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「朝鮮問題jへのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」21.朝鮮戦争の歴史的意義

21.朝鮮戦争の歴史的意義

 宋慶麗(孫文の未亡人)は、ウィーンの世界平和評議会総会(54年)で、米国が朝鮮半島に軍事介入した理由を、「蒋介石を権力の座に復帰させるため、中華人民共和国の共産主義政権の破壊を企てるスプリングボードとして朝鮮を利用した」と、米国を非難した。

 さらに米軍が朝鮮や中国東北部で、細菌戦を行ったことも暴露している。

 世界平和評議会は、50年11月に第2回平和擁護世界大会(ワルシャワ)のとき、その常設機関として設立された。

 評議会はその後も、平和アピールやコメントを数多く出しており、米国の帝国主義的言動を批判している。

 朝鮮戦争での米国の真の野望は、朝鮮半島と中国大陸の共産主義政権を戦火のなかで消滅させ、広大なアジア地域の安定的な米製品の消費地にすることであった。

 その意味から、共和国と中国の朝鮮戦争の最も大きな歴史的意義こそ、米帝国主義の侵略的な野望を打ち砕いたことであり、米帝の意図に勝利したことであるといえよう。
 
 ギャバァン・マコーマックが「朝鮮戦争は本質上内戦だったばかりではなく、革命的内戦だった」(「侵略の舞台裏」の結論部)としているのも、その一面を言い当てている。

 戦争が高度に政治的な性格をもつ現象であることを、ドイツの将軍クラウゼィッツ(1780~1831)が、「戦争はたんなる政治関係の継続というだけでなく、他の手段による政治の実現である」と規定して以来、それが通説となっている。

 レーニンの場合は、戦争一般を論じるのではなく、戦争を個別的、歴史的に研究することを強調した。抑圧され、従属させられ、民族自主権を剥奪された国家が、抑圧者、略奪者、侵略者の国家にたいする戦争を、侵略や略奪という性格を行ってはいないという意味で解放、防衛の戦争であり、「正義」の戦争だと言えるとしている。

 逆に侵略戦争や民族抑圧、植民地化を志向する戦争を、「不正義」の戦争とした。

 第2次世界大戦以降は、米国を中心とした国際的な帝国主義体制時代となっている。

 資本の国際化(多国籍企業の活動)、核戦争の危機を拡大させた軍拡現象などによって、政治・経済・軍事の対米従属化がすすんでいった。

 日本帝国主義から解放された朝鮮半島は、米ソ対立のなかで、米帝国主義は朝鮮への新植民地化、民族自主権への抑圧、軍事基地化政策をすすめていた。

 その米帝国主義の政策を真っ向から批判し、対抗していったのが金日成である。

 反共主義米国は、ソ連とともに共産主義勢力を消滅させるとの目的で、朝鮮半島の南北分断、北の政権の孤立化政策を推進してきた。

 それは即ち、民族分断、南北2政権化、北の孤立化政策となり、朝鮮人の民族自立化、民族自主権を奪っていった。

 朝鮮人民の反米闘争は結局、米国が奪い取ろうとする民族自主権の確立をめざすものであった。46年以降の南朝鮮での反米闘争もまた、同じことであったといえよう。

 その意味で、共和国が米国と戦った朝鮮戦争は、レーニンが言う「防衛戦争」であり、「正義」の戦争であったことになる。

 朝鮮労働党は、朝鮮戦争勝利の歴史的意義を、以下の3点にまとめている。

 第1に、社会主義朝鮮を守り抜き、抗日闘争以来の革命の獲得物を固守したこと。

 金日成はつぎのように言っている。

 「朝鮮人民と人民軍は犠牲的な戦いを通じて、現代帝国主義の元凶、アメリカ帝国主義武力侵略軍をかしらとする帝国主義連合勢力の侵略から祖国と北半分に樹立された人民民主主義制度を守り、民主革命の成果と民主基地を守り抜きました」(「金日成著作集」第7巻)

 米帝国主義勢力の侵略軍から祖国を守り抜いたことは、取りも直さず朝鮮解放の尊厳と栄誉を固守し、自主的な人民としての革命的な気概と英雄的な精神を世界に誇示し、反帝を志向する世界の人民に勇気を与えた、ということになる。

 第2に、最も困難な戦争時期にも、全人民が金日成を信じ、金日成のまわりにいっそう固く団結したことである。

 そのことによって、主体的革命力量が強化され、創造的な戦闘力を発揮してきたことで
ある。

 「わが党は厳しい戦争の試練を通じて点検され…幹部と党員が鍛えられ、労働者、農民およびインテリと全人民が鍛えられ、党と人民の団結がいっそう強まりました。わが人民軍は強力な革命的軍隊に成長しました」(「金日成著作集」第4巻)

 朝鮮労働党と幹部、人民たちは、朝鮮戦争の戦火のなかで鍛えられたのだ。

 そのことは今日、全人民が反米、抗米の精神で、一心団結を誇っていることにつながる。

 第3に、国際的な意義である。

 第2次世界大戦後、唯一、絶対的な帝国主義国家となった米国を、しかも「国連」機構を自由に操ってまで、朝鮮侵略の意図を実現した米国を、その米国の「強大さ」神話を粉砕したことは、民族自主権と社会主義を追及する国と人々に大きな勇気を与えた。

 そのことによって、社会主義諸国の安全と、世界の平和を守るうえで大きな貢献を果たしたことは間違いない。

 金日成はつぎのように言っている。

 「朝鮮戦争は、植民地主義に反対し、祖国の自由と独立のために決起した人民はいかなる力によっても征服できず、帝国主義者が植民地・従属人民にたいする搾取と抑圧をほしいままにした時代はすでに終わったことを全世界の人民にはっきりと示しました」(「金日成著作集」第10巻)

 また朝鮮戦争では、米軍の圧倒的な兵器機種の優位さと、彼らの制空権と制海権を握っていたなかでの、朝中側の勝利であった点で、「兵器万能主義」観を打ち破ったことになる。これは戦争勝利の第一の要因で根本的な要因である、戦闘員(兵士と後方の人民)たちの思想意識の堅実さと強固さ、団結力にあったことを実証していた。

 思想の団結こそが、自由と独立をめざす闘争において、また反帝反米闘争において、有力な武器であることを世界の革命史に記録したことは、間違いなく朝鮮の勝利であった。

 同時に、自他ともに認める政治、経済、軍事大国の米国が、朝鮮やベトナムでの革命闘争に敗北したことは、歴史の必然性であったとも言えるのである。

(第2部終了)
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「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」20.ジュネーブ会議

20.ジュネーブ会議

 朝鮮停戦協定第4条(双方の関係政府に対する勧告)の第60項は、「朝鮮問題の平和的解決を確保するため、双方の軍司令官は、双方の関係国の政府に対して、休戦協定が署名され、効力を生じた後3カ月以内に、これらの国の政府がそれぞれ任命する代表により一層高級な政治会談を開催してすべての外国軍隊の朝鮮からの撤退、朝鮮問題の平和的解決その他の諸問題を交渉により解決するよう勧告する」としている。

 停戦協定全63項目中、この第60項がもっとも重要な部分であろう。

 そこでは、3カ月以内に政治会談を開催し、すべての外国軍隊の撤退、平和的解決のための協議など、停戦協定の中核的内容が規定されているからである。

 つまり、政治会談を開催し、平和協定を締結し、すべての外国軍隊は朝鮮半島から速やかに撤退して、朝鮮半島の平和的環境を整えて、平和的解決を推進していかなければならない、としているのである。

 ところが米国は、3カ月以内の政治会談開催をサボタージュし続けてきた。

 すべての外国軍隊の朝鮮半島からの撤退要項が、在韓米軍が抵触するためでもあったろう。停戦協定調印1カ月もしない8月8日、「米韓相互防衛条約」に仮調印していたから
である。

 米韓両国の一国が侵略された場合には共同で対応し、米軍の南朝鮮駐留を認める、とす る内容であった。

 この時点での米韓両国のどちらか一国が侵略された場合の解釈に、誰が米国が侵略されることなどを想定したろうか。

 それだけでもこの防衛条約は、米国の南朝鮮への永久占領を現実化するものであった。

 こうした米国のルール違反に対して、北の「祖国戦線中央委員会」をはじめ、世界の平和団体などからの強い抗議があり、米国はようやく政治会談の予備会議開催に同意した。

 だがそれは、国際社会へのポーズだけで、12月12日に板門店で開かれた予備会談の場では、論弁を弄して、破綻させてしまった。(それが目的であったのだろう)

 協定第62項は「双方が互いに受諾できる修正および補足によるかまたは双方の間の政治的手段による平和的解決のための適当な協定の規定によって明確に取り替えられるまでは、引き続き効力を有する」としている。

 米軍は、前文または第60項で定めた平和的協定を協議することを忌避して、「休戦協定」中の都合の良い文言の中に潜み、それを解釈している方が、朝鮮半島の反共政策を推進しやすいと判断していたのであろう。

 国際社会は、米国の我が儘を決して許さず、54年4月26日からのジュネーブ政治会談を開催することとなった。

 このジュネーブ会議は国連が主導したもので、同時にインドシナ問題も討議する「アジア会議」的性格を有し、ソ連も参加した。

 朝鮮問題の討議には、停戦協定の規定に基づいて、「国連軍」側の15カ国(南アフリカ共和国が欠席)と南北朝鮮、中国、ソ連の計19カ国の外相が参加し、政治会談を開いた。

 議題は一つで、朝鮮半島の平和的解決(平和的統一)を推進する問題であった。

 朝鮮半島の南北統一については、双方は肯定的な発言をしながら(誰も、それを正面から否定することは出来なかった)、どのように実現していくのかの方法論と考え方の違いで、東西両陣営は真っ向から対立することになった。

 南朝鮮が14項目に及ぶ「統一」方案を提案した。

 以下はその概要である。

 「統一民主韓国(注、大韓民国のこと)を堅持し、国連監視下で総選挙を実施」「自由選挙(注、48年の国連監視下での南単独選挙のこと)が不可能だった北部地域(注、共和国のこと)で自由選挙(注、国連監視下で)を実施」「すべての韓国立法代議員(注、南北全朝鮮のことを指す)の選出は、韓国(注、南北朝鮮のこと)人口の比例による」「選挙実施1カ月前に中共軍は朝鮮半島から完全に撤収のこと」「国連軍の撤収は、統一韓国政府が樹立され、国連によって確保されるまで撤収してはいけない」

 以上、一読して分かることは、南(大韓民国)は国連によって認定された、朝鮮半島で唯一の合法政府ではあるが、北(朝鮮民主主義人民共和国)は国連監視下の選挙をまだ実施していないため、一つの勢力(注、政府機能を認めないこと)でしかないとの、認識に立っていたことが理解できる。

 このため、国運藍視下の選挙を北部で実施し、韓国国会で用意している北部地域の補充議席(注、全朝鮮人口の比例で、おおよそ100余の議席)を吸収するとしている。

 その段階で「統一韓国政府」の諸要件を決定していく、ことを内容とする主張であった。

 そうした思考形成そのものが、米国による朝鮮政策であったことには違いないが、それを主張する彼らもまた、反共思想に染まり、民族同一性思考を放棄していたと言わざるを得ない。

 米韓ともに、朝鮮戦争停戦協定を履行する意思も思考もなく、共和国を対等な相手だとの認識力にも欠けた、帝国主義者の立場での表明であった。

 一方、共和国は南の提案に対して、以下のように反論した。

 「6カ月以内に朝鮮半島に駐留中のすべての外国軍は撤収」「南北両軍隊削減」「外国と締結した軍事条約の破棄」「南北両国会議員らを代表とする『全朝鮮委員会』を構成し、全朝鮮の選挙を実施する」

 また国連問題に対しては、国連は交戦当事者として参戦し、停戦協定に調印したため、公正な国際組織で活動できる資格を喪失しており、朝鮮半島の問題に客観的な機能を果たすことができない機関となっているとした。

 従って、国連決定の合法性主張は、ナンセンスであるとの立場であった。

 選挙での人口比例に関する南側の主張は、朝鮮半島全体の人口の7分の1を代表する北の立法機関と、人口の7分の6を代表する南の立法機関を同等な割合で連合しようということは、民主主義とは相反することであるとして、北が提案した「全朝鮮委員会」設置を拒否した。

 これに対して北側は、米国の上院の例をあげて、人口に差があるが各州が同等な権利があることを強調し、北と南が同等の割合で「全朝鮮委員会」に参加することは、決して民主主義に反していないと反論した。

 南北双方の相反した主張は、応酬合戦となり、その差は少しも縮まらず、いかなる国際的な合意も達成することができずに、ジュネーブ会議は6月19日に決裂して終了してしまった。

 それ以降の米国は、共和国が再三呼び掛ける平和協定転換協議にも応じず、停戦協定さえ誠実に実行してこなかった。

 ところでこのジュネーブ会議のもう一つの議題は、インドシナ問題の討議であった。

 インドシナとは、地理的には中国の南部、インドに接する大半島で、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)、マライ半島が含まれている。

 戦前の日本では仏印(通称)と呼んでいた。

 イギリスとフランスの植民地となっていたが、太平洋戦争でいずれも日本軍が支配下に置いた。戦後に独立を宣言したが、フランスがベトナム・ラオスへの介入を強めた。

 ベトナムはフランスに対して、武力抗争を続ける。

 54年2月のベルリン・コミュニケを経て、このジュネーブ会議でベトナムの独立が認められた。

 その後、ベトナム人民軍がデイエンビェンフーの戦闘でフランス軍に大勝利(54年5月)し、6月にフランスはベトナム独立協定に調印した。続く7月21日、インドシナ休
戦協定が成立した。

 このジュネーブ会議で討議された2つの問題、朝鮮との平和協議は決裂し、インドシナ問題では、ベトナムの独立、インドシナ休戦協定を成立させた。

 ところが米国はジュネーブ会談後、ベトナム・ラオス・カンボジアに軍事介入し、ベトナム戦争、カンボジア戦争を再発させた。

 朝鮮半島もまた会談後の米国によって、戦争前夜状態が継続している。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」19.国連が果たした役割

19.国連が果たした役割

 国際連合(国連、UN)は、46年4月に解散した国際連盟に代わって、第2次世界大戦後の世界秩序と平和を目的とする国際機構として発足した。

 総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局などの機関からなり、その下に、多くの補助機関と専門機関がある。

 なかで、安全保障理事会(安保理)は、侵略者に対して軍事力による制裁を決定するなど、強力な権限が与えられている。

 国連の主要な任務は、国際の「平和と安全の維持」「平和への脅威に対する集団的措置」「国際問題の平和的解決と国際協力の増進」「基本的人権の尊重」などで、これらは憲章化されている。

 国際社会間の平和、安全、安定を維持していく機関であって、決して紛争を呷り、侵略者の片棒を担ぐ機構ではない。

 では、朝鮮半島の場合はどうだったのか。

 結論から言えば、国連は米国の南朝鮮占領政策を合法化する下請け機関と通り、さらに朝鮮半島全域の侵略政策(戦争)を国連の名を借りて推進する米国に力を貸した。

 その結果は、国連が朝鮮戦争の当事者となった。

 第2次世界大戦直後の、絶対的な力を誇示していた米国といえども、世界は反ファシズム戦争、植民地解放闘争、民族自主化闘争に勝利した後だけに、朝鮮半島でのあからさまな帝国主義的反共政策と軍事政策を、少しは隠蔽するという「しおらしい」姿勢も必要としていた。

 その隠れ蓑に、国連を活用した。

 国連本部がニューヨークにあり、供出金額と職員が過半数を占めていたから、そればまるで米国のもうひとつ別の機関のようになっていた。

 ポツダム宣言を無視し、米ソ共同委員会を破綻させた米国は、その本質を現して、朝鮮問題を国連に持ち込んだ。(47年10月20日)

 国連は、当時の朝鮮半島情勢には無知で、しかも朝鮮解放後に朝鮮人の意見を一度も聞かずに、米国の一方的な報告だけで、朝鮮人たちの意向に反した決定を、次々に決議する機構になっていた。

 以下、そのことを1.朝鮮半島の分断化、2.米軍参戦の法的根拠、3.間違った「侵略者」指定、4.偽証罪―の4分野に分けて、それぞれの内容を検討していく。

 1朝鮮半島分断化の罪

 国連総会は47年11月14日、米国提案の「朝鮮総選挙案」と「国連朝鮮臨時委員団設置案」を強行可決した。

 その内容は、全朝鮮での選挙(人口別の議員選出)の実施、その選挙に国際的監視団の設置であった。

 朝鮮では、選挙を希望していたのは李承晩系の右翼集団だけで、ごく少数であった。

 その本質は、米占領政策の正統化と永久化にあった。

 国連朝鮮臨時委員団は翌48年1月8日、ソウルに到着した。

 南朝鮮各地では、選挙反対のストライキや救国闘争で迎えられながらも、彼らにはそのような風景は見えなかったようだ。

 北朝鮮人民委員会からの38度線以北への立ち入り拒否声明と、米軍政と李承晩政権の意見だけを、国連小総会(2月26日)に届け、南朝鮮単独選挙実施案(選挙実施可能な地域)を可決した。

 国連におけるこの可決こそ、南北分断を固定化させて2つの政権をもたらし、朝鮮戦争を誘発させた、今に至る統一闘争への始まりとなった。

 国連機関が朝鮮半島の南北分断を決定したも同然である。

 1948年8月15日に大韓民国が成立し、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が誕生した。

 2米軍参戦の法的根拠

 国連は、朝鮮半島に2つの政権を誕生させただけではなく、さらなる罪を重ねてしまった。

 48年12月12日の第3回総会(パリ)で、韓国政府を朝鮮半島における唯一の合法政府だとして、承認してしまったのだ。

 それは多分、選挙監視役の臨時朝鮮委員団が確認した地域での選挙結果の政権、という意味合いではあったろうが、米韓の意思は違っていた。

 米韓側は、「大韓民国は国連によって賦与された正統性の故に、韓半島の全域を支配すべき唯一の合法政府だ」だと、現在でも時によっては解曲的な主張をしている。

 日韓基本条約の条文でもめたのも、この「唯一」「合法政府」の解釈であった。

 米国の場合は、朝鮮戦争に参戦する際の法的根拠としたのが、第3回国連総会での決議内容であった。

 「臨時朝鮮委員団が監視しえた朝鮮半島の部分において、有効にこれを管理し統轄しうる合法政府が樹立された」ことと、そして「朝鮮でこの種の政権としてはこれが唯一のもの」を都合良く解釈し、大韓民国を国連が認めた「政府」だとして、その政府を救出するのだとの理由付けで、朝鮮戦争に参戦した。

 国連安保理は50年6月27日、米軍の朝鮮出動を合法化する決議を採択(すでに米空軍機は日本基地から飛び立っていたから事後承認)した。

 続く7月7日、国連軍の創設を決定し、マッカーサーを司令官とする「国連軍」の編成を命じた。

 米軍を含む16カ国の「国連軍」が9月15日、仁川に上陸して朝鮮戦争を国際紛争化へと拡大してしまった。

 地域の平和を維持するとの国連がもつ機能とは裏腹に、朝鮮半島では戦争当事者となり、その戦争を拡大させ深刻化させる方向へと進めている。

 しかも、その「国連軍」が38度線を北上する直前の10月7日、第5回総会で朝鮮を統一(軍事的統一)した後の作業として、「国連朝鮮統一復興委員会」を結成する決議を採択させている。

 10月1日には一部の米軍部隊が北半分に侵入していたからか、復興委員会結成を急いだようだ。

 その決議を待っていたかのようにして10月9日、「国連軍」は正式に38度線を越えて北上していった。

 結局、この決議は「国連軍」の共和国侵攻を合法化し、なおかつ、軍事的統一の実現への道具として用意したものであった。

 3間違った「侵略者」の指定

 開戦直後の国連安保理は、38度線を南下して進撃していた朝鮮人民軍を、「侵略軍」とのレッテルを貼ることで、米軍参戦への道を開いた。

 国連はいつから、侵略の定義を新しくしたのであろうか。

 朝鮮人民軍は、南朝鮮の韓国軍からみても外国軍ではなく、逆に米軍の方が外国軍になる。当初は内戦であった。

 外国軍が内戦に介入する場合、救援を受けたい政権、若しくは軍隊からの要請が必要である。

 李承晩政権はいつ、どの機関決定で、米軍の救援を要請したのであろうか、はっきりしていない。

 安保理が共和国を「侵略者」だと認定したことで、米軍は「国連軍」の中心となって日本の基地から出動していった。

 さらに、中国人民志願軍参戦後の51年2月1日、中国を「侵略者」だと認定した。

 中国は50年9月24日と27日の2回、米軍機および艦船が中国を侵犯(東北地方)したことに対して、国連事務総長に抗議電報を送っている。

 これに対して国連事務総長は無視したままである。

 中国軍が鴨緑江を越えて朝鮮に入ったことが「侵略」だとすれば、米軍および「国連軍」が仁川から上陸したことは、侵略にならないのだろうか。

 中国軍の朝鮮参戦は、金日成政権からの要請に基づいたものである。

 安保理規定では、「侵略者に対して軍事力により制裁を決定する」としている。

 米国はこの規定を共和国や中国に当てはめようとしてきたが、それはむしろ米国自身の行為に該当している。

 4偽証罪

 開戦直後に開かれた安保理で、国連朝鮮委員会の2人(ピーチとランキン)の軍事監視員の報告によって、朝鮮人民軍を「侵略軍」と決め付けた。

 2人はともに、開戦2日前の6月23日までの3日間ほどを38度線以南で、韓国軍将官および米軍顧問官からの聞き取り情報だけを精査して、報告していた。

 従ってそれらの報告内容には、軍事前線での南北両軍の動きを、彼らが直接見たものではなく、風聞内容を都合良く加工しただけである。

 それも開戦2日前までの状況を、さも開戦当日のごとくにして報告している。

 偽証とさえ言えるものである。

 その後のムチオ報告(米韓国大使)にしても、同じく風聞に基づく報告である。

 それらの風聞報告を、米国が参戦できる都合の良い内容へと加工したものを、第1次報告・資料として国連は採用した。

 しかもソ連と中国代表が欠席している安保理であったから、会議の要件さえも満たしていなかった。

 さらに当該者の朝鮮代表を呼び、意見を聞くこともしていない、欠陥会議であった。

 以後、朝鮮問題関連を協議する国連安保理は、その欠陥会議から立ち直ることができていない。

 1年後にソ連が安保理に戻ってきたため、安保理決議では不利と考えた米国は、その場を総会または小総会に移した。

 米国は国連から「国連軍」を引き出しただけではなく、「国連臨時朝鮮委員団」|国連朝鮮委員会」「国連朝鮮統一復興委員会」(50年10月9日設置)などの組織を作り上げ、活用してきた。

 特に「朝鮮統一復興委員会」の設置では、「平和のための統一」「朝鮮全土に及ぶ安定の確保」などの欺瞞的な美辞麗句を並べ立てている。

 このような表現は、「国連軍」が38度線を北上した場合の、事後承認と共に米軍の侵略を合法化するためのものとして用意した。

 米国は国連と関連組織を通じて、朝鮮半島に深く関与している。そのうえで共和国には「武力による国土統一を企てた」と非難キャンペーンを繰り返しながら、南朝鮮の歴代政権が主張する「武力統一」を支持してきた。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」18.停戦協定の締結

18.停戦協定の締結

 前文5条63項からなる軍事停戦協定(朝鮮における軍事休戦に関する、一方国際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令官との間の協定)が53年7月27日の22時、板門店で調印され、同時に発効された。

 開戦後3年1カ月、休戦会談開始後2年1カ月にして、それも完全な停戦ではなく、休戦状態での終結であった。

 第1条(軍事境線および非武装地帯)、第2条A(総則)、B(軍事休戦委員会)、C(中立国監視委員会)、第3条(捕虜に関する取決め)、第4条(双方の関係政府に対する勧告)、第5条(雑則)に加え、付属書と軍事休戦協定補足暫定協定からなり、これらは「国連軍」、朝鮮人民軍、中国人民志願軍の3者によって署名された国際協定である。

 署名の3者は、
 朝鮮 人民軍最高司令官朝鮮民主主義人民共和国元帥 金日成
 中国人民志願軍司令官 彭徳懐
 国際連合軍司令部総司令官合衆国陸軍大将 マーク・W・クラーク

 列席者は、
 朝鮮人民軍および中国人民志願軍代表団主席代表朝鮮人民軍陸軍大将 南日
 国際連合軍司令部代表団主席代表合衆国陸軍中将ウイリアム・K・ハリソン。

 板門店北側の建物で、南日とハリソンが18種の停戦協定に署名。

 その後、文山で米軍のクラークが、平壌で中国の彭徳懐が署名して成立した。

 この軍事停戦協定は、朝鮮半島における交戦状態の停止だけを定めたのではなく、第4条の内容が重要で、そのことを誠実に実施することによって、これが「休戦協定」か「停戦協定」かの性格の違いが出てくる。

 第4条は「朝鮮問題の平和的解決を確保するため、双方の軍司令官は、双方の関係国の政府に対して、休戦協定が署名され、効力を生じた後3カ月以内に、これらの国の政府がそれぞれ任命する代表により一層高級な政治会談を開催してすべての外国軍隊の朝鮮からの撤退、朝鮮問題の平和的解決その他の諸問題を交渉により解決するよう勧告する」としている。

 つまり、軍事停戦協定締結の3カ月後、両国は政治会議を開催し、朝鮮半島から外国軍隊の撤退と平和問題の協議と解決することを、勧告されたのである。

 しかし米韓双方は、53年10月(停戦協定3カ月目)に米韓相互防衛条約を締結し、朝鮮問題の平和的解決を議題とするジュネーブ会議(54年4月)でも、国連の権限による選挙プランを主張して、協議そのものを決裂させた。

 軍事停戦協定による軍事境界線(MDL)は、38度線に沿ってではなく、西部戦線では北部(板門店を基点に、開城が北に文山が南になった)へと、東部戦線(文登里を基点に高城が北に杵城が南になった)では逆に南部に突き出ていた。

 その線が、協議時での接触線であった。

 両軍はその接触線の中間線をMLDとし、それを基線として、互いに2キロずつ後退し、幅4キロの非武装地帯(DMZ)を構築した。

 MDL以南のDMZの民政と救済については、国連軍司令部総司令官が責任を負い、それより以北については、朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令官が共同で責任を負うとした。(第1条第10項)

 また、DMZ内での敵対行為を禁じ(第1条第6項)、いかなる軍人も文民も軍事停戦委員会の許可なくMDLを越境したり、DMZ内に立ち入ることを禁じた。(第1条第7項および第8項)

 しかし米軍からの違反行為が頻発していて、新しい「非武装化」条項の必要性が論じられるほど、条約違反が「現実化」している。

 MDLは、開戦前とほぼ同じ線に引かれた。

 このため勝者なき戦争であったと言われているが、当事者たちの印象は違っていた。

 ただ一人、敗北の弁を述べていたのは、「国連軍」および米軍を代表して停戦協定に調印したW・マーク・クラークであった。

 クラークは『韓国戦争秘史』で、次のように慨嘆している。

 「われわれは、敵が敗北しないまま、しかも以前よりさらに強力で脅威的な存在として残っている意味では敗北したことになる」

 「誤って選んだ場所で、誤って選んだ時期に、それも誤って選んだ敵を相手にして、誤って選んだ戦争をしてしまった」

 「私は勝利のない休戦に調印したアメリカ最初の将軍である」

 ところが韓国軍側では、「ソウルを確保し、韓半島全体の共産化を防いだ点では勝利だ」(白善華、韓国陸軍参謀総長談)と、ソウルを確保したことを実感していた。

 それもそうだろう、首都ソウルが2度にわたって陥落され、それを奪還するために戦った軍人としての思いが強く出ている。

 ところが李承晩のみは、戦争を終わらせたくなくて休戦会談に反対して、ひとり「北侵」を主張していた。

 米国も苦慮し、「米韓相互防衛条約」(53年10月)を結び、同時に彼に轡をはめた。

 「韓国の安全は、国連軍が保障する」
 「休戦合意にある南北政治会談が進展を見ない場合は、90日後に中止する」
 「今後、韓国は休戦にいっさい反対しない」一との、米軍駐屯との約束との引き換えで、停戦には従うとの態度を取るようになった。

 一方で朝鮮と中国側は、勝利を宣言した。

 朝鮮側は、朝鮮半島の侵略を意図した米帝国主義を粉砕し、社会主義祖国の地を守ったことから。

 中国側は、参戦を決意したのが、朝鮮半島を主戦場とした米帝国主義の対中国侵略計画を打破するためであったから、その米国の「対中侵略計画」を阻止したことで勝利だとしている。

 だが、それぞれの思惑と意図とは別に、38度線を挟んでの朝鮮半島の南北分断状況は、開戦前と何も変わってはいないこと。

 それと政治的危機に陥り崩壊寸前であった李承晩政権を一時的に救い、その後の12年間の独裁体制に道を開いたことも、記憶しておく必要があった。

 戦争中、核兵器使用を計画していた米軍は、あらゆる銃火器、近代兵器を投入し、毒ガスや細菌兵器など新開発兵器の実験場として、夥しい物量戦を展開した。

 そのため、直接戦闘には参加していない一般住民の犠牲者が多く、被害数字を大きくした。

 現在発表されている被害数字は、北側と南側とでは、若干の違いがある。(南の場合、その発表機関によっても違いがある)

 1.1970年の南朝鮮政府の報告。
 *韓国側の人的被害。
 民間人 死者/37万3599人、負傷者/22万9652人、行方不明/38万7744人
 軍隊 死者/3万6813人、負傷者/11万4816人、行方不明/6198人

 *北側の人的被害
 民間人 死傷者・行方不明/270万人
 軍人 同じく60万人超

 *中国軍の人的被害
 死傷者・行方不明/ほぼ100万人

 *それ以外に、500万人もの人々が越境し、計1千万人余もの離散家族が誕生した。

 2.「統一朝鮮新聞」発表(1970年6月)
 *韓国側の被害数字
 民間人 死者/37万3599人、負傷者/22万9652人、行方不明/38万7744人(北への拉致8万4532人)
 合計/99万995人

 軍人 死者/22万7748人、負傷者/71万7083人、行方不明/4万3572人
 合計/98万8403人

 国連軍 死者/3万6813人(米軍3万3619人)、負傷者/11万4816人、行方不明/6198人
 合計/15万7827人

 *北朝鮮側の被害数字
 民間人 死者/40万6000人、負傷者/159万4000人、行方不明/68万人(南下難民を含む)
 合計/268万人

 軍人 死者/29万4151人、負傷者/22万5849人、行方不明/9万1206人(捕虜を含む)
 合計/61万1206人

 中国軍 死者/18万4128人、負傷者/71万5872人、行方不明/2万1836人(捕虜を含む)
 合計/92万2836人

 3.共和国側の発表(南側の数字)
 *兵力/40万5000余人の米軍を含む156万7000余人を投入した

 *兵器/1万2200余の飛行機、560余隻の各種艦船、3250余台の戦車および装甲車の投入

 *戦費/1650億ドルの軍事費を使い、膨大な戦闘技術機材と軍需物資を失っている。


 以上、3年余の朝鮮戦争における米帝国主義の兵力と軍需物資。

 機材の損失し、第2次世界大戦当時の4年間、太平洋戦争で被った損失のおおよそ2、3倍に達していたことを発表している。

 これらの数字上からだけでも、いかに朝鮮戦争の3年間余が、激しい戦場であったかが理解できるだろう。

 また、641人もの在日韓国青年学生たちが、6次に分かれて義勇軍として参戦(第1次と第2次が仁川上陸作戦に参加している)していたことを忘れてはいけない。

 *さて、日本とドイツの戦争責任を裁くために連合国4カ国(米英仏中=国民党政府)は45年8月8日、「国際軍事裁判所条例」を決めて国際裁判にかけた。

 A項に侵略戦争の計画、準備、開始もしくは遂行などの平和に対する罪、B項に戦争の法規又は慣例の違反など通例の戦争犯罪、C項に民間人に対して行われた殺人、奴隷化、追放及びその他の人道に対する罪を定めた。

 B項とC項は、一般民衆に対する残虐行為、集団的な住民虐殺、虐待致死、一般住民への攻撃、生活関連施設への爆撃などが含まれている。

 米国は、以上の項目を日本の軍人・軍属(朝鮮人、台湾人を含む)を戦争犯罪人に指定して裁き、処刑した。

 では朝鮮戦争での米軍の行為、一般住民への殺害や銃撃、一般住民への集団的虐殺、生活施設への爆撃や破壊は、戦争犯罪にはならないのか。

「日米の戦争犯罪を裁く」

「日米の戦争犯罪を裁く」

                                                                   名田隆司

1. 日本の現在形

 いま(14年5月現在)、安倍晋三政権は国会内の「一強多弱」的背景を受けて、日本が戦争の出来る国へと、その環境づくりに専心しているように見える。

 国の安全保障にかかわる情報を漏らした公務員らに厳罰を科す「特定秘密保護法」(13年12月成立)、「集団的自衛権の行使容認」(今夏までに閣議決定を目指す)、さらに国連平和維持活動(POK)などでの自衛隊による「駆け付け警護」(条件付きで容認)など-と、現状でも十分に、自衛隊が武器を携行して、他国領土の戦闘現場に進出することが可能な日本になっている。

 レーニンは、軍隊が他国領土に進出して戦闘行為を行うことを「侵略」だとしている。安倍政権は自衛隊が海外へ出ることを、「自衛権」とか「平和維持」などの表現を使用しているが、レーニン流では虚偽表現となる。

 首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は、駆け付け警護と多国籍などへの後方支援は憲法第9条違反ではないとして、全面的容認を提言した。

 さらに政権の外部からは、日本が侵略戦争をしたとか、南京大虐殺をしたとか、軍慰安婦を強制連行したとかはみな嘘で、首相や閣僚は靖国神社を参拝すべきで、日本は核武装して自主防衛体制をつくるべきだなどと、安倍氏の本心を代弁する声がますます大きくなってきている。

 敗戦後70年近く、二度と戦争をしない、軍隊を保有しないとした憲法の下に暮らしてきたつもりが、現状は、戦前の侵略戦争史を平気で肯定する政治的風土にまでなっている。

 こうした現象は、米国のアジア太平洋戦略と連動した結果である。

 今年4月、オバマ米大統領が日本、韓国など東南アジア4カ国を歴訪したが、その主な目的は、中国と北朝鮮への敵対観を強調することで、日本と韓国に高額な軍事費を負担させて、たがが緩んでしまったアジア安保の締め直しを図ることにあった。

 安倍晋三氏と朴槿恵氏の二人はオバマ氏に応えて、彼に満足感を与えた。

 安倍政権は集団的自衛権行使の容認、武器輸出3原則変更計画をすすめている姿を見せることで、朴政権は米国との合同軍事演習強化と米軍の中古武器購入の約束をすることによって、アジア地域同盟国の絆を米国に誓った。

 その一環で、安倍政権の軍事環境突出をオバマは容認した。(オバマ政権は、安倍政権の安全保障政策を容認している)

 米国は、朝鮮半島を中心としたアジア地域を、「戦時」のままにしておくことで、広大なアジア地域の政治支配と商品市場化をすすめている。

 その戦略基地に引き続き、日本列島を置いた。

 その基地が独り歩きしないよう、日米安保の鎖でしっかりと繋ぎ留めてもいる。

 日本の歴代政権が先ず、日米安保は日本政治の基軸だと唱えてみせるまでに、米国は日本政治をうまくコントロールしてきた。

 その姿が、日本政治の現在形である。


2.サンフランシスコ講和条約とは

 日本の現在形は、米国の戦後政治の産物でもある。

 アジア太平洋地域戦略の要の位置に日本列島を置いた米国は、戦後いち早く日本を、反共戦線の要塞化作業に取り掛かった。

 1951年9月4日から8日までの、サンフランシスコ対日講和会議で、その作品を提示した。

 会議で討論された対日平和条約案は、冷戦思考に基づいて米国が作成したもので、誰からの異論も受け付けずに決議した。

 その特徴は、1日本の再軍備と外国軍隊(米軍)の駐留継続を許容。2日本の個別的、集団的自衛権を承認。3朝鮮の独立。4台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の領土権の放棄(但し、その帰属先を規定しなかったため、現在、問題となっている)。5賠償は原則として役務、技術提供のかたちにする、とした。

 日本は完全に米国の軍事戦略下に入り、戦争責任や植民地清算をあいまいに処理することが許された内容であったから、旧連合国55カ国中48カ国しか調印(51年9月8日)しなかった。

 朝鮮や中国代表は、会議への出席にも要請されなかった。

 同日には日米安全保障条約(日米安保)を調印し、米国の要請通り、日本は朝鮮戦争の安定的な後方基地の役割を担い、その後も、米軍のアジア太平洋地域の強固な軍事基地の役割を果たしてきた。

 アジア各国はそのような日本の姿に不安と不満を持ちつつも、米国との経済関係のなかで、日本との賠償協定(経済協力)に調印している。

 唯一、日本と賠償協定を結んでいない国が、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)である。

 日本は北朝鮮と国交正常化を結ぶこと自体が、自らの戦争責任への宿題、歴史清算を果たすことになるのだが、日本の歴代政権はサボタージュしてきた。

 この問題は、日本自身の政治責任問題であったにも関わらず、米国のアジア地域の戦略と戦時政策と日米安保体制内に組み込まれてしまい、日本は自立的に問題解決をすることを放棄してきた。

 日本は独自の朝鮮問題を提起し解決できず、常に米国の補完的な立場を担ってきた。

 現在、北朝鮮とは拉致問題や戦後の遺骨問題など、可及的速やかに解決しなければならないテーマがあるにも関わらず、それすら交渉が一定以上には進んでいない理由が、日米関係にあったことを、十分に理解しておく必要がある。

 その根元に、日本の戦争責任処理のあいまいさと共に、米国の朝鮮戦争責任(戦犯問題)への未処理が絡まっている。

 つまり、日米の戦争責任問題の未解決問題だということである。

 日本が、北朝鮮と国交正常化をすすめていくためには、最初に日本の戦争責任問題を明らかにし、清算する必要がある。

 日本が北朝鮮との間で、戦争責任を明らかにし清算する過程では、米国が推進したサンフランシスコ講和的なものと、朝鮮戦争停戦協定問題が浮上してくるだろう。(日本の旧軍メンバーが、朝鮮戦争に直接参戦していたことも含めて)


3.日本の戦争責任処理

 近代政治は、以下のような戦後処理を経て、敗戦国から莫大な賠償金を支払わせている。

 一般的には休戦会談(当事国同士、または第三国の斡旋)を経て停戦協定締結、講和会議、賠償交渉、平和協定および国交回復へと進んでいく。

 日本自身、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)、第1次世界大戦(1914年7月~18年11月)などで、相手国から高額賠償金を取り、さらに朝鮮半島の独占的支配権を手にして、重化学工業など帝国産業発展への道を開いていった。

 では、第2次世界大戦で敗北した日本は、どうだったのか。

 第1次世界大戦は帝国主義国間の戦争ではあったが、第2次は日・独・伊のファシズム国家対反ファシスト連合国(社会主義国も含む)諸勢力の戦争という、少し複雑な様相をもっていた。

 それで敗戦国日本への処理は従来とは多少違って、連合国を代表する米国主導で進行していった。

 A.休戦会談に代えて
 連合国側(米国中心)が、4回の協議で枠組みを決定した。
 カイロ宣言(43年11月27日)、テヘラン会談(43年12月2日)、ヤルタ会談(45年2月4日)、ポツダム宣言(45年7月17日)の連合主要国会談である。
 テヘラン会談でソ連の対日戦を確認し、ヤルタ会談で戦後処理の大枠を確定し、まだ戦闘を続ける日本にポツダム宣言を突き付けた。
 日本は45年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。(8月15日)

 B.停戦協定に代えて
 東京湾上のミズーリ号で、重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が45年9月2日、降伏文書に調印した。
 内容は、ポツダム宣言の正式受諾、戦闘行為の停止、日本の統治権を連合国最高司令官(マッカーサー)の下に従属させること、戦争犯罪者を裁くことなどであった。

 C.戦争責任者の裁判
 ポツダム宣言ならびに降伏文書などによって、日本は連合国に戦犯を引き渡した。
 A級戦犯を裁いた東京裁判所では28人を訴追。うち2人は公判中に病没、1人は精神障害となり免訴。25人が判決を受け7人が死刑、他は終身刑から禁固7年。
 BC級戦犯は全体で5700人余、8カ国9政府(中国が中華民国と中華人民共和国、ソ連は実態がつかめず数値に入らず)51カ所の裁判所が裁いた。

 D.講和協議に代えて
 対日講和を目的にサンフランシスコ講和会議(51年9月4日~8日)が開かれ、対日平和条約(9月8日調印、52年4月28日発効)が成立した。
連合国55カ国のうち48カ国との条約(ソ連、ポーランドチェコスロバキアは調印せず、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは欠席、中国は招請されず)
 同時に、米軍の日本への駐留を認める日米安全保障条約と抱き合わせであったから、共産圏、東南アジア諸国からの反対が強く、完全な講和条約とは言えなかった。

 E.日本の賠償問題
 ポツダム宣言では、日本人が生存に必要とするもの以外のすべてを連合国に引き渡すこと、実質賠償を原則としていた。
 ところがサンフランシスコ講和会議では、各国への賠償は、技術提供など役務賠償が中心となった。
米国が日本を反共体制に組み込むため、経済再生発展政策を重視したためである。
 戦後処理と防衛問題をリンクして、日本を活用するためであった。
 中国国民政府、インド、ソ連などは国交回復にあたって賠償請求権を放棄した。
 現在、北朝鮮とのみ未解決。だから日朝間の基本問題は、講和問題であり、植民地支配への謝罪と賠償などの清算問題が、日本の責任として残っている。


 以上、日本の敗戦処理は米国の冷戦対策と連動して、サンフランシスコ講和条約によって緩和された内容で、米国主導で進められた。

 サンフランシスコ体制によって、日本は米軍の朝鮮戦争後方基地へと変身し、以後は米国のアジア防衛。安保の補完基地体制に組み込まれていった。その現在形が、安倍政権の準戦時国家になっている。


4.戦争責任問題の規定

 日米の戦争責任観の所在を考えるとき、その原初は、日本とドイツの戦争責任を裁いた「国際軍事裁判所条例」にあるだろう。

 米国を中心とする連合国(米英仏中)は45年8月8日、日本とドイツの戦争責任を裁く国際法規の「国際軍事裁判所条例」を制定した。

 この時、戦争犯罪の考え方を、以下の3つのカテゴリーに分類している。

 A項「平和に対する罪」
 侵略戦争または条約に違反する違法戦争の計画、準備、開始、遂行、共同謀議。

 B項「通例の戦争犯罪」
 戦争の法規、従来の国際法(1907年のハーグ陸戦法と1929年のジュネーブ条約)への違反。
 注、ハーグ陸戦法は民間人を無差別に殺してはいけないとする、国際人権・人道法。
 ジュネーブ条約は捕虜の取扱を定めたもの。

 C項「人道に対する罪」
 一般住民に対する殺りく、戦闘行為以外の大量殺りく、虐待などの非人道的行為、
 または政治的、人種的、宗教的理由とする迫害など。

 日本ではこのカテゴリーを、分類記号的にそれぞれをA級、B級、C級とした。

 ABCはあくまで分類記号であって、軽重ではない。

 ここでは、命令による行為も罰せられたこと、人道に対する罪が厳しくしていたことを、理解しておく必要があるだろう。

 日本は、戦闘行為や捕虜監視の第一線にいた下級の軍人軍属の多くが裁かれた。

 また、戦闘行為以外での一般住民の無差別殺害、集団虐殺、ジュータン爆撃、毒ガス・細菌兵器の使用、捕虜への虐待なども非人道的行為として戦争犯罪のカテゴリーに入り、重視された。これらの戦争犯罪は、米軍が朝鮮戦争で犯した犯罪と重なっている。


5.朝鮮人BC級戦犯

 旧連合国はA級戦犯28名、BC級戦犯5724名の日本人戦争犯罪者を裁いた。

 BC級戦犯5724名のうち、植民地出身の朝鮮人148名、台湾人173名が含まれていた。

 戦犯のなかに朝鮮人・台湾人が多くいたことは、第一義的には日本の植民地政策によるものではあったが、欧米人のアジア蔑視観と米国の朝鮮理解への欠如とが重なった結果であった。

 日本軍は41年12月以降、破竹の勢いでビルマ、マレーシア、フィリピン、インドネシアに侵攻し、諸戦で勝利を収めた。その結果、連合国側の捕虜数が計26万1000人以上となり、予想をはるかに超えた。

 戦線が拡大し、不足する人員を補う意味で日本は、欧米人捕虜の労働酷使とその捕虜たちの監視員を必要とした。

 42年5月、朝鮮と台湾から「俘虜収容所監視員」(軍属)の募集を開始した。

 日本軍が植民地青年たちを白人捕虜の監視員にしたのは、1戦争激化による人力不足を補填するため、2内鮮一体の実をあげ、朝鮮人を戦争に駆り立てやすくするため、3英米人捕虜を植民地人に見せつけることで、帝国の実力を現実認識させる一などの狙いがあった。

 一方、日本軍の戦犯を裁く連合国側は、1日本軍の捕虜虐待を重視したこと、2朝鮮人・台湾人を「敵国に使用された者」として、日本人として裁いたこと、3上官の命令に基づく行為も実行者の責任としたことなどから、朝鮮人・台湾人の戦犯が多く、死刑となる比率も、日本人よりも多くなった要因だと考えられる。

 朝鮮人の軍属は12万6047名、うち1万6004名が死亡・不明(12.7%)。戦犯148名、うち死刑が23名。いずれも日本人の比率よりも高いのは、日米双方による朝鮮人蔑視観が作用しあった結果であった。朝鮮人の無念を思う。

 現実的には、日本人の戦争責任者で戦犯裁判まで持ち込まれたのはほんの一部であって、その彼らの大半も52年のサンフランシスコ講和条約成立後に釈放されている。

 そのことを考えると、「朝鮮人戦犯」というレッテルを貼られた彼らは、日本の戦争の犠牲者で、犠牲者の朝鮮人側からすれば、日米両国への怨念と無念の思いは、いつまでも解けないだろう。

 彼らを日本人として裁き、52年以降は朝鮮人として放置したことは、人道上からも許せることではない。

 こうした日本政府の朝鮮人差別政策は、45年9月に南朝鮮に上陸した米軍政庁の、朝鮮統治政策と連結している。

 米軍政庁は、日本の朝鮮総督府統治方式を引継ぎ、親日派を多用して、主体性を主張する朝鮮人を弾圧していった。

 何のことはない、南朝鮮での統治主体が日本から米国に代わっただけで、日本植民地当時の政治が復活していたから、米国は北を侵攻する戦争を必然性のように準備し、朝鮮戦争への導火線を引いた。


6.朝鮮戦争での米軍

 制空権を握っていた米軍は、都市部へのジュータン爆撃を繰り返し、多くの一般住民を殺傷している。

 米軍パイロットが、北部朝鮮での目標物は何もないと、米上院の公聴会で証言するほどであった。

 さらに52年後半からは、主として発電所、ダム、貯水場、農業関連施設など、人民の日常生活に直結する施設を狙って爆撃し破壊していった。

 こうした行為は、旧連合国側が設定した最も憎むべき戦争犯罪行為で、戦闘行為以外の大量殺りくの非人道的行為に該当する。

 また、52年に入ってのナパーム弾、細菌弾、化学弾などの使用は、民間人を無差別に殺傷し後遺症を与え、自然環境を破壊するなど、重大な戦争犯罪行為に当たる。

 米軍が通過した後の地域での、一般住民への集団虐殺行為と、釜山など捕虜収容所での捕虜虐待行為こそ、自らが日本やドイツに対して戦争犯罪行為で裁き、処刑した行為そのものではないか。

 特に、12万名以上の住民を虐殺した黄海道、住民の4分の1にあたる3万5千余名を虐殺した信川郡での米軍の蛮行を考えるとき、裁かれるべきは米軍の兵士たちである。

 米軍は、住民たちを銃殺、撲殺、生き埋め、眼球をくり抜き、乳房を切り取り、舌を切り、頭や全身の皮膚をはいで殺し、唇をえぐり、斧で手足を打ち切り、身体を鋸で引き、火あぶりにし、熱湯に投げ入れ、鼻と耳に針金を通して引き回し、戦車でひき殺し、考えられないほどの残忍極まる方法で朝鮮人民たちを虐殺した。

 この米軍の犯罪は永久に記録され、記憶され、語っていく必要がある。

 現地で調査した国際民主法律家協会調査団は、報告書で米軍の蛮行を戦争犯罪とした。

 「婦人と子どもを含む朝鮮の一般住民に対するアメリカ軍の大量殺りくと個別的虐殺および獣的行為の証拠は、その犯罪の量においても、また、彼らが使用した方法の多様性においてもかつて例のないものである」(1952年3月)

 51年7月から休戦会談と新攻勢作戦を繰り返していた米軍は、勝利の見込みがないことを認めて、53年7月27日に「停戦協定」に調印した。

 停戦協定第60項は、3カ月後の政治会談開催を規定し、そこで朝鮮半島からの外国軍撤退と朝鮮半島の平和安定を協議することになっていた。


7.米軍の戦争犯罪

 停戦協定規定の実行をサボタージュしてきた米国も、国際世論に押されて54年4月、ジュネーブ会議(朝鮮、インドシナ問題)に出席した。

 停戦協定を実行するということは、米国にとっては朝鮮との講和、賠償、戦争責任問題を協議し、消化することでもあった。

 だがその前に米国は、韓国との間に「米韓相互防衛条約」を調印(53年10月1日)していて、協定違反をすでに犯していた。

 このため、ジュネーブ会議を破綻するしかなかった米国は、朝鮮側の提案にことごとくクレームを付け、停戦協定の実行を無視した。

 その後、朝鮮からの朝米平和協定協議をも無視することで、自らの戦争責任問題と協定違反の在韓米軍問題の糾弾から免れようとしている。

 米国は決して、その戦争犯罪から逃れることはできないだろう。

 朝鮮停戦協定から60余年が過ぎ去ったとはいえ、また、当時の戦争指導者たちが死去しているとはいえ、彼らの名前を歴史に記憶させ、歴史と正義の名によって裁き、近い将来に成立する朝米平和協定に備えて、彼らの名前をここに掲げておく。

 以下はAとB項の戦犯者たちである。

 トルーマン米第33代大統領(最初に米軍出動を命じた)、アイゼンハワー第34代大統領、ダレス国務長官特別顧問、マッカーサー国連軍司令官、アチソン国務長官(戦争開戦を誘導した)、ムチョー駐韓米大使(偽証罪)、ウォーカー米第8軍司令官、バンフリート米第8軍司令官(第3代)、リッジウェイ国連軍司令官(第2代)、クラーク国連軍司令官(第3代)、オドンネル米極東空軍爆撃機飛行隊司令官(細菌弾投下責任)などを列挙しておこう。

 彼らはみな死刑である。だが残念ながら60年余の時間は、全員が米本土で自然死している。しかも戦犯というレッテルを誰からも貼られることもなく、米国の政治家または高級軍人として生を全うしていることである。

 BC項戦犯者たちは、ナパーム弾、細菌弾、化学弾などの投下当事者(飛行士)、大量虐殺、無差別爆撃などを実行した者たちである。

 米国が日本人戦犯たちを裁いた項目を適用していけば、余りにも多くの米軍将兵たちが該当する。

 以上の米国人戦争責任者。犯罪者のなかに、新たにオバマ氏がそこに加わることがないためにも、今後の米国の対朝鮮政策は重要な節目を迎えている。

 それは、米国にとってという意味である。


8.オバマのジレンマ

 日米ともに朝鮮との関係で、様々に論じて問題を複雑化しているが、いずれも基本的な問題の解決には言及せず、その努力もしていない。

 日本は先の植民地・戦争問題の清算であり、米国は停戦協定の履行と朝鮮戦争の清算問題である。

 以上の諸問題が進展すれば、朝鮮半島の平和安定と繁栄は約束されている。

 そのことから南北統一問題、日朝交流と国交正常化、朝米間の正常化も、すべてがスムーズに実現していく。

 そうした基本問題を解決していく道程を阻んでいる政治力学こそ、米国の対朝鮮政策であった。

 米国は45年9月に南朝鮮に進駐して以降、朝鮮の社会主義体制を崩壊させることだけを目指してきた。

 朝鮮戦争後は経済制裁を追求し、今また脱北者や人権問題などを掲げて、反朝鮮キャンペーンを行っている。

 歴代の米国政権が実施してきた北朝鮮封じ込めと核脅迫外交は、すでにして破綻している。

 今や共和国は3回の核実験を実施し、核保有を宣言するようになった。

 それにも関わらず米国は、共和国の核保有を認めず、従来通りの制裁と圧力政策を続けている。

 オバマ政権は12年2月以来、公式の交渉には応じない「戦略的忍耐」方針を崩さずに強めている。

 その間、共和国は中距離弾道ミサイルに小型化した核を積み込める技術を手に入れた。

 さらに米本土を攻撃できる能力をもつ、大陸間弾道ミサイルの完成に向かって進んでいる。

 米国は共和国に「時間」を与えた感がある。

 そのことで焦っているのは米国だ。

 だから米国の本心は、共和国が小型化した核を保有(複数個)することと、その核を弾頭に付けて米ワシントンにまで到達する大陸間弾道ミサイルの開発と保有することを最も恐れている。それにも時間がないことを、米国は理解しておく必要がある。

 焦っているオバマ政権の今回のアジア4カ国歴訪は、必ずしも成功したとは言い切れない。

 日本も、南朝鮮も、余りにも多くの内政問題を抱えていて、米国が希望する「日韓2国軍事体制」はまだ築ける現状にはない。

 だからか、この夏にも南朝鮮一帯で、大規模な米韓合同軍事演習(自衛隊の参加を検討している)を予定している。

 すでにして数十年前から朝鮮半島周辺で実施している合同軍事演習は、「演習」という名を越えて、戦争前夜段階の実戦の様相を呈している。

 ほとんど毎月、どこかの地域で軍事演習を実施して、共和国に威嚇を与えているのは、朝米会談、平和協定会談を拒否する姿勢になっている。

 帝国主義国家、産軍体制国家としての米国は、必ず軍事的脅威国家を必要としており、そうした脅威論を作り続ける必要があった。

 東アジアにおいては、それが共和国であって、共和国の核脅威論を、米国の政治は実際以上に見せる必要性もあったのだ。それが米国政治のジレンマである。

 幻影であったものが、いつの間にか現実的な脅威感に変わっていて、そのことに脅かされている米国。

 脅かされ、焦っていて、対朝鮮政策の変更に迫られているのが、現在のオバマ政権である。

 オバマ政権が新しい選択をするための時間、その時間はそれほど残されてはいない。

                                                          2014年5月12日 記

「マーシャル諸島共和国の提訴を支持する」

「マーシャル諸島共和国の提訴を支持する」


 南太平洋の島国・マーシャル諸島共和国は、4月24日、核兵器保有9カ国を相手に、1年以内に核軍縮交渉を開始することを求める裁判を、国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)に提訴した。

 マーシャル諸島共和国は、南太平洋に浮かぶ環礁からなる国で、その連なる島々の美しさから「真珠の首飾り」とも呼ばれている。

 総面積はわずか約180平方キロメートル、人口は約5万2千人余りという小国である。

 この美しい環礁に、米国は1946年~58年間、名づけてビキニ環礁とまで呼ばれるほど、頻繁(67回)に核実験を繰り返した。

 54年には日本の漁船「第5福竜丸」が死の灰を浴び、乗組員が被爆した。また、多くの島民たちも被爆(82人、それ以上とも)していて、島は現在も放射能汚染にさらされており、米国の残酷な核政策の犠牲となっている。

 米信託統治下にあった79年5月1日、独立してマーシャル諸島共和国となった。

 そのマーシャル諸島共和国が、核拡散防止条約(NPT)に基づく軍縮交渉を、国際司法裁判所に提訴したのである。

 賠償金は求めず、国際社会の良心と責務を問う裁判であった、同国には、原告となる資格が十分にあるから、世界は、この裁判を支援し、核廃絶の世界に向けて努力していくべきだ。(本来なら日本が、もっと早い段階で、原告になるべきであった)

 すでに、イギリス、インド、パキスタンは、国際司法裁判所の裁判を受け入れる宣言をしているが、核大国の米国とロシアはともに否定的な立場をとっている。

 5年ごとに開かれるNPT再検討会議の準備委員会(4月28日から)が現在、開催されていて、国連のケイン軍縮担当上級代表は、「核兵器の大多数を保有するのは、米国とロシアだが、ウクライナ情勢を考えれば、米ロ間の核軍縮交渉で新たな合意を得るのは、極めて難しいだろう」と語っている。

 米国務省のフリート筆頭次官補代理(核・戦略政策担当)も24日、核兵器の保有・使用の即時禁止は支持できないとの、従来の米政府の立場を改めて主張した。

 米国務省の発表では、13年9月時点での保有核弾頭数は4804発で、ピーク時の1967年に比べ、85%を削減したとしている。

 それでも、核兵器保有大国である。

 ガテマラー米国務次官(軍縮管理・国際安全保障担当)は、4月29日、「米国はあらゆる種類の核兵器の追加削減について、引き続きロシアと交渉する用意がある」と発表し、米国の核削減姿勢は、ロシアの包括的核実験禁止条約(CTBT)発効が、最優先事項だとした。

 核超大国の米国はひとり、非核の実現を要求している。

 世界の声に背を向け、なおかつ、北朝鮮など反米国家には核恫喝外交を展開している。

 世界の非核化の実現は、ひとえに米国の「改悛」にかかっているようだ。

 核軍縮の進行を停滞させている米国など核保有5大国に対して、非同盟諸国からの非難の声は強くなっている。

 「核軍縮こそ、最優先。核兵器の存在が人類に与える脅威は甚大だ」(インドネシアのナタレガワ外相)「核保有国は法的義務を果たす責任がある」(マーシャル諸島共和国代表)などと、不信感を表明している。

 それは、これまでのNPT会議で、非核保有国にばかり、不拡散の義務を課そうとしてきたことからくる不信である。大国エゴ、核保有国エゴだ。

 しかし、国際会議場での非核化への主張は毎年、核実に高まってきており、核兵器禁止条約制定に向かっても動いている。

 一方の日本は、広島と長崎での被爆体験から、「唯一の被爆国」と被害者姿勢だけアピールしてきた。被爆者からの核廃絶主張が弱かった。

 それは、米国による「核の傘」政策に隠れている、日本の二重基準、あいまいな立場を反映していたろう。日本の核政策の自主性が問われている。

 NPT再検討会議準備会議に出席している広島・長崎両市長には、マーシャル諸島共和国の提訴を支持する行動をとることと、日本政府に対しては、米軍の核の傘を撤去することを、しっかりと要求してほしいものだ。

                                                            2014年5月3日 記

「カジノ導入法案に反対」

「カジノ導入法案に反対」

 超党派の「国際観光産業振興議員連盟」(最高顧問に安倍晋三首相、麻相太郎財務省ら)が、カジノを中核とした総合型リゾート施設(IR)整備推進法案の成立を目指している。

 同法案は、2020年の東京五輪・パラリンピックや、成長戦略に絡めた観光、地域振興で雇用増をはかる、複合型リゾート施設(IR)の建設だとカムフラージュしているが、基本はカジノを導入するための「ギャンブル法案」でしかない。

 どのように装ってもカジノは賭博(ギャンブル)で賭博は刑法によって禁じられている。

 すでに日本には、競馬、競輪、競艇をはじめとして、宝くじ、ロトくじ、パチンコ・スロットなどがあり、十分にギャンブル大国となっている。

 このために、ギャンブル依存症(患者)が560万人から600万人も存在していると言われている。

 彼らによる多重債務、借金による家庭崩壊、日常生活の破壊、労働意欲の低下などの現象が生じ、良質な社会維持が難しくなっている。

 そのうえに、ルーレットやカードゲームなどの巨大な賭博場、カジノが解禁されれば、日本の社会崩壊がさらに進んでいくだろう。

 人間関係ばかりか、地域産業は疲弊し、教育環境にも悪影響を与えていく。

 カジノの導入は決して良質な観光資源とはならず、まして、地域住民との共存共栄の要素とはならない。

 警察は時折、賭博法を振りかざして、小額で賭けている麻雀、ゴルフ、野球などを取り締まっている。

 カジノで賭ける金額は、それらより何十倍、何百倍も大きく、だからこそ、特別法で合法化して、国家的な賭博場を開帳するというのだろう。

 その発想源こそ、安倍流(右翼)政治の貧困さだ。

 しかも、IR議員連盟の議員たちとカジノ関連機器メーカーとのつながりや、ホテルや大型合議場建設業者とのつながりなどが、すでに聞こえてきたりしているから、政治モラルも問わねばならない。日本社会と文化を破滅に導く、カジノ産業導入には反対する。

                                                           2014年5月2日 記

「第25回『東北アジア研究会』研究会のお知らせ」

「第25回『東北アジア研究会』研究会のお知らせ」

*日時 
2014年6月7日(土)13時30分から8日(日)13時
*会場 
倉敷市「とのやま山荘」
*研究討論 
1.「下関と朝鮮」
  報告者・中室みちさん(下関チュチェ研)
2.「日米の戦争責任問題を考える」
  報告者・名田隆司(共同代表)
*参加費
 500円(夕食及び宿泊代は実費)
*参加
 会員以外の参加も自由
*連絡先
 名田隆司(TEL:089-971-0986)

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」17.休戦会談

17.休戦会談

 50年10月から11月にかけての中国人民軍の参戦で、戦況は一変した。

 その50年から51年にかけての冬、激戦のなかで「国連軍」は鴨緑江から押し戻されて12月5日には平壌を、51年1月4日にはソウルを再び放棄した後、3月14日になってソウルを奪還するという、激しい攻防戦を繰り広げていた。

 米国は、戦争中も有利な国連を活用して、そこでの「場外戦」(舞台裏)を展開し、国際社会の圧力を利用する交渉術(休戦会談)で勝利ポイントを挙げることを常としていた。

 中国軍の参戦以来、苦戦を強いられていたことと、作戦の間違いなどからマッカーサーが解任(51年4月11日)されたことで、米軍の前線司令部では戦線の建て直しを痛感し始めていた。

 51年2月1日の国連総会で、中国を侵略者だとする決議を可決させた米国は、共産主義圏への封鎖、包囲網作戦を広く展開した。

 太平洋安全保障条約を締結(51年9月1日)し、マッカーサーの後任であったリッジウェイを52年5月、北大西洋条約機構(NATO)軍の総司令官に転出させ、NATO機構の強化をはかった。

 NATOは米国を中心に、共産圏への共同防衛を目的に、49年4月結成した軍事同盟(反共同盟)である。

 そのNATOの理事会は52年12月15日、フランスのインドシナ(ベトナム)侵略戦争を支持した。(リッジウェイ就任直後に)

 ところで戦争当事者の李承晩体制が、崩壊の危機に陥っていた。

 韓国国会の内外では、李承晩派が少数であったことから、李自身が大統領に再選されない情勢となっていた。

 戦争を継続させるためには、李承晩体制が倒れたのでは米国も困る。

 そのために、大統領選出を従来の間接選挙(国会議員による)から、強引に国民による直接選挙制に変更をした。

 臨時政権を置いていた釜山一帯に「非常戒厳令」(52年5月)を敷き、8月5日の選挙(それもテロと脅迫によって)で、彼をやっと大統領とすることができた。

 米国にとって後方基地の日本の方が、もっと重要であった。

 51年9月9日の同日に調印したサンフランシスコ対日講和条約と日米安全保障条約は、日本にとってよりは、米国の戦後政策の作品であった。

 日本はすでにGHQによって、公職(戦争責任者)追放解除(51年6月)、兵器製造許可(52年3月)、破壊活動防止法公布(52年7月)、警察予備隊を「保安隊」に改組(52年7月)など、52年に入って戦争協力コースを走るようになっていた。

 戦争中の米国にとっては、安定的な日韓体制を作り上げる必要性があったのだ。

 しぶる李承晩を日本に向かわせ、日韓予備会談(51年10月)、第1次日韓会談(52年2月)、第2次日韓会談(53年4月)へと、米国のために結果を急がせた。

 一方、戦場の方は51年6月以降、基本的には38度線付近で膠着し、朝中人民軍側は陣地の坑道化作戦をとり、陣地防御戦となっていた。

 この時期の戦闘は、米軍の近代兵器(飛行機、戦車、105ミリ砲など)をもってして
も、人民軍の坑道を崩せず、消耗戦が続いていた。

 ソ連の国連代表マリクが51年6月23日、朝鮮問題の平和的解決のため、休戦会談を提唱した。

 米軍にとっても渡りに舟で、その1週間後の6月30日、人民軍側に休戦会談を申し入れた。こうして休戦会談が始まった。

 朝鮮戦争の休戦会談は都合2回、途中で米軍のボイコットと新しい戦闘が繰り広げられ、また会談を再開するといったスタイルで進行した。

 第1回会談は、会談場所でのキャッチボールから始まった。

 6月30日にリッジウェイが、会談を元山港に停泊中のデンマークの病院船で行うことを提案。これに対して金日成と彰徳懐が7月1日、北京放送で開城を提案した。

 こうして7月8日、開城で予備会談が開かれた。

 本会談を7月10日、開城の民家「来鳳荘」で、双方5人づつの代表団で行われた。

 当時の開城は、朝鮮人民軍の占領地内にあった。

 このため開城を中心に半径3マイルを中立化地帯に設定し、会談場所を確保した。

 李承晩は「われわれは統一が目的であり、今休戦することは国土の分断につながる、だから休戦会談には反対である。これが韓国の立場である」(「白善華回顧録」)として、休戦会談には反対を表明していた。

 しかし米国との関係があることから、韓国側代表(オブザーバ)を1名送り出した。

 「国連軍」側の首席代表は極東海軍司令官ジョイ中将、4人の代表は第8軍参謀副長ホッジス少将、極東空軍副司令官クレーギ少将、極東海軍参謀副長バーグ少将と韓国代表の韓国軍第一団長の白善華であった。

 人民軍側は、首席代表が総参謀副長兼副首相の南日、代表は朝鮮側を李相朝、張平山の2人。中国軍代表を副司令官の登華と政治委員の解方(シェ・ファン)の2人であった。

 双方はテーブルを挟んで、会談のテーマを設定するだけで、1週間の時間を要した。

 7月26日になってやっと、イ協議事項、ロ非武装地帯(DMZ)を設定するために双方のあいだに軍事分界線(MDL)を設定すること、ハ停戦と実行に関する具体的な協定、ホ捕虜に関する協定、へ双方の関係諸国政府に対する勧告一で決定した。

 会談はMDLの設定問題から始まった。

 米国の提案は、地上での対峙線(戦闘線)よりはるか北方の地帯、平壌を含む朝鮮の面積の20分の1(注、50年11月頃に占領していた新義州一恵山の線)までを要求した。

 それは空軍と海軍の絶対的な優位性を理由にして、軍事分界線はそのときの軍事情勢をもとに定めるべきで、同時に戦闘再発を防止するには彼我の総合的軍事力が均衡する線にするべきである、との論弁を展開した。

 一方の人民軍側は、彼らの論法に対して、ではわれわれも、わが方の敵中部隊とパルチザンは再南端の釜山一帯、済州島にまで進出して戦っているのだから、軍事境界線を釜山界線に引くべきだと反論しなければならない。

 しかし、そのような不毛な論戦より、現実的な問題として、最も近い38度線が合理的ではないかと、38度線を提案した。

 軍事的に最終的に決着がついたのだから、元の線に戻るのが合理的ではないかという意 味である。

 会談途中の8月22日夜、米軍機が開城の会談場を爆撃した。

 人民軍側は当然、抗議をして休会となってしまった。

 その原因は、38度線を休戦ラインとすることで始まった交渉を、米国が拒み戦闘準備をして北への侵攻作戦(8月18日からの「夏季および秋季攻勢」)を行ったからである。

 中・東部戦線は、標高1000メートルを超える高地が連なっており、必然的に高地戦闘となった。

 亥安(へアン)盆地では、4キロ四方の山塊を確保するのに、30日近い戦闘を行うほどの激戦が続いた。

 983高地で3000人余の死傷者を出した米軍側も、そこを「流血の峰」・(ブラッディー・リッジ)、同じく2000人余の死傷者を出した931高地を「断腸の峰」(ハートブレイク・リッジ)と呼んだ。

 米軍機が9月10日、再び開城を機銃掃射した。

 その謝罪問題をめぐることから、再会談が10月25日から、今度は板門店で行われることになった。

 それはまた、1.「国連軍」側が戦闘によって得られなかったものを、交渉によって確定しようとして(相手側に現在線から多少後退させることを説得するため)として、逆に失敗したから、2.8月22日夜、中立地区内の開城市に米軍が爆撃を加えたことで、朝鮮・中国軍の司令部を開城に置いていたため、朝鮮側が米軍の爆撃に抗議し対立していたから。

 会談時、米第1軍団は臨津江を越え、砂川(サチョン)という小流域に前哨戦を張っていた。

 開城市街まで10キロ地点にいた。

 反対側の砂川西岸の高地には、朝中軍が堅固な陣地線を構えていた。

 会談場は、両軍接触線の中間点ということで、板門店(パンムンジョム)が選ばれた。

 とはいえ当時の板門店は、藁葺きの民家が数軒あるだけの、寂しい場所であった。

 板門店という名称は、李朝時代に京義街道を往来する旅人相手の小さな茶店があり、その屋号が「板門店」であったことから、いつしかそれが地名となってしまった。

 ソウルまで約60キロ、平壌まで約200キロの地点である。

 現在の板門店会談場(停戦協定調印場)は、砂川東岸の高地にあるが、10月25日から停戦協定調印までの会談場は西岸で行われた。

 地理的には、北緯37度57分20秒、東経126度40分40秒に位置し、ほぼ北緯38度線直下になる。

 再開会談のテーマも、軍事分界線問題の再討議から始まった。

 米軍側が前回のとほうもない案をひっ込めたことで、11月5日にMDLは、現接触線で合意した。問題は、いつの時点での接触線にするかで、再び紛糾した。

 人民軍側は現在の接触線、米軍側は休戦協定に署名する時点での接触線を主張した。

 結局、米軍側が30日経過しても協定が妥結しなければ無効になるとの条件付きで、現在の接触線をMDLとして認め、11月27日に暫定的な分界線を画定することになった。

 次ぎの捕虜問題ではもっとも難航し、30日では妥結にいたらず、暫定的なMDLは無効となった。

 米軍側は、そのことを見越しての「30日」提案だったのだろう。

 51年12月18日に捕虜名簿の交換を行った。

 人民軍側は1万2000千人。

 一方の米軍側は13万2000千人だった。

 米韓軍側は、自軍の行方不明者数が10万人余になっていることを示して、この大きな

 数字の開きについてを問題視した。

 共産軍部隊では、敵軍捕虜は説得して自軍に編入することを常としていた。それは同じ労農者階級との認識があったからで、まして韓国軍兵士たちは、同じ民族の朝鮮人であったから、説得と教育を積極的に行っている。

 彼らを捕虜とは見なさず、同胞として扱っていた証拠である。

 また、中国人民軍兵士のなかには、旧国民党軍(台湾)の将兵たちも含まれていた。

 国共内戦時、国民党軍将兵たちが捕虜となった時にも、中共軍は教育と説得によって、多くを自軍に編入している。

 そのような彼らのなかに、北京や東北地方ではなく、台湾へ帰ることを希望した者たちもいたであろう。彼らには家族が台湾にいたからである。

 戦争捕虜の交換は、本来ならそれぞれの人数に関係なく、そのまま出身国に帰国させるための交換であった。

 朝鮮戦争の場合、内戦であったからこそ、本人が希望するそれぞれの出身地に送り返す、といった意味の方が強かったはずなのだが、米軍の主張する「自由送還」の意図はまた別のところにあった。

 朝中人民軍の捕虜たちが平壌や北京には帰らず、他の地域を選択し、その人数が多くいることをもって、彼らが変心して自由主義社会にあこがれた結果だとの、反共宣伝に利用することが真の目的であったためである。

 人民軍兵士のなかに、元韓国軍兵や国民党軍兵が多数いることを知っていての、その彼らを利用する作戦であった。

 だから、北に帰ることを希望する収容所内の捕虜たちには自由送還を強要し、そのための「嘆願書」まで無理やりに書かせることをやっていた。

 それでも屈しない捕虜たちには、集団虐殺など残忍な暴行を密かに行っていた。

 巨済島(コジェンド)収容所での52年2月と5月の集団虐殺が、その代表的な実例であった。

 戦時中の南朝鮮内の捕虜収容所は、数万人を収容する大きなものは釜山、済州島、光州、論山(ノンサン)などで、数千人以下のものは馬山、永川(ヨンチョン)、富平(プピョン)、大郎などにあった。

 巨済島収容所は釜山に次いで大きく、朝中人民軍の捕虜たちが数万人収容されていた。

 その第62号捕虜収容所内での残忍な犯罪を伝える捕虜たちの手紙が、厳しい警戒網をくぐって共和国に伝達された。

 「わたしたちはこのアピールを血でしたためました。昼となく夜となくわれわれの同僚が殺されない日は一日もありません。5月18日には第76号収容所で13名の同僚が、大勢の目の前で四つ裂きにされて殺されました。

 同日、第77号収容所では3つの区域で米軍が、捕虜にたいし催涙ガスを使った結果、24名のわれわれの同僚が死に、46名は失明しました。

 5月19日、第66号収容所でアメリカ人どもは、北朝鮮に行くことを望む捕虜は全員、夕方7時まで乗船準備をすませバラックに整列して待機しろと発表しました。

 われわれが整列していると機関銃、火炎放射器を発射し、戦車まで繰り出して、127名のわれわれの同僚を殺し、多数を負傷させました。

 次ぎの2日間、即ち5月20日と21日には、収容所の4つの区域から1000名以上の同僚が米軍警備詰所と収容所の長のいる建物に引かれていって、いわゆる「自由送還」についての査問を受けましたが、422名は今なお帰らず、100名余りが胸部を刃物で切られたり、背や、腕、胸に焼きごてで恥ずべき烙印を押され、腕を縛られたまま血まみれになって帰ってきました。
 
 …22日と23日、米軍警備兵は第60号、第73号収容所で流血的な虐殺をなお行っていました。

 機関銃と手榴弾で88名が殺され、39名が傷を負わされました。…」(1952年5月23日、手紙には6223名の署名があった。「現代朝鮮史」平壌刊)

 果ては、細菌兵器、化学戦を実行する前に、その実験対象として実弾射撃の標的、兵器性能検査の対象にして虐殺されたとの報告もあって、731部隊の石井四郎と同じ犯罪を犯していたことを伝えている。

 捕虜送還問題は52年4月、インドを立ち会い国として、帰国するか否かを公開審査することになった。その結果、祖国(北)への帰国を希望した者は7万人であった。

 では他の6万2000人余は、米韓側が発表する平壌や北京への帰国を拒否して、自由主義へと変心した捕虜たちであったのだろうか。

 そのことに関連して、李承晩体制が実行した2つの不可思議な事実を挙げておく。

 一つは、51年7月以降から韓国軍内では、捕虜獲得作戦が盛んに行われていたという。

 各師団にノルマまで課して、捕虜一人につき100万ウォンの賞金まで出していた。

 捕虜を獲得するのにノルマまで課していたというのは、敵の戦闘行為を削減させる目的以外に、別の基本的な戦略が含まれていたと思われる。しかも戦場は、南朝鮮地域内でも長く激戦が行われていた。

 このことから、南朝鮮地域内で捕虜として捕獲した人々のなかには、非戦闘員でかつ現地(南の住民)の人々が、相当含まれていた可能性がある。

 米韓軍側が提出した捕虜名簿の13万2000名のなかに、元々は南で一般犯罪者として収容されていた人達が多く含まれていたのではないかと考えざるを得ない。

 もう一つは、「反共捕虜」問題であった。

 捕虜交換問題は、中立国委員会とインド赤十字が、本人たちの意思を確認することで、53年6月8日に妥結した。

 審査後、帰国を希望する者はそのまま巨済島に、望まない者は(彼らを反共捕虜と呼んでいた)は別の捕虜収容所に移された。

 6月17日から18日の夜間にかけて、「反共捕虜」たちが入っていた収容所を警備していた韓国軍兵士たちが、一斉に任務を放棄し、捕虜たち(約2万7000余人)が脱走した。

 この大脱走劇(解放)を指示したのは李承晩自身で、米軍との事前協議はなかった。

 解放された捕虜たちのなかに、中国兵(台湾への帰国希望者)が一人も含まれていなかったから、休戦会談をすすめる米国に対する李承晩の抵抗ではなく、彼らの存在(南の一般住民を戦争捕虜としていたこと)を隠すためだったと思われる。

 米韓側はこの問題を秘密裏に処理し、表面化させずに休戦会談に臨んだ。

 米国が主張する捕虜の「自由意思の送還」とは、表現上は正当性があるように聞こえるけれども、その真の意図は、南朝鮮地域に故郷を有する捕虜が多く居ることを知っていたが故に、「北に帰らない捕虜」が多く居ることを演出し、自由主義世界の有利さを世界に知らせることを狙ったものである。

 敵側にイデオロギー的な敗北と屈辱を与えるための、米国的宣伝戦の一つであった。

 一方で北の主張は、1949年のジュネーブ協定第128条で規定している、戦闘行為終結後は直ちに捕虜は解放、送還されなければならないとするものであった。

 捕虜送還問題をめぐっては結局、米軍の主張が通る53年7月まで引き伸ばされた。

 こうして捕虜送還問題が難航して、何も決まらないまま52年10月8日、再び中断してしまった。

 米軍は会談を有利にすすめるために、会談と会談の間に、新たな軍事作戦を仕掛けている。

 51年8月11日から11月初旬の「夏季および秋季攻勢」、52年10月14日から11月中旬の「秋期攻勢」、そして52年12月から53年1月初旬の「新攻勢」である。

 この前後、世界の平和愛好団体が朝鮮戦争の即時停止を決議し、平和圧力を掛けている。

 東京での「世界仏教徒会議」(52年9月25日)、北京での「アジア太平洋地域平和会議」(52年10月2日)、オーストラリアでの「世界平和大会」(52年12月12日)、さらにアジア・アラブ12カ国が朝鮮には派兵しないとの声明(53年2月17日)を出している。

 平和を求める世界世論を無視した米軍は逆に、その爆撃の度は激烈となった。

 開戦後3カ月の1950年9月までには、すでに97000トンの爆弾と780万ガロンのナパーム弾を投下している。

 当初の爆撃は軍事施設に限っていたが、戦争の後半からは民間施設や一般住民など、主として戦線の後方地域を狙っている。

 米陸軍のエネット・オドンネル少将(極東空軍爆撃司令官)は、米上院公聴会(51年6月)で、上院議員の北朝鮮爆撃の様子の質問に、「…破壊は完璧なものです。建物とかいう名に値するものは何一つ残っておりません。だから中国軍がやってくるまで、航空機は飛びませんでした。朝鮮に爆撃の標的がもうなかったからです」と答えている。

 米軍は52年6月からは、新たな標的を狙って爆撃を開始している。

 500機からなる爆撃機で、鴨緑江にある水豊(スプーン)水力発電所から始めた爆撃は、続いて5カ所の発電所を破壊し、北朝鮮全土に送電していた電力供給が停止されると同時に、中国への送電までが一部停止する状態となった。

 また、攻撃の標的(高い建物、施設)がほとんど残されていない平壌をはじめ都市部に、改めて異常な激しさで爆撃を再開(52年7月、8月頃)している。

 8月29日、20機もの爆撃機が平壌に697トンもの爆弾と、1万リットルのナパーム弾を投下した。

 米軍パイロットは「動くものは何も見えなかった」とし、「62000発の爆薬を使って、低空掃射を行った」と報告している。

 米軍の空からの爆撃のピークは、停戦協定間近の53年5月に行っている。

 その目的は、灌漑用のダムで、大きなダム20ヵ所のうち5か所が破壊された。

 建造物、農作物、運河などが奔流に飲み込まれてしまい、戦後復興建設にも大きな障害となった。

 米軍の爆撃目的が、人民たちに飢餓をもたらし、それによってその政権を屈服させようとしていたのだ。(5月の爆撃は、農作業を破壊するのに一番適していた)

 発電所を破壊し、堤防や貯水池を決壊させ、多くの民間人の生命を奪ったばかりか、その後の食糧生産にも多大な打撃を与えたことは、戦争犯罪だと言えよう。

 中国は何度も警告を発したけれど、米国はそれを聞き入れなかった。

 50年の9月24日と27日、米軍機および米艦船が中国領土を侵犯したとして、国連事務総長宛てに抗議電報を送っている。国連はこれを無視して逆に中国を侵略者だと決め付けてしまった。

 これは「国連」の戦争だとの名分をかざした米国は、朝鮮・中国の共産主義勢力を一掃するための「正義」の騎手気取りで、同盟国を動かし、軍事的な勝利がなくなった後も、休戦交渉と宣伝戦での勝利を目指していた。

 しかし、ソ連のスターリンが53年3月5日に死去したことは中朝両国に与えた衝撃は大きかったようである。

 スターリンの死は、金日成と毛沢東にも大きな影響を与えたことであろう。

 朝中とも「ソ連中心主義」には反発してはいたが、スターリンは社会主義国の絶対的な支柱には違いなかった。

 社会主義陣営のためにも、朝鮮の戦場で必ず勝利し、米帝国主義を葬り去ることを決心した朝中人民軍は、5月13日から3次にわたる打撃戦(5月打撃戦)を用意し、休戦会談での主導権を握る作戦を展開した。

 53年4月26日から始まった第2回休戦会談では結局、軍事境界線問題も捕虜送還問題も、人民軍側の主張に沿って、7月27日の停戦協定締結までにこぎつけた。

 いずれの戦争も同じで、始めるよりは勝利の印象を持って休戦会談を終えることの方が重要であったろう。

 会談を提起し申し入れる、協議する、協議のテーマとすすめ方、どこで折り合うのか、そのタイミングなど、両者とも難しい駆け引きがあり、しかも朝鮮戦争の場合は、断続的に継続していたなかでの駆け引きであった。

 この戦争がもたらした結果は、朝鮮半島は依然として分断されたままで、38度線は強固な軍事分断線となり、朝鮮民族の統一への願望はなお強く存在するようになった。

 こうして朝鮮人民の反米意識は、ますます強くなっていった。

 多くの人民を殺傷したうえに、爆撃でもってダム、貯水池、水力発電所など人民生活の基本ベースを破壊し、一般市民のうえにナパーム弾と細菌弾の雨を降らせ、それらの諸業をも北の仕業、または北のデマゴーグだと押しつけてきた米国と参戦国の責任は、歴史上から永久に回避できるものではない。

 さらに、朝鮮戦争に対する日本および日本人の責任問題も、重く受け止めなければならない。

 日本は、米軍の後方基地となっただけではなく、一部旧軍の軍人たちが戦場に立ち、戦争の後半では各種弾丸を製造し、戦線に届けて朝鮮人を間接的に殺傷し、また左派在日朝鮮人を弾圧して、米国の戦争政策を全面的に助けている。

 否、共に戦ったと言った方がよいだろう。

 こうしたことの反省もなく、朝鮮への謝罪もなく、米軍主導の第2次朝鮮戦争戦略に積極的に加担する姿勢を示している、第2次安倍政権を糾弾していく必要があるだろう。

 なお、日本語の「休戦」と「停戦」は、ほぼ同じ意味で使用している。

 即ち、交戦中の双方が、相談した上で互いに戦闘行為を中止することを意味している。

 そのことに間違いはないのだが、表現上の微妙なニュアンスの違いと、それを使用する側の政治的立場の違いは、明確にある。

 朝鮮戦争の場合、西側世界では主として「休戦」「休戦会談」「休戦協定」との表現を用いているが、そこには米国の朝鮮半島戦略が反映されている。

 彼らが用いる「休戦」表現には、「一定の期間に限って戦闘行為を中止する」との意味合いで使用している。

 であるから、米国は国際社会の常識となっている次ぎの段階、講和条約から平和協定への転換への協議には、今日まで一切応じていない。

 そればかりか、第2次朝鮮戦争を促す「挑発」を、「相手の意志」「相手の行為」にするための様々な行為を繰り返している。

 そのような米国にとっては、「停戦会談」「停戦協定」との表現は都合が悪かった。

 「停戦」表現には、単に戦闘を中止することだけではなく、その次に続く平和協定、講和協定の締結が予定されていた。

 現実に、朝鮮停戦協定第60項で、軍人会談より一級上の政治会談で、双方は講和条約を結ぶことが規定されている。米国はそれを拒否している。

 だから「休戦」と「停戦」の意味は、単純な表現上のことではなく、政治的な問題なのである。

 そのたるこの原稿でも、戦闘行為の中止協議を「休戦会談」、協定を結んだことを「停戦協定」として、表現を分けた。

 米国としては、一時的な戦闘行為の中止だけを目指していたのかも知れないが、「停戦協定」の精神には平和への転換目的が予定されていたことを忘れてはならない。

 国際社会では、戦争に負けた国が、戦勝国や被害者および被害国に賠償を支払うことになっている。敗戦国は巨額な賠償金を必要とした。

 では、朝鮮戦争の場合はどうか。

 停戦協定に調印した米軍司令官は、勝利なき戦争に調印した屈辱的な将軍だと、自らを語っている。勝利したのではないが、さりとて敗北も認めたくはないことを、言下に語っている。

 米国が敗戦国だったと認めた場合、巨額の賠償金を支払う必要性がでてくる。

 だから、一時的な戦闘の中断で、「休戦」的表現にこだわらざるを得なかったのだ。

 一方の朝鮮側はどうか。朝鮮側は「祖国解放戦争勝利」だとしている。

 つまり、敗戦ではなく勝利だったとしているのだ。

 だから、米軍と継続会談を行ってきた戦闘中止のための「休戦会談」を、協定調印時には「停戦協定」へと格上げし、その後の政治会談から講和協議、平和協定を予定した内容に仕上げていた。

 政治会談で賠償金を要求するかどうかについては、これまでそうした要求はしてこなかった。その点で米国側に対して、平和協定への転換障害を取り除いたと言えるだろう。

「靖国神社の政治利用は止めよ」

「靖国神社の政治利用は止めよ」

 
 靖国神社の春季例大祭が4月21日から始まった。

 新藤義孝総務相が12日に、古屋圭司国家公安委員長が20日に、安倍政権の2閣僚がそれぞれ参拝した。

 当の安倍晋三首相本人は21日、「内閣総理大臣、安倍晋三」名の真榊(まさかき)を奉納した。

 そのことで参拝を見送ったと、内外の批判をかわそうとしているようだ。

 真榊とは、椿科の常緑小高木のサカキで、その枝葉に三種の神器(剣、鏡、勾玉)と5色の絹布をつるしたものである。

 それを神への供物(おみやげ)として、神殿に奉納するのだが、本人が持参しない場合は、代参に当たる。つまり、真榊の奉納は、神社に参拝したことと同じ行為なのである。

 それを、真榊の奉納だけだから、靖国神社への参拝を回避したとの説明は、日本人的詭弁にしか過ぎない。

 やはり、超党派の「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」も22日、与野党国会議員147人が集団で参拝した。

 100人を超える集団参拝は、昨年の168と今年だけで、ともに安倍政権時である。

 しかもその中に、政府側の副大臣、補佐官が多く参加していて、まるで安倍政権の「代参」をしているようで、それだけでも政権のナショナリズム的性格が表現されている。

 参拝者たちは、「いろいろ言われる筋合いではない。平和を祈念するのは当たり前の行為だ」(衛藤晟一首相補佐官)、「私的参拝が米大統領来日と直接関係すると考えない」(新藤義孝総務相)などと、私的参拝、国家に殉じた魂への尊崇だと、いつも判で押したようにうそぶいている。

 靖国神社とは何なのか。

 明治政権が1869年に招魂社として創建し、79年に靖国神社と改称した。

 靖国の意味は国を安らかに治めることで、幕末の「国事殉難者」と戊辰戦争の官軍側の死者から始まり、明治以降の戦没者を護国の「英霊」として合祀することになった施設(神社)。

 戦前は、天皇崇拝と軍国主義普及の中核的施設として、国民教育上大いに利用してきた。

 戦後は、単立宗教法人として存続したが、60年代以降、神社側と戦没者遺族会、さらに右派勢力側が、靖国神社の国家護持(戦前回帰)を要求する動きが強まっていった。

 そうした動きに従って、政治家や地方自治体関係者の参拝行動が増え、玉串料などの公費支出が問題化した。

 靖国神社参拝が政治問題化するのは、A級戦犯が合祀された事実が判明してからである。

 東京裁判で死刑の判決を受けたA級戦犯たちは、侵略戦争の責任者として裁かれ、処刑された。

 その彼らを祭神にした靖国神社は、それ以前の神社とは性格を異にする。

 つまりは、日本の侵略戦争を肯定する施設へと変化したのである。

 その施設に、国家の政治指導者たちが参拝することは、過去の侵略戦争を反省せず、新しい戦争準備を「祭神」たちに誓っている姿勢になっている。

 特に、日本に侵略されたアジア各国には、現在の靖国神社は侵略の象徴に見えてしまうのだ。

 「歴史に対する誤った態度を反映している」(中国)、「時代錯誤的な行為で、嘆かわしい」(韓国)と、彼らの抗議と批判は、強くなるのは当然である。

 靖国神社参拝者たちが必ず言い訳する、「個人の信仰の問題」「国家のために犠牲となられた」などとの発言は、A級戦犯合祀以前であれば、いいだろう。

 神社側は、祭神は分離できないと言っている。

 古代からの神社神道史では、時の政治権力者によって、祭神の離合集散もあり、神社の盛衰はいくらでも記録されている。

 ひとり靖国神社だけを例外扱いにすることが、そこに政治力が働いているからであろう。

 侵略戦争の指導者たちを祭神にし、政治家たちが、尊崇行為を繰り返している行為は、どう考えてみても「不戦の誓い」や「平和の誓い」をしていることなどと言うことは、世界や日本国内では通用しない。

 どうしても靖国神社に参拝したいのなら、A級戦犯の合祀を外してからにしろ!

                                          2014年4月23日 記
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愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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