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「朝鮮問題へのレッスン」6.米軍政庁

6.米軍政庁

 朝鮮半島の位置に最も近くにいたとの理由で、沖縄駐屯の米第10軍第24軍団(司令官ホッジ中将)が、日本軍の降伏受理と武装解除のため朝鮮への派遣(進駐)を命じられた。

 ホッジ中将は、マッカーサー総合司令官から8月18日、朝鮮進駐の米軍司令官に突然、任命されたばかりであって、朝鮮のことをほとんど知らない米軍内にあっても、さらにホッジの場合は、朝鮮関連の知識を全く持たず、関心もなかったようである。

 しかもこの時の米第24軍団は、戦闘に疲れて力が尽き果て、人員の不足も甚だしい部隊であった。

 沖縄戦での甚大な人員損傷のために補充した戦闘要員は、その大部分が訓練所を出たばかりの新兵たちであったからである。

 普通なら、第一線戦闘部隊としての任務には不向きではあったが、日本軍の武装解除を担当するだけで、なおかつソ連軍との陣地取り戦闘もないことが確定していたから、この部隊に決まったようなものである。

 朝鮮事情を何も知らない米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部、沖縄とソウルとの間で無線連絡が開始される。

 総督府は8月22日、以南に米軍が進駐するとの内務次官からの「予告電報」を受けとっている。(これまでは、ソ連軍が朝鮮半島を占領するだろうとの予測のもとにいた)

 この予告電報によって始めて、米軍が朝鮮半島の南部地域に進駐してくることを知り、彼らなりの安堵感が広がっていった。

 翌23日、総督府は局長会議を開き、米軍進駐を歓迎するとし、治安維持は進駐軍と協力しつつ、これまで通り朝鮮人思想主義者への対応は総督府官吏に事情を聞くなどして、占領政策を実施することの希望を米軍に伝達することを決めた。

 従って、それ以降の総督府の態度は、進駐してくる米軍に迎合的で、自己都合的な情報伝達をする一方で、建準の呂運亭などには冷淡となり、左派系のメンバーを取り締まる方向へと転換していった。

 8月31日に、沖縄の米第24軍団司令部と朝鮮軍管区司令部との間で、無線連絡の交信が始まった。

 これ以降、米第24軍のホッジに伝えられる内容は、総督府からのプロパガンダ情報だけであって、それがホッジ自身の朝鮮情報の源泉となった。

 南部朝鮮では北(ソ連)から侵入した「革命勢力」が活動している、だから治安維持業務は警察力ではなく軍が必要だなどとの、総督府と日本軍の存在性と必要性を示唆するものが多く、日本側にとって都合が良い情報ばかりであった。

 ということは、建準をはじめとする独立政権づくりに動いていた朝鮮人活動家たちにとっては、都合の悪い内容ばかりであったことになる。

 米軍側もまた、ソ連軍が約束を破って南下してこないかとの疑心があり、ソ連との対抗上からも、日本側の情報を歓迎する向きがあった。

 全く、これは帝国主義者同士の会話であり、情報交換であった。

 9月8日、ホッジ中将率いる米第24軍団が仁川に到着し、そこから上陸した。

 日本軍との降伏文書調印後、ホッジは「・・・余の命令下にある官吏に服従すること」を、朝鮮人民に要求した。

 つまり、米軍の占領政策は総督府の機構を通じて行い、朝鮮人はそれら元植民地官僚に従えというのである。

 10月10日には、「米軍政庁が南朝鮮唯一の政府である」と宣言すると同時に、朝鮮人民共和国政府の解体を命じた。

 43年のカイロ宣言は、朝鮮人の「奴隷状態」に言及し、暗黙裏にではあったが、連合国にとって朝鮮人は敵ではなく、日本の侵略による最初の犠牲者であることを認定していた。

 8月下旬、マッカーサーも第24軍団に、朝鮮人を「解放された国民」として遇することを要求していたのだ。

 ところが9月4日、ホッジは第 24軍団の将兵に対して、朝鮮は「合衆国の敵」であって、従って「降伏の諸規定と条件が適用される」と通告した。

 ホッジが言う「諸規定」とは、軍事占領の国際法である「ハーグ条約」のことであろう。

 同法の第43条は敵国に対するもので、占領軍は事実上、無制限の権力を行使し得るとしている。一方で、敵でない場合は、平和的な占領で、相手側との相互協定による制約を受けることになっている。

 ホッジの心境変化は、8月29日以降の総督府からの無線連絡、共産主義者らが扇動しており、秩序を保つためには既存の秩序維持が必要との、情報によるものであった。

 その結果、米占領軍は8月から9月にかけて、朝鮮人は準敵国人、日本人は友国人だと、傾倒した判断変化をしていた。

 同時期、米国はソ連を連合国の一員とみなしていた戦時中の考え方から変化している。当然、呂運亭をはじめとする朝鮮人民たちは、強く反発し抵抗していった。

 米国は解放者ではなく、日帝に代わる占領者であったことを、この頃から朝鮮人たちは理解しはじめる。

 米軍は9月11日、総督府の統治機構を引き継ぐかたちで、以後は「米軍政庁」(軍政長官アーノルド少将)が、占領政策を実施すると発表した。

 侵略者の姿を、はっきりと現したのである。

 また、国際社会との関係から、阿部総督ら総督府幹部たちを解任(9月14日)した後も、朝鮮統治や朝鮮情報などを、解任者から得ていたため、朝鮮で民主的、自主的な朝鮮人自身の政権樹立など、初めから考えていなかったことが分かる。

 米軍政庁統治の3年間(48年8月の大韓民国政府の樹立まで)は、総督府の統治機構をまるごと継承し、朝鮮人行政官吏(親日派)の留任のほか、一部の日本人官吏が顧問として留任させていた。

 親日の官僚・警察官、地主、反民族的人物を再登用する一方で、社会主義者はもちろんのこと、金九など重慶臨時政府系の右派民族主義者まで徹底的に排除した。

 米軍政の占領政策は、植民地統治の完全な清算を要求する朝鮮人民と、独立運動とその政権を樹立しようとした勢力に打撃を与え、親日勢力に対してはその復活を許す役割を果たしただけである。

 親日勢力の復活を許した政治的後遺症は、長らく南朝鮮社会に影を落とし、今日もまだそれが清算されていない。

                                       2013年11月7日 記
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「朝鮮問題へのレッスン」5.朝鮮建国準備委員会

5.朝鮮建国準備委員会


 朝鮮総督府の首脳部が、日本の敗戦(ポツダム宣言の受諾)を知るのは8月10日午後、日本の短波放送と平安道監察官からの報告によってであった。

 総督府と朝鮮軍の幹部たちは、ソ連軍の進攻、ソ連軍の朝鮮半島制圧、ソ連軍に降伏することを何よりも恐れていた。

 そのソ連軍の部隊は11日、すでに北部朝鮮に進攻していた。

 覚悟を決めた総督府は、地域の事実を知らせる警務局長名の暗号電報を、14日の深夜までに各道の知事宛てに打った。(秩序維持のために)

 同日夜、総督府の遠藤柳作政務総監(実質、副総督)が、呂運亭に翌15日朝の8時からの会談を申し入れた。

 遠藤政務総監は、呂運亭に対して「すくなくとも17日の午後2時頃までには」ソ連軍がソウルに入るだろうから、朝鮮人による朝鮮全土の治安維持を依頼した。

 呂運亭(1886-1947)は、戦前から朝鮮人民の信望を得ていた人物で、上海で朝鮮人亡命政府「上海臨時政府」(1919年4月)を組織し、朝鮮の独立を主張してモスクワの極東人民代表者大会(1921年11月)に朝鮮代表団の一人として出席、中国の孫文や蒋介石らとも親交をもちつつ、反日闘争をすすめていた。

 1927年から3年間の服役後、「中央日報」を経営しながら反日の健筆をふるい、多くの愛国者や青年層らの支持を受けていた。44年8月には秘密結社の「朝鮮建国同盟」を組織するなど、左派系の民族主義者であった。

 総督府は、ソ連軍の朝鮮半島占領を恐れていて、朝鮮人で左派の呂運亭が秩序維持のトップであれば、その圧力も和らぐだろうと考え彼に声を掛けたのだ。

 総督府の要請を快諾した呂運亭は、15日のうちに「朝鮮建国準備委員会」(建準)を発足させた。

 16日午後には、ソウル中央放送局から全朝鮮人民ら向けて「建準」の結成と、それへの結集の第一声を出した。

 22日には1局12部編成の組織へと拡大させている。このように組織が瞬く間に朝鮮全土へと拡大したのは、44年の「朝鮮建国同盟」が母体となっていたからであろう。

 解放後、最初に朝鮮人自身の手によって組織された建準は、朝鮮人たちに大きな期待と希望を抱かせつつ、次第に政治組織活動を展開していくようになった。

 時間と共に、総督府の思惑から外れていった建準の活動は、事実上、朝鮮の「政府」的役割まで果たすようになっていった。

 米軍進駐直前の9月6日、ソウルの京畿高等女学の講堂に1000余名の全国人民代表者大会を開催し、民主主義的人民政府の「朝鮮人民共和国」の建国を採択した。

 このように建国宣言を急いだのは、朝鮮人民の最高機関は総督府ではなく建準であることを、米軍に誇示する必要があったからである。

 この頃、総督府が反動的な植民地行政機構を維持し、それを強力に推進していた現実が
一方であったからでもある。

 結局、建準および朝鮮人民たちの声は、米占領軍幹部たちには聞き届けられなかった。

 9月8日、ホッジ中将率いる米第24軍が仁川から上陸したときに、建準側代表者たちが呂運亭委員長の歓迎メッセージを渡そうとしたが、ホッジは彼らに会うことすらしなかった。

 代わりに総督府幹部たちの出迎えだけを受けていた。

 上陸以前に総督府と交わしていた無線連絡の内容を、ホッジは信じていたのだ。

 朝鮮総督府の植民地統治機構(親日派の活用も)をそのまま引き継いだ米軍は、それを「米軍政庁」(9月11日)と宣布して占領政策を始めた。

 ホッジは、「米軍政庁」は南朝鮮唯一の「政権」だと豪語して、建準や朝鮮人民共和国を否認し、弾圧を続けていった。

 建準内部の対立もあったりして、10月7日には解散を決定している。

 米軍政の態度は、朝鮮人民には「解放民族」として接したのではなく、占領者として君臨する政策を続け、傲慢な態度は朝鮮をまるで「敗戦国」のように考え、朝鮮の独立を考える度量など少しも持っていなかった。

 最後に建準の綱領と人民共和国の政綱を掲げる。

 双方とも、自主独立にかける朝鮮人民の強い意思がよみとれる。

*朝鮮建国準備委員会の綱領(45年8月28日発表)
―われわれは、安全な独立国家の建設を期す
―われわれは、全民族の政治的・経済的・社会的要求を実現しうる民主主義政権の樹立を期す
―われわれは、一時的過渡期にあって国内秩序を自主的に維持し大衆生活の確保を期す

*朝鮮人民共和国の政綱(45年9月15日、樹立宣言)
1 われわれは、政治的・経済的に安全な民主独立国家の建設を期す
2 われわれは、日本帝国主義と封建残滓勢力を一掃し、全民族の政治的、社会的基本要求を実践しつつ真正な民主主義に忠実になることを期す(注 当面の目標をブルジョア民主主義革命としている)
3 われわれは、労働者農民およびその他いっさいの大衆生活の急進的向上を期す
4 われわれは、世界民主主義諸国の一員として相互提携し、世界平和の確立を期す


                                       2013年11月6日 記

「朝鮮問題へのレッスン」4.北緯38度線

4.北緯38度線


 朝鮮半島上の北緯38度線は、南北朝鮮分断線の象徴的ラインとなっている。

 ところが、38度線を南北朝鮮の分断線と決定したのは誰で、それがいつ頃であったのかについての説明が、朝鮮問題を論じている多くの書籍に欠けているようだ。

 日本は45年8月10日、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを連合国軍側(米国)に伝えた。

 同日夜、米政権の高官と軍将官たちがワシントンに集まり、緊急会議を開催している。議題は、日本の占領政策ではあったが、必然的に朝鮮半島に関する問題も熟をおびていった。

 朝鮮と朝鮮人のことをほとんど何も知らない米高官たちの議論の中心は、朝鮮半島上でのソ連軍との住み分け、効率のよい軍事占領、朝鮮半島支配の政策などであった。

 9日から参戦していたソ連軍は、日本が降伏する15日前後には、朝鮮北部から入って半島全域を占領するだろうとの判断をしていた。

 一方の米軍自身は、沖縄戦で予想外に足留めされて、消耗しており、軍勢を整えた部隊が朝鮮半島に到着できるのは、早くても9月上旬頃になるだろうと見積もらざるを得ない状況であった。

 戦後は、ソ連との政治的軍事的対決は避けられないと考えていたトルーマン米大統領は、朝鮮半島の位置取りでソ連軍が優位に立つであろうことを判断し、そのソ連軍の勢いを止めるための停止線と、それへの理由を見つけることの指示を出した。

 朝鮮半島の地図を広げて眺めていると、一人の高官がこころみに鉛筆で、北緯38度線上を東西に線を引いてみた。

 米軍が朝鮮半島に上陸できるのは南部の港でしかないことと、こころみに線を引いてみた38度線の南側には、行政の中心点となるソウルが入っていることによって、全員の意見が一致した。地理的に有利なポイントを占めると判断したのである。

 さらに詳しく調べてみると、朝鮮を防衛していた日本の朝鮮軍司令部の組織替えが45年 2月にあり、南部(ソウルに司令本部)の防衛を野戦部隊の第17方面軍(約23万人)北部(羅南に司令本部)の防衛を朝鮮軍管区第19司令部(約117千人)が、それぞれ担当していることが分かった。

 米国にとって全く好都合な理由が存在していたことになる。米ソ両軍の朝鮮半島占領担当は、38度線を南北で分割し、南部の日本軍の武装解除と降伏受理を米軍が担当するプランは、瞬く間に出来上がってしまった。このプランを13日にトルーマン大統領が裁可し、15 日に米陸軍太平洋司令官マッカーサーへの「一般命令第1号」として伝達した。

 当然、ソ連のスターリンにも同内容が伝えられた。スターリン自身、過酷な朝鮮の植民地状況の知識に精通していなかったことと、当時はまだ朝鮮半島が戦略上の重要なポイントになるとの認識もなく、それで米国提案を修正もなく合意してしまった。

 このように、日本軍の降伏接収の境界線として規定した北緯38度線は、やがて朝鮮民族を南北に分割する悲劇の分断線となってしまった。

 その米国の発案の段階から、政治的利用を経て、アジア政策と反共政策の結果として米国が必要とした38度線は、全く、米国の軍事戦略上に必要なラインであったのだ。

 ホッジは朝鮮に到着して4日後の9月12日、早くも38度線に沿って交通遮断の分断機を設置するように命じ、10月15日までに20カ所に、道路上に設置させた。

 さらに米軍政庁は46年5月23日、朝鮮人民の38度線越境を、一方的に禁止措置とした。38度線は、現在の軍事分境線とは若干、異なっている。

 このように朝鮮人の大地を、朝鮮人自身が自由に往来できないことほど、人間としての苦痛はない。

 そのことを米国市民は知っているのだろうか。日本人についても同じことを問う。

                                       2013年11月5日 記

「朝鮮問題へのレッスン」3.ポツダム宣言

3.ポツダム宣言


 日本の敗戦は、朝鮮半島、朝鮮人にとっては、直ちに日本植民地支配からの解放、民族の独立を意味していた。

 しかし朝鮮の解放それ自体は、朝鮮民族の武装闘争、抵抗運動の結果というより、連合国側の勝利、日本側の敗北によってもたらされたことが大きかった点に、解放直後の朝鮮と朝鮮人、解放史を若干、複雑にしている面がある。

 日本の戦争敗北の型を決定したのは、ポツダム宣言であった。

 ポツダム宣言は、米、英、中(蒋介石政権)が45年7月26日に、後にソ連も対日参戦と同時に参加し、日本に戦争終結の条件を突き付けた連合国側の宣言であった。

 そのポイントは、日本の軍国主義者と戦争指導勢力の除去、日本への軍事占領、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化に対する障害の除去、実物賠償の取り立て、軍需産業の禁止、日本の主権を本州・北海道・四国・九州と連合国の決定する諸小島とし、同時に植民地支配をしていた朝鮮を独立させ、朝鮮人自身の政権を樹立することを約束していた。

 当時の日本帝国主義支配者の中枢は、この宣言を受け入れることに手間取っていた。

 その間、2回の御前会議(天皇臨席)と2回の原爆投下(広島と長崎)を経て、8月10日に宣言を受け入れることを決定し、無条件降伏を連合国側に伝えて、第2次世界大戦は終結した。

 一方、朝鮮側からみるポツダム宣言の意味は、植民地からの解放で、直ちに独立した政権を樹立することが出来るという、歓喜であった。

 ポツダム宣言の前に、カイロ宣言(43年11月27日、米・英・中の3巨頭会談)、テヘラン会談(43年12月2日、米・英・ソの首脳)、ヤルタ会談(45年2月4日、米・英・ソの首脳)のそれぞれの会談で、第1次世界大戦以後に日本が奪った地域の剥奪に合意していた。

 満州(中国東北地方)と台湾の中国への返還、朝鮮の独立などであった。

 つまり、朝鮮の独立は国際公約であって、その最後の確認がポツダム宣言であったと言うことが出来る。

 カイロ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムのいずれの会談においても、米国が主導的位置にいたから、朝鮮の独立公約は、米国が国際社会に果たした約束であったということも出来るだろう。

 しかし現実は、今日まで米国はその約束を果たしていないばかりか、南朝鮮の軍事支配と南北朝鮮の分断政策を続けていて、未だに朝鮮人民を苦しめている。

 朝鮮半島を朝鮮人自身によって解放できなかった原因を、2点だけ指摘しておく。

 第1は、日本の朝鮮植民地支配が余りに過酷であったことに、原因があること。

 1930年代までに、民族主義者を含む反日、抗日の闘志たちを徹底的に弾圧し、結果的に彼らを国外の周辺部に追いやってしまったことが上げられる。

 1930年代以降に台頭する革命家たちも、周辺の国外からでしか日本軍との戦いができなくなってしまっていた。

 朝鮮革命家たちにとっても、隔靴掻痒の感があっただろう。

 朝鮮半島内部で親日派を培養していた日本は、「皇国臣民化」政策を強行し、抵抗勢力を完全に孤立化、少数化、地下化へと追いやってしまった。

 朝鮮半島内部での武装闘争組織と維持などが、全くできなくなってしまっていたのだ。

 第2は、米軍が無線連絡で朝鮮総督府に指示を出し、米軍が朝鮮半島に上陸するまで、総督府の官吏と朝鮮人親日派の連中を、元のポジションのまま温存させたことである。

 後に仁川から上陸した米軍政庁は、日本の統治機構と親日派を活用して、朝鮮半島南部支配を、反共政策(冷戦体制の最前線を構築)一色で実施した。

 1、2のいずれの原因も、日本の帝国主義政策が深く関わっていたことになる。

 否、日米合作だったと言っても差支えないだろう。

 日帝は朝鮮を植民地化する以前は、「朝鮮の自立化」(帝国からの分離)を言い立て、米帝は各種国際宣言で「朝鮮の独立」(日帝からの)を言い立てて、どちらも朝鮮に対しては一時的に「美しく立派」な言葉を使用して、自らを飾っている。

 「帝国主義というものは、相手のものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら、生命の神を聖公言したりする下卑たやり口の常習者なのだ」(ジャワーハルラール・ネルー「父が子に語る世界歴史」第3巻みすず書房)

 ネルーは、帝国主義者の本質と特性を言い当てている。

                                       2013年11月4日 記

「朝鮮問題へのレッスン」2.朝鮮半島の呼称問題

2.朝鮮半島の呼称問題


 朝鮮半島と朝鮮に関する呼称は、戦前から「朝鮮」で統一されていた。

 ところが48年8月に、米国が南半分だけの選挙を強行して「大韓民国」を成立させると、彼らは自らの「国家」略称と地域名を「韓国」と言い出した。

 同時に、日本国内で使用し普遍化していた「朝鮮」を否定して、韓国、韓国人、韓半島、北韓、韓国語を主張するようになった。

 日韓基本条約が調印された65年以降は、日本政府も「韓国」を国籍とし、「朝鮮」を単なる記号とする差別政策を、在日朝鮮人社会に刻印していった。

 「韓国」籍であれば、日本社会でも有利(あくまでも、朝鮮籍に比べて)な生活が保障(融資や海外渡航など)され、韓国政府もまた、彼らの自由往来を認めた。

 だが、こうした政策の裏側には、黒い罠が潜んでいたのだ。

 日韓両政府とも、在日朝鮮人の全てを韓国籍化して、やがて日本国簿を取得(日本人化)させ、在日朝鮮人の存在を無くしていく方針を持っていたからである。

 棄民政策である。棄民政策は李承晩政権から金泳三政権まで、温度差はあったものの続けられていた。

 もちろん日本政府も「民団」も裏面で協力をして、「韓国」籍への切り替えを積極的に勧めていたのだ。

 在日朝鮮人はこの棄民政策とは別次元での現実生活から、1在日朝鮮人の90%以上が南朝鮮出身で、2朝鮮との商業活動に有利であり、3反共的立場の人たちから、有利な「韓国」籍に切り替えていくといった現象もあった。

 こうして朝鮮総連に結集していた「朝鮮」籍の人たちは、日本政府と日本社会以外にも、「韓国」系列につながるものとの闘いが強いられていった。

 時とともに、「朝鮮」「韓国」双方の名称のバックに政治色が着いていると、在日の若い人たちのなかから、自らを「コリア」「コレア」と名乗る者たちが出てきた。

 英語の「コリア」(Korea)は、中世の高麗王朝の名称からきており、特にヨーロッパ地域で広がり親しまれていた。

 コリアの名称がヨーロッパ地域で広まったのは、モンゴルの元帝国の侵略路との関係があると考えられる。

 しかし現在では、「コリア」は単なる名称にしか過ぎず(コリア人など存在していないのだから)、帰属先がはっきりしない欠陥がある。結局は、「朝鮮」「韓国」問題から逃げ出しているにしか過ぎないというべきではないだろうか。

 日本人のなかにも、「朝鮮・韓国」(その反対も)とか「韓国人・朝鮮人」(または朝鮮・韓国人)などと表現する人たちがいる。

 これなどは「朝鮮」「朝鮮人」と「韓国」「韓国人」の2民族がいるような表現で、無意識の内に朝鮮半島の分断政策に荷担する罪を犯している。

 日本ではまた、朝鮮半島の南北両政府の略称を、北を「北朝鮮」とし南を「韓国」と表現しているが、これにも違和感がある。

 ここで、南北朝鮮の呼称問題を図式的に整理しておくと、

 国名/朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国
 略称/朝鮮または共和国と韓国
 地域名/北朝鮮と南朝鮮

 ―ということになる。

 では朝鮮半島側では自らを、どのように表現しているのだろうか。北側は略称を「朝鮮」または「共和国」としていて、朝鮮半島、朝鮮人、朝鮮語、朝鮮史、南北朝鮮とし、相手の南を「南朝鮮」と呼んでいる。しかし自らを「北朝鮮」と呼ぶことはない。

 一方の南は略称を「韓国」としていて、以下、韓半島、韓国人、韓国史、韓国語などとしている。相手の北を「北韓」と呼んでいるが、自らを「南韓」とは言わない。

 以上の対比で分かることは、「北朝鮮」との呼称は地域名ではあるものの、南北両朝鮮とも使用していないということである。

 では、日本のマスメディアなどで使用している呼称は、どうであろうか。朝鮮民主主義人民共和国については、初出を「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」として、以下は「北朝鮮」で統一している。

 ところがこの表記は、南北両朝鮮が国連に加盟をした92年以降のことである。

 それ以前は、初出を「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」とし、以降を「北朝鮮」としていた。

 この2つの表記の違いは、前者が正式国名の「朝鮮民主主義人民共和国」を認識し認めているのに比べ、後者は正式国名を通称名的に扱い、やや蔑み的な忠誠が残っている。

 70年代以前は、「北鮮」「南鮮」または「北韓」「南韓」などと、全くの侮蔑表現を使用していたから、隔世の感はある。

 だが今でも一般には、「北朝鮮」と簡単に表現している。

 その場合でも、国名の略称を指しているのか、単なる地域名なのか、または区分して使用しているのかが分かりづらい。

 国名の略称での「北朝鮮」表現は、相応しくないことだけは言っておく。

 私自身は講演や会話(または原稿)で、「北朝鮮」と表現する場合がある。

 その場合は地域名(朝鮮北部)のことを意識してのことであり、その反対の南部を「南朝鮮」と表現している。

 ところが聴く側では、誤解をしている場合が多いようである。

 経験を紹介する。時折り、若い記者から取材を受けることがある。

 私が「朝鮮民主主義人民共和国」のことを「朝鮮」と表現していると、記者の方は「朝鮮半島」と聞き違いをしていたことがある。

 また別の取材者の場合、私が地域名のつもりで「北朝鮮」と言ったのを、国名の略称だと受け取っていたことが何度かあった。

 ことほど左様に日本社会では、北部朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国を表現する場合、「北朝鮮」で意思疎通が出来上がっていることが分かる。

 その場合でも、それが国名の略称なのか地域名なのかといった、難しい論点など全く意に介さないのだろう。使いやすい表現との理由だけで使用している「北朝鮮」との語感には、日本人特有の侮蔑感と、朝鮮の存在をその国名と共に認めまいとする、米国史観が潜んでいることに気付いてほしいものである。

 「北朝鮮」表現は決して、字数を節約するとのマスメディア特有の表現法ばかりではなく、そこには米国のプロパガンダが反映されていることを理解してほしい。

 将来、日朝国交正常化が進み、実現した場合、現在一般化している「北朝鮮」との表現は、朝鮮半島の北部地域名のみに限って使用することになるであろう。

 ところで「朝鮮」「韓国」名はともに、朝鮮半島古代に興亡した王朝名、地域名である。

 だから双方の名称を、朝鮮人が用いる場合には、それぞれ正統性があるものの、日本人が用いる場合には、まだ「政治的」な問題が残っていて、十分にこなせていない。

 それは日本政府が過去の歴史清算をまだ行っていないことと、南北分断政策に深く荷担しているからである。

 「朝鮮」と「韓国」か、「北朝鮮」と「韓国」か、日本人にとってどの表現を用いるのかは、その人の思考や人生観表現とともに、朝鮮半島に向き合う際の政治的立場も同時に反映していることになる。

 だからよけいに、朝鮮問題を語ることを難しくしているのだろうと思う。

                                       2013年11月3日 記

「朝鮮問題へのレッスン」1.はじめに

1.はじめに

 私たちは朝鮮問題の現在や日本との関係を、どれほど理解しているだろうか。

 地理的には隣国で、歴史的にも古代から関わりを持ち、現在においても日常的に政治的に関係の深い朝鮮半島を、である。

 また、在日朝鮮人たちが多く居住している理由についても、その歴史的経緯を知っているのだろうか。

 わけても朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮または共和国)についての理解は、偏見に満ちているのではないか。

 米マサチューセッツ工科大学教授のノーム・チョムスキーは、「アメリカ国民の知っている北朝鮮は、強力なプロパガンダ組織(注一米国家情報機関)によって創り出された内容である」と言っている。

 つまり米国民は朝鮮問題について、政権側にとって都合の良い情報しか知らないか、ほとんど何も知らないということなのだ。

 また、日本では近隣の朝鮮や中国のことは「アメリカのフィルターを通して捉えられている」とも、指摘している。

 彼が言うまでもなく、日本で報道されている朝鮮半島関連の情報は、必ず米国のバイアスがかかったうえで伝えられている。

 なかでも社会主義朝鮮に関してのものは、米国のバイアスがかからないものがないとまで言えるほどである。

 日本人が抱く社会主義朝鮮のイメージと認識は、米政権の情報機関によって加工された内容で、ひょっとしたら、それすらも知らない人たちが多いのではなかろうか。

 そのような人たちにとっては、毎日、マスメディアによってたれ流されている朝鮮半島関連の情報(特に北関連)を、疑問もなくそのまま受け入れていることになる。

 こうした事柄は米国にとっても、日本の政権(歴代の、どの政権)にとっても、全く都合が良い世論操作となっているのである。

 社会主義朝鮮に関しては、米CIAや米国防委員会など、諜報機関によって加工された謀略情報が、日本政府や大手マスメディアから流され続け、それを検証もできない一般の人々にとっては、そのまま受け入れるしかない、ということになっている。

 その結果は、「怖い北朝鮮」などの情報通りの脅威感だけが増幅され、反朝鮮、嫌朝鮮感情が何層にも積み上がっているのが、現在の日本社会だとも言えるだろう。

 それこそが、日米など帝国主義陣営側が意図している情報操作なのである。米国の国際政治の中心は、冷戦後も、世界から共産主義・社会主義政権を崩壊させることであった。

 ソ連・東欧社会主義諸国が連鎖崩壊したときには、当時の米政権担当者たちは有頂天になり、なお一層、自らの政治制度(民主主義、キリスト教文化)の伝道者としての使命感に燃えていたかも知れない。

 次はアジア諸国の社会主義政権の瓦解だと判断し、米国流のアプローチを試みていた。

 モンゴル、ベトナム、中国などは、開放経済路線を実施していたから、やがては政治の多党化、民主化が実現するだろうと理解していたはずだ。

 だから、それらの国々とは経済交流・強力、政治の正常化プログラムをすすめていた。だが朝鮮だけは、「朝鮮式社会主義」の旗を高く掲げて、米政治とは対抗していた。

 93年、朝鮮の黒鉛炉原子力発電所建設を「核開発疑惑」だとして、世界に発信した米国は、以来、「核」と「ミサイル」開発を理由とした、社会主義朝鮮の崩壊劇を演出している。

 一方で、自らの産軍体制を維持する必要性から、「脅威」の社会主義朝鮮の存在を利用してきた側面もある。

 米韓、日韓、日米韓、六者会談、国連、国連の安保理など場を活用しながら、アジア太平洋地域を重要視してきた米国は、敵国朝鮮の「脅威」を叫びつつ、その一方では朝鮮を必要とする矛盾した政策を築いてきた。

 日本との関係においても、「日米2プラス2共同文書」(13年10月3日)では、自衛隊の行動範囲の増強、防衛予算の増額、米国のアジア太平洋地域の重視、さらに在日米軍再編のためにとして、「北朝鮮の核・ミサイル計画や人道上の懸念、海洋での力による安定を損ねる行動、宇宙やサイバー空間での撹乱をもたらす活動」との表現を必要とし、同時に自衛隊の伸張については一定程度は押さえ込もうとしていた。

 朝鮮の核やミサイルが、日本や在日米軍に向けられ、それが脅威になっているとするのは、日米両国の軍事的存在力を主張する作文であって、そのことがプロパガンダ表現なのである。

 だが一般には、何がプロパガンダで、真実とは何か、という事柄まで考えたりはしないはずだ。

 社会主義朝鮮の存在自体を忌避しようとしている米国、さらに朝鮮とはまだ敵対関係にある米国、自らの帝国主義的存在のために脅威の朝鮮を必要としている米国、これら矛盾した立場の米国から発信してくる朝鮮半島情報など、信じることはできない。

 日本の保守政治陣営は、米プロパガンダの朝鮮情報によって、集団的にも個人的にも、その政治生命を保っているようだ。そうした彼らから発する朝鮮情報もまた、米国のプロパガンダ情報でしかない。

 マスメディアが活用している朝鮮問題「専門家」たちの的外れなコメントに頷く社会、それが今の日本社会の朝鮮問題への理解レベルとなっていることは、悲しい。

 以上のことから、日本の朝鮮半島関連の情報や理解、認識や判断などは、必然的にも米国の「マスク」を被っていて、それすらも理解していない精神風土になっている。

 だからなお、現実の朝鮮半島情勢、政治状況を伝えることは難しい。

 難しいことの第1は、朝鮮半島関連情報の大半が、米国のプロパガンダによって汚染されているからである。

 第2は、日本人の意識下にある朝鮮および朝鮮人への「蔑視観」があるからである。

 第3は、政府およびマスメディアからの情報を公的なものとして受け止め、信用してしまう日本的習性があるからである。

 以上のことから、民間の小さな研究所や肩書きのない個人などの情報発信は、信頼性がないとする社会的風土もまた大きく影響している。

 さりとてこうした現実や傾向を黙って見過ごしているのは、朝鮮問題の専門家、研究家とは言えないだろうし、第一、日本人としての存在が問われていると思う。

 右傾化している現実社会ではなお、朝鮮半島問題の正しい認識と理解のための発言、発信、言葉を継いでいく作業こそ、ますます重要なのではないかと考え、今回は「朝鮮問題へのレッスン」を執筆することにした。

 朝鮮半島の分断を招いたもの、それを維持している政治勢力の追及を、用語および事件や事柄の解説を通じて、時代と政治勢力などの背景を見、現代朝鮮史となるようにした。

 説明が重複している部分があるかも知れないが、それは各項目を独立したものとして扱い、項目毎の理解の助けにしたいと考えたからである。

                                       2013年11月3日 記

「オバマ米大統領への抗議」

「オバマ米大統領への抗議」

                                               名田隆司


 米核安全保障局(NNSA)は、10月30日までに、少量のプルトニウムを使って核兵器の性能を調べる実験を今年の7~9月に1回実施したことを、ウェブサイトで明らかにした。
 
 実験は、強力なX線を生みだす「Zマシン」という特殊な装置を用いたもので、保有する核兵器の性能を維持することが目的であるが、核実験である。
 
 今年は、4~6月にも行っていて、「非核化」発言と矛盾している。
 
 そのようなオバマ米政権が、まるで世界の核審判員にでもなったように、誰それの核実験はいけない、誰それの核保有は脅威だと批判をしていることは、虚しいこだまのようにしか聞こえない。
 
 しかも世界で最後の1カ国になるまで核兵器を保有すると豪語しているオバマ氏だから、今後とも、こうした核実験を続けていくつもりだろう。
 
 だとしたら、核なき世界を訴えた「プラハ演説」とも矛盾しているし、そのために受賞したノーベル平和賞は欺瞞だ。
 
 オバマ氏の言葉など誰も信じないし、それはオバマ氏個人の不幸で、米国の悲劇で、世界平和を冒瀆している。
 
 やっと日本が参加し、125カ国が署名した国連の「核不使用」声明の、非核の国際社会の流れを無視した、傲慢な姿勢だ。
 
 今後は、他国の核政策にえらそうに要求するのなら、その前に自らの核削減を実施することだ。それが出来なければ、ノーベル平和賞を返上することだ。
 
 朝鮮への核威嚇を直ちに中止することだ。


                                      2013年10月31日 記

「米国の新たな対北戦略を批判する」

「米国の新たな対北戦略を批判する」

                                               名田隆司


 長期安定政権の現実に安心したのか、このところの安倍晋三首相の言動には、右翼っぽさがますます滲み出てきている。
 
 特に今国会での成立を目指している「特定秘密保護」「国家安全保障会議」の両法案には、安倍氏の傲慢姿勢の現在が現れていて、不吉な予感を覚える。
 
 安倍政権が、国家の安全保障政策の司令塔にしたいとしている「国家安全保障会議」は、いま以上に国家情報を独占し、隠匿し、コントロールしていこうとするもので、危険極まりないものである。
 
 その中核となるのは、首相、外相、防衛相、官房長官らの4者会合(月に2回開くという)である。日本版NSC(米国のマネ)だと言われる所以だ。
 
 この4者会合の事務局を担うのは、「国家安全保障局」(約60人、14年1月に発足予定)で、総括、戦略、情報、同盟国・友好国(米国など)、中国・北朝鮮、その他(中東など)の6班体制でスタートするようだ。
 
 菅義偉官房長官は、「外国の情報機関から重要な情報を入手するには、特定秘密保護法案をセットで成立させる必要がある」と説明をし、秘密保護法案も今国会での成立を目指すという。
 
 特定秘密の定義については、「漏えいがわが国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」としている。
 
 その範囲は、防衛、外交、特定有害活動(スパイなど)防止、テロ防止などの4分野で、閣僚ら行政機関の長が指定するのだとしている。
 
 特定秘密を漏らした公務員や民間人には、最高10年から5年の懲役が科されることになっていて、厳しく対処することを目指している。
 
 また、特定秘密と指定された情報が、今後、半永久的に公開されない恐れがあり、運用によっては、国民の知る権利を損ねる以上に、国民をコントロールしていく危険な武器となる可能性すらある。
 
 同時期、安倍政権は集団的自衛権の行使を、容認していく方向で検討している。
 
 首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)では、日本は権利はあるが憲法上(集団的自衛権が)行使できないとの従来の立場から、自国の存立を維持する「自衛のための措置」と解釈をして、集団的自衛権を容認する方向へと開いていくことを検討している。
 
 先の2法案と、安保法制懇が検討している集団的自衛権容認問題が重なっているのは、決して偶然のことではない。
 
 安保法制懇は10月16日の会合で、米国を攻撃した国に武器を供給する船舶に対する強制検査(臨検)、日本への原油輸送に関わる海峡封鎖時の機雷除去など、自衛隊の活動内容の拡大事例を具体的に検討していた。
 
 こうした集団的自衛権の範囲の検討は、東京で10月3日、日米安保協議委員会(10.3共同声明)で協議し、すでに合意していたものである。
 
 「10.3共同声明」は、米軍主導で、日米韓安保会議の一環として開かれた。
 
 第38回米韓軍事委員会(9月30日)、第45回米韓安保協議会(10月2日)、そして日米安保協議委員会(10月3日)と、米国を軸にして連続的に協議をした後、原子力空母「ジョージ・ワシントン」号を釜山港に入港(10月4日)させている。
 
 つまり、9月30日から10月4日までソウル―東京―釜山を結んだ「安保協議」を、米国は連続して行っていたのだ。
 
 この時期に、それぞれ非公開の安保協議を行った米国の意図は、どこにあったのだろうか。協議直後にソウル(10.2共同声明)と東京(10.3共同声明)で発表した、2つの「共同声明」をつなげて、少しのぞいてみよう。
 
 「10.2共同声明」では、「両長官(国防)は停戦協定(朝鮮戦争)と国連軍司令部が、朝鮮半島の平和と安定を維持する上で必須的であるという点を確認した」としている。
 
 この表現こそは、オバマ米政権の現在の心境を素直に表明していると言えるだろう。
 
 どういうことかと言えば、米国は朝鮮戦争の停戦協定を今後とも維持し、かつ、「国連軍司令部」も解体する考えのないことを、共和国へのメッセージとしたのである。
 
 このことは同時に、韓国軍に戦時作戦統帥権を返還(15年12月1日の予定)し、米韓連合司令部が解体された場合でも、「国連軍司令部」の名称による米軍を引き続き存続させる、ということのようである。
 
 これが新戦略とはなんとも陳腐である。
 
 だから共同声明では、「ミサイルの脅威に対する探知、防御、攪乱および破壊のための包括的な同盟のミサイル対応戦略を引き続き発展させていくことにした」と、「ミサイル脅威」を強調している。
 
 ここで言っている「ミサイル脅威」とは、「北のミサイル体制」のことであって、決して60年にわたって核とミサイルで共和国に脅威を与え続けてきた米国、それ自身ではない。
 
 共同声明で主張する「対北戦略」は、共和国のミサイル攻撃能力をミサイル防衛システムで弱化させたうえで、自陣の対北ミサイル攻撃能力を強化するとしている。
 
 そのために、朴槿恵政権に対しては、対北ミサイル防衛システム「キー・チェーン」と、韓国型ミサイル防衛システムを早期に確保するよう、ミサイルシステムの売り込みを図っている。
 
 日本との「10.3共同声明」は、南朝鮮との「10.2共同声明」とリンクさせたものである。
 
 「10.3共同声明」では、「より強固な同盟とより増大された責任の分担に向かって」と前置きをして、日本と米国とが直面している5つの「危険要因」を列挙している。
 
 「北朝鮮の核及びミサイルプログラム」「北朝鮮に対する人道主義的関心」「海洋領土における強制的で不安定な行動」「宇宙およびサイバー空間で起こっている破壊行動、大量破壊兵器の拡散」「人為的にまたは自然に発生する災難」のことである。
 
 「海洋領土」における不安定行動とは、中国の釣魚島への軍事行動を意味しているのだが、それ以外の4つのすべては共和国のことを指している。
 
 つまり、日米ともに「危険要因」の優先順位を、共和国を第1とし、中国を第2としたことがこの共同声明から分かってきた。
 
 さて、「危険要因」の第1に挙げた共和国に対処するために、共同声明では3者協力(日米韓)を高めていく努力が必要だとしている。
 
 それで、強力な3者協力体制を構築するために、米軍司令官が日本の自衛隊と韓国軍を同時に指揮することができる、新たな作戦指揮体系を米国は必要としている。
 
 それが、詐称「国連軍司令部」だというのである。
 
 米国が「国連軍司令部」の名称にこだわっているのは、すでに使用していることと、「国連」の名称があるからである。
 
 また、この「指令部」であれば、自衛隊と韓国軍を同時に指揮できる権限があると考えているからでもある。
 
 さらに自衛隊の役割を拡大させて、集団的自衛権の行使を、日本の国内法に先行して認めている。
 
 共同声明で「日本は国家安保会議を創設し、国家安保戦略を発表するために準備中」だとしたうえで、日本は集団的自衛権を行使する問題、防衛費を増加させる問題、国家防衛プログラム指針を検討する問題、領土主権を守護する能力を強化する問題、域内活動を拡大する問題、そしてアジア諸国を相手に能力を拡大する問題などの、安保の法的根拠を再検討中だとした。
 
 そして「米国はそのような努力を歓迎し、日本と緊密に協力する」ことを強調している。
 
 安倍政権が今国会で成立させようとしている安保関連法の教科書は、この「10.3共同声明」にあったことが分かる。
 
 すでにして米国との間で約束(米国のお墨付き)していたことを、国内法制化しようとしているのだ。
 
 何のことはない、米政権の対共和国戦略を日本は、軍事力と予算面から積極的にタッグマッチを組もうとしていたことになる。
 
 そうした安倍政権の政治姿勢を絶対に許してはならない。

 だから、日本が「右傾化」しているとばかりは言っておれない。


                                      2013年10月30日 記
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