「訪米中の安倍首相の表現は疑問だ」
「訪米中の安倍首相の表現は疑問だ」
1.
オバマ大統領は、安倍晋三首相を4月26日から国賓待遇で招待した。
そこには、オバマ大統領の思惑と、米政権の計算があった。
黄昏ている帝国の米国、自身の力量と政治的限界を露呈しているオバマ氏にできることの一つは、日本から資金を引き出すことと、米軍に代わって自衛隊をアジア地域防衛の要(対中国、対朝鮮半島)に据えることであった。
つまり、安全保障、経済力、政治的発信力ともに台頭してきた中国と、不安定要素を抱える朝鮮半島情勢に対して、自らの力だけでは対抗できないことを自覚した米国は、日本を活用することにしたのだ。
そのためにオバマ氏が安倍晋三氏に用意したものが、驚くほどの豪華なメニューであった。
1 ケリー米国務長官によるボストンの私邸への招待(26日)、2 ハーバード大学での講演(27日)、3 日米首脳会談(28日午前)、4 米上下両院合同会議での演説(29日午前)、それ以外にも両政府の外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2、27日)を設定した。
それに対して安倍氏は、日米同盟の強化と集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案を今夏までに実現するとの先行約束で、オバマ氏の意図に応えた。
日本国内ではまだ国会討論も、沖縄県民や国民との対話もないままで、安倍氏は「日米ビジョン声明」(首脳会談)、「米議会での演説」、「日米防衛指針の改定」などの中で、日米同盟の一体化の強化論を熱く語った。
新ガイドラインで、自衛隊と米軍との協力を地球規模にまで広げ、平時から有事まで「切れ目のない」共同対応をするとした。
オバマ氏との首脳会談で、日米同盟が世界の平和と繁栄に主導的な役割を果たし、在日米軍基地再編を着実に進める決意を確認し、沖縄の普天間飛行場を辺野古へ移設することが唯一の解決策だとの考えを吐露し、環太平洋連携協定(TPP)を早期妥結へと導いていくことを語った。
米議会演説では、「戦後日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻んだ」「自らの行いがアジア諸国民に苦しみを与えたとの思いは、歴代首相と全く変わるものではない」「アジア大西洋地域の平和と安全のため、米国のリバランス政策を徹頭徹尾支持する」「将来の戦略的拠点の一つに期待されるグアム基地整備事業に28億ドルまでの資金協力を実施することを約束し、安全保障法制の充実に取り組み、日本はこれまで以上に世界の平和と安定のため責任を果たしていく」などと米国との同盟を「希望の同盟」と呼びたいと、米国におもねる言葉が続いていた。
以上の安倍氏の言葉は、オバマ氏にとっては心地よいものとして聞こえていたであろう。
安倍氏は余りにも高価なおみやげを、オバマ氏に持参したものだ。
その安倍氏は自らの言葉で、新たな日米関係への扉を開けるつもりで、米国にアピールしたのであろう。
ガイドライン改定後の共同記者会見で、ケリー国務長官は「今日は日本が単に自らの領土だけでなく、米国や友好国を守る能力を打ち立てたことを示す日だ。歴史的な転換だ」と歓迎し、米国の立場を表現した。
2.
ここで、日米関係の歴史を少し紐解いてみよう。
日米関係は1854年3月、江戸幕府がペリーと結んだ日米和親条約を出発とする。
日米和親条約は、幕府の鎖国政策を破った最初の国際条約で、貿易の自由を認めて本格開国に踏み切った条約である。
貿易の自由とは、決して日米対等や平等を意味するものではなく、関税自主権を否定された不平等条約で、日本にとっては屈辱的な内容であった。
その不平等条項を破棄したのは、1894年11月に調印した日米通商航海条約であったが、関税自主権回復そのものは1911年2月まで待たなければならなかった。
それでも日米間は対等な関係ではなく、米国は対日移民制限(日米紳士協約)を設けて、日本をけん制した。
米国は、日本側の労働者移民政策の実効性についてしばしば不満を表明し、排日移民法を制定した後、日本の中国侵略に抗議して日米紳士協約の破棄を通告、以後、対日経済制裁を強める中で太平洋戦争(1941年12月)へと至った。
以上、1854年からの87年間の日米関係は、決して対等ではなかった。
米国は常に大国的、帝国主義的態度で接し、日本は時には米国に迎合し、時には米政治の先導役となって凌いできた歴史だったとも言える。
日米開戦に至ったのは、中国大陸への帝国主義的権益への対立が裏面にあった。
3.
日本敗戦後の1951年9月、米国主導案によるサンフランシスコ会議が開催され、対日平和条約が調印された。
旧連合国55カ国のうち、日本と48カ国だけが調印(51年9月8日調印、52年4月28日発効)の単独講和であった。
これは、単独不講和を決めた連合国共同宣言(42年1月)に違反しており、共産圏諸国や東南アジア諸国の不参加・反対という、その後の日本の対米従属姿勢を決定づける不幸な出発となった。
しかも、米軍の日本への駐留を認める日米安全保障条約(日米安保)との抱き合わせであったことから、それ以降の日本は米国政治の掌の中でしか、存在も、成長も、発言も認められなかった。幕末時の不平等条約そのままであった。
対日平和条約の内容は、1 日本の個別的・集団的自衛権を承認し、2 朝鮮の独立、3 台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の領土権の放棄(放棄された領土の帰属を規定しなかったため、現在も問題となっている)、4 沖縄、小笠原諸島は米国を施政権者とする信託統治制度下に置く、5 賠償は原則として役務賠償を採用する――とした。
同時に日米安全保障条約(日米安保)も調印した。
日米安保の内容は対日平和条約を根拠とし、1 日本は有効な自衛力をもたないから米軍駐留を認め、2 米国は日本の自衛力漸増を認め、3 米駐留軍は外部からの武力攻撃に対して日本の安全に寄与すること―と規定した。
ところが米国は、バンデンバーグ決議(48年6月、米上院で採択した外交政策)の自助と相互援助の原則を持ち出し、自衛力のない日本とは双務的取り決めは出来ないとして、条約そのものを暫定措置とした。(日本はバンデンバーグ決議の条件を満たしていないとして)
そのため日本は米国に駐留権を与えるが、米駐留軍には日本防衛の義務を負わせないとする片務的形式となってしまった。(日本の自衛力漸増を期待することが明記された)
その後、米側は日本の自衛隊の強化を認め、60年1月の改定条約で相互防衛義務、共同防衛行動を規定した。(60年安保、60年6月23日発効)
60年安保では、1 日米両国は自衛力の維持と発展につとめること、2 日本の施政権下にある領域にある日米いずれから一方に対する武力攻撃に共通で対処すること、3 自由な諸制度の強化、国際経済政策をはじめとする経済面での協力の促進―などを約束した。
また、10年間の最低存続期限を設定したから、70年以降の自動延長を可能にした。
60年安保時の首相であった岸信介(安倍首相の祖父)氏は、米議会で「日米関係の新時代の扉が開かれる」と演説し、60年安保を強固にして恒久的な日米両国間の協力関係の幕開けだと強調した。
孫の安倍晋三氏は今回の米議会で、祖父の57年前の言葉とダブらせながら、日米パートナーシップ変革の歴史的な前進とサインを米国に送った。
いずれも、日本の軍事力増強と対米協力のスタンスを強調している。
4.
今回、安倍首相は訪米みやげとして、ガイドラインの改定を決めた。
ガイドラインは冷戦下の78年、旧ソ連の日本侵攻を想定して策定された。
冷戦後の97年12月には、旧ソ連にかわる敵概念を北朝鮮とし、朝鮮半島有事など周辺事態を想定する内容の改定を行った。
今回、18年ぶりの再改定では、中国の海洋進出や軍拡への対応、北朝鮮の核・ミサイル問題への対応などを意識して、日本側が米国からの要請よりもさらに積極的な内容を提示した。
自衛隊出動の地理的制約を取り払い、米軍への協力範囲と内容を世界中に拡大し、その対象を宇宙やサイバー空間にまで広げた。日米軍事同盟である。
周辺事態という従来の地理的制約を取り払っているため、その時間的制約も平時からと切れ目がなくなっている。
日本、朝鮮半島、台湾海峡を越えて、東シナ海、南シナ海、インド洋、中東へと、地理的な概念はなくなり、グローバルな日米協力を強調している。
具体的な作戦例も、シーレーン機雷掃海、弾道ミサイルの迎撃、艦船防護、強制的な船舶検査などを例示。
米軍との緊密な連携機能の構築、共同計画の策定、情報収集、警戒監視、存立危機事態への協力などと、日本の軍事的役割を積極的に拡大し、いつでも戦争ができる体制を作ろうとしている。
以上の内容が、安倍氏がさかんに主張している「積極的平和主義」の姿なのだろうか。
これまで日米安保もガイドラインも、日本の安保法制も、海外の紛争からは一定の距離を置く「平和主義」であった。
平和概念もまた、安倍氏の積極的平和主義によって、大きく変更を迫られ、「平和」が危機に瀕している。
5.
安倍政権が発足して2年半。
その間、日本の安保政策の見直しが急展開で進められてきた。
安全保障政策の司令塔となる国家安全保障会議(NSC)の創設、国家安全保全保障戦略(NSS)の策定、特定秘密保護法の施行、武器輸出三原則の撤廃、国民マイナンバー制度の導入などのすべてが、対米軍事協力を推進させるために進められてきたとも言える。
これまでもこれからも安倍政権の一連の安保政策の見直し作業は、米国内で定めてきた新ガイドラインの中に集約されているように思える。
このように安保関連法制の重要法案が、国会で審議する前に日米間で合意したことは、どうみても順序が違っている。
法治国家、民主主義国家のシステムを完全に無視をしているのは、安倍氏本人だ。
彼は自らの言動が暴挙だとも考えていないのかもしれないが、彼が抱く思惑の先にあるのは、米国で約束してきた安保関連法案を完成させて、憲法改正(保守派が言う自主憲法のこと)を成立させることにあるだろう。
それは米軍とともに世界のどこへでも自衛隊を派遣して、戦闘行為を常態化し、いつでも戦争が可能な国家のカタチにすることを考えていると言える。
そのような日本国家では、米国との関係の不平等性も解消されない。
日米安保体制が存続する限り、米国との対等な関係性は幻想でしかなく、日本はいつまで経っても米国にとって都合の良いコマの役目しか果たせない。
そのような日本の姿では、朝鮮や中国を含むアジア周辺諸国からは、危険な国だとして敬遠され、日本は孤立していくだけである。
日本が世界から尊敬される国家であるためには、現憲法の第9条を守り、解釈改憲しないことだ。
そのためには、安倍氏が米国で約束してきたもののうち、どれか一つでも撤回させるまで闘うことである。
米軍普天間基地の移設問題、TPP問題、安全保障関連法案の阻止など、安倍政権とのたたかいをまず国会から始めなければならない。
もちろん、その論戦やたたかいを国会や議員たちだけに任せるつもりはない。
安倍政権打倒まで、私たちの平和観の力量も問われている。
2015年5月2日 記
1.
オバマ大統領は、安倍晋三首相を4月26日から国賓待遇で招待した。
そこには、オバマ大統領の思惑と、米政権の計算があった。
黄昏ている帝国の米国、自身の力量と政治的限界を露呈しているオバマ氏にできることの一つは、日本から資金を引き出すことと、米軍に代わって自衛隊をアジア地域防衛の要(対中国、対朝鮮半島)に据えることであった。
つまり、安全保障、経済力、政治的発信力ともに台頭してきた中国と、不安定要素を抱える朝鮮半島情勢に対して、自らの力だけでは対抗できないことを自覚した米国は、日本を活用することにしたのだ。
そのためにオバマ氏が安倍晋三氏に用意したものが、驚くほどの豪華なメニューであった。
1 ケリー米国務長官によるボストンの私邸への招待(26日)、2 ハーバード大学での講演(27日)、3 日米首脳会談(28日午前)、4 米上下両院合同会議での演説(29日午前)、それ以外にも両政府の外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2、27日)を設定した。
それに対して安倍氏は、日米同盟の強化と集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案を今夏までに実現するとの先行約束で、オバマ氏の意図に応えた。
日本国内ではまだ国会討論も、沖縄県民や国民との対話もないままで、安倍氏は「日米ビジョン声明」(首脳会談)、「米議会での演説」、「日米防衛指針の改定」などの中で、日米同盟の一体化の強化論を熱く語った。
新ガイドラインで、自衛隊と米軍との協力を地球規模にまで広げ、平時から有事まで「切れ目のない」共同対応をするとした。
オバマ氏との首脳会談で、日米同盟が世界の平和と繁栄に主導的な役割を果たし、在日米軍基地再編を着実に進める決意を確認し、沖縄の普天間飛行場を辺野古へ移設することが唯一の解決策だとの考えを吐露し、環太平洋連携協定(TPP)を早期妥結へと導いていくことを語った。
米議会演説では、「戦後日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻んだ」「自らの行いがアジア諸国民に苦しみを与えたとの思いは、歴代首相と全く変わるものではない」「アジア大西洋地域の平和と安全のため、米国のリバランス政策を徹頭徹尾支持する」「将来の戦略的拠点の一つに期待されるグアム基地整備事業に28億ドルまでの資金協力を実施することを約束し、安全保障法制の充実に取り組み、日本はこれまで以上に世界の平和と安定のため責任を果たしていく」などと米国との同盟を「希望の同盟」と呼びたいと、米国におもねる言葉が続いていた。
以上の安倍氏の言葉は、オバマ氏にとっては心地よいものとして聞こえていたであろう。
安倍氏は余りにも高価なおみやげを、オバマ氏に持参したものだ。
その安倍氏は自らの言葉で、新たな日米関係への扉を開けるつもりで、米国にアピールしたのであろう。
ガイドライン改定後の共同記者会見で、ケリー国務長官は「今日は日本が単に自らの領土だけでなく、米国や友好国を守る能力を打ち立てたことを示す日だ。歴史的な転換だ」と歓迎し、米国の立場を表現した。
2.
ここで、日米関係の歴史を少し紐解いてみよう。
日米関係は1854年3月、江戸幕府がペリーと結んだ日米和親条約を出発とする。
日米和親条約は、幕府の鎖国政策を破った最初の国際条約で、貿易の自由を認めて本格開国に踏み切った条約である。
貿易の自由とは、決して日米対等や平等を意味するものではなく、関税自主権を否定された不平等条約で、日本にとっては屈辱的な内容であった。
その不平等条項を破棄したのは、1894年11月に調印した日米通商航海条約であったが、関税自主権回復そのものは1911年2月まで待たなければならなかった。
それでも日米間は対等な関係ではなく、米国は対日移民制限(日米紳士協約)を設けて、日本をけん制した。
米国は、日本側の労働者移民政策の実効性についてしばしば不満を表明し、排日移民法を制定した後、日本の中国侵略に抗議して日米紳士協約の破棄を通告、以後、対日経済制裁を強める中で太平洋戦争(1941年12月)へと至った。
以上、1854年からの87年間の日米関係は、決して対等ではなかった。
米国は常に大国的、帝国主義的態度で接し、日本は時には米国に迎合し、時には米政治の先導役となって凌いできた歴史だったとも言える。
日米開戦に至ったのは、中国大陸への帝国主義的権益への対立が裏面にあった。
3.
日本敗戦後の1951年9月、米国主導案によるサンフランシスコ会議が開催され、対日平和条約が調印された。
旧連合国55カ国のうち、日本と48カ国だけが調印(51年9月8日調印、52年4月28日発効)の単独講和であった。
これは、単独不講和を決めた連合国共同宣言(42年1月)に違反しており、共産圏諸国や東南アジア諸国の不参加・反対という、その後の日本の対米従属姿勢を決定づける不幸な出発となった。
しかも、米軍の日本への駐留を認める日米安全保障条約(日米安保)との抱き合わせであったことから、それ以降の日本は米国政治の掌の中でしか、存在も、成長も、発言も認められなかった。幕末時の不平等条約そのままであった。
対日平和条約の内容は、1 日本の個別的・集団的自衛権を承認し、2 朝鮮の独立、3 台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の領土権の放棄(放棄された領土の帰属を規定しなかったため、現在も問題となっている)、4 沖縄、小笠原諸島は米国を施政権者とする信託統治制度下に置く、5 賠償は原則として役務賠償を採用する――とした。
同時に日米安全保障条約(日米安保)も調印した。
日米安保の内容は対日平和条約を根拠とし、1 日本は有効な自衛力をもたないから米軍駐留を認め、2 米国は日本の自衛力漸増を認め、3 米駐留軍は外部からの武力攻撃に対して日本の安全に寄与すること―と規定した。
ところが米国は、バンデンバーグ決議(48年6月、米上院で採択した外交政策)の自助と相互援助の原則を持ち出し、自衛力のない日本とは双務的取り決めは出来ないとして、条約そのものを暫定措置とした。(日本はバンデンバーグ決議の条件を満たしていないとして)
そのため日本は米国に駐留権を与えるが、米駐留軍には日本防衛の義務を負わせないとする片務的形式となってしまった。(日本の自衛力漸増を期待することが明記された)
その後、米側は日本の自衛隊の強化を認め、60年1月の改定条約で相互防衛義務、共同防衛行動を規定した。(60年安保、60年6月23日発効)
60年安保では、1 日米両国は自衛力の維持と発展につとめること、2 日本の施政権下にある領域にある日米いずれから一方に対する武力攻撃に共通で対処すること、3 自由な諸制度の強化、国際経済政策をはじめとする経済面での協力の促進―などを約束した。
また、10年間の最低存続期限を設定したから、70年以降の自動延長を可能にした。
60年安保時の首相であった岸信介(安倍首相の祖父)氏は、米議会で「日米関係の新時代の扉が開かれる」と演説し、60年安保を強固にして恒久的な日米両国間の協力関係の幕開けだと強調した。
孫の安倍晋三氏は今回の米議会で、祖父の57年前の言葉とダブらせながら、日米パートナーシップ変革の歴史的な前進とサインを米国に送った。
いずれも、日本の軍事力増強と対米協力のスタンスを強調している。
4.
今回、安倍首相は訪米みやげとして、ガイドラインの改定を決めた。
ガイドラインは冷戦下の78年、旧ソ連の日本侵攻を想定して策定された。
冷戦後の97年12月には、旧ソ連にかわる敵概念を北朝鮮とし、朝鮮半島有事など周辺事態を想定する内容の改定を行った。
今回、18年ぶりの再改定では、中国の海洋進出や軍拡への対応、北朝鮮の核・ミサイル問題への対応などを意識して、日本側が米国からの要請よりもさらに積極的な内容を提示した。
自衛隊出動の地理的制約を取り払い、米軍への協力範囲と内容を世界中に拡大し、その対象を宇宙やサイバー空間にまで広げた。日米軍事同盟である。
周辺事態という従来の地理的制約を取り払っているため、その時間的制約も平時からと切れ目がなくなっている。
日本、朝鮮半島、台湾海峡を越えて、東シナ海、南シナ海、インド洋、中東へと、地理的な概念はなくなり、グローバルな日米協力を強調している。
具体的な作戦例も、シーレーン機雷掃海、弾道ミサイルの迎撃、艦船防護、強制的な船舶検査などを例示。
米軍との緊密な連携機能の構築、共同計画の策定、情報収集、警戒監視、存立危機事態への協力などと、日本の軍事的役割を積極的に拡大し、いつでも戦争ができる体制を作ろうとしている。
以上の内容が、安倍氏がさかんに主張している「積極的平和主義」の姿なのだろうか。
これまで日米安保もガイドラインも、日本の安保法制も、海外の紛争からは一定の距離を置く「平和主義」であった。
平和概念もまた、安倍氏の積極的平和主義によって、大きく変更を迫られ、「平和」が危機に瀕している。
5.
安倍政権が発足して2年半。
その間、日本の安保政策の見直しが急展開で進められてきた。
安全保障政策の司令塔となる国家安全保障会議(NSC)の創設、国家安全保全保障戦略(NSS)の策定、特定秘密保護法の施行、武器輸出三原則の撤廃、国民マイナンバー制度の導入などのすべてが、対米軍事協力を推進させるために進められてきたとも言える。
これまでもこれからも安倍政権の一連の安保政策の見直し作業は、米国内で定めてきた新ガイドラインの中に集約されているように思える。
このように安保関連法制の重要法案が、国会で審議する前に日米間で合意したことは、どうみても順序が違っている。
法治国家、民主主義国家のシステムを完全に無視をしているのは、安倍氏本人だ。
彼は自らの言動が暴挙だとも考えていないのかもしれないが、彼が抱く思惑の先にあるのは、米国で約束してきた安保関連法案を完成させて、憲法改正(保守派が言う自主憲法のこと)を成立させることにあるだろう。
それは米軍とともに世界のどこへでも自衛隊を派遣して、戦闘行為を常態化し、いつでも戦争が可能な国家のカタチにすることを考えていると言える。
そのような日本国家では、米国との関係の不平等性も解消されない。
日米安保体制が存続する限り、米国との対等な関係性は幻想でしかなく、日本はいつまで経っても米国にとって都合の良いコマの役目しか果たせない。
そのような日本の姿では、朝鮮や中国を含むアジア周辺諸国からは、危険な国だとして敬遠され、日本は孤立していくだけである。
日本が世界から尊敬される国家であるためには、現憲法の第9条を守り、解釈改憲しないことだ。
そのためには、安倍氏が米国で約束してきたもののうち、どれか一つでも撤回させるまで闘うことである。
米軍普天間基地の移設問題、TPP問題、安全保障関連法案の阻止など、安倍政権とのたたかいをまず国会から始めなければならない。
もちろん、その論戦やたたかいを国会や議員たちだけに任せるつもりはない。
安倍政権打倒まで、私たちの平和観の力量も問われている。
2015年5月2日 記
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