「朝鮮人強制連行を考える」
「朝鮮人強制連行を考える」
名田隆司
1.朴槿恵大統領からの苦言
朝鮮半島にとっての3月1日は、特別な日である。
植民地支配下の1919年3月1日を起点に、朝鮮独立を叫んで立ち上がった、民族自主要求運動が起こったからである。
この「3・1独立運動(闘争)」記念日の1日、韓国の朴槿恵大統領は政府式典で演説し、日本の植民地支配による加害者と被害者の立場は「千年の歴史が流れても変わらない」と述べた。
この発言は、朝鮮人民の立場を的確に表現したもので、日本にとっては軽視してはならない内容を含んでいる。
大統領の演説は、就任直後でもあったためか、北の核問題にも触れていたが、ここでは日本との関係での骨子だけを掲げて、特に強制連行問題を考えてみたい。
大統領演説の骨子は、1.日韓間の歴史問題での加害者と被害者の歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない。2.日本は歴史を正しく直視し、責任を取る姿勢を持たねばならない。3.未来の世代に歴史の重荷を背負わせてはならない。(時間の経過だけでは問題は解決しないのだから)-であった。
韓国では 3月 1日に政府主催式典で、大統領が演説することが恒例となっているから当然、日本の歴史認識や対応を批判する場ともなっている。
しかし、今回の朴槿恵大統領の演説内容は、過去の歴代大統領の口吻よりも激しくはっきりとしていた。日本が過去の歴史問題で、責任ある行動に乗り出さない限り、日韓間の関係強化は進まないと警告したのである。
この表現は、過去の歴史的事実に目を閉ざしていては、朝鮮半島との未来の新しい展望は開けないと、これまで日本の進歩的学者や研究者たちも言ってきたことと同じであるから、決して特別なことでもない。
朴大統領は、全朝鮮人民の思いを代弁したにしか過ぎない。
にも関わらず歴代の日本政権は、過去を忘れたふりをしたり、当時のままの帝国主義的解釈を振りかざしたり、故意に消し去り書き換えたりして、反省も謝罪もしてこなかった。
第2次安倍晋三政権の例でいえば、旧日本軍の従軍慰安婦問題の強制性を否定したり、島根県が開いた「竹島の日」式典に、内閣府政務官を派遣するなどして、言動を逆コースに進めたりしている。
ところが「言葉」の方では、それらは政治問題とはせず、歴史家の解釈に任せて、韓国との関係を「21世紀に相応しい未来志向で」いくと、発言したりしている。
意識が統一されていないこの矛盾した言動に、朴大統領は「安倍政権は関係修復を望むとの言葉と行動がばらばらだ」と、改めて厳しく批判をし、安倍政権の態度に不信感を募らせての演説内容となったのではないか。
この朴大統領演説に潜む問題を、以下、朝鮮人強制連行の後遺症の観点から考えてみたい。
2.朝鮮人強制連行とは
朝鮮人労働者の日本への強制連行問題については、日本のどの歴史書も、日中戦争が全面戦に突入して以降の、労働力や軍要員の不足を補うために、国策として実施した時期のことを中心に記述している。
日本政府が「朝鮮労務者内地移送二関スル件」(1939年4月9日)を出し、朝鮮総督府が「朝鮮人労働者募集ならびに渡航取扱要綱」(39年9月1日)を出して、日本国家自らが朝鮮人労働者を積極的に移入する問題に関与(強制連行)していった。
その朝鮮人強制連行に日本の国家権力が関与する時期を、三段階に分かれていたことを説明している。
42年1月まで鏡く第 1段階での「自由募集」の時期、42年2月から44年8月まで続く第2段階での「官斡旋」の時期、44年9月からの第3段階での「徴用方式」の時期である。
39年以降は日本国家の国策として、朝鮮人労働者たちを強制連行(人間狩り)し、日本各地、中国東北地方、サハリン(樺太)、東南アジア、南方諸島などへと、戦争遂行補充要員として送り込んでいたことを説明しているのだ。
そのことを、以下の朝鮮関連法などによって、補完してみよう。
1937年7月7日、盧溝橋事件(日中戦争)。
37年9月と39年5月、石炭鉱業連合会が商工・厚生両省に、朝鮮人の集団移入許可を要望する。
中国戦線が拡大するにつれて、炭鉱や鉱山などからは熟練の坑夫たちが次々と召集され、しかも戦時期の増産令があったりして、石炭産業での労働者不足が深刻化していたからである。
労働者を朝鮮から密航などさせて、法の裏側によって賄っていたが、それも限界があるために炭鉱資本側は、朝鮮人渡航制限の撤廃と自由募集を、政府に要求するようになった。
38年4月1日、国家総動員法公布。
これは戦時統制法であって、戦時には労働力、物資、資金、施設、事業、物価、出版など、あらゆるものが国家によって統制および動員されるのだ。
この法律を植民地下の朝鮮にも直ちに適用し、徴用、徴兵、食糧、物資、貴金属品供出制度など、戦時統制体制を施行した。
日本国家権力が、生産手段と労働力(人間)を徴用・徴兵ができるようにして、朝鮮半島から朝鮮人労働者を集団移入することに踏み切った。
「労務動員実施計画」を閣議決定し、39年7月からの朝鮮人動員目標を8万5000名とした。
事業主には 9月から朝鮮人労働者の募集を「認可」し、強制連行が始まった。
事実上、これは企業側に戦時動員を代行させたようなもので、42年の官斡旋、44年の徴用令適用へと、国家の関与と強制性の度合いもエスカレートしていった。
朝鮮での労働者募集は先ず、朝鮮総督府の許可を受けて募集地域が決定される。
企業の募集担当者が何処へでも勝手に行ける自由募集という方式ではなく、総督府から割り当てられた地域に赴き、そこの面(村)巡査の協力であらかじめ現地調査をしていた該当者を、面事務所と巡査によって強引に連れ出してもらうのだ。
「自由募集」とは日本側の表向きの仕組みであって、朝鮮人側からすれば公権力を利用した命令であり強制であったから、徴用と何等変わるところはなかった。
巡査らに指名された朝鮮人は、逃れることができなかったのだ。
そうした意味からも、 39年以降の朝鮮人労働者移入方式を、自由募集、官斡旋、徴用と三段階に分けているのは、あくまでも日本側の法的区分・表現でしかなかった。
朝鮮人側からすれば、いずれでも強制連行であったと認識していたのだ。
特に1940年頃からは、路上で歩いている青年たちを、田畑で農作業をしている農民たちを、家業に勤しんでいた少女たちを、突然に巡査や面事務所の役人たちが強制連行し、トラックに放り込み、日本へと送り込むという人さらいが、公権力によって平気で実行されていた。
一方で北部朝鮮での重工業の発展と、日本国内での労働者需要増加で、朝鮮内での募集もだんだんと困難になっていった。
41年には許可数の7割程度しか強制連行ができず、太平洋戦争が勃発する42年になると、国内の労働事情はさらに逼迫していった。
このため、朝鮮人労働者の確保が一層重要視されるようになっていったのだ。
企画院は42年の労務動員計画を12万人に予定すると同時に、これまでの「自由募集」を改めて、総督府の「斡旋」によって強制的に連行するようになった。
総督府が決定し割り当てた人員を揃えるため、面の職員と巡査と労務担当係りたちは、畑で仕事をしている農民、道路を歩いている者であろうと、また、真夜中の民家に土足のまま踏み込み寝ている男を連れ出したりして、手当たり次第に捕まえて日本に運んだ。
まるで集落を襲撃した強盗団のようにして、人々を連行していった。
これを彼らは、「兎狩り作戦」と呼んでいた。
突然、夫や息子たちが行方不明となった留守家族(大部分は女性と幼い子供たち)は、行方不明者たちを探しながらも、日々に生きるための苦しい生活を支えねばならなかった。
ついには行方不明の夫や息子たちの消息も分からないまま、亡くなってしまった人たちも沢山いる。
また、44年8月に「女子挺身隊勤労法」を公布し、12~40才の朝鮮女性を愛国奉仕隊とか女子挺身隊の名で狩りだし、各地の戦線に軍慰安婦として送り出している。(当時、軍人 29人に慰安婦1人が割り当てられていたともいう)
安倍晋三首相と彼を支持する右派知識人たちは、朝鮮人労働者たちや軍慰安婦たちには、国家(軍隊)の関与も強制性もなかったと主張している。
強制連行された朝鮮人労働者や軍慰安婦たちと、軍隊や企業との間で直接的な「契約書」を交わしていなかったことが、まるで近代契約法的な感覚で、国家の関与と強制性を否定する論拠にしている。
彼らの言っている論理こそ、重箱の隅をつつく裁判所での弁護論法と同じだ。
38年4月の国家総動員法(戦時統制法)公布によって、国家権力が人間を強制動員するという魔手から、誰も逃れなかった時代であった朝鮮では、何等の予告もなく官憲たちによって、人生そのものがさらわれていったのである。
人権も、生存権も、突然に否定されて、家族・地域から引きはがされてしまった。
このように日本の公権力の強制性が実証されているにも関わらず、日本政府は歴史主義、歴史実証主義的な結論を導き出して、自らの犯罪と責任を軽減しようとしてきた。
3.朝鮮人側の感覚
二国間条約が、国家間で結ばれた信頼関係、対等関係での約束事であることは、近現代国際法でのことである。
植民地時代においては、対等な関係や信頼関係などではなく、一方の側による強要した内容を守らせるためのものでしかない。
近代国家としてスタートした日本は、同時に帝国主義国家として、植民地主義の道を台湾・朝鮮で歩んでいくことになる。
朝鮮と最初に結んだ「江華島条約」は、朝鮮を植民地支配していくための入り口でしかなく、日本側の一方的な要求を強要した内容となっていた。
それ以降、朝鮮との間で結んだ数々の「条約」は、植民地支配を強化するものでしかなかった。
特に、1905年11月の「第2次日韓協約」(韓国統監府設置)、1910年8月の「日韓併合条約」(朝鮮総督府設置)などは、条約などと呼べない代物である。
事前に日本側で用意していた文案を、武力で脅した朝鮮王朝の大臣たち一人ずつに、「イエス」を強要したものである。
当時の朝鮮人の誰もが、日本との「条約」などは無効だとは言えず、国が奪われ、民族が否定され、歴史が拒否されたことに、どれほど涙したことだろうか。
土地や経済権、生活権まで奪われては、朝鮮の中で朝鮮人として生きていくこと事態が難しくなっていたのだ。
具体的には、朝鮮ではどのような社会状況が進行していたのか。日本は侵略戦争を維持していく1930年以降、朝鮮をより強固で安定的な兵站基地づくりのため、物資と人間の収奪化をますます進めていく。
収奪をスムーズに行う前提として、軍事力と警察力とを増強して、徹底した思想統制と弾圧政策を実施していった。
警察権力は32年の2万229名から、41年には3万5239名へと増加させただけでは足りず、それ以外にも警防団、特別高等警察、憲兵などのほか、密偵まで配置して、朝鮮人民の民族意識の息の根を止めようとした。
その上、太平洋戦争末期には約23万名の朝鮮軍を配置し、満州国軍と連携させて、武装抗日集団を追跡する任務に当たらせた。
36年に朝鮮思想犯保護観察令(主に治安維持法違反者を監視)、 37年に朝鮮中央情報委員会設置(知識人たちの情報を収集する機関)、38年に時局対応全朝鮮思想報告連盟設立(社会主義者、民族主義者が思想転向した者の集まり)、同じく38年に国民精神総動員朝鮮連盟結成(内鮮一体化の完成と戦争政策協力推進体)、41年に朝鮮思想犯予防拘禁令(非転向の思想犯を強制拘禁)、44年に朝鮮戦時刑事特別令(裁判を2審制に改めて、国政素乱罪適用者のスピード化と刑罰強化)。
こうして朝鮮での戦時体制を強化し、朝鮮人の生活全般を徹底的に統制したうえで、朝鮮社会の軍需工業化、皇民政策を実施して、民族抹殺政策を強化していった。(朝鮮人としては生きてはいけなくなったのだ)
民族抹殺政策とは、朝鮮民族の思想的、文化的、生活習慣的なものまで否定し、皇国臣民精神を強要することにほかならなかった。
例えば皇国臣民の誓詞斉唱、神社参拝、正午黙祷、日章旗掲揚、各家庭への天照大神の掛け軸、創氏改名、日本語常用、女性には着物と下駄など、朝鮮人の日本人化を常態化し日常化して、朝鮮人の民族意識と抵抗精神を喪失させ、彼らの戦争協力を強要していった。
朝鮮人労働者を日本各地へ送り出すことも、そうした政策の一環であった。
時代が下るにつれ、日本の企業・事業所での増産対策と人材不足、朝鮮での労働者の枯渇かなどが重なって深刻化し、国家権力が直接前面に出てきて、白昼での「人さらい」さえも厭わない労働者集めが行われていった。
だが、それ以前から日本国家の国策としての朝鮮労働者移入であったから、以前も以後も権力側からの強制連行と何等変わりがない。つまりは強制連行であったのだ。
1930年代以前に労働者として日本に来ていた在日朝鮮人一世に取材したおり、彼らに日本に来た理由を尋ねると、全員が日本の国家権力によって強制連行されたからだと、苦痛をにじませて答えていた。
朝鮮人として生きるために、朝鮮・故郷を離れざるを得なくなってしまった最大の理由こそ、日本の植民地支配とその余りにも過酷な政策とによってであったから、彼らが日本に来た理由は、決して「自由募集」「自由渡航」「自由応募」などではなかった。
少なくとも、全ての朝鮮人の意識には、日本に来ざるを得なかったのは、どの年数に限らず、それは日本の国策による強制連行であったと、自身の実感として理解している。
4.国家権力の介在
39年の労務動員計画による日本政府の朝鮮人強制連行の形態は、「募集」「官斡旋」「徴用」へと、次第に強制の度合いを強めて、日本国内ばかりかサハリン(樺太)、東南アジア、南方諸島などの軍需工場、炭鉱、金属鉱山、土木工事などに送り込み、過酷な労働に従事させた。
当時から日本政府は、朝鮮人労働者たちの実態を正確には把握していなかったためか、日本側は強制連行者数を100万あるいは150万だとしてきた。
とてもそのような少ない人数ではない。
南朝鮮の盧武鉉大統領が来日した際、外務大臣が強制連行した朝鮮人の名簿提出を日本政府に要求した。
日本側は賠償問題がからんでいるためもあって、本気では調査せずに、徴用朝鮮人の総数を66万7648名(90年6月時点)と発表した。
「徴用」者に限定(44年以降のこと)して、少人数にみせる工夫をしている。
また、それ以降は 65年の日韓基本条約で解決済みとの立場を表明し、関連法規の「国籍条項」を理由として、個人補償には応じようとはしてこなかった。
日本側のこのような無責任言動に、業を煮やした南朝鮮は「日帝強占下強制動員真相糾明委員会」(05年2月)を設立し、独自の調査活動をすると同時に日本にも再調査を依頼した。
その結果、日本政府が南朝鮮に渡した軍人・軍属・徴用労働者らの名簿から、以下の数字が明らかになった。
被徴用死亡者名簿(1971年)2万1692人
朝鮮人労働者に関する調査結果(91年)6万 9766人
いわゆる朝鮮人労働者に関する名簿(91年)2万 7949人
日帝下被徴用者名簿(93年)1万4410人
軍人軍属名簿(93年)2623人
留守家族名簿(93年)16万 0148人
海軍軍属者名簿身上調査票(93年)10万0778人
臨時軍人軍属届(93年)4万6164人
兵籍戦時名簿(93年)2万0222人
軍属船員名簿(93年)7046人
工員名簿票(93年)2102人
病床日誌(93年)851人
捕虜名簿(93年)6942人
合計48万0693人(05年6月時点)
この名簿でも「徴用者」としているから、 44年の国民徴用令施行以降での、強制連行関係者だけの名簿なのだろう。(人数が余りにも少なすぎるから)
人数を少なくするための日本側の、狡猾さをみる思いがする。
また、「徴兵」及び「軍属」も入っているので、そのことについてもみておこう。
(朝鮮人側は軍人・軍属も強制連行されたとしており、事実、当時の権力側は員数合わせと責任逃れのため、強制動員を行っていた)
朝鮮人の徴兵は、日中戦争の開戦に伴う兵力補充のためであった。
朝鮮人青年・壮年を動員するために、陸軍特別志願兵令を公布(38年2月)して、当初は「志顧」という名の強制・強要を実施することから始めた。
当時の日本は、朝鮮人が戦場では銃をどちら側に向けるのかが分からず不安があったものの、侵略戦争の深化とともに、兵員の補充の方が急務となって、徴兵適用前の準備として「志願」法を制定したのである。
当初の1万 8000余の「志願者」の大半は小作農出身者で、疲弊した農村から生きる術を求めてやってきた。
43年に入ると、「学徒戦時動員体制確立要綱」、「陸軍特別志願兵臨時採用規則」を公布して、戦場の需要に応じて動員体制の枠を広げていった。
この43年までは「志願制」としているが、実際は官憲らの圧力と暴力による強制動員であった。
38年から43年までの「志願者」総数は80万2227名(うち、学生たちは4300余名)にのぼり、彼らを戦場に駆り立てていった。
太平洋戦争が最終段階を迎えた44年4月には、朝鮮人にも徴兵制を適用(軍人・軍属として36万名を超える)して、最も過酷な戦場に送り出している。
先ほどの日本側の名簿には、この時期のものが多い。
他に「海軍特別志願兵制」「陸軍諸学校生徒募集」などがある。
朝鮮人強制連行の対象は、軍人・軍属、各種労働者、軍慰安婦など多岐にわたっているが、どれも日本の侵略戦争の結果であり、犠牲者であった。だからその被害者人数も、戦時中に日本が強制連行・動員したのは、820万人(05年1月、北朝鮮発表)と膨大な数に及んでいる。
当時の朝鮮人の人口が2513万余人(日本が侵略戦争に総動員するために、44年5月に実施した人口調査。同時に調査した朝鮮在住日本人は71万2583人)であったから、全人口の 3分の1、成人・壮年層の60%以上もの人々が強制的に、ある日突然に連行されるという方式で、「動員」「徴用」されたことになる。
この数字からみえることは、朝鮮のどの家庭も複数の、しかも働き手の男性や若い女性たちが、突然に喪失していたことを物語っている。
残された女性たちや高齢者たちだけでは生活が支え切れずに離散するか、病死するなどの後遺症を残している。
家族から強制連行者を免れていたのは、「大物」親日家だけであったのだ。
朝鮮人強制連行問題を語るとき、連行された人々や人数だけを問題にするのではなく、朝鮮に残された不安定化した家族のことまで含めなければならないし、その彼等は全朝鮮に及んでいたことを忘れてはならない。
それらの後遺症は、解放後の自主国家建設にまで影響し、いまもまだ癒されていないが故に、朝鮮人側から改めて問題提起されてくるのは当然のことであった。
5.強制連行の実態
朝鮮人強制連行とは、どういうことであったのか。
最も象徴的に語られている炭鉱労働者の例から考えてみよう。
1937年7月7日の盧溝橋事件から日中関係は、全面的な戦争に突入した。
戦線の拡大に伴い、戦力・兵力・物資の増強が必然的となると、炭鉱などからは日本人坑夫たちを続々と招集し戦地に送るとともに、日本政府は重要エネルギー源である石炭増産を炭鉱資本家に命令した。
そこで、国家権力によって生産手段と労働力とを徴用できる法律、「国家総動員法」を公布(38年4月1日)し、それを朝鮮にも適用していく。
ここから、朝鮮人狩りと称する狂気的で、乱暴な朝鮮人強制連行が始まっていく。
日本国家の法制定と朝鮮人集団移入実施計画に基づき、朝鮮総督府が各事業所に募集地域の区画割りを行っていく。
総督府からの許可を受けた地域に事業所の募集担当者が、面(村)の巡査と書記(村長)の協力を得て、労働者を集める仕組みが出来上がる。
当初、公募という形をとりながらも、公募では割り当ての人数が集まらないため、あらかじめ面事務所の人口台帳によって調査していた家庭に、巡査・書記・担当者たちが赴き、暴力を使い強制的に連行していく。
公権力を利用した労働者集めで、実質は、国家権力による徴用でしかなかった。
巡査や書記も、割り当て人数に達しない場合、叱責・処罰などがあったため、上からの業務命令を忠実に実行することだけに力を注いだ。
すでに40年後半頃には、路上を歩いている男性を巡査が逮捕し、トラックに放り込んで九州方面の炭鉱に運び込むといった、荒っぽい方式が行われていた。
41年頃になると、朝鮮ではすでに労働者は底をつき、山の中に隠れる者もいて、割り当て人数の確保が困難となっていた。
総督府が決定した割り当て人員を揃えられなければ、巡査と面書記、事業所の担当者の責任となるから、募集人の方が必死であった。
どの地域も割り当て人員の確保が難しくなってくると、畑で仕事をしている農民、道路を歩いている者たちを捕まえ、それだけでは足りないと、真夜中に集落を複数の巡査、面書記、労務担当者などが取り囲み、一軒一軒土足のまま上がり込み寝込みを襲って、男たちを殴り付けて家から連れ出していった。
暴力団まがいのことを、公的機関が実行していたのだ。
路上などで「逮捕」された朝鮮人たちは、一定の人員に達するまで近くの警察署の留置所に放り込まれ、30~40人になると行き先も告げずにトラックに押し込め、釜山水上署まで運ばれていく。
各地からトラックで運ばれて来た朝鮮人労働者が300人前後になると、一般乗客が乗船する前に船底の貨物室に押し込んで、釜山港から、後には麗水港からも下関港へと連行していった。
船内には便所代わりのバケツ5~6個ほどが隅に置かれているだけで、扉には鍵が掛けられていたから、臭気が充満していた。
上の船室に行くことが禁止されていたから、途中の景色など何も見えなかったし、一般乗客の日本人は、同じ船内にいた彼らの存在さえ全く知らずにいた。
全員が日常生活の途中で強制的に連行されてきたため、着の身着のままの格好で、家族との別れもできずに、行き先きや仕事の内容さえも知らされずに、下関港まで運ばれた。
大部分が日本語を理解していなかったため、到着した場所がどこなのかも分からないまま、下関港の長い桟橋(桟橋をわざと長くして、ここで「不逞朝鮮人」を監視していた)を渡って岸壁で整列させられた後、列車と貨車の配車が決まるまで、各炭鉱別の倉庫の中に閉じ込められた。
外から鍵を掛けられて、外出も出来なかったので、ここでも彼ら自身の体臭と糞尿の臭いが充満した中で、長い時には 1週間も倉庫内で過ごさなければならなかった。
朝鮮を出発するときに編成した班別の人員が入寮(タコ部屋)後もそのままで、 6人から10人が1班となった。
入寮前に労務係りが、全員の所持品検査を行う。
現金、私物のいっさいを取り上げ、身体一つにした朝鮮人に朝鮮人坑夫専用の菜っ葉服(国防色)と地下足袋、軍手などを渡す。
身元調査は厳しく、日本在住の親戚、友人や知人などの住所を詳しく聞き出し、また、兄弟、親戚、同郷人はいっさい同室させず、部屋と部屋、棟と棟とを完全に分断して、接触を避ける工夫をした。
彼らの逃亡、情報交換、結束などを恐れた結果である。
坑口の近くに建てられた寮は、にわか造りの兵舎式バラックか炭住を改造したもので、隙間からは雨が降り、風が吹き付けてきて、眠れたものではなかった。
出入り口は1カ所で、そこには労務係りの監視室があって、必ずその前を通らないと外に出られないため、監獄(以上)と同じような構造になっていた。
寮の管理は、寮長(官監)を中心に内勤(庶務)と外勤(入坑督促)2人の労務係り、労務助手(入寮者の中から選んだ通訳)によって構成されていた。
寮長と労務係りには、朝鮮語が自在に話せる者でないと勤まらないため、多くの炭鉱では元朝鮮巡査を採用していた。
日本語を十分に理解していない労働者たちに、ここでも皇民化教育を強引に施している。
各案には「皇国臣民の誓詞」を掲げ、入退寮毎に斉唱させた。毎朝5時(全員起床)の号令、軍隊式の行進後、「国のため、天皇陛下のために働かなければならない」などの訓示を行った。
労働時間は3交替制であった。
1番隊は朝6時からで、10時間労働を建て前としていたが、3函取り(2トン入り炭車で 3台分)のノルマがあって、それを果たさない限り昇坑させなかった。
43年以降は、4函取りも強制されたから、彼らの疲労は蓄積され、事故が多くなって坑内での死者も増加していった。
彼らの賃金は、1日2円50銭から3円程度(約束よりも少ない)であったが、愛国預金、退職金積立、普通預金、国債などの名目で強制預金をさせられ、通帳も寮長が管理していて本人には渡さなかったため、積立金が幾らになっているのかなど内容も全く分からないうえ、朝鮮の親元に送金するとの約束さえも企業側は果たしていない。
敗戦後、そのことが問題となったが、企業側は当時の寮長などに責任を押しつけている。
彼らに現金を渡せば逃亡することを恐れていた企業側は、事業所内でしか適用しない金券(それも煙草や肌着を買える程度のもの)を渡していた。
炭鉱は事故が多く、それだけ各地の朝鮮人犠牲者も多く出た。
それ以外にも、凄惨なリンチや虐待、栄養失調などでも多くの死亡者を記録しているこ多くの犠牲者たちを十分に弔い、埋葬する時間と場所さえ、朝鮮人労働者たちには与えられていなかった。
炭鉱、鉱山跡には、ただの石なのかまたは墓石代わりなのかすら見分けがつかないものが、今も散在している場所がある。
その後の開発工事などで、それすら埋没したものもある。
このように埋葬すらされなかった犠牲者が、さらに多くいる。
90年代以降、日本人と在日朝鮮人の歴史研究者たちの間で、強制連行者の実態調査を行ってきた。
その結果、各地の炭鉱近くの寺院の過去帳で、亡くなった坑夫たちの名前や遺骨が見つかった例もある。
過去帳の中の名前は日本名となっていたり、遺骨は引取り手も名前さえも分からないものが大半で、半ば地域の中に埋もれようとしていたものが、多数発見された。
かろうじて見つけた遺骨や過去帳の中でしか推測できない朝鮮人強制連行者の、彼らの歴史と人生と労働とを、日本政府はどのように賠償するのか。
サハリン(樺太)・北海道から沖縄に至るまで、日本列島は朝鮮人の血と汗、涙と怨念にまみれている。
まさに「彼ら犠牲者の白骨列島」(林えいだい)である。
愛媛県新居浜市の住友別子銅山に連行された朝鮮人たちのように、未だに遺骨も見つからず、名前も分からず、墓標すらも建てられない犠牲者は、一体どれほどいるのだろうか。
このような強制連行者たちの無念を、忘れての日韓交流や日朝交流を言う事は、歴史を冒涜している。
死してなお、彼らには名前も忘れられ、または日本名のままであったり、遺骨の引取り手もなく、出身故郷さえも分からずに否、遺骨さえもない朝鮮人たちの恨みを、日本列島はまだ晴らしていないのだ。
6.政治問題である
安倍晋三首相は3月6日、韓国の朴槿恵大統領と就任後初めての電話会談を行った。
大統領は「未来志向の日韓関係構築のためにも、歴史認識が重要だ」「韓国と日本は東アジア地域での重要なパートナーだ」「歴史問題を未来の世代に残さないよう政治指導者が決断し、未来志向的な関係をつくっていくことを望む」などと、歴史問題、歴史認識に対する日本への注文を忘れず要求していた。
これに対して首相は「過去をしっかりと認識しながら未来志向の関係をつくるべく協力していこう」「(日韓両国間に困難な問題があるが)大局的観点から21世紀にふさわしい未来志向の関係を発展させるべく緊密に協力していきたい」と、指摘されている問題への反省もなく、未来志向の言葉だけを繰り返していた。
しかも反省点が欠けていたから、(双方が)努力しようなどと、他人事のようであった。
首脳同士の、儀礼的な、電話での、初対面という重なったハンディーでの会話であったから、意図的に対立点を回避してはいるが、朴大統領は安倍首相に歴史認識の重要性をしっかりと伝えていた。
これに対して安倍首相は、前向きな未来志向の関係構築との言葉だけを繰り返していた。
そのようにしか言えなかったとはいえ、誠実性にも欠けた態度であったと思う。
未来志向とは、誠実な過去の積み重ねがあってこそ、しっかりと開くくことができるのではなかろうか。
安倍首相のような態度と認識では、今後の日韓関係にも影響するだろう。
安倍首相の出身である下関市は、戦前から日本列島と朝鮮とを結ぶ窓口になっている。
朝鮮との政治、経済、文化、人的交流と共に、多くの朝鮮人強制連行者たちが関釜連絡船で運ばれてきて、下関港の岸壁に整列させられていたことを、単に歴史的事実としてだけではなく、当時の日本の国策として連行されてきた事実を聞いているだろう。
しかも、当時の山口県労務報国会動員部長であった吉田清治氏が、軍隊と警察を動員して強制連行者5000人余、女子挺身隊名目で集めた従軍慰安婦950人を連行した罪を謝罪していたことを、また宇部・沖ノ山炭鉱に 41年から敗戦まで約10万人の朝鮮人を強制連行していた事実を、そのうち海底炭鉱の長生炭鉱(通称、チョウセンタンコウ)で42年2月3日、水没事故が発生して183人の朝鮮人が犠牲になったことを、地元であったから安倍さんも知っていただろう。
これらのことも歴史問題だからと言って、歴史家の判断に任せて政治問題にしないというのだろうか。
国家の名において朝鮮人を強制連行したことを、政治家が歴史問題である.と言うのは、過去の問題について責任を取らないことを表明していることと同じで、無責任な発言ではないか。このような姑息な思考を振りまいたままでの「未来志向」など、未来志向も迷惑なことである。
遺骨さえも不明になったままの朝鮮人に対して、日本は謝罪するだけでは済まないのだ。
日本の朝鮮植民地統治の後遺症はまだ癒されていないし、消えてもいないし、朝鮮人にはまだ「戦争」は終わっていないのである。
朝鮮人に対しての戦争責任をしっかりと清算してこそ、日本は朝鮮半島との「未来志向」が築けるのである。
2013年3月18日 記
名田隆司
1.朴槿恵大統領からの苦言
朝鮮半島にとっての3月1日は、特別な日である。
植民地支配下の1919年3月1日を起点に、朝鮮独立を叫んで立ち上がった、民族自主要求運動が起こったからである。
この「3・1独立運動(闘争)」記念日の1日、韓国の朴槿恵大統領は政府式典で演説し、日本の植民地支配による加害者と被害者の立場は「千年の歴史が流れても変わらない」と述べた。
この発言は、朝鮮人民の立場を的確に表現したもので、日本にとっては軽視してはならない内容を含んでいる。
大統領の演説は、就任直後でもあったためか、北の核問題にも触れていたが、ここでは日本との関係での骨子だけを掲げて、特に強制連行問題を考えてみたい。
大統領演説の骨子は、1.日韓間の歴史問題での加害者と被害者の歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない。2.日本は歴史を正しく直視し、責任を取る姿勢を持たねばならない。3.未来の世代に歴史の重荷を背負わせてはならない。(時間の経過だけでは問題は解決しないのだから)-であった。
韓国では 3月 1日に政府主催式典で、大統領が演説することが恒例となっているから当然、日本の歴史認識や対応を批判する場ともなっている。
しかし、今回の朴槿恵大統領の演説内容は、過去の歴代大統領の口吻よりも激しくはっきりとしていた。日本が過去の歴史問題で、責任ある行動に乗り出さない限り、日韓間の関係強化は進まないと警告したのである。
この表現は、過去の歴史的事実に目を閉ざしていては、朝鮮半島との未来の新しい展望は開けないと、これまで日本の進歩的学者や研究者たちも言ってきたことと同じであるから、決して特別なことでもない。
朴大統領は、全朝鮮人民の思いを代弁したにしか過ぎない。
にも関わらず歴代の日本政権は、過去を忘れたふりをしたり、当時のままの帝国主義的解釈を振りかざしたり、故意に消し去り書き換えたりして、反省も謝罪もしてこなかった。
第2次安倍晋三政権の例でいえば、旧日本軍の従軍慰安婦問題の強制性を否定したり、島根県が開いた「竹島の日」式典に、内閣府政務官を派遣するなどして、言動を逆コースに進めたりしている。
ところが「言葉」の方では、それらは政治問題とはせず、歴史家の解釈に任せて、韓国との関係を「21世紀に相応しい未来志向で」いくと、発言したりしている。
意識が統一されていないこの矛盾した言動に、朴大統領は「安倍政権は関係修復を望むとの言葉と行動がばらばらだ」と、改めて厳しく批判をし、安倍政権の態度に不信感を募らせての演説内容となったのではないか。
この朴大統領演説に潜む問題を、以下、朝鮮人強制連行の後遺症の観点から考えてみたい。
2.朝鮮人強制連行とは
朝鮮人労働者の日本への強制連行問題については、日本のどの歴史書も、日中戦争が全面戦に突入して以降の、労働力や軍要員の不足を補うために、国策として実施した時期のことを中心に記述している。
日本政府が「朝鮮労務者内地移送二関スル件」(1939年4月9日)を出し、朝鮮総督府が「朝鮮人労働者募集ならびに渡航取扱要綱」(39年9月1日)を出して、日本国家自らが朝鮮人労働者を積極的に移入する問題に関与(強制連行)していった。
その朝鮮人強制連行に日本の国家権力が関与する時期を、三段階に分かれていたことを説明している。
42年1月まで鏡く第 1段階での「自由募集」の時期、42年2月から44年8月まで続く第2段階での「官斡旋」の時期、44年9月からの第3段階での「徴用方式」の時期である。
39年以降は日本国家の国策として、朝鮮人労働者たちを強制連行(人間狩り)し、日本各地、中国東北地方、サハリン(樺太)、東南アジア、南方諸島などへと、戦争遂行補充要員として送り込んでいたことを説明しているのだ。
そのことを、以下の朝鮮関連法などによって、補完してみよう。
1937年7月7日、盧溝橋事件(日中戦争)。
37年9月と39年5月、石炭鉱業連合会が商工・厚生両省に、朝鮮人の集団移入許可を要望する。
中国戦線が拡大するにつれて、炭鉱や鉱山などからは熟練の坑夫たちが次々と召集され、しかも戦時期の増産令があったりして、石炭産業での労働者不足が深刻化していたからである。
労働者を朝鮮から密航などさせて、法の裏側によって賄っていたが、それも限界があるために炭鉱資本側は、朝鮮人渡航制限の撤廃と自由募集を、政府に要求するようになった。
38年4月1日、国家総動員法公布。
これは戦時統制法であって、戦時には労働力、物資、資金、施設、事業、物価、出版など、あらゆるものが国家によって統制および動員されるのだ。
この法律を植民地下の朝鮮にも直ちに適用し、徴用、徴兵、食糧、物資、貴金属品供出制度など、戦時統制体制を施行した。
日本国家権力が、生産手段と労働力(人間)を徴用・徴兵ができるようにして、朝鮮半島から朝鮮人労働者を集団移入することに踏み切った。
「労務動員実施計画」を閣議決定し、39年7月からの朝鮮人動員目標を8万5000名とした。
事業主には 9月から朝鮮人労働者の募集を「認可」し、強制連行が始まった。
事実上、これは企業側に戦時動員を代行させたようなもので、42年の官斡旋、44年の徴用令適用へと、国家の関与と強制性の度合いもエスカレートしていった。
朝鮮での労働者募集は先ず、朝鮮総督府の許可を受けて募集地域が決定される。
企業の募集担当者が何処へでも勝手に行ける自由募集という方式ではなく、総督府から割り当てられた地域に赴き、そこの面(村)巡査の協力であらかじめ現地調査をしていた該当者を、面事務所と巡査によって強引に連れ出してもらうのだ。
「自由募集」とは日本側の表向きの仕組みであって、朝鮮人側からすれば公権力を利用した命令であり強制であったから、徴用と何等変わるところはなかった。
巡査らに指名された朝鮮人は、逃れることができなかったのだ。
そうした意味からも、 39年以降の朝鮮人労働者移入方式を、自由募集、官斡旋、徴用と三段階に分けているのは、あくまでも日本側の法的区分・表現でしかなかった。
朝鮮人側からすれば、いずれでも強制連行であったと認識していたのだ。
特に1940年頃からは、路上で歩いている青年たちを、田畑で農作業をしている農民たちを、家業に勤しんでいた少女たちを、突然に巡査や面事務所の役人たちが強制連行し、トラックに放り込み、日本へと送り込むという人さらいが、公権力によって平気で実行されていた。
一方で北部朝鮮での重工業の発展と、日本国内での労働者需要増加で、朝鮮内での募集もだんだんと困難になっていった。
41年には許可数の7割程度しか強制連行ができず、太平洋戦争が勃発する42年になると、国内の労働事情はさらに逼迫していった。
このため、朝鮮人労働者の確保が一層重要視されるようになっていったのだ。
企画院は42年の労務動員計画を12万人に予定すると同時に、これまでの「自由募集」を改めて、総督府の「斡旋」によって強制的に連行するようになった。
総督府が決定し割り当てた人員を揃えるため、面の職員と巡査と労務担当係りたちは、畑で仕事をしている農民、道路を歩いている者であろうと、また、真夜中の民家に土足のまま踏み込み寝ている男を連れ出したりして、手当たり次第に捕まえて日本に運んだ。
まるで集落を襲撃した強盗団のようにして、人々を連行していった。
これを彼らは、「兎狩り作戦」と呼んでいた。
突然、夫や息子たちが行方不明となった留守家族(大部分は女性と幼い子供たち)は、行方不明者たちを探しながらも、日々に生きるための苦しい生活を支えねばならなかった。
ついには行方不明の夫や息子たちの消息も分からないまま、亡くなってしまった人たちも沢山いる。
また、44年8月に「女子挺身隊勤労法」を公布し、12~40才の朝鮮女性を愛国奉仕隊とか女子挺身隊の名で狩りだし、各地の戦線に軍慰安婦として送り出している。(当時、軍人 29人に慰安婦1人が割り当てられていたともいう)
安倍晋三首相と彼を支持する右派知識人たちは、朝鮮人労働者たちや軍慰安婦たちには、国家(軍隊)の関与も強制性もなかったと主張している。
強制連行された朝鮮人労働者や軍慰安婦たちと、軍隊や企業との間で直接的な「契約書」を交わしていなかったことが、まるで近代契約法的な感覚で、国家の関与と強制性を否定する論拠にしている。
彼らの言っている論理こそ、重箱の隅をつつく裁判所での弁護論法と同じだ。
38年4月の国家総動員法(戦時統制法)公布によって、国家権力が人間を強制動員するという魔手から、誰も逃れなかった時代であった朝鮮では、何等の予告もなく官憲たちによって、人生そのものがさらわれていったのである。
人権も、生存権も、突然に否定されて、家族・地域から引きはがされてしまった。
このように日本の公権力の強制性が実証されているにも関わらず、日本政府は歴史主義、歴史実証主義的な結論を導き出して、自らの犯罪と責任を軽減しようとしてきた。
3.朝鮮人側の感覚
二国間条約が、国家間で結ばれた信頼関係、対等関係での約束事であることは、近現代国際法でのことである。
植民地時代においては、対等な関係や信頼関係などではなく、一方の側による強要した内容を守らせるためのものでしかない。
近代国家としてスタートした日本は、同時に帝国主義国家として、植民地主義の道を台湾・朝鮮で歩んでいくことになる。
朝鮮と最初に結んだ「江華島条約」は、朝鮮を植民地支配していくための入り口でしかなく、日本側の一方的な要求を強要した内容となっていた。
それ以降、朝鮮との間で結んだ数々の「条約」は、植民地支配を強化するものでしかなかった。
特に、1905年11月の「第2次日韓協約」(韓国統監府設置)、1910年8月の「日韓併合条約」(朝鮮総督府設置)などは、条約などと呼べない代物である。
事前に日本側で用意していた文案を、武力で脅した朝鮮王朝の大臣たち一人ずつに、「イエス」を強要したものである。
当時の朝鮮人の誰もが、日本との「条約」などは無効だとは言えず、国が奪われ、民族が否定され、歴史が拒否されたことに、どれほど涙したことだろうか。
土地や経済権、生活権まで奪われては、朝鮮の中で朝鮮人として生きていくこと事態が難しくなっていたのだ。
具体的には、朝鮮ではどのような社会状況が進行していたのか。日本は侵略戦争を維持していく1930年以降、朝鮮をより強固で安定的な兵站基地づくりのため、物資と人間の収奪化をますます進めていく。
収奪をスムーズに行う前提として、軍事力と警察力とを増強して、徹底した思想統制と弾圧政策を実施していった。
警察権力は32年の2万229名から、41年には3万5239名へと増加させただけでは足りず、それ以外にも警防団、特別高等警察、憲兵などのほか、密偵まで配置して、朝鮮人民の民族意識の息の根を止めようとした。
その上、太平洋戦争末期には約23万名の朝鮮軍を配置し、満州国軍と連携させて、武装抗日集団を追跡する任務に当たらせた。
36年に朝鮮思想犯保護観察令(主に治安維持法違反者を監視)、 37年に朝鮮中央情報委員会設置(知識人たちの情報を収集する機関)、38年に時局対応全朝鮮思想報告連盟設立(社会主義者、民族主義者が思想転向した者の集まり)、同じく38年に国民精神総動員朝鮮連盟結成(内鮮一体化の完成と戦争政策協力推進体)、41年に朝鮮思想犯予防拘禁令(非転向の思想犯を強制拘禁)、44年に朝鮮戦時刑事特別令(裁判を2審制に改めて、国政素乱罪適用者のスピード化と刑罰強化)。
こうして朝鮮での戦時体制を強化し、朝鮮人の生活全般を徹底的に統制したうえで、朝鮮社会の軍需工業化、皇民政策を実施して、民族抹殺政策を強化していった。(朝鮮人としては生きてはいけなくなったのだ)
民族抹殺政策とは、朝鮮民族の思想的、文化的、生活習慣的なものまで否定し、皇国臣民精神を強要することにほかならなかった。
例えば皇国臣民の誓詞斉唱、神社参拝、正午黙祷、日章旗掲揚、各家庭への天照大神の掛け軸、創氏改名、日本語常用、女性には着物と下駄など、朝鮮人の日本人化を常態化し日常化して、朝鮮人の民族意識と抵抗精神を喪失させ、彼らの戦争協力を強要していった。
朝鮮人労働者を日本各地へ送り出すことも、そうした政策の一環であった。
時代が下るにつれ、日本の企業・事業所での増産対策と人材不足、朝鮮での労働者の枯渇かなどが重なって深刻化し、国家権力が直接前面に出てきて、白昼での「人さらい」さえも厭わない労働者集めが行われていった。
だが、それ以前から日本国家の国策としての朝鮮労働者移入であったから、以前も以後も権力側からの強制連行と何等変わりがない。つまりは強制連行であったのだ。
1930年代以前に労働者として日本に来ていた在日朝鮮人一世に取材したおり、彼らに日本に来た理由を尋ねると、全員が日本の国家権力によって強制連行されたからだと、苦痛をにじませて答えていた。
朝鮮人として生きるために、朝鮮・故郷を離れざるを得なくなってしまった最大の理由こそ、日本の植民地支配とその余りにも過酷な政策とによってであったから、彼らが日本に来た理由は、決して「自由募集」「自由渡航」「自由応募」などではなかった。
少なくとも、全ての朝鮮人の意識には、日本に来ざるを得なかったのは、どの年数に限らず、それは日本の国策による強制連行であったと、自身の実感として理解している。
4.国家権力の介在
39年の労務動員計画による日本政府の朝鮮人強制連行の形態は、「募集」「官斡旋」「徴用」へと、次第に強制の度合いを強めて、日本国内ばかりかサハリン(樺太)、東南アジア、南方諸島などの軍需工場、炭鉱、金属鉱山、土木工事などに送り込み、過酷な労働に従事させた。
当時から日本政府は、朝鮮人労働者たちの実態を正確には把握していなかったためか、日本側は強制連行者数を100万あるいは150万だとしてきた。
とてもそのような少ない人数ではない。
南朝鮮の盧武鉉大統領が来日した際、外務大臣が強制連行した朝鮮人の名簿提出を日本政府に要求した。
日本側は賠償問題がからんでいるためもあって、本気では調査せずに、徴用朝鮮人の総数を66万7648名(90年6月時点)と発表した。
「徴用」者に限定(44年以降のこと)して、少人数にみせる工夫をしている。
また、それ以降は 65年の日韓基本条約で解決済みとの立場を表明し、関連法規の「国籍条項」を理由として、個人補償には応じようとはしてこなかった。
日本側のこのような無責任言動に、業を煮やした南朝鮮は「日帝強占下強制動員真相糾明委員会」(05年2月)を設立し、独自の調査活動をすると同時に日本にも再調査を依頼した。
その結果、日本政府が南朝鮮に渡した軍人・軍属・徴用労働者らの名簿から、以下の数字が明らかになった。
被徴用死亡者名簿(1971年)2万1692人
朝鮮人労働者に関する調査結果(91年)6万 9766人
いわゆる朝鮮人労働者に関する名簿(91年)2万 7949人
日帝下被徴用者名簿(93年)1万4410人
軍人軍属名簿(93年)2623人
留守家族名簿(93年)16万 0148人
海軍軍属者名簿身上調査票(93年)10万0778人
臨時軍人軍属届(93年)4万6164人
兵籍戦時名簿(93年)2万0222人
軍属船員名簿(93年)7046人
工員名簿票(93年)2102人
病床日誌(93年)851人
捕虜名簿(93年)6942人
合計48万0693人(05年6月時点)
この名簿でも「徴用者」としているから、 44年の国民徴用令施行以降での、強制連行関係者だけの名簿なのだろう。(人数が余りにも少なすぎるから)
人数を少なくするための日本側の、狡猾さをみる思いがする。
また、「徴兵」及び「軍属」も入っているので、そのことについてもみておこう。
(朝鮮人側は軍人・軍属も強制連行されたとしており、事実、当時の権力側は員数合わせと責任逃れのため、強制動員を行っていた)
朝鮮人の徴兵は、日中戦争の開戦に伴う兵力補充のためであった。
朝鮮人青年・壮年を動員するために、陸軍特別志願兵令を公布(38年2月)して、当初は「志顧」という名の強制・強要を実施することから始めた。
当時の日本は、朝鮮人が戦場では銃をどちら側に向けるのかが分からず不安があったものの、侵略戦争の深化とともに、兵員の補充の方が急務となって、徴兵適用前の準備として「志願」法を制定したのである。
当初の1万 8000余の「志願者」の大半は小作農出身者で、疲弊した農村から生きる術を求めてやってきた。
43年に入ると、「学徒戦時動員体制確立要綱」、「陸軍特別志願兵臨時採用規則」を公布して、戦場の需要に応じて動員体制の枠を広げていった。
この43年までは「志願制」としているが、実際は官憲らの圧力と暴力による強制動員であった。
38年から43年までの「志願者」総数は80万2227名(うち、学生たちは4300余名)にのぼり、彼らを戦場に駆り立てていった。
太平洋戦争が最終段階を迎えた44年4月には、朝鮮人にも徴兵制を適用(軍人・軍属として36万名を超える)して、最も過酷な戦場に送り出している。
先ほどの日本側の名簿には、この時期のものが多い。
他に「海軍特別志願兵制」「陸軍諸学校生徒募集」などがある。
朝鮮人強制連行の対象は、軍人・軍属、各種労働者、軍慰安婦など多岐にわたっているが、どれも日本の侵略戦争の結果であり、犠牲者であった。だからその被害者人数も、戦時中に日本が強制連行・動員したのは、820万人(05年1月、北朝鮮発表)と膨大な数に及んでいる。
当時の朝鮮人の人口が2513万余人(日本が侵略戦争に総動員するために、44年5月に実施した人口調査。同時に調査した朝鮮在住日本人は71万2583人)であったから、全人口の 3分の1、成人・壮年層の60%以上もの人々が強制的に、ある日突然に連行されるという方式で、「動員」「徴用」されたことになる。
この数字からみえることは、朝鮮のどの家庭も複数の、しかも働き手の男性や若い女性たちが、突然に喪失していたことを物語っている。
残された女性たちや高齢者たちだけでは生活が支え切れずに離散するか、病死するなどの後遺症を残している。
家族から強制連行者を免れていたのは、「大物」親日家だけであったのだ。
朝鮮人強制連行問題を語るとき、連行された人々や人数だけを問題にするのではなく、朝鮮に残された不安定化した家族のことまで含めなければならないし、その彼等は全朝鮮に及んでいたことを忘れてはならない。
それらの後遺症は、解放後の自主国家建設にまで影響し、いまもまだ癒されていないが故に、朝鮮人側から改めて問題提起されてくるのは当然のことであった。
5.強制連行の実態
朝鮮人強制連行とは、どういうことであったのか。
最も象徴的に語られている炭鉱労働者の例から考えてみよう。
1937年7月7日の盧溝橋事件から日中関係は、全面的な戦争に突入した。
戦線の拡大に伴い、戦力・兵力・物資の増強が必然的となると、炭鉱などからは日本人坑夫たちを続々と招集し戦地に送るとともに、日本政府は重要エネルギー源である石炭増産を炭鉱資本家に命令した。
そこで、国家権力によって生産手段と労働力とを徴用できる法律、「国家総動員法」を公布(38年4月1日)し、それを朝鮮にも適用していく。
ここから、朝鮮人狩りと称する狂気的で、乱暴な朝鮮人強制連行が始まっていく。
日本国家の法制定と朝鮮人集団移入実施計画に基づき、朝鮮総督府が各事業所に募集地域の区画割りを行っていく。
総督府からの許可を受けた地域に事業所の募集担当者が、面(村)の巡査と書記(村長)の協力を得て、労働者を集める仕組みが出来上がる。
当初、公募という形をとりながらも、公募では割り当ての人数が集まらないため、あらかじめ面事務所の人口台帳によって調査していた家庭に、巡査・書記・担当者たちが赴き、暴力を使い強制的に連行していく。
公権力を利用した労働者集めで、実質は、国家権力による徴用でしかなかった。
巡査や書記も、割り当て人数に達しない場合、叱責・処罰などがあったため、上からの業務命令を忠実に実行することだけに力を注いだ。
すでに40年後半頃には、路上を歩いている男性を巡査が逮捕し、トラックに放り込んで九州方面の炭鉱に運び込むといった、荒っぽい方式が行われていた。
41年頃になると、朝鮮ではすでに労働者は底をつき、山の中に隠れる者もいて、割り当て人数の確保が困難となっていた。
総督府が決定した割り当て人員を揃えられなければ、巡査と面書記、事業所の担当者の責任となるから、募集人の方が必死であった。
どの地域も割り当て人員の確保が難しくなってくると、畑で仕事をしている農民、道路を歩いている者たちを捕まえ、それだけでは足りないと、真夜中に集落を複数の巡査、面書記、労務担当者などが取り囲み、一軒一軒土足のまま上がり込み寝込みを襲って、男たちを殴り付けて家から連れ出していった。
暴力団まがいのことを、公的機関が実行していたのだ。
路上などで「逮捕」された朝鮮人たちは、一定の人員に達するまで近くの警察署の留置所に放り込まれ、30~40人になると行き先も告げずにトラックに押し込め、釜山水上署まで運ばれていく。
各地からトラックで運ばれて来た朝鮮人労働者が300人前後になると、一般乗客が乗船する前に船底の貨物室に押し込んで、釜山港から、後には麗水港からも下関港へと連行していった。
船内には便所代わりのバケツ5~6個ほどが隅に置かれているだけで、扉には鍵が掛けられていたから、臭気が充満していた。
上の船室に行くことが禁止されていたから、途中の景色など何も見えなかったし、一般乗客の日本人は、同じ船内にいた彼らの存在さえ全く知らずにいた。
全員が日常生活の途中で強制的に連行されてきたため、着の身着のままの格好で、家族との別れもできずに、行き先きや仕事の内容さえも知らされずに、下関港まで運ばれた。
大部分が日本語を理解していなかったため、到着した場所がどこなのかも分からないまま、下関港の長い桟橋(桟橋をわざと長くして、ここで「不逞朝鮮人」を監視していた)を渡って岸壁で整列させられた後、列車と貨車の配車が決まるまで、各炭鉱別の倉庫の中に閉じ込められた。
外から鍵を掛けられて、外出も出来なかったので、ここでも彼ら自身の体臭と糞尿の臭いが充満した中で、長い時には 1週間も倉庫内で過ごさなければならなかった。
朝鮮を出発するときに編成した班別の人員が入寮(タコ部屋)後もそのままで、 6人から10人が1班となった。
入寮前に労務係りが、全員の所持品検査を行う。
現金、私物のいっさいを取り上げ、身体一つにした朝鮮人に朝鮮人坑夫専用の菜っ葉服(国防色)と地下足袋、軍手などを渡す。
身元調査は厳しく、日本在住の親戚、友人や知人などの住所を詳しく聞き出し、また、兄弟、親戚、同郷人はいっさい同室させず、部屋と部屋、棟と棟とを完全に分断して、接触を避ける工夫をした。
彼らの逃亡、情報交換、結束などを恐れた結果である。
坑口の近くに建てられた寮は、にわか造りの兵舎式バラックか炭住を改造したもので、隙間からは雨が降り、風が吹き付けてきて、眠れたものではなかった。
出入り口は1カ所で、そこには労務係りの監視室があって、必ずその前を通らないと外に出られないため、監獄(以上)と同じような構造になっていた。
寮の管理は、寮長(官監)を中心に内勤(庶務)と外勤(入坑督促)2人の労務係り、労務助手(入寮者の中から選んだ通訳)によって構成されていた。
寮長と労務係りには、朝鮮語が自在に話せる者でないと勤まらないため、多くの炭鉱では元朝鮮巡査を採用していた。
日本語を十分に理解していない労働者たちに、ここでも皇民化教育を強引に施している。
各案には「皇国臣民の誓詞」を掲げ、入退寮毎に斉唱させた。毎朝5時(全員起床)の号令、軍隊式の行進後、「国のため、天皇陛下のために働かなければならない」などの訓示を行った。
労働時間は3交替制であった。
1番隊は朝6時からで、10時間労働を建て前としていたが、3函取り(2トン入り炭車で 3台分)のノルマがあって、それを果たさない限り昇坑させなかった。
43年以降は、4函取りも強制されたから、彼らの疲労は蓄積され、事故が多くなって坑内での死者も増加していった。
彼らの賃金は、1日2円50銭から3円程度(約束よりも少ない)であったが、愛国預金、退職金積立、普通預金、国債などの名目で強制預金をさせられ、通帳も寮長が管理していて本人には渡さなかったため、積立金が幾らになっているのかなど内容も全く分からないうえ、朝鮮の親元に送金するとの約束さえも企業側は果たしていない。
敗戦後、そのことが問題となったが、企業側は当時の寮長などに責任を押しつけている。
彼らに現金を渡せば逃亡することを恐れていた企業側は、事業所内でしか適用しない金券(それも煙草や肌着を買える程度のもの)を渡していた。
炭鉱は事故が多く、それだけ各地の朝鮮人犠牲者も多く出た。
それ以外にも、凄惨なリンチや虐待、栄養失調などでも多くの死亡者を記録しているこ多くの犠牲者たちを十分に弔い、埋葬する時間と場所さえ、朝鮮人労働者たちには与えられていなかった。
炭鉱、鉱山跡には、ただの石なのかまたは墓石代わりなのかすら見分けがつかないものが、今も散在している場所がある。
その後の開発工事などで、それすら埋没したものもある。
このように埋葬すらされなかった犠牲者が、さらに多くいる。
90年代以降、日本人と在日朝鮮人の歴史研究者たちの間で、強制連行者の実態調査を行ってきた。
その結果、各地の炭鉱近くの寺院の過去帳で、亡くなった坑夫たちの名前や遺骨が見つかった例もある。
過去帳の中の名前は日本名となっていたり、遺骨は引取り手も名前さえも分からないものが大半で、半ば地域の中に埋もれようとしていたものが、多数発見された。
かろうじて見つけた遺骨や過去帳の中でしか推測できない朝鮮人強制連行者の、彼らの歴史と人生と労働とを、日本政府はどのように賠償するのか。
サハリン(樺太)・北海道から沖縄に至るまで、日本列島は朝鮮人の血と汗、涙と怨念にまみれている。
まさに「彼ら犠牲者の白骨列島」(林えいだい)である。
愛媛県新居浜市の住友別子銅山に連行された朝鮮人たちのように、未だに遺骨も見つからず、名前も分からず、墓標すらも建てられない犠牲者は、一体どれほどいるのだろうか。
このような強制連行者たちの無念を、忘れての日韓交流や日朝交流を言う事は、歴史を冒涜している。
死してなお、彼らには名前も忘れられ、または日本名のままであったり、遺骨の引取り手もなく、出身故郷さえも分からずに否、遺骨さえもない朝鮮人たちの恨みを、日本列島はまだ晴らしていないのだ。
6.政治問題である
安倍晋三首相は3月6日、韓国の朴槿恵大統領と就任後初めての電話会談を行った。
大統領は「未来志向の日韓関係構築のためにも、歴史認識が重要だ」「韓国と日本は東アジア地域での重要なパートナーだ」「歴史問題を未来の世代に残さないよう政治指導者が決断し、未来志向的な関係をつくっていくことを望む」などと、歴史問題、歴史認識に対する日本への注文を忘れず要求していた。
これに対して首相は「過去をしっかりと認識しながら未来志向の関係をつくるべく協力していこう」「(日韓両国間に困難な問題があるが)大局的観点から21世紀にふさわしい未来志向の関係を発展させるべく緊密に協力していきたい」と、指摘されている問題への反省もなく、未来志向の言葉だけを繰り返していた。
しかも反省点が欠けていたから、(双方が)努力しようなどと、他人事のようであった。
首脳同士の、儀礼的な、電話での、初対面という重なったハンディーでの会話であったから、意図的に対立点を回避してはいるが、朴大統領は安倍首相に歴史認識の重要性をしっかりと伝えていた。
これに対して安倍首相は、前向きな未来志向の関係構築との言葉だけを繰り返していた。
そのようにしか言えなかったとはいえ、誠実性にも欠けた態度であったと思う。
未来志向とは、誠実な過去の積み重ねがあってこそ、しっかりと開くくことができるのではなかろうか。
安倍首相のような態度と認識では、今後の日韓関係にも影響するだろう。
安倍首相の出身である下関市は、戦前から日本列島と朝鮮とを結ぶ窓口になっている。
朝鮮との政治、経済、文化、人的交流と共に、多くの朝鮮人強制連行者たちが関釜連絡船で運ばれてきて、下関港の岸壁に整列させられていたことを、単に歴史的事実としてだけではなく、当時の日本の国策として連行されてきた事実を聞いているだろう。
しかも、当時の山口県労務報国会動員部長であった吉田清治氏が、軍隊と警察を動員して強制連行者5000人余、女子挺身隊名目で集めた従軍慰安婦950人を連行した罪を謝罪していたことを、また宇部・沖ノ山炭鉱に 41年から敗戦まで約10万人の朝鮮人を強制連行していた事実を、そのうち海底炭鉱の長生炭鉱(通称、チョウセンタンコウ)で42年2月3日、水没事故が発生して183人の朝鮮人が犠牲になったことを、地元であったから安倍さんも知っていただろう。
これらのことも歴史問題だからと言って、歴史家の判断に任せて政治問題にしないというのだろうか。
国家の名において朝鮮人を強制連行したことを、政治家が歴史問題である.と言うのは、過去の問題について責任を取らないことを表明していることと同じで、無責任な発言ではないか。このような姑息な思考を振りまいたままでの「未来志向」など、未来志向も迷惑なことである。
遺骨さえも不明になったままの朝鮮人に対して、日本は謝罪するだけでは済まないのだ。
日本の朝鮮植民地統治の後遺症はまだ癒されていないし、消えてもいないし、朝鮮人にはまだ「戦争」は終わっていないのである。
朝鮮人に対しての戦争責任をしっかりと清算してこそ、日本は朝鮮半島との「未来志向」が築けるのである。
2013年3月18日 記
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