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「米国の危険な対北朝鮮政策の変化」

「米国の危険な対北朝鮮政策の変化」


1.「2頭のドラゴン」軍事演習

 国連安全保障理事会(安保理)は、3月27日、非公開の緊急会合を開き、朝鮮民主主義人民共和国(共和国)が中距離弾道ミサイルを発射したことは、安保理決議に違反しているとして、非難する報道向け談話を発表した。

 緊急会合は米国と非常任理事国の韓国(南朝鮮)の要請で開催した。

 報道向け談話は公式文書としては扱わず「安保理メンバーは適切な対応を取ることで合意」したもの。

 日米韓は明確な決議違反としているが、中国とロシアは制裁反対の立場である。

 朝鮮半島をはさんで、米中は対立している。

 その同じ27日、米韓合同軍事演習「2頭のドラゴン」を、韓国南東部の浦項で実施していた。

 同演習は、毎年実施している「フォール・イーグル」に、昨年から特殊部隊による上陸作戦の実戦型演習として追加したものである。

 この特殊訓練の内容は、軍部隊が共和国内に侵入して、その内部に反政府武装勢力を組織することを目的としている。

 今年は約1万3千人が参加しており、これは93年まで実施してきた米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」以来の大規模な上陸演習であったという。

 米韓は、共和国への攻撃(合同軍事演習)に、水陸双方からの攻撃を準備していたことになる。

 しかもこの特殊作戦は、通常の実戦型演習をはるかに超えていて、侵攻内部に組織準備していた反政府武装勢力を連動し、一気に政権中枢部を攻撃し壊滅させる作戦となっており、従来に比べて危険度が増していることが分かる。

 内部の反政府勢力と呼応し、侵略軍を出動させるといったパターンは、直近でもリビア、シリア、ウクライナなどで用いている米国の、帝国主義的手法である。

 「2頭のドラゴン」演習は、4月7日に終了したが、その間、共和国はミサイルを発射して、一連の米韓合同軍事演習に対する防御演習を実施した。

 潘基文(バン・ギムン)国連事務総長は、度を越している米韓合同軍事演習には何も語らず、共和国の防御型演習のミサイル発射にだけ懸念を表現した。

 国連事務総長という位置は、国際紛争、国際的問題に公正なジャッジを下す役割があった。

 しかも彼は朝鮮人である。

 いま朝鮮半島内で繰り広げられている「準戦時」状態へのジャッジを共和国の防御型軍事訓練に対して、一方的で偏った警告を発した。

 その一方で、共和国侵攻を目的とした米韓合同軍事演習には黙して、容認している。

 
2.スパイ浸透作戦

 最近、共和国側から「反共和国敵対行為」(スパイ)をはたらいた者たちの摘発、追放発表が相次いでいる。

 13年10月に逮捕された金楨郁氏(韓国宣教師)、13年12月に平壌で病気入院中に記者会見した裵峻皓氏(在米韓国人)、14年3月に追放されたジョン・アレクサンダー・ショート氏(オーストラリア、宣教師)などである。

 彼らは、南朝鮮の国情院、もしくは米CIAから資金と情報提供を受け、観光客を装って平壌に入り、キリスト教関連のパンフレットを、人の集まる場所に置く行為をしていた。

 金楨郁氏の場合は、はっきりと米軍の特殊部隊の作戦と連動したものとなっていて、中国東北地方で知り合った女性を手懐け、地下教会をつくり、キリスト教関連本を配布し、民主主義的内容の文化説話などを通じて仲間を増やす準備をしていたという。

 彼らの究極的な目的は、反政府組織の核となる人物の育成にあった。

 米CIAやキリスト教関係者は、90年代中頃から、中国東北地方一帯で、地下教会活動を盛んに行っていた。(地下教会は中国政府も取り締まった)

 そこでの活動から、ある者たちには「脱北」を、別の者たちには資金、パンフ、ポルノまがいの印刷物を渡し、共和国内の「活動」を援助していた。

 そこからの成果が予期したほどのものではなく、警戒が厳しくなったためもあって、方向転換をした。

 観光客に仕立てたスパイたちを、平壌に送り込む作戦に切り替えたのだ。

 その時期が、米韓合同軍事演習「2頭のドラゴン」が実施される時と符合している。


3.人権圧力外交

 米国は最近、対共和国への圧力道具の一つに、人権政策を多用している。

 3月にジュネーブで開催された国連人権理事会第25回会議で、米国と日本が主導してきた朝鮮人権調査委員会の「朝鮮人権報告書」を発表した。

 米国は同報告書に、政治犯収容、脱北者とともに、拉致被害者問題を取り上げさせた。

 米国にとっての拉致問題は、最近になって、解決すべきテーマではなく、共和国の国際的なイメージを傷つけるために必要とする重要な政治テーマとなった。

 4月の日朝局長級協議のテーマに、拉致問題解決が取り上げられていたことでさえ、微妙な時期での拉致問題解決先行は、バランスを崩す危険性があると、米国は安倍政権にクレームをつけている。

 被害者家族会の役員たちが、ジュネーブやニューヨークに行って、解決のために「北朝鮮への圧力を」と国際会議の場で発言しているけれど、それは結局、米国の対共和国圧力政策(人権)の後押しをしていることと同じになっている。

 彼らに早くそのことに気付いてもらいたいと、歯がゆい思いでいる。

 米国は「北朝鮮の人権を改善する」ことだと、聞こえのよい言葉を使ってはいるけれど、その根本は、米国式の政治価値観、理念、文化を注入することであって、それは政権転覆と同義語である。

 米国が反共和国活動を行っている団体や個人に、毎年数千万ドルを予算し支出しているのは、共和国での反政府デモ、軍事クーデター、親米政権の樹立を計画しているからである。

 このように合法的な主権国家を転覆させることをプログラム化している米政権こそ、世界で最も人権を無視している権力機関だと言えるだろう。

 その人権無感覚な米国が、共和国の社会主義体制を崩壊させるための様々な作戦を、朝鮮半島内外で日常的に実施していることを告発する。

 オバマ米政権の対朝鮮戦略は、すでに危険な一線を超えていることを知るべきだ。


                                          2014年4月17日 記
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「老前整理などするな」

「老前整理などするな」


 最近、新聞や雑誌などで「老前整理」「身辺整理」といった表現をよく目にする。

 持ち物などの整理を十分にして、死出の旅に備えようということであろう。

 確かに齢を重ねれば重ねるほど、様々なものが溜まり、それらを十分に活用もせず放置したままで、やがて忘れ去っていくものばかりだから、整理は必要であろう。

 とはいえ私は、整理整頓が苦手である。

 現役時代(新聞社)の私のデスク上はいつでも、三方が各種資料や書籍を積み上げた山をなしていた。

 どうかすると崩れることがあったりして、原稿用紙を広げる分だけのスペースを空けただけで、原稿を書いていた。

 律儀な上司たちが来ると、彼らは「いい原稿は整理された机の上でこそ書ける」などと、それらしいことを言うが、馬耳東風であった。

 定年後の現在、朝鮮問題研究家として、講演や執筆活動が続いているから、必然的に関係資料や書籍などが身辺に溜まっていく。

 今では、ほとんど読みもしない書籍、新聞の切り抜き、各種資料類などが相当あって、部屋を3つ分も占領してしまっている。

 以前は、書斎として使っていた部屋の机の周りも「紙ごみ」類が積み上がっていて、使用できなくなってしまっている。

 それでリビングに大きなテーブルを入れて、そこで原稿を書くようになった。

 執筆中は関連資料や書籍がどうしても積み上がってしまい、書くスペースも現役時代とまったく同じ状態になってしまっている。

 部屋のことと、このテーブル上のことは時折、同居彼女(妻)からクレームを受ける。

 彼女のクレームはもっともなことと理解し、時にはテーブル上のものを除けはするのだが、しょせんは別の空間に移動させるだけであるから、日を経たずして、テーブル上は元の姿になっている。

 それはまた、執筆活動に入った時なのである。

 私は常にテーマの違う原稿を2、3本、同時進行で執筆している。だから、様々な資料が乱雑に積み上がる。

 このような状態のことは多分、他者には理解できないだろうが、それは私自身なのだ。

 各種取材ノート、それに関連する資料類などは、私の生きてきた証であり、私の分身でもあるから、捨て去り、整理することはできない。

 私の死後(痴呆以後も)、これらは全くのごみでしかなく、焼却されてしまうだろうが、それまでは私と共に生かしておきたい。

 私は地域活動の一つで、高齢者たちをサポートするボランティア活動をしている。

 その彼らから、人に迷惑をかけないよう自分の後始末をしなければと、祈りに似たような言葉をよく聞くことがある。

 そんな彼らに対して、迷惑をかけてもいい、今日を精一杯、納得して生きることを考えようと、私は話すことにしている。

 自分の身の後始末も、身辺整理も、衣類を含む持ち物の整理も、ごみ屋敷なほどに溜まっていなければ、そのままでいいじゃないか。

 後の整理のことなど、誰かがやってくれるのだ。後始末などは誰かがやってくれるのだ。

いまを懸命に生き、努力していくのは、自分しかいない。その結果、不要物が溜まっていくのは仕方がない。

 それが迷惑と言われるなら、迷惑など何ほどのことでもないと考えよう。

 そんな彼らを受け入れていく社会を作っていくために、できるだけ社会的弱者たちの声の側に立って、私は生き、活動してきたつもりである。

 老前整理を言う人たちは、効率を旨とする資本主義社会理論の延長上を主張しているにしか過ぎない。

 老前整理など、とんでもないことだ。

 無駄、無理、無用、無策、無益、迷惑、それも人生だと理解しよう!


                                          2014年4月17日 記

「危険なTPP」

「危険なTPP」


1.
 日米両政府は4月9日、10日の両日、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の打開に向け、甘利明TPP担当相とフロマン米通商代表部代表による閣僚会議を東京で開いた。

 日本は農産物のコメ、牛肉、豚肉、乳製品、砂糖の5両目を関税維持の重要項目と位置づけ、特別扱いとすることを主張している。

 一方の米国は、すべての関税の原則撤廃への強硬姿勢を崩してはいない。

 会談は昼食をはさんで、2日間で18時間余り、それでも合意点に達しなかったと、報道していた。

 安倍政権はTPPの決着を目指していて、やや前のめりな姿勢が見られる。

 しかもこれまで、国内でのまともな議論もなく、交渉内容も公表してこなかったため、全体像が全く見えないという不満が、関係者にもある。

 TPPを、日本や米国、オーストラリアなど12カ国が貿易や投資の自由化を進める協定で、主として関税撤廃や知的財産などの分野別に協議をすすめる、新貿易協定であるかのように理解している向きがある。

 だがこれは、関税撤廃をめぐる「戦争」なのだ。

 単純な経済問題ではなく、それ以降の国家運営に重大な影響を及ぼしていく、政治問題である。

 政治問題とはつまり、TPPの成立を仕掛けている米国側からすれば、軍隊を用いた古い帝国主義スタイルではなく、協議で関税の防波堤を撤廃させて、資本進出の突破口を作り、そこからあらゆるものを略奪していく現代帝国主義システムなのである。


2.
 帝国主義とは一般に、国家の膨張主義を意味している。

 歴史学的には、19世紀末より資本主義の独占段階への移行を基礎とした、レーニンの「帝国主義論」に拠る。

 国家利益と結び付いた資本はやがて、政治的発言力を強化し、植民地支配を国家政策の中心にすえた資本主義国家をつれて資本市場(植民地支配)の拡大に奔走していく。

 その相互衝突が戦争で、戦争の危機が常に存在していたのが、帝国主義時代である。

 戦争、侵略、民族運動の抑圧などを常の姿としていた帝国主義国家群は、第1次、第2次世界大戦を引き起こした。

 戦後は、社会主義国の拡大と植民地独立運動が進み、縮小されていく資本主義圏の中で、米国が圧倒的な力をもつようになった。

 こうして、戦後の帝国主義体制は米国中心、米国一強システムのなかで進み、米帝が社会主義と民族運動、非キリスト教勢力から、資本主義圏を守る(国際警察の役割)ため、各地での局地戦を繰り広げてきた。

 しかし、近年、中国や新興国が進出し、米一国体制が維持できなくなった。

 さりとて米国も、以前の力量もなく、すぐに軍隊を送ることもできず、創設したのが自由貿易圏である。

 その中で、他国の金融関係、サービス部門、知的財産分野まで合法的に取り込める、戦略展開を進めようとしている。

 米国にとっては、自由貿易圏の設定は、自国軍隊を送りこむことと同一であって、関税という防波堤を撤廃する協定を結んだ国とは、新植民地国の関係に移行していく。これがTPPの本質である。


3.
 米国はTPPの成立によって、全世界の国内総生産(GDP)の40%を占める膨大な自由貿易圏をつくろうとしている。

 これは、国家間の自由貿易、経済取引というよりは、米国の世界戦略の根幹をなすもので、現帝国主義の「侵略軍」と同じである。

 そしてまたそれは、対中国への「戦争」でもあった。

 TPPは、工業製品、農産物、サービス取引、訴訟の裁定、知的財産、金融と投資、公共事業の契約、競争政策など、幅広い領域をカバーしている。

 かつ、国家の公共利益より私企業の営利活動を主体としているため、非常に危険なものを含んでいる。

 2012年の米大統領選でオバマ氏は、TPPによって米国の影響力を従来通りに保持し、それを対中国の戦略的な道具とすることを表明していた。

 現実は、2000年からの8年間で、中国の貿易量は約4倍に増加しており、2008年頃からは、世界貿易のリーダーの地位を、中国が急追し、やがて占めるようになった。

 国際取引通貨が、米ドルから中国人民元に移行するかもしれない現象となっている。

 そうした危機からの脱出策として、米国は中国を排除もしくは参入困難な巨大な自由貿易圏を設定して、中国への「軍事基地」を築こうとしている。

 100年近く続いた世界貿易のリーダーの地位を失いたくない米国は、TPP以外にも米州自由貿易協定(FTAA、南米地域)、EUとの自由貿易協定(FTA)、ブラジル、インド、ロシア、南アフリカなどとの自由貿易圏も構想している。

 TPPを含む米国構想の自由貿易圏は、非常に危険なものを内包している。

 知的財産制度は、国境を越えて施行される司法制度(米国)が導入されるため、個人の権利と表現の自由問題を踏みにじっていくだろう。

 労働市場では、低賃金の外国人労働者の導入が助長され、さらに非正規労働者が増加して給与は減少し、労働環境は不安定となり、社会保障制度が崩壊し、失業者が増大していくだろう。

 また、各種規制が撤廃されてゆき、環境保全、食品の安全、公衆衛生が無視され、安全・安定した日常生活は破壊されていくだろう。それ以上にTPPがもつ本質的な危険性は、人権よりも投資(資本)の保護にある。

 これは、国が公共利益のために、私企業の営利活動を妨害したとの理由で、企業から告発される可能性を言う。

 先の知的財産権問題も含めて、国家主権、政府、地方自治体、公的機関など、国民や市民を守る活動よりは、営利企業の利益追求権が上位者となる世界が、出現することになるからである。

                                          2014年4月11日 記

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」16.戦線の推移

16.戦線の推移

 3年1カ月間の朝鮮戦争の戦線の推移を考えるとき、およそ4段階に分けられるだろう。

 朝鮮戦争はそもそも、南北の民族紛争。内戦であったものが、米軍、次いで「国連軍」(15カ国の軍隊)、中国人民志願軍(義勇軍)などの参戦があり、戦争の意味も途中から違ってきた。

 従って戦線は、朝鮮半島を二度もローリングし移動して、元の38度線上での膠着状態の末、停戦協定が成立して、一応の戦火が止むことになった。

 戦闘が中断したとはいえ、朝鮮戦争そのものは「終戦」となったのではなく、現在もまだ米朝間の「冷戦」状況は続いているという、長くて特異な戦争である。

 その3年1カ月間の熱戦時の、戦線が推移していく様を簡単にみていこう。

 1 一般に戦争勃発を50年6月25日未明としているが、研究者たちの間では、それを疑問としている。

 何故なら、38度線一帯においては49年頃からほとんど毎日、戦線西部、中部、東部のどの地域とも、南北双方の部隊が越境しての紛争(小さな戦争)が続いていたからである。

 50年に入って以降は、その「小さな戦争」はますますエスカレートしていて、どの時点でのどの紛争でも戦争への発火点と成り得た様相があったからである。

 しかも南朝鮮の地域では、各地で遊撃戦が激しく戦われていたから、その南のパルチザンたちと、北の人民軍兵士たちとは、「朝鮮統一」戦線では一つに繋がっていたとも言えた実体があったからである。

 朝鮮戦争が内戦であったとされる所以である。

 ところが6月27日、トルーマン米大統領が朝鮮のその内政に、武力干渉することを広言し、米海空軍の参戦を発動した。

 米国のこの参戦で、朝鮮戦争の意味と様相が一変した瞬間であった。

 米軍が朝鮮に再侵略してきたのだ。

 さらにトルーマンは6月30日、米陸軍の出動をも命令して、全面的に参戦した。

 米軍第24師団の先遣隊は7月5日、烏州(オサン)付近で撃滅されていた。

 7月7日には、マッカーサーを司令官とする「国連軍」の編成を命じている。

 一方、T34型戦車(ソ連制)部隊を先頭に立てた朝鮮人民軍の勢いは、28日にソウルを解放し、8月31日には洛東江を突破している。

 この時点で南朝鮮全域の90%、全人口の92%を解放していた。

 李承晩は、臨時首都を大田(7月20日解放)からさらに急いで釜山に移した。

 南の解放した地域の9道、108郡、1186面、1万3654里で、各級主権機関の選挙を7月25日から9月13日までの間に行っている。

 こうして南でも、地方の主権機関が成立する直前だったのだ。
 
 2 9月15日、米軍を主体とする「国連軍」が仁川上陸作戦を強行した。(8月23日に上陸作戦実施の命令が下りていた)

 この仁川上陸作戦で米軍は、第8軍団(朝鮮戦線派遣軍で、その司令官が米軍団を指揮していた)を増強して、第1、第9軍団の2個軍団(イギリスと南朝鮮の軍隊で補強)、韓国軍の第1、第2軍団をその管下においた。

 さらに米軍海兵第1師団と第7歩兵師団、韓国軍第17連隊と海兵大隊で第10軍団を編成した。

 それを「国連軍」と称した。

 この時、5万余の兵力と300余隻の艦船、1000余機の飛行機でもって、大規模な仁川上陸作戦を強行すると直ちに、洛東江界線への総攻撃戦を仕掛けた。

 この仁川上陸作戦の9月15日からが、第2段階となる。(~10月24日まで)

 人民軍は、圧倒的に優勢な敵との抗戦となり、一部の部隊は遊撃戦を展開して抵抗した。

 仁川の関門となる月尾島の防御を担当していた人民軍部隊は、決死的な戦いを展開して、敵の上陸を遅延させた。

 仁川一ソウル地区を防御していた各部隊は、敵の侵攻を14日間も食い止めた。

 洛東江界線では10日余も阻止した。

 しかし優勢な敵軍を前にして、人民軍は戦略的後退を始めざるを得なくなった。

 包囲された人民軍主力部隊を救い出しながら、引き続き予備部隊を整え、敵を牽制しつつ後退していった。

 人民軍の抵抗が激しく、仁川を上陸した敵軍は、朝鮮人民軍主力部隊を「包囲殲滅するという作戦は、初戦で失敗している。

 それでも「国連軍」各部隊は9月末から10月初めに、38度線一帯にたどり着いている。38度練の北側は、共和国の領土であった。

 米軍をはじめ、「国連軍」に編成された外国軍隊は、それ以上の地域を侵攻した場合、「侵略軍」となる。

 さすがの米国も以前の国連安保理決議だけでは、38度線以北への進撃を「合法化」できないと理解して10月9日、国連総会を開催させた。

 そこで、「国連軍」の38度線以北侵攻を「合法化」させる新たな決議を用意した。

 併せて、「国連朝鮮復興委員会」の設置を決議させ、米国がさも、朝鮮半島の統一に責任をもって行動しているかのポーズを、世界に信じ込ませようとした。

 だが実際は、戦線東部では10月1日に韓国軍が、戦線西部では10月7日に米軍が、それぞれ38度線を越えて越境していたから、米軍部隊は侵略軍であった。

 これに対して金日成は10月11日、『祖国の寸土を血潮をもって死守しよう』との放送演説をおこなった。

 「今日、われわれのもっとも重要な課題は、祖国の寸土をも血潮をもって死守し、敵に新たな決定的打撃を加えるためすべての力をととのえることであります」

 そして、やむを得ず後退する場合は、いっさいの物資や運輸手段を移して一台の機関車や車両、一粒の米も敵に渡さぬようにし、敵の占領地域では遊撃戦を積極的にくりひろげて敵の指揮部を襲撃し、敵の軍需品倉庫や軍需物資を焼き払うようにと、強調した。

 こうして戦争第二段階の戦略的方針を遂行するための闘争課題を明示した。

 元山地域の防御戦(10月5日~14日)では、人民軍部隊が頑強な抵抗で、敵の進撃スピードを遅らせた。

 3 中国人民志願軍(義勇軍)が参戦した10月25日以降を、第3段階としている(~51年6月10日まで)。

 中国軍の参戦は、先遣部隊が19日に鴨緑江を渡り、朝鮮戦線にすでに参加をしていた。

 基本部隊が25日前後から続々と参戦した。

 中国軍の援軍を受けて力を得た戦線西部の朝鮮人民軍が、敵軍を清川以南に駆逐したことによって、戦線は第3段階へと移行していく。

 マッカーサーは「すべての戦力を総動員し全速力で前進」を命じ、クリスマス以前に全朝鮮を占領しようと11月24日、全戦線にわたって一斉に北進の開始を命じた。(クリスマス攻勢)

 マッカーサーは米第8軍司令部の戦況報告を聞いて、「国連軍の大包囲作戦は今や決定的な段階に入っている」、「わたしはクリスマスまでに家に帰してやると言った兵士たちとの約束を守るつもりだ」と豪語した。

 マッカーサーの24日声明を西側のマスコミは、「戦争終結のための攻勢」「クリスマス攻勢」「勝利の宣言」だと判断し、評価した報道をしていた。

 マッカーサー声明の翌25日、朝中人民軍連合部隊は、総反撃に打って出た。

 戦線西部では、清川江付近で敵を包囲磯減し、南へと進撃している。

 「国連軍」は12月1日から、戦線西部での総退却を開始している。

 戦線東部では11月27日、長津湖畔で米第10軍団の包囲殲滅戦を展開し、「国連軍」の基本部隊を撃退した。

 豊山、清津方面から「国連軍」は総崩れとなり、退却していった。

 こうした思わぬ事態にトルーマンは11月30日、朝鮮戦線での原爆使用を考慮中だとの声明を発表して、脅しをかけた。(12月からは、化学・細菌兵器を使用している)

 米国はさらに12月14日、国連第5回総会で「朝鮮停戦3人委員会」(インド、カナダ、イランの代表で構成)を結成させ、「無条件即時停戦」(この時点での米軍部隊は、38度線付近にいた)案をカモフラージュした。

 16日には、米国内に「国家緊急事態」の宣言を出した。

 こうした米国の時間かせぎ、核恐喝、「緊急事態宣言」「停戦劇」などによる作戦は通用せず、米軍の敗退は続いていた。

 朝中人民連合軍は、12月6日に平壌を解放し、24日までには38度線以北の西部および中部地域の敵を駆逐し、戦線東部の敵は12月末、興南港から脱出した。(12月の国連軍の総退却)

 人民軍連合部隊は「国連軍」を引き続き追撃し、51年1月初めには37度線まで進撃していた。同年1月4日、ソウルを再び解放している。

 4 第4段階は51年6月11日頃からで、それは停戦協定が締結される53年7月まで続く。

 この時期の戦線は基本的に38度線付近で膠着し、双方が陣地戦に移行していた。

 また、休戦会談と戦闘が繰り返され、双方とも有利な戦闘ポイントでの線引きのために戦闘をし、会談の結論を有利に導こうとしていた側面があった。

 金日成は戦争第4段階の戦略的方針で、陣地の坑道化を指示した。

 陣地の坑道化は、敵の陸上および上空からの監視レーダーによる探知を妨げ、技術的に優勢な敵のあらゆる攻撃から兵員、兵器を守り、反撃と奇襲戦を準備し遂行するうえですぐれた戦法であった。

 38度線付近の最前線と東西両海岸に坑道を軸とする堅固な坑道陣地を構築し、防御体制を確立していった。

 第3代「国連軍」司令官クラークは、「共産軍の前線陣地は、一部の地区では後方25マイルに及ぶ地下のとりでとなっている。それは朝鮮の西海岸から東海岸につながり、構造がきわめて堅固で、そのほとんどは爆撃や砲撃にも耐えられるようになっている」(クラーク「韓国戦争史」から)と、悲鳴をあげている。

 坑道陣地には、曲射砲や直射砲などの砲兵火力が増強された。

 ソ連のマリク国連代表が51年6月23日、休戦会談を提唱した。

 同月30日、米軍が人民軍側に休戦会談を申し入れて、休戦会談が7月10日から開城で始まった。

 米国が会談の席に座った目的は、武力で達成できなかった侵略野望を会談で実現することと、朝鮮侵略を糾弾する国際世論の風を和らげることと、兵力を増強して次の新たな攻撃を準備するための時間を稼ぐこと、などであった。

 米国にとっての休戦会談場は、もう一つの戦場であったのだ。

 会談のテーマは、軍事境界線を確定することであったが、双方の距離はなかなか埋まらなかった。

 そのため米国は、会談を一方的に打ち切ってしまった。

 「国連軍」は8月18日に、戦線東部と西部での「夏季および秋季攻勢」作戦の準備ができたからである。

 山岳地帯の多い朝鮮の金剛山山麓一帯での戦闘は、高地の争奪戦となった。

 1211高地は戦線東部の中央部にあり、どちらの側も戦略上の重要なポイントであった。

 もし「国連軍」側がこの高地を占領すれば、元山周辺まで一気に押上げ、全般的戦局を大きく左右することになる。

 米第8軍司令部もこの1211高地が、「夏季および秋季攻勢」作戦での重要な攻撃対象であることを理解していた。

 従って、戦いは双方とも激烈となった。

 米軍は一日平均3万~4万発もの砲爆撃を加えたため、高地一帯の岩は砕け、樹齢数百年の大木までが根こそぎ吹き飛ばされ、山の頂きは平均1メートルも低くなる始末であった。

 高地の攻防戦は2カ月にも及んで、人民軍が勝利の赤旗を掲げた。(10月31日)

 米国発表によっても、1211高地の攻撃に「2カ月の日時を費やし、6000名(実際は1万5800余名)の兵員を失い、250トンの爆撃と69万7000余発の砲弾と、天文学的数字に達する軍需品を消耗」(米陸戦史刊行普及会編『陸戦史集』第9巻)したことと、素直に敗北を認めている。

 朝鮮側はこれを「英雄高地」としているが、米軍は「傷心嶺」と呼んでいるのも対称的である。

 1211高地戦が象徴するように、米軍が仕掛けた「夏季および秋季攻勢」作戦は、彼らの惨敗で終わってしまった。

 その結果、一方的に打ち切っていた休戦会談の再開を、申し入れてきた。

 再開休戦会談は10月25日から、板門店で始まった。

 会談のテーマは、軍事境界線問題と捕虜送還問題であった。

 米軍は、捕虜の「自由送還」を主張して、会談の決裂を目論んでいた。

 戦闘が38度線一帯で一進一退を繰り返していたからである。

 52年11月の大統領選挙で当選していたドワイト・アイゼンハワーが、就任前の12月2日に訪韓し、直ぐにソウルの米第8軍司令部に入った。

 直ちに同行のウィルソン次期国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長、アーサー・ラドフォード太平洋艦隊司令長官と、クラーク国連軍司令官、バンフリート軍司令官、ライアン米軍事顧問団長、白善華(ペク・ソニョップ)韓国陸軍参謀総長らの会談をもった。

 朝鮮戦線の情勢分析と戦後体制についての討論であった。

 アイゼンハワーは「交渉よりも行動が第一」だとして、「新攻勢」(アイゼンハワー攻勢)への準備を指示した。

 新攻勢の基本目標は、53年の初めに東西両海岸への大規模上陸作戦をおこない、北緯40度線沿いに新たな戦線を形成して、朝中人民軍側の前線と後方を分断し、人民軍主力部隊を包囲殲滅し、全朝鮮を占領することであった。

 さらに必要な場合には戦術的核兵器を使用してでも、戦争を中国大陸にまで拡大するプランを提示していた。そのプランには、「中国国民党軍の師団を戦闘に引き入れる」こと、「中国東北地方と中国中心部への爆撃と中国封鎖」問題、「原爆を使用する」問題などが含まれていた。(53年2月10日の米上院外交委員会でのブラッドレーの秘密証言)

 ブラッドレー証言は、朝鮮参戦を検討していた時の毛沢東が心配していた内容、米国の中国侵攻作戦が全て含まれていた。

 米軍は53年1月から、海兵隊と空挺隊を中心とした「新攻勢」を実施した。

 砲撃は53年1月には毎日平均2万4000余発、2月は3万3000余発、3月は4万4000余発と撃ち込んできた。

 飛行機の出撃は1~4月には延べ7万2000余機。53年1~3月の攻撃回数は48
回、襲撃143回であった。(朝鮮民主主義人民共和国人民武力省戦争経験研究室資料)

 それほどの「新攻勢」を粉砕したのは、朝中連合人民軍による1月25日の鉄原西方の無名高地攻撃であった。

 米軍は一つの小さな稜線を占領するために、16個野砲大隊(280門)の援護射撃(一日約30万発)、数百回の飛行機出撃による支援のもとに、4個大隊(約4000名)の兵力で攻撃を開始した。

 「しかし、14日間続いた戦闘で8000名の損失を出した」(クラークの『韓国戦争秘史』)。

 そして丘陵地帯は一度も奪取できず、作戦は失敗したと理解した米軍は、「新攻勢」の中止を決定した。

 勝手に無期休会を宣言していた休戦交渉の場に4月26日、顔を出すようになった。

 米国は休戦交渉の席に座ったとはいえ、会議では駆け引き戦術に終始し、一方で共和国後方地域の発電所、貯水池への爆撃を継続していた。

 金日成は、米国の帝国主義的性向が少しも変わらないことをみて、全前線にわたる強力な打撃を加える作戦を人民軍各部隊に命じた。

 53年5月中旬から7月下旬までの間、3回にわたる打撃戦をくりひろげ、敵軍に甚大な損害を与えた。

 この打撃戦での惨敗で米軍の各部隊は、再び戦う気力を喪失させ、これ以上戦争を続けても勝ち目がないことを、前線の各兵士たちが認識したのではなかろうか。

 5月からの人民軍の打撃戦が、米軍(国連軍)を戦線から葬ったことになる。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」15.731部隊の後遺症

15.731部隊の後遺症

 中国と朝鮮の当局者は52年2月、ペスト、チフス、炭素病その他の病気を蔓延させる細菌爆弾を、低空飛行の米軍機が朝鮮と中国東北地方に投下しているとの、非難声明を出した。

 さらに放送(ラジオ)で、捕虜となった米軍飛行士の告白内容を元に、投下地点、犠牲者の数、バクテリアの種類、細菌弾の仕組みなどの子細を立証して公表した。

 これに対して米国とその同盟国は、共産主義者のプロパガンダで、告白した飛行士たちは「洗脳」されていると反論した。

 このため中立的立場の第三者機関が調査する必要性が求められた。

 しかし国連機関は戦争の当事者となっており、中立機関には成り得ない。

 国際赤十字については、米国は同意したものの、中国はかつて赤十字が中立諸国からの調査依頼を断っていたことを理由に、「中立的」とはいえないとして拒否した。
 
 同様の「世界保健機構」(WHO)も、中国が国連の一機関だとして受け入れなかった。

 結局、世界平和協議会の斡旋でブラジル、イギリス、フランス、イタリー、スウェーデン、ソ連らの専門家で構成する「朝鮮・中国における細菌戦に関する事実調査のための国際科学委員会」(ISC)を組織することになった。

 同調査委員会は1952年6月から8月にかけて、朝鮮と中国を調査した。

 ISCの結論報告は、以下のようであった。

 「実際において朝鮮と中国の人びとは細菌兵器の標的にされていた。細菌兵器を使用したのは米軍部隊であるが、彼らは細菌戦のために実に様々な方法を動員しており、その中のいくつかは第2次世界大戦中日本軍が実施したものに改良を加えたもののようである」

 また、細菌戦の遂行において捕虜となり、証言をしたもっとも位の高い米軍将校は、フランク・シュワープル海兵隊大佐であった。

 彼は、北朝鮮上空を偵察飛行中に撃墜された。

 「平壌の南側、つまり朝鮮半島のくびれた部分を横断する形で汚染地帯をつくり出すことが目的であった。それは『絞殺作戦』で、空軍力を使って戦闘の最前線に人員や物資を送るすべての動きを止めさせるために計画された作戦計画のコード・ネームであるが、しかしこの作戦は成功しなかった」と、作戦の目的を告白している。

 このISCの報告からは、中国のハルビン近郊にあった関東軍防疫給水部隊、つまり悪名高い石井四郎部隊の「731部隊」が実施した細菌戦に行き着いてしまう。

 関東軍が1931年に防疫給水部隊を設立して以来、その部隊はペスト、発疹チフス、赤痢、壊疽、出血性熱病、腸チフス、コレラ、炭疽菌、ポツリヌス中毒、プルセラ病などを発病させる病原体を研究、開発し、伝染散布するなどして中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人、米英捕虜たちに対して実験を行っていた。

 モルモットにされた人々は4000人とも6000人とも言われ、実体は不明である。

 45年8月、ソ連軍が進軍してくる直前、実験予定の生き残った人々を全て、毒ガスや銃殺で殺害した後、日本へと逃げ帰っている。

 その石井四郎は膨大な量のバクテリアと研究資材と資料と共に、いち早くハルピンから脱出して東京に潜んでいた。

 そうした研究データもろとも石井四郎を必要としていたのは、米軍でありソ連であった。

 米国も41年頃から細菌戦に関する研究を開始していたが、細菌弾の実用化までには達していなかった。

 それで早くから731部隊の石井四郎に目を付けていた。

 本来ならA級戦犯として裁かれるはずの石井四郎の生命と、彼の実験データとを取引した米国は、45年から52年にかけて、細菌戦のレベルを上げている。

 石井四郎たちが、密かに東京で米軍の要望に応えていたからである。

 石井四郎が51年に2,3度、朝鮮の前線に立っている姿を新聞記者たちが目撃している。

 米軍は当時、中国軍の参戦によって苦戦を強いられていた。

 すでに戦線を逆転できる状況にはないため、51年後半からの開城、板門店での停戦会談と戦闘の継続を繰り返していた。

 米軍捕虜のシュワーブルが証言した「絞殺作戦」は、停戦会談を有利に進めるための、後方の人民たちに被害を与え、厭戦社会を作り出すという狡猾な作戦であった。

 ISCの報告は朝鮮戦争での細菌戦は、40年から45年の間に日本軍が行った実験の継続であるように思われる、との結論を出していた。

 にも関わらずISCはこの問題について、それ以上には踏み込むことが出来なかったようである。

 だから米国も日本も、このような作戦はなかったのだと、堂々と否定することが出来たのだ。

 ISC側の事情は、朝鮮や中国での細菌被害が白日にさらされてしまうと、日本軍が行った巨悪で非人道的な内容を、十分な調査もせず糾弾もせず、逆に日本のその凶悪な兵器と手法を借用した米国自身の日本占領政策が問われていくことに怠ってしまうからだ。

 一方でソ連は、一部の731部隊幹部たちを、ハバロフスクの戦争犯罪の裁判にかけていた。

 そこからの証言内容を50年(朝鮮戦争の直前)に、英語の単行本として出版していた。

 米国は、これはソ連側の宣伝キャンペーンであるとして、強く否定した。

 このためISCが、米軍による細菌戦であったことを強調すればするほど、米国側が言うソ連のハバロフスク戦犯裁判のプロパガンダ性と、ソ連側による裁判報告だけをアピールしてしまう結果になっていると、西側勢力は批判していたのだ。

 そのためISC側が米国を告発する一歩手前で、妥協したことになる。

 だが私は90年代後半に、子供の頃に細菌戦の被害に合って、その後遺症に今も苦しんでいる数人の朝鮮人たちにインタビューして、当時の状況を聞いている。

 結論から言えば、米国は旧日本軍の細菌兵器と細菌戦の実績を引継ぎ、それを朝鮮戦争の後半期(戦線が膠着状態になっていたのを挽回する目的で)に朝鮮と中国東北地方に、細菌弾と毒ガス弾を使用したのは事実であったと言える。

 しかも朝鮮北部や中国東北地方の山岳地帯の地理を、旧日本軍将校たちからレクチャーを受け、実際に一部の旧将校たちが米軍とともに前線に出て、実地案内をしていたことも単なる風聞だけではなかろう。

 米国が、細菌作戦を共産主義者たちのデマゴーグだと言い張るのは、細菌弾製造の実験から投下まで、731部隊の幹部たちを活用してきたことを、記録や記憶、歴史上からも抹殺しておく必要性があったからである。

 だが、米軍の飛行機が低空飛行から細菌爆弾を投下している事実を目撃している人々がおり、捕虜となった米軍パイロットたちの証言もあり、何よりもその細菌戦の被害で苦しんできた朝鮮、中国の人たちが存在している事実を、米国は歴史から抹消してしまうことばできないだろう。

 米軍が朝鮮戦争で行った細菌戦は、後のベトナム戦での先駆けとなった。(同時期、米国は神経毒ガスのサリン兵器の開発も行っていた)

 また復帰前の沖縄では、名護市の辺野古弾薬庫などに、核兵器及び毒ガス弾が大量に貯蔵されていて、その一部が漏洩していた事故が隠されている。

 この辺野古の毒ガス弾は、瀬戸内海の大久野島にあった旧日本軍のものが持ち込まれ、辺野古から朝鮮と中国東北地方に投下された。

「不当な朝鮮中央会館売却許可決定を糺す」

「不当な朝鮮中央会館売却許可決定を糺す」


1.
 東京地方裁判所民事第21部は3月24日、朝鮮総聯の朝鮮中央会館の土地と建物に対して、マルナカホールディングス(高松市)への売却を許可したことを発表した。

 朝鮮中央会館の競売問題は、バブル経済破綻時代の朝鮮信用銀行融資絡みによって発生した問題である。

 朝鮮総聯は債務返済問題で、これまで整理回収機構(RCC)側とで、合理的な解決策の提案をし、協議を続けてきた。

 当時の日本政治は、政権が一年毎に代わる政治不安定時代であったが、総聯は、RCCと司法当局との間で誠実に交渉を重ねていた。

 その結果、680億円余の不良債権を総聯が43億円で買い取る和解策で、RCC側と合意していた。民主党の野田政権のときであった。

 それはまた今回と同じく、敗戦直後に北朝鮮で死亡した日本人遺骨問題からスタートし、日朝課長級協議が行われている時であった。

 そのことで、利権に聡い政治家たちが暗躍し、会館問題と拉致問題とがバーター取引きされるなどとの、勝手な憶測情報が流されていた。

 しかし、共和国がミサイル発射実験を行ったことで、課長級会談は延期となり、総聯とRCCとの締結調印までが延期となってしまった。

 安倍晋三政権となり、合意内容を無視したRCCは、東京地方裁判所に競売を申し立ててしまった。そのことに政治側の黒い影を感じる。


2.
 東京地方裁判所民事第21部は、朝鮮中央会館の競売の手続きに入った。

 競売は最も高い金額を提示(入札)した買い手に落札される販売方法である。

 第1位落札者に対する売却が不許可となった場合、第2位に高い金額を提示した買い手に購入資格が移ることもあるが、その場合でも、最も高い金額との差が保証金以内だということになっている。

 東京地裁は、朝鮮中央会館の不動産価格を以下のように定めていた。

 1 基礎価格   41億4466万円
 2 売却基準価格 26億6826万円
 3 最低入札価格 21億3460万8千円(2の80%)
 4 買受け保証金 5億3365万2千円(2の20%)
 
 以上、東京地裁が定めた基礎価格41億4466万円は、総聯がRCC側に提示した43億円よりも大幅に低いことになる。

 その分、債権者のRCC側は損をしたことになり、債権者たる日本国民も不利益を被ることになる。

 さて、第1回目の入札(4者が応募)は昨年3月、宗教法人最福寺(鹿児島市)が45億1900万円で落札した。

 ところが最福寺は資金調達に失敗して、購入できなかった。最福寺は、売却決定者となった直後の記者会見で、「朝鮮総聯に引き続き入居してもらい、賃貸契約を結ぶ」などと表明しており、融資を予定していた金融機関や企業から資金提供を拒否されたことには政治の力が働いていたように思う。

 ちなみに4者の競売応募のうち、2番手が34億2800万円、3番手が34億1000万円、4番手が27億1000万円での入札金額であった。


3.
 昨年10月の2回目の入札者は2社で、モンゴルのアバール・リミテッド・ライアビリティ・カンパニーが50億1000万円で落札した。

 しかし、東京地裁は、アバール社が提出した書類の不備を理由に、入札を無効(1月23日)とした。

 同時に地裁は3回目の入札手続きに入るか、第2位者を決定者とするのかのどちらかを後日、決定するとした。

 3月24日、地裁は次位のマルナカを落札者と決定した。

 マルナカの買受け金額は22億1000万円であって、それは1回目4番手の27億1000万円よりも低く、全体でも最低の金額であった。

 若し、マルナカの22億1000万円で決定すれば、競売前に一時的に合意していた43億円と比べれば、約21億円ものマイナスになり、マルナカの入札金額は余りにも低い金額だということになる。
 
 債務者及び債権者双方の利益を損なっていることになる。

 
4.
 実は、マルナカには入札資格がなかったことが、2点指摘されている。

 1点目は、マルナカが入札した22億1000万円のままでは、買受けの申請をすることができないということである。

 競売に参加する際には、事前に保証金を裁判所に支払う義務がある。

 その保障金額は、裁判所が決めた売却基準価格の20%である。

 今回、東京地裁が決艇した朝鮮中央会官の土地と建物の売却標準価格は26億6826万円で、その20%は5億3365
2千円となり、その金額が保証金とされた。

 失脚した1位者の次、2位者以下が買受けできる金額は、従って1位者の買取り金額から保証金を差し引いた金額以上の入札者に限られることになる。

 今回の場合で言えば、50億1000万円から5億3365万円2千円を差し引いた金額以上で入札した者に限られるということである。

 マルナカの22億1千万円は、買受けの申請をする金額には届かず、それだけで資格がなかったのだ。

 もう1点は、マルナカが納めた保証金は、地裁がアバール社を落札者と決定した1月の段階で、すでに裁判所から還付されていたのだ。

 過去の競売関係の判例では、「納付した保証金が一度還付されている場合は、売却決定はなし得ない」としている。

 だから、競売慣例からしてもマルナカは、すでに入札資格を失っていたことになり、競売の「次順位」の資格さえ失っていたことになる。

 そのマルナカに再度入札資格を与えた東京地裁は、自らで法を犯したことになる。

 法の番人たる裁判所が違法な判断を強行する場合、それは法治国家ではない。

 その違法性、不当性を在日朝鮮人組織に振り向けようとしている力は、とうてい司法だけの判断ではあるまい。


5.
 今回の東京地裁は、競売手続きの慣例を無視した、違法行為を犯しているだけはなく、マルナカの買受けを誘導した、確信犯的な行為も加わっている。

 東京地裁は1月14日、すでに入札資格を失っていたマルナカに、1月23日の売却決定期日の通知を送っていた。(これはアバール社への売却を最終的に不許可と発表した23日の9日前である)

 入札資格を失っていることを自覚していたマルナカ側は、不審に思いつつも、その不審を正すために、通知を受け取った14日の午前、東京地裁の民事部担当書記官に電話をかけた。担当書記官は、「一般論的に言えば、貴社の入札が最高価格となることもあり得ないことではない。そういう意味でも利害関係があるということで通知している」と返答し、暗にマルナカへの売却許可が出る可能性を伝えた。

 そして、3月10日に、開札日を再度設けることを前提に、マルナカに対してすでに還付されていた入札保証金の再納付をすることを確認したうえで、翌11日に改札期日と売却決定期日を指定した。

 このような裁判所の行動は、すでに落札権を失っていたマルナカに、朝鮮中央会館を売却させようとする誘導以外のなにものでもないということになる。

 しかも入札第1位者より28億円も低い金額である。

 いま会館のある周辺では、東京オリンピック開催が決まったことで、高価格が見込まれている。それだけでもRCC側は膨大な損失を被っており、本来ならこの決定に不服を申し立てるべき立場にあったにも関わらず、何故か静かにしていることも不可解である。


6.
 高松にあるマルナカの企業性について、ジャーナリストの成田俊一氏が「週刊金曜日」の3月28日号で、次のように報告している。

 「マルナカの創業者の現会長の中山芳彦は・・・5代目の渡辺組長(山口組)時代も年間2000万円以上、間違いなく上納している」と地元高松市の有力暴力団関係者に語らしている。

 暴力団山口組への資金提供の疑いが消えない反社会的な企業、マルナカに売却誘導をした東京地裁は、二重の意味で日本社会に重大な汚点を記そうとしている。

 一つは、これまで述べてきたように法の番人が法を犯し、かつ反社会的な暴力団と関係のある企業に利益誘導をしたことである。

 もう一つは、これが最も許し難く、現政府の反朝鮮政策に加担していることである。

 朝鮮総聯は、在日朝鮮人の合法的民族権利を擁護し、朝鮮民主主義人民共和国(共和国)の海外公民団体である。

朝鮮中央会館は、彼ら在日朝鮮人の権利と利益を保障する活動拠点となっており、日朝間で国交が開かれていないため実質的に共和国の外交代表部(大使館)的役割をもっており、日本人との友好交流発展を保障していくための、公益性のある建物である。

 歴代日本政権は、反朝鮮政策、対朝鮮敵視政策を推進して、朝鮮総聯や在日朝鮮人への政治的弾圧、民族的差別と迫害を続けてきた。

 今日の朝鮮中央会館問題は、そうした日本政治の延長上で発生したものである。

 しかも、朝鮮総聯が提示した和解案で合意していた内容までを無視して、あえて競売という手段で問題化させ、その落札者決定過程での違法性、さらには反社会的活動をしている者と関係のある企業を買い受け人と決定したことなど、これらすべての事柄は、とうてい民主主義を標榜している国家がなすべき行為ではないと言える。

 北京で開かれた再開日朝局長級会談後、宋日昊朝日交渉大使は記者会見(3月31日)で朝鮮中央会館売却決定について、「朝日関係に大きな影響を与える」「朝日交渉を行う意味もない」と懸念を表明していた。

 それは共和国側のメッセージであり、在日朝鮮人たちの意思でもあったことを、安倍政権はしっかりと認識すべきである。

                                           2014年4月5日 記

「朝鮮総聯中央会館競売―売却許可決定への疑問」

「朝鮮総聯中央会館競売―売却許可決定への疑問」

 
 東京地方裁判所民事第21部は、3月24日、不動産投資会社㈱マルナカホールディングス(高松市)に朝鮮総聯の朝鮮中央会館の売却許可の決定を下した。

 朝鮮総聯は、在日朝鮮人の合法的権利を擁護する朝鮮民主主義人民共和国(共和国)の海外公民団体であり、その会館は、在日朝鮮人の民族的権利と利益を保障する活動拠点であり、さらに、共和国の外交代表部的役割を担い、日本人との友好交流活動を保障してきた建物である。

 今回の東京地裁決定には、政治的介入の疑いが拭えず、多くの人たちが疑問と抗議の声を挙げているのは当然である。

 その法的瑕疵を2点挙げ、許可決定が無効であることを指摘する。

 1.マルナカには、入札資格がなかったこと。

 裁判所が定めた朝鮮中央会館の不動産評価額

 *基礎となる価格/41億4466万円
 
 *売却基準価格/26億6826万円

 *買受可能価格(最低入札額)/21億3460万8千円

 *買受保証金/5億3365万円

 ――としていた。

 2回目の入札でモンゴルのアバール社が50億1千万円で落札したが、書類不備などで、次点者を入札者とした。

 この際、次点者が買い取りできる金額は50億1千万円から5億3365万2千円(保証金)を差し引いた金額以上の入札者に限られている。

 つまり、44億円7634万8千円以上の入札者に限られることになっている。

 22億1千万円で入札したマルナカは、この時点で買受け申請ができなかったはずだ。

 しかも、入札の際に納めた保証金が、裁判所からすでに還付されていたのだから、入札資格そのものも消えていた。

 2.裁判所が裏交渉していたこと

 東京地裁は、すでに入札資格を失っていたマルナカに、1月23日に売却決定期日の通知を送っている。

 疑問に感じたマルナカ側が、裁判所の担当書記官に電話で質問すると、暗にマルナカへの売却許可が出る可能性があることを伝えられた。

 3月10日、開札日を再度設けることを前提にマルナカに対し、すでに還付された入札保証金を再納付することを確認した上で、翌日の3月11日に開札期日と売却決定期日を指定した。

 これは、すでに落札権を失っているマルナカに意図的に、朝鮮中央会館を売却させようとの誘導が感じられ、司法機関による不法行為そのものだと言ってもいいだろう。

 
 よって、今回の決定は、手続きも不法、日朝関係にも悪影響を及ぼすもので、これに抗議する。

 再入札を要求する。


2014年4月4日 
愛媛現代朝鮮問題研究所

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」14.住民虐殺事件

14.住民虐殺事件

 朝鮮戦争は、最も「汚い戦争」(ギャヴァン・マコーマック)だと言われている。

 それは米軍による一般市民への射殺、爆撃、ナパーム弾や細菌弾の投下のほか、一般住民たちへのむごい残虐行為が、米軍が侵攻した地域では必ず、日常的に行われていたからでもある。

 米軍が仁川から上陸して以降、米軍と「韓国軍」が侵攻した後の地域(南北を問わず)では必ず、戦闘とは何の関わりもない住民たちの数百数千もの惨殺された死体が発見されている。

 1 開戦数日後にソウルを占領・解放した人民軍は先ず、獄門に閉じ込められていた政治犯たちを釈放した。

 しかし漢江以南の政治犯たちは、李承晩政権と軍警によって、彼ら自身の墓穴を掘らされ、そこで銃殺されて埋められている。釜山、大田、居昌(コチャン)などの地域では、全政治犯を「共産主義者」たちを処刑するのだとして虐殺した。

 そこには、それを目撃していた女性や子供たちまでが含まれていた。(停戦後に掘り出された遺体、遺骨などから判明している)

 こうした犠牲者たちは、恐らく10万人は下らないだろうと言われている。

 ところが、その虐殺遺体を写真に撮って、それが共産主義勢力者らの仕業であると、逆の証拠を示して吹聴している。

 2 米軍の仁川上陸(50年9月)後、人民軍が後退を余儀なくされて、「国連軍」の攻勢によって奪回された北の、とくに信川(シンチョン)郡、黄海(ホァンヘ)道地域は過酷な報復を受けている。

 例えば黄海道信川郡。黄海道だけでも12万人余もの住民が、信川郡では住民の4分の1にあたる35000人以上もの人々が、虐殺されている。

 その方法もまた、野獣じみたものであった。

 米兵たちは、戦闘員ではない一般住民を銃殺、撲殺、絞殺、生き埋めにし、生きた人間の鼻と耳を針金を通して引き回した揚げ句に殺し、眼球をくり抜き、乳房を切り取り、頭や全身の皮膚をはいで殺し、唇をえぐり、舌を切って殺し、斧で手足を打ち切り、身体を鋸で引いて殺し、まき束の上に立たせて火あぶりにして殺し、熱湯に投げ込み、十字架に身体を釘で打ち付けて殺し、戦車でひき殺す(『現代朝鮮史』平壌1979年刊から)などと、聞くに身の毛のよだつ残忍きわまりない方法で、人民たちを虐殺している。

 朝鮮の要請で51年5月、信川郡を含む黄海道一帯を調査した「国際住民法律家協会調査団」は、以下のように報告している。

 「アメリカ軍と李承晩軍が一時占領していた地域では、数十万の平和的住民が家族もろとも、老若を問わず拷問をうけ、焼き殺されなぐり殺され生き埋めにされた。

 その他に数千人の人々がなんの罪もなく、なんらの根拠も裁判も判決もないまま狭い監房で寒さと飢えにたおれた。

 このような集団的殺裁と集団的拷問は、ヒトラー・ナチスがヨーロッパの一時的占領地域で犯した蛮行よりさらにひどいものである」とした。

 さらに52年3月の報告。「婦人と子供を含む朝鮮の一般住民にたいするアメリカ軍の大量殺裁と個別的虐殺および獣的行為の証拠は、その犯罪の量においても、また、彼らが使用した方法の多様性においてもかつて例のないものである」。

 以上、米国の汚い戦争犯罪を告発している。

 そればかりか米軍は航空機と機銃掃射を使って、北朝鮮を「地図の上から消す」「焦土化作戦」「絞殺作戦」を強行した。

 米軍の作戦目的は、北朝鮮の78の都市を完全に破壊し、いっさいの生物と物体の徹底的な抹殺で、朝鮮人から戦意を喪失させることにあった。

 「絞殺作戦」は、後方を廃嘘に変えて、前線と後方の連携を切断し、補給物資や増援部隊が前線に到達することを阻止して、人民軍を「絞殺」することが目的であった。

 その目的に従って、廃嘘と化した都市はいうに及ばず、山奥の細道、小川の石橋、草をはむ子牛、洗濯をしていた女性、登校中の子供たち、赤ん坊までが爆撃と機銃掃射の的にしている。

 平壌市の場合は、1952年の1年間だけで5万2380余個の各種爆弾が投下され、戦争の3年間には実に42万7800余個の各種爆弾とナパーム弾が投下された。

 これは当時の人口一人当たり1個、平方キロメートル当たり8000個の爆弾が投下されたことになる。

 米国の最も帝国主義者たる行為こそ、人民生活と直接つながる発電所、貯水池、ダムなどを集中して爆撃し破壊したことである。

 52年6月以降、朝鮮最大の水力発電所であった水豊発電所を爆撃し、次いで長津江、赴戦江、虚川江の各発電所を空襲して、ダムと発電施設を破壊した。

 53年からは特に貯水池を狙って爆撃し、多くの農民を直接殺害しただけではなく、集落を水浸して、数年間にわたる穀物生産を出来なくしている。

 以上の米国の蛮行を、同じ米国の歴史学者が批判をしている。

 「アメリカ帝国主義侵略者が3年1カ月間の朝鮮戦争の間に、北朝鮮の狭い地域に投下した爆弾は、彼らが3年8カ月の太平洋戦争で太平洋地域の各国に投下した爆弾の総トン数に匹敵し、第2次大戦中ドイツに投下したそれを上回った。

 …米軍が朝鮮人に向けて発射したロケット弾その他の弾丸総数は2億2156万3000発に達し、ほかにアメリカ艦船から43万8000トンの砲撃と400万発の弾丸が発射された」(ハーシェル・メイヤー著『アメリカ現代史』日本語版)

 その上にまだ、細菌弾を投下して、朝鮮人民に各種疾病の苦しみを与えている。

 沖縄米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は51年11月頃から、細菌弾を投下する細菌戦を開始している。

 52年5月下旬からは規模を拡大して、細菌汚染地域を広げていく作戦を行っている。

 投下された細菌弾にはハエ、ノミ、クモ、ナンキン虫、蚊、シラミ、甲虫、コオロギなどの有害昆虫が詰め込まれていて、これらの昆虫はコレラ、ペスト、チフスなど、各種の伝染病菌を保有していて、地域住民たちに伝染病を感染させ生命まで奪った。

 スウェーデン、フランス、イギリス、イタリア、ソ連、中国などの著名な生物学者からなる「国際科学調査団」は、調査報告を52年8月31日に発表して、アメリカによって「このような非人間的方法が実際に使用された」と指摘し、細菌戦の方法は第2次世界大戦当時に日本軍が使用した方法を発展させたものだと述べた。

 以上のように米軍の蛮行内容は、記録する者が反吐を催すほどの酷いものであった。

 こうした帝国主義的蛮行は、その後もベトナム、カンボジア、イラク、アフガニスタンなどで、米軍兵士が立っていた地域からは必ず告発されている。

 それらの告発を、国連機関は今も黙殺したままであり、米国は逆に相手側の犯行であるかのようにして宣伝している。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」13.ソ連の参戦はあったのか

13.ソ連の参戦はあったのか


 朝鮮戦争を論じるとき、必ず出てくる問題は、ソ連・スターリンが当初から戦争を承諾しており、ソ連軍の参戦もあったというものである。

 これは主として米国側が、幾重にもわたる宣伝戦によって築き上げたプロパガンダで、北を「侵略軍」とのレッテルを貼り、米軍の参戦への道を開くための虚報であった。

 ソ連が朝鮮と中国を説得して戦争を始めたとするシナリオで、一番得をするのは米国である。

 米国は朝鮮戦争勃発時から国連に、「北侵略軍」との偽報告を上げて、米軍が堂々と朝鮮で戦える「作文」を用意していた。

 最もよく出来た作文の一つに、72年にタイム・ライフ・ブックスから刊行した『フルシチョフ回顧録』がある。

 回顧録は、72年にニューヨーク・タイムズに掲載されたもので、原稿の入手経路も不明で、原稿内容の改稿も伺わせる代物である。

 問題になっている部分は、朝鮮戦争勃発前後の部分である。

 49年末にモスクワを訪れた金日成は、スターリンに対して、大挙して南に進攻すれば南の人民たちも蜂起し、内乱を通じて南半分も共産主義の支配下に入り、武力解放は成算があることを強調していたとしている。

 49年末といえば、フルシチョフがモスクワ第一書記に就任した頃であったから、会話の内容は間接的に聞いて知っていたとしている。

 同時期、毛沢東もモスクワに来ていて、「米国の介入はないだろう」と助言し、金日成の武力解放計画に同意するよう話したという。

 回顧録は、朝鮮戦争の開戦は「金日成首相が自ら計画し、スターリンの南進OKのサインによって、火蓋が切られた」としている。

 この部分が、ソ連参戦の証言になっていくとして、西側では盛んに用いられている。

 まだ、ソ連共産党中央の中枢幹部ではなかったフルシチョフが、当時のスターリンでさえ隠しておきたい情報を、どのようにして知り得たのかが不可思議なところである。

 金日成一行が49年12月、極秘にモスクワを訪問していたのは事実である。

 同時期、中国の毛沢東と周恩来らもモスクワにいた。毛沢東たちは翌年2月末まで滞在し、スターリンらソ連幹部らと、建国間もない中国の国家建設問題などを協議していた。(12月には「中ソ同盟条約」を締結している)

 この時、金日成ら社会主義国と各国革命党の幹部たちが、モスクワを訪れ滞在していた第一の目的は、スターリンの誕生日を祝賀するためであった。

 12月生まれのスターリンを祝賀するため、各国の党幹部たちが年末にモスクワを訪れ、スターリンに会っている。

 だから金日成もスターリンと会い、短時間ではあったが会談をしていたと思われるが、朝鮮での戦争問題という重要な協議を行うほどの時間はなかったであろう。

 50年1月、金日成は金光侠副首相らを中国に派遣している。

 中国解放軍第4野戦軍内にいる1万4千人の、朝鮮人兵士の帰国交渉であった。

 毛沢東と周恩来らはまだモスクワにいたが、中国人民革命軍事委員会が許可(1月23日)をした。

 その後、数回にわたり朝鮮人兵士たちは武器装備ごと、帰国していった。

 同年3月、朴正愛(朝鮮労働党常務委員、のち党副委員長)が、金日成の秘密特使として訪中し、モスクワから帰国したばかりの毛沢東に、戦争準備と開戦の意向を伝えたとされている。

 その時の毛沢東は米国の出方を質問しただけで、戦闘への賛否には何も答えなかったようだ。

 朴正愛はその足でモスクワに行き、同じ事をスターリンに話したかも知れない。

 4月には金日成が秘密裏に北京を訪れ、開戦の意図を語ったが、毛沢東は消極的な反応しか示さなかった。

 北京は4月ころまでに朝鮮から直接、戦争準備についての通報を受けていたようだ。

 だが中国は黙従していただけである。それは47年以降から続く内戦だと見なしていたからである。

 毛沢東はこの朝鮮の内戦に、直ちに米国が朝鮮を侵略し、その矛先を中国に向けることはないだろうと判断していたからである。

 また、朝鮮人民軍が朝鮮半島を制圧すれば、蒋介石に対する中国解放軍の作戦に有利となり、日本が再び大陸に向かうことを阻止することもできると考えていたから、黙従だったのである。

 そのことは中国からモスクワに伝えられたであろう。

 ソ連とアジア各社会主義国との関係は、東欧社会主義諸国のそれとは違って、比較的平等なものだった。

 今でも西側で宣伝しているような、スターリンの命令一下、服従するといった図式ではなかった。

 開戦の早い段階でスターリンが承認し、毛沢東が協力することを決定していたとする西側説の根拠の一つに、コミンフォルムの存在を言っているのではなかろうか。

 コミンフォルム(共産党および労働党情報局)は、冷戦の激化に対応して47年9月、ソ連共産党とヨーロッパ8カ国の共産党との間で、情報の交換と活動の調整のため結成された機関である。

 しかし結成当初の目的とは違って、単なる連絡調整機関には止まらず、国際情勢の分析などで、行動指針を出す機関になっている。

 それは、米国がソ連や社会主義諸国の軍事的包囲と侵略をめざして49年7月、「北大西洋条約機構」(NATO)の結成の存在を意識していたからである。

 米国は、自身の軍事的支配と加盟国の革命運動の鎮圧、共産圏に対する共同防衛を目的に設立した。

 52年現在、14加盟国のうち朝鮮戦争(「国連軍」として)に参戦した国は、イギリス、カナダ、フランス、トルコ、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの7カ国である。

 コミンフォルムは48年6月のユーゴスラビアの党を修正主義だと非難、50年1月には日本共産党に「米占領下でも社会主義への平和的発展の可能性がある」とする論理は誤りだと批判している。

 コミンフォルムは、かつての共産党の国際組織機能をもったコミンテルン(43年5月に解散)的指導機関の役割を果たそうとしていたし、米国もNATO結成後はコミンフォルム組織への対抗意識が強くなっていった。

 56年にソ連でスターリン批判があった後、その4月に解散した。

 以上のようにコミンフォルムは、朝鮮や中国にはほとんど影響を与えてはいなかった。

 50年4月末頃までの中国も、朝鮮側から南朝鮮でのパルチザン闘争の状況を聞き、その延長上での闘争が拡大した場合、その支援が得られるかどうかを朝鮮側から求められていたにしか過ぎないのであろう。

 中ソとも、朝鮮からは開戦決定までの話は聞いていなかった、と見ていいだろう。

 中国は朝鮮戦争開戦当時、平壌にはまだ大使館を設けてはおらず、そこには東北地方政府の貿易事務所があっただけであった。

 開戦前までの毛沢東政権は、ある程度は開戦に関する情報を受けてはいたが、まだ朝鮮の戦争に加担、あるいは支持を与える方向にも傾いてはいなかった。

 だから49年末から50年初頭までの朝ソ中、あるいは中ソ、朝中での朝鮮戦争開戦協議説は考えられない。3カ国の政権とも否定している。

 「国連軍」が38度線から北上する勢いであった50年9月末の段階になって、金日成は党と軍の高官を派遣して、中国軍の出動の可能性を打診している。

 10月1日にも、金日成・朴憲永の連名で、毛沢東に救援依頼をしている。

 この時点でも毛沢東はまだ、中国軍の参戦への時期を探っていたのだ。

 このことから、米軍の仁川上陸後にも朝中ソの間では、ソ連空軍の援護を含めた三者、または二者間の緊密な協議はなかったと思われる。

 毛沢東は参戦を決定するに際して、スターリンにソ連空軍の援護出動を要請したが拒否されている。

 しかし中国側からの再三の要請でスターリンは、中国東北上空の防衛と対中援助の面でやっと積極姿勢(50年10月16日頃)を示すようになった。

 50年10月から12月頃になって、ソ連空軍の13個航空兵師団が中国の東北、華北中南地域に到着している。

 ミグ15、ミグ19型ジェット戦闘機9個師団、ラ9型戦闘機1個師団、ミル10型攻撃機2個師団、卜2型爆撃機1個師団(以上は朱建栄著『毛沢東の朝鮮戦争』から)。

 12月頃からは、ソ連軍機の飛行範囲は朝鮮領を含む鴨緑江周辺上空にまで拡大した。

 朝鮮戦争に参戦したというよりは、中国東北地方の空域を防衛していたという意味合いの方が強かった。

 事実、51年9月以降(中国義勇軍の第2次戦役以降)になって、ソ連空軍は朝鮮北部上空への出動に同意したものの、それは戦場が南に推移したためであった。

 ソ連軍機が平壌近辺にまで飛行範囲を拡大することはあっても、中国義勇軍が支配する地域のはるか後方の上空を飛ばしているにしか過ぎず、前線の上空、海岸線の上空飛行はなかった。

 スターリンは、朝鮮半島からの米ソ戦を恐れていて、それが拡大して共産主義陣営対自由主義陣営の第3次世界大戦へと発展していくことを恐れての、消極姿勢・支援に終始していたのであろう。

「再開『日朝協議』の継続を」

「再開『日朝協議』の継続を」


 中国の北京で30、31日両日、日朝局長級会談が再開される。

 2012年11月、日本側(民主党政権)の都合によって延期して以来で、当時、敗戦後に日本が置き去りにしてきた日本人遺骨問題が主要テーマであった。
 
 にも関わらずマスメディアは、拉致問題の再調査要求、拉致可能性を排除できない「特定失踪者」の安否確認のことだけが、継続問題であるかの如く、間違った報道をしている。

 日本世論もまた、朝鮮側との会談テーマは、拉致問題以外にはないかの如くに認識し、喧伝している。

 確かに拉致問題は、その被害者家族たちが高齢化していることを含めて、重要な人道問題であり、早期に解決しなければいけない問題である。

 拉致問題が日朝間の政治問題で、解決しなければいけないことは事実である。

 拉致問題が日朝間の政治問題化、解決しなければいけない重要問題として正式に浮上したのは、2002年の小泉・金正日会談(平壌)からである。

 この時、小泉氏も金正日氏も、日朝間に横たわっている過去の歴史問題を解決すると同時に拉致問題も解決することを確認し、日朝平壌宣言とした。

 つまり、日朝間ではまだ戦争を終結させていないため、先ずは正常化の関係を進めていく交渉を行い、同時に拉致を含む双方の諸懸案事項を解決していくことが合意されていたのだ。

 それが、いつの間にか、日本側が一方的に「拉致解決」だけを先行させ、それも、安倍政権になると、拉致問題の完全解決が進展しない限り、いかなる協議も日朝間にはないとまで、主張するようになった。

 朝鮮側からすれば、日本とはまだ先の戦争状態が終わってはおらず、不正常な関係(拉致もそうした中で発生)のままであるから、日本とは政治的不安定な関係にある。

 先ずは、そのことを正して、信頼関係を築いたうえで、諸懸案を協議していきたいと主張しているのだ。

 日本側では、そのような主張を経済支援とは結び付けて揶揄したりしているが、日本側が問題の本質を無視しているのだ。

 今回、再開協議が行われるというのに、日本はなぜか協議の進展を妨害するような行為を重ねている。

 日本は、拉致問題などを国連人権理事会で非難決議をし、国連安保理へ制裁付託することに関して積極的に動いた。

 また、米韓合同軍事演習に対応して、朝鮮が中距離弾道ミサイルを発射したことを「安保理決議に違反し非難する」とする立場をとった。

 さらに、在日本朝鮮人総聯合会中央本部の土地、建物の売却問題も、どこかで「政治臭」がする。

 以上のように直近の安倍政権がやっている言動からは、必ずしも、日朝会談に希望を託しているようには見えてこない。

 安倍政権のパフォーマンスのように思える。

 拉致被害者家族会の前で語る安倍晋三氏の言葉には、自らの政治的アリバイづくりを重ねているようで、どこからも真摯な姿勢を感じとれない。

 会談に出席する宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は29日、北京の記者団に、「1年4カ月ぶりの会談だ。何の議題について話し合うか、どういう方向へ協議するか、会談をやってみないとわからないと指摘。

 続けて「前回協議から相当な期間が過ぎ、日本側も民主党から自民党に政権が移った。何の問題を討論するか話し合ってみないといけない」と述べていた。(毎日新聞、3月30日付)

 宋日昊氏も、安倍政権の会談姿勢に対して、一抹の不安を覗かせていた。

 私も、会談の行方については危惧しつつも、その一方で協議が続行(次回以降に継続)していくことを願う者の一人である。

                                          2014年3月30日 記
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