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「日本の戦後補償問題」

「日本の戦後補償問題」

                                               名田隆司

1.
 ソウル高裁は7月10日、朝鮮半島の植民地時代に新日鉄住金(旧日本製鉄)で徴用工として強制労働させられたとして、4人が損害賠償を求めていた訴訟で、同社に請求額通りの計4億ウォン(約3500万円)の支払いを命じる判決を言い渡した。

 原告勝訴であった。

 90年代中頃から、ソウルの地裁では時折、戦後補償個人請求権関係で、日本側に支払いを求める判決(原告勝訴)を出していた。

 今回、戦後補償問題で、韓国の高裁が日本企業に賠償を命じたのは初めてである。

 韓国の80年代以前は、軍事政権が続き、個人の声は封じ込められていて、日本に戦後補償を求める雰囲気などは全くなかった。

 89年の民主化以降、過去の歴史と政治を見直す社会的バックボーンができたことにより、90年代の中頃から、日本に対する戦後補償及び個人請求訴訟の流れが出てきた。

 ここまでくるのに、解放から50年近くを要しており、65年の日韓基本条約からでも30年近い歳月を費やしている。

 問題を裁判の場に持ち込んで、今回の勝訴までにでも、20年という時間を消化せざるを得なかった。

 日本(対象の企業も)は、朝鮮半島出身者の声をしっかりと聞き、個人の戦後補償問題を解決する必要と責任がある。

 ところが、菅義偉官房長官は、「日韓間の財産請求権の問題は、完全、最終的に解決済みというのが、わが国の従来の立場だ」とし、「わが国の立場と相いれない判決であれば容認することはできない」と、ソウル高裁判決に不快感を示した。

 つまり、65年の日韓基本条約および日韓請求権協定で解決済みだと、解釈していたのだ。

 一方で、ソウル高裁の裁判長は、判決文で、被告の日本製鉄が原告らを働かせた行為は当時の日本政府による「朝鮮半島の不法な植民地支配と侵略戦争遂行に直結した反人道的不法行為にあたる」と厳しく指摘していた。

 また、日韓請求権協定においても、「植民地支配の性格に対する合意がなかった」として、原告勝訴の判決を導き出した。ここに来るまでの南朝鮮社会の気が遠くなるほどの闘いと時間が流れていたことを、理解しなければいけない。


2.
 戦後補償の個人の請求権問題に関連して、日本政府は91年8月の参院予算委員会で、日韓請求権・経済協力協定について「日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」(外務省条約局長)と答弁している。

 つまり、サンフランシスコ平和条約やその後の2国間条約の規定は、個人の請求権までの放棄を定めてはいない、というのが当時の日本政府の認識であった。

 だから、菅義偉官房長官の「65年の日韓請求権協定で解決済み」との発言は、従来の日本政府認識からも逸脱していたことになる。政権内での意思統一を要求する。

 ここで、補償と賠償との違いを整理しておこう。

 戦後補償とは、戦争の勝敗とは直接の関わりがなく、物心両面の被害、損失を償うことを意味している。

 であるから、金銭での償い以外にも、謝罪(国家及び関連企業・団体・個人)、真相究明、社会や個人の名誉回復、平和及び歴史教育などまでが含まれている。

 一方で戦時賠償とは、戦勝国が敗戦国から奪い取る「戦利品」を意味しており、補償とは基本的に違っている。

 1951年のサンフランシスコ平和条約第14条は、米国の対日政策が冷戦戦略に位置付けられ、「敗戦国」日本の懲罰的姿勢が姿を消し、日本の経済復興を最優先した結果として、敗戦を「終戦」と認識して処理を行っていった。

 先の戦争が「侵略戦争であった」(細川護煕首相の93年の記者会見)と、首相が発言するまでに、半世紀近くもかかっていた理由の一つに、サンフランシスコ平和条約第14条の存在があった。

 
3.
 日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定をテコに、主として戦争賠償の意味合いよりも、経済協力を中心にして進めてきた。

 それで日本は、サンフランシスコ平和条約とその後の2国間条約・協定(韓国とは65年)によって決着済みだ、との立場を表明するようになった。

 その背景には、経済至上主義と日米同盟の枠組みに陥ってしまったことが挙げられる。

 10日のソウル高裁判決に則して2点、菅義偉氏に反論しておきたい。

 1点目は、国際法学者たちは以前から、国家は被害者個人の請求権までは放棄できないと主張していることである。

 つまり、65年の日韓請求権協定においても、個人の請求権は存在する、ということになる。

 91年8月の参院予算委員会での外務省条約局長の答弁が、そのことを表現している。

 2点目は、日本政府がサンフランシスコ平和条約や、2国間条約で「決着済み」と主張するとき、その問題を「賠償」と「補償」を混同して、発言している可能性がある。(自己都合的な解釈をして)

 補償の幅広い考え方の立場に立てば、とても「解決済み」だとは言えるはずはないのだから。

 それ故、今回のソウル高裁の判決は、人権感覚上においても、平和志向上においても、正しい判断である。

 今後は、日帝による強制連行・動員被害者(韓国政府の審査機関が被害者を認定した人たちだけでも約9万2千人がいる)や遺族たちが、日韓請求権協定の壁を乗り越えていくだろう。

 65年の日韓基本条約・請求権協定については、久しく以前から韓国政界、学界、運動団体などから、批判があり見直しを求める意見が出ていたのだ。


4.
 サンフランシスコ条約の中心規定は、第14条の賠償規定である。規定では、

 1.賠償額を規定せず、具体的な内容を関係諸国との個別交渉に委ねていたこと。
 2.損害と苦痛への賠償原則よりも、賠償支払い能力の限界(日本自身の)が重視されたこと
 3.植民地、半植民地の喪失、在外財産接収が実質の賠償として認められたこと。
 4.非調印国等に関しては、賠償問題が未解決のままで残されたこと。
 5.支払い方法は、役務賠償のみとし、技術・労働の提供(加工原材料は相手国が供給)の加工役務賠償が中心であったこと。

 まったく、このような内容が賠償規定なのかと疑いたくなるほど、日本にとって有利な条件になっていた。

 韓国との場合では、その第14条の賠償問題ではなくて、第4条の住民の財産・請求権での「特別に扱う主題」によって、交渉が行われた。

 そのために、65年6月に調印された「日韓基本条約」は、日本側が韓国の請求権をいっさい認めなかったために、経済協力方式となってしまった。

 しかも日韓条約によって、日本側企業が韓国進出の端緒を作った。

 日本は、韓国との戦争賠償問題については、サンフランシスコ平和条約第14条の「損害と苦痛」への賠償ではなく、第4条の財産的価値の侵害に対するものであったから、個人への補償と精神的苦痛への償いが、残されていたことになる。

 日本の戦後処理は、サンフランシスコ平和条約を法的根拠にして、韓国を含む各国とも個人が対象ではなく、国に対する経済協力(支援という名目の経済進出)が中心だった。

 ソウル高裁は、そのことを問うたのである。

 しかも日韓基本条約は、南北統一事業をも妨げているから、日本はまだ朝鮮半島の植民地体制をまだ解体してはいない。


                                       2013年7月15日 記
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「北朝鮮『脅威』論を合唱する裏側」

「北朝鮮『脅威』論を合唱する裏側」

                                               名田隆司

1.
 6月は、朝鮮の核放棄を求める様々な国際会議があった。

 ①シンガポールで5月30日から6月2日まで開催された英国際戦略研究所主催のアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)。

 この会議でも、北のミサイル・核問題に懸念を表明していた。

 ②同じくシンガポールで6月1に開いた日米韓3カ国防衛相会談。

 さらに19日、ワシントンの米国務省での日米韓3カ国外務省局長級会合。

 当然のことのように、米国の意思に従って対北朝鮮政策への圧力強化で足並みをそろえた。

 ③北アイルランドで6月17日、18日に開催したG8サミット。

 その首脳宣言では、朝鮮へのクレーム表現が多くなっている。

 ・北朝鮮の核計画は深刻な懸念であり、度重なる国連安保理の違反は容認しない。
 ・北朝鮮の核、弾道ミサイル計画を深く懸念する。北朝鮮は挑発行為を自制し、安保理決議などの義務を順守しなければならない――などとした。

 ④ブルネイの首都バンダルスリブガワンで6月30日から7月2日まで開催した、東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(朝鮮の朴宜春外相も出席)。

 その議長声明でも、朝鮮に国連安保理決議や、05年9月の6カ国協議共同声明を順守することを求めた。

 他に、米中首脳会談(6月7、8日、米カリフォルニア州で)と中韓首脳会談(6月27日、北京で)が行われ、すでに米韓首脳会談が終わっていたから、これで米中、米韓、中韓の首脳間は北朝鮮バッシングでつながったことになる。

 米中間では、北朝鮮の非核化を共同目標とし、北朝鮮の核保有化を許さないということで一致した。

 中韓間においても、北朝鮮の非核化追求で一致した。

 1人、これらの問題でも蚊帳の外に置かれていたのが日本・安倍晋三政権。

 安倍晋三首相は、オバマ米大統領に一生懸命にラブ・コールを送っているにも関わらず、日米間は決して濃密とは言えない。日中、日韓間のつながりもない日本は、外務や防衛毎の個別会談でかろうじてぶら下がっているだけだ。

 以上みてきたすべての国際会議の結論では朝鮮への核政策放棄を要求している。

 それはまた、米国自身の要求であったのだ。

 米国の主張は、朝鮮半島の緊張局面を解消するためには、まず、北朝鮮が非核化の意志を見せ、「挑発」と「威嚇」を中断すべきだと、喧伝している。

 これまで朝鮮半島での緊張を激化させてきた責任は、すべて北朝鮮側にあるとして、日韓とともに圧力をかけ続けることに専念してきた。

 それを安保理や周辺国に吹聴して、ついに中国まで引き入れてしまった。

 それが、6月の各種国際会議の表現であった。


2.
 2期目のオバマ米政権の対北朝鮮政策は、北が、非核化に向けた行動を見せなければ対話には応じないとする態度である。

 一方の中国は、習近平政権成立直後の中南海会議で密かに北朝鮮の核開発を止めるため米国や韓国などとの連携を重視し、国連による制裁を順守させることなどを決めていた。

 中国の対北朝鮮政策は、米国とのバランス(経済関係)上での変化へと傾きつつある。

 ところで、朝鮮の国防委員会代弁人は6月16日、重大談話を発表した。

 「委任によって」としているから、金正恩国防委員会第1委員長の意志なのである。

 重大談話では、以下の3点を発表(主に米国に対して)した。

 1.1月以来の軍事的緊張状態の緩和問題。
 2.停戦体制を平和体制に移行する問題。
 3.米国の「核なき世界」建設問題を含む、双方が願う数々の問題――についての、米国との対話。

 朝鮮は、12年の改正憲法序文で、核保有国であることを明記した。

 それ以降、米国との対話条件を、核保有国同士の非核化対話とし、対話の究極目標も「地球全体の非核化実現」(核軍縮)と、高いハードルを掲げていた。

 だが、今回の提案は、米国との対話条件を「核保有国同士」とはしていない。

 その上で、朝鮮の核保有は、朝鮮半島全域の非核化実現と、米国が北への核脅威を完全に終息させる目標が達成されれば、核政策を廃棄する――戦略的選択であることを明らかにした。

 つまり、朝鮮の核保有国地位は、朝鮮半島の非核化までの一時的なことであるのだと、表明したのである。

 「われわれの核保有について言えば、それは朝鮮半島の非核化を実現するための自衛的で戦略的な選択である」と主張しているように、外部の核脅威が完全に終息するときまでは、核を維持するとの立場を改めて明確にした。

 しかし、朝鮮半島の非核化は絶対的に追及していく課題だとしている。

 その理由は軍隊と人民の意志であり、金日成主席と金正日総書記の遺訓であり、国家と全軍全人民が必ず実現すべき政策的課題であるからだと、3つの側面から非核化の意志についても明確にしている。

 朝鮮の今回の提案内容は、以前のものに比べると柔軟で具体的だと言える。


3.
 朝鮮がこうした「現実感」のある内容を提案していた背景には、周辺国の対話外交(対朝鮮半島)が進展していたことが挙げられるだろう。

 日本の飯島勲内閣官房参与が、首相特使の資格で5月14日から平壌入りし、朝鮮側の幹部らと会談したこと。

 朝鮮のチェ・リョンヘ特使が5月24日から北京入りし、習近平国家主席ら中国首脳らと会談したこと。

 朝鮮の祖国平和統一委員会が6月6日、韓国と米国に会談を申し入れていたこと(南とは開城工業団地再稼働の件で、6日から11日まで協議したが決裂)。

 このように、朝鮮半島をめぐる対話の時が訪れていたのである。

 朝米間には、別途にニューヨーク・チャンネルがあり、この経路を通じた接触から、時折、朝米双方の本音が漏れてくることがある。

 朝鮮側の6月16日提案内容を、オバマ米政権が果たして受け入れるだろうか。

 ニューヨーク・チャンネルにおいても、まだ難しいものがあるだろう。

 むしろ、米中の利害関係からくる、中国側の米国への圧力局面、その6者協議の再開の可能性の方がまだ捨て切れない面がある。6者協議再開から朝米会談の可能性もあるにはあるが、会談のテーマが一致しない限り、難しいだろう。


4.
 7月3日の外電によると、米国防安保協力局はF35戦闘機による搭載可能な中距離対空ミサイル274基と精密直撃弾530発、レーザー誘導爆弾780発を、南朝鮮に売り渡すために議会要請を行うという。

 さらに欧州の軍需企業(ドイツ)が、3億ドル分の地対空ミサイル170基を、南朝鮮に販売することになっているという。

 昨年から、国連安保理などで、米欧が中心となって、朝鮮の核、ミサイル危機を煽りつづけてきた目的の答が、南朝鮮や日本への中古武器販売にあったことを、これら事実の一端は暴露している。

 南朝鮮には、米国が押し売りした膨大な軍事武力が今も、朝鮮に向けて対峙している。

 それらを消化するためにも、大小さまざまな米韓合同軍事演習を、毎月、どこかの地域で実施している。

 米韓合同軍事演習からの偶発的な要因で、いつ戦争が勃発するかわからない地域、それが朝鮮半島である。

 このような朝鮮半島の危機状況を作り出しているのは、他ならぬ米国であり、南朝鮮である。

 軍産体制を維持したい米国自身が、各種武器を販売し消化する必要上、南北対決を助長していることになる。


                                       2013年7月12日 記

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「板門店ツアーに参加して」

「板門店ツアーに参加して」

                                               名田隆司


1.
 平壌での朝鮮戦争「戦勝60周年」記念行事に参加する前に、板門店南側の現状を知っておきたいと考えていたので、松山から「板門店ツアー」を申し込んだ。
 
 7月6日の日程は、偶然のことである。

 出発する前日の7月4日、開城工業団地問題での南北当局者実務協議が6日午前(10時から)、板門店の北側区域にある「統一閣」で開催されることを知った。

 南北実務協議の進展次第で、ツアーは中止になるかもしれないと考えつつ、それでも協議が成功することを願って出発した。

 前日の夜(7月5日)、宿泊していたソウルのホテルに、出発は1時間遅れ(通常は午前8時30分)になるが、ツアーは予定通り行われるとの連絡があった。

 6日朝、出発現場のロッテホテル明洞本館前には、大型バス2台が待機していた。

 参加者は約100名(うち日本人は30名ほど)。

 大半は欧米系の若者たち。時間調整をしていたのか、10時の出発となった。

 漢江沿いの高速道路を走ること約100分、板門店南側区域の第1ゲートに到着。

 市中から抜けた漢江沿いは、有刺鉄線が二重に張りめぐらされていて、500メートルおきに監視所(有人と無人用)が設置されていた。

 その風景から、軍事的緊張や威圧感を人々に与えている(実際は一度もないのだが、北側からの侵入者を防ぐためだとしている)。

 ゲートに到着したバスに、拳銃を下げた若い韓国軍兵士が1人、黒のサングラス(顔の表情を読み取られないためだという)を掛けたまま乗り込み、パスポートの提示を求め、服装のチェックを行った(数年前は、米軍兵士が韓国兵を連れて検査していた)

 事前に配布された「ツアー注意事項」には、「服装規定」があった。

 作業服、レザーの服、ジーンズ(最近は色落ちや破れていなければ可としている)、半ズボン、ミニスカート、袖なし、派手な服、軍服スタイル、サンダル、スリッパなどは不可としている。

 それらの服装がなぜいけないのだろうか。

 ここは軍事境界線上で、敵兵を刺激しないためと、万が一の場合に、逃れやすいためだとの説明があった。

 観光商業地として売り出しながら、軍事的危険性をアピールするという、「マッチポンプ」的行為そのものだ。

 第1ゲートから10分も走り、米軍(ガイドたちは国連軍と言っていた)エリアに入る手前で、再び、パスポートを確認した後、米軍専用(国連軍)のバスに乗り換えさせられた(観光会社専用のバスを点検する場合、時間がかかるからとのこと)。

 第1ゲートに入って以降、左右のところどころに小さな青田が点在して見られた。

 日本で見慣れた水田風景より、密植気味に思われた。

 ガイドの説明では、南側軍事区域内には、450人ほどが住む「統一村」があり、彼らは、米、麦、朝鮮人参などを栽培しているとあった。

 定住者たちは、朝鮮戦争以前から、この地域一帯に居住していた人たちで、戦後、希望して移住してきたと言う。

 一般農民より耕作面積が広く、税や住居費なども優遇されているから、高級車を2、3台所有するほど、危険地域の反対給付を受けて、恵まれた生活をしているとのことであった。


2.
 板門店ツアー(共同警備区域)参加者は、「国連軍のゲスト」扱いとなる。

 「敵性地域」に立ち入った「ゲスト」への配慮として、米軍は、見学者に一時的な恐怖感を植え付ける装置を、様々に用意している。

 まず、薄片のゲストバッチ(国連のマークと番号が入ったもの)を、衣服の上部左側に付けることを強要する。

 ゲストハウスに入り、20分間に及ぶ注意事項の説明(スライドで)を受け、署名をした「訪問者宣言書」を提出することになる。

 「宣言書」は、「事変、事件を予期することは出来ませんので、国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国は訪問の安全を保障することはできませんし、敵の行う行動に対し、責任を負うことはできません」として、自己責任を強調している。

 その上で、9点の注意事項を列記している。

 例えば、「北朝鮮軍人及び北側の訪問者と会話すること、親しくすること、交際することは、固く禁じられている」「訪問者は、北朝鮮側にとって、国連軍を誹謗するための宣伝材料となるような身振り、表現等を慎む」「火器、ナイフ等いかなる武器も、共同警備区域へ持ち込んではならない」などで、米軍側からの視点での表現となっている。

 ここまでで十分、「この危険な地域にゲストを迎えることができている状態を維持しているのは米軍の配慮のおかげ」などと強要されているようだ。

 参加料13,000円(簡易な食事付)は、決して安い料金ではなく、数年前と比べ値上げしている。

 この高い参加料金とともに、「注意事項」や「宣言書」などを用意していて、「『危険地帯』『恐怖感』イコール『北朝鮮』」だとの印象を十分に植え付ける役目を果たしている。

 だから、よほどのことがない限り、見学者(ゲスト)を受け入れているのだろうと思う。

 数年前までは、韓国人並びに在日朝鮮人(韓国籍はもちろん朝鮮籍は入国すら不可)は参加できなかった。今は思想信条の良い犯罪歴のない「良民」が証明されれば参加できる。

 米軍のバスから降り立った「ゲスト」たちが、実際に見学できる施設と場所は、自由の家、本会議場、第2警戒所、帰らざる橋などが基本であるが、時には、「ポプラ事件跡」(76年8月、米軍がポプラの木を伐採して起こった事件)、自由の家の横に建つ3階建ての展望台(ここから北側の風景を眺める)などのエリア内を時間内に自由に見学、写真撮影ができた。

 今回は、南北当局者実務協議が行われている時であったからであろう。自由の家(現在のものは98年7月に再建されたもの)内の通路を抜けて、38度線上に建つ7棟の建物の前に40人ほどのグループに分けられ、北側の「統一閣」に向かって整列したままで写真を撮ってもいいと言われた(ケースから出したカメラか双眼鏡以外の持ち物はだめだと言われ、バスから降ろされた)。

 私がその「自由の家」に立っていたのは、12時前である。

 過去の訪問時には、北側の「統一閣」の幾つかの扉は開いていて、人民軍兵士数人が警戒しているのが見られた。しかし、今回は扉はすべて閉じられていて兵士も立っていない。

 一度だけ扉が開いて兵士が1人出てきた。その兵士は、双眼鏡で私たちの方を確認すると、扉をバタンと閉めて、出てこなくなった。

 また、目の前にいる南側の警備兵10数名は、すべて韓国軍の若い兵士たちであった。

 10数年前まではまだ、朝鮮のこの前線に立っていたのは、MPの腕章をつけた米軍兵士(黒人兵)であった。

 現在は、DMZ(非武装地帯)の警備兵の95パーセントが韓国兵(韓国は2年の徴兵制)になっているという。

 ブリーフィングのときもバスの中でも、現在行われている南北実務者協議の進捗状況については何らの説明もなかった。

 ただ、従前とは違う関係者たちの緊張感と、参加者の行動を規制する態度から、私の目の前の「統一閣」内では、今まさに南北協議が苦悩しつつ、進行しているのだと感じていた。

 その実感は、「ポプラ事件」跡も「帰らざる橋」(戦争捕虜交換で、南北それぞれの捕虜たちが帰国するときに通った橋)もバスの中からの見学であったことからも強く感じられた。


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 軍事停戦委員会会議場―マイクのコードが軍事境界線

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 奥に見える建物が「板門閣」

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 帰らざる橋

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ポプラの木跡―丸い部分がポプラ幹の実際の大きさ


3.
 バスが第1ゲートを出て、板門店ツアーが終了してから、ツアーガイドが、南北実務者協議は10時から始まって30分ほどで終わってしまったことを告げた。協議が決裂したことを示唆していた(彼女たちにはそれ以上のことは知らされていなかったのかもしれない)。

 バスが高速道路に出る瞬間、道路待機場所にテレビ放送会社のクルー車が数台、待機しているのを目にした。

 そのことによっても、南北協議は決裂したのではなく、協議はまだ進行していることを確信した。

 ホテルでのテレビからは、南北協議の行方ははっきりわからなかった。したがって私自身、帰国後、8日付けの日本の新聞報道によって、断続的なロングラン会議になっていたことを知った次第である。

 6日の実務者協議は、開城工業団地の操業が、中断に陥った責任の所在をめぐる対立などで、深夜まで(実際は7日未明まで)断続的に続行していたようである。

 南側は、稼働を中断させた「責任ある立場表明」を要求したのに対して、北側は、設備点検を最優先で話し合い、稼働可能な工場から運営を再開させることを提案したという。

 団地の早期稼働再開については、南北双方とも同意しているものの、またもや政権の面子のために対立している。

 6月のときは、出席者のレベルをめぐる問題で中止となった。

 そして今回は、稼働再開条件で、南が再発防止の明確な保証協議から要請したのに対し、北は、梅雨の影響が懸念される団地内の設備点検を最優先で協議に入ることを提案した。

 どちらの提案内容も、団地を再開し、存続していくためには重要な問題である。

 再稼働のためには、問題を一つずつ協議し、解決していくという方式になっているのでないならば、提案された2問題とも解決・合意する必要があるだろう。

 開城工業団地の存続には、幾つもの重要な意味が内包されている。

 「わが民族同士」のモデル事業となることは言うに及ばず、共和国内の幾つかの経済特区運営を成功に導くかどうかの鍵を握っていること、開城工業団地への進出に命運をかけている企業を救うということ、北の「民主度」「統一度」の具体化が試されていること、古都開城市が世界遺産に選定されたことで、南北統一の文化ツールになっていくこと、南北統一を実現するための実践地域になっていること――などを考えれば、南北両政権とも、政治的重要度は理解しているだろう。

 その上での政治的かけ引きが、どれほどマイナス要因となっているかを考える時期に来ているのではないか。


4.
 今回のソウル訪問は、板門店ツアーに参加することが目的であったため、他は観光しなかった。

 それでも、時間を都合して、久し振りの明洞商店街、ソウル市庁舎周辺、漢江公園などの市中を無目的に散策した。

 数年前には経験しなかったことの中で、地下鉄出入り口や路上などで、中年以上の男性が空き缶を置いてぽつんと座っている姿を数人見かけた。

 また、市中では、幾つもの荷物を背負った明らかにホームレスと思われる黒光りする男性にも、数人出会った。

 一方では、某有名免税店が、店舗改装のため、7月中旬までセール(品物によっては7パーセント近くもディスカウント)をしているため、高級車で乗り付けたソウル市民で満員。駐車場の問題等もあり、バスで乗り付ける観光客さえ入れない有様でびっくり。

 日本もそうであるが、人々の経済生活の格差が、想像以上に広がっていることを、短期滞在の数ポイントだけの観光でも実感した。

 だから開城工業団地に進出している123社の稼働中断が長引けば、企業倒産に追い込まれるところも出てくるだろう。

 そうなれば、現在の韓国経済にも幾分かの影響を与えることになり、今後、北の経済特区へ進出する企業の減退を招くだろう。

 それより、朴槿恵政権の対北と経済政策が厳しく問われるだろう。

 南北当局実務協議は、6日朝から7日未明まで、約16時間というロングランで、断続的に続けた結果、一定の妥協点を見出したようだ(双方とも、疲労困憊しただろう)。

 韓国企業関係者が10日から現地入りする。そこで、団地に残っている製品と原材料を韓国側に搬出する。

 一方で、10日に団地内で再協議を行い、中断措置の再発防止について協議する、との内容で一応の合意に達した。

 すべては10日である。

 10日に再協議することで合意したところがポイントである。

 朴槿恵政権が主張し、拘っている「再発防止策」の確定協議問題は、経済関係での2国間取引や契約であれば、重要なことであるから必要である。

 しかし、開城工業団地は、通常の経済契約概念とは違うし、ましてや二国間契約問題でもない。

 同一民族内でありながら、社会主義対資本主義による特殊な契約前約束事が存在する。

 それ故、政治的要素が大きなウェイトを占めることになる(しばしばトラブルが発生するのは政治的要素だ)。

 開城団地の基本は、「6・15」精神であり、「6・15」精神の根本は、民族和解、共同、協力、交流、統一の意志にある。

 今回、操業中断に追い込まれた直接的な原因は、北が再三中止要請をしたにも関わらず、韓国側が3月1日から2ヶ月間、米韓合同軍事演習を強行したからである。

 合同軍事演習の目的は、北を敵視し攻撃するためであるのだから、南北共同事業や交流、統一問題とは徹底的に対立した行為である。

 これまでのことから、開城工業団地の操業は、南北の共同と交流意志が一致しなければ、存続できないことを示している。

 だから南の政権が主張する「再発防止の保証」こそ、朴槿恵政権の統一政策に規定される。

 開城工業団地の操業を再稼働させる意思が朴政権にあるのならば、今後は北側を敵視したり、敵対的行為を行わないとする「保証」を、逆に北側にはっきりと示す必要があったのだ。

 10日に、朴槿恵政権の姿が明らかになるだろう。


                                        2013年7月8日 記

「開城古都の文化遺産登録を喜ぶ」

「開城古都の文化遺産登録を喜ぶ」

                                               名田隆司


 カンボジアの首都プノンペンで開催していた国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は6月23日、朝鮮の開城の遺跡地区を世界文化遺産に登録することを決定した。

 朝鮮の世界遺産は、平壌近郊の高句麗古墳が登録(04年)以来、2例目となる。

 登録決定を議場で聞いた朝鮮の関係者が「すべての朝鮮民族にとって大きな誇りだ」と叫び、国旗を掲げて「マンセー」と、喜びの声を上げていた。

 開城は、高句麗王朝(918~1392年)の首都で、登録が決まった遺跡地区には、王墓跡や城壁、史跡「善竹橋」などがある。

 ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、「高麗王朝が仏教から儒教に移行する時期の文化的、精神的、政治的な価値を内包している」と評価していた。

 また、史跡「善竹橋」は、家臣団保守派の頭目鄭夢周を李成桂が暗殺した場所で、彼は1392年に自ら王位につき、李氏朝鮮王朝を開き、王都をソウルへ移した。

 南北朝鮮にとっては、共通した歴史遺産でもある。

 さらに開城市は、南北軍事停戦線に接する開城地区の中心都市であり、開城工業団地が存在する、現代朝鮮半島を象徴する場所でもある。

 残念ながら開城工業団地は4月に、閉鎖されてしまった。

 南北両政権は、団地再開への着地点をさぐるためにも、6月、予備協議を行ったが、政治的面子を優先し、決裂してしまった。

 だからなおのこと、世界文化遺産登録を機に、南北共同での記念事業と学術討論会を行うことを呼び掛けたい。

 開城の高麗王朝遺跡地区は、朝鮮半島全体の歴史、文化遺産であったことと、そのことで開城工業団地の再開へとつながり、南北交流へとつながっていくと考えるからである。

 是非、開城の文化遺産登録を、南北対話へのキッカケに生かしてもらいたいし、南北政権には、その度量を今こそ示してもらいたいと願っている。


                                       2013年6月26日 記

「『国家保安法』を撤廃せよ」

「『国家保安法』を撤廃せよ」

                                               名田隆司

 
 南朝鮮の検察は6月21日までに、サッカー韓国Kリーグの水原に所属する在日朝鮮人(韓国籍)の鄭大世さんを、国家保安法の違反容疑での捜査を始めた。

 鄭さんが以前、海外のテレビ番組で共和国の金正日総書記を「尊敬している」と発言していたことを、南の保守系の団体が、北をたたえることを禁じている国家保安法に抵触しているとして告発したからである。

 在日の鄭さんは、日本で朝鮮学校に通っていたから、学校内に掲示されていた金正日総書記の写真などは毎日、見ていたはずだから、親近感をもっていただろうと思う。

 そうした生活環境にいた在日朝鮮人にも、同法を適用して処罰の対象にしようとしていることが、すでに同族対決の精神に染まっていて、「6・15時代」とは全く逆行している。

 同法は、李承晩政権下の48年12月に制定され、最高刑を死刑とする、世界の悪法中の悪法である。

 その内容は、①反国家団体の構成とその目的を遂行するスパイ、そしてその支援勢力を処罰する規定、②反国家団体とその構成員、もしくはその指令を受けた者の活動を鼓舞、称揚、同調する行為者を処罰する規定――の2つの部分からなっている。

 統一の相手たる「朝鮮民主主義人民共和国」を反国家団体と規定したうえで、その反国家団体の構成員や同調者などを罰するとしている。

 反共和国を主体とする社会主義国との往来や接触まで禁じている反共法である。

 こうした反共法を制定しているのは南朝鮮だけで、同法が存在する限り、「民主主義国家」を標榜する資格もないし、南北統一(平和的)を主張する政権の資格すらもない。

 同法を制定して以来、時の政権は恣意的解釈権を利用して、政権批判を抑え込む道具として利用してきた(同法を多用した政権ほど、反北指向であったことが証明される)。

 特に李承晩時代はすさまじく、49年だけで11万8621名が同法によって逮捕(国会議員16名を含む)されている。

 続く朴正煕・全斗煥の両軍事政権時代も、「韓国中央情報部」(KCIA)の強権とともに、民主化社会の発展と成長を阻んできた。

 当然、同法の廃止要求の声は挙がっている。

 金大中・盧武鉉両政権の10年間、同法の廃止実現が近付いてはいたが、逆に同法によって温存されていた旧親日派と親米派勢力などから、政権をゆさぶられていた。

 さすがに日帝植民地時代の血筋を引く国家保安法だけあって、同族対決に利益を見出してきた者たちによって守られてきたようだ。

 ここに一つ、悲しむべきエピソードがある。

 2000年6月、金正日総書記と金大中大統領の首脳会談が開催される直前、南北当局者での協議のこと。

 北は、金大中をはじめ全員に、平壌到着後に「クムスサン記念宮殿」(金日成主席の遺体との対面)への訪問を要請した。

 ところが、南では、金日成主席を朝鮮戦争時の「侵略者」と規定していたから、主席への敬意表明は、国家保安法でいう「鼓舞・称揚・同調」(鄭大世さんにも適用)に抵触するからと、拒否をした。

 なお、北側は、同族間の挨拶として必要だと主張したため、首脳会談さえ危ぶまれる場面があった。

 そこで南側は、幹部の一部(長官も含む)が首脳会談前に宮殿を訪問し、先に帰国して国家保安法違反の容疑で逮捕されることにすると説明。

 結局、この問題が首脳会談時まで持ち越されてしまったが、金正日側が交流・協力関係を優先し、宮殿訪問の件は取り下げた。

 このエピソードはまだ公表されていないけれど、同法のおかしさを示すものとなっている。

 ところで、李明博政権下の5年、国家保安法違反容疑を乱発している。

 そのため、同法による強制捜査、逮捕、拘束、起訴、長期刑の宣告などが横行していた。

 5年間での検挙、立件数が482件と、一つの政権では、全斗煥政権以来の多さを表現している。

 鄭大世さんの場合も、反共・反北姿勢の李明博政権社会のとばっちりを受けたものと考えられる。

 21世紀に入ってもなお、このような反共法を保持し、その魔の手によってでしか、政権を延命できないということに対して、恥ずかしさを感じることはないのだろうか。

 現朴槿恵政権は、民主化(南の)と北との対話を掲げているが、国家保安法を存続させたままでは、矛盾していることにまずは気付くべきだ。

 真に北との対話と交流を願っているのなら、国家保安法など、さっさと撤廃することである。


                                       2013年6月24日 記
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