「日本の戦後補償問題」
「日本の戦後補償問題」
名田隆司
1.
ソウル高裁は7月10日、朝鮮半島の植民地時代に新日鉄住金(旧日本製鉄)で徴用工として強制労働させられたとして、4人が損害賠償を求めていた訴訟で、同社に請求額通りの計4億ウォン(約3500万円)の支払いを命じる判決を言い渡した。
原告勝訴であった。
90年代中頃から、ソウルの地裁では時折、戦後補償個人請求権関係で、日本側に支払いを求める判決(原告勝訴)を出していた。
今回、戦後補償問題で、韓国の高裁が日本企業に賠償を命じたのは初めてである。
韓国の80年代以前は、軍事政権が続き、個人の声は封じ込められていて、日本に戦後補償を求める雰囲気などは全くなかった。
89年の民主化以降、過去の歴史と政治を見直す社会的バックボーンができたことにより、90年代の中頃から、日本に対する戦後補償及び個人請求訴訟の流れが出てきた。
ここまでくるのに、解放から50年近くを要しており、65年の日韓基本条約からでも30年近い歳月を費やしている。
問題を裁判の場に持ち込んで、今回の勝訴までにでも、20年という時間を消化せざるを得なかった。
日本(対象の企業も)は、朝鮮半島出身者の声をしっかりと聞き、個人の戦後補償問題を解決する必要と責任がある。
ところが、菅義偉官房長官は、「日韓間の財産請求権の問題は、完全、最終的に解決済みというのが、わが国の従来の立場だ」とし、「わが国の立場と相いれない判決であれば容認することはできない」と、ソウル高裁判決に不快感を示した。
つまり、65年の日韓基本条約および日韓請求権協定で解決済みだと、解釈していたのだ。
一方で、ソウル高裁の裁判長は、判決文で、被告の日本製鉄が原告らを働かせた行為は当時の日本政府による「朝鮮半島の不法な植民地支配と侵略戦争遂行に直結した反人道的不法行為にあたる」と厳しく指摘していた。
また、日韓請求権協定においても、「植民地支配の性格に対する合意がなかった」として、原告勝訴の判決を導き出した。ここに来るまでの南朝鮮社会の気が遠くなるほどの闘いと時間が流れていたことを、理解しなければいけない。
2.
戦後補償の個人の請求権問題に関連して、日本政府は91年8月の参院予算委員会で、日韓請求権・経済協力協定について「日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」(外務省条約局長)と答弁している。
つまり、サンフランシスコ平和条約やその後の2国間条約の規定は、個人の請求権までの放棄を定めてはいない、というのが当時の日本政府の認識であった。
だから、菅義偉官房長官の「65年の日韓請求権協定で解決済み」との発言は、従来の日本政府認識からも逸脱していたことになる。政権内での意思統一を要求する。
ここで、補償と賠償との違いを整理しておこう。
戦後補償とは、戦争の勝敗とは直接の関わりがなく、物心両面の被害、損失を償うことを意味している。
であるから、金銭での償い以外にも、謝罪(国家及び関連企業・団体・個人)、真相究明、社会や個人の名誉回復、平和及び歴史教育などまでが含まれている。
一方で戦時賠償とは、戦勝国が敗戦国から奪い取る「戦利品」を意味しており、補償とは基本的に違っている。
1951年のサンフランシスコ平和条約第14条は、米国の対日政策が冷戦戦略に位置付けられ、「敗戦国」日本の懲罰的姿勢が姿を消し、日本の経済復興を最優先した結果として、敗戦を「終戦」と認識して処理を行っていった。
先の戦争が「侵略戦争であった」(細川護煕首相の93年の記者会見)と、首相が発言するまでに、半世紀近くもかかっていた理由の一つに、サンフランシスコ平和条約第14条の存在があった。
3.
日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定をテコに、主として戦争賠償の意味合いよりも、経済協力を中心にして進めてきた。
それで日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定(韓国とは65年)によって決着済みだ、との立場を表明するようになった。
その背景には、経済至上主義と日米同盟の枠組みに陥ってしまったことが挙げられる。
10日のソウル高裁判決に則して2点、菅義偉氏に反論しておきたい。
1点目は、国際法学者たちは以前から、国家は被害者個人の請求権までは放棄できないと主張していることである。
つまり、65年の日韓請求権協定においても、個人の請求権は存在する、ということになる。
91年8月の参院予算委員会での外務省条約局長の答弁が、そのことを表現している。
2点目は、日本政府がサンフランシスコ平和条約や、2国間条約で「決着済み」と主張するとき、その問題を「賠償」と「補償」を混同して、発言している可能性がある。(自己都合的な解釈をして)
補償の幅広い考え方の立場に立てば、とても「解決済み」だとは言えるはずはないのだから。
それ故、今回のソウル高裁の判決は、人権感覚上においても、平和志向上においても、正しい判断である。
今後は、日帝による強制連行・動員被害者(韓国政府の審査機関が被害者を認定した人たちだけでも約9万2千人がいる)や遺族たちが、日韓請求権協定の壁を乗り越えていくだろう。
65年の日韓基本条約・請求権協定については、久しく以前から韓国政界、学界、運動団体などから、批判があり見直しを求める意見が出ていたのだ。
4.
サンフランシスコ条約の中心規定は、第14条の賠償規定である。規定では、
1.賠償額を規定せず、具体的な内容を関係諸国との個別交渉に委ねていたこと。
2.損害と苦痛への賠償原則よりも、賠償支払い能力の限界(日本自身の)が重視されたこと
3.植民地、半植民地の喪失、在外財産接収が実質の賠償として認められたこと。
4.非調印国等に関しては、賠償問題が未解決のままで残されたこと。
5.支払い方法は、役務賠償のみとし、技術・労働の提供(加工原材料は相手国が供給)の加工役務賠償が中心であったこと。
まったく、このような内容が賠償規定なのかと疑いたくなるほど、日本にとって有利な条件になっていた。
韓国との場合では、その第14条の賠償問題ではなくて、第4条の住民の財産・請求権での「特別に扱う主題」によって、交渉が行われた。
そのために、65年6月に調印された「日韓基本条約」は、日本側が韓国の請求権をいっさい認めなかったために、経済協力方式となってしまった。
しかも日韓条約によって、日本側企業が韓国進出の端緒を作った。
日本は、韓国との戦争賠償問題については、サンフランシスコ平和条約第14条の「損害と苦痛」への賠償ではなく、第4条の財産的価値の侵害に対するものであったから、個人への補償と精神的苦痛への償いが、残されていたことになる。
日本の戦後処理は、サンフランシスコ平和条約を法的根拠にして、韓国を含む各国とも個人が対象ではなく、国に対する経済協力(支援という名目の経済進出)が中心だった。
ソウル高裁は、そのことを問うたのである。
しかも日韓基本条約は、南北統一事業をも妨げているから、日本はまだ朝鮮半島の植民地体制をまだ解体してはいない。
2013年7月15日 記
名田隆司
1.
ソウル高裁は7月10日、朝鮮半島の植民地時代に新日鉄住金(旧日本製鉄)で徴用工として強制労働させられたとして、4人が損害賠償を求めていた訴訟で、同社に請求額通りの計4億ウォン(約3500万円)の支払いを命じる判決を言い渡した。
原告勝訴であった。
90年代中頃から、ソウルの地裁では時折、戦後補償個人請求権関係で、日本側に支払いを求める判決(原告勝訴)を出していた。
今回、戦後補償問題で、韓国の高裁が日本企業に賠償を命じたのは初めてである。
韓国の80年代以前は、軍事政権が続き、個人の声は封じ込められていて、日本に戦後補償を求める雰囲気などは全くなかった。
89年の民主化以降、過去の歴史と政治を見直す社会的バックボーンができたことにより、90年代の中頃から、日本に対する戦後補償及び個人請求訴訟の流れが出てきた。
ここまでくるのに、解放から50年近くを要しており、65年の日韓基本条約からでも30年近い歳月を費やしている。
問題を裁判の場に持ち込んで、今回の勝訴までにでも、20年という時間を消化せざるを得なかった。
日本(対象の企業も)は、朝鮮半島出身者の声をしっかりと聞き、個人の戦後補償問題を解決する必要と責任がある。
ところが、菅義偉官房長官は、「日韓間の財産請求権の問題は、完全、最終的に解決済みというのが、わが国の従来の立場だ」とし、「わが国の立場と相いれない判決であれば容認することはできない」と、ソウル高裁判決に不快感を示した。
つまり、65年の日韓基本条約および日韓請求権協定で解決済みだと、解釈していたのだ。
一方で、ソウル高裁の裁判長は、判決文で、被告の日本製鉄が原告らを働かせた行為は当時の日本政府による「朝鮮半島の不法な植民地支配と侵略戦争遂行に直結した反人道的不法行為にあたる」と厳しく指摘していた。
また、日韓請求権協定においても、「植民地支配の性格に対する合意がなかった」として、原告勝訴の判決を導き出した。ここに来るまでの南朝鮮社会の気が遠くなるほどの闘いと時間が流れていたことを、理解しなければいけない。
2.
戦後補償の個人の請求権問題に関連して、日本政府は91年8月の参院予算委員会で、日韓請求権・経済協力協定について「日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」(外務省条約局長)と答弁している。
つまり、サンフランシスコ平和条約やその後の2国間条約の規定は、個人の請求権までの放棄を定めてはいない、というのが当時の日本政府の認識であった。
だから、菅義偉官房長官の「65年の日韓請求権協定で解決済み」との発言は、従来の日本政府認識からも逸脱していたことになる。政権内での意思統一を要求する。
ここで、補償と賠償との違いを整理しておこう。
戦後補償とは、戦争の勝敗とは直接の関わりがなく、物心両面の被害、損失を償うことを意味している。
であるから、金銭での償い以外にも、謝罪(国家及び関連企業・団体・個人)、真相究明、社会や個人の名誉回復、平和及び歴史教育などまでが含まれている。
一方で戦時賠償とは、戦勝国が敗戦国から奪い取る「戦利品」を意味しており、補償とは基本的に違っている。
1951年のサンフランシスコ平和条約第14条は、米国の対日政策が冷戦戦略に位置付けられ、「敗戦国」日本の懲罰的姿勢が姿を消し、日本の経済復興を最優先した結果として、敗戦を「終戦」と認識して処理を行っていった。
先の戦争が「侵略戦争であった」(細川護煕首相の93年の記者会見)と、首相が発言するまでに、半世紀近くもかかっていた理由の一つに、サンフランシスコ平和条約第14条の存在があった。
3.
日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定をテコに、主として戦争賠償の意味合いよりも、経済協力を中心にして進めてきた。
それで日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定(韓国とは65年)によって決着済みだ、との立場を表明するようになった。
その背景には、経済至上主義と日米同盟の枠組みに陥ってしまったことが挙げられる。
10日のソウル高裁判決に則して2点、菅義偉氏に反論しておきたい。
1点目は、国際法学者たちは以前から、国家は被害者個人の請求権までは放棄できないと主張していることである。
つまり、65年の日韓請求権協定においても、個人の請求権は存在する、ということになる。
91年8月の参院予算委員会での外務省条約局長の答弁が、そのことを表現している。
2点目は、日本政府がサンフランシスコ平和条約や、2国間条約で「決着済み」と主張するとき、その問題を「賠償」と「補償」を混同して、発言している可能性がある。(自己都合的な解釈をして)
補償の幅広い考え方の立場に立てば、とても「解決済み」だとは言えるはずはないのだから。
それ故、今回のソウル高裁の判決は、人権感覚上においても、平和志向上においても、正しい判断である。
今後は、日帝による強制連行・動員被害者(韓国政府の審査機関が被害者を認定した人たちだけでも約9万2千人がいる)や遺族たちが、日韓請求権協定の壁を乗り越えていくだろう。
65年の日韓基本条約・請求権協定については、久しく以前から韓国政界、学界、運動団体などから、批判があり見直しを求める意見が出ていたのだ。
4.
サンフランシスコ条約の中心規定は、第14条の賠償規定である。規定では、
1.賠償額を規定せず、具体的な内容を関係諸国との個別交渉に委ねていたこと。
2.損害と苦痛への賠償原則よりも、賠償支払い能力の限界(日本自身の)が重視されたこと
3.植民地、半植民地の喪失、在外財産接収が実質の賠償として認められたこと。
4.非調印国等に関しては、賠償問題が未解決のままで残されたこと。
5.支払い方法は、役務賠償のみとし、技術・労働の提供(加工原材料は相手国が供給)の加工役務賠償が中心であったこと。
まったく、このような内容が賠償規定なのかと疑いたくなるほど、日本にとって有利な条件になっていた。
韓国との場合では、その第14条の賠償問題ではなくて、第4条の住民の財産・請求権での「特別に扱う主題」によって、交渉が行われた。
そのために、65年6月に調印された「日韓基本条約」は、日本側が韓国の請求権をいっさい認めなかったために、経済協力方式となってしまった。
しかも日韓条約によって、日本側企業が韓国進出の端緒を作った。
日本は、韓国との戦争賠償問題については、サンフランシスコ平和条約第14条の「損害と苦痛」への賠償ではなく、第4条の財産的価値の侵害に対するものであったから、個人への補償と精神的苦痛への償いが、残されていたことになる。
日本の戦後処理は、サンフランシスコ平和条約を法的根拠にして、韓国を含む各国とも個人が対象ではなく、国に対する経済協力(支援という名目の経済進出)が中心だった。
ソウル高裁は、そのことを問うたのである。
しかも日韓基本条約は、南北統一事業をも妨げているから、日本はまだ朝鮮半島の植民地体制をまだ解体してはいない。
2013年7月15日 記
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