「戦線復帰宣言とする」
「戦線復帰宣言とする」
10月7日の午後、退院をしました。
約50日間の入院生活を送ってしまった。
予定より入院が長くなってしまったのは、切除した内臓の接着が遅く、その間、痛み、高熱などに見舞われ、現実生活に適応できなかったからである。
しかし、3分の1とはいえ膵臓を残すことができたから、弱いながらインスリンが出ているので、助かった。
ところが、残してもらった膵臓に癌腫があるため、2カ月に一度のCTなどでの検査が欠かせなくなった。
8年ほど前、胃の調子がおかしいので精密検査を受けた。
胃カメラ、CTなどで見てもらったが、胃も腸も異変はなかった。
念のため周辺の臓器を調べてもらった時、膵臓に小さなのう胞が見つかった。
切除するには難しい場所で、やがて癌になる可能性もあるとのことで、半年に一度の精密検査で観察することになった。
のう胞は毎年、少しずつ成長していることがわかった。今年の7月上旬の定期検査で、それが5センチ以上に成長し、周辺が癌化している兆候が見られた。
膵臓癌を宣告されて一瞬、同病で死亡した母親のことを思い出した。
母は、数日前から腹痛を訴えていたが、とうとう我慢ができなかったのか、病院へ連れて行ってくれと言った。
手術をしたが、末期の膵臓で、それも転移していて、施しようがなくそのまま腹を閉じたとの執刀医の説明。
母は、意識が戻らぬまま翌日に亡くなった。53才とまだ若かった。
だから、膵臓癌だと宣告された時、母の死に様を思い出し、瞬間には死を意識した。
といっても、不思議と死への恐怖はなかった。宗教心もなく、宗教そのものを信じたこともない故に、自己の死をひとつの現実として受け止めようとしていたのかもしれない。
死への準備など何もせず、手術台に乗った。
入院前、数冊の本といつでも原稿を書けるようにと、使い慣れた筆記用具などを持ちこんだ。
しかし、麻酔から目覚めた後の私の身体は両腕に何本もの点滴の管につながれていて身動きさえままならない状態が2週間ほど続いた。
その後、点滴の種類が変わり、2本から1本に減っていったとはいえ、退院する時まで点滴用の針は抜かれることはなかった。
入院中、手術で切除した臓器のあたりからの不快な圧迫感、鈍痛などに終日(時間によっては強弱の差はあった)悩まされていた。
身体がそのようであったから、活字を追うことも苦痛であった。
たまたま活字ばかりの本を読んでいるところへ、看護士が入ってきたりして、彼女たちは決まって難しそうな本を読んでいるのですねと言うのだが、今の私には読書することと、差し入れてくれる新聞を読むことが、社会復帰へのリハビリだと考え、それを続けてきた。
胃腸を切除しているので、現在、一回の食事量が従来の半分以下になっている。
食事指導で、一日の食事回数を5~6回とれば、従来の一日分になるだろうと言う。
私のベスト体重は56~58キロだった。入院当時計ると54キロに減っていた。
さらに、入院中(絶食期間が20日以上もあったから)は、一時期、49キロにまで落ちていた。
退院時に、何とか50キロにまで戻したが、まだ力が入らない。
私にとっての5キロ減は、十分にこたえる。
体力減は気力減となり、思考力の持続がなくなっている。 従来通りの批判力には、まだ少しの時間を必要としているようだ。
だが、私は復帰した。
再び、このブログでの言論活動を再開していくことになるので、よろしくお願いします。
2014年10月11日 記
10月7日の午後、退院をしました。
約50日間の入院生活を送ってしまった。
予定より入院が長くなってしまったのは、切除した内臓の接着が遅く、その間、痛み、高熱などに見舞われ、現実生活に適応できなかったからである。
しかし、3分の1とはいえ膵臓を残すことができたから、弱いながらインスリンが出ているので、助かった。
ところが、残してもらった膵臓に癌腫があるため、2カ月に一度のCTなどでの検査が欠かせなくなった。
8年ほど前、胃の調子がおかしいので精密検査を受けた。
胃カメラ、CTなどで見てもらったが、胃も腸も異変はなかった。
念のため周辺の臓器を調べてもらった時、膵臓に小さなのう胞が見つかった。
切除するには難しい場所で、やがて癌になる可能性もあるとのことで、半年に一度の精密検査で観察することになった。
のう胞は毎年、少しずつ成長していることがわかった。今年の7月上旬の定期検査で、それが5センチ以上に成長し、周辺が癌化している兆候が見られた。
膵臓癌を宣告されて一瞬、同病で死亡した母親のことを思い出した。
母は、数日前から腹痛を訴えていたが、とうとう我慢ができなかったのか、病院へ連れて行ってくれと言った。
手術をしたが、末期の膵臓で、それも転移していて、施しようがなくそのまま腹を閉じたとの執刀医の説明。
母は、意識が戻らぬまま翌日に亡くなった。53才とまだ若かった。
だから、膵臓癌だと宣告された時、母の死に様を思い出し、瞬間には死を意識した。
といっても、不思議と死への恐怖はなかった。宗教心もなく、宗教そのものを信じたこともない故に、自己の死をひとつの現実として受け止めようとしていたのかもしれない。
死への準備など何もせず、手術台に乗った。
入院前、数冊の本といつでも原稿を書けるようにと、使い慣れた筆記用具などを持ちこんだ。
しかし、麻酔から目覚めた後の私の身体は両腕に何本もの点滴の管につながれていて身動きさえままならない状態が2週間ほど続いた。
その後、点滴の種類が変わり、2本から1本に減っていったとはいえ、退院する時まで点滴用の針は抜かれることはなかった。
入院中、手術で切除した臓器のあたりからの不快な圧迫感、鈍痛などに終日(時間によっては強弱の差はあった)悩まされていた。
身体がそのようであったから、活字を追うことも苦痛であった。
たまたま活字ばかりの本を読んでいるところへ、看護士が入ってきたりして、彼女たちは決まって難しそうな本を読んでいるのですねと言うのだが、今の私には読書することと、差し入れてくれる新聞を読むことが、社会復帰へのリハビリだと考え、それを続けてきた。
胃腸を切除しているので、現在、一回の食事量が従来の半分以下になっている。
食事指導で、一日の食事回数を5~6回とれば、従来の一日分になるだろうと言う。
私のベスト体重は56~58キロだった。入院当時計ると54キロに減っていた。
さらに、入院中(絶食期間が20日以上もあったから)は、一時期、49キロにまで落ちていた。
退院時に、何とか50キロにまで戻したが、まだ力が入らない。
私にとっての5キロ減は、十分にこたえる。
体力減は気力減となり、思考力の持続がなくなっている。 従来通りの批判力には、まだ少しの時間を必要としているようだ。
だが、私は復帰した。
再び、このブログでの言論活動を再開していくことになるので、よろしくお願いします。
2014年10月11日 記
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