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「朝鮮問題へのレッスン」20.第1部を終えて

20.第1部を終えて


1.
 朝鮮半島の南北分断、南北2つの政権の誕生、朝鮮戦争、それらの根源的原因を突き詰めていけば、いずれも米国の反共戦略に到達してしまう。

 時期的には1945年から47年の期間で、この2年間で、朝鮮半島の今日的な悲劇は刻印されてしまったとも言えよう。

 そこには、日本自身の責任も含まれていたことを忘れてはいけない。ブルース・カミングスは著書『朝鮮戦争の起源』で、「20世紀の前半の朝鮮の運命を決めたのが帝国主義国としての日本だったとすれば、アメリカは後半の運命を決めた帝国主義国であり、朝鮮に惨禍をもたらした張本人でもあるが、いまもってこのことをはっきり認識している人は少ない」(序文)と言っている。

 つまり20世紀の前半、1905年から45年8月までの40余年間を、朝鮮民族の内政、軍隊、経済ばかりか、言語、文化、名前まで剥奪するという過酷な植民地経営をした日本帝国主義。

 その日本帝国主義の統治方式(総督府政治)を引き継いだ米帝国主義は、朝鮮半島全域支配の野望を持ちつつ、朝鮮を南北に分断し、現在も南朝鮮を軍事支配している。


2.
 日本は朝鮮半島と朝鮮人民に、過去の植民地時代の謝罪と清算することを、朝鮮ばかりか国際社会からも要求されている。

 サンフランシスコ講和条約(51年)、日韓基本条約(65年)の双方は、米国のイニシアチブによって締結された米国作品であった。

 両条約ともに共和国を敵視し、南北分断政治を肯定する仕組みに寄与しているので、なおのこと日本は、朝鮮半島への戦後処理と歴史清算が求められているのだ。

 米国もまた朝鮮半島と朝鮮人民に対して、歴史の清算と謝罪が必要である。

 朝鮮解放以後、米帝国主義が朝鮮半島と朝鮮人民に犯してきた罪は、もっと深刻である。

 そのことにさえ気付かずにきた米国は、南朝鮮に米国式民主主義と自由を施してきたと米政治家たちは理解しているのだろうか。

 そうであるとしたら、それは傲慢以外の何者でもない。

 キリスト教国ではないとしても、米歴代の大統領を含め政治家たちの多くは、クリスチャンであった。

 聖書に掲げている人類愛、隣人愛とは、朝鮮民族を南北に分断することであったのだろうか。信仰と現実政治は別項とはいえ、これまでの朝鮮半島における米国政治に疑問を持つ。


3.
 1945年8月、朝鮮半島内の日本軍(朝鮮駐屯軍)と戦闘を行ったのはソ連軍であった。米軍はソ連軍より4週間も遅く南朝鮮に到着(すでに日本は降伏していた)し、それ以前に、一方的に朝鮮半島を38度線で南北に分断する決定内容を、ソ連にも朝鮮人にも押しつけてしまった。

 そればかりか、朝鮮人自身によってすすめていた自主独立の「朝鮮人民共和国」(呂運享主導)設立連動を弾圧し、代わって親日派や右翼メンバーを引き入れての占領政策をスタートさせた。

 それは、日本帝国主義国家が遺した植民地政策をそのまま引き継いだもので、朝鮮人からみれば、その主人が日帝から米帝に代わっただけのことであった。

 戦後の米政権は、日本列島と南朝鮮の統治を重視してきた。

 それは対中国、対旧ソ連、対インドシナ半島からの軍事膨脹を睨んだ、アジア太平洋地域の反共要塞基地としての機能を建設するためのものであった。

 朝鮮戦争後は特に、日米韓の三角体制を形成することに力を入れてきた。

 日韓を軍事的に、経済的に一体化させて、その圧力を共和国や中国に向け、朝鮮式社会主義体制を崩壊させることを目論み、共和国政治を孤立化し続けているのが、米国の対朝鮮政策であった。

 第1部では、朝鮮戦争までの朝鮮半島の政治動向を執筆してきた。

 特に強調してきたのは、南北分断という、朝鮮人たちを残酷な現実政治へと突き落とした犯人が米国で、そのレールを敷き、今もそれに手を貸しているのが日本であったことを、理解してもらいたかったためである。

 ブルース・カミングスが「それを認識している人が少ない」と言っているように、朝鮮戦争の原因を含め、ソウル発やワシントン発(時には東京発)の朝鮮関連情報は、米ホワイトハウスのバイアスがかかっており、そのプロパガンダ的な内容が主流を占めている。

 そのために、真実を伝えることが難しい。

 朝鮮半島において米国や日本が実施してきた、または現に実行している政策の本質的な姿を「認識する人は少ない」のは、残念ながら現実である。

 だからなおのこと、その帝国主義者の姿と実態とを何度でも告発し、発言していく必要性があると考え、発信をしている。


4.
 米国が朝鮮問題に対する国連の関与を強く推し進めたのは、李承晩親米政権(独裁政権)に正統性のレッテルを貼るためでもあった。

 自分の立場が圧倒的に有利な国連「総会」の場でこそ、自分の思う通りの内容が決定できると米国が判断したからである。

 米国が「朝鮮問題」を最初に国連に持ち込んだのは、1947年9月のことである。

 モスクワ3相会議(米英ソ)が朝鮮問題の取決めを「米ソ共同委員会」に委託し、その米ソ共同委員会の討論を一方的に破棄した米国が、国連に「問題」を持ち込んだ。

 それもソ連の拒否を封じ込めるために、安保理事会ではなく、総会の場に議題として上程した。

 朝鮮民族の未来を決定的に左右するというのに、その国連総会には誰一人、朝鮮人代表は招かれず、発言も許されず、民族の分断という最大の悲劇が米国の演出によって、国連の舞台で演じられてきた。

 その助演者たちこそ「国連臨時朝鮮委員団」と、後の「国連朝鮮委員会」に名を連ねていた国々であった。

 臨時朝鮮委員団を構成した8カ国は、オーストラリア、カナダ、フィリピン、インド、エルサルバドル、フランス、シリア、中国(台湾)であり、当時の米国連代表のジョン・フォスター・ダレスが、米国の意のままになる国ばかりを個人的に決定したのだ。

 彼らがソウルや南朝鮮で観ていた風景は、米軍政庁支援下の李承晩一派が、中道から左派勢力を徹底的に排除し迫害し、投獄、拷問、テロ、殺害、逃亡などの惨澹たる世情であったはずである。

 その惨状を少しでも報告したのはシリアとカナダで、他の国は米国に正面切って非難などすることはできなかった。

 改編した「国連朝鮮委員会」(北朝鮮軍を「侵略軍」だとする証言者の地位を与えられた)には、米国はシリアとカナダに代えてトルコを入れた。

 当時のトルコは、経済援助漬けもあって、米国には一言もなかった。

5.
 ホッジが46年10月28日、マッカーサーに宛てて打った電文は、「ロシア人がこの秋の収穫が終り次第、南に侵入しようとしているという証拠が増えている」というもので、米軍政庁がいかに共産主義者を恐れていたかが分かる。

 この時期、南朝鮮全域では「10月人民抗争」の嵐が荒れていて、ホッジら米軍政の幹部たちは、恐怖感をもちつつ対処していた。

 彼らの恐怖感の先は、人民抗争を指導していた共産主義者たちで、共産主義者らは北からソ連の指令を受けていると決め付けていた。

 これ以降、米軍側は北からの侵入者が南で暴動を起こしているとの警告を、朝鮮戦争が勃発するまでワシントンに発信し続けている。

 このワシントン発信でさえも、彼らの恐怖感から「南進」説情報を創作していた。

 これに対して北では47年以降、米ソ共同委員会の行方を見守りつつ、人民委員会、政党、社会団体などの集会や大会のたび、南北分断につながる南朝鮮単独選挙に反対するアピールを出していた。

 金日成は48年元旦の「新年の辞」で、南北全朝鮮人民に対して、選挙による統一的中央政府の樹立を訴えた。

 米国は同年2月26日、国連で「南朝鮮での単独選挙実施の決議案」を強行通過させ、3月5日に単独選挙を5月10日に実施するとの「布告文」を発表した。

 金日成はその直後の3月9日、北朝鮮民主主義民族統一戦線(46年7月設立)中央委員会で、「南朝鮮の反動的単独政府選挙に反対し、朝鮮の統一と自主、独立のために」たたかうことを演説した。

 4月19日に南北朝鮮政党、社会団体代表者連席会議(56団体、545名参加)を平壌で開き、南北統一選挙の要求を決議した。

 すでに38度線が米軍によって「準軍事的境界線」となっていたから、米軍政への反対闘争は南北のそれぞれの地域で行うしかなかった。

 北では朝鮮民主主義人民共和国政府こそ、朝鮮の正統な政府であると主張しているのは、南北同時の選挙を通じて選出した代議員で構成する全人民の意志を代表する最高人民会議を結成したからである。

 一方の南では、国連の監視下で選挙を実施し、国連総会において正式に「認定」されたことで、朝鮮半島の唯一の合法政府だと主張している。

 この南の「合法政府」主張に対して、マコーマックは、李承晩が主張してきたことは、歴史の批判に堪えうるものであるか疑わしいと『朝鮮戦争の真実』の中で言っている。


 ―――以上、第1部の「朝鮮戦争まで」の動きを、改めて概括してみた。

 何度でも私が言いたかったことは、朝鮮半島の中で48年以降、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国という2つの政府を成立させたのは、朝鮮民族を永久的に分断させようとする米国の政策であったということである。

 朝鮮人たちは今でも、どこに住んでいようとも、自らの命をかけて朝鮮の統一を願っている。

 その彼らの意志と声に耳を傾けてもらいたいために、朝鮮現代史を語ってきた。
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「朝鮮問題へのレッスン」19.朝鮮戦争前夜

19.朝鮮戦争前夜

 
 49年に入ると、韓国軍は38度線一帯で、軍事挑発を盛んに行っている。

 もちろん米軍の意図と許可がなければ、韓国軍だけの判断では一歩も動けるはずがない。(李承晩政権発足直後の48年8月24日に調印した「韓米軍事協定」による)

 李承晩は武力での「北進統一」意図を、内外に向かって宣言していた。

 「われわれの計画は北朝鮮人民軍を解散させ、武装解除することにある」(49年1月12日の記者会見)

 「われわれの願いは、国連朝鮮委員会の助けをかりて北朝鮮を併合すること。それができなければ、国防軍は必ず北朝鮮に攻め入るべきである」(49年2月7日の国会演説)

 「南北の分裂は戦争によって解決しなければならない」(49年10月31日の米巡洋艦セントポール号の甲板での演説)

 「来年は、われわれだけで南北朝鮮を統一しなければならないことを忘れてはならない」(49年12月30日の記者会見)

 李承晩は自己の政治的立場が悪くなるにつれ北進の必要性を、ますます主張するようになった。

 それも決して口先だけの「北進」を主張していたのではなく、実際に、韓国軍を頻繁に38度線を越えさせ、北の領域を侵犯させていた。

 このような「北伐」騒ぎを計画し作成し、実践化して38度線への武装侵入事件を大々的に起こしていたのだ。

 49年の1年間だけでも、38度線で実に2617回の武装侵入を強行していた。

 なかで最大のものは、碧城郡苔灘地区と銀波山、開城地区の松岳山、裴陽地区の高山峰などに対する武力侵攻、夢金裏(モンダンポ)港への奇襲攻撃であった。

 韓国士官学校の閔幾植(ミン・キシク)は「最初に攻撃をしかけるのはたいていわが方であり、一旦攻撃が始まればそれは熾烈なものだ」と語っている。

 西側の出版物でも、これらの挑発行為を「小さな戦争」だと表現している。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは「南朝鮮軍の中で目につくのは…北朝鮮を攻撃したいという彼らの露骨な希望である。南朝鮮は国境(注、38度線のこと)を越えたがっている」(49年8月5日付)

 こうした北への武装侵入は、米軍事顧問団長ロバートによって計画され、彼の指示のもとに行われていた。
 
 ロバート自身、49年10月の韓国陸軍参謀本部での師団長会議で、「38度線以北地域にたいする攻撃はわたしの命令によっておこなわれたし、また今後もおこなわれるであろう」と演説していて、自らを暴露している。

 49年、38度線一帯での米軍・韓国軍共同の北部侵攻の「小さな戦争」は、彼らの「北伐」計画の可能性を試す予備戦争であったことも、その後の彼ら自身の言動によって暴露されている。

 さらにロバートは49年8月2日の韓国軍師団長会議で、「わたしとわたしの同僚は、紛争事件が南朝鮮側で起こしたものであり、北朝鮮側の南朝鮮にたいするすべての攻撃(注、追撃のこと)は対抗措置であるとみている」(米民主的極東政策規制委員会編「朝鉾戦争は誰が起こしたか」より)

 49年に入ってなぜ、「北伐」計画が急増したのであろうか。

 それは、南朝鮮社会がインフレーションと各地での反米闘争が激化し、さらに政権側からのテロ、弾圧などで社会が麻痺し、警察国家化していて、政権そのものが崩壊寸前であったからである。

 李政権を救い出す出口こそが、「北への侵攻」「武力北進」であった。

 米国自身も、台湾問題への解決をはかるために、李政権への救出に手を貸していたのだ。49年末頃の韓国国会は、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職、その他の諸問題」に対する批判の声が内外から上がると同時に、李政権への改革が早急に求められていた。

 国連朝鮮委員会のオーストラリア代表団のパトリック・ショウは49年7月、オーストラリア政府に次のような報告を送っていた。

 「韓国政府はかつての反乱地区においても一応、法と秩序を維持しているが、それはただひとえにスパイ活動、検閲、宣伝、弾圧のごとき警察国家的手段によるものである」

 「韓国では大統領及び何人かの閣僚が、過酷な警察力による弾圧を用いて不法な独裁政治をほしいままにしており、このようなことが続く限り、この国に国民の意を体した民主政権が出現する可能性はないに等しい」

 米軍関係の資料も、当時の「韓国軍の30%が暴動鎮圧に動員されている」状態を認めている。

 米国は50年に入ると、お得意の誘因作戦を実行してきた。

 アチソン米国防長官は1月12日、連邦クラブでの「アジアの危機、アメリカ政策の試練」との演説で、米国の極東防衛線は、アリューシャン列島から日本列島を経て琉球で結ばれ、琉球からさらにフィリピンにつながると発表した。

 この時、わざと朝鮮半島と台湾を外したのだ。アチソンは朝鮮戦争後になって、南朝鮮を米国の極東防衛線の圏外に置いたのではなく、その当時から圏内に置いていたことを認めている。

 さらにトルーマン大統領は1月5日、「台湾不干渉主義」を発表して、中国共産党を牽制した。

 実際は、台湾から蒋介石軍を呼び入れ、朝鮮戦争に投入することを目論んでいた。

 朝鮮戦争後の7月27日声明で、第7艦隊の台湾占領を命令し、「台湾不干渉主義」政策は欺瞞だったことを、それは朝鮮戦争を引き起こすための煙幕であったことを、自ら認めている。

 朝鮮と中国の革命勢力が結び付くことを、米国が恐れての結果だった。

「朝鮮問題へのレッスン」18.朝鮮民主主義人民共和国の樹立

18.朝鮮民主主義人民共和国の樹立

 
 48年4月、朝鮮統一政権づくりへの議論をすすめるため、平壌で開催される「南北朝鮮諸政党・社会団体連帯会議」に出席する南側代表たちが、38度線を越えた。

 会議では、全ての外国軍隊の朝鮮半島からの即時撤退、南北統一政府の樹立などを決案、共同声明を発表した。

 だが、その民族的な声明も、国連臨時朝鮮委員団が南だけの単独・分離選挙を認め、その「監視」下に48年5月、選挙が強行されたため、声明は反古にされてしまった。

 このため再び(6月29日から7月5日まで)、「南北朝鮮諸政党・社会団体連席会議」(指導者会議)を開催し、祖国統一への現実的な対策を討議した。

会議で金日成は、次のように発言した。

 「われわれはただちに朝鮮人民の意思を代表する全朝鮮最高立法機関を樹立し、朝鮮民主主義人民共和国憲法を実施しなければなりません。こうしてわれわれは、単独政府をつくるのではなく、南北朝鮮の諸政党、大衆団体の代表者からなる全朝鮮政府をうちたてなければなりません」

 すでにこの時、南では李承晩政権成立の準備が進んでいたから、協議の方針も、南単独政権を否定する意味からも、北で自主、自立の全朝鮮人民の政府を樹立することが、最善の方法であることを確認した。

 次いで7月9日、北朝鮮人民会議第5次会議で、憲法を制定することと、最高人民会議の代議員選挙を実施することを決定した。

 その決定に従って、南北総選挙を実施(8月25日)した。

 南朝鮮の選挙は、米軍政庁を李承晩政権が弾圧するなかで実施された。

 選挙妨害策を考慮して、非公開的に投票者が署名する方法(地下秘密選挙)で人民代表を選出(1080名)し、その彼らが北部の海州(ヘジュ)に集まって8月21日から26日の間に、朝鮮最高人民代議員選挙のための南朝鮮人民代表者大会を開き、そこで秘密投票によって南朝鮮人口5万名に1名の割合で、360名の最高人民会議代議員を選出した。

 投票には、南朝鮮有権者総数の77.5%にあたる673万2407名が参加した。

 この間、米軍機動部隊を38度線から済州島まで配置し、警察とテロ団が検挙劇を繰り広げ、人民たちに署名投票をしないように脅迫した。

 彼らは1370名を検挙し、数万名を逮捕投獄し、数千名を殺傷するという暴力をふるった。

 このようにして南朝鮮で選出された360名と、北の212名との572名の代議員が9月2日、最高人民会議第1回会議を開催した。

 憲法を採択し、金日成を首相と国家最高位に選び、朝鮮民主主義人民共和国政府政綱を発表した。

 第1に、全朝鮮人民の団結と祖国統一をめざす闘争への動員、ソ米両国国軍隊の同時撤退の実現。

 第2に、日本帝国主義支配が残した宿弊の一掃と親日派、民族反逆者の法的処罰、反動分子の反民族的売国行為と破壊策動の暴露、粉砕。

 第3に、日本帝国主義と南朝鮮傀儡政府がつくった法令の無効宣言、全国的範囲での民主改革の実施。

 第4に、祖国の独立と繁栄を保障する自主的な民族経済の建設。

 第5に、教育、文化、保健事業の発展。

 第6に、各級人民政権機関の強化と南朝鮮地域における復活。

 第7に、平等な立場に立つ自由愛好諸国との友好。

 第8に、四国の防衛と民主改革の成果を守るための人民軍の強化――などの基本内容となっている。

 この政綱に基づき、社会主義国を中心とする各国との外交関係を急速に結んだ。

 ソ連(48年11月)、モンゴル(48年10月)、ポーランド(48年10月)、チェコスロバキア(48年10月)、ユーゴスラビア(48年10月)、ルーマニア(48年11月)、ハンガリー(48年11月)、ブルガリア(48年11月)、アルバニア(49年5月)、中国(49年10月)、東ドイツ(49年11月)、北ベトナム(50年1月)。

「『日本のイメージを悪くしている』のは、果たして誰か」

「『日本のイメージを悪くしている』のは、果たして誰か」


 近年、韓国や米国地方都市で、軍慰安婦の被害を象徴する「少女像」の設置が相次いでいる。

 その少女像の撤去などを求めることを目的とした、日本の地方議員らがつくる「慰安婦像設置に抗議する全国地方議員の会」が存在している。

 その同会の訪米団(団長、松浦芳子・東京都杉並区議)の13人が1月14日、米西部カリフォルニア州ロサンゼルスのグレンデール市や、ブエナパーク市ほかを訪問した。

 最初にブエナパーク市議会を訪れ、同市議会が昨年8月、象設置提案を「国際問題に市は関与しない」として廃案にしたことを、松浦団長は「良識ある活動に感謝したい」と礼を述べた。

 少女像は、ソウルの在韓国日本大使館前にある「少女の銅像」と同じデザイン。

 次いで一行は、象が設置(市公園内に)されている同州のグレンデール市を訪問し、市関係者に「事実ではない『性奴隷』という言葉を石に刻み、慰安婦像として残すことは、将来に禍根を残す」との抗議文を手渡して、像の撤去を求めた。

 同会が「事実ではない」と主張し、抗議している内容が、軍慰安婦の存在を否定しているのか、「性奴隷」ではなかった、強制連行ではなかった、軍は関与していなかった――などと言っているのかが、その真意が分かりづらい。

 しかし同会が主張しているトーンは、第2次安倍政権下で語らっている、軍慰安婦の存在を否定的にとらえていることと、一致する符号のようだ。

 だから同会も、安倍政権と同様に「河野談話」と「民間基金」を否定しているのだろう。

 河野談話は、日本、朝鮮、中国、米公文書館などの膨大な資料を検討、研究者や慰安婦たちからの聴き取り調査を経て、制度として旧日本軍が関与し、少女らを強制連行し、強制的に性奴隷にしたことの結論を出した。

 そのうえで、日本政治は関係する国と被害女性たちへの謝罪と償いを行うことを要求していた。(政権末期であったため)

 さらに村山政権時代の「民間基金制度」は、政府の資金ではなく、民間募金による慰安婦たちへの償い金であったから、日本政府が償ったことにはならない、との批判はあった。それでも慰安婦たちの存在は認めた。

 現安倍政権以前の政府は、慰安婦たちの存在は認めていたものの、彼女たちへの謝罪と償いができていなかった。

 そのため、安倍政権や同会のような認識が、はびこる原因を作ってしまった。

 90年団以降、国連人権委員会では何度も慰安婦たちへの謝罪と償いを、日本政府に要求する決議を採択している。

 そればかりか、各国の議会や市民団体なども、日本への抗議の声が続いてきた。

 それでも日本政府は、それらの声を無視してきた。

 このような歴代日本政府の歴史否定的な態度に、世界の良心は怒りの声を挙げている。

 元軍慰安婦の彼女たちが、恥を忍んでやっと声を出すことができたのは、高齢になってからであった。

 彼女たちは、心と体の傷に長年悩まされ、病苦の中にいた。

 その彼女たちの声と痛苦を代弁したのが、ソウルの在韓国日本大使館前の「少女の銅像」である。

 少女像を建てることによって、日本の過去の歴史清算を、少なくとも被害者たちへの謝罪を早急に行うことを、日本政府に要求したのである。

 その像を否定し、撤去を求めることは、それ自体で、被害女性たちの存在と、その人権とを否定していることになり、同時に自らの歴史をも否定していることになる。

 松浦議員らは一度でも、元慰安婦たちの苦汁に満ちた証言を聞いたことがあるだろうか。

 老「少女」たちの「言葉」に接することもなく、「真実かどうか」と言うのは、歴史と共に彼女たちの人権を冒瀆していることになる。

 また、「分らない」との発言は、傲慢以外の何ものでもない。

 これまで日本政府が、老いたる「少女たち」の存在を認め、謝罪と補償をしてこなかったため、被害者たちの代弁として、各地で「少女像」設置運動を展開してきたのは、当然の行為である。

 「恥ずかしい」のは、過去の歴史を清算も謝罪もしてこなかった日本であり、米国まで行って「像」撤去要求行脚をしていた行為のことである。

 松浦議員らの行為は、河野談話や「民間基金」の精神を否定し、強制的に軍慰安婦にされてしまった女性たちの人生を否定し、さらに歴史事実を歪曲し、現安倍政権が推進しようとしている「戦争コース」のレール敷きにしていて、とても看過できない。

 同時期、安重根の記念館が、事件現場のハルビン駅前に開設(1月19日)された。

 これに対して、菅義偉官房長官は20日の記者会見で、安重根は初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺(1909年)し、「死刑判決を受けたテロリスト」だ、「一方的な評価に基づき(中韓が)連携して国際展開する動きは、(地域の)平和と安定の構築に資さない」と主張した。

 安重根を「テロリスト」「犯罪者」だと決めつける安倍政権の歴史認識と、元軍慰安婦たちの存在を「真実かどうか分らない」とする「像撤去全国地方議員の会」の主張とが、共に同根で、このような論理が「戦争」を近付けている。

 日本のイメージを悪くしている、彼らの論を批判する。


                                          2014年1月20日 記

「朝鮮問題へのレッスン」17.南単独選挙

17.南単独選挙


 南朝鮮では48年5月10日、左派と民主主義右派のボイコットの中で、選挙が強行された。

 その選挙の実施の「監視」役として、国連(米国)によって結成された国連臨時朝鮮委員団が、果たした役割こそは、今日にまで至る朝鮮半島の南北分断の固定化作業に、「国連」という公的機関の名称を冠せ、「史」を欺いたことである。

 その第1は、実際上の「監視」機能を果たしていなかったことである。当時の南朝鮮の人口は2000万余、面積は10万平方キロ余であった。

 これに対して、臨時朝鮮委員団は事務職員を含めて総勢30人を超えることはなかったから、南朝鮮全域をカバーする選挙の実態を監視することなど、誰が考えても物理的に不可能であったことが分かる。

 にもかかわらず、国連も、米国も、委員団も、名目的な「儀式」で済まして、民族分断という大罪を犯している。臨時委員団の監視班たちは、米軍政庁が指定したわずかばかりの投票所(全体の2%)を、米軍が用意した交通手段に依存して移動していたのだから、米軍の掌の中で動いていたにしか過ぎない。

 第2は、国連決議では「自由な選挙」の実施としているが、この時の選挙は決して「自由な雰囲気」の中で施行されたのではない。

 米軍政庁側の発表でも、単独選挙が発表された3月下旬から5月10日までに、589人が殺害(候補者、運動員、選挙反対者)され、1万人以上が検挙されている。

 どの投票所にも警察や予備隊、または右翼の青年団たちが包囲し、監視し、選挙の投票をコントロールするため、米軍によって組織された準警察組織の郷保団(ヒヤンボダン)が監視していた。

 そのうえ、ソウルなど主要な地域では、戦車が砲身を向け、機関銃を構えた米軍が要所に立っていた。

 委員の中では、こうした現像の方向を列挙したものもあったが、委員会としての独自調査は行っていない(そうした能力なかった、と言えるかもしれない)。

 第3は、委員団のメンバーのすべてが、この選挙の意図や意味をまるで理解していなかったことである。

 朝鮮のことについては、米軍政庁の要人の誰もが理解していなかった以上に、各団選挙監視メンバーたちは、朝鮮について何も知らなかった。

 この選挙が、南朝鮮だけで実施されているとのレクチャー(米国にとっては都合が悪いからなおのこと)も受けていなかったこともあって、自分たちが「監視」していた地域は、朝鮮半島における一つの地域だと理解していたのだ。

 このことについては全く信じられないことだが、委員団メンバーたちは、米国の傀儡以下の役割を演じていたことになる。

 選挙を合法的なものとして承認することを迫る米国の圧力の中で、米軍臨時朝鮮委員団の討議は、7週間も続いた。

 さすがに実際に見た現実に、米国が望む結論には、容易に到達できなかったのであろう。

 そのうち、シリアの代表がパレスチナ問題で委員会から脱退(5月末)し、オーストラリア代表が病気で入院(6月下旬)するというハプニングがあって、結果作業を急いだ。

 委員団は6月25日、「選挙は朝鮮において同委員団が立ち入り可能であった部分における選挙民の適法な自由意志の表現であった」との内容を決議した。

 名誉のために付加すると、委員団の可決後、オーストラリア、カナダ、インドの各政府は、それぞれ個別に米国政府に対して、この選挙結果によって誕生したソウル政府は、第2回国連総会決議文(47年11月)による南北全朝鮮の「国民政府」とはみなしえないものであることを伝えた。

 このように、国連臨時朝鮮委員団の監視メンバーたちが「監視」したもの、「理解」したもの、「討議」したものが果たして何であったのか、彼らがどこまで認識していたのかは疑問である。

 世界から疑問視されていても、米国と李承晩一派は7月から8月にかけて予定通りに事を進めていった。

 選挙で当選した「議員」たちは、「国会」設置し、「国会」は「憲法」を制御し、李承晩を「大統領」に選挙した。

 米国は8月12日、5・10選挙で成立した機構を一国の国会を認め、そこから誕生する政府は第2回国連総会決議構文の「全朝鮮の国民政府」として承認することを宣言した。

 李承晩も自らは国連臨時朝鮮委員団の決定に基づいて行動していると、主張しはじめた。

 だが、委員団を構成している各国政府、および委員は遅まきながらも李承晩が全朝鮮を代表する大統領として行動することに、誰ひとり同意してはいなかった。それでも8月15日、李承晩を大統領とする大韓民国は成立した。その政権を、第一共和国としている。

 その後、米国の猛烈な国連ロビー活動によって、パリで開催された第3回国連総会(48年12月)に「国連臨時朝鮮委員団が監視しえた朝鮮半島の部分において、有効にこれを管理し統轄しうる合法政権が樹立された」こと、および「朝鮮でこの種の政権としてはこれが唯一のもの」との決議文を可決した。

 米国、オーストラリア、中国(台湾)が起草したこの国連の決議を根拠に、その後の米国と「韓国」は、大韓民国政府こそが、朝鮮半島全域を支配しうる唯一の政党政府(合法)であると主張するようになった。以上のように米国が考案した南朝鮮単独・分離政権は、国連が生みの親となってしまった。

 南だけの単独選挙で分離政権を樹立させるという国連のやり方に対して、南では激しい抵抗が各地に起こっている。最も激烈で象徴的な抵抗運動は、済州島での「4・3蜂起」(48年から49年が最も激しく、最も残酷な弾圧が加えられた)であった。

 その結果、一年遅れで済州島選挙を実施したときに、臨時委員団を「監視」役として送り込んでいる。

 選挙結果について、「島の安寧秩序が保たれていることを強く印象づけられ、選挙は適正でありきわめて平穏だった」との、国連発表文を作成する必要からのものであったろう。

 第1回国会の閉会式(48年12月18日)で李承晩は、国連と協議しながら、北朝鮮の選挙を通じて統一を実現していくと、次のように言及している。

 1.大韓民国政府はその憲法の規定に従い、朝鮮半島に対する主権を持つ唯一の合法政府だからである。

 2.選挙が保留された北朝鮮で速やかに民主的選挙を実施し、国会において北朝鮮同胞に空席として残した100席の議席を埋めなければならない。

 3.北朝鮮修復は北朝鮮同胞の自発的意思を継続的に封鎖する場合には、大韓民国は武力を使用してでも北朝鮮に対する主権を回復する権限を有する。

 つまり、北朝鮮への選挙を呼び掛けるが、それが不可能な場合は武力を用いると、彼自身の本音を言っている。

 北朝鮮への150議席とは、48年6月12日の北朝鮮の人工に比例するもので、北の100名の議員と合流させる方式で統一を実現するというものであった。

 だが、李承晩の本音は最後まで、武力を使用してでも北の共産政権を打倒することであったが、公的には国連との協力を通じての自由選挙実施だと発言している。

 米国大統領トルーマンは、この大韓民国樹立観を、議会に送った教書(49年6月7日)のなかで、次のように言っている。「大韓民国は共産主義に抵抗して、民主主義の成功とその力強さを実証することによって、すでに共産主義の支配下に入った北アジア人民の抵抗に励ましを与え希望の光を放つことになろう」

 朝鮮半島そのもの、ないしは米軍が占領している南半分だけでも、反共の保塁を造るという目的が米国の朝鮮半島政策であったことを隠さずに言っているのだ。

 そうした米国の本質、態度は、現オバマ政権となっても引き継いでおり、朝鮮停戦協定を朝米平和協定へと転換することを拒否している。

「朝鮮問題へのレッスン」16.南北政治協商会議

16.南北政治協商会議


 国連小委員会(48年2月)が南朝鮮単独選挙案を可決し、米国が5月10日に選挙実施の準備をすすめるなか、これに反対していく南北統一実現への運動が、38度線を越えて進行し、交流していった。

 そのことを象徴する会議が、「南北朝鮮諸政党・社会団体代表者連席会議」(連席会議)であった。

 連席会議は4月19日の予備会議を経て、20日から30日まで平壌市で開催された。
 
 南の単独選挙に最後まで反対し闘っていた金九、金奎植(キム・キシュク)、趙素昂(チヨ・ソアン)、洪命熹、金昌淑、李克魯(リ・クック)ら重慶臨時政府系メンバーや、立法議院有志議員らで結成した「民族自主連盟」の名で、北の人民委員会委員長金曰成宛てに、「南北協商会議」(ソウル会議)を呼び掛ける書簡を送った。(2月6日)

 これに対して金日成は、「4月19日、平壌で南北朝鮮協商会議を開く」ことを告げた。

 この南北朝鮮協商会議に参加するため、南からは395人の各団体代表者らが、あいついで38度線を越えて北に入った。

 当時の38度線は、すでに米軍が封鎖していたから、彼らは苦労して個々、または数人で越えていった。(阻止されて命を落とした人たちもいた)

 こうして会議(会場は平壌の牡丹峰劇場)には、南北朝鮮の政党・社会団体56の代表695名(北側300名、南側395名)が参加した。

 主な参加政党。社会団体名を駆以下に掲げておこう。

 *南朝鮮側
 南朝鮮労働党、勤労人民党、朝鮮人民共和党、韓国独立党、民族自主連盟、勤労大衆党、農民党、民主独立党、朝鮮労働組合全国評議会、全国農民組合総連盟、朝鮮文化団体連盟、南朝鮮民主女性同盟、南朝鮮民主愛国青年同盟、自主女性同盟、全国青年会、儒教連盟、在日本朝鮮人連盟、キリスト教民主同盟、仏教青年党、朝鮮語学会、南朝鮮民主学生同盟、反ファッショ闘争委員会、天道教学生会、民衆同盟、民族大同会、三均主義青年同霊、学生同盟、民族解放青年同盟、南朝鮮新聞記者会。

 *北朝鮮側
 北朝鮮労働党、朝鮮民主党、北朝鮮天道教青友党、北朝鮮職業同盟、北朝鮮農民同盟、北朝鮮民主女性同盟、北朝鮮民主青年同盟、北朝鮮キリスト教連盟、北朝鮮仏教連合会。

 以上の参加団体名でも分かるように、この連席会議に参加した南朝鮮の団体は、韓国民主党(金性珠派)と大韓独立促成国民会(李承晩派)を除くすべての政治勢力が網羅されていた。

 朝鮮半島の分断固定化反対、南朝鮮単独選挙粉砕を主張して、右から左、民族主義者から共産主義者までの幅広い層が集まったことは、当時の朝鮮政治の現実を表現していた。

 米帝国主義の占領政策がいかに脆弱で、不当なものであったかを、連席会議の成功が示している。

 会議では、1.朝鮮半島からの外国軍の即時かつ南北同時撤退、2.全朝鮮の政治会議を招集し、立法機関を選挙して憲法を制定する、3.南朝鮮単独選挙と単独政府樹立は絶対に反対する-との共同声明を発表した。

 これを米ソ両政府に送ったが、5月10日の南朝鮮単独選挙を阻止することはできなかった。

 しかしこの連席会議は、朝鮮統一闘争史上に今も、重要な位置を占めており、将来の南北統一運動発展のモデルとなっている。

「朝鮮問題へのレッスン」15.国連臨時朝鮮委員団

15.国連臨時朝鮮委員団


 米国は朝鮮問題を、ソ連との共同委員会で討議することの不利を悟り、それを国運の場に移してしまった。

 国連こそ米国の国際政治にとって、米国に有利に、しかも「公的」会議を経てとの、国際世論への目隠しにも、今日でも活用されている。

 国際連合(国連)は、設立時に再び戦争を無くす目的で45年10月、51カ国によって設立された。

 10年後の55年に76カ国が参加しているものの、大半の国は米国からの経済援助を受けとっていた。

 つまり国運は米国優位を、米国の主張を維持し操作するための機関と透っていたのだ。(米国の投票マシーンだと揶揄されてもいる)

 その後、加盟国の増加(85年159カ国、2013年の現在は193カ国)があり、多少は、米国の力が減退したとはいえ、現在でも安保理常任理事国の力を背景に、米国は「国連の威信」を利用している。

 それは国連の通常予算(2013年は約28億1000万ドル)への供出金が圧倒的に多い(2013年現在では米国22%、2位の日本は10.8%)という、経済大国、政治大国、軍事大国意識の傲慢さからくる、米国の言動がある。

 47年当時、国連での米国の力は、圧倒的であった。

 その傲慢姿勢は、まだ米ソ共同委員会が継続中で認9月にソ連が提案した米ソ両軍の同時撤退、朝鮮問題の解決を朝鮮人の自主的判断に任せるとの案を無視して、朝鮮問題を第回国連総会(47年9月17日)に提出してしまった。

 上程内容は、朝鮮総選挙と「国連臨時朝鮮委員団(資料によっては委員会としている)の設置」案であった。

 同年11月4日、「国連監視下で南北朝鮮の総選挙を実施する」との米提案が可決された。朝鮮民族代表の不在篭ソ連の反対を押し切ってであった。

 一般に国連監視下での総選挙とは、外国軍占領下(朝鮮の場合でいえば、米軍占領下)で、外国軍の監視とアドバイス(干渉)の下で行う選挙のことであるから、民族の自主権を尊重する行為ではない。

 また「自由選挙」としているが、外国軍隊が監視する下で、人民たちが自らの意思を自由に表現できるはずがない。

 結局、この仕掛けは選挙の結果を国連の名で合法化したうえで、米国の占領政策、植民地体制を補完する作用を果たしているにしか過ぎない。

 国連は、「国連臨時朝鮮委員団」を組織した。

 委員団の構成国は、オーストラリア、カナダ、エルサルバドル、フランス、インド、シリア、フィリピン、中華民国の8カ国であった。

 国連決議によって、朝鮮全土を自由に旅行し視察できる権限と任務を与えられた同委員団は48年1月8日、選挙実施の目的でソウルに入った。

 李承晩ら親日派たちは歓迎したが、多くの市民や労働者たちはデモやストライキなどで、反対の意思を表明した。

 さらにソ連と北朝鮮人民委員会は、同委員団の北朝鮮への立ち入りを拒否した。

 これを幸いとした米国は2月26日、国連特別小委員会で「可能な地域での総選挙実施(単独選挙)の方針を、41対2で可決させた。

 これは全朝鮮人民の意思を無視した暴挙で、朝鮮を分断することに他ならない。

 李承晩と米軍政庁にとっては、単独政権樹立構想を国連という公の場を通じて実現するという、民族反逆罪を犯したことになる。

 対立している問題を、国連の場を活用して自国に有利なように導く、これが米国流「国際政治」の方式であった。

 戦争を防止するという国連組織もまた、米国政治の下請け機関でしかなかったことになる。

 「国連臨時朝鮮委員団」は、米帝国主義政治の落とし子ではあったが、朝鮮史においては、永久に「悪名」として残る犯罪者であった。

 同委員団は3月1日、5月10日以前に南朝鮮単独選挙を実施することを発表し、米国とホッジ司令官は3月5日、5月10日に選挙を実施する布告を出した。

 この南北朝鮮の分断を固定してしまう布告は、以後、南朝鮮社会を内乱状態にまで陥れてしまった。

 南での単独選挙を強行し、単独政権を成立させた後の同委員団は役割を終えて、48年12月の第3回国連総会で「臨時」をとり、「国連朝鮮委員会」と改称した。

 改称した委員会の役割は、朝鮮戦争での「北侵攻」説を審判する役割を果たしている。

 委員を構成する国に多少の変更があり、これまで米国の朝鮮半島政策に不満を表明していたカナダとシリアが退き、代わりにトルコが加わって7カ国となった。

 改編された委員会の任務は、①第2回国連総会決議の原則にそった朝鮮統一を促進するための便宜をはかること、②48年の南単独選挙で自由な代議機関が創出されているかどうかを「監視」する任務、③朝鮮半島から全外国軍隊(米ソ両軍)が撤退するよう、「監視」すること――などの、国際社会に受ける役割が与えられた。

 臨時委員団同様、改編されたこの委員会にも、そのような自立した機能も、能力も、行動もなかったことがすぐ分かってしまう。

 新委員会のメンバーたちは49年1月、ソウルに到着した。

 彼らに託されていた任務の①と②はどうか。

 そのためには、当時(49年から50年前半)の李承晩政権の現実政治が、どのようなものであったかを知っておく必要があるだろう。

 単独選挙によって成立した李承晩政権は、政権安定と政情不安とをカバーするため、警察社会と化していた。

 国連委員の一部でさえ、「警察の弾圧、不法な逮捕、裁判の遅延、汚職」などが、政権の性格となっており、早急な改革を求めることを、彼の本国に送っていたほどである。

 5月10日の選挙結果は、不安定な政党構造となっていた。

 全立候補者948人中、417人(44%)が無党派層であった。

 その当選者は85人で、全議席の42.5%を占めていた。

 このように無党派議員が半数近くを占めていたのは、政党政治がまだ定着していない新興独立国家ではよく見受けられる現象ではあるが、南朝鮮の場合の特質は、解放直後の政治的混乱が解消せず、多数の政治勢力が離合集散を繰り返していたからでもある。

 だから、選挙後の権力獲得を目的とした、政界創設図が繰り返されていたことが、政権運営に不安感を与えていた。

 それに加えて、済州島「4・3蜂起」(南労働主導)や、麗水・順天における軍の反乱、智異山のパルチザン闘争などが、まだ解決せずに社会的不安をますます増加させていたことから、李承晩は焦っていただろう。

 「49年4月以降のパルチザン闘争は、ますます同年10月にはパルチザン闘争の交戦回数は1330回、参加人員8万9924人。50年4月になると、1カ月だけで交戦回数2948回参加人員6万5005人」との体制側の記録がある。

 そのことを解消するために、南労党を狙った。

 49年5月、国会フラクション事件をでっち上げ、南労党細胞だとの言いがかりをつけた議員たちを国会内で逮捕した。

 当時の南労党は、南朝鮮の最左翼であった。

 フラクションとは、主に左翼政党などが勢力拡大と対立する政党をつぶす目的で、労働組合や大衆団体などの中に細胞(フラク)を送りこみ、そこで細胞組織(党中党)活動を行い、自己の勢力を拡張していく方式のことである。

 南労党の国会内フラクション事件そのものは、李承晩の反共意識と野党攻勢からの恐怖感からくる造作であったとされている。

 さらに韓国独立党の党首であった金九は6月25日、李承晩が放ったテロによって暗殺されている。

 金九は、南朝鮮単独選挙、単独政府樹立に一貫して反対し、李承晩の政敵となっていった。
 
10月18日になると、李承晩政権の政策に必ずしも協力しない政党・社会団体133が強制的に解させられている。

 このように李承晩は政権成立直後から南朝鮮社会一帯にテロ、暴力、弾圧を常態化し、49年末までには、反共、反北、非民主化を造り上げていた。

 このような南朝鮮の政情と李承晩の独裁政治を国連委員会のメンバーたちは、どのように観て、どのように理解していたのだろうか。

 なるほど、メンバーの一部(カナダ、オーストラリア、シリアなど)は、それぞれの本国にそれらの情報を送ってはいたが、どの本国も、米国に伝えることはなかった。

 以上、わずかに観た南朝鮮社会の極悪な政治でさえ、国連委員会のメンバーたちは自らの能力を知ってか、見て見ぬふりをし、まして北の朝鮮民主主義人民共和国政府の情報を何一つも知らないのだから、影響力を及ぼすことなどできるはずはなかった。

 ③の朝鮮半島からの全外国軍の撤退問題についても、委員会は何の役にも立っていなかった。

 ソ連軍が北朝鮮から撤退(48年12月26日)したのも、米軍が南朝鮮から撤退(500人の軍人顧問団を残して49年8月)したにも、それぞれの都合があったからであった。

 ことほどに、この国連委員会は、立派な国際公約の看板をもらいながら、まったくの有名無実な存在であった。

 否、唯一に成し遂げた「成果」こそが、朝鮮戦争時(50年6月25日)に北朝鮮軍が「侵略」したとする、国連委員会への見聞「報告」であった。

 「臨時委員団」が南朝鮮単独選挙成立のための立会機会であったとするなら、この「委員会」こそは、北朝鮮軍を「侵略軍」と証言し、民族紛争に「国連軍」を引き入れる役割を果たすための、いずれも米国の「作品」であった。

「朝鮮問題へのレッスン」14.済州島『4・3蜂起』

14.済州島『4・3蜂起』


 「4.3蜂起」の現場は、済州島(チェジュド)である。

 済州島は、朝鮮半島の最南端からおおよそ80キロ、日本とは最短距離で約160キロの地点に位置している。

 島の面積は1845キロ平方、その中心に朝鮮半島で2番目の高さを誇る張る漢拏山(ハルラサン、標高1950m)が聳えている。

 漢拏山は死火山で、頂上に火口湖白鹿漂があり、周囲に約400もの寄生火山が分布し、ゆるやかな傾斜地に多くの小さな峰や溶岩窟が存在している。

 敗戦直前の日本は、米軍が日本本土を侵攻する際、この済州島を足場にすると判断し、島を重要な戦略拠点(一時期、約50万もの守備隊が駐屯していたという)とし、漢拏山の自然的地形を利用した地下洞窟を、要塞化して守備陣地を固めていた。

 47年後半、南朝鮮単独選挙反対、反米闘争を掲げた済州島パルチザンたちが、この日本軍が残した自然の要塞跡を利用して戦った。

 済州島の気候は温暖で、海と山が織り成す美しい風景が広がっており、ゴルフ場もあることから、現在では南朝鮮の観光メッカとなっている。

 観光での訪問者は必ず、済州島飛行場に降り立つ。その彼らの足元に、60数年前、数万人もの人たちが無残に殺害(処刑)されていたことを、果たして知っていただろうか。

 いまも飛行場周辺の土地から、骨片が発見されることがある。48年の「4・3蜂起」事件の全容が、いまもって不明なまま、解明されていないから、犠牲者が白骨化してからでしか発見されないのだが、そのことを歴史の闇のなかに葬ったのでは、朝鮮半島統一史は語れないし、白骨も悲しかろう。

 45年末頃から米軍の南朝鮮占領政策は、むきだしの暴力性を隠すことなくすすめ、それを親日派および民族反逆者たちを、警察と官吏部門で使用することによって、自らの姿を隠したままで南朝鮮社会に強権をふるっていた。

 朝鮮人民たちが、反米感情を沸き上がらせたのは当然である。そこに、信託統治案と南朝鮮単独選挙(単選)実施などという、反民族政策が飛び出してきたから、民族主義右派の金九勢力なども、反米・単選反対運動に合流していくことになる。

 米軍政の政策を支持する勢力は、李承晩一派ら極右メンバーたちだけの、ごく少数であった。

 少数が多数を支配していく方式は、暴力と弾圧の強権を用いるしかない。そのうえ、南朝鮮社会の実情を無視した米軍政は、経済政策で「米国式自由市場(米国的生活様式)」を導入したために、インフレーションと混乱、災害、反発、対立、反米感情をよけいにもたらし、社会を破綻へと導いてしまった。

 そのまま46年を迎えると、労働者、農民、市民たちのストライキは各地に広がり、それが必ず反米スローガンを含み、やがては単選反対、朝鮮分断阻止などの主張が加わるようになっていったのは、当然のことであった。

 ちなみに46年に入ってからの主な闘争を、以下に掲げてみる。

 三渉炭鉱の労働者4000名がストライキ(6月1日~)
 全羅南道荷衣島農民の暴動(8月2日~)
 解放1周年集会に参加した全羅南道光州和順炭鉱労働者の光州虐殺事件(8月15日)
 全鉄道労働者が反米ゼネスト(9月ゼネスト9月24日~)
 各都市の市民らが反米抗争に決起する(10月人民抗争、10月1日~)
 大邸人民抗争(10月2日~)

 そして47年。

 20余万の労働者が反米の24時間ゼネスト(3.22ゼネスト)
 勤労人民党党首の呂運亨が暗殺される(7月19日)

 さらに48年。

 「国連朝鮮臨時委員団」がソウルに入る。
 南朝鮮全域の労働者たちが、反米と単選反対の全国ストライキ(2・7救国闘争)。
 これに呼応して、北朝鮮側でも「救国闘争」が起こる。
 米国はこのような朝鮮人民たちの声を無視して、国連で「南朝鮮での単独選挙実施」の決議案を強行し採決させる。(2月26日)
 この国連決議を受けた米国は3月10日、南朝鮮単独選挙を5月10日に実施することを公告した。
 同日、南北朝鮮では単選反対の救国闘争が燃え上がる。このようにして済州島人民たちの蜂起(4.3蜂起)、さらには 単選反対のゼネスト(5月8日)が各地へと広がっていく。

 朝鮮戦争までの南朝鮮は、まるで内戦の様相を呈していた。その最も象徴的で、最も過酷だった闘争は、済州島の「4.3蜂起」であった。

 穀物の収穫が少ない済州島での生活は厳しく、必然的に島外に出て生活を確保する人々が多かった。

 1920年代の初め、大阪への直通定期航路が開かれると、多くの人たちが大阪を足場に日本へと渡っていった。

 また、それとは逆方向の中国東北地方へと向かう人たちも増加している。

 解放後、外地に出ていた島民たちが帰還すると、8月15日時点で約15万人であった人口が、一躍30数万人に急増してしまった。

 帰還者のなかには、日本軍に従事していた軍人、軍属、徴用労働者たちや、中国での八路軍や義勇軍に参加していた人たちが多くいた。

 彼らの政治意識は高く、島民たちに何らかのかたちで覚醒させ、影響を与えただろう。

 その一方で、人口急増現象は、深刻な経済問題、食糧問題をもたらした。

 政治に覚醒した人たちの影響で、9月15日に「済州邑人民委員会」が出来ると、22日には全島の「済州島人民委員会」が結成された。

 人民委員会は、1.広範な民主的全島民の力を結集、2.自主的な統一、独立と民族の完全解放のための闘争、3.日帝残滓勢力と国際ファシストたちの清算、4.わが民族の民主主義発展に寄与する-などの基本政策路線を採択した。

 以下では、参考までに45年9月からの済州島での政治的な動静を記録しておく。

 *45年
 9月29日、米軍、済州島米軍政庁を設置する。
 10月9日、建国準備委員会の済州島委員会が結成される。
 10月10日、日本軍の残留兵、済州港から佐世保へ移送(軍人と民間人総計5万人)
 11月10日、米第6師団20連隊が進駐、本格的な米軍政の占領政策を始める。
 12月9日、朝鮮共産党の済州島委員会が組織される。

 *46年
 11月23日、南朝鮮労働党(南労党)結成、下部の済州島委員会発足。

 *47年
 3月1日、済州島3.1事件発生。
 3月5~22日、済州島の産別、官公労働者らがゼネスト決行。
 10月17日、地下の南労党、左翼団体の活動家たちが漢拏山への入山を開始。

 *48年
 1月23日、警察、済州島の全活動家に対して逮捕令を出す。
 2月13日、警察、住民たちを襲撃、武力衝突。(活動家が紛れ込んでいるとして)
 2月中旬、島民たちが郡、面、里毎に自衛隊を編成する。
 3月下旬、各自衛隊、武装化を完了。

 こうして4月3日には、人民武装自衛隊を中心とする武装蜂起が起こった。

 以上で明らかなように、南労党員を中心とする武装自衛隊の組織化、彼らの武装蜂起が突然に発生したのではないことが分かる。

 米軍は、済州島に軍政庁を設置した後、本土と同様に右翼勢力(光復青年会、北西青年会、大韓独立促成会、報国独立党、非常国民会、漢拏団など)と警察力(親日派)を強化して、島民たちの民主化組織を徹底的に弾圧していった。

 一方、島民側は人民委員会、建準委員会、朝鮮共産党、南労党、民戦などの各民主組織など、本土と同様の左翼組織を組織して、島民と結束しながら闘争を繰り広げていた。

 47年4月頃には、島民の8割以上が左傾化していたと言われている。

 例えば、済州島知事の朴景勲が人民闘争委員長、済州邑長が同副委員長、各面長が面闘争委員長に就任していたから、現実的には済州島人民共和国が実現していたような状況下にあったのだ。

 46年の半ばから、反米街頭デモ、同盟休校、産別ゼネスト、ストライキ、警察署への武装襲撃、警官隊との武力衝突など、全島が反米、反右翼、反李承晩、反単選の闘争を繰り返していた闘争は、本土での同様闘争よりも激しかった。

 それらの闘争は、コレラの発生(46年6月から)、凶作(46年10月)、インフレ(46年以降)など、厳しい社会的な要因も加わり、なお一層、反権力闘争へと向かわせていったと思われる。

 48年4月3日午前2時、漢拏山のいたるところの溶岩窟や小高い山(オルム)からの狼煙と銃声を合図に、島民たちの武装蜂起が始まった。

 彼らは、「米帝は即時撤退せよ」「売国単選反対」「単政絶対反対」「国連朝鮮委員団は撤退せよ」「米帝の走狗を打倒しよう」「朝鮮独立万歳」などのスローガンを掲げて、勇敢に戦った。

 同時に各面単位で編成した「人民自衛隊」「女性同盟員」「児童団員」などの武装または非武装3000余名が、島内警察署14カ所(全15カ所のうち)の支署を奇襲、占領、放火した。

 さらに南労党の武装隊(第9連隊)が完全武装し、トラック3台に分乗して、済州島監察官(道庁)と済州警察署を占領した。

 のちに党の武装隊500名、地方隊員1000余名が合流している。(注、この時の南労党の行動が、党中央からの指令、もしくは事前承認を得ていたのか、それとも済州島責任者の文相吉の判断なのかは、未だにはっきりしていない。そのことを今になって批判する者は、当時の歴史を正しく認識しようとする立場から離れているだろう)

 警察側は同日、「済州島地方非常警備司令部」を設置し、各道警察局から選抜した1700名で構成した警察討伐隊を組織した。

 警察討伐隊と右翼団体の隊員たちは、なんら罪もない住民たち30余名を、「アカの家族」だと決め付けて拘束し、虐殺したのちに窪地に投棄(4月6日)する蛮行から、一連の暴行を始めている。

 「4・3蜂起」は、朝鮮戦争中も続けられており、57年4月2日に最後の「遊撃隊員」呉元権が捕らえられるまでの10年間継続していた。

 だが闘争と抵抗の集中は、49年春までの1年余であった。彼らの闘争は、南朝鮮単選の投票当日の5月10日には、各投票所を破壊し放火し、投票所に出てきた島民たちにボイコットを呼び掛けるなどの妨害を行っている。

 この彼らの戦いによって事実上、選挙は不可能となり、北済州郡の2選挙区では投票者が足りず、選挙が無効となった。

 米軍政庁も選挙の無効を認め(6月10日)、再選挙を6月23日に実施することを布告するほどであった。以後、討伐隊の弾圧は過酷を極め、島全域が処刑場と化すほどであった。

 討伐部隊が展開した焦土作戦は、遊撃隊員と島民とを区別せず無差別、集団虐殺を展開していったため、それ以降の時期が一層凄惨な現場を現出したといえる。

 48年12月31日、米軍と警察は済州島地区共匪掃蕩作戦が一段落したとして、「戒厳令」を解除している。

 だが実際は、朝鮮戦争勃発後は事件の関連者やその親族などの処刑、虐殺が再燃しており、むしろ戦争に名を借りた蛮行が急増し、済州島は暴力と殺人の島となっていた。

 こうした鎮圧作戦は、朝鮮停戦協定が結ばれた後の59年後も続けられていた。

 島民たち蜂起の敗北は、島という地理的な孤立性のため、遊撃隊への兵力と補給物資が途絶したため、勢力が弱化していく一方となったことが、大きな原因であったろう。

 それに、討伐軍の圧倒的な武力と暴力性によって49年半ばまでには、ほぼ壊滅させられていた。(49年初期の遊撃隊の状況は、入山した者たちの糧穀と副食物は、全て失っていたとも伝えている)

 討伐部隊側は、暴徒刺殺約8000、捕虜約7000、帰順者約2000、軍隊警察側は死者209、負傷1142、罹災民9万、民間死傷者3万―だと発表しているけれども、随分とパルチザンたちを過少評価した数で、信頼できない。

 研究者や済州島の関係者たちによると、死者数を15万から20万人だと発表しているから、当時の島民の半数以上の人たちが虐殺されていたことになる。

 だが、済州島の悲劇はこれに止まらなかった。

 李承晩はもちろんのこと、歴代の南朝鮮政権によって、この事件が「共産主義者の暴動」であるとの烙印が押されてしまったから、以後は語ることも、告発することも、まして死者たちを弔う行為さえも許されなかったからである。

 事件関係者と何らかのかたちでつながりがあることさえ、タブー視して、当事者たちも沈黙を強いられてきた。

 李承晩政権が用意した「国家保安法」(48年12月に制定、最高刑が死刑)が、よけいに沈黙を強いた。

 反国家団体の構成員や同調者などと見なされれば処罰される同法は、現在では反北の「武器」となって、南北統一運動を大きく妨げている。

 87年になって、与党の次期大統領候補の盧泰愚(ノ・テウ)がソウル・オリンピック開催を控えて、大統領直接選挙と民主化運動関連政治犯の赦免、復権を約束した「民主化」宣言以降、事件の真相を究明する動きがやっと出てくるようになった。

 すでにして40数年もの時間が過ぎ去っていたから、犠牲者たちの名前や遺骨さえ、探す手がかりを失ってしまっていた。

 2000年1月に「済州4・3事件真相究明及び犠牲者の名誉回復に関する特別法」が制定されるに及んで、済州島以外でも追悼会、講演会、集会などが開かれ、犠牲者たちとの「対話」が試みられるようになった。

 それさえ、李明博政権などのように「反北、反共」を標傍する政権が登場すると、再び語り部たちの声も消えがちとなってしまっていた。

 長年付き合っていた在日朝鮮人一世の-人から、彼を見舞っていた病床で突然、「先生に本当のことを話しておきます」と前置きをして、自身が南労党の党員で、済州4.3蜂起にも参加して、49年にかろうじて脱出したが、今日まで家族にさえ本当のことが話せず苦しかった。しかし「革命家」としての矜持だけは捨てず、自分の意志は今も漢拏山にある。死んでも漢拏山から米国と民族反動政権と戦っていますよと、私の手を強く包んでくれた朝鮮人活動家と別れた経験がある。90年代後半のことである。

 済州島蜂起の当初は、その中心部隊は済州島の南労党党員500余名と、その支持者1000余名だったが、単選を強行して「大韓民国」が成立(8月)した11月以降、討伐作戦は凄惨を極め、多数の島民たちを巻き込む流血事態を現出させている。

 この4・3蜂起を語るとき、蜂起に走った済州島の南労党の極左的冒険主義と責任論が出てくるが、その前に、これほどの犠牲と長年にわたる事件の放置をもたらしてきた政権側の、真の責任を問わなければいけないと思う。

 なお1940年頃、大阪に済州島出身留学生たちの「反日親睦会」が存在していて、彼らは京阪神の近隣組織と提携して、朝鮮の「祖国光復会」の下部組織へと発展し、祖国解放運動を続けていたことを伝えている歴史も忘れてはいけない。

「朝鮮問題へのレッスン」13.9月ゼネスト・10月人民蜂起

13.9月ゼネスト・10月人民蜂起

 1946年の秋に入ると、南朝鮮の人民委員会が強い地域では農民、労働者、市民たちの蜂起の声が挙がっていた。

 それらが反米闘争へと転換していくのに、それほどの時間を必要とはしなかった。

 米軍政一年間の、占領政策への、それが朝鮮人民からの答えであった。

 9月23日、釜山の約8000人の鉄道労働者がストに突入した。

 鉄道ストはすぐさまソウルにも広がり、南朝鮮全域の鉄道輸送を麻陣させた。

 「9月ゼネスト」の始まりである。その数日後には、ストは印刷工、電気、電報局、郵便局、その他産業の労働者に広がり、ゼネスト規模へと発展していった。

 学生や市民たちまでが加わったのだ。

 ソウルだけでも約295の企業でストがあり、約3万人の労働者と1万6千人の学生がこれに参加している。(「朝鮮年鑑」1948年版)

 南朝鮮全土では25万1千人以上もの労働者がストに参加している。

 当初、労働者たちの要求は、米の配給を増やすこと、賃金引上げ、失業者の住宅と米の支給、労働条件の改善、労働者の団結権など、ごく融和的で改良的なものであった。

 従って、デモは平和的に行われていたのだ。

 だが、労働者、市民たちの要求と行動に過剰反応(危機感)した米軍政は、ストライキを裏で主導しているのは、北朝鮮共産主義者たちであると非難し、的外れにも北朝鮮労働党(46年8月創建)を糾弾する始末であった。

 占領者として傲慢な態度に終始していたホッジに、朝鮮の労働者たちは激怒し、ストライキは9月末には一層激化していった。

 9月30日、ソウルの龍山鉄道操車場のストの現場に、労働者と同程度の3000余のスト破り(経営者側が用意した警官と右翼の青年団体)が、鉄パイプと棍棒で襲いかかってきた。

 こうした暴力は各地へと広がり、大量の逮捕者を出してしまった。逮捕された労働者たちは、ストライキから抜け出すか、労働者組織の全評(朝鮮労働組合全国評議会)を脱退することを盟約すれば、復職を許された。

 拒否すればその場で解雇され、解雇されると米の配給通帳を没収されるという、厳しい兵糧攻めであって、それは生存権をかけた闘いでもあった。

 南朝鮮人民たちの闘争は沈静することなく、10月に入り、慶尚北道ではさらに深刻な事態が展開していた。

 9月ゼネストはこのように、各地で各種ストライキと暴動を誘発し10月人民蜂起へと発展した。

 10月人民蜂起は10月1日、大邸市内から始まった。

 米配給の増加を要求する少人数の大邸市民のデモ隊がねり歩いていたが、デモ隊の-人が警官によって殺害された。

 翌日、殺害された仲間の遺体を大邸の中央警察署まで運び、市民・労働者たちが広場に結集して糾弾した。

 朝鮮人警察官の大半は、植民地時代に日本人の下で働き、同胞を弾圧してきた者たちであった。

 いままた、米帝の下で同胞たちを痛め付けている現場を見てその憤怒は、一気に朝鮮人警察官たちに向かった。

 大邸の市民と労働者たちの怒りは、10月6日までに38人の警官を殺害した。

 彼らの怒りはさらに地主や官吏たちにも向かい、開城、釜山、仁川、和順、光州、永川、慶山から全羅南北道、忠清南北道、江原道、慶尚南北道へと、怒りは広がっていった。

 つまり南朝鮮全土に、反米、反李承晩闘争と流血衝突が起こっていたのだ。

 この反米闘争を鎮圧するために米軍は、戒厳令を敷き、徒手空拳の朝鮮人民たちに向かって、兵力、武器、戦車などの戦争道具を動員しながら、3カ月もの時間を要している。

 10月人民蜂起に参加した者は300万人余で、来るべき「内乱」を予知する内容を示していた。

 その被害もまた甚大で、死亡者300人、行方不明者3600人、負傷者26000人、逮捕された者が30000人を下らないという、苦痛の数字を残している。

 一方で警察官の死者も200人余(米軍発表)、家屋など建物も甚大な被害を受け、米の収穫期と重なったために、米の収穫を犠牲にしてしまい、南朝鮮社会は大きな痛手を被ってしまった。

 46年闘争では、その後半からの主張が、南朝鮮単独選挙反対へと結集している。

 従ってこれらの闘争は48年以降、米国が国連で強引に創作した「国連臨時朝鮮委員団」(選挙地区への実態調査団)の入国反対闘争へと、引き継いでいくことになった。

 全国的ストライキへと発展した「2.7救国闘争」(48年2月)は、朝鮮委員団のソウル入りに反対して、全国各地で起こったデモ、ストライキ闘争の総称である。

 この時の主張は、1.国連朝鮮臨時委員団の調査反対、2.南の単独政府樹立に反対、3.米ソ両軍同時撤退を要求、4.朝鮮人による民主主義政府の樹立、5.親日派打倒、6.労働者、事務員を保護する労働法、社会保険制度の即時実施、7.政権を人民委員会へ、9.地主からの土地没収と農民への無償分配などであって、このような多様な要求と主張は、当時の南朝鮮の社会現象を反映していた。

 この時の犠牲は、警察発表でも蜂起70件、デモ103件、放火204件、ストライキ50件、同盟休校34件、逮捕者8479人、送検者1279人としている。

 2・7闘争は、次ぎの「4.3蜂起」(済州島)を呼び、「4.3蜂起」はパルチザン闘争へと発展し、「麗水・順天軍人反乱」(48年10月20日)へと繋がっていった。

 パルチザン討伐のため済州島に赴く予定の第14連隊が、出発命令を拒否して反乱を起こした。

 彼らは、米帝と李承晩「政権」に反対し、済州島行きへの命令を拒否し、済州島のパルチザンたちと連携をして戦ったのである。

 この頃、慶尚北道連隊や各地でもパルチザン闘争が激化しており、さながら内乱の様相を呈していて、こうした反米闘争は戦争前夜のような状態になっていた。

 米軍は、かつて日本人の手先となっていた朝鮮人たちを支持し、警察官や軍幹部として登用して、その彼らを朝鮮独立を要求する朝鮮人たちに差し向け、弾圧した。

 左右の愛国者たちは親日派や米協力者たちとは妥協しようとはしなかったし、親日派たちはそのような彼らの思想調査をして排除することを、米軍政庁に要求していた。

 そうした南朝鮮の現実から、米軍政は前に進むことも後に戻ることも出来ずに陥っていたのが、その頃の米軍の政治であった。

 48年頃までの朝鮮半島の南北は、「米国とソ連が管理するそれぞれの地域に間には、何の協力関係も、また政策上の相互補完関係も有り得ないといった前提に基づくものであった。

 ソ連軍は米軍と違って、北朝鮮占領政策の直後、人民共和国を承認した。

 従って、これら2つの外国勢力は、それぞれ政治的主張において両極端に位置する朝鮮人と手を組んだ上、全く異なった政治機構を通じて占領政策を実施した(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第6章)と、カミングスは厳しく指摘している。

 米軍政は一貫して日帝時代の親日派支配勢力を配下に置きながら、自分たちは中立だったとの言動を振りかざしてみても、何ら説得力などはない。

 そのような米国の政治を、朝鮮人側からすれば拒否し反対することこそが常識であったことを、米国自身はいつになったら理解できるのだろうか。

「朝鮮問題へのレッスン」12.過渡立法議院選挙

12.過渡立法議院選挙


 46年5月、米ソ共同委員会が無期休会となった直後、米国務省と米軍政当局者たちは、南における米国自身の占領政策を正当化する手段として、「選挙」を実施することを判断した。

 「選挙」という関門を通過させておけば、その地域での「基本的自由」を表現したことになり、占領政策のイメージも薄める効果があると、彼ら(米国)は判断したのだろう。

 国務省は6月初め、「資格のある朝鮮人をできるだけ多く責任あるポストにつかせ、それと同時に既存の南朝鮮民主議院を解体し、広範な選挙のプロセスを通じてそれに代わりうる諮問立法機関を設立するよう」にと、軍政庁に要求した。

 軍政は8月24日、法令第118号を発布し、過渡立法機関の選挙を公表した。

 その発表が、各地の人民委員会を瓦解させ、しかも李承晩が単独政権の樹立を要求していた直後であったため、南朝鮮に単独政府をつくる前触れではないかと、左右ともに多くの朝鮮人に疑惑を与えることとなった。

 軍政の占領政策を飾り立てるために、朝鮮人の(政権)機構として創作する4番目の「過渡立法議院」の選挙は、「10月人民蜂起」の最中に行われた。

 自由選挙とは言うものの、総督府時代の選挙法規定に従ったもので、右翼に有利に運用していた。

 占領政策を美化する1番目の装置「顧問団」は、右翼が10対1と絶対的優勢であったから左翼側の指導者たちは参加を拒んで失敗、2番目の「南朝鮮民主議院」(46年2月)は、これも45対4で右翼が絶対優位を占めていたため左翼がボイコットし、3番目の「左右合作委員会」は左翼が迫害されている期間であったから、単なる飾り物にされるだけだとして左翼側が消極的になり、いずれの「選挙」も失敗している。

 46年2月、米軍政はモスクワ会議での信託統治案が決定し、左翼側が民主主義民族戦線を結成すると、非常国民会議の最高政府委員会を「民主議院」に再編し、軍政司令官の諮問機関とした。

 議長に李承晩、副議長に金九と金奎植を選出し、左翼系を除外した。

 米ソ共同委員会が開かれると、李承晩は南だけの単独選挙を主張し、金奎植らは左右合作運動を推進して対立すると、民主議院の機能も停止された。その後進として、米軍政法令第118号によって、南朝鮮過渡立法議院を設置した。

 民選議員45名、官選議員45名の総勢90名で構成。民選議員は間接選挙で選出されたが、これが全くの不正選挙で、李承晩系と韓民党系など極右メンバーばかりが選ばれた。

 その選挙実態はどんなものか。ある地方では、隣組みの班長や役職にある者が有権者の印鑑を集め、それを勝手に使用して自分たちに都合のよい候補者に投票した。

 ソウル市の選挙では呂運亨を含む10人の候補者が出たが、呂運亨以外はすべて極右メンバーで、当選した3人は極右ばかりで、呂運亨は落選している。

 さらに多くの選挙区では、警察および警備隊が、投票者に銃を突き付けたまま投票行動を監視していた。

 こうした投票場に出かけられる人たちは有識者で、一方、日帝時代の影響で地方在住者の多くはまだ文盲であったから、投票に行かないか、投票率を上げるために当局の強要によって、指示されるままに投票をしていた。

 実際に、選挙そのものが成立していたのかさえ、疑問であった。

 これが選挙風景であって、その風景は、5月10日の単選を予見させていた。米軍政なりのバランス感覚もあって、官選議員には主として中道路線や左右合作委員会系の、中道右派を任命していた。

 12月12日に開院式を行って以降、そこで審議制定された法律の主なものは、親日派や対日協力者、買弁資本家に対する特別法(彼らの活動を容認すること)など、議員自身と議員のバックボーンとなっている勢力を、政治社会的に許すための悪法であった。

 米軍政が占領政策の正統性を装うため、選挙を実施して、朝鮮人自身の政治機構として創作した4番目の過渡立法議院の機能もまた、米国自身の政策が単独政府樹立へと向かうと、役立たないものとして48年5月29日、過渡立法議院は単独政府のために解散させられてしまった。

 この過渡立法議院成立直後からは、南朝鮮では一層の政党間の分裂、左右の理念をめぐる対立が日増しに激しくなっていった。

 軍政の庇護のもとに隠れた右派は無気力で、反対に軍政からの弾圧をかいくぐっている左派は活動的であった。

 それが46年の南朝鮮の政治風景であった。左派は軍政と右派からの暴力にさらされていたから、46年はまた、血なまぐさい暴力と破壊のうちに終わったとも言える。

 南朝鮮単独政権の樹立を決定していた米軍政庁は47年2月5日、民政移管までの過渡政府として、「南朝鮮過渡政府」を設置した。

 民政長官に安在鴻を任命したが、米軍政長官の拒否権行使のなかにあって、無力な存在(飾り物)でしかなかった。

 米軍政は自身の言い訳のため、南朝鮮過渡立法議院と南朝鮮過渡政府を設置したが、いずれもその機能を発揮することもなく48年8月、単独政権が樹立されると、その行政権を移管した。

 このようにこの2つの組織は、単独政権を樹立するまでのカモフラジュとして、米軍政が創作したものであった。

「朝鮮問題へのレッスン」11.北朝鮮臨時人民委員会

11.北朝鮮臨時人民委員会

 46年入ると北部朝鮮でも、各地方の人民委員会をまとめ、統一した政治組織の必要性、モスクワ3相会議決定下の「朝鮮臨時政府」のモデル設立の必要性、「南朝鮮代表民主議院」に対する対抗組織の必要性を感じはじめていた。

 このため、各地方の人民委員会と行政局、政党および社会団体代表が46年2月8日、平壌に集合し、「北朝鮮各道および各郡人民委員会代表、反日民主主義的政党および各社会団体代表会議」という長い名称の大会を開いた。

 大会の目的は、北部朝鮮における中央行政機関となる「北朝鮮臨時人民委員会」を樹立する問題を討議する、ということであった。

 基調演説を行った金日成は、北部朝鮮における中央行政機関の設立の必要性と、朝鮮に統一政府が樹立されるまで、北朝鮮臨時人民委員会がそうした役割を担当する主権機関とならなければならないとした。

 こうして、金日成を委員長とする「北朝鮮臨時人民委員会」が創立された。

 11月3日に道、市、郡の人民委員会代表委員選挙を経て、翌年2月17日に臨時の名称を取って「北朝鮮人民委員会」とした。北部朝鮮の政府的機関となった臨時人民委員会は、反封建民主主義改革の政策を次々と実施していった。

 先ず、「北朝鮮土地改革に関する法令」を発布(3月5日)し、地主の土地を没収(約百万325町歩)して、それを農民たちに再配分した。

 但し、小作に出すのではなく自分で耕作する地主には、小規模な土地所有が認められた。(別の地域に移住するという条件で)

 この期間、多くの知識人と金持ち、地主たちは南に逃れたが、小作人や貧困層はそのような政策状況に満足して、金曰成と北朝鮮臨時人民委員会を支持したことは言うまでもない。農業現物税を収穫の25%とする法令は6月27日に出ている。

 次の「労働法」(46年6月24日)と「男女平等権」(同年7月30日)はともに、封建遺制を撤廃し、新社会建設にとって重要な内容を法制化した。

 1日8時間労働、社会保険制度、労働条件の改善、困難な仕事や危険な作業には追加手当てを支給、男女同一賃金など。

 また男女平等法では、蓄妾、売春、女嬰児殺しなど、女性たちを苦しめていた封建的悪習が廃止された。

 同時に「重要産業国有化法案」(46年8月10日)で、日本人が所有していた主要な工場や企業を国有化する一方、中小企業は道や郡の人民委員会に委ねられた。

 土地改革や民主的政策によって、それに反対する多くの人々が南へと、難民、逃亡民となって流出していった。

 彼らは地主、商人、医者、弁護士、技師、教師、公務員など、上層階級であった。

 それ以前にすでに、親日派や植民地時代の警官、官吏などは逃亡していた。

 南へと逃れていった逃亡者のピークは、46年春から夏にかけてであった。この時期に南から北への流入も多くみられたが、そのほとんどは反米、反単選を主張していた、主として左派系の人たちであった。

 現朝鮮労働党が創立されるまでの経緯を、簡単にみていこう。

 朝鮮共産党は、北部朝鮮の支部的機能として、ソウルで設立(45年9月)された朝鮮共産党(委員長、朴憲永)の指導を受けるとの前提で設立された。

 それは、コミンテルンの「一国一党」方針に従ったからであったのだが、現実は、朴憲永が北に移住できない事情と、北ではすでに階級としての「人民」が出現していたこともあって、北朝鮮共産党独自判断での指導を行う必要性にも迫られていた。

 さらに南では、米軍政庁と李承晩勢力の圧力があって、朝鮮共産党独自の活動も行き詰っていたのだ。

 そうした情勢などから、共産党を中心とした左派政党同士の合党が進行していった。

 北で北朝鮮労働党が実現したのが46年8月28日、その3カ月後の11月23日に、南朝鮮労働党(南労党)が設立された。

 朝鮮共産党、勤労人民党(党首、呂運亨)、新民党の3党が合党した。

 南労党は、李承晩政権が成立した以後も、反米、反李闘争をよく闘った。

 南北にそれぞれの政権が樹立されたこともあり、革命党の方が南北に分かれていたのでは、その難局を乗り越えることができないので、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党は49年6月30日合党し、金曰成を委員長とする朝鮮労働党を創建した。

 なお、朝鮮労働党の創建記念日を10月10日としているのは、北朝鮮共産党を創立したのが「10月10日」であったからである。

 従って党の創立と闘争史の記録は、45年10月10日から始まっている。

 以上、46年から47年にかけての朝鮮半島の様相は、北のプロレタリア社会と南のブルジョア社会の出現が確定し、今日に至る階級の色分けが準備されていたことになる。しかもソ連軍司令部は、すべての軍政的な機能から手を引いていたので、北部朝鮮では、朝鮮人自身の自主独立の政治機構が組織されつつあったことになる。

「安重根石碑建立問題について」

「安重根石碑建立問題について」(2013年11月25日)




1.
 安倍晋三政権の歴史認識は、やはりおかしいことが判明した。

 韓国朴槿恵政権が、初代韓国統監の伊藤博文を中国東北地方(現、黒竜江省)のハルピン駅頭で暗殺した安重根(アン・ジュングン)の石碑を、暗殺現場に建立することを、中国側に依頼していた問題で、中国の習近平主席が準備は進んでいると返答したことに対して、大統領が中国に謝礼を述べたことへの、安倍政権の反応である。

 菅義偉官房長官は記者会見で、「安重根は犯罪者だと韓国政府にこれまでも伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と、韓国政権を批判した。

 さらに日本政府関係者のなかには、「暗殺の正当化は、初代首相として名を残す伊藤博文、さらには近代日本の歴史的評価を不当にゆがめることになる」(11月20日付、愛媛新聞)と指摘する向きがあることを報道していた。

 そのような認識が自国中心史観、歴史主義に陥っているのではないか。

 第2次安倍政権がスタートして以来、日韓関係(日中関係も)は、竹島(独島)、軍慰安婦、強制連行労働者への賃金支払い問題など、主として植民地時代の諸問題の認識、対応で政治対立していて、まだ首脳会談も持てないという最悪の状況になっている。

 その最大の原因が安倍首相の歴史認識(特に、過去の日本を評価する姿勢に対して)にあることは、誰もが認めている。

 今臨時国会で「特定秘密保護法案」「国家安保会議創設」「集団的自衛権の行使」などを成立させようとしている安倍政権の姿勢は、自らの過去を反省も直視もしてこなかった政治姿勢と重なっている。

 そのような日本の政治姿勢に、朝鮮半島や中国など、かつて日本によって侵略された周辺国からは、再び軍事大国化を目指している危険な意図が見え隠れしているなどと、警戒感が表明されている。

 現に10月3日、東京で開かれた日米安保会議(2プラス2協議)では、集団的自衛権(交戦権)の行使を確認している。

 そのうえで自衛隊は、米軍が詐称している「国連軍司令部」(朝鮮戦争時にそのように名乗って各国を参戦させた)の指揮下に入り、第2次朝鮮戦争が勃発したおりには、自衛隊もすぐさま参戦できるようにしてしまった。

 この部分は朝鮮人民はもちろんのこと、日本人にとっても驚愕すべき事柄で、絶対的に拒否しなければならない内容で、だからこそ日米ともに協議内容を公表していない。

 安倍政権は、日本がいつでも「戦争」ができる準備を整えている、「戦争準備内閣」になっている。そのようなことを進めるのは、過去の歴史を清算する意図も意志もないからであろう。菅官房長官が「安重根は犯罪者だ」と発言したことに、現政権の帝国主義的傲慢な「臭気」を感じてしまう。


2.
 暗殺された伊藤博文(1841~1909)は、一体、なにを実行し成し遂げたのであろうか。長州藩出身の伊藤博文は、年齢の関係で尊王攘夷運動、討幕運動、明治維新にはやや遅れて登場したが、大久保利通(1830~78)死後の明治政権の、その中枢にいた。

 さらに大隈重信一派を「明治14年政変」(1881年)で追放した後は、ずっと明治政権の最高指導者に収まっている。

 この政変は、国会開設の時期をめぐる政権内の争いで、漸進論の伊藤博文が、急進論の大隈重信らと対立していた。

 明治天皇と右大臣岩倉具視らを見方に付けた伊藤博文らが、大隈重信(佐賀藩出身)を政権内から追放した政治陰謀事件でもあった。この陰謀事件で、薩長藩閥政権が確立した。

 このように伊藤博文は、政権の中枢に登場するに際しては、陰謀や謀略事件をこととして、政権を握ってからは派閥延命政治を続けてきた。

 それが伊藤博文と明治政権の性格でもあった。彼は、天皇の権威をバックボーンとする政治、近代天皇制を確立した。

 1885年に初代の総理大臣になると、1901年5月までの16年余もの長期間、権力の中枢にあって、「明治」の政治を特徴付けた。(92年第2次、98年第3次、00年第4次と、それぞれ内閣を組織した)

 総理大臣を退いてからも、その政治的影響力は、衰えることはなかった。1885年以降、つまり伊藤博文が権力を握って以降の朝鮮半島への関係を、時系列的に考えてみよう。


3.
 1885年の前年、日本の近代化に刺激を受けた金玉均ら開化派が、日本の援助でブルジョア革命を決行(甲申政変)し、清朝を背景としていた閔妃派(事大党政権)打倒を図ったが、失敗して日本に亡命している。

 明治政権は、朝鮮に開化派の政権を樹立する気はなく、清国の朝鮮からの隔離と閔妃政権打倒に、金玉均らの勢力を利用しただけである。

 以後、様々なかたちでの圧力を、反日の閔妃政権に向けて、軍事介入とその侵入の口実を作り続けていく。

 95年10月8日、王宮を襲撃(乙未=いつぴの変)した日本軍は、ついに閔妃(1851~95)を殺害してしまう。

 この王妃殺害事件で、日本公使の三浦梧楼指揮のもと、軍、警官、壮士、浪人らとともに、親日派の朝鮮軍隊らを使って王宮に乱入し、閔妃と親露派を一掃してしまった。

 だが、列強からの非難を受けて、三浦公使ら事件関係者を拘束(実際は、すぐに釈放して、諸外国への言い訳とした)し、これによって日本勢が朝鮮半島から後退を余儀なくされ、ロシア勢が優勢となった。

 そのことで日露の対立は深まり、戦争へと繋がってしまう。

 この乙未の変で、朝鮮半島から一時後退していた日本は98年9月、京釜(ソウルー釜山)鉄道施設権、威鏡、慶尚、全羅道など沿海の漁業権を強奪することから復活していった。

 そして99年6月、林権助が公使としてソウルに着任したことから、朝鮮への着地点は旧に復している。

 これ以降、他の列強と同様に、「近代法」という武器を都合4回強要して、朝鮮への植民地支配を進めていく。

 第1の武器、日韓議定書の締結(1904年2月23日)。

 この時期、日露間に戦雲が急迫していたので、李朝政府は「厳正中立」を宣言(1月23日)していた。しかし日本は、朝鮮半島に軍隊を上陸させるとともに、日本軍への協力を強要する6カ条の議定書を強引に結んでいる。

 この協定によって朝鮮は、日露戦争における日本への間接的な協力国となってしまった。

 そしてこれが、日本が朝鮮を植民地化していく第1段階の外交文書となったのである。

 第2の武器、第1次日韓協約の締結(1904年8月22日)。

 この協定は、日露戦争中に締結している。内容は、日本政府の推薦する財務、外交顧問を、採用することを規定した。これによって朝鮮は実質、日本の属国となった。このとき、日本政府が推薦した外交顧問が、米国人のスティーブンスで、彼は同年12月にソウルに着任している。

 第3の武器、第2次日韓協約の締結(1905年11月17日)。

 特命全権大使となった伊藤博文が指揮をとり、王宮と会議場に軍隊を配置して、王の高宗と政府閣僚らを脅迫して、条約文に無理やり調印させた。

 とはいっても高宗は退席し、脅迫されてしぶしぶ5大臣のみが署名したもので、現在、署名は高宗の親筆が偽造されたもので、国際法上は無効な条約だとする説が有力になっている。

 この条約で日本は、李朝政府の外交権を奪い、朝鮮統監府の設置を決めた。

 統監政治が始まったのだ。このことを知らされた朝鮮人民は悲憤慷慨し、その怒りは調印をした5大臣に向かい、彼らを「乙未五賊」と通称し、彼らに対するテロ行為が続けられた。

 その結果、軍部大臣の李根沢と農商工部大臣の権重錫の2人が殺害された。

 さらに高級官僚、軍人、著名な学者、宗教家、一般市民など、多数の人々が無力な王朝と日本政府の横暴に抗議をして、自害というかたちで朝鮮人の意思を表現した。

 日本のこうした無法行為と朝鮮の悲劇に対して、今回は米国をはじめとする列強からのクレームはなかった。

 それは、1895年の閔妃殺害事件で日本が、諸外国からの圧力を反省しての行動があったからである。

 桂・タフト密約(05年7月)によって米国から、第2次日英同盟(05年8月)によって英国から、ポーツマス条約(05年9月)によってロシアから、それぞれ朝鮮に対する支配権の承認を取り付けていたからである。

 朝鮮の嘆きは、王である高宗の嘆きでもあった。

 オランダのハーグで07年6月、第2回ハーグ平和会議(44カ国参加)が開催されることを知った高宗は、自らの嘆きをその会議に訴えることにした。

 ハーグ会議は、ロシア皇帝のニコライ2世の提唱によって、第1回が1899年に開かれている。

 親露派であった高宗にとって、日本を糾弾してもらう場所として相応しいと考え、密使(3人)をその会議に派遣した。

 密使たちは、韓国全権委員として会議参加を要求したが拒絶されると、米、露に対して皇帝の意思を会議に伝えてほしいと頼んだが、これもまた拒否された。

 すでに日本が、朝鮮半島支配をめぐる密約を、それらの国々と交わしていたからである。

 第4の武器、第3次日韓協約の締結(07年7月24日)。この協定は、ハーグ密使事件の「罪」を問い、韓国皇帝(国号を大韓帝国、王を皇帝に改称したのは国王がロシア公使館から慶運宮に移った1897年2月)を強制退任(1907年7月19日)させた、その直後に調印している。

 内容は、法令制定、重要な行政決定、高級官吏の任命権、各級裁判所や中央・地方官庁への日本人の全面的任用のほか、韓国軍隊の解散などを規定していた。

 こうして朝鮮の内政権、あらゆる権利を統監の指揮監督下に置いた。日本は、この第3次日韓協約の07年7月時点で、朝鮮を植民地統治下に置いていたことになる。

 1910年8月の「日韓併合条約」は、諸外国に対する近代政治の実を示すための、形式的な「法」整備、儀式にしか過ぎなかった。


4.
 初代韓国統監となった伊藤博文が1906年3月2日、ソウルに着任して朝鮮併合を完全なものとする第一歩を踏み出した。

 朝鮮人からみた伊藤博文は、植民地主義の明治政権を代表する人物であったのだ。欧米列強から強要されたとはいえ、近代化へと歩む明治政権の本質は、列強と同様、帝国主義であり植民地主義を体現していた政体であった。

 その帝国主義的植民地を最初に、最も過酷に実施したのが朝鮮半島であった。

 朝鮮民族の自主権を完全に奪ったうえで、天皇主権の抑圧政治を植え付けた。農産物と原料の供給地、資本の輸出市場、軍事拠点の独占のほか、軍隊や労働人材の供給(強制連行)など、過酷を究めた。

 このような帝国主義の民族抑圧と搾取からは、必然的に民族解放運動、抗日闘争が生み出されていく。

 伊藤博文は、初期日本帝国主義植民者を体現しており、その象徴的な人物として、朝鮮占領と併合を第一線で指導していた。

 05年の保護条約、高宗の退位を導き、最初の朝鮮支配者として初代統監に就任した。

 朝鮮人民にとってはこれだけでも、国と民族主権を奪った犯罪人としての伊藤博文を、憎しみその怒りは頂点に達していたはずだ。

 彼は、全朝鮮人が日本を憎むその象徴的な人物であったから、安重根でなくとも、朝鮮人の誰からもいつかはその命を狙われたであろう。

 そのことを示すのが、米国人スティーブンスン暗殺事件であった。

 スティーブンスンは米外交官として、明治政権の外務省職員(お雇い外国人)だった1904年12月、朝鮮の外交顧問に就任した。

 それは第1次日韓協約で、朝鮮政府は日本政府が推薦する外務、財務顧問を置くことを決定したことによるものである。

 スティーブンスンは日本政府の依頼によって、第1次日韓協約妥結に関する日本の姿勢を宣伝するため08年3月21日、休暇を兼ねて米国に帰った。

 サンフランシスコ到着直後の記者会見で、朝鮮人は日本の保護統治を賞賛しており、「条約は韓国民のためにとられた当然の措置で、彼らは独立の気概をもたない無知な民族である」と、日本政府のシナリオ通りのプロパガンダ的暴言を吐いた。

 在米朝鮮人たちは、この発言に激しく怒り糾弾し、撤回を求めた。(3月23日)

 スティーブンスンは自らの発言を撤回することなく、日本領事とともにワシントンに赴くためオークランド駅で汽車を待っていた。

 彼の言動に反感を抱いた田明雲(チョン・ミヨンウン)が狙撃したが、不発に終わった。

 近くで待機していた張仁煥(チャン・インファン)が射殺した。

 2人とも朝鮮の独立を志向する運動家として中国またはロシアで活動していて、米国のサンフランシスコに来ていた。

 米国警察に逮捕された田明雲は7年11カ月、張仁煥は25年の、それぞれの懲役刑を受けた。ところが彼らの熱烈な愛国心、独立心が米国民の同情を呼び起こし、田明雲はしばらく後に保釈され、張仁煥は10年後に特赦で出獄している。

 その米国政治は裏で、日本とは「桂・タフト密約」(05年7月)を結び-朝鮮半島に関する帝国主義同士の政治的約束を交わしている。

 日露戦争後のアジアにおける日米の勢力範囲について、米国のフィリピン支配を日本が認め、日本が朝鮮を植民地化することを米国が認めるという、侵略者同士の密約が結ばれていた。

 米国はまだ、朝鮮領士への野心的な進出をしていなかったから、米国民個々人のなかには、朝鮮が日本の領土になることへの同情心があったのであろう。


5.
 その頃の伊藤博文は、政敵を駆逐して明治政権を指導する地位に立っており、その「明治」の政治体制を帝国主義国家へと導き、朝鮮を完全に「わが手」に入れたとの思いがあったのではないか。

 伊藤は帝国主義的な傲慢な姿勢で1909年10月26日、満州視察の途中にハルビン駅頭に立ったのではないか。

 伊藤を待っていた安重根は、黄海南道海州で生まれている。05年の乙巳条約締結に激怒、鎮南補に出てきて「敦義学校」を設立して、反日の人材養成に力を注いでいた。

 1907年に沿海州に渡り、ウラジオストクで抗日朝鮮人団体や義兵に参加した。

 伊藤博文がハルピンに現れるとの情報を得て、数人の仲間とともに待機していた。

 伊藤を暗殺した後の安重根の身柄は、旅順の日本監獄に移された。

 翌10年3月25日、死刑が執行された。

 逮捕から6カ月足らずの、スピード処刑であった。

 獄中の彼は、「東洋平和論」「安応亡歴史」を執筆するなど、それ以前から唱えていた日本を含む東洋平和論を構想していたという。

 また、彼を担当した日本人看守は後年、安重根の平和論や人生観などを聞き、感銘したと回顧している。

 朝鮮は今でも、安重根を「義士」と尊称で呼んでいる。

 それは当時も今も、日本と日本の政治指導者に対する朝鮮人の思いを代弁し、実行してくれたからであろう。

 従って、安重根はテロや殺人者と同一視した「犯罪者」ではなく、国家とひとつの政権を篹奪した伊藤博文の方こそが、重大な「犯罪者」であったことを、菅官房長官らは知る必要があるだろう。


6.
 安倍晋三氏は、歴史判断は歴史家に任せればよい、侵略の定義を見直す必要がある、歴史教科書の記述は政府判断を尊重することなどと、無責任的確信犯的発言を続けている。

 その一方で特定秘密法案、集団的自衛権(注、残念ながら12月6日に成立してしまった)など、従来からの「平和」「脅威」「自衛」概念を崩壊させる法案づくりに邁進してきた。

 だからこそ、韓国政府が中国黒竜省に安重根の石碑を建立することと、中国政府がそのことを進めていることに、「過剰反応」してまで反対したのではなかろうか。

 とは言ってもそれは、自ら(日本)の過去の未清算からくる「問題」が、根底にあることに気付く必要がある。

 僣越ではあるが安倍政権に対して、植民地と侵略の定義を簡単に記しておく。

 植民地とは、帝国主義国により主権を奪われて、完全な政治的支配をうけることである。日本は朝鮮に対して、民族資本、地下資源、農産物などを搾取し収奪し、軍事拠点を置いて、民族的抑圧を続けた。

 侵略とは、他国の主権を犯し、抑圧するために軍事力と警察力を行使して、他民族を支配下に置くことである。1933年のロンドン条約でも、他国領土への武力行使などを侵略と定義している。

 朝鮮半島に対して日本は1875年9月、軍艦「雲揚号」を江華島に侵入させたときから、侵略の定義に当てはまる行為を繰り返してきた。

 1975年といえば、明治政権がスタートした1868年の、わずか7年後のことである。

 日本が、朝鮮半島への侵略行為、及び1945年8月までの植民地支配を実行していたのは、歴史的事実であって、誰も否定しようもないことである。

 それを「定義」の見直し発言をすること自体、日本の過去を直視し反省しないだけではなく、別の解釈を展開していこうとする危険性が隠されている。

 日本の「過去清算」問題には、2つの点が含まれている。

 1つはもちろん、日本が植民地支配や侵略をした地域や民族に対する謝罪と賠償である。

 もう1つは、日本と日本人の歴史への認識問題である。

 最初の部分についても、未だに清算できていないのは、2点目の認識問題にあるから。

 今になっても、朝鮮半島の植民地時代の鉄道やダム、重化学工場建設などを、日本は朝鮮に対して良いことも行い貢献したと発言する人たちがいる。

 具体的に朝鮮人の民族自主権をどれだけ剥奪し、破壊してきたかを理解していないから、「良い事」発言や在日朝鮮人への差別政策と意識が続いているのだと思う。

 先ずは、私たち日本人の植民地観、侵略観をしっかりと正す作業を行わないことには、過去の清算問題は解決できないという、ジレンマに陥っているとも言えるだろう。

 菅氏が「安重根は犯罪者だ」と発言した同日の午後、韓国外務省の報道官が「安重根義士はわが国の独立と東洋の平和のために命をささげた方だ。日本が当時、周辺国に何をしたかを振り返れば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。

 それが朝鮮人の心情であろうし、世界史のなかの位置付けであると考える。

 歴史問題での日韓対立に、米国も苛立っている。

 米国務省の報道官は11月22日、安重根の石碑建立問題で、日韓の対立が深刻化している問題で「米国は、歴史認識を巡る懸案を対話を通じた友好的な方法で解決するよう日韓両国に促す」とし、「この地域の国々の強固で建設的な関係が地域の平和と安定につながり、米国の国益になり」、「状況を注視している」と、記者会見で表明した。

 米国の発言からは、その本音と苦慮が伺われる。本音とは、10月2~3日に韓国と日本との2+2協議で合意した内容を指している。

 米国は朝鮮戦争時に使用した「国連軍司令部」の名称を復活させ、その下で日本の自衛隊と韓国軍をともに指揮下におき、第2次朝鮮戦争をいつでも戦える仕組みに合意していたことである。

 この合意内容で日本は、集団的自衛権を容認し、自衛隊が米軍指揮下(国連軍司令部)で朝鮮半島に上陸し、戦争を行うということである。

 だから米国にとっては、日本と韓国とが歴史問題などで対立していたのでは、朝鮮半島での共同行動、同一戦闘が行えないから、早く和解することを望むとクレームを付けたのだ。

 でないと、「北朝鮮」への抑圧政策が減じてしまうから、日韓の対立に苦虫を噛み潰しているのだろう。

 ところで韓国政権が安重根の石碑をどこに建立しようと、それは自主権の問題であって、誰にも止める権利などはない。

 安倍政権がその建立を踏みとどまらせるよう、韓国政権に繰り返し働きかける行為こそ、逆に朝鮮人民から反発を食らうだろう。

 安倍政権、ひるがえっては日本人の根底にある精神、伊藤博文は偉人で安重根は犯罪人、朝鮮半島の植民地支配にも良いことを行ったとの歴史観を、きれいにぬぐい去らない限り、日本の未来はいつまでも暗いままだ。


                                           2013年11月25日

「朝鮮問題へのレッスン」10.平壌市群衆大会

10.平壌市群衆大会


 一方、解放直後の北部朝鮮の状況は、どうであったのか。

 ソ連第25軍が8月10日、雄基と羅津を攻撃し、つづいて清津など多くの地域を解放して進撃した。

 日本が降伏(15日)した後、21日に元山、24日には咸興市と平壌市に進出した。

 このようにソ連軍は、朝鮮半島上で実際に日本軍と戦い、朝鮮を解放したが、米軍の場合は、朝鮮の地では戦闘も交えず、9月になってからやってきた。

 朝鮮人の心情からすれば、米ソ両軍のどちらを歓迎し、好意的になっていたかは、この事柄だけでもはっきりとしていただろう。

 26日に占領軍司令官チスチャコフ大将が、「朝鮮人に与える赤軍布告文」を発表した。

 「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍隊は、朝鮮から日本の略奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった。しかし、これはただ新しい朝鮮の第一ページにすぎない。華麗なる果樹園は人の努力と苦心の結果である。これと同じく朝鮮の幸福も、朝鮮人民の英雄的闘争と勤勉な努力によってのみ達成される。…今は、すべてのものがあなたがたの努力いかんによるのである。…」米軍の布告文とは対照的に、文学的な表現になっていて、かつソ連軍は朝鮮人の民族的独立を手助けする存在でしかないことを表明していた。

 米ソ両軍の布告文から感じることは、ソ連軍は進駐軍としての性格をもち、米軍は占領軍の性格を持っていたということである。

 朝鮮北部に進駐したソ連軍の目的は、北部朝鮮に「ソビエト秩序」を打ち立てるつもりはなく、朝鮮を日本の支配から完全に解放することと、民族自決の統一国家を樹立することだと、折りに触れて表明していた。

 そのため、朝鮮人が組織した人民委員会に、各地の行政機構的な権限を与え、ソ連軍民政部は間接統治の政策を実施していた。

 だが、ソ連も米国同様、朝鮮についての十分な知識がないまま、占領政策の軍政を始めている。

 とは言っても、米軍とは違って、朝鮮人自身の独立した政府が樹立できる期間だけ、サポーター的役割を果たす目的での占領政策だったという点が、米軍との決定的な違いで、朝鮮人から政治的にも好感を持たれていた。

 行政指導も、日本の植民地機構を否定し、日本人と親日派を追放して、各地で自発的に誕生していた人民委員会を通じて行っている。その結果、親日派と地主、植民地時代に同胞を弾圧していた警官と官吏たちは、逃れるようにして38度線を南下していった。

 金日成主席(当時は将軍と呼ばれていた)らパルチザン部隊の一部が、ハバロフスクから元山港に上陸したのは9月19日であった。

 翌20日に列車に乗り、22日に平壌に到着している。

 なぜ8月15日、またはソ連軍の先遣隊としてそれ以前に、朝鮮国内で日本軍と戦い、凱旋していなかったのであろうか。

 金日成とその部隊は、解放の曰まで抗日武装闘争を続けていた。

 金曰成の朝鮮人部隊が所属していた東北抗日連軍第1路軍の部隊は40年後半、日本軍によって追い詰められていた。

 同時期にコミンテルンからの要請もあり、反ファシズム戦線を強化する目的で、中国東北地方で戦っていた朝中連合の東北抗日連軍とソ連極東軍とが連合して、日本軍との決戦に備えることになった。

 そこで東北抗日連軍は部隊毎に、40年後半から42年前半までに、ハバロフスクのソ連軍事基地に結集した。

 金日成が小部隊を率いてハバロフスクに入ったのは、40年11月末頃であった。

 41年に入り、ボロシーロフ付近の南キャンプ(臨時の訓練基地、オケアンスカヤ)で、朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍第1路軍および同第2路軍第5軍らが、近代戦と革命論の講義、各種軍事訓練を行っている。

 その間にも、朝鮮国内と満州方面での小部隊活動、日本軍基地の偵察行動などの軍事活動は続けていた。

 プロレタリア国際主義に基づいて42年8月、朝・ソ・中3国の革命武力の団結と協力のため、国際連合軍を編成することになった。

 形式上の部隊名を「ソ連極東軍独立88旅団」、対外番号を「第8461歩兵特別旅団」とする連合軍が編成された。

 金日成は、その第1支隊(朝鮮部隊)の隊長となった。

 部隊は、ハバロフスク付近の北キャンプに結集し、軍事訓練と同時に、朝鮮国境周辺の偵察も続けていた。

 ソ連軍は45年7月頃、ワシレーフスキーを総司令官とする「ソ連極東軍総司令部」を創設し、その下に3つの戦線軍を編成した。

 第1極東戦線軍(メレツコフ司令官)は、ハルビン以南の中国東北の一部と朝鮮への攻撃を担当することになり、金日成の第1支隊が共に戦うこととなった。

 7月下旬、国際連合軍の最終の対日作戦会議(ソ連軍総参謀部主催)があり、金日成ら連合軍側指揮官、各戦線責任者たちが出席した。

 第1支隊の朝鮮人民革命軍部隊は、3つに分けられた。1隊はソ連極東軍の先遣隊として、総攻撃の直前に東満および朝鮮に出撃する。

 他の1隊は空挺隊として朝鮮に出撃し、朝鮮に進撃してきたソ連極東軍を先導する。

 残りの主力部隊はソ連極東軍とともに出撃し、地理案内を兼ねた先導役を努める、との計画であった。

 金日成は空挺隊の責任者として8月11日、隊員と共にアムール川まで移動し、トラックで飛行場に向かい、そこで待機していた。

 13日、出撃中止と現地待機の命令を受けた。

 9月に入り、ソ連側から国際連合軍の解散、東北抗日連軍隊員たちの帰国問題が討議され、9月5日から4陣に分かれて帰国(朝鮮および中国東北地方)することになった。

 金日成は第1陣朝鮮帰国組の引率者として、隊員を率いてハバロフスク、牡丹江、汪清、図們を経て、列車で祖国の朝鮮に入るコースを決め、ハバロフスクからポロシーロフまで汽車で南下し、そこから中東鉄道で牡丹江駅に着いた。

 牡丹江では、市民たちの歓迎集会などがあって、3日間ほど滞在した。

 その滞在中に、関東軍の敗残兵らによって牡丹江南の鉄道トンネルや新義州の鴨緑江越えの鉄橋が爆破されて、通行不能になっているとの情報がもたらされた。

 で、やむをえず牡丹江からボロシーロフに戻り、そこからウラジオストクに出て、ソ連軍の「ブガチョフ」号で1昼夜かけて9月19日、元山港に到着した。

 隊員は60~80名(資料によって人数が違っている)であった。

 金日成主席が8月15日に平壌に居なかったのも、日本軍の武装解除を担当出来なかったのも、以上のような偶然の重なりがあったからである。

 その後、朝鮮人民革命軍の部隊員は、分散して帰国している。

 一部の人たちが、金日成将軍が帰国しているのを知るのは、10月に入ってからのことになる。(まだ、生家の万景台には寄っていなかったから)

 平安南道人民政治委員会が密かに帰国歓迎行事の準備を進めていたから、やがて、そのことで金日成将軍が帰国していて姿を現すらしいとの噂が、一気に広まっていった。

 「金日成将軍」の名前は、朝鮮人民のなかでは民族の希望、解放の太陽であった。朝鮮人なら誰でも、ひと目でも見たい、会いたい、その声を聞きたいと願っていたのは、当然のことであったろう。

 特に、1936年5月5日に創建した「祖国光復会」(反日民族統一戦線の団体)は、金日成将軍の名と共に反日闘争の組織を朝鮮国内に広め、闘争を発展させていった。

 茂山、雄基、羅津、清津、咸興、元山、平壌、ソウル、仁川などに、地下革命組織が出来て、朝鮮人民革命軍の政治工作員と連絡をとり、解放の日を用意した。

 金日成将軍の名前をさらに高めていったのは、普天堡(ポチョンボ)戦闘(37年6月4日)、茂山地区戦闘(39年5月18~23日)、苦難の行軍ののち鴨緑江沿岸に進出したこと(38年12月~39年3月)などがある。

 45年10月14日、平壌市牡丹峰の公設運動場で「平壌市群衆大会」(別名、金日成将軍の祖国凱旋歓迎大会)が、盛大に開かれた。

 当時の平壌市の人口は40万人だが、会場には40万人余もの人々が集まった。

 大会にはソ連第25軍司令官チスチャコフ大将、レベゼル少将が出席、曹晩植が金日成を紹介した。

 金日成人気は当時すでに、「全羅道の金日成」だの「咸鎮道の金日成」だのというニセモノが出現していたという。

 これなど、後日の「金日成ニセモノ」説や「4人の金日成」説などを流布していたことと似ている。

 演説で金日成は「力のある人は力を、知識のある人は知識を、金のある人は金を」と、新民主朝鮮建設への結集を呼び掛けた。

 抗日武装闘争から一躍、朝鮮人民の前に政治指導者として登場した金日成を、ソ連によって予定されていたもので、ソ連軍の後押しがあったからだと主張している人たちがいる。

 これなど、米軍政庁のバックボーンによって登場した南の李承晩と対比して、理解し喧伝しているのだが、見当外れも甚だしい。

 米国の庇護を求めて権謀術数を計り、極右勢力だけの権力樹立を目指し、何より日本植民地時代にはそれと戦うこともなかった李承晩と、金日成とは全く正反対の立場に位置している。

 比較するほどのこともない。日本による抑圧政策に打ちひしがれ、それがいつ終わるとも知れない状況の中で絶望していた朝鮮人たちに、屈服以外に抵抗する道があって、実際にも、その日本軍に対して戦い、勝利している朝鮮人部隊が存在している事実を朝鮮人に知らしめた人物こそ、金曰成将軍であった。

 なお、歴史実証主義者に対しては、「朝鮮人民革命軍」のことについて書いておく必要があるだろう。

 金日成が率いた部隊は確かに、中国共産党満州省委員会下の東北抗日連軍第1路軍であった。

 この部隊は別名、朝中連合軍とも言っていた。金日成の部隊構成員は常に、朝鮮人隊員が80~90%を占めていたから、朝鮮人部隊だとも呼ばれていた。その活動範囲も白頭山麓を中心とする朝中国境地帯であり、そこは朝鮮人多住地帯で、しばしば朝鮮国内にも進出していた。

 それで朝鮮人たちの前では、自らの部隊を「朝鮮人民革命軍」と名乗っていたから、彼らに解放への大いなる希望を与えたと、金日成は回顧録に記している。

 事実、36年2月の南湖頭会議(朝中軍政幹部会議)で、満州省から「朝鮮人民革命軍」と名乗ることを認められている。(前35年のコミンテルン会議で、戦闘部隊を朝中別々にすることが認められていたものの、金日成は、それでは部隊の戦闘力が低下するとして、従来通りの朝中合同軍とした)

 従って、10月14日の「平壌市群衆集会」に姿を現し、以後、朝鮮政治の中心に位置している金日成は、誰か、外国勢のバックボーンや権謀術数があったものではなく、朝鮮人民たちの強い願いからのものであった。

 呂運亨の代理で演説をした趙斗元は、「1931年以降、一つの勇猛な抗日闘争勢力があって、これが日本の満州侵略、中日戦争、そして第2次世界大戦を通じて日本軍と直接的な闘争を展開した。この闘争は、金日成将軍を中心とする義兵運動であった」とした。(45年11月24日、ソウルの人民委員会全国代表者会議)

 趙斗元の発言はすなわち、全朝鮮人の意思であった。

 このように、開放後の朝鮮政治に登場してくる主要な人物、勢力(例えば呂運亨、金九、武亭、中国国内、ソ連内で活躍していた共産主義、民族主義者の派閥)を問わず,日本、中国、ソ連、米国務省の一部にまで、金日成の名前は浸透しており、開放後の朝鮮政治を指導する人物だと、早くから認知されていた。

 しかも解放の日まで、日本軍と実際に戦っていた部隊を率いていたことなどから、解放後の新生朝鮮の政治を指導していける指導者として、金日成に対抗できる人物は誰もいなかったことを、朝鮮人自身も周辺国も理解していた。

 しかし、金日成が根拠地として戦っていた満州という場所の理解について、米国をはじめとする西側にとっては、大戦中は関心外の地域であった。

 そのことが、そこで熾烈に戦っていたパルチザンのこと、抵抗運動のことなどの実態についての認識が、西側の知識から完全に抜け落ちていたから、事実とは異なる誹謗情報を許してしまっているのだ。

 知名度が先行していた金日成のことに対しても、反対者側からすれば、誹謗情報を創作しやすかったのだろう。

 現在にもつながる誹謗情報源は、主に2つの勢力のことが考えられる。

 一つは、日本軍は転向した抗日パルチザンたちで編成した「金日成討伐特別部隊」(約50人)を組織し、金曰成とその部隊を追跡させた。その元隊員たちによるもの。

 他の一つは、解放後に南へと逃れていった地主や親日派たち。彼らは、自身の後ろ暗い過去を消して現在を確立するためにも、金日成への非難情報を発信する必要があった連中たちである。

 そうした彼らの保身情報を、米国と李承晩ら右派陣営は、反北、反ソ、反金キャンペーンとして活用してきた。

 「ニセモノ」「ソ連の傀儡」「ソ連り大尉」「ソ連系朝鮮人」などと、金曰成の過去をめぐる真相に対してのプロパンダ的情報が、いまもって流布されている。

 1931年以降、金日成よりも大規模に、あるいは積極的に、継続的に抗日闘争を行っていたことを立証できる朝鮮人は、民族主義者たちも含めて全く存在していなかったというのにである。

 金日成は、ソ連軍ないし中国軍に所属していたことはあったが、-度たりともソ連軍や中国軍の一員として戦ったことはない。

 常に朝鮮の解放を考え、朝鮮の解放のために、自らの立場を最大限に活用して戦ってきた。

「朝鮮問題へのレッスン」9.反託運動

9.反託運動


 46年の初頭まで、米国の南朝鮮占領政策は相矛盾した二つの特徴をもっていた。

 ワシントンとソウル、米国務省と米軍政庁の間での対立であった。

 国務省の政策はソ連を含めた国際協調主義(多国間信託統治)であったのだが、軍政庁の方は共産主義封じ込めの米一国主義(単独政府の樹立)であった。

 モスクワ3国外相会議(45年12月16~27日)で、米国は信託統治案を主張した。

 信託統治プランは、ルーズベルト大統領の戦前からの発案であった。

 従って国務省側が主張していたのは、ルーズベルトの遺産のようなものであった。

 1.信託統治の期間が40年から50年(朝鮮が独立の準備を整えたと判断するまで)
 2.4カ国(米・英・ソ・中)の後見的役割を強化する。

 一などと、全体的に朝鮮の主体性を否定し、独立も後見役の強国からの恩恵的なもので、帝国主義的な意図が濃厚であった。

 信託統治案に一貫して反対していたソ連が、モスクワ会議で出していた案は、信託統治というよりは、朝鮮人による過渡敵的臨時政府を樹立し、その発展方向にウェイトを置いていて、信託統治(後見)期間も5年を限度(5年以内)とし、場合によっては信託統治は必要ではないとすることを含んでいた。

 モスクワ協定は、ソ連側の意見が多く反映された、米ソ両国の妥協の産物だったと言ってもよいだろう。

 朝鮮臨時政府樹立のため、4カ国は後見役的な立場でたすけ、それも5年を限度とする。

 それを実現させるために、米ソ間で緊密な協力を行う、という内容であった。

 45年12月29日、モスクワ協定が発表された。

 同時にホッジは、信託統治に反対の立場を表明し、朝鮮の即時的独立を主張しているのは米国なのだ、とするキャンペーンを展開した。

 南朝鮮の占領政策をめぐって、ホワイトハウスの国務省側と対立していた米軍政庁の考え方は、南朝鮮内でのソ連・左翼勢力の影響を完全に封鎖することにあった。

 ホッジのその考えは、仁川から上陸する以前からのもので、総督府に協力させつつ、植民地統治機構を受け継ぎ、かつ、日帝時代の親日勢力を配下(警察と下級官吏)に置く政策をとっていた。

 だから南朝鮮の現実は、多くの一般朝鮮人が米軍政に反対し、ソ連側からの協力も得られない状況になっていた。

 必然的に、政治的能力もない極右メンバーだけがホッジに引き寄せられて、社会全体を右傾化現象にさせてしまった自ら引き寄せた社会現象への反省もなく、ホッジは信頼できる反共の朝鮮人指導者の必要性を強く感じるようになった。

 といって朝鮮の歴史や政治、朝鮮そのものについて無知なホッジは、都合の良い伝聞と情報だけで、2人を選んだ。

 一人は米国に亡命していた李承晩で、もう一人は重慶臨時政府の金九であった。

 在米中の李承晩の所業に否定的なワシントン側は、役立たない老人だからと、パスポートの交付を見合わせていた。

 このワシントンの方針に反対していたホッジ、マッカーサー、グッドフェロー(米陸軍大佐、反国務省の立場で李承晩の保護者、後に李から朝鮮の利権を獲得)と李承晩と10月12日から15日まで東京で会談した後、李はマッカーサーの飛行機でソウルに送られた。(10月16日)

 李の帰国について国務省側は全く知らず、軍政司令部の手配(渡航書の発行など)による個人の資格での帰国であった。

 一方、重慶臨時政府(臨政)の金九の帰国も、個人の資格であった。

 国務省が臨政の資格での帰国に反対していたが、ホッジの差配で、臨政右派の金九とその支持者15人ほどが11月23日、ソウルに到着した。

 続いて12月3日、金奎植、金元鳳とその支持者20人ほども帰国している。

 だがホッジは間もなく、臨政のメンバーたちの政治センスのなさに、裏切られる思いで失望していく。

 金九は反託運動を指導する一方で、民族反逆者と親日分子らを批判し、「進歩的民主主義」の樹立を目指していた。45年末、全国的なストライキを呼び掛け、臨政勢力を中心とした「政権」の樹立を計画したのだ。

 ホッジは金九を叱責し、46年元旦、二人は衝突した。米軍政庁は金九を見限って、反託運動の主導権を李承晩一派に移してしまった。

 反託運動はそれ以降、反共反ソキャンペーンが主流となっていった。一方、ホッジ自身も信託統治には反対で、朝鮮の即時独立を主張しているのは米国であるとの、反ソキャンペーンを煽っていった。

 反託運動を先導していた朝鮮人たちの多くは、主として植民地時代の親日派、民族反逆者たちであった。

 彼らは、信託統治を容認してソ連の支配下に入るか、それとも朝鮮の独立を勝ち取るのかが問われているのだとして、反託運動者こそが愛国者だと、問題をすり替えて主張していた。

 以後、南朝鮮社会では、モスクワ協定の意味を歪曲させた右翼連中が、自らの暗い過去を隠すために、反託を巧みに利用する運動を展開していた。

 反託運動のイニシアティブが、ソ連と社会主義者、左翼を敵視する右翼たちの手中に握られ、その右翼たちの背後には米軍政が存在するといった構図が出来上がっていった。

 さらにワシントン側にも、朝鮮半島政策の方針を変化させる要素が発生していた。

 ルーズベルトの死後、副大統領から第33代大統領となったトルーマン(45年4月)は、47年のトルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)、中国内戦での国民政府軍を支持するなど、反共政策、対ソ封じ込め政策、冷戦体制を主導するなど、反共強硬政治に終始した。そのトルーマンの影響が出てきたのだ。

 反共主義者のトルーマンであったから、ソ連と歩調をとる朝鮮半島の信託統治方式よりは、ソ連封じ込め政策へと転換していくのは時間の問題であった。

 米軍政庁、ホッジのプランが、米国案として具体化していくのである。だから、モスクワ会議の決定を受けて開かれた、第1次米ソ共同委員会(46年3月20日~5月6日)と、第2次(47年5月21日~10月18日)は、単に時間を消化しただけで、ホッジたちが望む南朝鮮単独選挙を用意していった。

 このような南朝鮮での反託運動は、朝鮮半島における左右対立の闘争と南北対立をより激しいものにしていった。

 ソ連のタス通信は1月25日(46年)、朝鮮に関するモスクワ協定に至るまでの交渉経過について、詳細で正確な分析報道を行った。

 1 信託統治を主張していたのは米国であり、
 2 朝鮮人による臨時政府の早急な樹立を主張したのはソ連である、

 ことを明らかにした。

 これに対してホッジは、従来通りのソ連陰謀説、南朝鮮現地では共産主義者が暗躍をしているとの反論を、ワシントンに送っていた。

 トルーマン時代の米国政治はすでにして、対ソ対決スタイルとなっていたため、国務省の命令違反をしていたホッジの主張の方が、米国の意見となっていた。(2月頃から)

 ホッジら米軍政は占領当初から、朝鮮においては、いかなることもソ連との協力を行わないとの立場であった。

 そのため朝鮮問題の解決について、その頃から、分割して統治していた南朝鮮そのものを、米国は永久的に統治することを考えていたのだろう。

 今に至る米国の一国中心主義が、ホッジ自身に持ち合わせていたことの不幸が、朝鮮半島を見舞っている。

 最後に米国の傲慢政治を、ホッジが46年2月に国務省に送った言葉で紹介しよう。

 「…現地の軍政庁が相手にしているのは、アメリカ教育をうけた富裕な朝鮮人ではなく、40年間にわたるジャップ(日本人)支配下の甚だしい影響のため、社会訓練も学校教育もろくに受けていない奇怪な東洋人種であるという事実です。彼らは頑固にそして狂的に自分たちの好悪にしがみつき、直接的な宣伝によって激しく左右されるばかりか、理性をもって説得することはほとんど不可能な連中です。現在われわれが対決を迫られている相手は、数百万というこういう類いの連中を煽り立てる目的で組織された強力且つ冷酷な(共産主義)政治集団であるのです。」(ブルース・カミングス「朝鮮戦争の起源」第7章シアレヒム社発行)

 ホッジは反共主義者であると同時に、強烈な人種偏見に満ちた、典型的な米国人思考の持主であった。

「朝鮮問題へのレッスン」8.信託統治案

8.信託統治案

 
 歴代のホワイトハウス中枢部は、朝鮮半島をアジア地域における軍事要塞化するため、南朝鮮地域を占領・支配する思考しか持ち合わせていなかったのではないかと患われる。

 47年6月3日、南朝鮮で単独政権を樹立させる目的から、米軍政庁を「南朝鮮過度政府」と改称して準備をすすめるため、米国に亡命していた反共主義者の李承晩を、すでに送り込んでいた。 (45年 10月 17日)

 李承晩 (1875-1965)は、親米反日者ではあったが、それは余りにも米国依存型 (米国の支持なしには朝鮮は独立ができない)であった。

 1912年に米国で開かれた世界メソジスト教会の大会に、朝鮮教会の代表として参加したまま、米国 (ハワイ)に留まっていた。(亡命生活)

 しかし金銭や利権問題などで常に問題を起こし、米朝鮮人社会では人気がなかった。

 ワシントンに移り、朝鮮の独立には米国の力と介入が不可欠であると説得して、米政界の一部とコンダクトを持つようになった。

 反共者、キリスト教信者、米政治家との若干の知人があり、そして何より米国の援助による朝鮮政府樹立論などにつられて、朝鮮半島のことを何も知らない米軍政たちは、彼をソウルに迎え入れることを希望していた。

 李承晩は当時すでに70歳と高齢であった。

 帰国した李承晩は、米軍政が期待していた以上の働きをしたから、南朝鮮社会は瞬く間に、政治テロリストが横行する暗黒社会へと変貌してしまった。

 米軍政と李承晩一味とのタッグマッチが、南朝鮮で保守右罪と親日派を登場させ、社会主義・共産主義者たちを静圧していった。

 一方、国務省、陸軍省、海軍省の米3省調整委員会(45年10月24日)では、朝鮮の占領は、早急に「信託統治」に移行しなければならならず、米ソは信託統治を実施するための会議を即刻開始せねばならないとされた。

 また、朝鮮が独立を果たせるようになれば (注、単一の中央集権化された行政機構のこと)、信託統治機構を解消するが、朝鮮人が独立国家を運営していける能力を身につけるまでは、連合国がそれを手助けし、信託統治のもとに置く、との方針を決定していた。

 同時期の米軍政のソウルでは、南部朝鮮では保守勢力を基盤とする自治政府を樹立 (過渡的臨時政府)し、それを米軍政の監督下に置き、やがて選挙を通じて「正式な政府」を選出し、最終的にはその「政府」権力を、米軍が占領していない地域 (北部朝鮮)にまで拡大していく、とのプランを温めていた。

 ワシントンとソウルとの占領政策の溝は、大きかった。

 それはまた朝鮮の情勢判断の差でもあったのだ。

 いずれにしても現実の朝鮮は、米ソ両軍の分割占領から生じている諸問題の解決を、早急に協議する必要性に迫られていた。

 ソ連を刺激せずに統一朝鮮の建設プランをすすめるためには、可能なかぎり軍政を速やかに終えて、信託統治機構にこれを引き継がせること―米国の占領政策は、3省調整委員会の意向に沿ってまとめられた。

 45年12月16-26日、米・英・ソのモスクワ 3国外相会議が開かれた。

 この会議では、連合国が懸案とする占領政策の諸問題が討議された。

 もちろん朝鮮独立に関する問題は、細部にわたって協議された。

 朝鮮に関する米国案は、「朝鮮統一行政機構」と題して提出された。

 それによると、米・英・中・ソの4カ国を信託統治の施政権者とする信託統治案を提示。

 朝鮮の行政、立法、司法の権限は、高等弁務官と 4カ国の代表で構成する行政評議会を通じて行う。

 朝鮮人の政治的、経済的、社会的進歩をできるだけ速やかに促進させること、信託統治の期間は5年、必要があれば延長を可能とするとした。ホワイトハウス案であった。

 これに対してソ連は、朝鮮の完全な独立を前提の、「臨時政府」の設立を提示した。

 その内容は、臨時政府の設立を援助するために、米ソ両軍司令部の代表で構成する「共同委員会」を設置すること。

 共同委員会は、臨時政府の樹立に際しては必ず、朝鮮側の政党および社会団体と協議しなければならず、最高5年を期限とする信託統治(後援的性格)に関する提案を作成すること。

 それを最終的に米・英・中・ソの 4カ国が審議すること、とした。

 そして、南北朝鮮の緊急的諸問題を検討するために、米ソ両軍司令部の代表者会議を、2週間以内に招集することも合わせて提示した。

 米国案では、朝鮮の独立を遠い先のこととしており、しかも朝鮮人の政治参加は、信託統治体制下の行政官、顧問、アドバイザーなど、補助的な役割しか与えていない。(朝鮮人の政治能力を疑問視していたから)

 また信託期間も、5年以上の延長(10年以上)も可能としていて、全体としては朝鮮人の能力を見下げたうえでの、占領政策の延長になっている。

 一方のソ連案は、南北統一の自治政府(臨時政府)の樹立を主張し、信託統治の期間を5年以内として、米ソ両軍が援助するものの、朝鮮人主体の政治機構の形成に力点を置いた内容であった。

 独立を主張していた朝鮮人たちにとって、米ソどちらのプランが自分たちの考え方にマッチしていたかは、はっきりとしていただろう。

 モスクワ協定では、若干修正されたソ連側のプランが発表された。

 ところが、その内容をねじ曲げた米国から知らされた朝鮮人民たちは、左右を問わず、一斉に反発をした。

 5年間も外国の「信託統治下」に保留されることは、即時の独立を念願していた朝鮮人たちの民族感情を、甚だしく傷つけてしまったからである。

 モスクワ協定の内容が正確に伝達される前に、朝鮮人は信託統治案に感情的に反機し反対していた。

 米軍が意図的に、正確な内容を伝えなかったからである。米軍政庁と李承晩派は、朝鮮人の反託感情をうまく活用したといえるだろう。

 信託統治案はソ連側の提案であり、ソ連は朝鮮の独立を妨害しているのだとの、明らかに事実とは違うことを説明し、ソ連を批判して、南朝鮮での反ソ・反共キャンペーンを展開させていった。

 米軍政庁は、「信託統治」との表現を実際以上に活用して、朝鮮人のナショナリズムを煽り立てて、「反託運動」に名を借りた反ソ・反共キャンペーンを盛り上げていった。

「朝鮮問題へのレッスン」7.米ソ共同委員会

7.米ソ共同委員会


 46年に入って、南朝鮮ではモスクワ3国外相会議決定の信託統治案をめぐって、左右両派間の対立が激化していた。

 それは民族分裂の様相を呈していたと言ってもよい。

 とくに親日派・民族反逆者たちは、信託統治案の朝鮮人による臨時統一政府(ソ連案)が樹立されるようになれば、自らの過去が問われて処断・追放されることを最も恐れていた。

 そうした彼らが米占領軍にとり入り、李承晩派に結集して、反共・反ソ・反託運動をいっそう激化していった。

 信託統治案は、もともと米国(ルーズベルト大統領―米国務省)が考えたものであった。(モスクワ会談の決定内容とは違うが)

 現地ソウルの米軍政の先導によって、親日派、民族反逆者、右翼らの反対の声を利用して、信託統治プランを政治的に退け、かつ、彼らの声を背景にした米国は、米ソ共同委員会に臨んだ。

 米ソ共同委員会を開催することは、モスクワ会議での約束だったからである。

 米国側の首席代表は、アーノルド少将(米軍政長官)であった。

 第1次は46年3月20日、ソウルで開催した。

 米ソ間の意見対立は縮まらず、5月6日には無期休会となった。

 その後、米ソ両国間で裏面交渉が続き、第2次共同委員会が47年5月21日から、一年振りにソウルで開かれた。

 しかし米ソ間の対立点は氷解せず、7月10日には事実上の無期休会状態となり、米国は同年10月20日に委員会を破綻させてしまった。

 米ソの対立点は、米ソ共同委員会が諮問する朝鮮の政党・社会団体の規定問題と、信託統治の設置が先決か朝鮮人自身の臨時政権樹立が先かの、問題であった。

 米国は信託統治に反対する政党・社会団体も協議の対象にすることを主張したのに対し、ソ連はモスクワ協定に反対する政党・社会団体を審議の対象とすることはおかしいとして、双方は相手を非難して、反発するだけの会議時間が続いていた。

 米国はこの米ソ共同委員会の無期休会、決裂を予定していたような政治パフォーマンスを続けていたが、朝鮮人側からすれば、朝鮮人不在の「大国」間に翻弄される波間に置かれていて、会議そのものを忸怩たる思いで見ていたはずだ。

 だから、米ソ共同委員会の進捗とは関係なく、親日派を主体とする保守勢力たちを結集して46年2月、「南朝鮮代表民主議院」(民主議院)を設立させた米軍政は、それを実質的に南側の「政党連合体」「統一的な政府機関」として育成する方針を掲げていた。

 一方、北では2月8日に創建した「北朝鮮臨時人民委員会」が政治的機能を有して動き始めていて、ソ連側もそれを「政府機関」と認識していた。

 このように共同委員会の裏面では、南北双方とも、政治を実施する「政府」的機能機関が組織されていたことになる。そのようなことも、米ソ共同委員会が機能せず、対立し決裂となった原因の一つだったと思われる。

 とはいえ米国の政策方針が、信託統治から反託へ、南朝鮮単独選挙、ソ連封じ込めを決定していたことが根本原因であった。

 米国は、ルーズベルト時代の43年以降、戦後の朝鮮半島統治をインドシナと同様、信託統治の方針で臨んできた。

 その意図は、朝鮮半島に複数国家による共同信託統治を行い、その中にソ連も率いれて、朝鮮半島におけるソ連の一定程度の利益を認めると同時に、そのことによってソ連を牽制し制約することを目論んでいた。

 ソ連に対する封じ込め作戦であった。

 ルーズベルトのソ連封じ込め作戦には、ジェノバ会議(1922年)での「平和共有」意識があったのかも知れない。

 ジェノバ会議は、1922年4~5月にジェノバ(イタリア)で開かれた国際経済・財政会議(34カ国参加)で、資本主義と社会主義の2つの「所有制度」の同権、共存(平和共存)を認めた会議であった。

 平和共存の国際関係は、諸国民が外部からのいかなる干渉も受けることなしに、社会制度を選択する権利の承認を、当然の原則とした。

 この会議でソ連(レーニン)は、毒ガス兵器の禁止を提起し、それが3年後のジュネーブ会議(1925年)で、毒ガス兵器禁止ジュネーブ協定として実現した。

 だが、次のトルーマン時代以下の、共産主義封じ込め政策とは違っている。

 ルーズベルトは、一つの線上での対立を想定するのではなく、相互利益となる関係の中に「敵」(ソ連)を引き入れて、共同責任、若しくは過失を求めることを狙ったもので、朝鮮半島の信託統治案でいえば、まだ、ソ連との共同行動を取る余裕があった。

 当時の米国は、大戦終了後の世界的安保には、米国が絶対的な優位を保ち得るとの自信があったからである。

 しかし、このルーズベルトの対ソ封じ込め政策が、結局は朝鮮半島の分断を招いてしまったのだと、ブールス・カミングスは指摘している。

 また、トルーマン時代以下の「封じ込め」政策は、敵との共同行動などという余裕あるものではなく、対決姿勢をはっきりと示すものとなっていた。朝鮮半島で言えば、38度線を共産主義勢力への封鎖線、若しくは対決線として利用しつつ、支配地の南側で反共勢力を育成することであった。

 いつの時代も共産主義「封鎖」政治を行っていた米国は、共同委員会が決裂したことを口実(予定していた)にして、朝鮮問題を国連(47年9月の第2回総会)に持ち込んだ。

 これに対してソ連は、米ソ共同委員会の再開を要求して、ソ連側首席代表のチスチャコフ中将がソウルの会合で、米国を非難しつつ、以下の内容を暴露した。(9月26日の米ソ共同委員会会議)

 1 モスクワ協定は連合国の朝鮮に対する好意ある政策を表明した文書である。
 2 北朝鮮においては民主改革が進捗しているのに、南朝鮮では米軍政当局が人民委員会の合法性を認めず、なんら民主改革が行われていない。
 3 ソ連が朝鮮の併合を希望しているとの噂を広める者がいるが、それは事実無根である。
 4 モスクワ協定では5年間の信託統治をうたっているが、米国は10年間の信託統治を強く主張した。

 さらに続けて、米ソ両軍は3カ月以内(1948年初頭までに)に、同時に朝鮮半島から撤退することについても提議した。

 実際、ソ連軍は48年12月、北朝鮮から完全撤退を完了させている。

「空疎な政治家のことば」

「空疎な政治家のことば」

                                                  名田隆司


 安倍晋三首相は12月26日、靖国神社を参拝した。

 小泉純一郎首相が参拝(2006年)して以来、首相の参拝は7年ぶりである。

 安倍首相は午前11時半ころ、首相官邸から公用車で靖国神社に到着、玉串料3万円を私費で支払い、玄関ホールにあたる到着殿で「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳。

 本殿前にも首相名で花を添えた。

 この日は第2次安倍政権発足1年で、周到に準備して参拝に踏み切ったものと思われる。

 それを、私的参拝だと強弁している。

 私的参拝ならば、公用車を使用したこと、「内閣総理大臣」と記帳したこと、首相名で花を贈ったことなどと矛盾し、いずれも憲法違反(政教分離原則)に当たる。

 また、首相は日本国民を代表する立場であるから公私の区別をすることは難しい立場にあるのだから、参拝の瞬間だけが、「私的」だとする詭弁など通用しない。現憲法の手前、玉串料の私費だけをもって「私的」を演出しているのだろう。

 首相が靖国神社を参拝したことで、国内外から厳しい批判の声が挙がるのは、そこがA級戦犯を合祀している場所であったからである。

 日本は、A級戦犯を断罪した極東国際軍事裁判(東京裁判)を受け入れることで独立を回復し、国際社会に復帰を果たしたのだから、その「原罪」を「尊崇
する行為は、国際社会への公約違反になる。

 つまり、1951年のサンフランシスコ講和条約で東京裁判の結果も受け入れていたのだから、首相がそのA級戦犯を祭っている靖国神社に参拝することは、国際公約を否定し、過去の侵略戦争を正当化する行為になっているから、政治問題化するのである。

 日本の政治家たちは、靖国神社に参拝するたび、「尊い命を犠牲にされたご英霊に対して」
「国に殉じたご英霊に対して」などと、言い訳をしている。

 靖国神社が政治問題化するのは、「昭和殉難者」としてA級戦犯(戦争指導者)を合祀した1978年10月以降である。

 これ以降、靖国神社の性格は変化して、侵略戦争を肯定し記念する施設になっていしまったのだ。

 だから、それまで靖国神社を参拝していた昭和天皇も「国を安らかにしようと奮戦した人を祭る神社に、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀する」との不快感から参拝を中止してきた経緯がある。

 にもかかわらず「戦犯崇拝というのは誤解」とか、「尊い命を犠牲にされたご英霊を・・」との理屈をつけて首相や政治家たちが、靖国神社を参拝する行為は、日本の過去の歴史を肯定し、平和志向を否定する行為である。

 また、平和、民主、自主を志向する日本国民の意思をも裏切る行為になっている。

 今回、安倍首相は靖国神社敷地内にある「鎮霊社」にも参拝したとしている。

 鎮霊社は、靖国神社に合祀されていない戦没者らを慰霊するために1965年に建てられた。

 外国人も祭られているというから、無理やり日本人にされた朝鮮人や中国人(台湾)たちも合祀されている場所なのであろう。

 そこを参拝したのは、南北朝鮮や中国への配慮だったとしているが、全く「政治オンチ」としか言いようがない。

 安倍氏は靖国神社と鎮霊社を参拝して、「不戦の誓い」をした、「恒久平和への誓い」をした、「英霊に対して哀悼の誠をささげた」などと自らの行為を自賛して、右翼一流の高揚感を表現していた。

 だが安倍首相の靖国神社参拝に対して、中国、南北朝鮮のほか、米国までもが批判している。

 中国外務省報道局は27日の定例会見で、「自己の歴史と向き合わず、人を正視しないで、どうして国際社会や人を信頼させられるのか」と非難した。

 程永華駐日大使は「不戦の誓いをする場所が違う」と批判をしていた。(毎日新聞12月30日付け)

 韓国も「嘆かわしく、憤怒を禁じえない」との政府報道官声明を発表し、「積極的平和主義という名の下に国際社会に貢献したいというが、誤った歴史観を持ち、平和増進に寄与できると考えているのか、問わずにいられない」と厳しい。

 北朝鮮は、平壌放送で「無分別な行為」「軍国主義の亡霊をよみがえらせようとしている
と報じた。

 台湾では、「戦犯参拝は歴史の正義に対する挑戦だ」とする抗議集会を開いていた。

 一方で米国は、在日米大使館が「失望感」を示す声明(26日)を即座に出した。

 米国務省のサキ報道官もまた、「失望した」として米大使館と同一内容を発表した。

 もっとも米国の「失望感」表明は、10月の日米安保協議での約束、朝鮮半島危機での日米韓、または日韓合同軍事行動と約束が前進せず、その苛立ちへの「失望感」であった。

 靖国神社が「戦争肯定」施設化している現状で、首相が参拝することは、日本が過去の戦争を美化し、新たな戦争準備を進めていると、そのように見えていることを認識すべきだ。

 参拝後の「平和のために」「英霊のために」との安倍氏の言葉は、彼自身の右へのハンドルを切るための政治利用としか聞こえない。

 
 その翌日(27日)、沖縄県の仲井真弘和知事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた政府の埋め立て申請(公有水面の埋め立て)を承認(法的手続き)すると発表した。

 知事は承認した理由を「環境保全措置が講じられており、基準に適合している」ので「判断して承認することとした」と説明している。

 さらに、安倍晋三首相が提示した沖縄振興策と基地負担軽減策を「県の要望に沿った内容が盛り込まれており、安倍内閣の沖縄に対する思いは、かつてのどの内閣にも増して強いと感じた」と、安倍首相を評価した。

 このことに対して、「やはり札束で頬を撫でられた」と揶揄されている。

 知事はまた、米軍普天間飛行場の沖縄県外への移設公約に対しては「公約を変えたつもりはない」と主張した。

 つまり、「5年以内に県外移設し、運用を停止することに取り組むと首相の確約を得ている」と、安倍首相からの口約束だけを「担保」にしていることになる。

 知事は報道陣の質問に対して、「安倍首相は沖縄の要望をすべて受け止め、米国と交渉をまとめていくという強い姿勢を示された」「普天間の5年以内の運用停止の道筋が見えつつある」「県外移設ということも、辺野古移設が困難という考えも変わっていない。(したがって公約は変わっていない)」――などと答えている。

 仲井真知事が安倍首相が説得した「ことば」をどのようにして理解へと導いたかは不明であるものの、政治家同士の言葉のキャッチボールの軽さを感じてしまう。

 今回の言葉のキャッチボールでも、「辺野古埋め立て承認」と「普天間飛行場の県外移設」公約との差は、まだ埋められていないように思う。

 沖縄県民の激しい怒りの声は当然、仲井真知事と安倍政権に向けられた。

 27日から沖縄県庁前広場で、知事への抗議集会を開いた県民たちは、知事への「うそつき」と怒りの声を挙げていた。

 「天気は晴れているのに、県民の心は号泣している」(糸数慶子参院議員)

 「知事は政府と一緒になって埋め立てを承認するシナリオを作った」(移設予定地で座り込み抗議活動を続ける安次富浩さん)

 「公約違反である以上に詐欺だ。県民をばかにしている」(宜野座村の仲間真さん)

 「『公約は変えない』という知事の発言はまやかしだ。知事が政府に要請した普天間の5年以内の運用停止ができているのであれば、なぜ17年間も普天間は動かなかったのか。政府の負担軽減策は信用に値しない」(元沖縄県議会議長 仲里利信)


                                           2013年12月30日 

「南北コリアと日本のともだち松山展」の開催

蜀咏悄_convert_20140109151611
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