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「朝米高官協議を呼び掛ける」

「朝米高官協議を呼び掛ける」

                                               名田隆司


 朝鮮国防委員会報道官は、16日、「重大談話」を発表した。

 重大談話では米国に、軍事緊張の緩和、停戦協定の平和協定への転換、朝鮮半島の非核化を含む「核なき世界」の実現、双方が議論を望むさまざまな問題――についての、朝米高官協議を提案した。

 会談の日時、場所などについては、米側の都合の良いように決めればよいとし、無条件での対話再開を要求した。

 オバマ米政権は、「(北朝鮮の)非核化に向けた具体的行動」を対話条件にしているから、朝鮮からの対話要請には素直に応じない構えを崩さないだろう。

 しかも日米韓3カ国外交当局者会議が19日、ワシントンの国務省で予定されているから、そこでの意見交換を経たのち、朝鮮に「非核化」を前提とした行動要求との、米国の立場を表明する可能性がある。

 さて、ここで真剣に考えなければならない問題は、朝鮮半島の危機の現実は何か、ということである。

 世界は、そのことについて論じてきたはずだ。

 その危機の根源こそは、朝鮮戦争停戦協定体制下の朝鮮半島情勢であった。

 だから今回の、朝鮮国防委員会報道官の「重大談話」も、米国と行う協議の第一に、(朝鮮半島の)軍事的緊張の緩和、停戦協定の平和協定への転換を挙げている。

 朝鮮の主張は何も、朝鮮の政治安定だけのものではなく、また朝鮮半島の平和安定を求めるだけのものではなく、それは、冷戦体制が朝鮮半島で停っている現実を終結させるとの、全世界共通のテーマであったのだ。

 朝鮮半島の冷戦体制、停戦協定体制を維持したい米国は、朝鮮半島の危機の根源の全てを、朝鮮側に求めてきた。

 その上で、朝鮮半島の中心議題は、北朝鮮の核政策放棄にあるとの喧伝を続けて、問題外しを行ってきた。

 だが、米国は、管々しい理屈を言う前に、朝米高官協議のテーブルに座るべきだ。

 米国史観しか持ち合わせない人々の意識には、「朝鮮半島の非核化」ではなくて、「北朝鮮の非核化」表現だけが、問題のようにして「問題化」しているのだろう。


                                       2013年6月17日 記
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「米中は何を語ったか」

「米中は何を語ったか」

                                               名田隆司
 

 オバマ大統領と中国の習近平国家主席の米中首脳会談が7日午後と8日午前(現地時間)、米カリフォルニア州パームスプリングス近郊ランチョミラージュの保養施設で行われた。

 米中首脳会談は、自他ともに認める「2大国時代」の到来を示していた。

 米中の首脳も、世界を仕切っているかのようにして、国際政治への意見調整を語り合っていた。

 その両国にとって、朝鮮半島情勢は共通の「懸案」事項だとして、じっくり意見交換をしたであろう。

 現在のオバマ政権は、北朝鮮の非核化に向けて圧力強化を政策化しており、そのことを中国にも要請していた。

 中国の習近平政権も、北朝鮮制裁の国連安保理決議に賛成をし、さらに金融制裁まで実施して、米国の要請に応えている。

 その上で、6カ国協議の再開など、米国が朝鮮との対話の席に座ることを要請した。

 さすが、現代帝国主義国家の米中だけあってどちらも自国にとって都合がよい問題解決プランを、朝鮮半島にあてはめて語っていた。

 米中両国は、現在の朝鮮半島情勢を、どのように理解しているのだろうか。

 現実は、朝鮮が米国から核戦争の脅威に晒されている、という事実である。

 だが米中両大国は、現実と事実を見ずに問題解決のポイントをずらして語り合っている。

 中国が米国に対して、朝鮮への核脅威政策を注視することが言えなくなってしまった政治姿勢こそ、中国の「中華思想」が現実政策化していることを物語っている。

 朝鮮半島情勢とその決着点を話し合うのであれば、誰であれ、朝鮮側の政治的意見をしっかりと聴き、朝鮮半島の根本問題を解決する必要がある。

 2大国だけの都合で勝手に決めるような政治姿勢では、朝鮮半島「問題」は決して解決はしない。

 

 一方、南北朝鮮は、9、10日の両日、板門店「平和の家」(南側の会談場)で開城工業団地再開など、協力・交流に向けた実務者協議を行った。

 12、13の両日、ソウルで高位級の当局会談を開くことで合意した。

 予定通り、開城工業団地と金剛山観光の再開問題、離散家族再会問題などを議題としたが、会談代表者級の問題や他の議題では、合意できなかった部分も残った。

 南北両政権側は、会談を先行させたいとの思惑があるため、会談前の食い違いを、会談そのものによって乗り越えようとするかも知れない。

 このソウル会談が、今後の南北朝鮮の政治行動を占う試金石になるだろう。

 ただ、南の朴槿恵政権周辺が、米国の対北朝鮮敵対政策に調子を合わせた「先核放棄」「挑発行為」「信頼プロセス」などと発言しなければ、会談から協力へと発展していくだろう。


 
 6月11日、以上の希望的観測の原稿を書き終え、午後から出掛けていた。

 ところが、夜遅くのニュース(ラジオ)が、「12日から予定されていた南北当局会談について、北朝鮮側が一方的に行わないと通告してきた」と伝えたのを聴き、一体、何をしているのだろうかと、がっかりした。

 首席代表レベルをめぐっての合意が、名簿を交換した段階で、予備会談中の不信感情が、表面化したのだろうか。

 外交では「面子」も大切な一要素だが、南北対話は外交ではない。双方が「わが民族同士」を認識するなら、「実利」を重視すべきではなかったろうか。


                                      2013年6月11日 夜半

「南北対話が再開するか」

「南北対話が再開するか」

                                               名田隆司


久方振りに、朝鮮半島からうれしいニュースが届いた。

 朝鮮の祖国平和統一委員会(対南窓口機関)の報道官が6日、南北経済事業の開城工業団地の正常化、中断している金剛山観光の再開、離散家族再会事業などを話し合う南北当局間会談開催を、南朝鮮側に提案したというニュースである。

 韓国統一省の報道官も「肯定的に受け止める。当局間会談が南北の信頼を積み重ねる機会となることを望む」として、南北会談を受け入れる方針を表明したことも、同時に伝えていた。

 この早い反応が、いい結果を生むだろう。

 3~4月の緊張激化、朝鮮停戦協定の白紙化を宣言したことなど、朝米間、南北間ともに対立悪化していたことから、開城工業団地も閉鎖に追い込まれた。

 私は以前から、開城工業団地は、南北朝鮮の協力発展を示す象徴であると同時に、統一事業へのツールだと考えていた。

 そればかりか、朝鮮の貿易と経済特区政策の今後を占う地域でもあるとも考えていた。

 南北朝鮮とも、「6・15共同宣言」「わが民族同士」の象徴的な場所として、重要視してきたはずだ。

 だから工業団地の閉鎖は、直接的に政治関係の対立につながるが、いずれかの段階で再開へのシグナルが出てくるだろうとも、楽観視していた。

 だから、南北両朝鮮は対話再開への、タイミングを探っていたと思われる。

 6日に朝鮮が対話を提案した理由には、米中首脳会談前のオバマ米政権への返球(米が要求していた対話)であり、朴槿恵大統領が27~30日に中国を訪問し、習近平国家主席との首脳会談前のボールであり、「6・15」13周年と「7・4」(72年の南北共同宣言)41周年への統一行動呼び掛けへの、それら直前のぎりぎりの日程を選択したのだと考えられる。

 韓国の柳吉在(リュウ・キルジェ)統一相は同日(6日)、早速、12日に閣僚級協議をソウルで行うことを提案した。

 これに対して朝鮮側は、9日に開城での実務会談開催で返答をした。

 その実務者会談の場所も開城で、板門店でと、双方が主張し合っている。

 どちらも対談主導権を得るための、ちょっとした探り合いをしているようだ。

 しかし、朝鮮側は、板門店での南北間電話チャンネルを、7日午後2時から再開していたため、一本、対話への糸はつながっていたことになる。

 その細い糸から、大きな成果が実現していくことを、南北どちらも考えているのだろう。


                                        2013年6月7日 記

「朝鮮半島の核白書(2013年)」

「朝鮮半島の核白書(2013年)」

                                               名田隆司


1.はじめに

 朝鮮半島の核危機、核問題が喧伝されて久しい。
 
 特に今年は当初から、核戦争前夜への危険ラインに達したため、世界は憂えていた。
 
 再び、このような危機が、朝鮮半島に訪れてはならない。

 これまで私はそのことを強く願い、主張し、活動してきた者の一人として、危機を仕掛けている犯人たちに対して、怒りを強く持った。

 そこで、このような朝鮮半島の核危機の真相と本質を明らかにすることこそ、焦燥の問題の問題であり、危機を回避する問題としても重要だと考えて、この稿を執筆することにした。

 そのことはまた、今日の朝鮮問題の本質がどこにあるのかを、明確にすることでもあると考えたからである。

 朝鮮半島はその地政学的な関係から、古くから周辺大国の利害関係が尖鋭的に絡む重要な地域となっている。

 また、歴史的な関係においても、国際政治が重層的に絡む、高度で複雑なポイントにもなっていた。

 19世紀中葉以降、帝国主義国たちの権益争奪戦の最終地点となってしまったが、米国と密約を交わした日本帝国主義政権が、結局は、朝鮮王朝を手に入れてしまった。

 その構図が、現在の朝鮮半島の核問題にも影を落としているようで、朝鮮民主主義人民共和国 (以下、朝鮮)対米国と日本の対決へと繋がる因果を含んでいると思う。

 その意味で現在の朝鮮半島の核問題は、決して朝鮮半島内での南北対決問題だとか、一国内(北または南の政権)での地域紛争問題だという矮小化された問題ではない。

 現在の核問題こそは、米国が南朝鮮に占領して発生したのであるから、米国を含む周辺国との国際政治上での政治的対決だと言う事ができる。

 残念ながら日本自身もまた、朝鮮半島での核問題と深くコミットしており、その責任を免れることができない位置に立っているとの、自覚が必要である。

 朝鮮半島の核問題の根源は、米国が1945年9月に南朝鮮を占領し、70年近く経ってもまだ占領政策を維持し続けていることから、発生している問題である。

 米国の歴史は、民主主義と自由主義開拓のチャンピオンの如く、自らも語っているが、白人至上主義的で、人種差別観を内包した現代帝国主義国家である。

 特に、アジア人種(黄色人種)への軽視観は甚だしく、基本的には、日本人・朝鮮人・中国人の歴史、文化、社会、制度への理解力に大きく欠けている。

 学識上でのすぐれた研究も散見できるが、現代米国政治は、帝国主義的なうえに、アジア人への偏見、蔑視観によってでしか、日本も朝鮮も理解していない。

 米国のアジア侵略史は、太平洋を西進すれば必ず日本列島に到着することから、日本との関係が重層的に織り込まれている。

 だから、朝鮮半島の核白書を論じるこの原稿も、朝鮮王朝に浸食していく米帝国主義の姿勢と日本との関係を、簡単に概観することから始めようと思う。


2.近代史の朝米関係

 広大な太平洋を越えて米勢力が朝鮮半島に到着するのが、記録上では1845年である。

 この年、米艦隊が入港し、朝鮮王朝に通商を要求したとある。

 王朝側は米国の要求を拒否しているものの、1840年代は、ヨーロッパ勢の外国船が朝鮮近海に頻繁に侵入し、通商(貿易)を要求し、あるいは住民を殺傷したりして、朝鮮を脅かしている。

 ちなみに、ペリー米艦隊は1853年に日本の浦賀に入港し、翌 1854年に日米和親条約を結んでいる。

 その後の米国は、南北戦争(1861-65年)のため、アジア近海に出没する余力がなかった。

 その間を、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ帝国主義勢力が、朝鮮への武力的な侵入を試みていたが、ことごとく失敗している。

 南北戦争後の米国は、それまでの遅れを取り戻すかのようにして、朝鮮に乱暴な姿を見せるようになる。

 1866年3月、米商船「サーブラル」号が釜山に漂着。
 
 1866年8月15日、米海賊船「シャーマン」号が大同江から侵入し、古代王墳を盗掘し、略奪と住民たちへの殺戮を繰り返した。怒った平壌の人民たちは8月20日、シャーマン号を大同江に撃沈した。

 1868年4月10日、米海賊船「シェナンドア」号が大同江の下流に侵入して、不平等条約を要求している。

 同年5月10日、米「チャイナー」号が徳山郡伽揶洞に侵入し、南延君の墳墓を盗掘したが、人民たちの反撃をうけて逃亡した。

 1871年5月26日、米アジア艦隊が忠清道海美に不法侵入し、通商を要求。

 同年6月、江華島に侵入した米艦隊を、朝鮮人民たちが撃退した。

 同年10月、江華島の草芝鎭に侵入した米侵略者を、朝鮮人民たちが撃退し、11月の広域鎮戦闘でも米侵略者を完全に撃退した。

 この頃の朝鮮王朝側は、他のヨーロッパ侵略者たちを撃退し、「辛未洋擾」としているが、それ以降軍事力を高めなかったことが、王朝の崩壊を早めたようだ。

 以上、1871年の時点での米国は独自での朝鮮侵入を、朝鮮人民たちによってことごとく撃退されていた。

 一方、この頃の日本列島の権力機構は、米英ら列強の後押しによって、近代天皇制国家形成の起点、明治維新期を迎えていた。

 1868年1月鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争開始)
 同年 9月8日年号を明治と改元(明治維新)
 1871年7月廃藩置県
 1873年10月征韓論争に放れた西郷隆盛、板垣退助らが下野
 1874年5月台湾侵略

 以上のように、日本は近代的な姿を現すと同時に、帝国主義・侵略主義国家の衣を急いでまとい、先進帝国主義国家がまだ浸食していない、近隣の沖縄・台湾・朝鮮への侵略の検討と実行から始めている。

 特に朝鮮への侵略・侵攻については、先行の米国および英国からのアレンジを十分に得たうえで動き出している。

 米国もまた、太平洋の遠距離を埋める意味もあってか、日本を活用しての朝鮮侵略政策 (現在も同じ)へと転換している。

 米国から朝鮮情勢、近海の軍事施設や能力などの情報を得た明治政権は1875年9月20日、軍艦「雲揚」号を江華島(漢江河口)に侵入させると、朝鮮沿岸で海軍演習や不法な海路測量を行った。

 このため朝鮮側守備隊は、この不法侵入者を砲撃した。

 すると日本は、朝鮮側からの砲撃(旧式のため、雲揚号までは届いていない)を理由にして、草芝鎮・永宗島を攻撃した。(江華島事件)

 翌年2月26日、江華島事件を抗議して全権大使黒田清隆らを送り込み、軍事的圧力をかけて、「日朝修好条規」を強制した。

 この使節の副使に井上馨がいた。

 井上は、出発前に駐日米公使ビンガムから、「ペリーの日本遠征小史」を贈られている。

 内容は、ペリーが武力的脅威で日本に不平等条約を押しつけた実例が、記述してあったからである。

 米公使(米国)は、日本(井上)に朝鮮を侵略する際の「外交的手口 (武力的圧力)」を教授していたことになる。

 列強に先駆けて日本が、朝鮮の開国第一歩を実現させたのは、米国からのアドバイスと政治的バックボーンがあったからである。

 この江華島条約こそ、日本が外国に初めて不平等条約を強制したものとなった。

 朝鮮を「独立国」として承認し、清国との宗属関係を否認し、釜山など3港の開港による通商、日本の一方的な領事裁判権などを規定した内容は、米国が日本に強要した不平等条約への趣意返しになっている。

 清国からの宗属関係を否認し、朝鮮を「独立国」として承認するとした文言こそ、狡猾な帝国主義表現である。

 日本が朝鮮王朝の「近代国家」への窓口を開けたため、米海軍提督シュベルトも 1880年5月4日、朝鮮王国との「朝米修好条約」を交渉するために、易々と軍艦を釜山港に入れることができた。

 2年後の82年5月22日、朝米通商条約を調印した。(当然といえば当然のことのように、米国の強制による不平等条約であった)

 日本、米国が強要した朝鮮王朝の「窓口」から、イギリス(82年6月)、ドイツ(82年 6月)、イタリア(84年6月)、ロシア(84年7月)、フランス (86年6月)などが、続々と帝国主義的魔の手を伸ばしてきた。

 1883年5月13日、初代の駐朝米国公使ブウットが着任し、ソウルに入る。

 これ以降、日本と米国が朝鮮での権益を追及する場合、障害国として登場してきたのが、ロシアと清国であった。

 米国は日本の肩を押しつつ、朝鮮半島からのロシアと清国排除を、裏面で日本を支えながら、自国の利益をしっかりと追及している(危険な仕事は他国にやらせて、裁判官的な立場から利益を手中にするという、現在も同様のことを行っている)。

 米英の政治力に押し出された日本は結局、清国とロシアに戦争を挑むことになる。

 日清戦争(1894年8月~95年4月)と日露戦争(1904年2月~05年9月)である。

 ロシアとの講和会議は米国のルーズベルト大統領の斡旋で、米国のポーツマス軍港で開かれた。

 戦争を続けるだけの余力がなかった日本は、賠償などの要求を放棄して、なおかつ米国の力を借りたうえで、朝鮮における日本の優越権を承認させることで、かろうじて講和をまとめることができた。(9月5日調印)

 ところで、日露戦争講和会議の直前に、米大統領特使タフト陸軍長官が来日し、桂太郎首相と秘密の覚書き(7月29日)を交わしていた。

 この「桂・タフト協定」こそ、日本が朝鮮を「併合」することと、その以後に至る、朝鮮半島をめぐる日本と米国との「黒い」関係への示唆であった。

 「桂・タフト協定」で日本と米国は、米国のフィリピン統治と、日本の朝鮮に対する優越的支配を相互に認め合い、極東の平和維持は日・米・英の3カ国が協力していくことを、規定していた密約であった。

 そうした日米間の帝国的意思が、ポーツマス条約にも反映し、日本の朝鮮半島支配権を容易にしたことは確かである。

 米国は日本をコントロールすることで、朝鮮半島からの利益を受けることを考えていたが、やがて、日米間は軍事的な対立と戦闘を交えることになる。


3.朝鮮独立の約束

 カイロ宣言(43年11月27日)、ヤルタ協定(45年2月4日)、ポツダム宣言 (45年7月 26日)の国際3宣言は、いずれも朝鮮の独立を保障していた。

 特に、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席が、エジプトのカイロで対日戦について協議して調印・発表したカイロ宣言が、戦後の日本の領土問題の処理方針を規定し、それが基礎となっている。

 それによると、第一次世界大戦以後に日本が奪った地域の剥奪、満州・台湾の中国への返還、朝鮮の独立などを決め、日本が無条件降伏するまで3カ国は力を合わせて戦う、としている。

 以後、ヤルタ協定もポツダム宣言も、カイロ宣言の内容を確認している。

 従って米国は、ヤルタ協定以降45年8月までのソ連との協議・密約・確認で、日本のファシズム体制を早く効率よく解体することが第一義であって、ソ連との対立プログラムはまだ確定していなかったと思われる。

 広島(6月6日)、長崎(8月9日)へと2発も続けて日本に原爆を投下したのは、ソ連との戦略上の問題というよりは、人体への被害データを得るという側面が強かったのではなかろうか。

 その対象となる日本人は、アジア人(黄色人種)であったから、トルーマン大統領自身の潜在意識に、欧米人(白人)特有の人種的偏見(白人優位)意識があったのではなかろうか。

 そのことは、21世紀の現在においても、米国が朝鮮への核恫喝を平気で政策化していることによって、表現しているようだ。

 米国の対朝鮮核恐喝政策は、決して、朝鮮半島の戦略上における核政策問題だけとは言えず、そこには米国人的アジア人蔑視観が作用していると考えることができる。

 日本がポツダム宣言を受入れ、無条件降伏することを表明した直後から米軍は、無線で朝鮮総督府に対して、米軍が朝鮮半島に上陸するまでは、親日派を活用したままでの統治を続けることを指示していた。

 何の事はない、かつての「桂・タフト協定」が再現されたようなものである。連合国軍(米軍)最高司令官は9月2日、38度線を、米ソ両軍によって日本降伏接収の境界線として規定したと、発表している。

 そして9月8日、米軍は仁川からゆっくりと上陸し、ソウルで日本側代表との間で降伏文書に調印(9日)し、 11日に軍政実施の方針を発表して以後、今日まで南朝鮮に駐屯(占領)をしている。

 さて米軍は、日本軍の武装解除と、朝鮮半島に民主政権(米国寄り)を樹立する目的のためにだけ、仁川から南朝鮮に駐屯してきたのだろうか。

 韓国の現政治家、官僚、軍人、企業家の一部には、そのように信じている人たちがいる。

 そのような彼らでも、今日までの米国の隠された黒い本質を知って理解するなら、反米へと転換するのではなかろうか。


4.米軍が引いた38度線

 話を先へ進める前に、朝鮮の分断を決定付けた2つの事柄、分断線として引かれた38度線と朝鮮信託統治問題について、改めて決定された内容を整理しておこう。

 分断線としての北緯38度線の決定根拠は、45年2月11日のヤルタ協定(ソ米英3カ国首脳の秘密協定)にまで、さかのぼる必要があるだろう。

 秘密協定であったから、当時は公表されていなかったので、ソ連参戦に関しても、朝鮮に米ソ両軍が進駐することに関しても、朝鮮半島での日本軍の関係などについても、勝手なことが推測されていた。

 戦後の46年2月10日になって、ヤルタ協定調印3カ国が、その内容を発表したために、疑問としていた米ソの関係と軍事行動が、後付けで理解できるようになった。

 ヤルタ協定は、「3国の指導者は、ドイツの降伏後2,3カ月以内に、ソ連は、連合国の一翼として、つぎのような条件のもとに、日本に宣戦することを約束する」としていた。

 この秘密協定での約束で、ソ連は対日戦に参戦し、カイロ宣言とポツダム宣言に参加するようになったのだ。

 ソ連が対日戦に参戦したことで、米ソ両軍による朝鮮分割占領(日本軍武装解除という名目の)プランの必要性が、米国内に生じていた。

 日本政府から「ポツダム宣言」を受諾する(8月10日)との提議を受けた米政府は翌11日に、国務省・陸軍省・海軍省の合同調整委員会を開き、朝鮮を北緯38度線で南北に分断し、以南を米軍が、以北をソ連軍がそれぞれ占領し、日本軍の降伏受理と武装解除に当たるプランを、急ぎ仕上げた。

 この案が13日にトルーマン大統領の裁可を得て、15日に米陸軍太平洋司令官マッカーサーへの「一般命令第1号」として出された。

 同時に、ソ連と英国両政府にも、その内容が伝えられた。

 ソ連のスターリン首相は16日、米提案の38度線分断の設定を受諾すると、米政府に通告した。

 このように米政権中枢部が38度線での分断を決定した意図は、決して、日本軍の武装解除をするソ連軍との分担境界線、一時的な臨時線としてではなく、南朝鮮で米軍が永久に安定して駐留できるための分断線、共産主義勢力との分断線を当初から考えていたのではなかろうか。

 米軍政庁が早々と38度線の無許可越境を禁止(46年5月26日)にしたこと、米ソ共同委員会で決められていた軍部隊の撤退を拒否(48年12月にソ連軍は撤退している)したこと、米韓相互防衛援助協定の仮調印(50年1月26日)していること、などの諸点などから、当初から米軍永久駐屯化政策を推進していたことが疑われる。


5.モスクワ3相会談の決定

 信託統治案は、もともと米国が持っていた戦後処理方針への、一つの政策であった。

 植民地および占領下で、穏健な民主主義勢力を発展させながら、米国の政治経済の影響力を浸透させていくという、現代帝国主義・植民地主義政策であった。

 この政策を、日本の敗戦によって解放された朝鮮半島に適用することを決定した米国が、そのことを初めて外交上語ったのは、43年にルーズベルト大統領がイーデン英外相と行ったワシントン会議であった。

 その後、カイロ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの各会談を経て、貝体化されていった。

 朝鮮信託統治構想は当然、米国主導によって進められ、その用意がなかったソ連は受動的に同意(朝鮮の解放、独立という点で)していった。

 しかし、日本の降伏が予想外に早かったため、朝鮮半島を米ソ両国が分割占領することの話が先行してしまった。

 45年12月、モスクワにソ連のモロトフ外相、米国のバーンズ国務長官、英国のベヴイン外相が集まり、戦争中に構想していた朝鮮半島の信託統治案を協議した。

 米国は、朝鮮人の参加を制限した「統一施政構想」を設置し、「米・英・中・ソ4カ国代表から構成された執行委員会が権限を遂行」し「統治期間は5年を越えないこと」などを骨子とする案を提示した。

 信託統治は本来、国際連合監視下で、特定国家が特定地域に対して実施する特殊な統治制度である。

 米国のプランは、関連機関に代えて戦勝4カ国(中国は蒋介石政権)が権限を執行し、「施政機構」には朝鮮人の参加を極力制限するとの内容であった。

 これでは朝鮮人主体の政府づくりにはならない。

 一方のソ連は、「朝鮮に独立を付与するための臨時政府樹立と、その前提としての米ソ共同委員会の設置」などの案を提示した。

 ソ連案の方は、米国の信託統治案からは遠く、朝鮮の独立・自主政府の樹立に重点を置いていた。

 その後の朝鮮情勢、または米国政治の本質を見抜くためにも重要なので、決定した内容 (4項目)を掲げておく。

「モスクワ3相会議の決定」

1 朝鮮を独立国として復興させ、朝鮮を民主主義の原則の上で発展させ、長期にわたる悪辣な日本の統治の結果を速やかに清算する諸条件を創造する目的で、朝鮮民主主義臨時政府が創建されるであろう。臨時政府は朝鮮の産業、運輸、農村経済および朝鮮人民の民族文化発展のために必要なあらゆる方策を講究するであろう。

2 朝鮮臨時政府組織に協力し、これに適応する諸方策をあらかじめ作成するために、南朝鮮米軍司令部代表と北朝鮮ソ連軍司令部代表により、共同委員会を組織する。委員会は自己の提案を作成する時は、朝鮮の民主主義の諸政党および社会団体と必ず協議するであろう。委員会が作成した建議文は、共同委員会の代表である両国政府の最終的決定がある前に、米・英・ソ政府の審議を受けなければならない。

3 共同委員会は朝鮮の民主主義臨時政府を参加させ、朝鮮民主主義諸団体を招いて、朝鮮人民の政治的・経済的・社会的進歩と民主主義的自治の発展、朝鮮の独立が確立されるよう援助協力(後見)する諸方策も作成するであろう。共同委員会の提案の効力は、朝鮮臨時政府と協議後、5年以内を期限とする。朝鮮に対する 4カ国後見の協定を作成するためには、米・英・ソ・中政府の協同審議を受けなければならない。

4 南北朝鮮と関連する緊急な諸問題を審議するために、そして、南朝鮮米軍司令部と、北朝鮮ソ連軍司令部の行政および経済部分においての日常的調整を確立する諸方策を作成するために、2週間以内に駐屯する米ソ両国司令部代表によって会議を招集されるであろう。

 以上の決定内容は、米国案が大幅に修正されて、ソ連案が採用されている。

 日帝の統治結果を速やかに清算するとしている部分は、米軍政庁が親日派を活用して統治している現実の南朝鮮とは、大きく矛盾した表現となっている。

 朝鮮の多くの民主主義諸政党・社会団体からなる「朝鮮民主主義臨時政府」を樹立することを目的に、4カ国は「後見国」として協力し、それも5年以内を限度に努力をしていくとのモスクワ決定は、米国が考えていた信託統治構想とはほど遠く、決して米国が満足していたとは思えない。

 米軍政庁が南朝鮮で報告(45年12月27日)した内容は、米国は即時独立を主張し、ソ連は信託統治案を主張したと、事実とは正反対のことを告げて、ソ連を悪者に仕立て上げてしまった。

 「独立」とした表現のところを「信託統治」と読み替えて、朝鮮の独立を阻んでいるのはソ連だと、左右の勢力を対立させて、朝鮮民衆の人心を米国側に引き寄せようとの、悪辣な戦術をとった。

 即時に独立を期待していた朝鮮人たちは、米軍政の報告を聞いて、半ば落胆し半ば怒りを表明した。

 南朝鮮の左右両派とも「反託・即刻独立」を叫んで、モスクワ会議決定の反対運動を表明した。

 一方、ソ連から朝鮮の独立を保障する会議内容を聞いた北部朝鮮では翌46年1月2日、各政党・社会団体がモスクワ会議の支持を表明した。

 北からの情報でモスクワ会議の真相を知った南朝鮮の左派・中間派・一部右派の人たちは、会議決定を支持した。

 こうして南朝鮮では、「信託統治」をめぐって、賛成と反対の峻烈な闘争が繰り広げられていったのだ。

 朝鮮人にとっての信託統治は、独立・自主を意味するものではないのだから、反対を表明することが、独立を希望する自らの意思に適っているのだが、それを李承晩ら極右勢力が叫んでいたところにこそ、南朝鮮を支配していた米国政治の結果だったと言えよう。

 米国にとっては、モスクワ会議決定を壊すことが目的であったのだから、「信託統治反対」はモスクワ会議決定反対と、同義語の意味であったのだから。

 だから、「信託統治」賛成・反対と表現して、当時の朝鮮半島のたたかいを紹介しているのは、正確な歴史表現とは言えない。

 あくまでも「モスクワ3相会議決定」での賛成・反対とすべきである。

 米国にはモスクワ会議を実施する気はなかったのだから、「反対」運動の声を大きくして米ソ共同委員会に臨む戦略を立てたのだと思われる。

 第1次(46年5月から)、第2次(47年5月から)とも成果もなく、47年10月20日には、米ソ共同委員会を決裂させてしまった。

 それは予定した行為であった。

 だが、そこに現れた後遺症こそが深刻で、米帝国主義者を南朝鮮に居座らせることになってしまったのだ。

 南朝鮮内部に左右両派の感情的対立をあおり、反共・反北・反ソ・反左翼の意識を植え付けて、米軍駐屯の必要性を強要しつつ、朝鮮戦争へと誘引したことは、最も許せないことである。

 以上、米国の朝鮮半島政策のうち、南北を分断し統治するという、その象徴的な2つの事柄について考察してきた。

 米国は46年後半頃から、ソ連との対立を意識しており、トルーマン大統領が共産主義「封じ込め」政策を発表するのは、47年3月議会での一般教書演説であった。

 '米国の反ソ・反共政策が朝鮮半島にも忠実に反映したのが、先の2つの事柄を決定し実行したものである。

 しかも、ロイヤル米陸軍長官が48年、「日本を共産主義の防壁とする」(「ロイヤル声明」)と発言、対日政策を右へと転換(講和と再武装化路線)していく。

 米国のアジア戦略・政策にとって、日本と朝鮮半島とは不利一体であったことを示す事例である。


6.朝鮮戦争

 朝鮮戦争時の50年11月30日、トルーマン米大統領は朝鮮に「原爆の使用もある」と言明した。

 当時の朝鮮戦線は、中国人民志願軍が「抗米援朝」のもとに参戦(10月25日)し、米軍が敗走を続けていたときであった。

 だからトルーマンには、敗北感を打ち消すための発言であったのかも知れず、後には自らの発言を撤回した。

 とは言うものの、以降の朝鮮戦線では常に核兵器の脅威がつきまとい、朝鮮人民軍側はそれとのたたかいともなった。

 事実、その後も2回ほど、米軍の将官が原爆投下を示唆していた。

 トルーマン大統領をはじめ米政権、軍将官たちは、日本の広島・長崎に投下した原爆被害の調査報告書や写真類などを見ていて、核兵器が人体や環境に及ぼす惨状を、よく理解していたはずだ。

 そうであれば、どのような状況でも原爆の使用は、2度と実施してはいけないことぐらいは、常識的に判断できていたろうと思う。それにも関わらず、朝鮮戦線での使用を口外したのは、アジア人への人種偏見、差別観があったからではなかろうか。

 日本人と同じように朝鮮人も黄色人種でアジア人であったから、米国人の人種的偏見意識からの結論であったろうと思われる。

 その意味で、現在もなお朝鮮に核恐喝政策を平気で行っているのは、米国にアジア人への人種的偏見が根底にあるからであろうと思う。

 この人種的偏見性向は、朝鮮戦線ではその後、化学細菌兵器まで使用している。

 化学細菌兵器の実験と使用は、日本の旧731部隊が旧満州で、朝鮮人および中国人を対象に行っていた。

 米軍が朝鮮戦争で使用したものは、まさに731部隊が開発したものである。

 当時の日本人(731部隊や旧軍人たち)は、朝鮮人と中国人に対する極端なまでの人種偏見、蔑視観をもっていた。

 悪魔の兵器と言われる原爆や細菌兵器を平気で使用するのは、その対象者に対する強い人種差別・偏見を持っているからであろう。

 朝鮮戦線の戦闘は、38度線付近の鉄原、金化、金城、亥安、杆城の線で一進一退していたため、米国の戦闘的意思は落ち込み、休戦協定をまとめようとしていた。

 だが、相変わらず北侵統一論に拘っていた李承晩は、「われわれは統一が目的であり、いま休戦することは国土の分断につながる。だから休戦会談には反対である。これが韓国の立場である」と主張していた。

 リッジウェイ国連軍司令官に説得された李承晩は、休戦会談上に、「国連軍」側4人の代表のうち、帝国軍の将軍を一人送り込んだ。

 李承晩の怒りに対して米軍は、停戦協定調印直後に米韓同盟条約となる「米韓相互防衛条約」(53年10月1日、54年11月18日発効)を調印した。

 この同盟条約こそ、米軍の韓国駐屯を法的に支え、永久的なものとした。

 これこそが、米国が韓国に要求していたものであったろう。

 「両国は各当事国の行政支配下にある領土を脅かす太平洋地域における武力攻撃を自国の平和と安全を脅かすものと認め、共通の危険に対処するため各自の憲法上の手続きに従って行動する」(第3粂)としていて、米国が防衛義務を負うのは、韓国が武力攻撃を受けた場合に限られていた。

 日米安保上の日本と米国との関係と共通するものかあり、米帝国主義一流の手管となっている。

 また、大田協定(50年7月14日調印)で、韓国軍の作戦指揮権(94年12月、平時作戦統制権は返還)まで委譲していたから、米軍は占領軍、韓国軍は植民地の一部隊にしか過ぎない異常な状況が、続いていたことになる。

 米国は60年間、この米韓防衛条約の存在を根拠に、朝鮮半島での準戦時状態(冷戦体制)を維持して、朝鮮停戦協定に定められている平和協定(朝米講和)を締結することを拒んできた。

 そればかりか、朝鮮に対して核脅威を仕掛けては、朝鮮半島核危機を創作してきた。

 それもこれも在韓米軍の存在証明のためであったのだろう。


7.米の核政策

 米国人の自意識には、自国の資本主義体制(自由主義)と民主主義を、異なった文化地域に単純に移植できると思っているし、それが使命だとも考えている。

 他国の内政に干渉する権利までもがあると、平気で考えている節がある。

 政治指導者の場合、合衆国だけが国際問題の解決策を持っているとの優越感に浸り、共産主義社会やイスラム圏(キリスト教文化圏以外)の脅威、または世界規模の介入主義などの権利と力も持っているとの、倣慢さと固定観念、錯覚にとらわれている。それが米国政治、文化の欠点であるなどと、考えたこともない。

 米国人にいまなおケネディ人気があるのは、上記のような米国人気質を体現していたからではなかろうか。

 60年代の初め、ソ連(フルシチョフ政権)の軍事力の伸張、ベトナム(インドシナ関連)への懸念に対するケネディの答えは、米国精神を代表する倣慢な権利意識だけであった。

 「自由を守り抜き、その繁栄を確保するためには、我々はいかなる犠牲をも払い、いかなる負担をも背負い、いかなる困難をも乗り越え、いかなる敵にも立ち向かうことを、全世界に知らせようではないか」と、キューバ・ベトナム危機で語っていた。

 彼の言葉は、ジャングルのゲリラ戦(現在はテロになるのだろう)から核による対決までのあらゆる戦争に、これまで米国は対処していく手段を追求してきたし、これからもずっと追求していくとの米国人の意思を代弁している。

 その米国人の意思を朝鮮半島に置けば、アジア太平洋上の安定と米国の利益のためには、北朝鮮の社会主義政権を崩壊させる政策を追求し、当然、核開発・核政策は絶対に許さないということになるであろう。

 そのためには、朝鮮半島で核兵器に重点を置いた作戦を考慮していくとの、傲慢で矛盾した政策を採用してきた。

 以下は、米国が朝鮮半島で追求してきた核作戦での、主な事柄を取り上げる。

 駐韓米軍が58年1月29日、すでに原子兵器を導入していたことの事実を発表した。

 同時に、在韓米軍7師団を「原子師団」と改編(57年7月30日)したことと、在日米軍騎兵師団と駐韓24師団を「原子師団」に統合(57年10月15日)していたことが分かった。

 こうした部隊編制を行ったのは、朝鮮戦争時に原子爆弾の使用を考慮していたことの、その延長線上にある思考であった。

 さらに元米海軍少将ラロックが76年2月、「韓国に戦術核兵器が配備されている」と、その一覧表を公表したことで、日本への核持ち込み疑惑までが浮上してしまった。

 核実戦部隊が存在していた事実こそ、各種核兵器が朝鮮半島に配備していたことを、隠せなくなってしまったのだ。

 同年3月、大規模な米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」を実施した。この軍事演習は、米国の新しい軍事戦略(つまり核戦略のこと)のプログラムを実戦化するものであった。

 軍事訓練は、韓国本土と海外基地に配備している米陸・海・空軍部隊を迅速に韓国に投入し、韓国軍との有機的な共同態勢と、機動性のある連合作戦を遂行していくのが目的であった。

 北への恐喝とともに、中国の存在も認識していたことは間違いがない。

 こうした大規模合同軍事演習は、69年から実施した「フォーカス・レチナ」作戦から始まり、 71年に「フリーダム・ボルカ」とし、76年から「チーム・スピリット」へと名称を変更して続けていた。

 訓練の主なプログラムは、「核先制攻撃」「迅速な空爆」「敵前上陸」「化学戦」「積雪寒冷地訓練」など、朝鮮半島北部に向けたほとんどの軍事訓練を実施していた。

 78年には、規模10万人以上(当時の米軍最大)の地上戦闘訓練が行われると、それが益々エスカレートしてゆき、 80年代に入ると20万人以上(例年、史上最大だと言われていた)の軍隊を動員した。

 軍事訓練というよりは、最早や、戦闘作戦を実施していたと言えるだろう。

 しかも必ず核兵器使用を想定した内容になっていたから、この軍事演習期間中、朝鮮側は警戒態勢のレベルを上げながら、万一の場合に備えることを強要されていた。

 89年12月2日のマルタでの米ソ首脳会談は、「冷戦」というひとつの時代の終りを告げるものとなった。

 朝鮮半島においても、その冷戦終結を背景とする政治的な変化が生じている。

 南朝鮮では、86年後半から民主化運動が高揚し、87年には軍事政権を倒した。

 90年にはソ連と、92年には中国との間で、それぞれ国交正常化を実現させた。

 91年になると、南北朝鮮の国連同時加盟が実現し、ブッシュ米大統領が、南朝鮮を含む全海外基地から戦術核の撤去を宣言した。(とはいえ、どこの公的機関もそれを検証していない)

 同年末、南北首脳会談で「和解・不可侵合意書」と朝鮮半島の非核化共同宣言が調印された。

 同時に朝鮮は、国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印、批准をした。

 こうした一連の動きとともに、ブッシュ・盧泰愚との米韓首脳会談(92年1月6日)において、在韓核兵器の撤去を明言した。

 こうした一連の動きから、朝鮮半島を中心とする東アジアの冷戦体制の終結が、宣言されるかに思われるような流れができていた。


8.創られた核疑惑

 冷戦終結直後の米軍自身は、その存在意義と予算削減という危機に見舞われていた。

 アジアでは、在韓米軍と在日米軍の存在が、規模や予算面から問題視されると、日米、米韓ともに、軍事同盟条約から見直す作業が強いられていた。

 米国防総省内では、予算案が承認されるために「脅威の空白を埋めろ(新たな敵を探せ)」 (サム・ナン上院議員、90年3月)との意見が、公然化していた。

 「北朝鮮核疑惑」が浮上してきた背景には、以上のような事情があった。

 93年、米国の軍事偵察衛星写真から疑問をもったIAEA側が、朝鮮に特別査察を求めたことから、事態がこじれた。

 IAEA側の要求そのものは、米国の差し金であった。衛星写真が捕らえたのは、平安北道寧辺にある研究用の小型原子炉であった。

 朝鮮では、経済発展のスピードに伴って、電力の需要が増大していたときで、寧辺に原子力発電用の研究所を建設していた。

 85年に核拡散防止条約(NPT)に加盟した後、86年から稼働していたが、IAEAとの査察協定(保障措置協定)の締結を先延ばしにしていた。

 米国は、89年には偵察衛星写真で、寧辺の原子炉の存在、またはプルトニウム再処理工場と思われる施設を建設していることを、すでにキャッチしていた。

 朝鮮は、南北非核化共同宣言(91年12月)後、92年1月に遅れていたIAEAと保障措置協定を締結し、査察を受け入れていて、査察の実施を受けている時であった。

 IAEA側は、米国から提供された衛星写真(米国の違反行為である)を見て、朝鮮側からの申告内容と提出サンプルに不一致があるとのクレームを付け、特別査察を要求した。

 特別査察など、これまでどこの国も受け入れたことがなかったため、朝鮮は強く反発した。

 米国による軍事施設査察と同意義になると、考えたからでもあった。

 米国の影響下にあるIAEAには、朝鮮側の抗議の言葉が通じない。

 93年3月にはNPTの脱退表明(朝米協議で、6月に脱退を留保)をした朝鮮は、さらに 94年6月にはIAEAも脱退した。

 このため、朝鮮半島では核危機が一気に高まり、 94年には米国が軍事侵攻を想定し準備する事態にまで進行した。

 米軍が、朝鮮半島において新たな敵を創造した瞬間であった。

 このことから朝鮮半島を中心とする東北アジアでは、朝鮮を仮想敵とする新たな冷戦体制(新冷戦)が、米国によって構築され、朝鮮半島の核危機が深化していった。

 この危機を一時的に収めたのは、金日成主席とカーター米元大統領の会談(94年6月16日)であった。

 会談は、南北首脳会談の開催と朝鮮の核開発の凍結で合意した。

 カーター氏は大統領時代の77年に、米商業用核燃料再処理を禁ずる核不拡散政策を発表し、日本の東海村核燃料再処理施設の見直しも迫っていた。

 日本政府は、カーター米政権の圧力に抵抗し、再処理施設を維持する政策をとり、 93年には青森県六ヶ所村に大型再処理施設を着工していたから、日本のプルトニウム抽出量は、朝鮮以上になっている可能性があった。

 カーター会談の1カ月後の7月8日午前2時、金日成主席が心筋梗塞で急死した。

 金日成主席の死去によって、金・カーター会談の成果を進展させたものと、暗転させたものとがあった。

 進展したものは、中断していた朝米協議が再開し、94年10月に「朝米共同声明」(朝米枠組み合意)を発表したことと、オルブライト米国務長官が訪朝(23-24日)し、朝米国交正常化への地ならしが出来たこと。

 残念なことには、クリントン政権の末期で、それを追求していく時間がなかったことである。

 さらに朝鮮のエネルギー問題を解決する国際機構、朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO)が、軽水炉供給協定合意と共に95年12月15日、ニューヨークで調印されたことである。

 暗転させたものには、金日成主席との南北首脳会談の相手、金泳三大統領の変心であった。

 主席急逝直後、38度線一帯に軍隊を待機させ、自身はもちろんすべての主席弔問団を禁じて、いたずらに北との対立を演出し、自らの晩年を汚してしまった。

 その背景には、米政権筋から流布されていた北朝鮮崩壊説(主席が死去して、それが加速すると)を信じていたためでもあった。

 または、米国の忠実な犬役を演じていたのかも知れない。

 その金泳三氏は、済州島での米韓首脳会談(95年4月16日)でも、朝鮮半島での新安保の枠組みをさぐるための、南北朝鮮と米中4カ国会談を提案していた。

 新安保とは、社会主義朝鮮が崩壊した後の朝鮮半島の安全保障関係を、4者で協議し構築しようということであった。

 北朝鮮崩壊説は米軍部内に強くあり、様々な暗転情報を作成しては流している。

 94年10月の朝米枠組み合意で、寧辺の原子炉は凍結されたものの、米情報機関はすでに核兵器1-2基分、または5-6基分のプルトニウムが抽出された可能性があるとの説を執拗に流して、北朝鮮核危機情報を広めていた。

 98年になると、金倉里の地下核施設疑惑を、新たに浮上させてきた。

 金倉里の核疑惑施設を朝鮮と交渉のすえ、99年5月に米国調査団が立ち入り調査をしたものの、核開発の形跡は何もなかったと、最終報告を出さざるを得なかった。

 99年10月に公表した「ペリー・プロセス」(米北朝鮮政策調整官ペリーの北朝鮮政策見直し報告)では、現在の北朝鮮は当面崩壊はしないという見通しに立ち、北朝鮮の現実を受け入れたうえで、北朝鮮が脅威と感じる圧力を段階的に減らして、核・ミサイル計画の完全な中止を求める、との内容からなっている。

 朝鮮崩壊論などを捨てて、現実的な朝鮮の政治を認識し、それを受け入れることから米政治は始めるべきだとしている。

 従来の北朝鮮情報・分析に比べると、出色とまでは言えないものの、現実的な立場に立っていた点で評価はできる。

 結局、94年10月の朝米枠組み合意、95年12月のKEDO合意も、北の社会主義体制が崩壊するまでの時間稼ぎ的「約束」であったことが暴露された。

 この点でも米国は、金・カーター会談の約束を破っていたことになる。

 余りにも酷いことで、政治倫理もない、米国政治の姿が露になった。


9.核保有国に

 米国の対朝鮮政策の根底には、人種差別と反社会主義思考があり、朝鮮側の政治的主張を上手くキャッチしているとはいえない場面に、しばしば遭遇することがある。

 94年の核疑惑騒動で、朝米枠組みやKEDOなどの大仕掛けを準備したものの、これとて朝鮮半島と朝米間に横たわる基本問題への解決策にはならなかった。

 再び02年から始まる核騒動問題も、90年代からの継続であったのだ。

 ただ、当時の米大統領・ブッシュというキャラクターと、「9・11テロ」(01年9月)が、米国の問題への立場を変えていたようにみえただけである。

 02年にブッシュは、北朝鮮・イラン・イラクを「悪の枢軸」とののしり、米国の現在の危機は、イスラム勢力と北朝鮮の社会主義であり、これらは世界の脅威でもあると位置付けた。

 朝鮮が、ブッシュの米政権に強い怒りと不信感を抱いたのは、当然のことである。

 同時に、イラク政権へのブッシュの振る舞いをみて嫌悪感を持ち、彼には知性など通用しないのだから、朝鮮が軍事力強化政策の正しさを確認した瞬間でもあったろう。

 03年1月10日、朝鮮政府はNPTからの脱退と、IAEAの査察協定からの離脱を宣言した。

 それに反発した米国ではあるが、テロ対策(イラク、アフガニスタン戦争)のために余力もなく、日本の小泉純一郎政権や中国の力を活用することで、何とかバランスと面子を保とうとした。

 「悪の枢軸」発言から一転、03年1月の一般教書演説でのブッシュは、北朝鮮問題は「平和的な解決を図る」と表明した。

 北京での朝中米3者会談(03年4月)を経て、中国のリードで6者協議(03年8月)が始まっていくのは、ブッシュが変心した要素もある。

 協議のテーマは、朝鮮半島の非核化であった。

 ところが米国は、「朝鮮半島」のところを「北朝鮮」と意図的に読み替えて、そのことを一般に公表したため、会議が進み、議題が消化され、テーマが核心に迫るに連れ、米国の議会内外での言動の齟齬が、だんだんと露となり、繕えなくなってくる。

 すると逆に、米国は朝鮮の偽善性と不一致的態度を外部に宣伝して、6者会談を忌避するようになった。

 朝鮮は第3回会談(04年6月)で、「米国が敵視政策を変えれば、核兵器計画を放棄する」とまで、表明していた。

 米国がそのことに対応しなかったため、朝鮮では引き続き核政策を追求することになった。

 さらにもう一点、韓国政府が04年9月9日、 82年に政府の科学者がプルトニウムを抽出したと発表したことである。

 80年代のウラン転換、2000年のウラン濃縮実験を行っていたことまでを明らかにした。

 朝鮮は当然、南朝鮮のこうした核関連実験を非難(同年9月11日)した。

 同時に、日本の青森県六カ所村のプルトニウム問題への扱いなど、米国の二重、三重基準と、その不当な立場とを批判して、六者協議は朝鮮半島の非核化を議論する公正な場ではないと断じた。


10.2013年米韓合同軍事演習

 冷戦後の各種兵器と戦争技術は、軍事革命と言われるほどにも変革している。

 それは情報技術を取り入れて、兵器のハイテク化が進んできたためである。

 例えば、米軍のイラク侵攻作戦でみてみよう。

 米軍がイラクの砂漠に侵攻していく様を、私たちはテレビの画面からリアルタイム的に観ていた。

 画面に写されていたのは、ステルス巡航ミサイルやステルス爆撃機が、敵のレーダ網をかいくぐって、敵の司令部、政権中枢部、通信施設、駅や空港などを、爆撃し破壊していく様子であった。(まるで戦争ゲームを観ているようであった)

 重要な施設を一瞬にして破壊された敵は、統制がとれないまま、地上部隊からの侵攻までも受けていた。

 衛星航法システム(GPS)で、敵の抵抗拠点や位置が判明しているため、地上部隊は遠隔地からの情報によって、敵を的確に攻撃している。

 また、滞空時間の長い戦略爆撃機B52が、GPSで判明している敵の拠点をピンポイントで攻撃している。

 従来の制空戦闘機、地上攻撃機、戦車、自走砲、大口径の重砲などの兵器類は、過去のものとなった感がある。

 現代戦の兵器は、ステルス機能、情報処理能力、滞空時間、ロボット化(無人)など、ほとんどがハイテク化された兵器が主役になっている。

 そうした現象を、2013年米韓合同軍事演習の「キー・リゾルブ」「フォーカスレンズ」でもみることができる。

 まず演習当初の3月中旬、戦略爆撃機B52編隊とステルス機B2を投入し、爆弾投下訓練を行った。

 グアム島から飛来した戦略爆撃機B52は、滞空時間が長い大型支援機のため、人間が降下することもなく(GPSによって敵の位置が判明しているため)上空から、ピンポイント攻撃が可能となっている。

 同機種は1952年の朝鮮戦争時に登場し、タイプは古いけれども、現在のは大幅に進歩した電子装備を備えているため、米軍内でも最新鋭爆撃機となっている。

 また、ステルス爆撃機B2はレーダー網を抜けて、いきなり敵司令部や政権中枢部をミサイルで攻撃する、これもまた米軍自慢の最新兵器である。

 今回の軍事演習にも、米本土から2機も飛来し、爆撃投下の実戦をしてみせた。しかも、ステルス機B2を投入したことを公表し、同機が狙うのは朝鮮最高司令部、政権中枢部、金日成主席と金正日総書紀の銅像など、朝鮮の心臓部をミサイル攻撃すると、挑発をしていた。

 しかも訓練当初から、地上・海上・空中の核打撃戦力を多く、長期にわたって使用していたから、朝鮮への核戦争挑発であると同時に、核恐喝でもあった。

 このように核兵器を無分別に弄ぶ米韓政権に対して、朝鮮政府・政党・団体が3月30日、以下のような特別声明を出した。

声明。
1 南北間のすべての問題は、戦時に準じて処理される。
2 米韓の挑発は全面俄争、核戦争に拡大するだろう。
3 祖国統一大戦で勝利を収める

 さらに4月2日、朝鮮原子力総局報道官は、朝鮮の核政策は電力問題解決に寄与し、核兵器を質的・量的に拡大する、との方針を明らかにした。

 これらは、6着協議の合意(05年9月17日)によって、稼働停止中の実験用黒鉛減速炉 (寧辺)を再整備し、再稼働する措置が含まれているのではないかと思われる。

 こうした朝鮮からの声を無視するかのようにして、米韓両軍は4月30日に終えた合同軍事演習直後の5月13,14両日にも、韓国南東部沖の東海で、またしても米原子力空母ニミッツを動員した合同訓練を行っている。

 このように朝鮮への核恐喝は、言葉や宣伝以外にも、実戦まがいの軍事訓練を60年間実施してきたのだ。

 それは米国が、朝鮮への核恐喝を政策化しているためである。


11.おわりに

 朝鮮半島に核戦争危機をもたらしてき真の犯人は、米国のアジア政策である。

 94年以降の「核疑惑」「核危機」も、米国が仕掛けたものである。

 現在(4月以降)でも、朝鮮半島に近い水域に米原子力空母2隻を展開し、グアム島には7隻の原子力潜水艦を集結させていて、核戦争危機を造成している。

 このため朝鮮も、核を搭載できるミサイルを発射待機状態とし、自衛の核で立ち向かわざるを得ない現実を、米国は朝鮮に突き付けてきたし、今も突き付けている。

 朝鮮が自衛の核で立ち向かうために、ミサイル発射準備を整えたことにさえ、米国は「北が核恫喝している」と逆宣伝と、帝国主義的理論の情報をふりまいている。

 そのことは、今にはじまったことではない。

 自らの核恐喝政策を棚に上げて、朝鮮を誹誘中傷することで、自身の醜い姿を国際社会から隠す作業を続けてきた。

 朝鮮半島に核戦争危機が漂ってきた第一の原因は、朝鮮が小型化、軽量化、多種化した核兵器を保有したことと、それを認めれば自らの対朝鮮敵視政策が破綻することを悟った米国の策動であり,第二は米国が戦略的中心をアジア太平洋地域に移し、朝鮮を一次的な攻撃対象・目標と定めたことと関連している。

 だから、今年の朝鮮半島の深刻な核戦争前夜の原因をもたらしたものは、あくまでも朝鮮だとのキャンペーンを繰り返してきた米国の、滑稽な理論には反吐が出そうである。

 朝鮮は、世界情勢(大国の顔色をうかがい、強力な国防力を備えることができず、帝国主義の圧力と懐柔に負けて、戦争抑止力を放棄し、最終的には国が崩壊していった国々の教訓と歴史)を注視しつつ、自らの力(軍事力、経済力、科学技術力)が弱ければ、国の自主権と民族の尊厳を守り抜くことができず、敵から自主権と尊厳を守り抜くことができなければ、人民の幸福と繁栄も達成できないことを、米国との70年近い闘争のなかから学び、そのことを固く信じるようになった。

 朝鮮が人工衛星を打ち上げ、ミサイルと核実験を行ってきたのは、朝鮮戦争以来の長きにわたる米国による核恐喝から、人民と社会主義政権を守り抜くための、自衛的措置であったのだ。

 朝鮮の自衛的行為を無視した米国は、朝鮮は国際秩序(米国式か)に違反行為をしているから、懲罰を課すのだとして国連安保理での「制裁」を決議させた。

 
 さて、常識派の君たちに簡単な問題を提供しよう。

 いかに複雑な事柄にも、そのよって来たった原因があるのだと、言うことについて。

 その原因、問題の本質を見極めずに、表面的な現象だけをみて判断したり、批判をすることは、すでにして偽装したものを「真実」へとすり替える側に荷担したことになる、ということについてである。

 具体的には、朝鮮半島の現在の核「危機」の問題である。

 日帝から解放されて70年間、朝鮮民族が闘ってきた民族自主、独立闘争を概観して気付いたことの一つは、終始、米国とのたたかいで、「反帝反米」闘争であったということである。

 その米国は、南朝鮮占領・支配をすすめるために、親日派・極右派らを活用し、自己の意思が貫徹できる国連機関を利用して、単独政権を樹立し、挙げ句の果てに「北侵統一」勢力をけしかけて朝鮮戦争を仕掛け、朝鮮人民を惨禍の底に突き落とした。

 それだけではなく、同族対立という民族にとって、最も悲惨な状況を現出させた真犯人である。

 朝鮮戦争停戦後の60年間、米国の朝鮮半島での政策は、民族分断と対立政治を追求し、朝鮮社会に反北反共感情を培養し、北朝鮮にたいしては核恐喝という悪魔の政治を続けてきた。

 であるから、一環して朝鮮との平和協定妥結を拒否してきたのだ。

 朝鮮と平和協定を締結すれば、在韓米軍の撤退、さらには米国のアジア戦略の変更が迫られるからであろう。

 朝鮮側が主張している「朝米平和協定」締結の本質は、朝鮮戦争を法的にも、実態的にも終了させたうえで、朝鮮半島の自主的平和統一を実現するとの意味が込められている。

 朝鮮半島問題の本質こそが、自主的平和統一の実現にあったからである。

 そのことを妨げてきた政治的要因こそ、朝米敵対関係の維持、朝鮮停戦協定体制、38度線の軍事分界線の存在、在韓米軍の存在などであった。つまりそれは、米国自身の姿であった。

 米国の対朝鮮半島政策・戦略そのものであった、ということができる。

 米国は45年8月以降、朝鮮半島の軍事占領(南朝鮮)に固守(侵略政策)していて、それを糾弾してきた朝鮮政府に対しては、核恐喝政策で対応してきた。

 米国の朝鮮への核恐喝は、南朝鮮への核兵器配備・核前哨基地化から始まっている。

 南朝鮮には、米国の核の傘を着せているだけだとするのは、米国一流のはったり言語であって、現実は、米軍の核基地となっていたことを、決して忘れてはならない。

 にも関わらずこの10数年間、朝鮮は米国の核兵器から自らを保護するいかなる核の盾も持たずに、米国の核威嚇に耐えつつ、朝鮮半島の平和体系の形成、朝鮮半島の非核化を追及する努力を行ってきた。

 それは何度も言うように、南北の自主的平和統一を実現していくためで、そのことが朝鮮問題を解決していく近道だと考えていたからである。

 しかし、オバマ米政権は逆に、朝鮮への核威嚇政策を高めていった。朝鮮の平和的提案と努力を、米国は踏みにじってきたのである。

 そのため金正恩朝鮮は、ひとつの固い決心、「反米核対決」政策への決心を固めた。

 現在、朝鮮半島が抱えている核危機、核問題は、 70年近く米国が続けてきた朝鮮敵視政策、朝鮮への核脅威政策から生じた問題であった。

 朝鮮が核保有国を宣言する以前は、朝鮮停戦協定を解体し、米国との間で平和協定を締結し、国交を正常化すれば、米国も朝鮮への敵視と核恐喝政策は必要ではなく、朝鮮半島の平和体系が保障され、自主統一が近付くだろうと理解して、朝米平和協定の締結を呼び掛けてきた。

 同時に金正恩朝鮮は、米国のこれまでの対応から、朝鮮半島の非核化の実現は、一方の努力のみによってでは決して実現できないことを理解もしていた。

 朝鮮が核保有国となることを決心した背景には、以上のような情勢があった。

 つまり、朝鮮半島の核危機を取り除くと同時に、朝鮮半島の非核化を実現させる問題は、米国が非核化を進め、世界の非核化が実現されない限り朝鮮半島の非核化も実現されないし、世界の非核化が実現されれば、朝鮮半島の非核化も実現できる、という問題になった。

 朝鮮停戦協定60年となる2013年からは、戦時体制下の不安定な環境、米国が加える核威嚇の「被害者」の立場からは脱していくために、朝鮮は核保有国となる決心をしたのだと思う。

 朝鮮が核を保有していなかった時代の米国への要求は、朝鮮半島の非核化であり、朝鮮半島の平和安定であった。

 ところが、核保有国となって以降の朝鮮は、世界の非核化を実現していくことを、米国と核クラブ国に宣言をした。

 一方の米国(オバマ政権)の核政策は、現核保有国の核兵器 (全世界)の全てがなくなるまでは、自らの核は保有し、世界で最後の核保有国となることを言っている。

 何と倣慢なことだろうか。これは白人(米国人)を頂点とした支配意識、キリスト教的ヒエラルキー思考なのだろうか。

 その傲慢で独善的な米国の核政策に、朝鮮が立ち向かったのである。

 しかも、人類が望んでいた全世界の非核化に挑戦して。勇気のいることだ。

 その勇気を称えよう。米国が非核化しない限り、朝鮮も非核化をしないとの重大な決心は、半端な決心ではできるものではない。

 「われわれは、米国の冒険的な核戦争策動を制圧して、民族の安全と朝鮮半島、アジアの平和を守るために、やむを得ず核を保有したのである」(4月30日付『労働新聞』論評)と、その決心を語っている。

 朝鮮の核は、朝鮮民族の自主権を守り、社会主義朝鮮、強盛国家建設を成し遂げるための、自衛力なのである。

 米国が、半世紀以上も続けてきた核による敵視圧殺政策を、核恐喝政策を放棄するなら、朝鮮の核は不必要となることも明確にしている。

 それが「自衛の核」で、米国の「攻撃の核」とは根本的に違う点である。

 現在、米韓や中国が朝鮮に対話を呼び掛けている。

 彼らは朝鮮に対して、核兵器を放棄しなければ経済発展を達成させることはできないと言い、核保有以外の他の道を選ぶならば、経済的支援を含む援助を考えているなどと、以前と同じ言葉を重ねている。

 彼らの対話懐柔策は、結局は、従前からの朝鮮封じ込め思考方式であり、または朝鮮の新しい決心を無視するための、常套手段でしかなかった。結局は、米国の核政策は変更しないと、言っていることと同じである。

 朝鮮はチュチェ思想を基軸に、自力更生の革命精神を政策化している。

 チュチェ思想の体系は、思想における主体、政治における自主、経済活動における自立、軍事における自衛を展開している。

 朝鮮はすべてのことを、自分自身の思考で、自分自身の力を信じて、歴史と革命を主体的に創造してきた。

 90年代、社会主義体制を発展させるため、さらには米国と対決するために、あえて「苦難の行軍」の道を選び、進んでいった。

 それはまた自主の道であった。

 経済の自立とは、経済的に他国に依存する(市場化に道を開く資本や物資の支援、または経済的援助、借款などは受けとらないということ)ことは、政治的な独立が犯されていく元凶となる (大国への従属化となる)。

 自立的経済は、国家の政治的独立、軍事的自衛を物質的に保障していくものだ。

 帝国主義国家が存在する限り、国家の軍事的自衛力強化(自衛力)は必要で、自主的な自衛こそが、政治的独立(自主)および社会主義国家の経済を発展させていく唯一の手段となる。

 だから朝鮮は、経済的強国を建設するために2013年3月、「経済建設と核武力建設の並進路線」を政策決定した。

 そのことが、もう一つの米国への答えであった。

 朝鮮民族共通の願い、南北朝鮮の自主的平和統一を実現させるために、朝鮮に核保有の決心をさせてしまった米国の帝国主義的核恐喝政策を、私は憎むものである。


                                       2013年5月27日 記
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