間も長いほうがいいと考えていたようだ。

 しかし南朝鮮左右両派からの反対運動に、米軍政庁の統治はワシントンの方向ばかり向けていた。

 モスクワでの3国外相会議で米国は、信託統治の期間を10年以上、または20年以上を主張した。

 ソ連側が5年以下を主張したことで、米国はソ連案を受入れ、朝鮮半島の信託統治期間が5年と決まった。

 米国はこれを逆手にとって、信託統治案はソ連が提案したもので、米国は反対したとの宣伝戦を行った。

 この決定に右派は非難し、ソ連を攻撃した。左派は賛同し、米国を非難した。米国の思惑通りとなり、朝鮮人同士が信託統治の解釈をめぐって対立し、民族分裂の様相を呈してしまった。

 朝鮮人左右勢力の対立にさらに拍車を掛けたのが、南朝鮮単独政権樹立、単独選挙の問題であった。

 南の李承晩政権は46年6月、米国の意向を受けて「単独政府樹立計画」を発表した。

 米国は47年11月、国連総会に「朝鮮総選挙案」を提案し、「国連朝鮮委員団設置」を強行可決させた。

 この国連朝鮮委員団がソウル入り(48年1月)、一部地域のみを調査した結果に基づき、「南朝鮮での単独選挙実施の決議案」を国連に提出し、強行可決(48年2月)させてしまった。

 こうして米国は周年3月、南朝鮮単独選挙を5月10日に実施する「布告」を発表した。これは、南北朝鮮の分裂を固定化する決定で、布告であった。

 朝鮮人民たちの単独選挙反対闘争は、南朝鮮全土で激しく繰り広げられた。南朝鮮全土のゼネスト(2・7救国闘争)、済州島人民たちのパルチザン闘争(4・3人民闘争)、全土でのゼネスト(5月8日)など、こうした激しい闘争のために、投票当日は米軍や右派青年団勢力が、戦車や装甲車を主要地域に配置し、投票所入り口には銃剣を持った兵士を配置した。戒厳令下での選挙風景と同じであった。

 米帝国主義者の朝鮮半島における犯罪は、朝鮮人の意思に反して民族を分断し、2つの政府を成立させたことである。米国の犯罪は徹底的に糾弾しなければならない。

 8月15日、大韓民国政府成立、9月9目、朝鮮民主主義人民共和国政府成立。


8.朝鮮戦争

 南朝鮮では単独選挙後に、反米反李承晩闘争が各地で激しく繰り広げられた。

 済州島4・3闘争は、南朝鮮政府成立後も続き、島民全体30余万人が闘争に参加し、6万人余が殺戮されるという苛烈と凄惨な状況になった。

 この済州島闘争の鎮圧に向かった麗水、順天、馬山の各部隊は、逆に政府への反乱軍となり(48年10月以降)、パルチザン闘争と合流して戦った。

 49年4月以降は南朝鮮全域がパルチザン闘争を展開する状況になっていた。

 10月にはパルチザン闘争の攻撃回数は1330回、参加人員8万9924人。朝鮮戦争直前の50年4月には交戦回数が2948回、参加人員6万5000人を数えている。

 48年後半から、南朝鮮全域はまるで内戦状態となっており、政治状況も不安定で漂流している有様であった。

 進行するインフレ、反米反李闘争の激化などと追い詰められていた李承晩政権は、国内治安の悪化を理由に、第2回総選挙を11月まで延期する方策をさぐっていたが、アチソン米国務長官の一括で、米国の方針に従わざるを得なくなった。

 南朝鮮の混乱を極度に陥れた李承晩を、政界から追放させることを考えていた米国は、結局はアチソン国務長官の要求表現となった。

 「憲法の定めるところに従って、5月中に第2回総選挙を行わぬときは、援助(軍事的経済的)を中止するかも知れない」(4月7日)と、李承晩を脅した。

 米国の意向で実施した第2回総選挙(50年5月30日実施)の結果は、全210議席中、李承晩派は30余に転落、対米自主路線の中間派が130余議席を獲得した。

 大敗した李承晩は、選挙直後の特別国会を1度だけ招集しただけで、首相を選出できず、国会さえ運営できない政局不在のままで、朝鮮戦争へと突入した。

 歴史的に考えてみると、総選挙を実施すれば李承晩政権が不利になり、政局が不安定になることを理解していた米国は、戦争勃発1カ月前に、強引に総選挙を実施させたのは、戦争へのアリバイづくりを用意したとしか思えない。

 このほかに米国は、幾つかのアリバイを用意している。

 顧問団500余人を残しての米軍撤退完了作業(49年6月)、韓国と台湾を除外したアチソン防衛ラインの発表(50年1月)、「駐韓米軍顧問団設置協定」と同時に「米韓軍事援助相互協定」の調印(50年1月)、同時期に米3軍の首脳が、日本の軍事基地を強化すると発表したことなど。

 現実には、49年後半から38度線一帯での軍事紛争の回数が増えており、50年に入ると南朝鮮軍の越境が多くなり、南北双方とも、38度線を越えての戦闘が激しくなっていた。

 米国はこうした戦争準備を整えたうえで、北からのより積極的な挑発行為を待っていた。米国はただ待っていたのではなく、国連安保理への根回しも準備し、戦況も分からない6月25日(米現地時間)に理事たちを招集し、自らの朝鮮戦争介入決議案を採決させた。

 その理由に、「北朝鮮軍は侵略軍だ」との誌弁を使っている。

 ソ連軍・中国軍が背後にいることをこじつけて、米軍が朝鮮の戦場へと自由に出動できる環境を整えるための、朝鮮人民軍「侵略軍」レッテル貼りであった。

 もっとも、米軍機は戦闘勃発と同時に、福岡・板付、沖縄から飛び立ち、38度線以南を爆撃していたから、早々に朝鮮人民軍を侵略軍としないことには、米軍自身が侵略軍になりかねない状況でもあったから、米国の前のめり発言でもあった。

 この時期、ソ連の台頭、中国の社会主義化、インドシナ共産党の台頭、南朝鮮全域でのパルチザン闘争の激化など、米国のアジア戦略に赤信号が点っていた。

 それを一気にひっくり返す米国にとっての方式が、北の金日成体制を崩壊へと導く戦争、国連を介入させる朝鮮戦争であった。


9.日韓基本条約

 1965年6月22日、日本と韓国との外交関係樹立を定めた日韓基本条約が東京で調印された。

 日韓会談の始まりは、朝鮮戦争さなかの1951年11月20日、米国(GHQ)の斡旋で聞かれた日韓予備会談からである。

 翌52年2月15日から正式会談となった。

 会談の基本テーマは、国交正常化の基本条約、韓国側の対日請求権、李ライン(52年1月に設定した韓国側の領海権)と漁業権問題、在日韓国人の法的地位などであった。李承晩自身に反日意識が強かったことと、日本側代表がしばしば妄言を吐いたことなどによって、李承晩時代の会談は決裂した。

 その後、米国の積極的な後押しがあり、朴正熙軍事政権が池田内閣との間で無償3億ドル、有償2億ドルの経済支援で請求権問題を解決することで合意(62年12月)し、佐藤内閣時に調印、12月に批准した。

 予備会談以来14年、第7次会談に及ぶロングランであったが、締結した内容は、今後の日韓関係、日朝関係、南北朝鮮関係に、大きな問題を刻み込んでしまった。

 つまり、1.北朝鮮の存在と韓国施政権の範囲、2.過去の日韓併合など諸条約の歴史的な問題、などであった。

 本条約の管轄権については、韓国政府を「朝鮮における唯一の合法的政府である」とした国連決議第195号(48年12月12日)を確認し、同決議が韓国政府の施政を北緯38度線以南に限定し、以北には別個の政府の存在を暗示している点に留意するとして、妥協が成立した。

 また日韓併合条約については、無効となった時期を明示せずに、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結された全ての条約及び協定は、もはや無効であることが確認された」との、微妙な表現となっている。

 同時に決められた在日朝鮮人の法的地位問題が、今も、「韓国籍」と「朝鮮籍」の政治的対立を生み、在日朝鮮人社会にもう一つの南北対立の深刻な構図を持ち込んだことは、罪深い問題を孕んでいる。

 日韓基本条約は、日本の過去の歴史清算問題を暖昧にしたままで、韓国への経済的支援を約束している。

 それは、サンフランシスコ講和条約の方式を実行したもので、米国の肩代わりに日本の対韓経済進出をサポートする、米国の構想上の世界であった。

 この条約が日本の再侵略の第一歩になるとして、日韓両国では強い反対運動が展開された。

 米国はそれ以外にも、南北朝鮮の経済的発展上の格差を広げ、南北統一への大きな妨げとなることを意図していた。


10.米韓合同軍事演習

 米帝国主義のもう一つの姿は、軍産複合体である。

 軍部と軍需産業が結合し、米国自身の経済発展の要となっているだけではなく、国際政治を支配し左右するモンスターとなっている。

 アイゼンハワー米大統領がその離任演説で、「アメリカの民主主義は新しい、巨大な、陰険な勢力によって脅威を受けている。それは『軍産複合体』とも称すべき脅威であって、何百万という人間と、何十億ドルという莫大な金を駆使しており、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している」として、はじめて「軍産複合体」の用語を使用し、その悪魔性に言及した。

 今日、その影響力は米連邦政府を越えて、日韓などの軍事同盟国や世界各国に広がり、支配している。

 その属性として、各種兵器の革新的発展、中古兵器の売却と消費などが、宿命づけられている。

 その矛先は常に、米国が安全保障体制の最先端だと位置付けている国々に対して向けられていく。

 朝鮮戦争停戦協定直後の53年8月、米国は韓国との間で「米韓相互防衛条約」を結び、55年8月には「駐韓米軍事援助顧問団」設置条約を調印して、今日に至っている。

 つまり米国は韓国との間で、軍事同盟と軍事顧問団設置の条約を結んで、韓国を自国の軍産複合体体系の下に組み入れて、コントロールしているのだ。

 韓国が米国と軍事同盟を結んでいるのは、米国と共通の仮想敵国があることを前提としている。

 韓国における米軍事顧問団の存在は、単に韓国軍への作戦や戦闘上でのアドバイザーではなく、むしろ米軍の監視役となり、なおかつ米軍の中古兵器を売り付ける武器商人的な役割ももっていた。

 そのため主として、米国が韓国軍に供与した軍事装備、資材、役務などの援助状況の観察のほか、米国兵器を輸入するための工作業務をも受け持ちつつ、韓国軍の中枢部分を握っている。

 米韓合同軍事演習には、武器及び弾薬を消化することも、もう一つの意味があった。

 「国連軍司令部」を57年7月、東京からソウルに移し、韓国軍を独立した軍部隊ではなく、駐韓米軍指揮下の一戦闘部隊とみなし、米韓共通の仮想敵国(朝鮮民主主義人民共和国)に対しての軍事訓練、軍事演習を現在まで続けている。

 米韓合同軍事演習が始まったのは、朴正熙軍事政権が成立した60年代初めである。当初の合同軍事演習の目的には、成立したばかりの軍事政権の動静を監視するという意味もあったが、北朝鮮を敵視し、侵攻を目的とする軍事演習は、朝鮮戦争停戦協定に違反する行為であった。

 米韓合同軍事演習は、62年8月の陸海空合同演習「七大洋作戦」から始まった。

 60年代は、空軍及び海軍別の合同軍事演習を実行すると共に、米偵察機「U-21」「RB-47」などが盛んに北の領空を侵犯していた。

 北からの再侵攻と軍事力情勢などを警戒しての、上空からの偵察が目的であったのだろう。

 70年代に入ると、71年3月に「フリーダムボルト作戦」(米韓合同空輸機動訓練)をしたように、地上部隊の侵攻を目的とした合同軍事演習へと転嫁していく。

 様々な大演習が実施された後の78年3月に、米韓軍10万8000人を動員した軍事演習「チーム・スピリット78」が登場する。

 これは当時、朝鮮戦争以来最大規模の米韓合同軍事演習だと言われた。

 米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」は80年代に入ると、その規模はますます拡大し、参加人員も常に20万人を超え、25万人にまで拡張され、世界最大規模にまでなった。

 演習期間も当初の10日聞から、ついには1カ月以上に及び、核戦争を想定した演習内容を繰り広げるまでになった。

 80年代はまた、大規模合同軍事演習が春秋の2回、毎年、定期的に実施し、その間にも数日規模の軍事演習を行うようになった。

 規模といい、内容といい、頻度といい、軍事演習のレベルをはるかに超えていた。

 90年代、朝米協議の期間内であっても、軍事演習の日程を変更することなく、予定通りに実施するという、狂気を演じていた。

 共和国側が中止または延期を申し入れると、合同軍事演習は「定期的」で「通常的」なものであり、「見学席に招待する」などと、米国は論弁を使った。

 兵器がハイテク化し、電子化し、サイバ一戦が登場してきた近年になると、朝鮮労働党中枢部だけを攻撃する爆撃、スパイ浸透作戦など、大規模軍事演習と連動させながら、常態的で狡滑的な作戦を組み合わせたものとなっており、いつ戦争へと転化するかも知れない危険度を孕んできている。

 米国は自身に不都合が生じるたび、「北朝鮮脅威論」を喧伝して、国際社会をめくらませしているが、「脅威」は米国自身が朝鮮にずっと与え続けてきたもので、その一つが恒常的に展開してきた米韓合同軍事演習である。

 米国は、朝鮮半島の安定と安全も要求しているが、そうであれば、毎年実施している米韓合同軍事演習を直ちに中止すれば、朝鮮半島の安定と安全、平和は保障されるのだ。


11.核危機及び戦争前夜

 米国は朝鮮戦争時も含めると、朝鮮には78回も核攻撃を意図していた。朝鮮以外へも、台湾海峡(55年および58年)、ベトナム戦争時など、主としてアジア地域への核攻撃を何度も実行しようとしてきた。

 米政権中枢部にいる人間たちには、原爆投下直後の広島と長崎の惨状、今もまだその核後遺症によって苦しんでいる人々が多く存在していることを、果たして知性にまで到達して理解していたのかが疑わしい。

 核兵器保有後の米国は、相手国が例え大規模な軍隊と通常戦力を保持していようとも、非核保有国であれば、攻撃することをためらわない実例を見せつけてきた。

 しかしロシアや中国などのように核を保有している対立国には、外交政策によって問題の解決を計ってきた。

 そのような米国の政治姿勢が、ソ連崩壊後のアジア政策上での「脅威」論の的を、中国よりも核を保有していなかった朝鮮へと向けることになった。

 93年及び2003年の朝米危機は、そのことを物語っている。

 93年の朝米核危機は、一枚の米軍事衛星写真情報(寧辺で建設中の黒鉛炉型原子力発電所)から発生した。

 就任したばかりのクリントン米大統領が、前政権が中止するとしていた米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」を、93年1月26日に再開し実施すると発表してから18カ月、または22カ月もの問、朝鮮半島を戦争前夜の危機に陥れた。

 寧辺で進めていた5メガワット級の原子炉と、プルトニウム再処理施設を完成させた朝鮮は、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れた。

 IAEA査察官の不当要求やチーム・スピリット再開に反発した朝鮮は1993年3月、核不拡散条約(NPT)からの脱退を宣言した。

 その直後から朝米聞の対立レベルは最高点に達した。

 クリントン米政権は、在韓米軍人と家族たちを韓国から撤退させ、寧辺の核施設に先制攻撃を加える準備を整えていたからである。

 何時、米攻撃機が飛び立つのかと世界も注視していたが、ジミー・カータ一元大統領が調停役として平壌に飛んだ。

 クリントン政権はカータ一氏の平壌行きをしぶしぶ認めたものの、朝鮮への核施設攻撃への意思は不変であった。

 金日成・カーター会談の成果を電話で受けても、クリントン氏にはまだ朝鮮への不信感が消えていなかった。

 敵国同士の不信感が先行していた両国であったから、その後も朝米交渉は困難を極めた。金日成主席の急逝(94年7月8日)を挟んだ94年10月、朝鮮側のねばり強い交渉の結果、朝米は枠組み合意に調印した。

 枠組み合意の内容は、米国が朝鮮に軽水炉型の2つの発電施設を提供し、朝鮮側は核開発計画を凍結すること。

 原子炉が生産したであろう電力を補填する目的で、米国は朝鮮に重油を供給する。朝米両国は、国交正常化に向けての行動を行うことを約束していた。朝米聞の緊張が再高度に達し、第2次朝鮮戦争前夜状態から脱する事が出来たものの、次の銃声なき戦争の危機はまだ潜んでいた。

 94年の枠組み合意には、朝鮮のミサイル計画は含まれていなかった。

 朝鮮が98年8月に発射したミサイルは、人工衛星「光明星1号」の発射で、軌道に乗せたと朝鮮側が発表した。

 このことでクリントン政権は慌てて、2回目の凍結(ミサイル計画)案を朝鮮側に申し入れる羽目になった。

 結局、クリントン政権が途中から進めていた朝鮮関与政策は、2000年10月にオルプライト米国務長官を平壌に送り込むまで進めたが、ミサイル問題の不信感によって頓挫してしまった。

 次のブッシュ政権は、朝鮮は寧辺の核施設から抽出したプルトニウムを再処理して、少なくとも核弾頭2個分を保有していると疑い、対北朝鮮敵視政策を取り始めた。

 ケリー米国務次官補が2002年10月、平壌を訪れて遠心分離器を使ったウラン濃縮計画を進めている問題を質した。

 朝鮮側は、米国の疑念を肯定する素振りをみせつつ、そのような計画を進める権利を持っていると主張した。

 こうした平壌側の態度に米国は、疑念をますます深め、10年前に約束した枠組み合意の失効を宣言してしまった。

 このようなブッシュ政権の強硬姿勢に、朝鮮側も強硬態度で応じた。

 いかなる朝米交渉も中断し、2003年にかけて再び戦争一歩手前の危機が訪れていた。この頃には、朝鮮は核を保有する決心をしていたと思われる。

 
12.結びにかえて

 米国史の研究者たちの間では、米帝国主義の暴虐的行為、狡滑的な外交政策、二枚舌言語、二重基準などについての具体的な事柄の幾つかは認識しているだろう。

 それは帝国主義特有のものでもあるし、米国政治特有のものが含まれて混在し、米帝国主義の表現ともなっているものである。

 古代の帝国主義国家の力の源泉が軍事力、経済力、領土拡大であったことに比べると、現米帝国主義の帝国主義たる所以は、国際通貨のドル、世界言語化しつつある英語、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に象徴される米国中心の貿易協定などによって、文化や知性、知的財産権までが米国によって支配されるという構図が作り上げられている。

 そのうえ、(米国型)民主主義、自由主義、人権問題などの思考法が、日本を含む多くの国に輸出し、一般化する環境を維持しているから、米国発信情報に疑義を抱く人々までが、米国の世界観を共有している。

 私たちはそのような現実、現代史のなかにいる。

 意識を、朝鮮半島の現代史とそこにいる米国の存在に向けてほしい。米国の朝鮮関与政策は、近代史から始まっていることについては、これまで論じてきた。19世紀、シャーマン号が砲艦外交を展開し、朝鮮の門戸解放に米国が中心的な役割を果たしている。

 20世紀初頭、米国自身の事情から朝鮮を日本に渡し、その日本の背後から利益を吸い取っていた米国。

 その40年後、第2次世界大戦終了後に再び南朝鮮の地に立った米国は、朝鮮を南北に分断する政策を行い、戦争という手段で朝鮮半島に壊滅的な打撃を与えた。

 1990年代以降になっても、少なくとも2回、米国は朝鮮と戦争一歩手前までの危機的状況を作り出した。

 そのような反省もなく、むしろ、それまでの危機的な政策が失敗だったと考えたブッシュ政権以降の米国は、朝鮮に軍事的には封じ込め、経済的には孤立、政治的には体制転換の3パターンを基本戦略として実施してきた。

 現オバマ政権も、そのブッシュ政治を引き継いでいる。

 結局、米国の対朝鮮政治は、強硬政策以外の歴史を持たなかったという、貧しい政治文化しかなかったことになる。

 それはまた米国市民自身が、朝鮮のことを何ひとつ知らないか、間違った知識しか保持していなかったことからきている。

 今も彼らの多くは、(北)朝鮮は頑固にイデオロギーを固守し、攻撃的で常軌を逸しており、独裁政権のもと国際的な孤立状態に置かれ、空威張りしているといった、作り上げられたステレオタイプだけを信じている。

 (北)朝鮮情報のステレオタイプそのものが、米情報機関によって作成されたものであったということには、全く気付いていない。

 事実は、朝鮮は最も長い期間、米国と敵対関係にあり、米国の核戦力の脅威を他のどの国よりも多く受けており、主要国際機関への加盟さえ米国から阻まれ、まだ米国とは国交を結んではいないのである。

 このため(北)朝鮮は、米国のプロパガンダ作戦によって、間違ったイメージを張り付けられ、より多くの貴重な政治的時間を失ってきた。

 米国の政権及び情報機関は、しばしば「北朝鮮脅威」情報を誇張的に流している。兵器開発計画、大陸間弾道ミサイル開発、核開発計画、核兵器保有数、生物化学兵器の備蓄、ウラン濃縮計画などのどれもが、情報ソース不明のままで、周辺国や米外交を左右するメディアに強い影響を与えている。

 「北朝鮮脅威」論こそ、米政権のアジア政策と在韓米軍の存在を正当化するためにこそ必要であって、そのため実態以上の存在として米国は発信し続けている。

 一方で米韓両国は、北との有事を想定した作戦計画を定めており、それが最近、核とミサイルにまで特化していることが明らかとなった。(4月16日)

 ケリー米国務長官は5月18日、「北朝鮮の軍事的緊張が高まっている」として、高々度ミサイル防衛システム(THAAD,サード)の駐韓米軍への配備の必要性に言及した。サードは、中国から米本土を目標に発射される大陸間弾道ミサイル(ICBM)を、3千km以上の距離まで探知・追跡できる最新兵器である。

 米国はすでに、米主導のミサイル体制(MD)を導入した日米韓軍事体制化を構築し、(北)朝鮮を包囲している。そのうえでまだ、「危機」のレベルを上げようとしている。では、朝鮮半島と朝米関係に未来はないのか。

 ただ、そんなことはない。

 現在の6者協議の枠組みで、協議が正常に機能していくなら、朝鮮半島の将来は明るい。

 6者会談の基本テーマが、「北朝鮮の核放棄」(米国の主張)ではなく、「朝鮮半島の非核化」(朝鮮の主張)を協議することになれば、そこから、南北朝鮮の政治的経済的交流、朝鮮と日米との外交的交流が始まっていくからである。

 世界は朝鮮半島の平和と安定を願っている。

 米国の朝鮮半島への誤った政策、朝米対立、朝鮮敵視、米韓合同軍事演習、戦争準備などの季節を、早く終わりにすべきである。

 
                                                                    2015年6月6日 記

(参考)
「アメリカの対北朝鮮・韓国戦略」ジョン・フェッフアー著 明石書店発行
「強盛大国へ向かう朝鮮」名田隆司著 さらむ・さらむ社発行
「朝鮮史年表第2版」高秉雲・鄭晋和 共編 雄山閣発行」

「明治の産業革命遺産(隠してはいけないもの)」

「明治の産業革命遺産(隠してはいけないもの)」


 日本がユネスコに世界文化遺産として申請した「明治日本の産業革命遺産」問題に関して、日韓関で歴史問題認識として対立している。

 韓国側は、日本が登録を求めている遺産のうち、7資産(官営八幡製鉄所、三池炭鉱・三池港、三菱長崎造船所、高島炭坑、端島炭坑)で、日本の植民地時代に朝鮮半島出身者計5万7900人が強制労働させられた場所であり、世界文化遺産の意味はないと主張している。

 一方の日本は、遺産は1850年代(江戸末期)から1910年に、西洋発祥の産業化の伝授が成功したことに普遍的価値があるので申請したとする。

 そのうえで韓国側が主張する第2次世界大戦中の「徴用工」問題とは、時期も背景も異なると反論している。

 日本政府が説明している区切りの1910年とは、日英博覧会があった年だとしている。

 日英の歴史を紐解けば、1902年1月に締結した日英同盟の骨子は、英国の中国における、日本の中国・朝鮮における利益擁護の相互援助を約束した点にある。

 つまりは英国が中国を、日本が朝鮮を植民地化しそこから利益を吸い上げることに、双方は干渉しないとする帝国主義国間の売買契約である。

 1905年8月の改定では、日本の朝鮮保護権が確認された。

 明治日本は、英国との帝国主義的協約によって、朝鮮での権益を進めて1910年の併合条約によって朝鮮を手に入れた。

 朝鮮人にとっては堪え難く、決して忘れる事がない、それが1910年である。

 しかも日本は、朝鮮植民地支配や朝鮮人強制連行・労働などについてはまだ、公的には謝罪もしていなければ、補償もしていない。

 韓国国会は12日、安倍首相が米議会で行った演説を、「侵略の歴史と慰安婦に対する反省がない」として、非難決議を採択した。

 朴槿恵大統領も20日、訪韓したユネスコのボコバ事務局長と会談し、「非人道的な強制労働が行われた歴史を無視したまま、世界遺産に登録することは世界遺産条約の精神から外れ、国家間の不必要な分裂を招く」と、韓国側の意向を伝えた。

 一方で韓国側は、日韓両政府による協議には応じた。

 22日、東京で初の担当者協議をもち、日本側が「韓国併合前で産業化が成功したことを示すもので、異なる時代の出来事だ」と、従来説を繰り返したため、協議は平行線に終わった。今後も協議を続けるという。

 日本が韓国との協議を続けようとしている裏には、正式登録をするかどうかを決める世界遺産委員会の委員国(日韓を含む21カ国)への配慮からで、委員たちに心象を良くしておきたいとのパフォーマンスではないかと疑われている。

 委員国としての日本の任期が今年までで、日本はそのことに焦りも感じているのではないか。

 首相官邸は今月上旬、外務省、内閣府、文部科学省の副大臣、政務官などを、首相特使として全委員国を回り、十分な説明を指示した。

 韓国政府関係者からは、「登録しても当該施設(7資産)を除外するか、強制徴用があった事実を明確に付記するか」として、強制労働という事実を反映する形での世界遺産登録を進めるべきだとの、現実案を伝えている。

 それに対して日本は、強制労働の歴史を明記するなどの案は「民間施設も含まれ、政府として義務づけるのは困難」(政府関係者)だと、余りにも教条主義的な反応しか示していない。

 申請している「明治の産業革命」遺産の一部施設で、朝鮮人労働者たちが強制労働を強いられ、その結果多くが命を落としたことは事実である。

 彼らが強制労働を強いられていた時代以前を登録するというのは、都合よく歴史を消滅させる行為と同じで、それは許せない。

 
                                                                  2015年5月24日 記

「日本の排外思考の根源を考える」

「日本の排外思考の根源を考える」


1.帝国主義政体の安倍政権

 安倍政権は14日夕、戦争中の他国軍を後方支援する新たな恒久法と、集団的自衛権を行使する武力攻撃事態法改正案などの安全保障法制関連11法案を臨時閣議で決定した。

 安倍晋三首相は同日の記者会見の冒頭で、「不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく。そして国民の命と平和な暮らしを守り抜く。この決意のもと、平和安全法制を閣議決定した」と表明した。

 さらに「もはや一国のみでどの国も自国の安全を守ることはできない時代だ」として、米国と一体化する安保体制に理解を求めた。法案は国会審議を経て成立する。

 法案が成立すれば、これまで専守防衛に徹してきた自衛隊が、集団的自衛権の行使へと踏み出す事になる。これまでの自衛隊は、集団的自衛権行使は認めず、海外での武力行使を禁じ、戦場地域には行かないなどの制約が確立していた。

 その制約を取り払うことになる今回の法案は、日本の安全保障政策を大きく転換することになる。

 憲法第9条と日米安保との微妙な整合性の上で成り立っていた「平和と安定」の現体制を、戦後70年にして安倍政権は崩そうとしている。

 それはまた、訪米中の安倍氏の言動(パフォーマンス)そのものに、現政権の性格をよく表現していたと言ってもよい。

 米安保と日米同盟の強化、日米ガイドラインの改定、安保関連法案の早期成立などを米国内で約束したことは、日本国民及び日本の議会政治を軽視、または無視する行為である。そのような彼の姿のなかに、ファシズム志向の影がみてとれる。

 倍政権は議会の形骸化とともに、日米軍事同盟の強化と対米従属化を進め、日米一体化の帝国主義体制を構築しようとしているようだ。

 米一体化体制の先には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への侵略及び軍事的圧力、中国への経済的圧力など、米国のアジア太平洋地域リバランス政策の先導役を果たす役目を担うことになる。

 そのような安倍首相を支えている思考グループ(イデオローグ)に、保守右派勢力がいる。彼らに共通している思考には、国学、儒学、尊王思想、神国思想などを信奉しており、「日本書紀」の世界観を土台としている。天皇絶対制の権威を尊重し、その再来を主張している。

 安倍氏がしばしば国学や吉田松陰、明治維新、神国日本などを懐古的に語るのは、王政復古史観が彼のなかではまだ生きていることを表現していた。

 そのような彼がもっている世界観の本質の深淵を、古代社会にまでウィングを広げて、そこに共通して存在する「排外意識」の、その危険性を考えてみたい。


2.「日本書紀」の排外観

 日本の古代社会は、朝鮮半島及び中国からの渡来者たちによる政治、経済、文化などの多大な貢献によって発展してきた。歴史書や歴史学会では、彼らのことを「帰化人」と呼んでいる。

 この「帰化」という用語は、古代中国王朝の世界観の「中華思想」表現であった。

 自国を中心に、まわりの国々を東夷(日本)、北狄、南蛮、西戎などと軽視し、教え諭し、施す相手とした。そのような彼らが、中国の皇帝の徳をしたってよろこんで帰属してくる場合に、「帰化者」または「帰化人と呼んだ。

 このように「帰化人」観の表現は、支配と非支配による上下関係に基づく、異民族への排外思考による差別用語であった。

 日本の古代社会、渡来者集団の存在が明確に分かるのは、3世紀中ごろ以降であるが、実際にはそのはるか以前から日本列島と朝鮮半島南部には、「海の道」ができていた。

 中央集権国家体制も、律令制度や戸籍制度も存在していなかった時代の渡来者たちを、「帰化人」とは呼べない。

 「帰化」を願い出る体制(国家)も、彼らを受け入れて整備する戸籍制度もなかったのだから、夷狄観が生まれるはずがない。

 日本で一番古いといわれる歴史書の「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)には、渡来集団のことが記載されている。

 古事記には「参渡来」(参い来たる)、「渡来」と表現しており、日本書紀には「帰化人」の用語が使用されている。

 歴史学者の上田正昭氏は、日本書紀には「帰化」が12例、「化帰」(帰化と同じ意味)が1例の計13例の用語があると指摘している。

 その日本書紀には、中国から渡来した人たちには「帰化」用語を用いず、高句麗、新羅、百済、加耶など朝鮮半島からの渡来者のみに「帰化」用語を使用している。

 こうした日本書紀の世界観は、中国を「大唐」と崇める一方、朝鮮半島からの渡来者を「化外」(蕃国)と観る小中華思想、王化思想であって、その夷狄思想が日本書紀をまとめる以前の時代に成立していたと考えられる。

 日本書紀の蕃国観の背景には、その直前に成立していた大宝令(701年)がある。このときの律令制国家の対外意識は、列島を取り巻く周辺を夷狄、蕃園、隣国の三類型として取り組んでいる。

 夷狄とは毛人、隼人、肥人(肥後地域)、阿麻弥(あまみ)、夷民(蝦夷、えみし)など、列島内に住む王化体制に従わない辺境地域の人々である。

 蕃国とは高句麗、百済、新羅、渤海など朝鮮半島諸国とし、隣国を大唐(中国) とした。朝鮮差別は明らかである。

 このような朝鮮蕃国視は、大宝令以前の日本最初の律令であった「近江令」(668年)や「飛鳥淨御原令」(689年) のなかに、その痕跡が存在していた。

 「高麗、百済敗る時の投化、終身課役免す」とある。

 百済の滅亡は663年、高句麗の滅亡は668年、その時期の渡来者には「終身課役」を免ずる措置が規定されていた。(哀れみ的な措置である)

 「投化」は「帰化」と同義語で、王化思想を背景にはしているものの、まだ権力と一体化したものではなかった。

 朝鮮諸国を「蕃国」視する観念の対局には、「日本国」及び「天皇」観成立が必要であった。中央統一政権の確立である。

 天皇の称号が確実に用いられるのは、天智天皇7年(668年)以降で、日本国号と天皇号の双方の使用は、天武朝(672~686年)時代には使用されていたようである。

 当時は朝鮮半島内と壬申の乱(672年)などの激動期であって、古代貴族たちの抱いた危機意識を背景とした、王化思考とその体制づくりが急がれたと思われる。

 つまり日本の古代国家は、天智・天武朝時代の7世紀後半になって、内外の危機意識からの独立思考から確立されたとみることができる。

 当時の中国(唐)、朝鮮半島内の諸国、日本列島内に残る反抗勢力などの関係から、列島を征服した王は自らを「天皇」と名乗り、列島を創始した神の子孫だとして神権政治を実施した。

 その際、中国の中華思想に影響されて、神国日本も小中華思想を採用し、特に朝鮮半島諸国を蕃国視(まだ人間を対象とはしていなかった)することで、自己存在を主張した。

 そのことを「日本書紀」(国記)にしっかりと表現することで、絶対的天皇制国家、朝鮮排外主義国家をスタートさせた。


3.明治維新の排外思想

 下って、明治維新の時代。

 明治維新を推進したエネルギーは、尊王攘夷運動である。

 尊王攘夷論、もともとは尊王論と攘夷論との別個思想で、倒幕運動を推進していく過程で合体した。

 攘夷論は、江戸末期に結んだ諸外国との不平等通商条約に反抗し、外国の撃退を主張する封建的排外思想であった。

 この思考は、儒学に影響された華夷思想(古代の中華思想)から発展したもので、自国と夷狄とを区別した。

 尊王論と結び付いて反幕スローガンとなるなかで、部分的には民族意識も形成されたが、その後の国権論や国家主義論に吸収されて、民主主義や自由主義と結合した近代ナショナリズムには育たなかった。

 尊王論は、天皇尊崇の思想であって、それも古代の天皇権威(天智・天武時代)に基づいた皇室との君臣関係を、最高の表現だとした。

 尊王思考は江戸時代前期、儒学と結び付き、封建的身分制度を保持する強力なイデオロギーとなった。

 江戸中期以降、幕藩体制のほころびとともに、国史や国学(王政復興のイデオロギーとなり、明治以降は神道と結び付いた)など、民族精神の根本を古道や古典のなかで追求した。

 賀茂真淵、本居宣長らの古代復興主張は、神国思想、と朱子学派と結び付けて、神道的色彩の強い国粋化となった。

 江戸末期にはいちだんと天皇の権威を強調し、明治維新の思想的支柱となった。

 従って明治維新の骨格そのものは、王政復興史観を中核とする近代天皇制国家の形成を目指していたことになる。

 そこには、華夷思想から変化した近代的排外思考が内在していた。

 尊王思想を根底として成立した明治政権は、天皇絶対主義的な専制権力を組織化した。

 明治憲法の完成(1889年)によって、絶対主義的天皇制国家はアジア侵略への合法制を手にし、その侵略主義的思想を朝鮮半島へと向けて進めた。

 どの時代も、中央集権的な国家が成立すると、著しい愛国心があらわれてくる。古代統一国家の確立期(天智・天武朝)、明治政権、そして現代(安倍政権)に共通している対外政策は、自らの体制を強化するために「愛国と平和」の衣をまといながら、その根底には「隣国・蕃国」思想が存在していることだ。
 
 古代の王朝時代には朝貢関係での唐(中国)との隣国外交を展開する一方、朝鮮半島諸国を蕃国視した。

 明治政権は不平等条約下の列強大国とは外交関係を展開するが、朝鮮や中国などアジア諸国を蕃国視し軍事侵攻を断行していく。

 現代の安倍政権は、日米安保体制を強化した米国との関係性を密接にするが、朝鮮や中国を脅威国に仕立てて敵視観を呷っている。

 以上、8世紀に成立した「日本書紀」の蕃国観(排外思想)が、現代になってもまだ、日本の外交政策の中核となっていることをみてきた。

 記紀神話のメッセージには排外主義の思考が含まれていて、そのDNAが日本人にインプットされているようだ。


4.排外主義のDNAは流れているのか

 敗戦後、米進駐軍によって絶対主義的天皇制は解体された。

 しかし米国は、日本の支配体制を再編成する過程で、天皇の地位をブルジョア君主制(君主の権限を縮小し、ブルジョアジ支配の道具として活用)一変種のかたちで温存した。天皇は憲法によって国権に関与することが禁止されているにも関わらず、歴代自民党政権は、しばしば天皇一族を積極的に政治利用し、それを拡大してきた。

 戦後日本はなぜか、戦争責任を認め過去の侵略戦争と植民地支配に真撃に正面から向き合ってこなかった。

 だから今もなお周辺諸国から、過去と将来の戦争問題に関しての立ち位置で、常に批判されている最大の理由となっている。

 安全保障関連法案を安倍首相は、「日本の平和と安全」に関する法案、「国際社会の平和と安全」に関する法案だと強調して、「平和と安全」言語を多用している。

 同法案を政府は5月11日、「平和と安全法制」だと呼ぶとした。

 それ以前の参院予算委員会で、社民党の福島瑞穂氏は、「戦争法案」だと命名した。安倍氏は「戦争法案とか無責任なレッテルを貼るのではなく、中身ある議論をしてほしい」と、世論がマイナスのイメージを抱くことに警戒感を示した。

 安倍氏が頻繁に使用する「平和」用語は、自身が持つ排外主義史観への隠れ蓑として多用しているように思える。

 安倍氏が幾ら「平和」用語を多用しようとも、国会に提出された安保関連法案の中身と運用は、かえってアジア地域の安保関連環境を悪化させるのではないかとの危惧感を、国の内外から強く持たれているのは当然だろう。

 日米同盟を強化する今回の法整備の真の狙いは、台頭する中国の軍事力をどのように抑制するか、核・ミサイル脅威の北朝鮮とどのように向き合うのかとの、中国と朝鮮への「脅威」にかこつけている。それはまた米国の考えでもある。

 安倍氏は、抑止力対策の強化によって、日本の「平和と安全」を守るのだと言う。だが、法案成立後の自衛隊は、武器を携えた「普通の軍隊」として、世界各地の戦場地域に出動していく可能性がある。それが安倍氏の言う「積極的平和主義」なのか。

 そうだとすれば、その「平和」観の中核には、軍事行動と排外思考が潜んでいる。安倍氏の「平和」表現を、注意して聞き分けなければならない所以である。

 中国メディアは「戦後70年間封印されてきた自衛隊の海外での軍事行動に道を開いた」と指摘。

 韓国外務省報道官は14日の定例会見で、「朝鮮半島の安全保障及びわが国の国益に影響を与える事項については、われわれの要請、同意がないかぎり容認できない」と強調している。中国及び韓国の危慎は当然だろう。

 隣国を不安に陥れる安倍氏の精神構造には、日本の古代社会に芽生えた「夷狄」思考と史観が張り付いて居るように思えてならない。

                                                                  2015年5月17日 記

「安倍政権に『歴史の偏見なき清算』を要求」

「安倍政権に『歴史の偏見なき清算』を要求」


1.
 米英豪日などの日本及びアジア関連研究者や歴史家ら187人が5日、日本語と英語で「日本の歴史家を支持する声明」を公表した。

 声明は、「日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有すべき関心から発せられたものです」と、その立場を明らかにしたうえで、日本の研究者たちへの応援という体裁をとりながら、日本政府や国民へのメッセージとなっている。

 署名には、ハーバード大のエズラ・ボーゲル名誉教授、マサチューセッツ工科大のジョン・ダワー名誉教授、シカゴ大のノーマ・フィールド名誉教授、ロンドン大のロナルド・ドーア名誉教授、ポートランド州立大日本研究センター所長のケネス・ルオフ教授、コネティカット大のアレクシス・ダデン教授、ハーバード大の入江昭名誉教授ら、親日家として知られる著名な学者たちが名を連ねている。

 声明の最初で、「戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに70年間守られてきた平和を祝うためのものであります」としたうえで、戦後日本が守ってきた「民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と政治的な寛容さ」は、「日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ」て、「全てが世界の祝福に値する」ものだと、いささか過大に賞賛している。

 しかし、これらの成果が「世界から祝福を受ける」うえで、「障害となるものがある」と指摘している。「それは歴史解釈の問題」で、そのなかで最も深刻な問題となっているのが慰安婦問題であるとしている。

 慰安婦問題については、「日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにもゆがめられてきました」と指摘。

 「20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、『慰安婦』制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります」、「最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません」とし、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言」によって明白だとした。

 こうした主張は主に、日本国内で展開している右派論客たちの、(慰安婦への)軍関与の度合い、女性への強制性、正確な数字などに対して異論を唱え、あげくに慰安婦制度はなかったかのような主張を展開していることに対する、警告でもある。

 慰安婦制度や過去のすべての問題への作業は、「民族やジェンダーによる偏見操作や検問、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません」と訴えている。

 特定の用語に焦点をあてたり、狭い法律的議論を重ねたり、限定された資料にこだわったりするような議論展開は、科学的な方法ではなく、歴史的文脈を無視しており、とりわけ慰安婦にされた女性たちや多くの戦争被害者たちが被った残忍な行為から目を背け」る行為であると戒めている。

2.
 声明文はまた、日本政府に対して今年は「言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会」になると喚起している。

 言葉(表現)の問題に対して、安倍首相が4月の米議会演説を、「人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、他国に与えた苦しみを直視する必要性について」を話していたことを賞賛し、そのうえで「その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません」と、(安倍首相に対して)行動への重要性を呼び掛けていた。

 「多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいこと」だとしながらも、「過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国の間の協力関係を養う」ことだと、日本政府の近隣諸国との積極的な関係改善への行動を促している。

 そのうえで声明文は、以下の文章で結んでいる。

 「彼らの世代(若者たち)は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないように運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限りの偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか」

 過去の植民地支配と戦時における侵略の歴史と問題について、早急に「偏見なき清算」をすることを、安倍政権に呼び掛けていたといえよう。

 安倍首相に対しては、この夏に発表する予定の戦後70年談話で、過去の過ちを率直に認める決断の表現をすることを求めている。それが日本自身のためになるからである。

 安倍首相が4月29日に米議会で行った演説の、「他国に与えた苦しみを直視する必要性」の部分を持ち上げて、70年談話でもそうした態度が覆されないための、苦心した暖かなメッセージであったと思う。

 声明文を首相官邸(首相が直接読むよう工夫をして)に送ったのも、「日本は研究の対象であるのみならず、第2の故郷」だとする研究者たちの熱い気持ちを込めた、過去は真っ直ぐに見つめてほしいとの安倍氏へのメッセージであった。


3.
 安倍首相の「戦後70年談話」が、発表前に内外から「注目」されている。決して期待されているからではなく、彼の歴史観を危惧しているためである。これまでの彼の言動には、植民地観、侵略観、戦争史観、慰安婦問題、朝鮮人強制連行と労働問題などで、偏狭的ナショナリズム言語が使用されていたからである。

 彼の言動に対しては、南北朝鮮、中園、台湾はもちろんのこと、アジア諸国や同盟国の米国からも批判され、忠告されてきた。安倍氏ばかりか、保守派の政治家たちの多くが過去、しばしば問題発言を繰り返しているのは、日本自身が過去の問題を清算してこなかったからである。

 問題発言のたびに、表面的な謝罪と反省言語だけを繰り返してきて、いつの間にか、日本は過去を清算したつもりになっている。

 「村山談話」(1995年)、「小泉談話」(2005年)では、「植民地支配」と「侵略」について「痛切におわび」はしている。それは「言葉」だけのことであって、それだけで終わりではないのである。その後の政権がその「言葉」を引き継いで、行動(清算)をしてこなかったがために、日本はいつまで経っても「過去の問題」の清算が出来ずに引きずってきた。

 声明文に署名した米コネティカット大のアレクシス・ダデン教授は、日本政府の真意が理解されるまで「同じ言葉を繰り返すことが重要だ」と言及している。

 つまり「50年談話」と「60年談話」でのキーワードを、70年談話でもそのまま繰り返すことが重要であり、それを実行することがもっと重要だとしているのである。

 安倍氏には、「70年談話を発表する前に先ずは、韓国と中国との首脳会談を実現させ、自らの過去の歴史をしっかりと見つめてもらう必要があるだろう。

 187人の研究者たちの声明は、そのことを優しく訴えているのだと思う。

2015年5月10日 記
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Author:takasi1936
愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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