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「政治の季節となるのか」

「政治の季節となるのか」

                                                  名田隆司


1.
 花々が咲く季節の便りとともに、政治にもようやく春を告げる情報を3月22日、マスメディアが一斉に伝えている。

 24~25日にオランダのハーグで開かれる核安全サミットに合わせて、安倍晋三首相と朴槿恵韓国大統領、オバマ大統領による3カ国首脳会談を行うことを、日韓両外務省が発表した。

 第2次安倍政権が発足して一年余、日韓首脳会談がまだ一度も行われず、まだその可能性さえ見出せないという異常な政治が続いていた。

 その原因は、安倍晋三の政治センスにあった。

 彼の突出した右翼チック政治の言動は、日本を戦争準備国家へと導いていくのではないかと、私たち日本人も危惧し、警戒させるほどである。

 その政治姿勢は、93年8月の河野談話(軍慰安婦への旧日本軍の関与と強制性を認め、謝罪した)を見直す発言から、韓国や中国などの近隣諸国からの反発を招いていた。

 さらに靖国神社への参拝で、米国からも忠告される始末であった。

 安倍外交、安倍政治は四面楚歌に陥っていたので、オバマ政権がそれを救った。

 米国にとっては、軍事的に経済的に膨張している中国への危機と、いつまた核・ミサイル実験を行うかわからない北朝鮮への、対アジア戦略の要位置にあたる日本政治にいらだっていた。

 いつまでも首脳会談さえ開けない「政治的幼稚」な日韓に、オバマ氏はしびれを切らしたのだろう。4月下旬に日韓を歴訪する前に関係修復を促していたはずだ。

 ハーグ核安全保障会議が、ぎりぎりでタイミングのよい場所であったから、段取りを米国が決め、日韓の仲介役を行った。

 親分(米国)の意向には逆らえない日韓政権であってみれば、安倍首相が14日の参院予算委員会で河野談話の見直しを否定すると、朴槿恵大統領は翌15日、「幸いに思う」と前向きに受け止める評価をした。これで親分の前での簡単な手打ち式は整い、両氏とも親分の顔を立てたことになる。

 親分もまた、気を遣い、ハーグでの手打ち式会談のテーマは、核開発を進めようとしている北朝鮮に対して、日米韓3カ国で対応していくとの、古くて新しい米国がもっとも気にしているテーマだけの意思合わせとした。

 日韓両政権は、ハーグ首脳会談を入口として、今後は、外務省の局長級協議へと繋げていくことを検討しているようだ。


2.
 外務省は同じ21日、日朝局長級の公式政府間協議を30、31両日、北京で開くと発表した。

 局長級協議は2012年11月(北がミサイル発射を予告し、日本が協議の延期を通告)以来で、再開となる。

 「双方の関心事項を幅広く協議する」ことで一致した。

 日本外務省側は「幅広い議題」には、拉致・核・ミサイルが含まれると、従来からの主張をしていた。

 そして拉致問題では、日本の立場(拉致被害者の再調査など)をしっかりと「要求する」としている。

 やっと局長級協議の再開が整ったにも関わらず、日本側の出方次第では、また、議題が進行しない可能性もある。特にその一週間前に、ハーグで実施される核サミットと3カ国首脳会談での、安倍首相の発言内容によっては危機を招くかもしれない。

 拉致問題解決への進展、日朝関係の前のめりになることを警戒している米国が、ハーグ首脳会談を仕掛けていることを、しっかりと理解しておく必要があるだろう。

 共和国に対して、一方で核・ミサイル問題をテーマに圧力を仕掛けていく立場を主張し、もう一方で拉致や日本人遺骨収集問題など、人道問題を話し合おうとしている、この日本の矛盾した政治的感覚こそが問題だ。

 日本にとってハーグ首脳会談と、日朝局長級協議の双方が、本当に春を告げる政治会談になるかどうかが、安倍政権に試されている。

                                            2014年3月22日
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「拉致問題の解決に向かうのか」

「拉致問題の解決に向かうのか」

                                                  名田隆司

1.
 拉致被害者の象徴的存在だった横田めぐみさん(77年11月失踪、当時13歳)の父滋さんと母早紀江さん夫妻が、孫でめぐみさんの娘のキム・ウンギョン(幼名ヘギョン)さんと家族に、モンゴル・ウランバートルで10~14日に初めて面会していたことを、外務省が16日に発表した。

 横田夫妻は帰国直後の17日、自宅のある川崎市内で記者会見して、孫娘のウンギョンさんやその家族(夫の生後10カ月の女児)と面会した時の様子を語った。

 早紀江さんは「めぐみの面影を浮かべながら、前から一緒にいるような感じで和やかに過ごせた。夢のようだった」と語った。

 めぐみさんの安否については、滋さんは「仮に知っていたとしてもあまり話せないと思う。触れることはなかった」。

 早紀江さんも「政治的な話はしたくなかった。肉親が穏やかに会いたかった。きっと元気でいるに違いないと自分で思うことにした。細かいところは何も聞いていない」と、それぞれ気遣った。

 最終日の14日は、「希望を持って(めぐみさんは生きていると信じて)また会いましょう」と、手を握ってそう呼び掛け、笑いながら別れたと語った。

 面会を決断した理由について滋さんは、今年1月に松木薫さんの母スナヨさん(92才)が亡くなったことに触れ「われわれもそういう年齢になった。できれば行ってみたいとお願いした」と、年齢的なことを明らかにした。

 孫のウンギョンさんの存在が明らかになった2002年から11年余、横田夫妻には、それほどの「時間」を必要としたのだろう。

 拉致され、行方不明となっている娘のめぐみさんではなく、孫とその家族との面会を果たしたことで、横田夫妻の言葉は明るく、「希望」を語っていた。

 久し振りの明るいニュースだった。

 横田夫妻にとっても、拉致被害者家族会にとっても、安倍政権にとっても、真に「希望」につながる今後を期待している。

 その希望とは裏腹な危惧をしていることを、2点ばかり指摘しておきたい。


2.
 第一は、北朝鮮の拉致問題が解決に向かって進展していかない、本質的な原因を考えておく必要があるということである。

 その鍵は、米国の対朝鮮政策にある。つまり米国の反共意識が張本人だということである。

 米国の対朝鮮政策の基本は、38度線の軍事分断線を取り払い、自由主義朝鮮をつくり、中国を牽制することにあった。

 その政策に立ちはだかってきた金日成、金正日、現在の金正恩体制の崩壊を、現在も続けている。

 政治的、経済的、軍事的にと様々な圧力、弾圧、実際の戦争と軍事演習、国連での各種制裁決議と国際的孤立化、各種プロパガンダ情報を流すことなどで、常に「戦時」対応を続けてきたのは、そのためである。朝米の関係は、まだ敵対的なのである。

 敵対関係を維持しようとしているのは米国で、朝鮮停戦協定を朝米平和協定へと転換することを拒否し、朝鮮戦争の後遺症で、実体のない「国連軍司令部」なるものを温存していることも、その敵対的姿勢に他ならない。

 朝鮮側も、敵国米国の戦争挑発を警戒し、防衛態勢と「戦時態勢」を取らざるを得ず、核やミサイル実験も行わざるをえなかった。

 米国の視点からは、北の核・ミサイル実験は軍事的挑発だとして、国連での経済制裁を可決させては、政権崩壊への一里塚を用意させてきた。

 ところが、米国が予測したほどには、朝鮮の政権は崩壊へと向かってはいない。

 これまでのハードな制裁だけでは成功しないことを学習した米国は、ソ連および東欧社会主義国を崩壊へと導いたものが、文化、宗教、生活、芸術などソフト面への浸透作戦であったことを鑑み、そのリバイバル戦術を朝鮮にも向け始めた。

 その一つが人権外交で、人権問題の中に「拉致問題」を取り入れるようになったのはブッシュ政権からであった。

 小泉純一郎首相(当時)が2002年、金正日総書記との間で拉致問題を解決する前に、ワシントンに渡り、ブッシュ大統領と密談している。

 彼らは、拉致問題で膠着したときには、米国は安心してその会談の行方を見守っているが、進みすぎると必ず、何らかのクレーム情報を流しては横やりを入れてきた。

 米国の政治的計算で、日本が拉致問題の解決に結びつく交渉をし、次のステップ(過去の清算、国交正常化問題)に進むことを厳しく制限している。

 安倍政権が「拉致・核・ミサイル」解決なくして、国交正常化交渉はあり得ないとする政治スタイルでいる限り、米政権は安心して多少の日朝交渉は認めてきた。

 結局は、米国の掌の上での外交交渉、非自主的な日本政治が、拉致問題の真の解決を遅らせてきたとも言えよう。


3.
 第二は、拉致問題に対する国連機関の対応を考えてみる。

 横田夫妻が記者会見していた同じ17日、スイスのジュネーブで国連人権理事会の本会議が開催されていた。

 同会合に拉致被害者家族会代表の飯塚繁雄さんが出席して、拉致問題への協力を各国に訴える意見表明を行った。

 同時に、北朝鮮の人権状況に関する国連調査委員会(カービー委員長、オーストラリア)が拉致は「人道に対する罪」だと指弾する同調査報告(計371ページ)を提出した。

 報告書では、1950年から組織的な拉致が始まったとしている。

 (被害者は)朝鮮戦争時代に強制連行(兵士または捕虜)された韓国人を中心に約20万人が拉致されるか、北朝鮮への渡航後に行方不明になったと推定。

 日本や韓国に加え、タイ、ルーマニア、レバノン、中国マカオなどにまたがっており、少なくとも100人の日本人(この数字は、拉致被害者を支援する会からの報告であろう)が拉致された可能性があると推定報告をした。

 同時に、対北朝鮮への制裁強化を国連に促している。

 その頃、米国は対北朝鮮を対象とした大規模な米韓合同軍事演習を実施していて、国連はそのことには全く関心がないようであった。

 たしかに拉致は、人道に対する罪であり、非難されるべき行為である。

 同報告書でも触れているが、拉致は朝鮮戦争後も戦時体制を敷かざるをえない、その国際政治状況の中で発生している。朝鮮はまだ、米国と「戦争」中なのだ。

 朝鮮側も拉致は悪と認めて、日本政府に謝罪をし、解決を図ろうとしてきた。

 ところが、解決をしたのでは、米政権側の対北朝鮮政策に支障が生じてしまうので、米国は日本に圧力をかけている。

 安倍晋三政権は米国の意向を汲んで動き、日本国内に向かっては、「拉致の解決が先決」だと公約し、朝鮮に向かっては「拉致・核、ミサイル」を掲げ、米国に対しては、「圧力と対話」を主張して、それぞれへの顔向けを使い分けている。

 彼の言動からは、拉致問題の解決に汗をかいているようにも見えるのだが、拉致問題を「人質」とした朝鮮包囲作戦を、米国と一体的に取り組んでいるだけである。

 第2次安倍政権後は、日米ともにこの拉致問題を国連の場に持ち出して、人権問題化している。

 家族会を含む多くの関係者たちは、国連の場で「北朝鮮批判」決議がされるたび、国際的包囲網を敷いたとしているが、それは米国のプランのなかでの、米国だけが満足するものであった。

 今回の国連調査委員会のカービー委員長は、オーストラリア人である。

 オーストラリアはこれまでずっと、米国政策の朝鮮半島南北分断、南単独選挙、朝鮮戦争への流れの中の委員国など、国連臨時朝鮮委員団から朝鮮戦争の参戦まで、米国の朝鮮侵略政策に同調し、補佐する立場にあった。

 今回もまた偶然のことではなく、オーストラリアが委員長を務めている国連調査委員会を、米国も利用しやすかったのだろう。

 拉致問題を解決するには、その根源的な問題から解決していく必要がある。

 その根源的な問題とは、朝鮮停戦協定を転換して、朝鮮と米国との間で平和協定を締結することである。少なくとも、米国側が平和協定締結を前提とした協議の席に座った時から、国交正常化への交渉も動き出し、同時に懸案であった拉致問題解決のプログラムも用意されるだろう。

 だが、私は、拉致問題解決への「希望」だけを述べているのではなく、日本政治の現実、「戦争国家」米国との軍事同盟(日米安保)は決して、日本の安全を保障しないし、自主国家となることも規定していないことを言いたかったのだ。

 拉致は、日米安保を「国家基軸」だと信仰する政治の中で、起こっていたことを理解する必要があるだろう。

                                            2014年3月18日

「小論『国連軍司令部』の解体を国連に要求する」

「小論『国連軍司令部』の解体を国連に要求する」

                                                  名田隆司

1.
 2月28日に開かれた国連特別委員会(国連憲章および国連の役割強化)で朝鮮代表は、不法な南朝鮮駐屯「国連軍司令部」の解体問題で、特別委員会が実践的な措置を講じるようにとの要求を出した。

 代表は、「国連軍司令部」の解体問題は、国連に対する国際社会の信頼の見地からも、また朝鮮半島の平和と安全を保障する見地からも、後回しできる問題ではないと指摘した。

 未だに米国が、南朝鮮駐屯米軍の機能の一部に「国連軍司令部」の名称を残していたことは、驚きで、あきれるしかない。

 第三者は、このように「驚き」「あきれる」と評論もできるが、当時者の共和国側にとっては、朝鮮戦争がまだ続いている問題であり、しかもその時の侵略軍の象徴的な「国連軍司令部」が存在していて、今でも軍事的挑発行為を続けているので、解体を要求することは当然の事柄であったろう。

 解体作業を進めるのは、国連機関であり、国連機関が責任をもって解体するのが順当な事柄である。

2.
 さて、今の若い人たちには、「国連軍司令部」の存在と実態を、どれほど知っているのだろうか。

 それで、その現在を理解してもらうために、少し歴史を紐解いてみることにする。

 「国連軍司令部」の存在は、1950年6月に勃発した朝鮮戦争と密接に関連する、米国の謀略的な創作「作品」である。
 
 とはいえ現在においても、国際法での違法な存在である。

 「国連軍」編成を決議した当時の国連安全保障理事会(安保理)に対して、幾つもの異称を付けざるを得ないほど、異常な状態のなかで、米国が強引に決議させたものである。

 その異常さと不法性を、以下、3ポイントに分けて論じることにする。

 第1は、決議した安保理そのものが欠格であったことである。

 安保理を構成する5常任理事国のうち、ソ連代表は欠席しており、中国代表は不在という異常な中で、米国の意向だけで理事会を開催しているため、国際法学者たちはこのときの安保理会議は成立していないと主張する状況での、決議であったことである。

 ソ連が欠席(50年の1年間)していた理由は、中国の代表権をめぐってのことであった。

 ソ連は、49年10月に成立した中華人民共和国こそが正式な代表権を持っているとして、米国が主張する中華民国(台湾)代表権と対立していて、欠席戦術を取っていたのであった。

 安保理での決定は、手続き事項は9カ国(当時の非常任理事国は7カ国)の賛成でよかったものの、それ以外の重要事項には、常任理事国5カ国すべてを含む9カ国の賛成が必要であった。つまり、現在でも続いている5常任理事国が出席し、そろって賛成または反対しない事項は成立しないことになっている。

 朝鮮問題の決議は重要事項であったから、5常任理事国の出席を必要としていたが、ソ連欠席という事態は、それ自身で理事会開催の要件を満たしておらず、無効であった。

 米国が国民党政府(台湾)の中国代表権の喪失を認めなかった理由は、中越(ベトナム)国境付近に逃亡結集していた蒋介石軍残存部隊(20万前後とも言われていた)と、さらにフランス軍などを含むインドシナ半島方面の反共部隊を温存して、台湾海峡から中国大陸に向ける戦端の計画を、朝鮮戦争前に持っていたからである。

 米ソの対決が激しくなり、米国がアジア周辺国の共産主義政府・勢力の伸長に神経質になっていた時期であった。

 米ソの冷戦対決が安保理に持ち込まれたまま、朝鮮問題が米国主導で提起され、米国情報と手続きだけで決議されてしまった。そのことに時代の不条理さも感じる。

 ソ連欠席という事実は、米国にとって都合がよく、安保理を自在に活用した。

 だが、欠格理事会であったことを、私たちは忘れてはいけない。

 また、国連憲章が定めている当事者である一国からのみの情報に基づいて判断し、行動を起こす決定を下すことは許されない、という事柄にも違反している。

 安保理朝鮮問題会議を開いている席上に、もう一方の当事者たる朝鮮側(共和国)の代表を、どの時点の会合にも招請して意見を聞くことはせずに、議論をすすめ、決議していたことである。

 一方の側の一方的な意見と情報のみによって進められた会議と結論からは、公平で公正な内容を導き出せるはずもないだろう。

 これらのことから、当時のいずれの安保理決議の採択も、法的効力を有しておらず、無効であったということができる。

 無効な決議内容を、米国と追従国は「国連旗」を掲げて、軍事侵攻をしたことになる。


3.
 第2は、安保理に報告されていた情報の全てが、虚偽でしかも間接情報でしかなかったということである。

 安保理会議に招集されて情報報告をしたのは、在韓米大使ムチオ、米国連大使グロス、国連朝鮮委員会たちの、いずれも米国情報をもたらした者たちばかりであった。

 ソウルからワシントンに戦闘第1報を届けたのは、ムチオ大使であった。

 彼は、米軍事顧問団と「韓国軍」からの情報に基づき、「北朝鮮軍が25日未明、38度線一帯を突破し南下しつつある」と、その前段の戦闘状況にはふれずに、客観性のない間接情報を送った。

 ワシントンではこのムチオ第1報が「刻印」され、以後の判断基準になった。

 グロス米国連大使の場合は、ムチオ報告をさらに加工して、「報告によれば、北朝鮮統制下のピョンヤン放送は大韓民国に対して宣戦布告をした
ことを付け加えていた。

 このグロス虚報は国連と西側政界では、北朝鮮軍が侵略したとの情報となって定着していった。

 「北朝鮮が宣戦布告した」との記事が、多くの西側有力新聞で発信された。

 「ニューヨークタイムズ」(6月25日)、「ワシントンポスト」(6月25日)、「ロンドンタイムズ」(6月26日)、「朝日新聞」(6月26日)、「毎日新聞」(6月26日)などであった。

 すでに米国は、朝鮮戦争のための宣伝戦を、大々的に行っていたことになる。

 マス・パフリシティーを活用し、世界世論を誘導する手法は、何も政治や商品宣伝の場だけではなく、戦争においてこそ、それは顕著である。

 むしろ戦争がパフリシティー戦略を成長させていったといってもいいだろう。

 特に自らの正当性を効果的にアピールする戦争の情報戦では、PR会社(戦争広告代理店)を雇い、敵対者を悪の権現に仕上げていくためには、国際的影響力をもっているメガメディアを効果的に活用して、情報空間をも独占(侵害)することを手掛けている。

 朝鮮戦争時の米国は、そこにも大量の戦費を投下していた。

 さらに国連朝鮮委員会の監視団(3人)は、38度線の南側付近で状況査察を行っていたが、それとても6月9日から23日までのことで、24日にはソウルに戻っている。

 だから25日早朝の出来事などは実際の査察ではなく、米軍事顧問団などからの伝聞情報に基づくものであった。

 安保理は、当時国以外の第三者としての報告内容を、この朝鮮委員会監視団に求めていたが、同監視団の報告内容は第三者的価値も意味も持っておらず、米国にとっては都合の良い内容ばかりであった。

 それでも安保理は、彼らの報告を第三者的なものとして採用し、共和国を「侵略者」と決定する最大の根拠とした。


4.
 第3に、当時の国連事務総長のドリググ・リー(ノルウェー出身)が終始、米国寄りであったということである。

 リー事務総長は、米国情報によって行動したばかりか、ついには従わない国の代表者には職権で圧力をかける行為まで行っていた。

 安保理が、米提案の「北朝鮮軍による大韓民国への武力攻撃」が「平和に対する侵犯」だとする決議案を審議するには、情報が不足しているなどして、一部の国が問題視していた。

 それでも強引に採決したところ、必要な7票にも達していなかった。

 そこで事務総長は休憩をとった。

 その休憩中に、決議に賛成しなかった各国に対して、新たな情報を出して説得した。

 「まだ公にされていない国連事務局に届いた情報によれば、捕獲された12台の戦車のうち10台がソ連製であるばかりでなく、実際にそれらの戦車の乗組員はソ連兵士であったということが伝えられた」(オーストラリア国連代表部が本国に伝えた公電、6月25日付)と、ソ連軍兵士が戦場にいたことを仄めかした。

 その結果はフランス、エジプト、ノルウェーなどが説得され賛成に回った。

 決議は(ソ連欠席のまま)賛成9、反対0、棄権1(ユーゴスラビア)となり、可決されてしまった。

 リー事務総長が説得に利用した「ソ連兵士の参戦」情報は、国連事務局に伝えられたという記録はどこにもなく、ガセネタであることが分かっている。

 後に、マッカーサーもソ連兵士が参戦していたという証拠は一切出せなかったと語っている。(11月21日の国連朝鮮委員会との懇談で)

 事務総長のリーは、根拠のない情報と報告によって、しかも自身の権力的圧力を活用して、朝鮮人民軍に「侵略軍」とのレッテルを貼り付けてしまったことになる。

 侵略の一般的な概念は、他国の主権を武力でもって行使し犯すこととしている。

 1933年の「侵略の定義に関するロンドン条約」での定義も、開戦の宣言、他国領土への武力行使だとしている。

 以上の定義関係では、「他国の領土」が要である。

 当時も現在も、朝鮮半島の38度線は「国境線」でもなく、南北どちら側からしても「多国領土」ではない。

 南朝鮮は同一民族で、「わが民族同士」の関係である。

 だから、いかなる場合も「侵略」との概念は当てはまらない。

 しかし、朝鮮人民軍を「侵略軍」だと規定しないことには、米軍は朝鮮半島への軍事干渉ができないし、それなしに米軍が逆に侵略軍とのレッテルを貼られてしまうからで、そうなると国連も活用できないし、それなしには米軍が逆に侵略軍とのレッテルを貼られてしまうからで、そうなると国連も活用できないし、目的も達成できないことになる。

 であるから、朝鮮戦争の謀議がある、参戦行動の当初からソ連と中国が関与していたとの情報を流し、それを国際社会に信じ込ませる宣伝戦を続けていたことは、「北が宣戦布告を行った」とするニセ情報を流していたこともその一つであった。

 以上の各安保理会議は、公正性を第一とする国連の任務からは、大きく逸脱していたことになる。


5.
 次に、国連憲章に違反していた安保理が、米国の要請と主導によって、1950年6月25日から7月7日まで、断続して開き4回の決議を行った、その内容を若干見ておこうと思う。

 第1回会議を6月25日午後2時から、第2回を同日午後11時から、第3回を6月27日正午から、第4回を7月7日に開いている。(いずれも米国時間)

 そこでは、「北が侵入、38度線から以北へ戻す」(1番目の決議)、「北が侵略者で、北朝鮮軍は侵略軍」(2番目の決議)、「韓国への特別援助(軍事介入)」(3番目の決議)、「連合軍の編成と米軍の指揮」(4番目の決議)などを経て、「国連軍司令部」の編成を決定してしまった。

 だが、安保理が決議し編成を認めたのは、米軍を「中心」とする「連合軍」であった。

 その連合軍が南朝鮮の仁川から上陸する以前に、米軍は勝手に密かに「国連軍」と名称を変更して、朝鮮戦争に参戦したのだ。

 ここに米国の独善性と謀略性が示されている。

 国連軍とは、国連憲章第42条の規定に基づき、国連加盟国によって組織される軍隊であって、国際平和の維持、侵略の阻止のために、安保理の下に軍事参謀委員会(司令部)を置くことになっている。

 だから、50年7月に決議した「連合軍」はその指令部は安保理ではなく、米軍の側に置くことを決定していたのだ。

 決議した軍隊が「国連軍」であれば、その指令部を米軍の下に置く決議をするはずがない。米国は連合軍の指揮権、指令本部を米軍が握って、部隊を意のままに動かすことを考えていたから、「連合軍」名称での決議で良かったのだ。

 だが、実際の戦場では、「国連軍」の方が戦い易かったことも事実だろう。

 米国が勝手に「国連軍」と名称を変更したことは、安保理での決議違反である。

 現在、南朝鮮に駐屯している「国連軍司令部」は、安保理違反であると同時にその実態さえも喪失してしまっている。

 米国が安保理決議の軍隊であると主張するなら、その「司令部」は安保理に返還する必要があるし、安保理もまた「国連軍司令部」は詐称していると米国を追求する必要がある。

 だから、共和国がその不当性と違法性から、解体を要求したのは当然のことである。


6.
 朝鮮停戦協定調印後61年、実体もない「国連軍司令部」は米軍と一体化しているが、米国はその名称を保存し、再活用することを今でも目論んでいる。

 昨年の「キー・リゾルブ」「フォール・イーグル」米韓合同軍事演習には、「国連軍司令部」の名称を復活させて、その名の下にフィリピン、オーストラリア、イギリス、タイなど、かつての朝鮮戦争追従軍と、日本の「自衛隊」までを巻き込んで、共和国の中枢部を狙った大規模軍事演習を実施していた。

 さらに同年10月、日米と米韓による2プラス2会議で、日韓を中核とする「国連軍」再編成プログラムが話し合われていた。

 すでに死語となっていた「国連軍司令部」を未だに手放さない米国の魂胆は、停戦協定の存在との一帯感にあるからであろう。

 61年前の停戦協定の存在も、「国連軍司令部」の存在も、米国にとっては朝鮮半島の危機情報を創作するために必要であり、共和国への再侵略を宣伝するための道具として必要であったのだ。

 帝国主義者の傲慢極まりない姿勢である。

 この問題を放置してきた国連機関にも、問題があるといえる。

 安保理を欺いて編成した「国連軍司令部」、しかも国連機関のどこも認定も決議もしていない「国連軍」の名称を、国連機関はいつまで放置しているのであろうか。

 詐称、不当表示、不法使用がはっきりしているにも関わらず、国連機関は何故、米国に忠告し、解体決議が進められないのか。

 同時に、この「国連軍司令部」の存在が、朝鮮半島の緊張激化の一翼を担っていたのだから、国連機関には、その解体を命じる必要と任務があるはずだ。

 国連機関の使命には、国際平和を維持する責任がある。朝鮮戦争に関与した国連機関であれば、なおのこと朝鮮半島の平和安全問題には責任があるはずだ。

 朝鮮半島の現状を考えた場合、朝鮮人民が最も望んでいる自主的平和統一を、最も阻んでいるのが、朝鮮停戦協定であったことがはっきりとしている。

 その停戦協定を軍事面で支えているのが、「国連軍司令部」の存在なのである。

 進歩的知識人たちが、米国を「戦争国家」だと批判する所以である。

 実体がなくなっていたとはいえ、「国連軍司令部」の存在は、このように朝鮮半島に緊張と危機をもたらしている「外国軍」なのである。

 このことから、朝鮮半島からの外国軍の撤退を確認した朝鮮停戦協定にも違反している。

 しかもこの外国軍隊は「国連」という名称を被せている。南朝鮮に駐屯しているこの「国連」名の外国軍は一体、国連機関とはどういう関係にあるのだろうか。

 例え、国連機関に何らかの関係性があったとしても、それをいつ、どの機関が、どのような審議を経て、今も南朝鮮に駐屯していることを許しているのかを、国連機関は世界に明らかにすべきであろう。

 一方、共和国が行っている核・ミサイル実験には、軍事的挑発だとか脅威だとして、国連機関は、「制裁」決議を繰り返している。

 共和国の核・ミサイルが「制裁」対象になるほどの脅威ならば、南に駐屯している「国連軍司令部」は、それ以上の脅威感を朝鮮人民に与えていることを伝えておく。

 最後に真実性、公平性、公共性とともに、平和安寧、発展維持を秩序づける国際的機関たる国連に、いま一度、朝鮮半島における歴史と現実政治を、しっかりと見定めたうえで不公正なもの、真に脅威となっているものの存在、朝鮮民族の平和発展と自主権を妨げているものの存在を糾明し、その除去に英断を下すことを強く望み、その速やかな行動を要求するものである。


                                          2014年3月17日 記

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」12.中国軍の参戦

12.中国軍の参戦


 中華人民共和国を樹立した直後の毛沢東は、台湾侵攻の時期と、その際の米国の動向を探っていた。

 しかし、金門作戦(49年10月下旬)の失敗から、台湾渡海作戦の計画は慎重となり、十分な準備態勢(特に東北地方への兵力増強)を整える必要性を痛感しており、計画を51年春以降に順延することを考えていた。

 その頃(50年初め)、国民党系の主力部隊が壊滅後の、残存兵力10数万の部隊が中越国境付近山岳地帯に逃げ込んでいた。

 同地帯にはさらに数万のフランス軍がいた。

 万一、米国が越北地域に矛先を向けてきたら(毛は、その可能性が十分にあると考え、慎重にもなっていた)、米・仏・蒋介石3軍の兵力は、20万から25万の大軍になるだろうと予測していた。

 この時、朝鮮戦争が勃発し、トルーマン米大統領が6月27日正午(ワシントン時間)、声明を発表した。

 内容は、米空・海軍の朝鮮戦争介入と、第7艦隊の台湾海峡進駐、フィリピン、ベトナムにおける反共産主義勢力の支援であった。

 毛沢東が危倶していたように、ベトナム残存国民党軍および米軍が動き出したのだ。

 「朝鮮戦争勃発直後、国民党残存部隊は、米・仏帝国主義にそそのかされ、内外呼応して、広西国境地域で撹乱戦術を意図していた」(中国西南軍区副司令官兼雲南軍区司令官の「陳日記」中国解放軍出版社1986年6月刊)

 これによって北京は、インドシナ半島の動向を朝鮮戦争と関連づけ、米・仏・国民党の連帯行動を警戒していた。

 トルーマン声明の10日後(7月7日)、中国指導部は対台湾、対チベット政策に大幅な調整を行い、軍隊の東北辺防軍の創設を決定した。

 次いでフランスが米主導の「国連軍」に参加し、朝鮮戦争に兵力を投入する意図の牽制を計った。(仏軍が朝鮮戦場に派遣する兵力を制限させるため)

 毛沢東は、朝鮮半島で米軍の進撃を阻止できなければ、米軍はさらにインドシナ半島から中国に脅威をあたえるだろうと懸念をし、米帝国主義の朝鮮半島全域の占領を絶対に許してはならないと考えていた。

 この時点で毛は、朝鮮戦争への介入もやむをえず、米軍と交戦する可能性のあることを意識するようになっていた。

 米政府が朝鮮に派兵し、台湾を侵略し、アジアへの侵略をさらに強化する計画を立てていると判断して、われわれも金日成同志と緊密な連絡を保たなければならない(周恩来)として、軍事オブザーバー・グループを平壌に派遣した。

 それはまだ軍事観察の派遣程度で、米国を刺激してはまずいと考えていたのか、西南軍区情報部長の柴成文を、駐朝臨時代理大使に任命して、大使館員(外交官資格)一行が7月10日、平壌に到着したように装った。

 平壌では連日、米軍機からの爆撃を受けていた。

 北京はこの柴成文の報告から、現代戦での空軍の重要性を改めて認識し、ソ連に対して空軍支援を強く要請した。

 スターリンが中国からの空軍支援要請には応えなかったため、中国はソ連から武器装備を購入し、自国空軍の育成を早めざるを得なくなった。

 8月4日の党中央政治局会議で、参戦を想定した戦争準備を加速させることになったが、まだ参戦を決定したわけではなかった。

 軍事参謀の作戦室が独自に分析した結果、「国連軍」が9月中旬頃に仁川上陸の可能性があるとの報告を8月23日、毛沢東と周恩来に報告している。

 毛沢東は「道理がある」として、その情報分析を肯定したうえで、3点の命令を出した。

 1.情報部門は朝鮮と、米・英・日の動向を厳重に観察せよ。
 2.われわれの見解をスターリンと金日成同志に通報し、彼らの参考に供せよ。
 3.東北の第13集団軍は準備を進め、有事の場合、即刻出動可能な状態で待機せよ。

 中国側からの通報に対してソ連は否定し、朝鮮側もすぐの対応を取らなかった。

 もっとも、朝鮮人民軍は全兵力を釜山戦線に投入していたから、補強する余力がなかったのかも知れない。

 この頃の毛沢東は、米国は(第3次)世界大戦を発動するための極東での基地を準備するため、朝鮮戦争に介入したのだと考えていた。

 中国はだから、米国が行う局地戦争を押し返すことによって、初めて世界大戦の勃発を阻止することが出来る。それが中国の、朝鮮への参戦の最大の理由だと、幹部たちに説いていた。

 党幹部内では、毛沢東の考えはなかなか理解されず、常に少数派であった。

 理由は、中国国内の経済、軍事、政治のいずれの角度からみても、まだ朝鮮に出兵するだけの力量はなく、それらを国内に振り向けるべきだとの意見であった。

 それと併せて、ソ連からの参戦支援がまだ得られていないからでもあった。

 だが毛沢東は対米、対台湾戦の観点から、参戦を主張し説得を続けていた。

 毛沢東が参戦を主張してから3カ月の10月2日、党政治局拡大会議で、10月15日に参戦することを決定した。

 同日、毛沢東はスターリンに電報を送った。

 「朝鮮の同志を援助し、アメリカとその手先である李承晩の軍隊と戦うことを決定した」と言う内容で、中国は自身の判断で、自身の戦略の延長線上から、朝鮮への援軍を決定した後に、スターリンに伝えたのである。

 スターリンの「命令」で中国が出兵したとする西側説は、間違っている。

 中国軍の介入のタイミングは、1朝鮮人民軍が洛東江まで攻め込んだとき、2国連軍の仁川上陸直後一など、幾度かあったはずである。

 だが、参戦決定も参戦準備も以外と時間がかかり、時機を逸している。

 「敵軍が38度線を越え北上すること」を、参戦の時機(8月31日の軍事会議)と判断し、中米対決がいよいよ避けられないと考えた時に、大軍出動の決定をみたのであろう。

 参戦準備を急いだ。

 1.中国籍の朝鮮青年3000人余を「連絡員」(通訳、地理案内、人民軍部隊との意思疎通役など)として、各部隊の通訳係りに配置した。彼らの思想性を重視し、大部分が中国共産党員、または共産主義青年団員の各地域の幹部たちを集めた。

 2.部隊幹部たちにもまた、簡単な日常会話ができる朝鮮語を勉強させた。実際、各部隊に配置された「連絡員」たちは、部隊が朝鮮に進出してからは、道先案内、宿営地調査、敵情偵察、対民衆宣伝、各種交渉などの重要な役割を果たしていたから、武器力で支える中国軍の戦力を十分にカバーしていた。

 そのことを知らない米軍は、中国軍の偵察力、土木工事力、夜間戦闘での卓越した力、追撃速度などに驚嘆していた。

 参戦軍の名称については、毛沢東と周恩来は当初、「中国人民支援軍」と考えていたようだ。

 米国に対して、中国侵略への口実を与えず、国際紛争において有利な立場を確保するための命名であった。

 しかし「支援軍」の名称では、中国政府が関与していると解釈され、かえって米国に戦争拡大への口実を与えることになるとの意見が出て、スペイン内戦の前例から、「義勇軍」(中国語では志願軍)がよいとなった。

 それで、「中国人民志願軍(義勇軍)」となった。

 義勇軍の総司令官には、毛沢東は林彪を考えていたが、彼に拒否(10月4日)された後、参戦直前になって彭徳懐に決定した。

 朝鮮側(金日成)に出兵の意思を伝えたのは、10月8日の夜であった。(柴成文臨時代理大使が伝達)

 この頃、「国連軍」が38度線を越えて北上し、その勢いが平壌にまで迫っていたから、金日成は山岳戦(パルチザン闘争)となっても、米軍と戦うことを覚悟していた時期だったかも知れない。

 金日成と朴憲永(当時、外務大臣)は、北政権内のナンバー1とナンバー2であった。

 朴憲永は解放直後のソウルで朝鮮共産党を再建し、46年11月の南朝鮮労働党結成(共産党、人民党、新民党が合党)では代表となっていた。

 南労党は、47年以降の南朝鮮のゼネスト、パルチザン闘争などを指導して、米軍と李一派との闘いの先頭に立っていた。

 左翼組織への弾圧が厳しくなり、朴憲永ら幹部たちは47年後半、入北して南の闘争を指導するしかなかった。

 朴憲永は金日成に、済州島4.3蜂起(48年4月)や麗水・順天の軍人暴動(48年10月)などの華々しい闘争のすべてを、南労党が指導しているのだと報告していたろう。

 南労党員とその支持者は20万近くおり、いつでも武装闘争を支援できる準備ができていると、自らの活動と結び付けて誇らしく語っていたと思われる。

 金日成もまた、偵察員らの報告を通じて、49年半ば頃までの南朝鮮における人民闘争を把握しており、南での武装闘争への期待を抱いていたのかも知れない。

 李承晩が「国家保安法」(48年11月)を振りかざして以降、南労党と一般人民たちとの距離間、幹部や関連者たちの逮捕、拘束、拷問、殺害などの嵐によって、闘争は鎮圧されて、朴憲永らが想定していた力量も下降していた。

 開戦後、ソウルをいち早く解放した人民軍がさらに南下戦闘を行っているが、朴憲永が豪語するほどの人民共闘がなかったのもそのためである。

 そうした南の現実を把握していなかった朴憲永に、金日成が疑問と疑惑をもった第一の点であった。

 第二は朴憲永の判断とは違って、米軍が参戦したことであった。(開戦前の朴は、米軍の参戦は有り得ないと主張していた)

 このことで金日成は、朴は偽情報をもたらし、米軍を戦争へと誘因したのではないかと疑っていた。

 第三は、米軍が38度線を北上してからの戦法の違いによる対立、激論であった。

 金日成は山岳部に入り、パルチザン闘争を行ってでも抵抗戦を続けていくと主張したのに対して、朴は戦線を後退させて、ソ連および中国からの援軍を要求していくべきだとの主張の違いではなかったろうか。

 柴臨時大使が中国の援軍決定を知らせにいった7月8日夜、そのドアの前で2人の激論と怒声を聞いたと証言している。(朴は挨拶もせずに出ていったとしている)

 二人とは金日成と朴憲永のことである。

 またそれは、その時まで朝鮮側は中国の参戦を全く知らなかったことを、証言もしていることになる。

 この夜の激論などがこの後、朴憲永と南労党幹部たちが「米帝のスパイ」との嫌疑で、粛正、処刑される遠因になったのかも知れない。

 金日成は中国参戦の情報を聞いた直後の10月11日、「鮮血をもって祖国のすべての土地を守ろう」と、帝国主義を打破する放送演説を行った。

 出兵に対する中国側の大義名分は、「朝鮮人民の解放戦争を援助し、米帝の侵攻に反対し、朝鮮人民、中国人民および東方諸国人民を守るために、7月から設立している東北辺防衛軍を義勇軍に改編し、朝鮮に出動し、侵略者に対する作戦を行う」ということであった。

 そのスローガンは「抗美援朝、保家衛国」であった。

 マルクス・レーニン主義の国際主義的立場と愛国主義から、朝鮮半島を主戦場とした米帝国主義の対中侵略計画を打破する、との決意であったのだ。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」11.「国連軍」の編成

11.「国連軍」の編成

 国際連合安全保障理事会(安保理)は一体、朝鮮問題および朝鮮戦争の何を討論し、決議をしたのであろうか。

 国連が朝鮮への軍事介入の決定を下した情報源は、国連朝鮮委員会の現地監視団(彼らは6月24日には38度線から撤退している)とムチオ米韓国大使が、韓国軍と李承晩政権から得た間接情報に基づく報告だけであった。

 安保理は国連の主要機関の一つで、国際の平和と安全の維持の主要な責任を有し、侵略行為の認定強制措置の発動など、国連の集団安全保障の中核的任務を負っている。

 国連憲章は人民の同権と自決、加盟国の主権平等、紛争の平和的解決、武力行使と武力による威嚇の禁止などを決め、集団安全保障の制度を確立している。

 この集団安全保障制度は、安保理に集権化されている。

 国連加盟諸国間で相互不可侵を約束しているのだが、これを犯した(侵略)場合は、抑圧のために各国が協力することになっている。

 安保理の決定は、全加盟国を拘束する。

 常任理事会は常任理事5カ国、総会が任期2年で選挙する非常任理事10カ国(当時は7カ国)の計15カ国で構成している。

 手続き事項は9カ国の賛成でよいが、それ以外はすべての常任理事国(5カ国)を含む9カ国の賛成を必要としている。

 米国は、国連憲章の集団安全保障制度部分を都合よく解釈し、一方的な間接情報だけを上程し、安保理の規定を無視して、北朝鮮軍に「侵略軍」のレッテルを貼り付けた。

 以下、米軍の戦争介入と米国の国連での暗躍とを、時系列的にみていくことにする。

 1 朝鮮戦争の第1報がワシントンに届いたのは、6月24日午後8時(米東部標準時間)で、ソウルからの公電(大使館から)が関係部署に到達したのは、さらにその1時間後のことであった。

 週末をカンザス州の自宅で過ごしていたトルーマンは、急ぎワシントンに戻り、直ちに国家安全保障会議と国連安全保障理事会を招集した。
米国家安全保障会議は25日午後11時(ソウル時間26日午後1時)、韓国を援助する方針を確定した。

 米統合参謀本部が極東軍最高司令官マッカーサーに、指令第1号を出した。

 その内容は、韓国軍への弾薬、装備の補給、在韓米人の引き揚げ、調査団の派遣などであった。

 続く指令第2号(ソウル時間、27日正午)で、海軍と空軍の介入を命じた。

 米国はいち早く参戦していたことになる。

 実際、日本の呉や福岡から飛来したB26爆撃機が、26日には38度線付近に爆撃していたとの報告が韓国軍から出ている。

 2 6月25日朝(ソウル時間)、ソウルからムチオ米韓国大使が国連の米代表アーネスト・グロスに報告を送った。

 その内容は「米軍事顧問団の現場指導員によって、部分的に確認された韓国軍の報告によれば、北朝鮮軍は今朝未明、いくつかの地点で大韓民国領土に侵入した」というもので、韓国軍からの報告を米軍事顧問団が聞いて確認した内容のもので、間接を二度重ねた間接情報であって、客観性のないものであった。

 3 米国連代表アーネスト・グロスは、ムチオの電文報告をさらに脚色して、トリグプ・リー国連事務総長に以下のように伝えた。

 駐韓米大使から国務省に入った連絡によれば、北朝鮮軍はいくつかの地点で大韓民国の領土に侵入した。…報告によれば、北朝鮮統制下のピョンヤン放送は、大韓民国に対して宣戦を布告したという」(注、北が宣戦を布告したというのは、グロスの創作である)

 4 実際のピョンヤン放送は、韓国軍が38度線を越えて海州、金川、鉄原一帯を侵攻し、人民軍はこれに反撃を加えたという内容であって、「宣戦布告」などはしていない。

 「宣戦の布告」とは、他国に対しての戦争開始の「宣言」であったのだから、同族へのパルチザン闘争の延長であったと考えていた北が使用するはずもない。

 5 米国側の一方的な情報によって、北朝鮮が宣戦を布告したとの記事を、西側の多くの有力紙が掲載した。

 「ニューヨーク・タイムズ」(6月25日)、「朝日新聞」(6月26日)、「毎日新聞」(6月26日)などである。(注、これらの新聞記事は国連にも影響を与え、安保理事会での証拠の一つにされたが、米国による宣伝戦の一つであった)

 6 米国が要請した国連安保理は、25日午後2時(米国時間)に緊急会議を開いた。

 常任理事のソ連は、中国の代表権問題に抗議して欠席戦術をとっていた。

 その中国(中華人民共和国)は当然の合法的な議席が奪われたままで、当事者の朝鮮側(共和国)の代表は招請されないという異常な会議で、法的効力を有する決議を採択するようなものではなかった。

 国連憲章では、当事者である一国からのみの情報に基づいて判断し、行動を起こす決定を下すことは許されていなかった。

 それで、国連事務総長のドリグブ・リーは、韓国にいた国連朝鮮委員会からの報告を求めた。

 7 事務総長のリーが要求し、国連に25日午後届いた朝鮮委員会の報告。

 「大韓民国政府の発表によれば、6月25日午前4時きっかり、北朝鮮軍は大挙して38度線の全域にわたって攻撃をしかけてきた。

 また午前11時、北朝鮮がピョンヤン放送を通じて宣戦布告を行ったと言う噂が流れたが、どの筋からもこのことについての確認はえられていない。

 李承晩大統領はこの放送が公式通告だとは考えていない」(注、国連への報告のために25日午後2時、国連朝鮮委員会の会議にムチオ米大使も出席していたというから、それだけでも国連と米国との親密さが分かり、米国磁向を国連が作文していたことも事実のようである)

 国連朝鮮委員会の報告は、委員会独自の調査や情報ではなく、韓国政府の発表をそのまま伝える韓国側のメッセンジャーにしか過ぎなかった。

 しかも、米国連大使グロスが流した北の宣戦布告説は、この時点では否定している。

 8 事務総長リーは、韓国駐米大使ムチオの「確認されていない」報告を、唯一の法的根拠として、北朝鮮軍を「侵略軍」だと決め付けてしまった。

 そして、米国が共和国を「侵略者」とする開戦前から用意していた決議案を、一部修正して可決させた。

 一部修正した部分は、米国の「北朝鮮の武力侵略」を「南朝鮮にたいする武力攻撃」と修正し、双方に「戦争行為の中止」を促し、「北朝鮮軍の38度線への撤退」を要求するとした内容であった。

 米軍の武力介入(参戦)を容認する最初の「決議」は、このようにして可決された。

 9 トルーマンは、安保理が米提案(最初の決議)を可決したその日の夜(米国時間、25日午後11時)、国務長官、国防長官、3軍の各長官と参謀総長らを招集して、第1回プレアハウス会議を開き、マッカーサーに作戦指令第1号を発令した。
 
 翌日の第2回プレアハウス会議で、朝鮮に海空軍を投入(作戦指令第2号)することと、国連安保理で韓国に「特別援助」(国連軍の編成)を決議させることを決めた。

 10 ニューヨークでは直ちに国連安保理が再開された。

 米国の意図に沿った駐韓米大使ムチオと、国連朝鮮委員会の2つの報告に基づいて、決議文が採択された。

 決議文の内容は「北朝鮮軍による大韓民国への武力攻撃」が、「平和に対する侵犯」になるとして、北朝鮮軍の撤退を要求すると同時に、国連の構成国にはこの撤退要求を確実にするための協力を呼び掛けた。

 これが第2の決議で、北朝鮮軍を「侵略軍」だとする前提を用意していた。(注、この決議は北の意見も聞かずに、紛争当事者の一方的な主張に基づいて決定した)

 11 第2の決議案の進行をリードしていたのは、事務総長のリーであった。

 国連憲章でいうところの、当時国以外の第三者による確認(国連朝鮮委員会の報告は、その役割を果たしていない)はなかった。

 朝鮮委員会の監視団が38度線にいたのは6月9日から23日にかけてのことで、25日にはソウルに戻っていて、現地情報を伝えるための「監視役」を放棄していた。

 そのことをリーは知っていたから、監視団の報告内容が第三者的意味を持っていなかったことぐらいは、十分に理解していたはずである。

 さらにリーは、米国以外の安保理事会のメンバー国に圧力かけていたのだ。

 米国が提案した決議文は当初、裁決に必要な7票には達していなかった。(当時は常任5カ国、非常任理事6カ国で構成されていた)

 休憩時間中にリーは、決議文に賛成しなかった国に対して、以下の説得を行った。

 「まだ公にされていない国連事務局に届いた情報によれば、捕獲された12台の戦車のうち、10台がソ連製であるばかりでなく、実際にそれらの戦車の乗組員はソ連人兵士であったということが伝えられている」(オーストラリア国連代表部の6月25日付けの緊急海外電報として、ギャバン・マコーマックは『侵略の舞台裏』で伝えている)

 その結果、フランス、エジプト、ノルウェー(リーの出身国)が説得されて、賛成にまわっている。

 決議は(ソ連欠席のまま)賛成9,反対0、棄権1(ユーゴスラビア)で可決された。

 12 リーが説得材料に利用した「ソ連兵の参戦」情報は、国連朝鮮委員会からニューヨークの国連本部に伝えられたという類いの記録はどこにもない。(このガセネタは韓国軍か韓国軍の米軍事顧問団からの情報であったのだろう)

 後日(11月21日の国連朝鮮復興委員会との昼食会で)、マッカーサーは「ソ連と北朝鮮による侵略に関する密接なつながりがあったという証拠は一切見出だせない」と認めていた。

 捕獲したソ連製兵器も、貿易を通じてのものだろうと考えられていたのだ。

 事務総長のリーは、根拠のない情報と報告によって、しかも安保理緊急理事会に強い圧力をかけ続けたうえで、北朝鮮軍に「侵略軍」とのレッテルを強引に貼り付けたことになる。

 後段、リーと米国との「黒い」政治的取引があったことを、多くの人たちが証言しているから、この時から安保理の公平性はなかったことになる。

 13 侵略の概念は一般に、他国の主権を犯し、諸民族を抑圧するためにおこなう武力による威嚇、または武力の行使だと認められている。

 1933年の「侵略の定義にかんするロンドン条約」での定義も、開戦の宣言、他国領土への武力行使だとしている。

 以上の定義の要は、他国領土への武力侵攻である。

 当時も現在も、朝鮮半島の38度線は「国境線」ではなく、戦争前は政治的「分断線」で、現在は「軍事分界線」にしか過ぎない。

 戦争前から南北2つの政府が存在していたとはいえ、どちらの政府とも南北統一を前提とした政治「勢力」である。つまり同一民族であったのだから、朝鮮半島の場合は、侵略の概念は当てはまらない。

 北朝鮮軍を「侵略軍」にするためには、ソ連および中国軍が当初から参戦していたとするしかなく、そのための「ガセネタ」が安保理で議論されていたのだ。

 北朝鮮軍を「侵略軍」だと指定することによって、米軍の参戦に抵抗感(内外ともに)をなくしていくというのが、米国の作戦であった。

 14 トルーマンは27日正午(米時間)、米国が朝鮮の内政に武力干渉していくことを、公式に宣言した。これは米国の宣戦布告である。

 同日、再び安保理が開かれた。(米国の強い要請で)

 米国は、自らが決めた韓国への「特別援助」案(国連加盟国に韓国への援助を勧告するとする内容)を提出、一部の国の反対と棄権があったものの、ここでも米国案が強引に採択された。これが第3の決議である。

 安保理は、米国の横暴な内政干渉(朝鮮半島の統一政策)と、さらにトルーマン声明を「合法化」してしまった。

 以後、このことで安保理は国連憲章に違反する「機関」となってしまった。

 15 6月29日午後5時(米時間)、トルーマンは国家安全保障会議を開き、米海空軍の作戦区域を38度線以内に限定していた6月26日の命令を取り消して、その範囲を北朝鮮全域に拡大する権限をマッカーサーに与えた。全面的な参戦である。

 翌日には、地上部隊の地域制限も撤廃し、北上を命じた。

 このように、米帝国主義の全面的な武力侵攻と干渉(軍事行動)が先行していたために、国連は事後的に「国連軍」の体裁を整えたにしか過ぎないことになる。

 16 安保理は7月7日、4番目の「決議」を可決した。

 決議内容は、6月27日の「勧告」に従って、各国が提供した兵力で「国連軍」を編成し、その最高司令官(国連軍司令官)を米国が任命するというものであった。

 また、作戦中に国連旗を使用することを許可する、とした決議も採択した。

 これによって米国は、極東軍総合司令官のマッカーサーを、「国連軍」司令官に任命した。

 さらに「太田協定」に基づいて韓国の陸海空軍総合司令官をも兼任し、名実ともに「極東の帝王」が実現した。
 
 朝鮮戦争に参戦した「国連軍」15カ国は、イギリス、オーストラリア、南アフリカ、ニュージランド、フランス、カナダ、トルコ、ギリシア、ルクセンブルク、エチオピア、タイ、オランダ、コロンビア、フィリピン、ベルギーであった。

 これまで朝鮮半島の分断政策に荷担してきた「国連臨時朝鮮委員団」および「朝鮮委員会」を構成してきたオーストラリア、トルコ、タイ、オランダ、フィリピンなどが、それぞれ軍隊を出していることは、「委員団」や「委員会」の公正性も疑わざるを得ない。

 以上のように国連(国連軍)が朝鮮での戦闘に関与することになったすべての決定は、常任理事国であったソ連が安保理を欠席しているときに採択されたものである。

 このこと自体で、国連憲章第27条3項に違反している。

 第27条3項は「(議事手続き事項以外の)その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意票を含む7つの理事国(注、63年に修正されて9理事国となった)の賛成票によって行われる」となっている。

 であるから、ソ連が欠席(朝鮮問題とは関係はないが)していた安保理そのものが、有効かどうかが問われている。

 さらに同憲章第32条の規定も重要視する必要がある。

 「安全保障理事会の理事国でない国際連合加盟国又は国際連合に加盟していない国は、もしそれが安全保障理事会による審議中の紛争の当事者である場合、この紛争に関する討議には、投票権なしで参加するように勧誘されなければならない」としている。

 つまり、一方の当事者である北の代表者が意見を述べる権利を規定していたにも関わらず、それが実行されなかった。

 国連の主要な任務は、「国際の平和と安全の維持」のため、努力することにあったはずだ。

 ところが、朝鮮の場合はそれとは反対で、戦闘地域を拡大し、戦争(侵略)の張本人となり、問題解決をより複雑にし、かつ、今日まで問題解決(停戦協定を平和協定に変更する)への努力と能力を少しも発揮していない。

 また、「国連軍」も正式な討論と決議を経ないままでの、米軍傘下の「連合軍」であったにも関わらず、国連は未だに解散や解消を命じていない。

 国際連合軍は、国際連合憲章第42条の規定に基づき、国連加盟国によって組織された軍隊である。

 国際平和の維持、侵略の阻止のため、安全保障理事会の下に軍事参謀委員会を置き、軍事力を組織するとしている。(だが、この方式はまだ実現していない)

 これまでは、米軍を主力とする連合軍が組織されただけである。

 56年のスエズ戦争、60年のコンゴ紛争、64年のキプロス紛争に際しての「国連軍」もしくは「国連平和維持軍」は、いずれも憲章に規定された本来の「国連軍」ではないのだ。

 米帝国主義が国連機関と「国連軍」を軍事介入の道具に利用しただけなのだ。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」10.「大田協定」の問題点

10.「大田協定」の問題点

 朝鮮人民軍は6月28日、ソウルを解放してなおも南下をつづけて、7月6日までには平沢、安城、陰城、忠州、寧越、三陟に進出していた。

 人民軍の強さは、戦車部隊を前線に押し立てた戦術の上に、すでに中国東北地方での解放戦を経験していた部隊が中核であったこと、さらに自主統一への強い意思を兵士たちが共有していたからである。

 李承晩は早々にソウルを脱出し、忠清南道の道都の大田(テジョン)に引き下がり、そこを「臨時首都」としていた。

 大田は全羅南北道と慶尚(キョンサン)南北道に向かう主要経路の分岐点で、南朝鮮の交通要衝であると同時に、軍事戦略上の要衝にもなっていた。

 人民軍は要衝を防御していた米第24師団を完全に壊滅し、7月20日の12時に大田を解放した。

 師団長ディーンは山中をさ迷ったすえ捕虜となっている。

 李承晩は大田が陥落する直前の7月14日、マッカーサーに宛てた「要請書」を急いで出している。

 「大韓民国」のために国際連合が共同の軍事的努力を行なうにあたって…現作戦状態が継続するあいだ、いっさいの指揮権を委譲する光栄を有す」と、韓国軍の作戦指揮権を「国連軍」(実質、米軍)に委譲する「願書」であった。(これとて、米軍事顧問団の入れ知恵であったろうが)

 これが即ち、「大田協定」(7月14日)である。

 この時の李承晩の政権と国軍は、ほとんど崩壊の瀬戸際に追い込まれていたのだから、彼としては、全てのことを米国に任せてでも、「北侵」目的を達成したいとの思いを、マッカーサーに託したのであろう。

 しかし一国の命運、国軍の「作戦権」を他国軍に自ら委ねるという行為は、当然ながら当時から批判があった。

 このことは、戦時の一時的な応急措置とはならず、現在も韓国軍の作戦指揮権は、米軍が持つという異常な状態となっている。(現時点は、戦時作戦権のみ米軍にある)

 マッカーサーは直ぐさま、韓国軍の作戦指揮権を米第8軍司令官、米極東海軍司令官、米極東空軍司令官に、それぞれ委譲する措置をとった。

 大田協定は当初、間接統制であったようだ。(テストケースの期間を置いたのだろう」

 間接統制とは、米第8軍司令部(当時は大邸=テグにいた)の作戦命令が、韓国陸軍本部(当時、大田から大邸に移動していた)に伝えられ、その後、韓国軍の各軍団司令部や師団司令部に伝達するという方式をとっていた。

 その場合の伝達は、米第8軍司令部一韓国陸軍本部一韓国陸軍本部前進指揮所一各軍団・師団となる。

 こうした間接統制が直接統制となるのは、51年3月以降である。

 米軍は作戦指揮統制問題を、朝鮮戦争開戦前から検討していた。

 「国連軍」を創設することになると、米国は全軍指揮の一元化、米軍による全般統制権の実行を確実なものとなるよう、計画していた。

 大田協定は7月14日、李承晩がマッカーサーに書簡を出したことで結ばれたとしているが、実際は、その前日の13日午前1時、米第8軍司令官ウオルトン・ウオーカー中将が、韓国内の第8軍部隊に指揮権(戦闘命令)を発動したのと同時に、韓国軍にも発動したことによって、以後の作戦指揮権の一元化を公表することによってすでに始まっていた。

 米国は既成プランを、法的に「合法化」するために、瀕死の李政権を利用した。

 もう一点は、当時の李承晩は正式な大統領ではなかった、ということである。

 50年5月に実施した第2回国会議員選挙の結果は、李承晩の自由党が少数派に転落していて、脅迫や誘惑術によっても多数派を形成することが出来なかった。

 韓国大統領の選出方法は、国会議員による間接選挙であった。

 大統領となるためには、与党の安定多数が必要であった。

 ところが少数与党の自由党では、李承晩を大統領に選出できないばかりか、首相さえ選出できないままで、戦争に突入していた。

 李承晩自身が「臨時大統領」だと名乗っていても、それは自由党や自分自身で勝手に命名しているにしか過ぎない。

 大統領も首相も不在の「政局」は6月27日、密かに釜山へと逃げ出した。

 「政権」機能を喪失したままの李承晩の下で、戦争を継続していくことは、さすがにまずい(戦意高揚に関わる)と考えた米国は、直接選挙による大統領選出をサゼスチョンした。

 52年には釜山に「臨時政府」を置いていた李承晩は、直接選挙による大統領選出のための憲法改正案を5月14日、臨時議会に提出した。

 多数派にはなれなかった自由党の提案では、憲法改正の反対派の勢いが強く、大混乱となった。

 反対派議員を威嚇するために5月26日、釜山一帯に「非常戒厳令」を出し、さらに兵力を投入して、戦争中で選挙は難しいと難色を示す陸軍本部側(選挙後、陸軍参謀総長を更迭した)を押さえて、新大統領選挙法案を7月15日に強引に可決させた。

 大統領選任を国民直接選挙制とする部分だけを抜き書きにした憲法改正で、これを政治波動(チョンチバドン)と言っている。

 8月5日に「選挙」を実施し、やっと再選大統領に収まった。

 大田協定のずっと後のことである。

 このようであったから、韓国軍の作戦指揮権を米軍に委譲する儀式のときには、彼は「韓国政権」を代表する大統領ではなかったのである。

 そうした儀式が現在まで律しているところに、韓国と韓国軍が米国と米軍の「カイライ」だと言われる所以である。

 毎年、毎月のように共和国を威嚇するために繰り返し実施している米韓合同軍事演習は、決して朝鮮半島の平和統一とは相入れないものである。

 先ずは、米軍が握っている作戦指揮権を返還させることが、韓国政治の主体性の始まりとなるであろう。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」9.直前の米韓の動き

9.直前の米韓の動き


 1950年、朝鮮戦争直前の米韓の動きを、時系列的に追ってみよう。

 1 トルーマン米大統領は1月5日、「台湾不干渉主義」の声明を発表。

 米国はもはや台湾への利害関係を認めず、中国人民が台湾解放戦争をおこなっても、蒋介石軍への軍事援助はしないから、中国も朝鮮紛争の場合は介入しないようにとの、毛沢東へのメッセージでもあった。

 2 米国務長官アチソンは1月12日、「アメリカの極東防衛線は、アリューシャン列島から日本本州を経て琉球に結ばれ…琉球からさらにフィリピンにつながる」と、連邦クラブで演説した。

 この演説は、故意に南朝鮮と台湾を防衛ラインから外すことで、朝鮮半島での戦争を仕掛ける誘因作戦そのものであった。

 3 米韓は1月26日、「駐韓米軍顧問団設置協定」と「米韓軍事援助相互協定」を調印した。

 この協定で、米軍の南朝鮮占領・駐屯を合法化したことになる。

 そのうえで、誘因作戦的に米軍部隊を撤退(49年6月)させた後の穴埋めに、約500人の軍事顧問団を残した。

 米軍事顧問団長ロバートは、南朝鮮内の「人民遊撃隊」への討伐と、38度線突破戦を指導していた。

 また、この頃から韓国「国防軍」への武器援助と配備が、計画的になっている。

 4 1月31日に米3軍の首脳が来日し、マッカーサーらと協議し、日本の軍事基地強化策での決定をした。

 5 米韓は2月16日、「秘密協定」に調印。

 李承晩政権を軍事力の面からも支えることで一致した。

 6 マッカーサーが李承晩を東京に呼び(2月17日)、「11カ条の訓令」を与えた。

 その中心は、遅くとも7月以内には「北侵」(戦争)を起こすこと、戦争費用その他の「援助」(経済等)を日本から受けることのために、日韓交渉の予備交渉を吉田茂首相と話をすることなどを指示した。

 実際は、マッカーサーが解任された後の51年10月に、第1次の日韓会談がもたれた。

 7 李政権が「徴兵制施行令」(3月5日)を布告した。
 
 8 米韓とも5月初め頃まで、盛んに「5~6月危機」説を宣伝していた。

 この時期に、戦争を予定していたからか、つい本音の言葉が「危機説」となって表現されたのであろう。

 9 南の第2回国会議員選挙で、李承晩派が大敗した。

 政権運営が行き詰まり、崩壊の危機が深刻になっていた。

 トルーマン米政権はそのような李政権に対して「迅速な援助」を決定し、崩壊の淵から救い出した。

 今更李政権を取り替えるには、すべての点で遅すぎたことを認めたためであった。

 10 李政権は6月13日、「準非常戒厳令」を発令して各地の闘争を弾圧した。

 11 東京で6月、米国務長官ジョンソン、統合参謀本部長ブラッドレー、大統領特使の国務省顧問ダレスと、マッカーサーとの4者秘密会談が行われた。

 会談では「朝鮮問題」と「台湾問題」を討議し、朝鮮への積極的政策(開戦)の必要性で、見解の一致をみている。

 12 ダレスは東京会談後の6月18日、38度線一帯を視察している。

 翌19日の韓国国会(開院式)で、共産主義者とたたかう「みなさんは孤独ではない」として、アメリカの強力な「精神的および物質的援助」を受けとるであろうからと、「北伐」への行為を支援した。

 13 李政権は、軍参謀長の「戦闘命令第2号」で、「6月25日午前5時に一斉攻撃を開始せよ」の戦闘開始命令を6月21日に出している。

 14 韓国軍は6月25日午前3時過ぎから、38度線全域で部隊の北部侵入戦闘を始めている。

 以上、米韓双方の政・軍関係者たちは、戦争準備に向かって一直線に動いていた様子がみてとれる。

 経済的に脆弱であった南朝鮮、その上に人民たちをまとめきれない李政権では、戦争を起こしてもそれを維持出来ないと考えていた米国は、日本を後方の安全な軍事基地へと改造することだけではなく、いつでも南朝鮮へ軍事費が賄える体制へと、同時に準備を進めていた。

 それがサンフランシスコ講和条約(51年9月調印)である。

 ポツダム宣言は日本に実質賠償の原則を決めていたが、米国主導で作成された「対日講和条約」では、役務賠償、技術提携に変更している。
 
 さらに、個別的・集団的自衛権を承認し、日本の再軍備と外国軍隊の駐留継続を許容した。

 日本の早急な経済復興と再軍備化を容認したのが、サンフランシスコ講和条約であった。

 調印当日(9月8日)、日米安全保障条約(日米安保)も同時に調印した。

 この条約で、米軍の駐留継続と米軍基地を認めた。

 米国は、サンフランシスコ講和条約を李政権に押し付け、政治・軍事・経済ともに脆弱な体制を日本とセットにする、日韓体制づくりを急いだ。

 それが「日韓条約」体制で、条約の締結をめざすため、吉田政権との交渉を李承晩に押し付けた。

 米国には逆らえない李承晩は、吉田政権との交渉テーブルに着席はしたが、握手する気はなかったようだ。

 李承晩は反共主義者であると同時に、強烈な反日志向をもっていた。

 そこが米国の見込み違いで、最も簡単にいくと思われていた「日韓体制」づくりは、最も困難な事業となり、長い時間を必要とした。

 その最大の問題点であったのは、今日でもまだ決着していない日本政府の歴史認識問題と、それへの言動問題であった。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」8.北の戦時体制

8.北の戦時体制


 戦争勃発の翌26日、金日成は放送を通じて全人民に、「すべての力を戦争勝利のために」と訴えた。
「全朝鮮人民は、再び外国帝国主義者の奴隷になることを欲しないならば、こぞって李承晩売国政権とその軍隊を打ち破る救国闘争に決起しなければなりません。われわれはいかなる犠牲もいとわず、必ず最後の勝利をかちとらなければなりません」

 この演説の内容と対象は、南の地で戦っているパルチザンたちにも向けられていて、彼らへの戦闘的課題についても言及している。

 北半分の人民に対しては、すべての活動を戦時体制に切り替えることを訴え、人民軍を全人民的に援護し、後方を鉄壁のように固め、逃避者、デマをまき散らす者などと容赦なくたたかい、スパイ、破壊分子を徹底的に摘発、粛清し、すべての機関、企業所をしっかり守り、前線に必要ないっさいの物資と食糧を生産(供給すること)だと、具体的な内容を力説していた。

 次いで、南の人民たちにも呼び掛けている。

 南半分の人民は、遊撃闘争を強化して敵の後方を撹乱し、暴動、ストライキ、サボタージュなど、いろいろな方法で民族反逆者李承晩一味と断固戦い、全力をあげて人民軍を支援すべきであり、国防軍(韓国軍)将兵は李承晩一味に銃口を向けて人民の側に加わり、祖国の統一と自由のための全人民的闘争に合流しなければならないことを、強調した。

 この放送時ではまだ、米軍の参戦については不明であったから、全朝鮮人民への反李承晩一味への闘争が強調されていた。

 特に南の人民、その闘争がほぼ終息していたとはいえ、南労党員たちの後方での反抗に期待し、国防軍兵士たちの離脱への誘発も呼び掛けた。49年5月に、春川駐屯2個大隊と海軍将兵の義挙があったからである。

 戦時体制は即時にすべての組織、地域、人民たちに対しての組み替えが行われた。

 朝鮮労働党の組織は、戦時共産主義体制を徹底し、かつ、全党員に軍事知識を身に付けさせた。

 7月1日に戦時動員令を出し、いっさいの権力を軍事委員会に集中させた。

 人民軍の指揮体系も戦時に則して組み替え、各部隊には党の中核幹部を多数派遣して、党による指導と教育を徹底した。

 一般に革命軍が強いと言われているのは、軍人への政治教育(思想)をおこたりなく実施しているからで、朝鮮人民軍も朝鮮戦争時には、政治教育を強化している。

 彼らの一人ひとりが、なぜ戦うのかをよく理解しており、それを信念化していたからで、現代新兵器を携えた敵と遭遇しても、なにも恐れることはなかった。

 当然、政権機関と経済体制、大衆組織の活動も、戦時体制へと組み替えられている。

 主要な国営企業所を軍需工場に切り替えると同時に、工場・企業所を安全地帯(地方と地下)へと分散疎開させたうえで生産を続けられるようにした。

 米空軍機の爆撃被害の経験から、その後は主要製品を生産する工場は必ず2カ所以上に分散させた。(1カ所が爆撃され生産がストップしても、もう1カ所が稼働できるようにとしたが、これは経済的負担が重く、かつ非効率的ではあった)

 軍事停戦協定後は、まだ戦時状態が続いているため、軍需工場などはほとんど地下化している。

 開戦前年の49年1月に計画していた「2カ年人民経済計画」を再検討し、戦時に即して四半期別の計画に変更した。

 その後の経済計画は戦後すぐの53年8月、党中央委員会第6回総会で「戦後人民経済復興発展3カ年計画」(54年1月~56年)を立てて、廃嘘から立ち上がる基礎を計画した。

 戦時体制は、前線と後方とが一致して強力な戦闘隊伍を編成していたことも、大きな特徴の一つであった。

 開戦後わずか数週間内に学生、青年、労働者たち90~100万人余が、前線を志願して隊伍を組んだ。

 さらに「前線突撃隊運動」「青年作業班連動」など、各種形態の戦時増産体制、人民軍留守家族たちによる後方安全のための防衛活動、軍需物資の運搬などの社会的運動などによって、全人民が祖国の独立を守るために戦っている。

「米韓合同軍事演習は危険水域を越えている」

「米韓合同軍事演習は危険水域を越えている」

 
 毎年、3月から4月にかけて実施している米韓合同軍事演習の内容は、数年前から、危険水域をすでに越えている。

 共和国の指導体制を威嚇し、体制崩壊を目的にしているため、内容を公開しているもののほか、隠密裏に実施している特殊作戦訓練も行われている。

 最近判明したいくつかのプログラムを紹介する。

 12人で編成した米陸軍特殊作戦部隊群(グリーンベレー)1336と1333が、最初に非武装地帯を突破していく部隊として、北侵攻撃模擬作戦を実施している。

 この部隊は、いち早く平壌の中枢部に到達する訓練を繰り返している。

 また米陸軍第1特殊傘下の部隊は、特殊作戦員を北側にどのようにして出入りさせるかの課題を追求している。

 この部隊は、共和国内の反体制組織の育成を目指しており、育成したそのレジスタンス組織との連携と連絡を作戦としている。

 ところで、南朝鮮宣教師の金楨郁氏がスパイ容疑で逮捕され、2月27日に平壌の人民文化宮殿で謝罪の記者会見を行ったとの報道があった。

 それによると彼は、南の国情院にそそのかされて、反共和国のスパイ行為を行ったと述べた。

 それによると、中国の丹東から密航船で平壌に入り、地下協会を設け、キリスト教放送を設置し、北の指導部と体制を中傷した宗教雑誌を持ちこみ、脱北者を南側に連れ出すことなどを計画して実行して、北側の人々を思想的に、精神的に堕落させることが目的であったと告白した。

 中朝国境線を利用したスパイ活動、とりわけキリスト教関係者たちの暗躍が目につく。

 そうした彼らと連動して、米陸軍第1特殊部隊が、政権崩壊へと導く作戦を行っている。

 北の内部で同調者を育成する方法は、幾つも用意している。

 彼らの中核は、軍服ではなく、平服を着、民間人になりすましている。

 その下で、働くスパイたちも、日本人、中国人、そして南朝鮮の人間たちである。

 いつ、どの時点で、どの種の紛争にも、それを口実とした内乱、内乱から戦争、戦争を支援する部隊の侵入へと、彼らは想定しつつ訓練を繰り返している。

 それらはもはや、軍事訓練ではない。

 テロを養成し、テロを送りこむタイミングを計るためのチャンスを作り出そうとしているのだ。

 イラクやアフガニスタン方式が忘れられないのだろう。

 米帝国主義者は、朝鮮半島で何をしようとしているのか。

 戦争屋米国の度を越している合同軍事演習に抗議する。

 朝鮮半島の平和と安全を破壊している米韓合同軍事演習を直ちに中止せよ!

2014年3月18日 記
愛媛現代朝鮮問題研究所代表 名田隆司

「米韓合同軍事演習を糾弾する」

「米韓合同軍事演習を糾弾する」


 世界は、朝鮮半島の南北交流と協力事業の推進、一日も早い平和的で自主的な統一実現を願い、そのための協力と支援を続けている。

 ところが、米国だけは、そうした世界の情勢に背を向けたままで、陰湿にも朝鮮民族の離間政策を維持している。

 その最も顕著な姿を見せているのが、毎年、南朝鮮周辺で実施している米韓合同軍事演習である。

 軍事演習とは、一般的には敵対者に対して、軍事的な優位さを誇示して、相手に直接的な脅威を与えようとする行為である。

 それはまた、周辺に緊張激化を煽り、戦争を誘発していく。

 米韓合同軍事演習の場合で言えば、共和国への侵略意図、共和国への戦争演習(訓練)そのものであって、決して(米国の、南朝鮮の)「防衛的」な内容のものではない。

 合同軍事演習が実施されている期間、朝鮮半島の緊張関係は、いやが上にも高まり、とても朝米や南北対話など、できる雰囲気などあるわけがない。

 その米国が今年もまた、2月末から4月にかけて、大規模な「キー・リゾルブ」と「フォール・イーグル」合同軍事演習を実施すると発表した。

 ちょうど、南北赤十字会談が始まり、離散家族・親戚の再会事業の実施協議を予定しているときであった。

 合同軍事演習を米国は、「定例的」だと詭弁的に表現して、南朝鮮の朴槿恵政権をゆさぶり、再会事業を潰そうとしていたようだ。

 離散家族再会事業は、朝鮮戦争の後遺症であるが、米国は、自らのアジア地域軍事戦略を優先して、朴政権に圧力をかけてきたのだ。

 共和国の国防委員会は1月23日、朴政権と南朝鮮諸政党および社会団体、各階層の人民に送る公開書簡「北南関係改善の活路を開いていくのにこぞって立ち上がろう」を発表した。

 書簡で、「われわれは、南朝鮮当局に通常の軍事訓練を中止せよと提案していない。われわれの主張は、外部勢力と結託して同族を狙って行う侵略戦争演習を中止せよというものである。その演習に米国に対する期待がどれほど大きく、米国との合同と協同が捨てられないほど貴重でそれほど行いたいなら、わが国の領土や領海、領空を離れたへき地や米国に渡って行けばいい。・・・・・」と述べた。

 朝鮮国防委員会のこの言葉は正当で、当然のことである。

 同族を狙ってする侵略戦争演習よりも、わが民族同士の団結した力で南北関係を改善していく事業、離散家族・親戚の再会問題を円満に実施することを強く呼びかけたのだ。

 共和国側の忍耐強い対応によって2月20日~25日、南北離散家族・親戚の再会事業が、金剛山地域で実現した。

 その後半の24日から、米韓は合同軍事演習「キー・リゾルブ」を実施して、平和的に行われていた「わが民族同士」の交流を妨害した。

 いかなる米韓合同軍事演習といえども、朝鮮半島の自主的平和統一進行の状況妨げているのであり、「わが民族同士」の南北交流事業を危機に陥れている。

 米国が、その最大の元凶で張本人であった。

 現実的にも、南北関係改善のための実践的な離散家族再会事業が実施されていた最中でさえ、「千里戦術武装行軍」やB52核戦略爆撃機編隊の核攻撃演習を、再会事業の会場近辺で強行していたこと。

 引き続き、大規模な「キー・リゾルブ」合同軍事演習の砲声を挙げ、さらに原子力潜水艦と最先端戦争装備を投入した地上・海上・空中での実戦想定の「フォール・イーグル」合同軍事演習を行っていたことで、実証している。

 こうした米国の行動からは、朝鮮に対しては、平和安定、平和発展、南北交流と協力関係を望んでいるのではなく、その反対の緊張激化と戦争の危機を投入しようとしていることが、どの角度から見てもはっきりと分かる。

 米国を現代帝国主義国家だとする所以である。

 朝鮮半島における米国の帝国主義的野望は、米軍部隊が、1945年9月、仁川から上陸したときからすでに始まっている。

 以後、国連憲章と国連安全保障理事会(安保理)と欺き、「国連軍」(安保理はおろか、どの機関も認定していない)を詐称した米軍主体の「連合軍」を編成して、朝鮮への侵略を実行した。

 その軍事的野望が破れると、53年7月に締結した「朝鮮戦争停戦協定」違反行為を繰り返し、たびたび第2次朝鮮戦争を仕掛けようとした。

 米国は調印直後から、第60項の精神を無視してきた。

 第60項は「朝鮮問題の平和的解決を確保するため、双方の軍司令官は、双方の関係国の政府に対して、休戦協定が署名され、効力を生じた後、3カ月以内に、これらの国の政府がそれぞれ任命する代表により、一層高級な政治会議を開催してすべての外国軍隊の朝鮮からの撤退、朝鮮問題の平和的解決そのほかの諸問題を交渉により解決するよう勧告する」としている。

 つまり、停戦協定が効力を生じた1953年7月27日の22時以降、3カ月以内に一級上の政治会議(国家および政府代表)を開催し、朝鮮半島からすべての外国軍を撤退させ、平和協定の締結を協議して、朝鮮半島の南北統一問題を平和的に、朝鮮人の自主的な力で解決する内容となっていた。

 米国は、自身で署名したこの協定の約束を守らず、3カ月後の政治会議さえ、共和国側のアプローチによってやっと53年12月、予備会議の席に座ったが、「自由選挙」の実施を持ちだして、会議を破綻させてしまった。

 その後、共和国や社会主義諸国からの強い要請で、54年4月、インドシナ問題と共に、朝鮮問題を協議するジュネーブ会議を開くことになった。

 この会議でも米国は、国連監視による「自由選挙」案を提示した。

 国連監視とは、米国の意向のもとで実施することを意味しており、しかも選挙も実施できない自立した民族ではないとする、米国流の解釈であった。

 自由選挙とは、南北朝鮮全域を一定の人口比率で議員を選出する方式であったから、南の李承晩政権下の人工が、共和国側に比べて2倍強であった現状下では、南側の議員が半数以上を占めてしまう。

 そのような議会では、議案も、南側(米国の意向を反映した自由主義)の意思だけが通過し、やがては朝鮮半島全体が米国政治方式によって支配されることになる。

 だから、米国は、南での米軍政庁時代から国連監視による自由選挙案を提出して、南北朝鮮の自主的統一を妨害してきた。

 ジュネーブ会議で共和国は、南北両議会での討議、南北同数議員選出を提出した。

 米国側は自らの提案が成立していないと考え、朝鮮戦争に参戦し、ジュネーブ会議に出席していた「同盟国」を引き連れて、会議場から出て、二度と会議の席に座ることはなかった。

 その後、共和国が停戦協定を転換して、「朝米平和協定」を協議するよう再三呼び掛けてきたが、米国はいまだに応じていない。

 共和国との間に「平和協定」を結ぶこと、朝鮮停戦協定を発展させて講和条約を結ぶこと、いずれも米国は拒否している。

 それが、米帝国主義の本質であったのだろう。

 以上の背景から、当研究所と私は、現在の米韓合同軍事演習「フォール・イーグル」実施に対して、オバマ米政権と南朝鮮朴槿恵政権に強く抗議を、平和を愛する世界の良心に、抗議活動をすることを呼び掛ける。

 同軍事演習は、朝鮮戦争停戦協定と国連憲章に違反しているだけではなく、朝鮮半島を軍事的緊張状態にし、戦争を誘引する原因を作っている。

 今からでも遅くはない、合同軍事演習の中止を要求する。

 再度、オバマ政権に要求する。

 人間的な良心があるなら、戦争前夜へと導く合同軍事演習を中止して、朝米平和協定のためのイスを用意することを!

2014年3月14日
愛媛現代朝鮮問題研究所 代表 名田隆司

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」7.1950年6月25日

7.1950年6月25日

 「朝鮮戦争の引き金を引いたのは誰か」。

 朝鮮戦争に関連して、上のような論を立てることによって原稿を展開している人たちが、今でも西側では多くいる。

 こうした論は分かりやすく展開できる反面、米国側の情報を肯定的に多用していて、知らない内に米政治の宣伝者に陥っていく危険性がある。

 さらに論理そのものが矮小化されて、共産主義対自由主義陣営の代理戦争だったとして、冷戦時代における論理構成からも抜け出していない。

 国際政治学者のブルース・カミングス、マコーマック、ストーンたちは、朝鮮民族の紛争、階級闘争、内戦であったものに、米国が介入した結果、国際戦争に発展してしまったと主張している。

 彼らと同じ論理を展開しているもう一人に、初代の中国駐朝大使(臨時)であった柴成文氏の発言を紹介しよう。

 「(朝鮮)戦争の勃発要因、背景は政治、経済、軍事など、多面的にわたるもので、それらを統合してみて、初めて真実の歴史を再現することができる。

 誰が先に発砲したかという問題は、せいぜい戦争の導火線の類いといえよう」(1990年のインタビューに答えて)

 中国政治家の柴成文氏は、朝鮮戦争に至る原因と結論は米国のアジア戦略に発しており、朝鮮、中国、日本、そしてインドシナをめぐる国際政治の米国的「危機感」が、朝鮮半島に集中した結果であると、言いたかったのではなかろうか。

 その1950年6月25日は日曜日であった。

 米軍の習慣では、土曜日の夕刻から深夜にかけて、将校たちは「将校クラブ」で兵士たちは「一般クラブ」で、酒と女性などで無礼講となるらしい。

 韓国軍でも米軍の習慣通りに、前日の土曜日(24日)の夕刻から将校クラブが「開所」していたようである。

 ソウルにいた韓国軍高級幹部たちに、クラブに集まるようにとの連絡があって、24日夕刻に集まったのは在ソウルの高級幹部と米軍事顧問団、併せて100人ほどであったという。(白善華韓国軍将校談)

 米韓軍併せて100人ほどというのは、少ない人数である。

 一方、韓国軍側でも別の命令を出している。

 金曜日の24時からの前線部隊への警戒待機解除命令で、各部隊では外泊、休暇の許可を出していたようだが、それも全軍にではない。

 以上の2つの現象は、米軍得意の「誘因」作戦を実行していたのではないかと思われる。

 それらは極秘命令であったようだから、その本質的な内容を知っていたのは、米韓の両大統領だけであったろう。

 李承晩大統領は25日早朝、大統領官邸の景武台(現、青瓦台)近くの池(秘苑)で行う釣りの準備を行っていた、としている。

 選挙に敗北し、国会対策も失敗し、国務総理(首相)の後任も選任できず、政治的失脚の烙印を押されていた人間が、なぜ釣りを楽しむ時間を持つことができたのか。

 自らの政治的敗北の唯一の出口、それを米国にも進言してきた「武力北進」が現実となり、その戦争の夜明けに、米国が約束通りの作戦を果たしてくれるとの、確かな情報を知っていたからではないのか。

 ロイター伝は短く、「25日午前4時ころ、38度線に沿った甕津(オンジン)、開城、東部海岸地区で、北朝鮮軍と韓国軍の間に戦闘が開始された」(ソウル発6月25日)と伝えた。

 韓国政府も同日、「北朝鮮との間に全面的な内戦が発生した」ことを公表した。

 6月25日未明、韓国軍は海州、金川、鉄原一帯で、1~2キロも北部領域に侵入してきた。

 戦線西部では苔灘、碧城、開城、漣川方面に侵入を開始した。

 また戦線東部では華川、揚口、裴陽方面に進撃してきたと、朝鮮人民軍の第一報は伝えている。

 朝鮮戦争の勃発を伝えるどの書物も、戦闘は38度線一帯の3方面から始まったことを伝えているから、この戦線一帯での韓国軍侵入、それへの朝鮮人民軍の反激戦が、戦火を拡大させていったかも知れない。

 25日未明の38度線一帯は、豪雨だった。

 朝鮮半島での梅雨入りを知らせる稲光り、雷鳴が轟音を響かせていた。

 豪雨のなかでの戦闘は、十分な戦闘準備を行っていた方が有利で、当初、地域によっては韓国軍が相当深く北に侵入していたことを伺わせる。

 朝鮮人民軍は、侵入部隊に対して戦闘行為の即時停止を要求し、侵攻を中止しない場合には断固とした報復措置をとるであろうとの警告を伝えた。

 25日の早朝、金日成は朝鮮労働党中央委員会政治委員会と各閣僚を緊急招集し、遅滞なく敵を撃滅する対応措置についてを協議している。

 そして、人民軍各部隊と警備隊に、即時、断固たる反撃に移るよう命令を出した。

 25日朝、38度線一帯の雨は上がり、雷雨はソウル方面に移っていったから、市民たちには砲撃の音も、夜来の雷鳴だろうとして聞いていた人がいたかも知れない。

 戦争開始を告げる砲撃音も、聞く人たちによっては、戦闘を実感しない日曜日の朝を迎えていた。

 韓国軍参謀総長は6月21日の「戦闘命令第2号」で、「6月25日05時に、一斉攻撃を開始せよ」との戦闘命令を出していた。

 「第1号」は、海州など戦線西部一帯の海岸と海岸線での、海軍と陸軍への戦闘待機であった。

 韓国側は、北朝鮮軍が午前4時に38度線一帯を突破して、南下したと発表しているから、自らが出した戦闘命令「1号」と「2号」との時間表との、整合性がとれているように思われる。

 平壌放送は同日午前11時の放送で、韓国軍との戦闘を伝えた。

 「悪漢反逆者李承晩の命令で、カイライ軍が侵略してきたから、人民軍は自衛の目的でこれを撃退し、正当な進入を開始した。李承晩一味は逮捕され、処刑されるであろう」

 金日成自身も放送を通じて、人民に訴えた。

 「李承晩は海州地区で38度線を越え、侵入軍を繰り出して、不法行為を極点まで進め、わが人民軍の反撃を引き起こしたが、その結果については、李承晩一味が責任を負わなければならない」として、次の3点を強調した。

 1.李承晩は共和国の平和統一案にたいして、内乱の挑発をもってこれに答えてきた。

 2.この結果、われわれの前に大きな危機が迫ってきた。この危機を取り除くために、全朝鮮人民は、共和国とその憲法を死守し、李承晩政権を掃討することによって、祖国の統一を達成しなければならない。

 3.全人民の力を、祖国の統一、独立、自由、民主主義のための正義の戦いに動員しなければならない。(林建彦著「北朝鮮と南朝鮮」)

 共和国はこの戦争を「祖国解放戦争」と言っている。

 「祖国解放」とはつまり、朝鮮半島に侵入してきた外国軍を追放し、朝鮮民族の自主を達成することであり、それがこの戦争の目的だとしているのである。

 一方の韓国側は、「韓国戦争」としている。

 そのことから、李承晩派の「北進」意図をまだ払拭できていないようである

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」6.日本の後方基地建設

6.日本の後方基地建設


 日本を占領した「連合国最高司令部」(GHQ)、実質、米軍司令部は、米国の占領政策を進める間接統治機構であった。

 連合軍最高司令官となったマッカーサーの占領政策方針は、日本を民主化基地にすることを考えていた。

 つまり、日本を2度と米国に歯向かうことができない国に作り替える、ということが目的であった。

 先ず、600万余の日本軍兵士たちを一気に解体(牙を抜く)し、同時に非軍事化への5大改革の政策をすすめた。

 5大改革とは、1.婦人(女性)の解放、2.労働組合の結成、3.教育の自由主義化、4.圧制的諸制度の撤廃、5.経済の民主化―であった。

 1は婦人参政権(45年12月)の実現、2は労働組合法の公布(45年12月以降実現)、3は教育基本法公布(47年3月)と教員委員会法(48年7月)で実現、4は「国家総動員法」「価格統制令」「治安維持法」などの撤廃などで実現、5は農地改革(第1次45年12月、第2次46年10月)と「財閥解体指令」(第1次45年11月、第2次46年9月)などによって、短期間内で実施していった。

 わけても軍国主義体制を解体するために、極東軍事裁判を用意し、農地改革と財閥解体には力を入れていた。

 極東裁判では、新たに「戦争罪」という概念を設け、A級(平和に対する罪)、B級(通例の戦争犯罪)、C級(人道に対する罪で、大量殺人、奴隷化、その他非人道的行為)として、日本軍国主義指導者を犯罪人に指定して裁いた。

 A級の「平和に対する罪」とは、「侵略戦争もしくは国際法、条約、協定などに違反する戦争の計画、準備、実行、それらの共同計画および謀議への参加」だとして、東条英機ら28名が裁かれ、7名に48年11月、絞首刑の判決が下った。

 農地改革は、早急に徹底して行われた。

 土地の権利関係は、統治機関の政治的性格を規定するからである。

 米国は、日本の寄生地主制度こそが軍国主義の経済的な温床になっているとして、地主から安く買い上げた土地を、小作人たちに与えた。

 2年という短期間で貸し付け地のほとんどは消失し、大量の自作農が出現した。これにより、明治期以来続いていた寄生地主制度は消滅した。

 財閥解体は、軍部と結託した独占的な経済支配体制を解体していく作業であった。

 解体作業は、47年の過度経済力集中排除制度に至るまで、1.財閥本社所有地の他企業の株式の処分、2.財閥同族・旧投資の役員就任の禁止、3.巨大企業の分割など、が進められた。

 そして民主化制度の最後が、戦時憲法の否定と民主憲法の制定であった。

 主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を3原則としたマッカーサー草案を、46年11月3日に「日本国憲法」とした。

 昭和天皇の戦争責任については、マッカーサーは「戦争責任は問うべきではない」との意見で、米陸軍省に天皇制の存続を強く訴えていた。

 米政府もマッカーサー意見を容認した。

 だが天皇自身が政治権力をもつことは認めず、「象徴」とした。

 47年頃からGHQでは、民生局(GS)と幕僚第2部(G2)との、占領政策上での対立が激しくなっている。

 ニューディール派が多く民主化政策に熱心であったGS派は、なぜか次々と本国への帰国が命じられていくと、反共主義者が多くいたG2派の占領政策からは、次第に民主化色が消えて、反共色が前面に出てくるようになった。

 それは米国自身の反映であって、47~48年頃から、米政界では東西両陣営対立のことを「冷たい戦争」(冷戦)と表現し、対ソ連との戦略が論じられていた。

 この時期、トルーマン米大統領は、ソ連の「封じ込め」政策の必要性を主張していて、ロイヤル米陸軍長官が「日本を共産主義に対する防壁にせよ」と演説(48年1月)した時期から、日本占領政策の見直しと転換が始まることになる。

 東アジアで、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国という、2つの社会主義国が誕生していたからでもある。

 さらに中国では国共内戦が再開(46年11月)し、フランスは第1次ベトナム侵略戦を開始(46年12月)し、オランダがインドネシア侵略戦争を開始(47年7月)し、南朝鮮でも階級対立が激化していて、米国内では共産主義への危機が高まっていた時期でもあった。

 米国の共産主義圏封じ込め戦略が、南朝鮮各地の階級対立に戦争への火を付けるようになってくると、反共基地としての日本の役割を、米国はますます重視するようになった。

 南朝鮮のパルチザン闘争の激化と、南北朝鮮の対立状況から米国は、日本列島を朝鮮侵略の前哨基地、後方基地へと転換させる必要性を痛感していた。

 日本の民主化を規定していたポツダム宣言を無視して、日本に軍国主義勢力を復活させるという急転換には、さすがに米国内の一部にも抵抗感はあった。

 ポツダム宣言では、日本の軍国主義者、戦争指導勢力の除去、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化に対する障害の除去、軍需産業の禁止などが決められていた。

 米国自身、そのポツダム宣言を早々と無視せざるを得ないほど、朝鮮半島での革命勢力が伸張していたことになる。

 日本の逆コースは、戦犯たちの釈放と登用(48年12月)から始まり、軍国主義者たちの「公職追放令」を解除することで、彼らの思考を再び利用していった。

 さらに独占財閥解体令を解除し、49年からは財閥とその傘下企業に対して、米軍は各種兵器の生産活動を復活させた。

 800余の賠償指定軍需工場が、米軍の管理化での兵器生産を開始した。

 例えば、東日本重工業、富士自動車、小松製作所などは、米軍の自動車、戦車の修理と組み立て工場となり、化学工場(住友化学など)はTNT火薬や毒ガス原料などを生産していた。

 各造船所では50年初めから、戦車上陸用舟艇(LST)を兵員上陸用舟艇に作り替える作業を行っている。

 このように軍国主義者および軍需産業を復活させると同時に、進歩的人士、リベラリストたちと左派系組織への弾圧が進行していた。

 団体等規制令公布(49年4月)、在日朝鮮人連盟と在日朝鮮民主青年同盟を解散させ財産を没収(49年9月)、朝鮮人学校の強制閉鎖(49年11月)など。

 52年に入ると、日本共産党中央委員会追放指令(6月)、屋外集会とデモの禁止(6月)、新聞・放送・通信関係者のレッド・パージ開始(7月)、警察予備隊の設置(7月)などを準備した。

 朝鮮戦争が始まると、駐留米軍の戦力強化を図るため、空軍基地の新設・拡張工事を急速にすすめた。(612カ所もの軍事基地・施設が新設ないし復旧された)

 開戦直前の6月23日、「B26]「B29」などの大型爆撃機、追撃機連隊と、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦などが増派され、九州周辺に終結させている。

 実際、開戦直後の27日には、岩国や福岡基地などから飛び立った「B26」が戦線に姿を見せ、爆撃を行っている。

 日本基地をさらに安定的に使用できるよう、米国はサンフランシスコ対日講和条約と日米安全保障条約を、日本に調印(51年9月)させた。

 こうして奄美諸島、琉球諸島、南西諸島、小笠原諸島などを軍政下に置き、米軍基地として自由な使用権を手にした。(現在の普天間飛行場移設問題の発端である)

 日本による朝鮮戦争関連性の第一は、米軍に安定的安全基地を提供したことで、その見返りとしての経済的「特需」を受けたことである。

 50年6月から53年6月の3年間の特需は、各年3億から4億ドルに達している。(51年の年間輸出額が13億6000万ドルであった)

 特需の内容は兵器、建物、石炭、自動車修理、荷役、倉庫、電信、電話、機械修理、自動車部品、麻袋などが中心であった。

 GHQは52年3月、武器製造禁止令に替えて兵器製造許可を指令し、各種弾丸、軽兵器類を生産する軍需工場を復活させた。

 こうした特需によって日本の経済は、「ドッジ・ライン」による不安定感を脱して、戦後復興の基盤を築き上げ、現在の経済大国(中国に抜かれて現在は3位)となった。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」5.南北軍事力の航跡

5.南北軍事力の航跡


 南北朝鮮とも、軍事力の基礎組織は政権が成立する以前の46年頃から着手している。

 南は米軍の指導と援助で、北はソ連の指導と援助で、急速に近代軍隊へと仕上げている。

 その航跡を、南からみていこう。

 45年9月、沖縄にいた米第24軍団(軍団長ジョン・バージ中将)が仁川に上陸、軍政を敷いた。

 第2次大戦中、約5万人もの朝鮮人が、旧日本軍に在籍していたと言われている。

 その大部分は徴兵された人たちであるが、将校クラスも数百人を数える。

 数百の将校のうち約20名は、陸軍士官学校卒業生のエリートたちであった。

 南朝鮮を占領した米軍政庁は、日本植民地時代の警察官約2万5000人(親日派)で警備局を設置した。

 ところが、彼らだけでは治安対策ができず、警備局とは別の武力組織となる国防司令部を設置(45年11月)している。

 その下に予備部隊を編成する構想であったから、すでにそこには、旧日本軍の高級将校たちが在籍して働いていた。

 例えば、蔡秉徳(チェ・ビョントク、開戦時の陸軍参謀長)、李応俊(旧日本軍大佐)らがいた。

 この国防司令部の幹部を養成する機関として、「軍事英語学校」を西大門に設置(45年12月)した。56年5月に「国防警備隊士官学校」に改編している。

 米占領軍の公用語(英語)をもって、国防警備隊の朝鮮人幹部を訓練させるためであった。

 当初から、独立軍の養成ではなく、米軍の下での傭兵という認識であったのだろう。

 46年3月に110人が卒業(第一期生)したが、うち60人余が48年以降の国防軍(韓国軍)の最上層部の将校を占めている。

 その60人将校たちの出身の内訳は、日本陸軍出身20人、関東軍(満州国軍も含む)出身20人、重慶臨時政府及び中国国民党系の「光復軍」出身20人と、3つのグループに分かれていた。

 しかし韓国軍内では、旧日本軍出身将校たちの活動と昇進は、独断場と化していた。

 それは、満州国軍や光復軍出身者たちには軍歴がほとんどなく、基礎的な知識もなかったからである。

 一方、米軍の訓練方法は、行政・警察内で親日派が幅をきかせていたのと同じく、軍隊内においても旧日本軍将校たちが、その基盤を築いた。

 警備隊の当初の目的は、南朝鮮の境界を守る軍事力を養うためではなく、南朝鮮内の反乱を鎮圧するための技術に重点が置かれた。

 米占領軍が地域内の騒乱を恐れていたからである。

 警備隊を警察予備隊とみなし、警察とともに反共対策に投下した。

 国防司令部は国内警備部と改称(46年6月)し、その下に警備局と海岸警備局を置いた。

 国内警備部を統衛部、さらに国防部へと改称し、48年9月に「国防軍」とした。

 警備隊司令部も陸軍本部と改称された。

 49年6月、駐韓米軍が撤退し、軍事顧問団約500名が残った。

 50年1月、「米韓相互防衛条約」(軍事供用)と「軍事顧問団設置協定」(軍事顧問団の法的根拠として)を締結。

 この協定で、韓国軍の師団には中佐クラス、連隊には大尉クラスの米軍人の顧問が配置された。

 その総数は486人で、初代米軍顧問団長はウィリアム・ロバーツ准将であった。

 ロバーツは、戦争挑発の罠を盛んに仕掛けていた、その張本人でもあった。

 韓国国防軍の兵力は、米国の援助によって49年6月には、8個師団、22個連隊になっていた。

 米国はさらに、予備兵力の組織化とその養成にも力を入れた。

 陸軍本部管下に「護国軍」を組織し、青壮年の軍事訓練を行った。また中等学校生以上を強制入団させた「学徒護国団」、青年層の「民族青年団」「大同青年団」「大韓青年防衛隊」(20万の青年たちで組織)などの軍予備隊を結成した。

 48年8月には「兵役法」を公布し、政権成立後すぐに徴兵制を敷いた。

 朝鮮戦争勃発時の軍事力は、以下のようであった。

 陸軍8個師団(6万7416人)、その他支援部隊(2万7558人)。海軍(7715人)、海兵隊(1166人)、空軍(1897人)、総計10万5752人。

 それ以外に、米軍の兵器で装備した警察官(5万余)がいて、合わせれば総数16万余の軍事力を開戦時に持っていた。(以上、『韓国動乱』ソウル発行より)

 次に北の防衛力の推移をみていこう。

 1.北朝鮮人民委員会当時

 先ず、ソ連との鉄道輸送のため46年1月に、「鉄道保安隊」が創設された。その半年後に「鉄道警備隊」としている。

 その要員訓練所を平安南道价川(ケチョン)、咸鏡北道羅南、江原道元山に置いた。次いで軍事政治幹部(党)を養成する「平壌学院」を開設(46年2月)し、さらに軍事幹部(将官)を養成する「中央保安幹部学校」(46年6月、江西郡)と「保安幹部訓練所」(46年8月28日開校)を、それぞれ平壌に設置し、正規の将校を育成する準備から、防衛力へのスタートをした。

 それぞれの幹部学校を修了した彼らを「人民集団軍総司令部」に編成(47年5月)し、さらに「朝鮮人民軍」(48年2月8日)へと編成して、正規の軍隊を創設した。

 47~48年当時、南の「国防警備隊」が内部の治安対策上から、北への武力侵攻が強化されていた関係上、近代軍の編成を急いだようだ。

 2.朝鮮民主主義人民共和国樹立後

 48年9月の政権樹立前後から、中国の国共内戦への毛沢東軍(主として東北地方に)への兵員(朝鮮人民義勇軍)と軍需物資の供出協力を行っていた。

 ソ連軍は48年12月に完全撤退したが、軍事顧問団(彼らも朝鮮戦争勃発直前の50年6月には全員がソ連に帰国)が残留した。

 「朝ソ経済および文化協定」と同時に、「軍事秘密協定」を49年3月17日に結び、ソ連からの軍事援助と軍事技術力とで、軍事力は飛躍した。

 中国への軍事支援を実行する一方、ソ連軍からは武器供与を受けていたことは、共産主義体制間の国際連帯認識があったからであろう。

 同年7月以降、各地で祖国防衛後援会が結成され、人民軍と警備隊を物心両面から支えていくという、現在にもつながる軍民一体意識が人民たちに成立するようになった。

 中国が人民共和国を成立した後、早々に外交関係を結ぶと共に、「朝中軍事秘密協定」(49年10月6日)を結んだ。

 この時、東北地方で蒋介石軍と戦っていた「朝鮮人民義勇軍」たちの、朝鮮帰国問題が話し合われた。

 朝鮮人民軍にとって、彼らの存在は大きな財産であったからである。

 3.朝鮮人民義勇軍のこと

 中国での国共内戦後、東北地方の形勢がきわめて嫌悪だと、周恩来および周保中(東北抗日連軍時代の金日成の上司、解放後は東北民主連軍副総司令官員兼吉遼軍区司令員)などから、援軍要請があった。

 金日成はすぐさま「戦闘的友誼」を実行した。かつて東北地方で日本軍と戦ったことのある戦友たちを中心に、数次にわたって中国共産党軍に送った。

 「当時、東北では抗日遊撃隊出身のすぐれた軍事・政治幹部であった姜健、朴洛権、崔光をはじめ約25万人に達する朝鮮青年が東北解放闘争に直接参加しました」(金日成回顧録「世紀とともに」第8巻)と言っている。

 革命的同志意識をもった朝鮮青年たちが数次にわたって、朝鮮から鴨緑江を渡り中国共産党軍に加わり戦った。

 その彼らを「朝鮮人民義勇軍」と呼んでいる。

 朝鮮人民義勇軍の隊員たちが、国共内戦が終結する49年中頃から個人で帰還し、後半から50年初めにかけては部隊単位で帰還した。

 その時点では、計2万5千人前後が中国東北地方から帰還していて、今度は自国の人民軍発展に寄与していた。

 中国からの帰還者を中心に、朝鮮人民軍第5、第6、第7師団は形成された。

 その後も中国内戦参加義勇軍の復員は続き、朝鮮戦争勃発までには総計5万人以上が帰還し、朝鮮人民軍の第1線部隊に立っている。

 朝鮮戦争の初期、すでにして実戦経験をもっていた中国帰還者部隊は、各地で勇猛を轟かせていたのは当然であった。

 ちなみに、開戦前の北の戦力をみてみよう。人員13万5千(歩兵師団10個、独立連隊2個、機甲旅団と機甲連隊各1個)戦車T34型150台、砲600門、航空機196機、他に警備旅団5個と国内治安隊であったから、南の兵力と比較しても、ほぼ互角ではなかったかと思う。

 ただ、南の場合は後方のパルチザン闘争にも、その武力を向けざるを得なかった分、前線での兵力は北に比べて劣っていただろう。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」4.冷戦と朝鮮

4.冷戦と朝鮮


 米歴代政権の反共政策は当然、その時代と大統領の個性によっての違いはある。

 第32代のルーズベルトは、異例の4選(1933~45年)まで就任し、ファシズム国家に対して積極的対決姿勢をとってきた。

 このため32年にはソ連を承認し、スターリンとも協調路線(反ファシズム戦線)をとるようになった。

 ヤルタ協定においては、反ファシズム連合国の形成と、その指導を発揮した。

 そうした経験から、ソ連共産主義も自己の体制内に閉じ込めることができると考え、左翼を「封じ込め」る政策を採用するようになった。

 戦後の朝鮮半島占領政策では、そのルーズベルト案に基づく共産主義(ソ連)封じ込めの「信託統治」プランを、ヤルタ以前のテヘラン会談(43年12月)時からスターリンに提示していた。

 米国務省側もルーズベルト・プランを引継ぎ、モスクワ3相会議(45年12月)に提案している。

 ルーズベルトの後(45年4月)を引き受けた副大統領のトルーマンは、反共強硬政策に終始した。

 反共戦略に基づく経済政策「マーシャル・プラン」(47年6月)を発表、続いて共産圏に対する共同防衛を目的とする西側の軍事同盟、「北大西洋条約」(NATO)を49年4月に結成した。

 それより前の47年12月、「トルーマン・ドクトリン」を発表して、世界の反共勢力への援助政策を表明して、あからさまな共産主義封鎖と断絶政策をすすめるようになった。

 米大統領がこのように強烈な反共主義者であったから、ソウルの米軍政庁や李政権は、強力な政治的後押しで、ますます親日派と極右の反共勢力と結託して、信託統治案の否定、南の単独選挙、単独政権樹立、武力での北進論をと、朝鮮戦争に至る遠因へのレールを声高に敷き詰めていた。

 っとも、この頃の「信託統治」の内容は、ルーズベルト案ではなくトルーマン案であったから、「信託統治」に反対するのは、「トルーマン案」に反対することでもあった。

 朝鮮半島内の左右対立は、46年以降のアジア地域における冷戦の影が、大きく影響していた。

 朝鮮半島と隣接する中国の政治情勢とも共鳴していた。

 終戦直後の中国政治は、少し複雑であった。蒋介石の国民党政府は南京にいて、東北地方まで支配し、清王朝から受け継いだ中国唯一の正統な政府だと自負していた。

 当時はまだ、米国ばかりかソ連までが、中国を代表する「政府」として認識していたのだ。

 一方、毛沢東の中国共産党は、まだ延安に止まったままであった。

 米国は、国民党政府を支援してきた関係から、国共再会談を斡旋していた。

 共産党はまだ地方勢力にしか過ぎないと判断していたためか、ルーズベルト流の「封じ込め」政策的思考で、蒋介石の国民党政府内に取り込むことができると考えたのだろう。

 国共会談は45年8月30日に再開し、早くも10月10日には調印している。

 しかし蒋介石は、270~300万もの軍隊(中国解放軍は80~90万)を保持していたため、武力統一を望んでいて、米国流の合作提案には不満で、受入れを拒否した。

 停戦・合作協定を破った国民党軍は46年6月、解放軍に向かって戦端を開いた。

 7月には中国全土の内戦となっている。

 兵力と武器で圧倒していた蒋介石軍は、当初こそ優勢を保っていたが、その志と精神力と統一性に欠けていたので、次第に乱れていく。

 面子をつぶされた米国もまた、支援から手を引いていたため、蒋介石軍は敗北を重ねていた。

 この頃の南朝鮮では、労働者、農民、市民、学生たちが各地でゼネストやデモなどの反米抵抗行動が激化していた。

 このまま毛沢東軍が勝利を重ねていけば、北の金日成勢力を刺激することを恐れていた米国は、我慢しきれずに国民党軍への武器援助(47年6月)を実施していく。

 解放軍は47年9月に総反撃を開始すると、48年早々には反抗に転じ、49年前半になると中国全土をほぼ制圧して、勝利した。

 北京で49年10月1日、中華人民共和国の樹立を宣言。

 蒋介石の国民党政府は同年12月、約200万人ほどの人間と共に、台湾へと逃れた。それ以降、中国側と米国側は、ともに「台湾問題」を考えるようになった。

 毛沢東は、50年後半頃から台湾侵攻を検討していた。その際、問題となり懸念していたのは、米国が参戦してくるかどうかということであった。

 毛沢東個人は、例え米国が参戦してこようとも、台湾戦で蒋介石勢力を壊滅させる決心をしていて、軍の一部を東北方面に結集させていた。

 一方の米国も、いつ中共軍が台湾に侵攻してくるのかを研究するなかで、中共軍への先制圧力を仕掛ける意味から、台湾海峡への第7艦隊出動のキッカケを検討していた。

 そのためには、朝鮮半島での停戦会談を有利に進める必要があり、少しでも占領地のポイントを北側に押上げておく必要性を痛感し、会談と戦闘を繰り返していた。

 50年10月、米軍が38度線を一気に北上し、鴨緑江を目指していたのも、中国への牽制を意味していた。

 ちなみに、中国で国共内戦が始まった46年6月以降と、朝鮮半島における米国の動きと、中国の状況とを対比してみよう。

*朝鮮の46年
5月、米ソ共同委員会が無期休会となり、米軍が38度練の越境を禁止にする。
6月、李承晩が単独政府樹立計画を発表する。
10月、反米の10月人民抗争が激化する。中国では6月、国共内戦が始まる。

*朝鮮の47年
10月、米国が第2次米ソ共同委員会を破綻させて、朝鮮問題を国連に持ち込む。
中国では6月に米国が国民党軍に武器を援助し、9月には解放軍が総攻撃を開始する。

*朝鮮の48年
2月、米国が国連での単独選挙実施を強行通過させる。
3月、単独選挙を5月10日に実施すると発表。
大韓民国が樹立(8月15日)、朝鮮人民共和国が樹立(9月9日)。
中国では、解放軍が優勢で、49年前半にはほぼ制圧し、中華人民共和国を樹立(10月1日)、蒋介石勢力が台湾へと逃れる(12月)。

*50年には
1月、米国がアチソン・ラインを発表(朝鮮と台湾をラインから外した、共産主義勢力への誘因作戦を実行)。
中国では、台湾侵攻を計画して、東北地方の軍を強化していた。

 以上、こうして見ていくと、中国での国共内戦の動向で解放軍が優勢になるのに従い、米国の南朝鮮占領政策が、軍事強化へと傾いていくことと符合していることが分かる。

 これは決して偶然のことではなく、アジアでの共産主義勢力の伸張をにらんだ米国の、冷戦戦略であったのであろう。

 日本列島と南朝鮮を反共の砦とする作戦が進んでいたのだ。

 その作戦が、北の軍事力がまだ整わない段階で潰して置くことを狙った、38度線北上挑発であったのだろうと思われる。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」3.金日成の統一努力

3.金日成の統一努力


 米軍と李承晩政権が、戦争挑発策動へと狂奔しているとき、北側は、戦争の危機を防止するための2つの対策を講じていた。

 一つは防衛態勢を強化することであり、他の一つは朝鮮の平和統一をめざすたたかいをさらに強力に繰り広げることであった。

 祖国統一民主主義戦線は50年6月7日、平壌で中央拡大委員会を開いた。

 そこで、南北の政党、社会団体と全朝鮮人民に送る「平和的祖国統一方策の推進に関するアピール」と、その伝達方法手続きに関する決議を採択した。

 アピール内容は、8.15解放5周年を祖国の統一で迎えようと呼び掛け、4項目の平和的祖国統一法案を採択した。

 1.8月5日から8日の間に全国的な南北朝鮮選挙を実施し、統一的な最高立法機関を創設すること。
 2.8.15解放5周年記念日にソウルで、最高立法機関会議を招集すること。
 3.これを実現するため6月15日から17日の間に、海州あるいは開城で、祖国の平和的統一を念願する南北朝鮮の政党・大衆団体代表者協議会を開き、ここで平和統一のための諸条件と総選挙実施の手続き、中央選挙指導委員会の創設問題を討議し決定すること。
 4.代表者協議会には、祖国の平和的統一に反対している民族反逆者の参加を禁じ、祖国統一に対する「国際朝鮮委員団」の干渉を拒否すること。

 以上の4提案の内容は、統一を推進していくための理念的にはそうではあったけれども、4の「祖国の平和統一に反対している」者の参加を拒否している点で、李承晩へのアピールと言うよりも、「国連朝鮮委員会」への提案の側面が強いようであった。

 一方、李承晩政権を押し立てて、朝鮮の武力統一を画策していた米国は50年2月16日、李承晩との間に戦争挑発のための「秘密協定」を結んでいた。

 その「対韓国援助法」のなかに、米議会はつぎの条項を追加している。

 「韓国に共産党または現在北朝鮮政府を支配している政党の党員(注、南労党員のこと)1名以上が参加する連立内閣が成立する場合には援助は中止する」との、反共精神をあからさまにした、平和統一のいっさいの動きを許さないことを、李承晩に要求していた。

 米国の息吹によってしか存在できない李政権は、「南北協商と平和統一は容認しえず」などと警告を出して、南朝鮮人民を威嚇した。

 さらに6月9日から南朝鮮全域に「準戒厳令」を敷き、南北代表者協議会に参加しようとする者たちを妨げた。

 だが北は、万難を排してでも平和統一への道を開こうとして、祖国戦線中央委員会は6月10日午前10時、38度線近くに平和使節として3人を派遣した。

 祖国戦線のアピールを南朝鮮の政党、大衆団体と、国連朝鮮委員会に伝達するためであった。

 国連朝鮮委員会は南北協議にオブザーバとして出席することを決定(9日)していて、アピールの受領に出向いていた。

 ところが平和使節3人を迎えたのは、韓国軍からの一万余発もの銃弾射撃であった。

 このため、「青旗」を掲げてやって来た国連朝鮮委員会代表だけに、アピールとアピール伝達対象者リストをかろうじて手渡すことができた。

 翌日、平和使節の3人がソウルに向かって出発しようとしているところを、李政権は彼らを逮捕、拘禁してしまった。(行方不明となったため、恐らくは殺害されたのだろう)

 続く6月19日、共和国最高人民会議常任委員会は、平和的祖国統一を促す問題を討議し、「平和的祖国統一の推進にかんする決議文」を採択した。

 内容は、共和国最高人屋会議と韓国国会を単一の全朝鮮立法機関として連合する方式で、平和的統一を実現し、この全朝鮮立法機関は憲法を採択し政府を構成し、その憲法に基づいてやがて全朝鮮立法機関の総選挙を実施するとしていた。

 この提案を南(国会)が同意すれば、共和国最高人民会議の代表団を6月21日にソウルに派遣、または南の国会代表団を平壌に迎える準備が整っているとした。

 19日に提案し、21日に協議をするという内容では、確かに性急な面もありはしたが、それだけ戦争前夜の風雲急を告げる状況となっていたのであろう。

 それでも北は、最後まで南北協議による平和統一の可能性を追及する努力をしていたことが伺える。

 一方の李政権は、自らの政治基盤をかけた「北進武力統一」しか念頭になかったので、金日成が差し出した握手の手をはねのけてしまった。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」2.李承晩の政治

2.李承晩の政治

 李承晩政権は49年以降、二つの「嵐」に悩まされていた。

 一つは、南朝鮮全域にまで広がったパルチザン闘争で、パルチザンたちは各地で人民委員会をつくり、土地改革と反米・反李政権運動をすすめていて、李政権の統制外にあった。

 彼らを弾圧するために軍警を差し向ける李政権と、また武闘が始まっていく。

 パルチザン闘争の交戦回数は、49年10月の1カ月だけで1330回、参加人数が8万9924人であった。

 50年1月以降は交戦回数と参加人数ともに急増し、同年4月には交戦回数が2948回、参加人数が6万5000人余(以上、韓国警察発表)になっている。

 これに対して李政権は、軍隊、警察、育成した右翼青年団などを現場に向かわせ、暴力的弾圧を繰り返すだけではなく、各種の殺人的悪法を制定して、一層の暴力政治を行っていた。

 「国家保安法」(48年11月制定)、「国家公務員法」、「郵便物取扱い法」、「兵役法」(49年7月制定)「教育法」(49年11月制定)、「新聞法」などを制定した。

 これらは徹底して人民の自由と民主主義を抑圧するファッショ的悪法となり、人民的良心を弾圧していった。それはまた、戦争の際の「後方の安定」社会を作り出すための装置であった。

 トルーマン米大統領は、南朝鮮地域のパルチザン闘争、さらに38度線一帯での武装侵入の失敗を重ねている李政権の、その愚策の報告を受けた49年、南朝鮮の後方を「安泰にするよう努力すること」を李承晩に命令した。(トルーマン「回顧録」第2巻)

 トルーマンの命令以降、南朝鮮での米軍と李政権との暴力的弾圧政策が急増している。

 米軍が南朝鮮に上陸して以降49年7月までに、9万3000人余の人民たちが虐殺されているが、「後方の安全」命令を出した49年7月以降から50年1月までの7カ月間に虐殺された人民たちは、4年間のそれよりも9000人上回る10万2000人余という、戦場なみの被害者を記録している。

 米軍の後ろ盾を得て狂気と化した李政権は、「治安」「討伐」の言葉を常用して、「赤狩り」「焦土化作戦」を繰り返し、最早や南朝鮮を戦場と化していた。

 ついには、「北進」戦争挑発を隠すための、「準非常戒厳令」(50年6月13日)まで出してしまった。

 もう一つの「嵐」は、超インフレーションが発生していたことである。

 インフレーションの発生そのものは、民族生産もまだ十分ではない戦後の混乱した社会状況の中に、米軍が米ドルとアメリカ式商取引、消費経済を持ち込んだことによる。

 李承晩には、米帝国主義の植民地従属政策を受け入れるしかないので、南朝鮮経済は全面的に破壊され、さらに紙幣の乱発でインフレはいっそう激化し、物価は天井知らずに高騰した。

 市場の穀物は品切れとなり、人民たちは餓死寸前という状態にまでなった。

 こうして李政権の政治は、破産寸前の危機的な有様であった。

 アチソン米国務長官は4月7日、「韓国政府は財政問題の重大性を理解せず、進行するインフレの抑制に必要な緊急措置もとろうとしていない。このままではアメリカの軍事経済援助は再検討と修正を必要とするであろう」と警告をするとともに、「憲法の定めるところにしたがって、5月中に第2回選挙を行わぬときは、援助を中止するかも知れない」とまで、李承晩を脅した。

 米国の言い分も帝国主義的だが、李承晩の政権能力も限界にきていたことは確かである。

 そのためホワイトハウスは密かに、「ソウルの馬をかえる時期がきた」との意見が出ていて、次なる人物評定を行っていたが、意中の人物には到着しなかったようだ。

 追い詰められていた李承晩が、国内の治安悪化を理由に、第2回選挙を11月まで延期してもらうよう画策したが、聞き入れてもらえなかった。

 第2回国会議員選挙は5月30日、米国の命令通りに実施された。

 必死であった李承晩は、直接采配し、30名以上の反対派候補を監禁し、人民たちにまで残虐なテロ行為を加えるという異常な雰囲気で、選挙は実施された。

 全210議席のうち、李承晩派はわずか47議席を占めたにしか過ぎず、政治的危機は選挙前よりも厳しくなっていた。

 対米自主路線を掲げる中間派が130議席を確保していて、李承晩の大統領再選がおぼつかなくなっていた。

 選挙を強要した米国は、この選挙結果を、国際社会向けには一定程度の容認をしながらも、裏では従来どおり李承晩を支えた。

 「私は…彼の政府がひどいインフレに注意を払わないことを重視した。しかし米国としては、李承晩を支持する以外に方法がなかった」(トルーマン「回顧録」第2巻)

 戦争までの時間がなく、今更別の政権を用意して、反共政策を推進していく余力がなかったことを、トルーマンは「回顧録」で告白している。

 かろうじて米国側の支持を得た李承晩は、特別国会を招集したものの、選挙前に辞任していた総理の後任も決められないという、政治的ピンチに立たされていた。(朝鮮戦争突入後も、内閣首班の国務総理は空席のままであった)

 「李承晩の崩壊を防がなければならない」とした米ホワイトハウスも、李承晩自身も、生き延びる最後の希望を戦争に託すしかなかったのであろう。

「朝鮮問題へのレッスン第2部:朝鮮戦争を考える」1.第2部のはじめに

1.第2部のはじめに


 朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時、北の人民軍が38度線を突破して、韓国領に侵入したことによって始まったとする説が、日本を含む西側では「常識」とされている。

 この「常識」を発明したのは、米国である。

 国連安保理に迅速に立ち回った米国は、「国連朝鮮委員会」側の証言を元にして、イ=先に発砲したのは「北朝鮮軍」で、ロ=北は「侵略者」(ソ連と中国との謀議があったから)だとの、レッテルを貼り付けてしまった。

 しかも、その理事会にはソ連と中国が欠席し、朝鮮代表の証言も拒否してのものであったから、現在でも理事会の成立すら疑う声がある。

 米国にとってのイとロの理由付けは、朝鮮半島の内乱戦に自国軍を出動させるためは、好都合な事柄であったのだ。

 若し、韓国軍が先に「発砲」していたとしたら、または、戦争直前にソ連と中国が、参戦を前提とした協議を共和国と行っていなかったとしたら、米国が国連で強弁したイと口は成り立たなくなる。

 イとロが成り立たないのであれば、米軍には参戦する理由など何もなかったのであり、それでも参戦していたから、米国こそが「侵略者」だったということになる。

 そうであるから米国は、自国の意思が反映できる国連の場を存分に活用し、戦争中も、戦後も、現在までも、反朝鮮キャンペーンを国連で展開することを止めない。

 今でも朝鮮戦争開始の責任が、ピョンヤン、モスクワ、ペキン、ワシントン、ソウルによる、どちら側の組み合わせにあるのかを、論じることに力点が置かれているきらいがある。

 その結果、6月25日の戦争勃発は、「相手側(北)の先制攻撃」が原因で、それは予め計画していた「奇襲攻撃」であったとする米国側の発表によって、論を展開することが多い。

 そうすると、その直前までの38度線一帯での小競り合いや、南朝鮮内でのパルチザン闘争のことなどは、軽くふれる程度で終ってしまうから、どうしても内戦的性格を帯びたものであるとの視点がなくなり、ソ連(スターリン)の陰謀説に傾きがちになってしまう。

 米国のリベラリスト論者たちは、朝鮮戦争はもともと民族紛争だったのであり、50年6月以前の紛争の最大の原因は、親日派を重用した李承晩と米軍政庁にある、としている。

 つまり、左派と中間派を排除し、南朝鮮の単独選挙と政権樹立を強行した米軍政庁と李承晩一派が、民族紛争と戦争の最大の原因者だと言うのである。

 では、その彼らの声を一部届けよう。

 「朝鮮戦争は本質上内戦だったばかりでなく、革命的内戦だった。1950年6月は、段階的に拡大してきた戦争における劇的なエスカレーションの瞬間ではあっても、戦争の起源そのものではないのである」(ギャバン・マコーマック「侵略の舞台裏」の「結論」から)

 「ひそかな陰謀をもって戦争を挑発し、そのきっかけを作ったのはむしろ南側」(I・F・ストーン)

 「1950年6月における本格的戦争の開始は、すでに前から進んでいた闘争の別の手段に過ぎなかったのである」(ブルース・カミングス)

 「1948年における南北両分断政権の成立は、1945年と1946年に形作られた既成事実の最終的な仕上げであり、朝鮮戦争はそれ以前の5年間ずっと続けられてきた闘争の行き着いた当然の帰納に過ぎない。

 一言でいえば、1945年8月は、一度もとぎれたことのない一貫した事件の連鎖をもって、1950年6月につながっている」(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」序文から)

 ――以上、彼らが主張するように、朝鮮戦争の起源は、米国の演出に乗じた国連が、その種を蒔いたのだ。
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