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「『国連軍司令部』の怪」

「『国連軍司令部』の怪」

                                               名田隆司


1.
 米国は12年1月に発表した新国防戦略で「国連軍司令部」を「多国籍連合機構」に変更して、アジア版北大西洋条約機構(NATO)の母体にすることを明らかにした。

 今後10年内に多国籍連合機構を使って、海外に配備している米軍武力の60%を、アジア太平洋地域に集中させようとしているのだ。

 その目的は、中国や朝鮮民主主義人民共和国 (以下、朝鮮)などが、今後、米国ら勢力と対敵し得る勢力に成長できないように包囲網を形成し、軍事的抑制を続けていくことにあるとしている。

 そのため同時に、同地域内での米国との二国間の同盟関係にある各国を、順次に NATOのような統一的な作戦指揮体系に整え、アジア版多国間軍事同盟とすることを目論んでいるのである。

 冷戦時代、米国は欧州のNATOに依拠して、旧ソ連と東欧社会主義諸国を抑制し、崩壊させた経験が忘れられず、それをアジア太平洋地域でも再現し、自らの潜在的ライバル(朝鮮と中国)を包囲する集団的軍事機構を設定しようとしているのだろう。

 今年の7月27日、朝鮮停戦協定が調印されてから60年を迎える。

 朝鮮半島では、未だに法的には戦争が終っていないのだ。

 平和を保障する制度的装置が構築されないまま、朝鮮半島は戦争でもない平和でもないという不安定な状態が、60年間も続いていたことになる。

 その不安定で危険な状態を、平和安定に代えるための協議を、朝鮮は米国に呼び掛け続けてきた。

 その米国は、朝鮮が呼び掛ける平和協定締結には応えず、あくまでも停戦協定状態を維持させたまま、あまつさえ国連軍司令部という冷戦時代の遺物を、再び活用しようとしている。

 米国は以前から、日米軍事同盟と米韓軍事同盟を合体させた三角軍事同盟を進めようとしてきたが、12年、過去の歴史を清算していない日本との軍事同盟化に、韓国民衆と議会が反対して頓挫してしまった。

 それで、そうした関係国の反揆を避けるため、新たな軍事機構を設けるよりも、看板だけの「国連軍司令部」の機能を復活させ、その名の元での連合武力を形成することを考えたのだと思われる。


2.
 国連軍司令部とは、朝鮮戦争時に米国が追従国家の兵力を引き入れ、自らが指揮権を行使して、朝鮮半島で戦ったときの連合部隊名のことである。

 「国連軍」と国連機関の名前を勝手に使用した、米国のための戦争推進「道具」であった。

 1950年6月当時、国連安全保障理事会 (国連安保理)の常任理事国であった旧ソ連は、国連での中国代表権を中華人民共和国ではなく、中華民国 (台湾)が行使していることに抗議 (米国に)して、理事会を欠席(50年1月13日から)する作戦をとっていた。

 第2次世界大戦直後の中国では、蒋介石率いる国民政府軍と毛東沢率いる中国共産党軍との国共内戦が展開していた。

 49年5月、国民政府軍が敗れ、蒋介石らの勢力は台湾へと逃れた。

 同年10月、毛東沢率いる中華人民共和国が樹立された。

 この時点で中国大陸の正式な政府は、中華人民共和国になったのであるから、安保理常任理事国の中国側代表権は、中華民国から中華人民共和国に変更していなければならなかった。

 代表権交代に米国が抵抗していたから、直ぐには実現しなかった。

 中国内戦時の米国は、国民政府軍側を軍事的にも政治的にも支え、援助していた。

 国民政府軍が敗れ、共産党軍が勝利したことに米国は大変なショックを受け、米国自身が敗れたようにも感じていた。

 そのために米国は東アジア戦略の再考と、日韓を中心とした反共防衛戦線の構築作業を急ぐ必要に迫られていた。

 米国がとった台湾政府の居座り作戦は、その一環ではあったものの、時間稼ぎでもあった。

 ソ連が中国代表権問題で理事会欠席戦術をとっている間隙を利用して、米国は朝鮮半島を手中にする作戦にとり掛かっていた。

 南北分断の現実から対立を煽り、軍事紛争、そして戦争へのシナリオを描いていたのであろう。

 国連安保理は5常任理事国と、任期2年で選ばれた10カ国(当時は7カ国)の非常任理事国からで構成されている。

 国連憲章第27条は、国連安保理の主要な評決方法を、手続き事項については任意の9カ国の同意を得ればよいとしているが、主要な決定は5常任理事国のすべてを含む9カ国以上の同意を必要としている。 (常任理事国の拒否権が発生する問題)

 拒否権保有国に対しては、制裁を加えることが難しいため、これまではそのような例はなかった。

 常任理事国のうち1カ国でも同意しなければ、重要な決定は裁決できない仕組みになっているのだ。

 ソ連が出席すれば反対票を投じ、採決できないことが分かっていた米国は、ソ連欠席という願ってもないテコを利用して、朝鮮半島で戦闘が勃発した6月25日の当日に、国連安保理を招集して、北の朝鮮人民軍を「侵略軍」だと定める決議を強引に決定してしまった。 (国連安保理決議第82号)

 しかしこの決議は、厳密にいえば国連安保理違反で無効である。

 安保理では、侵略者に対して軍事力による制裁を決定するなどの、強力な権限が与えられている。

 米国はこの安保理権限、侵略者に対する軍事力による制裁権を、強引に解釈して活用することを考えたものと思われる。

 侵略とは本来、他国に軍事侵入して領土を奪うことを意味しているのであるから、民族紛争に適用することは間違っている。

 「国連軍」を組織することを考えていた米国は、無理矢理な解釈を当てはめ同盟国に押しつけた。

 帝国主義者の勝手な論理そのものだ。

 帝国主義的といえば、南の李明博政権は「2012国防白書」 (12年12月発刊)で、「北の政権と軍隊はわれわれの敵」とし、朝鮮西海の北方限界線に対して「以南は自分らの管轄水域」であると、記載していた。北方限界線とは、停戦協定直後の53年8月30日、「国連軍」司令官であったクラークが、朝鮮西海に一方的に引いた海上の境界線であった。

 米軍のクラークは、韓国海軍の北上を防ぐ意図で、陸上の軍事境界線を意識して臨時海上制約線としたのだ。

 問題は、停戦協定調印者の相手側の朝鮮には何の協議もなく、米国が勝手に西海5島を起点 (停戦協議当時、島を国連側が占領していたため)として引いた線で、朝鮮側は今日まで認めていない。

 南の「国防白書」に北方限界線を「実質的な海上境界線」だと書き入れたのは、李明博政権が始めてで、それだけでもこの政権が南北対決姿勢を露にしていたかが分かる。

 北との関係を民族同士として考えるのではなく、対立する国家間のような感覚で対応してきたのは、米国の要請でもあったろう。

 それこそ、朝鮮民族の分断を追及している米国政治のカイライの役割を演じてきた、悲しくも侘びしい政権であったと思う。

 米国は、北の朝鮮人民軍を「侵略者」だとするために、彼らからの軍事的挑発を誘引する仕掛けを、米国お得意の「誘引作戦」を幾重にも準備した。

 朝鮮の親日派と右翼連中と、米軍政庁の軍事力によって支えられていた李承晩政権は、民衆からの激しい反発を受け続けており、インフレーションも政権を攻撃していた。

 この頃の南朝鮮民衆たちの生活は、不景気、失業、物価高の最悪の状態がずっと続き、そのうえ政治の不正腐敗と政権延命のためにする各種の不条理、担造事件とテロルまでが相次いで発生するという、暗黒社会となっていた。

 48年以降、南朝鮮各地では反政権闘争が武装闘争へと発展し、遊撃戦が繰り広げられていた。

 各地の遊撃隊に、麗順反乱事件の主力部隊が合流し、武装遊撃隊-と成長を続けながら、李政権に打撃を与えていた。

 武装遊撃隊は49年5月頃になると、遊撃戦区創設に力を注いだ。湖南 (全羅道)、智異山、大白山、嶺南 (慶尚道)、済州島など、南朝鮮133郡のうち118郡にまで遊撃戦区を形成するほど、戦線が拡大していた。

 その中心は智異山で、そこではパルチザン闘争が繰り広げられていた。

 7月以降、戦闘組織はさらに拡大し、人民遊撃隊へと再編している。

 李政権は、遊撃隊地区の住民を強制移住させるなどして、遊撃隊の掃討作戦を展開 (この段階ですでに南朝鮮一帯は内戦状態となっていた)した。

 50年4月の1カ月間の交戦回数は2948回、参加人数は6万5000名を越す戦闘となっていたのだ。

 朝鮮戦争勃発後は、彼らは南部軍として再編されて、遊撃戦を続けている。

 米軍政庁は、南朝鮮のこのようなパルチザン闘争を利用し、帝国軍にパルチザン部隊を追っかけるふりをして、38度線を越境する小競り合いを繰り返し続けさせた。

 小競り合いは銃撃戦となり、追撃戦となり、本格的な戦闘場面が増加していった。

 誘引作戦として米国は、宣伝戦も大いに利用した。

 その一つがアチソン・ラインであった。

 アチソン米国務長官は50年1月、対中国・北朝鮮の防衛線として、マーシャル列島-日本-沖縄-フィリピンを結ぶ線に定めるとする内容を発表した。

 南朝鮮と台湾が防衛戦から除外されていたため、米国は南朝鮮を重視していなかったのではないかとの憶測で、アチソン・ラインを信じて、金日成が南侵を決定したのではないかとの、研究者たちが今も存在している。

 そうした論調こそ、米国の思惑と宣伝に嵌まった思考である。

 「北朝鮮軍が侵攻した」「北が戦争を始めた」との解釈論こそ、米国が安保理を利用する際の主張であった。

 47年後半の米国が、日本と南朝鮮を東アジアの要石として、反共防衛ラインの中心に据える決定をしていたことを考えれば、アチソン・ラインで南朝鮮を外したのは、まさしく北を誘導する作戦の一部であったことが理解できるだろう。

 ソ連政府は6月29日と7月7日に国連安保理に電文を送り、常任理事国であるソ連と中国の支持なしに採択した決議は、国連患章に違反しており、効力はない旨を通告した。

 ソ連が安保理を欠席していたのは、50年1月13日から51年1月までの1年余であった。

 朝鮮問題からすれば、欠席戦術を取っていたソ連は、常任理事国としての役割を果たしていたのかと、疑問点を抱いてしまう。

 米国の陰謀が明らかとなった後も、電文だけでの抗議というのは、その後の米国の行動を暗黙の内に承認していたようなものである。

 そのようなソ連の抗議など平気で無視した米国は、続く7月7日に再びソ連欠席のもとに招集した会議で、朝鮮戦争に国連加盟国が武力を派遣し、それを米軍の指揮下の「連合司令部」に結集させると同時に、その司令部に「国連旗を使用」することを決議させた。(国連安保理決議第84号)

 「国連軍司令部」と似た名称に、国連軍がある。

 国連軍は、国際連合憲章第42条の規定に基づき、国際連合加盟国によって組織される軍隊である。

 国際平和の維持、侵略の阻止のために、安保理の下に軍事参謀委員会をおき、軍事力を組織すると規定していたが、この方式はまだ実現していない。

 50年のスエズ戦争、60年のコンゴ戦争、61年のキプロス紛争などに出動した部隊も、「国連軍」もしくは「国連平和維持軍」の名称を冠せていたが、朝鮮戦争時の手法を用いたもので、国連憲章に規定された本来の国連軍ではない。

 朝鮮の場合は、もちろん国連憲章が定めたものではなく、米国が細工した安保理の「決定」での勧告に応じた国連加盟国の軍事行動であった。

 安保理で決定していた当初の名称は「連合司令部」であったが、米国が安保理に連合司令部の報告書を提出する7月25日に、名称を勝手に「国連軍司令部」と変更し、以後はその名称を使用している。

 米国が作成したペーパー上の名称であから、「国連軍司令部」は米国が詐称したものだとする所以である。

 名称は国連軍ではあったが、実質は米軍との連合軍であったから、米国政府が任命した司令官が指揮をとるようになったのは、当然といえば当然であったろう。

 理事会の「勧告」に応じるかたちで兵力をおくったのは英国、オーストラリア、トルコ、ニュージランド、フランス、カナダ、南アフリカ共和国、タイ、コロンビア、エチオピア、ギリシャ、オランダ、フィリピン、ベルギー、ルクセンブルクの15カ国であった。

 米国は安保理「決議」に先立って軍事行動をとっていた。

 ソ連が国連安保理の理事会活動に復帰した直後の51年1月31日、安保理議定(50年6月25日の第82号)から「大韓民国に対する侵略に関する提訴」の案件を削除することを提起し、採択 (決議第 90号)された。

 米国が強引に朝鮮人民軍を「侵略軍」だとして、安保理でレッテルを貼り付けたものが、剥がされたことになる。

 このことについては、ソ連の成果であった。

 この時点で、「国連旗」のもとに結集していた武力は、朝鮮半島で戦う何等の根拠もなくなっていたのだ。

 最早や「国連軍司令部」は、国連安保理が管轄する機構ではなくなっていたのだから、解散する必要があった。

 それにも関わらず「国連軍」という名称のまま、米国の戦争「道貝」となって朝中人民軍と戦い続けていたことになる。

 歴代の国連事務総長も、国連機構の中で「国連軍司令部」は存在していなかったことを認めている。

 ブトロス・ガリ事務総長は「連合司令部は国連安保理が自らの統制下にある付属機構として設立したのではなく、それは米国の指揮下に置かれるようになった」 (94年6月の朝鮮外交部長への書簡)。

 コフイ・アナン事務総長「私の先任者のうちの誰も、国連の名と結び付けることをどの国にも許諾したものがいない」 (98年12月の朝鮮最高人民会議常任委員会委員長への書簡)。

 さらに国連の報道官も「国連軍司令部は国連の軍隊ではなく、米国が主導する軍隊」 (04年7月と06年3月での談話)だと認めている。

 以上のように、国連機関も「国連軍司令部」は国連の軍隊ではなく、米国が主導した軍隊で、「国連軍」の名称も米国が誰かの承認もなく勝手に使用したことを証明している。


3.
 朝鮮停戦協定が調印 (53年7月27日)した直後、国連旗の下で戦った参戦国は、米軍以外はほとんど朝鮮から撤退している。

 「国連軍司令部」を構成しているのは米軍と韓国軍だけとなり、板門店軍事分界線南側に駐屯しているのは、実質、米韓連合軍であった。

 現在でもまだ、米軍板門店駐屯地前の国旗掲揚ポールには、参戦国の16本の国旗が風に揺れている光景は、米国政治の虚勢を見るようである。

 韓国は戦争中の50年7月12日、米国と「大田協定」を結んでいる。

 協定の内容は、戦時下の駐留米軍の指揮および裁判管轄権に関するもので、米軍の違法行為に韓国政府は何等の措置もとることができないとする、一方的な「奴隷」的な内容であった。

 同時に7月14日、米軍に韓国軍の作戦権まで引き渡す条約を、国会の批准もなく李承晩が決めてしまった。

 こうして行政権も軍事権も米国に引き渡した李承晩は、自己の保全だけを願った、売国奴だと批判されても仕方がないだろう。

 植民地時代、日本帝国主義者は強権でもって外交権、内政権、軍事権まで奪い取ってしまったけれども、李承晩の場合は自ら売り込んだのである。

 そこが日帝と違った、現代帝国主義の米国のもっとも狭いやり方であった。

 第30回国連総会(75年11月)で、「国連軍司令部」解体問題に関する2件の決議が提案され、2件とも採択された。

 米国が提案した「停戦を管理できる他の装置が設けられれば、76年1月1日までに国連軍司令部を解体できる」 (決議3390A号)とするもの。

 もう1点は非同盟諸国などが提出した「国連軍司令部を無条件に即時解体すること」 (決議3390号)であった。

 米国案の「条件付き」解体論は、当時、非同盟諸国が台頭してきた国際社会の声を反映したもので、条件付きではあったが、解体案を出さざるを得なかったことを物語っている。

 とはいえ、これは即時解体論を回避するための、米国流の巧妙なペテン策であって、解体はしないという意思表示であったのだ。

 「決議 3390号 A,B」両決議の採択を受けて、「国連軍司令部」は国連機関から正式に解体宣言を受けたに等しい。

 もともと実態がなかったものに解体宣言を行ったのだから、誰もその後の存在にについては気にもしていなかったものと思われる。

 しかし米国だけは、解体しないための「条件」探しを行っていたようだ。

 それはまた、停戦協定を存続させるためであって、戦争の遺物「国連軍司令部」の名称にしがみつく必要があったのであろう。

 停戦協定を転換する政治討議(朝鮮統一問題)が、予定よりも大幅に遅れて54年4月26日、スイスのジュネーブでインドシナ問題の討議とともに開かれた。

 朝鮮問題の討議には、米国をはじめとする参戦16カ国と南北朝鮮、中国、ソ連が参加した。

 南朝鮮側代表は、国連監視下の自由選挙、立法部の代議員は人口比例、大統領制、統一された朝鮮政府の樹立が完全に達成されるまでは国連軍は撤収しない、統一された朝鮮全土と独立は国連軍によって保障されること-などと、完全に米国の代弁者的提案を行った。

 一方、朝鮮側代表は外国軍の撤収と兵力の削減、あらゆる手続きを討議する全朝鮮委員会の構成など、自主朝鮮国家の樹立を提案した。

 会議は進展せず、国連参戦国の16カ国は6月15日、「共産主義者がひたすら自由選挙を不可能にすることに固執しているから、われわれはこれ以上、朝鮮問題を討議することができなくなったことを遺憾に思う」との共同宣言を出して、代表団は帰国してしまった。

 会議は何の成果もなく終り、それ以降、今日まで会議は開かれていない。

 米国は、停戦協定で規定されていた、協定調印後の 3カ月以内に、一段上の政治会議を開催することを、パフォーマンス的に実施してみせたにしか過ぎない。

 会議の決裂も、会議が再開されない理由も、全てを共産主義者側に問題があるからだと、言い訳けができるようにして。

 一方で米国は、駐韓米軍の永久駐屯を法的に支えるため、急いで「米韓相互防衛条約」をワシントンで締結(53年10月1日締結、54年1月13日発効)した。

 その骨子は、条約は無期限に有効であるとするもので、米国が考えていた米軍の永久駐屯を表現していた。

 さらに、ソウルに置いていた国連軍司令部司令官が在韓国連軍司令管 (実質、在韓米軍司令官)を兼ねるとし、72年に最後の「国連軍」タイ軍が撤収して以降、在韓国連軍と在韓米軍は、一体化している。(これとて、あくまでも米軍内の虚構的な方法論上のことでしかないのだが)

 78年11月に米韓連合軍司令部 (米韓軍の連合作戦司令部)を創設して以降、韓国軍の作戦統制権は米軍が掌握するとともに、在韓国連軍司令官の権限は、軍事停戦協定に関する部分に縮小し、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権は、米軍が掌握することになった。

 ということは、板門店での停戦会議出席者は、名称だけの「在韓国連軍司令官」が米軍側の代表として出席していたことになる。

 「国連軍司令部」の名称を残すための、米国の苦肉の細工であったろう。

 板門店での軍事停戦委員会は、軍事停戦の実施状況の維持、違反に関する処理を協議するために設置された機関である。

 朝中側と国連軍側、それぞれ 5人で構成されていた。

 ところが 91年になると、国連軍側首席代表に黄源卓韓国軍少将を任命 (3月25日)したことで、朝鮮側は抗議して、軍事停戦委員会本会議への出席を拒絶した。

 以来、停戦委員会は機能不全となった。

 そのうえ、中立国監視委員会の共産側のチェコスロバキア代表団が93年4月に、ポーランド代表団が95年2月に撤退してしまった。

 国連軍側監視委員であったスイスとスウェーデン代表団も止むを得ず撤退したので、中立国監視委員会の構成の地位が保障できず、機能も遂行できなくなったので解体された。

 停戦協定によって設置された軍事停戦委員会と中立国監視委員会は、ともに解体されてしまったことになる。

 軍事停戦委員会代表部に代わる機関として94年5月から、朝鮮人民軍板門店代表部となり、米軍との接触機関となっている。

 米軍側は朝鮮人民軍板門店代表部の正統制を容認はしていないが、現実的な朝米軍事部門協議の板門店代表部として接触をしている。

 一方、在韓米軍は94年12月、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権を、平時のみ韓国軍に返還した。

 戦時については依然として米軍が掌握していて、2015年にはこれも返還するとしているのだが、まだはっきりとはしていない。

 戦時の統制権については、朝鮮以外の第三国との紛争では適用しないため、このような変則的で例外的なことにも、対朝鮮にのみ向けられた事項であった。


4.
 米国は91年3月、軍事停戦委員会国連軍側首席代表を米軍将官から、韓国軍将官に替える措置を講じた。

 停戦協定相手側の朝鮮人民軍側とは事前協議もせず、しかも停戦協定調印者でもない帝国軍将官を据えたことなどが、重大な停戦協定違反行為を犯していたことになる。

 停戦協定第5条61項には、停戦協定に関する修正と添付がある場合、必ず敵対する双方の司令官の相互の合意を経なければならない、としているため、これに違反していた。

 首席代表を韓国軍将官にしてしまった「国連軍司令部」は、停戦管理のための協議資格を自ら失ってしまったことになる。

 これは、米軍が国連軍側代表権を自ら失ったことと同じで、以後、板門店での軍事停戦委員会は麻揮状態となり、事実上、委員会は解体されたも同然で機能はしていない。

 このため、軍事停戦委員会の朝中側の一員であった中国人民志願軍代表団は94年12月、撤退してしまった。

 朝鮮側も従来の朝中側代表団に代わって、朝鮮人民軍板門店代表部を設置し、停戦を管理する機構とした。

 以上のような経過を通じて停戦管理機構は、完全に機能麻樺状態に陥ってしまった。

 このため停戦状態の管理に関する問題は、従来の朝中側対国連軍の関係から、朝鮮人民軍側と米軍側との協議によって処理されるようになった。

 さらに、朝鮮半島の停戦協定を維持する外部環境も変化していたのだ。

 80年代末から東欧社会主義諸国と、ソ連共産党体制が崩壊した。

 つまり、世界は冷戦体制を維持していく必要性がなくなったことを意味していた。

 朝鮮半島にもその変化の兆しがあり、91年9月には南北国連同時加盟が実現した。

 米国は毎年、形式的に韓国の国連加盟承認を国連に上程していたが、70年代に入ると多くの非同盟諸国が国連に加盟し、南北朝鮮の支持がほぼ拮抗するようになった。

 そこで米国は、米中接近などの緊張緩和 (デタント)を進めたニクソン政権以来、朝米関係にも変化球を投げ掛けた。

 73年以降の米国は、南北朝鮮の国連同時加盟作戦へと変更した。

 同時に「クロス承認」プランもすすめている。

 クロス承認とは、日米が朝鮮を、中ソが韓国をそれぞれ承認することによって、南北朝朝鮮の平和共存を周辺4大国が保障していくという意味内容であった。

 これに対して朝鮮は、「国連軍」と戦闘を交えたことで、国連への不信感を持っていたことと、国連同時加盟案もクロス承認案も結局のところは、外部勢力の干渉によって統一問題を許し、そのことが南北分断を固定化する作用になるとの立場で、拒否を続けてきた。

 しかし73年には、ニューヨークに国連代表部を設置している。

 翌74年に、停戦協定の平和協定への転換のための朝米直接交渉を公式に提案した。

 韓国も北方政策を追及していて、90年9月にソ連と国交樹立、中国も韓国との国交樹立 (92年 8月)を考慮していたことなどから、朝鮮も国連同時加盟を決意した。

 中ソの韓国との国交樹立後、米国はクロス承認の片割れ、日米と朝鮮との国交樹立を全く進めなくなった。

 そのことで、クロス承認プランが平和共存という名の、反共反北政策の変種であったことが分かる。

 これらは米国が、朝鮮半島の冷戦構造を維持し、追及してきた結果である。

 南北朝鮮の国連同時加盟が実現したことで、冷戦体制の遺物であった停戦協定を維持していく必要性はなくなっていたはずだ。

 むしろ、停戦協定に代わる平和協定を早期に締結し、朝鮮半島の平和保障問題を協議する環境が生じていたのである。

 朝鮮半島の平和保障体系を協議する停戦協定の規定では、軍司令官ではなく一段上の政治会議で議論することを定めている。

 停戦協定締結の当事者である「国連軍司令部」の実際の政治的上級者は、国連機構ではなく米国政府である。

 歴代の国連事務局長たちも認めているように、国連が正式に国連軍司令部を組織していなかったからである。

 停戦協定を解体し、代わりに朝鮮半島の平和協定締結を確立していく政治会議の構図は,朝鮮と米国、朝鮮・中国と米国・韓国、朝鮮と米国・韓国などが考えられる。

 直接、停戦協定を調印した政肘間協議であれば、朝鮮・中国と米国ということになる。

 しかし中国軍はすでに撤退していたこともあり、実質は朝鮮対米国による協議体が現実的になる。

 朝鮮政府は94年4月28日、朝鮮半島の新たな平和保障体系を樹立する提案を行った。

 この平和構想は、朝米の和解と平和協定の下で、朝鮮半島の平和保障を実現していこうとする考え方である。

 さらに、朝米間の停戦協定に代わる暫定協定の締結に関する提案をも追加した。(96年2月)

 それは朝鮮半島で完全な平和協定が締結されるまで、武力衝突と戦争の危機を取り除き、停戦状態を平和的に維持していくための朝米間での、平和協定締結までの暫定措置を協定するというものであった。

 当時の朝鮮半島、朝米間は、核戦争前夜の危機に見舞われていたためでもあった。

 朝鮮半島の恒久的な平和体制を樹立する問題では、朝鮮、米国、中国、韓国の4者会談も開催され、論議も行われた。

 ワシントンで2000年10月に行われた朝米高位級会談では、朝鮮半島の緊張状態を緩和し、停戦協定を強固な平和体系に替えて、朝鮮戦争を公的に終結させるうえで、4者会談などがあることを確認する「朝米共同コミュニケ」を発表(10月12日)した。

 また、南北朝鮮首脳会談が行われた07年10月、直接関係のある3者、または4者の首脳が、朝鮮戦争の終戦を宣言する問題を推進していくことを、金正日総書記が提案し合意している。(07年10月4日、南北関係発展と平和繁栄のための宣言)

 このように、朝鮮半島の平和・安定・繁栄問題での合理的提案は出揃っており、一部は米国政府も同意している。

 後は米国が、どの会談のテーブルに着席するのかということだけで、どのテーブルにも朝鮮半島の強固な平和保障体制が用意されていた。

 だから米国の覚悟が遅れているのだろう。

 これまで朝鮮半島の平和移行問題でのどの会議でも、国連軍司令部の存在を前提にしたり、問題にしたりする言及はなかった。

 すでに解体されているとの認識が、世界および関係機関では共通認識になっていたからである。

 死滅しているはずの国連軍司令部の名称を、米国が再び口にしている。

 それも多国籍軍を結成するために利用し、またまた戦争の「道具」にしようとしている。

 このようなことは朝鮮半島を含むアジア太平洋地域の、安全を保障する見地からも、絶対に看過できない問題である。

 朝鮮戦争を終結させる体制をつくらないで、幻の国連軍司令部の名称を復活させるということは、朝鮮戦争を他地域にも拡大していくことにつながり、非常に危険なことである。

 第2次安倍政権が自衛隊を「国軍」化してくことに触れているが、そのような日本が米国と結託して、アジア太平洋地域の緊張と脅威を高めていこうとしている。

 米国は国連軍司令部を解体できない理由に、「北の軍事力強化」「北の核開発」などの論を言っている。

 朝鮮の12年12月の人工衛星打ち上げや、13年2月の小型化した核実験に対して、国連安保理での制裁決議を騒ぎ立ててきたのも、自らの帝国主義的、軍産国家体制を維持していくためであったのだ。

 朝鮮は以前から、朝米間の平和体系が整うなら、核もミサイルも必要はないと主張している。

 ニューヨークでの学術会議(12年3月9日)に参加していた朝鮮の李容浩外務次官は、核の放棄よりも朝米関係改善が先決で、「核武装は自衛装置であり、まず米国の敵視政策の撤回が必要」だと主張した。

 そうした言葉に一度も耳を貸すことなく、幻の国連軍司令部を存続させ、平和協定締結にも進んでいこうとしなかった米国こそが、朝鮮半島を含むアジア太平洋地域での最大の脅威国であったのだ。


5.
 これまで、朝鮮戦争を戦った「国連軍司令部」とは何だろうかと、追及してきた。

 この軍隊は国連機構ではなく安保理のなかで、しかも常任理事国の旧ソ連が欠席している間隙での強引な決議であったのだから、安保理決議でも無効な決議であった。

 このように「国連軍」とは、米国が反共政策を推進するうえで、国際社会をめくらませするための創作物であったことが分かった。

 停戦協定後も「国連軍」の名称で韓国に駐屯してきた実質米軍を、朝鮮側は実態的な無効作戦に出て、国連軍解体作業を続けてきた。

 今日まで、板門店停戦ラインで繰り広げられてきた朝米間の協議、それがもう一つの戦いでもあった。

 ところで駐韓米軍は、国連軍と駐韓米軍の撤収にともなう作戦指揮体系を効率化するとの名目で、78年11月7日に「米韓連合司令部」なるものを創設した。

 その理由は、韓国軍をより直接的に米軍指揮下に編入するために取られた措置で、戦争遂行本部 (対朝鮮)として位置付けた。

 米韓連合司令部は、韓国軍と駐韓米軍を統制指揮し、その最高司令官は駐韓米軍司令官が兼務することになっている。

 この連合軍部隊の使用を決定できる参謀長と作職・軍需・企画担当参謀のすべては、米軍将校によって占めている。

 さらに驚くべきことに、合同司令官はただ米国の合同参謀本部にだけ報告する義務があって、韓国政府に対しての報告義務は必要ないとしている点である。

 韓国「領土」に駐屯している外国軍隊が、作戦行動を伴う場合にも、当該政府の了解も報告も必要がないなどとは、植民地軍と同じことではないのか。

 韓国軍は全面的に、米軍の統制下に置かれている一部隊でしかないということだ。

 それ以前に開催されていた米韓定例安保協議会(68年5月から、毎年開催されている)では、朝鮮半島の安全保障、韓国軍の国防装備現代化などの問題を討議する場になっている。

 その実態は、米国が92年9月に北の核問題をクローズアップ化させて以降、対北の合同軍事演習の強化、米軍中古兵器の契約問題、駐韓米軍の経済的支援問題など、専ら米軍問題のために時間が費やされている。

 土地と金を提供し、地位も権利も米軍が握ったままの米韓連合司令部とは、果たして誰のために必要であったのかと、南朝鮮人民たちの強く鋭い疑問は米国に向けられている。

 昨年6月,日韓政府間ですすめていた「日韓軍事情報包括保護協定」締結が、署名直前になって韓国側から延期の申し入れがあった問題などは、そのことを如実に示している。

 この協定は、米国がアジア地域の共同軍事同盟強化策として、米韓、日米の軍事の輪を補強する鎖として、以前から推進してきたものであった。

 署名に至らなかった理由として、韓国側は、日本の植民地支配に対する後遺症で、日本の軍事的進出を警戒した野党や世論の反発を考慮したからだと説明している。

 確かに、そのことも大きな問題であったろうが、その底流にあったのは南朝鮮民意の反米自主意識にあったのだ。

 このような反米意識はやがて、反帝自主闘争へと転化していく源泉となっていくだろう。


 
 この原稿を書き終えた日が、偶然にも3月1日であった。

 瞬間、その日から 94年が過ぎ去っていることを理解していた。

 朝鮮で 1919年に興った「3・1 民族独立闘争」記念日のことである。

 さすがに日本のマスメディアのどこも、この間題を扱ってはいない。

 これまで原稿で、朝鮮人民の米国との自主権闘争を考えてきたので、その延長上で3・1の今日性に触れてみたいと思う。

 3・1独立運動は、一部の親日派や民族反逆者を除いた全朝鮮人民が、3月1日を期して朝鮮全土で展開した民族独立要求運動であった。

 朝鮮が日帝に併合(10月22日)された後、暴圧と略奪、搾取に呻吟していたその10年目の1919年に、日本帝国主義の支配に反対して立上がり、朝鮮の独立 (自主権)を熱望する意志を全世界に表示し、なおかつ反帝闘争への助走となった。

 この運動の推進力であったのが、貧窮する農民大衆、中小商工業者、労働者、都市貧民、学生たちであったことを知れば、彼らがその後の反日反帝、自主自立運動の主体となっていったことも理解できるだろう。

 運動が朝鮮全土に拡大していく様に驚愕した日本側は、軍隊と警察を差し向けて、武器ももたない無抵抗な人々に武力鎮圧を強行した。

 運動の参加者は200万人余とも、それ以上とも伝えられているが、日本の警察発表では、どうしても過少評価数字しか伝えられていない。

 それでも当時の全朝鮮218郡のうち、211郡で運動があったことを記録している。

 死者8000余、負傷者4万5000余、投獄された者5万3000余を出している反日運動は、単に朝鮮民族だけの自主要求運動ではなかったのだ。

 3・1独立運動の直前、ロシアではレーニンが率いるロシア革命が勝利(第1次1905年1月、第2次1917年3月)していて、民族の実際的分離独立、民族解放の実例を世界に示していた。

 同時に、第1次世界大戦後のベルサイユ講和会議 (フランス)で、米大統領ウィルソンが、民族自主権の考え方を提起していた。

 ウィルソンの提起は、全世界の被圧迫民族が解放を要求していく端緒となった。

 中国では「5・4運動」が発生している。

 5月4日、北京で学生たちが起こした日本帝国主義に反対するデモは、中国全土に広がり、反日運動となって燃え上がった。

 その後この運動は、中国での反帝反封建闘争を展開していく基礎となっている。

 革命勝利後のロシアでは、レーニン指導下で共産党の国際組織、コミンテルン (共産主義インターナショナル、第3インター)を1919年3月に結成している。

 インドもガンジーの指導で、反英運動を非暴力不服従遊動へと導き、世界的な反帝運動へと結び付けている。

 こうした世界の新しい潮流と連座した朝鮮の3・1運動は、世界の反帝闘争をも担っていたのは当然のことであったろう。

 従って運動は朝鮮全土ばかりか、朝鮮人が多住する中国東北地方にまで波及し、そこでも反日反帝闘争が繰り広げられていった。

 朝鮮や中国での反帝闘争は、白頭山や中国の間島などを中心とした抗日武装闘争を展開していく根拠地闘争へと発展し、民族解放を勝ち破るまでのパルチザン闘争が展開されていった。

 30年代以降、パルチザン闘争を指導した金日成は、3・1運動を平壌で7才のときに父親とともに参加している。

 この時の経験が、生涯を反帝闘争へと向かわせたバネの一つとなっていたのではなかろうか。

 現在の朝鮮半島は、3・1運動に参加した金日成や朝鮮人たちが、命をかけて闘った結果とは違ったかたちとなっている。

 つまり民族が南北に分断されていて、南朝鮮に米軍が駐屯し、米国が朝鮮停戦協定を維持させたままになっているからである。

 これまで南朝鮮で大規模な反米反帝闘争が何度も実行されてきたとはいえ、米国と結託している勢力などによって阻まれてきた経緯がある。

 だが朝鮮半島の統一、民族の統一は、全朝鮮人民の真っ当な要求であり、当然の権利であり、自主権の行使であるから、その要求は少しずつではあるが前進してきている。

 朝鮮民族の自主権闘争の今後は、3・1運動当時とは違ったかたちで、朝鮮半島で展開されていくだろう。

 朝鮮半島統一への闘争も、単なる朝鮮半島や朝鮮人民だけの闘争ではなく、反帝反米闘争が世界的な潮流となっている現在、世界の自主化実現問題としっかりと結び付いた主張であり、闘争なのである。


                                        2013年3月1日 記
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「米国言語に騙されるな」

「米国言語に騙されるな」

                                               名田隆司



 朝鮮人民軍最高司令部は3月5日、「朝鮮戦争の停戦協定を白紙化する」との声明を出した。さすがに米国もびっくりしたろう。

 声明では、

1.米帝が核兵器まで振り回して襲いかかる以上、われわれも多種化した朝鮮式の精密核打撃手段で真っ向から立ち向かうだろう。

2.現在繰り広げている合同軍事演習「キー・リゾルブ」「フォール・イーグル」が本格的な段階に移る3月11日からは、形式的に維持されてきた朝鮮停戦協定のすべての効力を全面白紙に戻すであろう。

3.平和体制樹立のための協議機関として暫定的に設立した、朝鮮人民軍板門店代表部の活動も、今後は全面中止することになるだろう。さらに、板門店朝米軍部電話も遮断する-とした。

 朝鮮がこのような強硬声明を発表した理由を、 4点に分けて考えてみたい。

 第1は、朝鮮半島の停戦状態を、60年以上は続けたくないとする強い決意である。

 第2は、オバマ米政権が「核廃絶」を主張しながらも、朝鮮とは「忍耐」政策を続けて対話にも応じず、政治的圧力と制裁を続けてきたからである。

 対話のない米政権に対して朝鮮は、「行動対行動」で示してきたのが人工衛星打ち上げ(12年12月)、核実験 (13年2月)であった。

 こうした「行動」も事前に予告していたから、それ以前に米国だって朝鮮と共同歩調 (非核化)を取れる可能性が十分にあったはずである。

 朝鮮が改正(12年4月13日)した社会主義憲法の序文で、核保有国の地位を明示した後の8月25日、金正恩第一書記は東部戦線視察での人民軍主要幹部に対する演説で、「反米対決戦」を宣布(8・25)演説している。

 8・25演説では、「われわれの我慢にも限度があります」と述べ、米国の核恐喝に対する打撃準備の完了を内外に明らかにしていた。

 米国にとっても、6者会談関係国にとっても、この演説の意味するところが重要な起点になっていたのだが、傲慢な耳は聞き逃していたようだ。

 第3は、人工衛星を打ち上げた際にもそうであったが、2月の核実験に対しても、米帝が中心になって国連安保理で制裁決議を採択するため、反朝鮮敵対行為を積極的に行ってきたからである。

 米国は制裁決議案の交渉を中国と水面下で進めてきて、5日(米国時間)に安保理に提出した。

 朝鮮人民軍最高司令部は、このような米国の行動に対して最早や「堪忍袋」の緒が切れたことを伝えたのが、5日の声明であったろう。

 国連安保理は7日午前 (日本時間8日未明)、朝鮮への追加制裁決議を全会一致で採択した。

 今年1月に続き4度目となる。

 決議の骨子は、金融制裁の拡大、核・ミサイル開発につながる資産移動の禁止、禁輸物品が疑われる船舶貨物の検査義務化、北朝鮮外交官の制裁違反活動の監視強化-など、厳しい内容となっている。

 同時に、米国の対朝鮮への恐怖感表現だとも読み取れる、米国言語となっていた。

 第4は、現在、米軍を中心に展開している合同軍事演習に対してである。

 3月1日から約2カ月間、膨大な武力を動員して朝鮮を軍事的に圧殺する「キーリゾルブ」「フォールイーグル」合同軍事演習を、米国は今年もまた強行している。

 この合同軍事演習、例年とは違って核を搭載した原子力超大型空母打撃集団と爆撃機B52Hをはじめとする、地上、海上、空中の核打撃戦力を大量に投入していることである。

 さらに従来の米韓合同軍事演習の枠を越えて、イギリス軍、オーストラリア軍、フィリピン軍などのほか数カ国の兵力を投入していて、米軍内部ではそれを「国連軍」の軍事演習だとしていることである。

 「国連軍」とは、米国が盗用してきた幻の名称ではあるが、その名称のもとに16カ国を率いれて朝鮮戦争を戦ってきた連合軍のことである。

 この軍事演習の意図から米国は再び、朝鮮半島での戦争を目論んでいるのではないかと疑わざるを得ない。

 朝鮮は演習が始まる直前の2月23日、朝鮮人民軍板門店代表を通じて、駐留米軍司令官に電話通知文を送り、合同軍事演習強行に対して「侵略戦争の導火線に火をつければ、その瞬間から諸君たちの時間は運命の分秒を争う、最も苦しみの時間が流れるだろう」と警告をしている。

 警告とはつまり、合同軍事演習を中止せよということである。

 この朝鮮側の警告を無視した米国は、戦争直前の実戦演習を実施して、朝鮮を威嚇し挑発している。

 限界線に達したとする朝鮮側の怒りは、もっともなことだろう。

 目前で敵連合軍が、戦争への導火線に意図的に火を近付けているときに、祖国と人民を守護するための戦闘動員準備態勢をとるのは当然のことである。

 日本のマスメディアは、朝鮮の5日付け声明について、米国との交渉を有利に進めるために緊張を高めている「瀬戸際外交」だと、的外れな分析をしている。

 世界には反米国家や米国の政治に反対する各国の政党・団体が多く存在している。

 2月の核実験に対して、朝鮮の立場を支持する国際社会があることを、彼らは知らないのだろうか。

 世界にもっと広く目を向けるべきである。

 米国情報だけではなく、もっと多くの人々の意見も聞くべきである。

 親米日本のメディアたちは、朝鮮の核を支持している側のことを全く無視して報道しないから、日本社会には公平な意見が伝わっていないのだ。

 それで、「米国を振り向かせるため」「瀬戸際外交」などと三百代言的な判断をして、間違った解釈まで広げている。

 2012年以降の朝鮮側の言動は、米国との対話要求そのものだけではない。

 朝鮮国防委員会は1月14日、「米国とは言葉ではなく、対決で決着をつける」との声明を出している。

 「対決」とはつまり、「反米対決決戦」を意味していて、第4次、第5次の核実験とミサイル発射実験を含む、もう一段上の武力による対米対決への決心をしたことを宣告していたのである。

 米国と協議を行う場合のテーマについても、最早や平和協定の締結しかないことを、米国に告げたことになる。

 ところが駐韓米軍将校が「停戦協定が60年間存在したことが、朝鮮半島の平和安定を保障してきた」などと、とんでもないことを言っている。

 彼の言葉は、朝鮮半島に上陸した後から米国が追及してきた基本政策を、正直に表現した結果だとは思うのだが、それにしても朝鮮や国際社会の声を全く聴いていなかったようだ。

 米国の対朝鮮半島政策は、北の社会主義体制を崩壊させるか、または資本主義的 (南朝鮮の)吸収統一であって、そのための様々なプランをこれまで提示したきた。

 そうした政策の一つが、国連安保理での制裁決議なのである。

 今回の安保理決議の根拠を、「国連憲章7章(平和に対する脅威)に基づいて行動し、41条 (非軍事的措置)に基づいた経済制裁措置をとる」ことを適用している。

 朝鮮の核・ミサイル開発が、「平和に対する脅威」だと言っていることと同じである。

 英国のライアルグラント国連大使は「核開発を続けても、国際社会に支持する者はいないことを北朝鮮は認識すべきだ」と記者団に語っている。

 いずれも大国エゴでしかなく、「国際社会」イコール自分たちを中心とした世界のことだと誤解している。

 5常任理事国はそれだけで、横暴になっているのだ。

 彼ら、国連安保理事国たちは、解放後の朝鮮半島の歴史と現状を、どのように認識しているのだろうか。

 朝鮮停戦協定の現状維持と朝米平和協定締結と、どちらが朝鮮半島の平和体系を主張しているのかと考えたことはあるのか。

 戦争でもない平和でもない朝鮮半島の現状をどのように理解していたのだろうか。

 朝鮮半島で唯一の外国軍隊であった米軍の存在をどのように解釈しているのだろうか。

 国連加盟国の朝鮮を日米両国が未だに国交樹立していないことに対してはどうなのか。

 今年も実施している合同軍事演習についてはどのように理解しているのだろうか。

 以上のような事柄を一度でも検討し、朝鮮半島の歴史と現代政治をどのように理解しているのかを、しっかりと聞かせてもらいたいものだ。

 確実なことは、朝鮮人民は朝鮮半島で生活し繁栄していきたいと、考えていることを何人も忘れてはいけないということである。

 だからこそ平和安定が必要なのだと、彼ら自身が一番願っていたことだ。

 それを保障する条件は南北分断状態を解消し、自主朝鮮のなかで歴史を刻むことであった。

 自主朝鮮の実現を妨げているのは唯一、南朝鮮に駐屯している米軍であり、米国の朝鮮敵視政策ではなかったのか。

 朝鮮人民が、朝鮮半島で平和的に安定的に時間を経過させていきたいと願っていることを妨げている根拠こそ、まさに朝鮮停戦協定であった。

 最初に朝米共同コミュニケ (ニューヨーク)が採択された93年6月以降、朝鮮は米国に平和協定締結問題を提案し続けてきた。

 それ以来今日までの20年間、米国は朝鮮が提案する平和協定締結には、なぜ何も応えてこなかったのであろうか。

 そればかりか逆に、北を攻める「5027作戦」から「5030作戦」までを準備して、毎年のように合同軍事演習を実施している。

 その合間には核恐喝などによって、朝鮮半島に緊張感を与えてきた。

 オバマ政権の4年余、朝鮮からの平和体系構築の呼び掛けには全く反応せず、協議のチャンネルさえも閉じてしまっていたのは、どうしたことなのか。

 自主権を追及している朝鮮にとって、または核大国に包囲されている朝鮮から考えてみた場合に、こうした米国の態度は傲慢不遜で、朝鮮が核を保有していない小国であったからだと、判断するしかなかったのである。

 朝鮮は戦争と紛争を望んではいないからこそ、「核抑止」政策を選択するしかなかった。

 核抑止へと転換したことは、米国や他の核大国が取っている政策と同一になったのであるから、核抑止国同士での対等な関係での平和協定締結を米国に求めようとした。

 米国はそれさえも拒否して、朝鮮の人工衛星発射や核実験を、国際的「犯罪」へと追いやりながら、安保理での追加制裁決議を用意するという最悪の選択をしてしまった。

 朝鮮は解放後の70年近い歳月、停戦協定後の60年間、米国に対して様々な「平和アプローチ」を試み、提案をしてきた。

 米国はそのつど帝国主義者一流の方式で、主要ではない内容は約束するが、朝鮮半島が平和統一へと向かう政治問題の時には巧妙に回答を外しながら、社会主義体制の崩壊政策を追及し続けてきたのだ。

 朝鮮人民の「憤怒」は、もう限界線を突破してしまった。

 少なくとも2013年1月には、一つの重要な「決断」を行っている。

 安保理5常任理事国は、核保有5大国でもある。

 5常任理事国が保有する核の削減問題については、どの国際機関でもまだ検討する動きすらない。

 核大国は、小国が核大国の核恐喝から防衛的に保有する数個の核についてのみ、寄ってたかって禁止にし制裁を協議する場として、国連安保理機構を利用してきた。

 朝鮮の核実験を挑発行為だと決め付けて、制裁案を協議している5常任理事国こそ、保有する自らの核兵器については、核拡散防止条約 (NPT)をつくり、その体制下で核保有を認め合ってきた行為も、人類への挑戦であり犯罪行為である。

 朝鮮の核問題を安保理で議論している同時期、「核兵器の非人道性に関する国際会議」が3月4日と5日、ノルウェーの首都オスロで開催されていた。

 核兵器が使用されると広範囲の放射能被害に伴って、負傷者の救護・救援活動すら不可能になることが懸念された2010年のNPT再討論会議で、ノルウェー政府がオスロでの国際会議開催を決め、開かれた。

 核兵器使用が人体、環境、社会に与える破壊的影響、非人道的影響などについて議論する場として、非核化をすすめる人達に支持され期待されている国際会議である。

 今年は日本を含む120カ国以上から政府、国際機関、非政府組織 (NGO)などの専門家ら計550人余が参加した。

 ところがこの会議には、核5大国は揃って参加しなかった。

 その理由を、核軍縮の段階的アプローチの妨げになるからだとしているが、これこそ大国エゴの論理であって、国際社会との意見とは結び付いてはいない。

 主催者側は会議の目的を、「核使用の非人道性の問題に焦点を当て、核不拡散や核軍縮の必要性を認識してもらうことだ」と説明していた。

 以前から核5大国、なかんずく米国なども同じ主張をしている。

 それにも関わらず5大国が参加しなかったのは、彼ら自身が国際社会に向かって発信している言語にこそ、不条理性が潜んでいたということである。

 安保理での朝鮮制裁決議言語も、全く同じく大国の不条理であった。

 米国が3月5日の朝鮮人民軍の声明の意味を理解しない場合、先ずは朝鮮停戦協定の機構は完全に喪失し、軍事境界線と南北それぞれ約2キロの非軍事地帯 (DMZ)は、もっとも危険な地帯へと代わってしまうだろう。

 すでに軍事休戦委員会の機能が麻痺している状態で、朝鮮人民軍板門店代表部の活動までが停止された場合、板門店朝米軍部電話接触すらなくなってしまうからである。

 朝鮮半島の危険度はこれまで以上に高まっていくだろう。

 その責任のすべては、これまで全く停戦協定破棄の協議に応じてこなかった米国の側にあることは明白である。

 ここまで書いてきてふっと、私たちは余りにも米国情報の世界の中でしか、朝鮮半島情勢を判断してこなかったのではなかろうかと思った。

 朝鮮の核についてはそのつど大騒ぎをして問題にはするが、同時に米国などの核兵器については何も問題にしてこなかったのも、そうした米国情報での思考からである。

 さて、朝鮮半島をこのように危険に陥れた真犯人は、一体誰なのか。

 読者には少し、自分自身の思考で判断してもらいたいものだと思っている。

                                        2013年3月8日 記

「南北対話への道もある」

「南北対話への道もある」

                                               名田隆司


1.
 これまで朝鮮半島の近未来について、少々、悲観論的な内容を書いてきた。

 米韓側は国連安保理での制裁決議、米韓合同軍事演習の実施(3月1日から)、北は3度目の核実験(2月12日)、停戦協定の白紙化(3月11日から)、板門店の南北直通電話の遮断(3月11日から)、南北不可侵合意の破棄(3月11日から)など、さらに「対米最期決戦」を主張していて、緊張感が現在進行形となっているからでもある。

 それ以前、オバマ米政権1期目の4年間の、「戦略的忍耐」政策は、韓国の李明博政権の5年間と合わせて、ともに北との交渉を忌避してきた結果が、今日の危機的状況を招いている。

 米国が朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)からの平和協定締結呼び掛けを、無視してきたことが、第一義的な原因となっている。

 朝米間、南北間、それぞれの対話チャンネルが細くなってしまったことによって、さらなる緊張感と不測の事態さえもが、現実的になりつつある。

 また、安保理による朝鮮への制裁決議は、金融機関にしても、武器関連貿易にしても、過去もそうであったように、朝鮮にそれほどの打撃力を与えるものとはなっていない。

 にも関わらず、米国は北への制裁に拘ってきた。

 制裁決議は結局、朝鮮半島をますます不安定化させていく作用しか果たしていないのだ。

 米国は中国との水面下の交渉で、制裁決議に中国を引き入れて、朝鮮に大きなダメージを与えているだろうと期待している。

 中国も当面と表面上は、朝鮮への経済的関与を削減するかもしれない。

 その朝鮮は、今以上に中国との経済・貿易関係を深めていくことには警戒しながら、経済政策を推進しているのだ。

 安保理での朝鮮制裁後はむしろ、韓国の立場が微妙になってくるのではないだろうか。

 李明博政権の5年間、同族でありながら「敵国」関係のような政策をとってきたため、何度かの軍事的衝突まで発生し、朝鮮半島を不安定にしてきた。

 そうした李政権の5年間の政策に、米国からのエールはあったけれど、中国を朝鮮へとよけいに向けさせたのだ。

 中国が朝鮮への経済的関与を、今以上に深めさせていくことは、韓国にとってもマイナス要因となっていくからである。

 朝鮮側もまた、今以上の中国経済の関与は望んでいない。

 その一点で、朝鮮の南北両政権は、対話以前の段階で一致している。

 だから一致する目線は、「民族同士」以外でも、中国の朝鮮半島への経済的関与の深度問題があったのである。


2.
 韓国の朴槿恵大統領は初閣議の11日、南北間の対話再開による(北との)信頼構築に向けた努力を放棄しない考え方を強調していた。

 大統領選挙期間、就任直後の所信表明などでも、南北対話を進めていくことを語っていたから、それが彼女の本音であったことを伺わせる。

 それはまた、強硬策をとってきた李政権の5年間、北との交流・対話がなくなっていたことと、北への経済制裁実施が逆に経済不況をも招いていたことを理解していたからでもあったろう。

 南北交流の象徴として開設された開城工業団地は、政治的に厳しい関係が続いていても、南北ともに閉鎖することまでは考えていなかった。

 閉鎖すれば、南北どちらの側にも大きなリスクを負うところまで、団地の存在感が大きくなっている。

 今や将来の南北交流発展を保障していく象徴的存在として、機能しているとさえ思える。

 金大中・盧武鉉両政権の10年間、一定の制限はあったものの、政治・経済から文化まで「民族同士」をコンセプトとする南北交流が発展してきた。

 時には米政権からの圧力があったものの、交流が継続したのは、両大統領に民族的自主権への強い意識があったからであろう。

 朝鮮側は、朝鮮半島の強固な平和体制は米国との平和協定締結によって保障されることと理解していた。

 しかし、平和保障体制を米国にばかり求めたのではなく、南北交流発展を進めることによっても、米国の政策を動かしていく方策も探ってきた。

 それが、10年間の「民族同士」交流であったのだが、南の政権の性格によっては、米国の圧力に屈して積み上げてきたものが崩れ去ってしまう悪夢もまた、経験してきた。

 朴槿恵政権の対北政策については、まだ未知数なところはあるものの、彼女が言うところの南北対話をとの「言葉」を発展させて、肯定的に受け止めるかどうかが、今後のキーポイントになっていくであろう。

 今や朝鮮半島の南北政権が対立を深めれば深めるほど、米国にも、中国にも利益をもたらすだけの関係になっているのだ。

 そのような政治的意味のことを理解すれば、結局は南北両政権の理解と交流だけが、現在の朝鮮半島情勢を解決していく中心的鍵となっていることが分かるであろう。


3.
 朝鮮がこれまで推進してきた米国との平和協定締結プランの第1期は、オバマ政権の「戦略的忍耐」政策によって、「延期」となってしまった。

 その報復に朝鮮は、「対米最期決戦」との言動を続けているようだ。

 今後、劇的に米国との対話がある場合でも、朝鮮が求めている平和協定締結までには、まだ時間がかかるだろう。

 一方で、今以上に朝鮮半島の緊張関係が続いていけば、開城工業団地での操業と労働者及び南側関係者の安全保障の協議が必要となってくるのではないか。

 彼らの安全保障を協議する場から、業務拡大発展へとつなげていく話し合いへと、さらに新しい南北交流への端緒のきっかけへとなるだろう。

 それが私の楽観論である。


                                       2013年3月12日 記

「軍事国家への道行き」

「軍事国家への道行き」

                                               名田隆司


 安倍晋三政権がまた、軍事態勢への一歩を進めた。

 3月1日、航空自衛隊の次期主力最新鋭ステルス(レーダーで探知されない)戦闘機F35の国際共同生産に関して、日本企業が国内で製造した部品の対米輸出が、武器輸出三原則の「例外」扱いとして認める方針を決めて、菅義偉官房長官が記者会見で、官房長官談話を発表した。

 官房長官談話の骨子

1.航空自衛隊の次期主力戦闘機とする最新鋭ステルス機F35に関し、武器輸出三原則の例外扱いとし、日本企業の部品製造参入を容認

2.F35は開発の中心となっている米政府の厳格な管理が前提で移転を厳しく制限

3.日本の平和国家としての基本理念は維持

4.F35への国産部品提供は日本の防衛生産および技術基盤の維持、育成、高度化、日米安保体制の効果的運用に寄与。

 以上、共同通信-愛媛新聞(2日付け)

 官房長官談話では、F35の部品輸出がなぜ、武器輸出三原則に抵触する可能性があり、例外扱いにしたのかが分かりづらい。

 F35は米ロッキード・マーチン社が開発・生産しているので、日本からの部品も米国に輸出され、米国で完成させたF35の輸出先に、イスラエル(F35導入予定)が含まれていたからである。

 イスラエルは現在、パレスチナ自治区ガザを実行支配するハマスや隣国のシリアを空爆する軍事行動に踏み出しており、イランへの先制攻撃も意図している。

 つまり、国際紛争当事国なのである。

 佐藤政権が67年に定めた「武器輸出三原則」は、共産圏、国連決議による武器禁輸国、国際紛争の当事国やそのおそれのある国--への武器(部品も)輸出を禁じるとした。

 その後、この三原則を厳格に運用してきたかというと政治解釈などを重ねてきた。

 最近でも、米国向けの武器技術供与、ミサイル防衛などの案件ごとに官房長官談話で、例外事項を積み重ねてきた。

 その過去の例に倣い、官房長官談話で凌ごうとしているのだが、F35が米国からイスラエルに輸出される可能性があるため、「例外」扱いにしておく必要があったのだろう。

 談話では、イスラエルに関する直接的な言及を避ける工夫までしている。

 今回の例外措置を決定した背景に、米国からの強い意向が伺える。(航空自衛隊も購入を予定していることもあって)

 財政赤字に苦しむ米国は、国防費の大幅削減を進めているため、武器開発費の圧縮も迫られている。

 そうした米国の意向に沿ったもので、日本の原則など当初から無視していたのだろう。

 日本企業の部品が、組み立てる米国側の「一元的な管理の下」に置かれていることから、後は米国の政治的問題だと、早くも言い訳をしている。

 F35がイスラエルへの輸出が現実的となったとき、安倍政権はどのような言い訳を用意するのだろう。

 日本もF35の導入を予定しているが、そのような高額兵器を必要としているのかどうかも、検討しなければならない。

 先人がぎりぎりに築き上げてきた「平和国家」的象徴の三原則を、安倍政権は有名無実化したのだ。

 この次は、どのような「例外」を作り出して、軍事の方向を開くのか、監視していく必要がある。

                             
                                        2013年3月2日 記

「米国の制裁論は」

「米国の制裁論は」

                                               名田隆司


 米エネルギー省傘下の核安全保障局(NNSA)は、11日(現地時間)、協力なエックス線を出す「Zマシン」で保有核兵器の性能を調べる実験を、2012年10月から12月にかけて、2回実施したことを発表した。

 2010年からの実施、つまりオバマ政権1期目は、これで計8回となった。

 実験は、核実験場や爆薬を使わずに少量のプルトニウムを高温高圧の状態にして反応を調べる手法で、ニューメキシコ州のサンディア国立研究所で実施した。

 臨界前核実験を補完するものとして位置付け、既に保有している核兵器の性能や安全性を確認するのが目的だとしている。

 つまり、保有する核兵器の性能を更新するためで、核実験そのものであるのだ。

 「核兵器なき世界」を掲げながらも、このような方法で核保有の方針を崩さないオバマ政権の姿勢には、世界はもっと批判の目を向けるべきだ。

 昨年の10月から12月の実験といえば、朝鮮が今年の2月に実施した3度目の核実験前のことになる。

 朝鮮の核実験に対しては国際世論を巻き込みながら、国連安保理での朝鮮制裁決議採択をリードしてきた。

 このように平気で、米国は二重基準を実行している。

 しかもNNSA発表を、安保理での制裁決議後に行ったことにも、意図的なものを感じる。

 それ以上に呆れてしまうのは、安倍晋三政権の対応である。

 菅義偉官房長官は12日午後の記者会見で、「核実験全面禁止条約(CTBT)で禁止されている核爆発を伴うものではなく、抗議することは全く考えていない」と語って、日本政府としての抗議を行わないとした。

 やはり、米二重基準国家の第1弟子だけのことある。

 つい先頃まで朝鮮の核実験に対して、安保理での制裁論をと騒いでいたにも関わらず、米国には一辺の抗議すら行わないと言うのだから、呆れてしまう。

 そのような安倍政権の姿勢に対して、被爆地の広島と長崎からは、米国に抗議もしないことに幻滅の声を上げていた。

 「北朝鮮の核実験に強い制裁を訴えながら、米の核実験には沈黙する政府の姿勢は矛盾している」(長崎県被爆者連絡協議会の川野浩一議長)

 「米国は、北朝鮮は『悪』で核兵器を持ってはいけないという態度だが、同時に核兵器を手放さないための実験を続けており、矛盾している」(広島平和文化センターのスティーブーン・リーパー理事長)などと、日米両政府の矛盾した姿勢に憤りの声を表明している。

 今回の米国の行為で、朝鮮の制裁を安保理で強行採決したのは、朝鮮の核保有そのものにではなく、そのことを理由とした社会主義体制を崩壊させることに、その目的があったとしか思えない。

 国連憲章からしても、米国のそのような意図(体制崩壊)は、明らかに「平和保障」に違反した行為で、許せない。

 遅くはないので、今からでも国連安保理での朝鮮制裁決議案を撤回すべきだろう。


                                       2013年3月13日 記

「『竹島の日』制定は必要か」

「『竹島の日』制定は必要か」

                                               名田隆司


 
 2月22日が「竹島の日」だそうである。

 竹島(韓国では独島・ドクト)は島根県の隠岐諸島沖に浮かぶ無人島(韓国の鬱陵島の南東約92キロメートルに位置する)、現住所は島根県隠岐の島町としている。

 面積23平方キロメートル、高さ115メートルの岩石島であるが、火山性群島で東(女)島、西(男)島の2つの主島とそれぞれを取り巻く数十の岩礁からなっている。

 島根県が22日を「竹島の日」と定め(05年)、06年から毎年、記念行事を行ってきた。

 今年も、同日に松江市が記念式典を開いた。

 この式典に政府関係者として初めて島尻安伊子内閣府政務官が出席したことで、韓国側は強く反発している。

 韓国外交通商省のスポークスマンは同日、「特に日本政府がこのような不当な行事に政府の人間を派遣したことはとても遺憾であり、強く抗議する」と主張し、島根県に対しては「竹島の日」を定めた条例の廃止を求めた。

 同時に在韓日本人大使館の公使を呼んで、抗議している。

 昨年8月には李明博大統領自身が独島(竹島)に上陸して、常駐の警備員らを激励する行動に出るなどして、日韓間は島の領有権をめぐって対立を深めている。

 島尻氏は「竹島はわが国固有の領土であり、わが国の主権にかかわる極めて重要な問題。政府としてわが国の立場を明確に主張し、冷静かつ平和的に問題を解決するために全力で取り組む」と式典で挨拶をした。

 その口調は当然のことながら、安倍晋三首相と同一内容であった。

 安倍政権は当初、竹島の日を政府主催の式典で開くことを考えていた。(昨年12月の衆院選で公約)

 米国側から、中国に続いての韓国とも領土問題で、これ以上の関係悪化を招かないようにとのサディスチョンがあり、今年は一歩退いたかたちとなっている。

 ところで日本は島を「固有の領土」だと主張しているが、固有だとする政府側の時間的概念が不明のため、いつからのことを指しているのかは理解に苦しむ。

 この島を明治政権が日本領に編入し、島名を「竹島」と決めたのが、1905年1月のことである。

 その直後、島根県に管轄権を渡し、島根県が県内の島として告示したのがその年の2月22日である。

 島の編入の背景を考えるとき、自然的に歩いてくるわけではないのだから、そこには明治政権の強権力がバックボーンにあったと理解すべきであったろう。

 だから、1905年以前の島の帰属がどうなっていたのかを、考えねばならない。

 日本が「固有の領土」だと主張する意識の背景には、帝国主義史観が横たわっている。

 明治政権が日本の領土とした1905年の日韓間は、日露戦争中であり、日本が朝鮮侵略、朝鮮植民地支配を推進するために、3次にわたって締結していく日韓協約を直前の1904年2月23日には、日韓議定書を調印している。

 この協約は、日本が日露戦争を遂行していくために、軍事上必要な韓国の地点を、いつでも確保できるようにするためのものであった。

 この協約はまた、韓国を併合する地ならしともなった。

 04年8月22日に締結した第1次日韓協約で、朝鮮王朝の重要外交案件は必ず、日本政府と協議することとした。

 この時点で、韓国の外交権は日本の手の内に移り、島を編入(奪う)することなど、日本独自の判断で自由にできたのだろう。

 保護条約と言われる第2次(05年11月17日締結)で日本は、韓国の外交権を完全に握ってしまった。

 続く第3次(07年7月24日締結)で日本は韓国の内政権と軍事権まで握り、1910年を待たずして、朝鮮王朝の政治権を奪い取ってしまっていた。

 つまり、明治政権は無人の竹島を対露戦上の必要性から、日本領に編入してしまったことになる。

 当時の朝鮮王朝側は、近代法(国際法)に基づくと圧力の前では主権を主張することもかなわなかったのであろう。

 日本が朝鮮王朝の外交権を握ってしまったうえでの、島の領有であった。

 敗戦後、米占領下にあった日本の行政権の範囲は、実質、本土の4大島に限られていた。

 海上マッカーサー・ライン(45年9月2日~52年4月27日)が引かれ、その外側は日本の行政権から外されていた。(竹島もラインから外側で、それ以降は島周辺での漁業さえもできなかった)

 日本の独立(サンフランシスコ講和条約)によって、同ラインは廃止されたが、条約には竹島の領有権問題の規定が抜けていた。(中国との尖閣諸島も同じ)

 韓国の李承晩政権は、マッカーサー・ラインが廃止されることに対応して、52年1月18日に「隣接海洋に対する主権宣言」(李承晩=平和ライン)を発表。

 海岸線から平均60マイル(約53カイリ)を韓国の主権線とし、竹島をそのライン内に入れて韓国領とした。

 54年に無人灯台、無電台をおき、警備隊を常駐させた。

 97年11月には、500トンクラスの船舶が接岸できる施設を建設、99年3月には有人灯台も稼働させた。

 このように韓国側は着実に実行支配の動きを行っていたが、日本側は漁業権さえ主張しない有様であった。

 65年の日韓基本条約においても、島の帰属問題は未解決のままにされてしまった。(先送り)

 それで、「紛争解決に関する交換公文」が結ばれたものの、韓国側は竹島問題は紛争対象には含まれない(日本も同じようなことを、どこかで主張している)として、実行支配を続けてきた。

 2000年4月からは、独立の行政(里)として、慶尚北島鬱陵郡独島里の住所表記の標札を付けた。

 南北朝鮮とも、朝鮮の固有の領土だとの主張を譲る気配はない。

 以上、竹島をめぐる日韓間の歴史的な因果関係を考えてみたが、その結果、日本が「固有の領土」だと主張するには、問題があることが分かった。

 日本の市民団体が昨年の9月28日、竹島と尖閣諸島の領有権問題で、「固有の領土」だとする日本政治の姿勢を批判する声明を出した。

 日本の領有権主張に関し、「韓国、中国がもっとも弱く、外交的主張が不可能だったなかで日本が領有した」と指摘。

 特に竹島に関しては「韓国民には単なる島ではなく、侵略と植民地支配の起点であり、その象徴である。日本人はそのことを理解しなければならない」と、日本の歴史姿勢を批判した。

 私もそのとおりだと考えている。

 日本海(朝鮮東海)側にあった竹島は、無人の小島であったとはいえ、明治政権は対露戦のために領有し、その管轄を島根県に与えた。

 そうした歴史を反省しない安倍政権が来年以降、「竹島の日」の式典を政府主催にしたりすれば、日韓間は現在以上に対立していくだろう。

                                        2013年2月23日 記

「朝鮮戦争と日本の関係④」

「朝鮮戦争と日本の関係④」

                                               名田隆司


10.日韓協定の問題点

 連合軍最高司令部外交局長のシーボルトの仲介で、日韓予備会談が51年10月20日に始まった。

 米国は日本と韓国を要とするアジア太平洋地域を重視する政策追及を、東西冷戦が本格化する前の40年代後半から続けている。

 その基本的な政策は、米国自身のアジアからの経済的な支配と搾取を保障するために、軍事基地網と資源供給地・市場の確保をリンクさせていく軍事ブロック化であった。

 その中心に日本と韓国を据えて、東アジアの要石にしようとした。

 具体的には、まず米国自身が日本の経済復興と工業化の発展を支援し、工業化が実現した日本に、韓国の跛行経済を近代化へと促す役割をさせようとしている。(米国自身の経済的負担の軽減化をすすめるため)

 米国と日韓の軍事的、経済的体制の構築化が、米国の基本的な東アジア戦略であり、アジア太平洋地域政策でもあった。

 そのため日本には、戦争賠償からの負担軽減を中心としたサンフランシスコ講和条約を早期に締結・完了させ、経済発展へと振り向ける支援体制をとった。

 もう一点は、日韓間の国交正常化を早期に実現させ、日本資本を韓国に進出できる仕組みを築き上げることであった。

 そのことによって朝鮮半島の分断固定化と、冷戦体制の安定化が維持できると考えていた。

 だから日韓会談の進行は、朝鮮戦争の期間中が好ましかった。

 その頃(51年),北朝鮮側が板門店での停戦会談を提案(10月7日)したことで、10日から板門店で連絡将校会議が始まっていた。

 続く10月25日からは停戦本会議に入り、軍事境界線で妥結(11月23日),南北境界線問題でも妥結(11月27日)していたが、監視機構と捕虜交換問題で対立し、戦闘が再開された。

 これは米国側の思惑的シナリオで、日韓会議が前進しない前に、停戦協定が成立してしまっては困るからである。

 日韓の第1次会談は、翌52年2月15日から本会談が始まった.。(4月25日に中断)

 一方で、停戦会談の方が再開されていたため、米国は李承晩に停戦後も政権を見放さないことを約束(51年12月16日)をして、日韓会談の後押しを行った。

 だが、吉田茂政権と李承晩政権とは、見合いをしただけで、双方の主張の隔たりが余りにも大きく、米国の面子をつぶさないための「中断」で折り合いをつけた。

 その後、日韓会談は第7次の65年まで、断続的に行われていった。

 第3次会談(53年10月6日~10月21日)で、日本側首席代表の久保田貫一郎の「日本の35年間の朝鮮統治は朝鮮人に恩恵も与えた」との妄言で、決裂してしまった。

 第4次会談(54年4月15日~60年4月15日)は、60年の4月革命で李承晩政権が崩壊したため中断。

 第5次会談(60年10月25日~61年5月16日)では、5・16軍事クーデターによって中断された。

 軍事クーデターによって登場した朴正煕軍事政権は、米国の経済援助が大幅に削減されたため(57年のドル危機に始まり、慢性的な財政赤字に陥った米国は、対外援助を大幅に削減していた)、日本資本の融資を得る道を選び、日韓会談の早期妥結へと目指した。

 そのことはまた、米国の東アジア戦略とも一致していたので、米国は朴軍事政権の政策を支持した。

 65年に入ると、朴政権は米国の要請に応えて、2000名の韓国兵の南ベトナム派遣を決定(1月8日)した。米国も北ベトナムへの爆撃を開始。(2月7日)

 いっそう米韓の思惑が一致したため、64年12月3日から始まった第7次日韓会談の結論が急がれた。

 第6次会談(61年10月20日~64年4月6日)のとき、対日請求権問題で対立していた。

 その金額も韓国側8億ドルで、日本側の最高額7000万ドルとの差が縮まらず、金鐘泌特使と大平正芳外相の秘密会談で合意をみた。(62年11月12日)

 その内容は、日本は無償で3億ドルを10年間支払い、そのことで経済協力の名目で韓国に資金援助を行うとともに、政府間の借款2億ドルを年利3.5パーセント、7年据え置き 20年償還条件で10年間貸し与え、さらに民間商業借款として1億ドル以上を提供するというものであった。

 結局、戦争賠償問題が経済協力(これとて全てが無償ではない)関係になってしまった。

 これはサンフランシスコ講和条約体制と、米国の東アジア政策を日本が、韓国側の弱みに付け込んで、忠実に実行した作品であった。

 また、会談を通じて問題となっていた点のうち、日本が朝鮮を植民地化した「日韓併合条約」については、無効だという時期を明示せずに、同条約の無効を確認している。(これも、日韓双方で都合の良い解釈が可能とした)

 本条約の管轄権については、韓国政府を「朝鮮における唯一の合法的政府である」とした国連決議第195号を確認したうえで、同決議が韓国政府の施政を北緯38度以南に限定し、以北に別個の政権の存在を暗示している点にも留意することで妥協した。(この点も、韓国側は国連決議を確認したとし、日本側はときには38度線以南だと主張することがある。どちらも曖昧にしている)

 以上、14年間にわたって継続してきた日韓基本条約と対日請求権協定は、65年2月20日に仮調印し、6月22日に東京で本調印した。

 当然のこと、日韓ともに反対運動が広がっていった。

 特に米国の肩代わりとして日本の対韓経済進出が、条約締結以後に激増した。

 これこそが、米国側の意思であったからである。

 日韓条約は、日本帝国主義の植民地支配を清算するとして、交渉が始まった。

 終わってみれば、日本が韓国に「経済協力」をするということで、無償3億ドル有償2億ドルというわずかな借款を日本が与えるとの内容となった。

 日本資本が、借款や直接投資の形で韓国に浸透していく端緒をつくったことになる。

 これは新たな経済侵略である。

 その後の20年間で、日本は借款・直接投資を併せて、約82億ドルを韓国に投資した。

 その同期間、日本の対韓貿易は300億ドル近い黒字を記録している。

 つまり、日本は韓国への20年間の投資と貿易で、200億ドルもの利益を吸い上げていたことになるのだ。

 また、長い期間をかけて議論されてきた対日請求権問題、日本の植民地支配と戦争責任問題などが、うやむやなままになっている。

 以後、日本は「解決済み」だとして、個人補償を拒否する論証に「日韓条約」を利用してきた。

 だが、この日韓条約の最も犯罪的な側面は、朝鮮半島の分断固定化と反北朝鮮「意思」として、 日米韓の体制が利用し維持していることである。


11.在日朝鮮人への弾圧政策

 1945年8月当時、在日朝鮮人は220~240万人がいた。

 その多くは、戦時中に強制連行されてきた人たちである。

 日本政府がこれらの人たちに対して、真っ先にすべきことは、謝罪をし賠償金を支払うべきであった。

 にもかかわらず、彼らに対しては謝罪もなく賠償金の支払いもなく、それまでの労働への賃金さえも支払わず、帰国への便宜も考慮も行わなかった。

 それ以上に、持ち帰り財産の制限をするなどして、帰国を困難にしてしまった。

 46年初頭には約60万人の朝鮮人が、日本に残らざるを得ず、再び日本での生活を始めるようになった。

 彼らが、現在にもつながる在日朝鮮人たちである。

 彼らの存在そのものは、日本が植民地支配への責任を回避したことの、その政治的結果である。

 そのような彼らに、新憲法施行日に、「外国人登録令」を公布(47年5月)し、保護ではなく取締りの対象としたのだ。

 在日朝鮮人に最初に適用したこの法律は、旧憲法下の対朝鮮人治安立法の性格をもつものであった。

 解放直後、日本各地に在留していた朝鮮人たちは、生命・財産を守ることと、帰国対策を立てるために、自然発生的に各地で組織をつくった。

 東京、大阪、神戸、京都、横浜、埼玉、山口、福岡など、各地域毎に結集した。

 各団体間の統一団結運動のため45年10月15,6日の両日、東京の日比谷公会堂に在留朝鮮人240万人の総意を結集して、中央総本部を東京に置く在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成された。

 朝連の結成大会には、朝鮮人の総意として親日派と右派たちを排除した。

 排除された彼らは対抗するかたちで、朝鮮建国促進青年同盟を結成(45年11月)し、その後、中間派を加えて、秋田刑務所から解放された朴烈を委員長とする「新朝鮮建設同盟」を結成した。

 後、在日本朝鮮居留民団(46年10月)と名称を変更し、南朝鮮で李承晩政権が成立すると、同政権の支持を鮮明にして、名称を「大韓民国居留民団」とした。

 当初、在日朝鮮人社会内で対立していた二つの組織は、単純な左派系と右派系であったのが、日本政府とGHQは48年以降、日本列島を朝鮮戦争の後方基地づくりのために、朝鮮半島内のイデオロギー対立を利用し、在日の組織も対立させた。

 GHQの強い意向で朝鮮民族学校の閉鎖令(48年4月)を出し、それに反対した神戸朝鮮人学校事件(同年4月25日)に対し、GHQ兵庫軍政部は「非常事態」宣言をだして取締った。

 日本列島を朝鮮駐屯米軍の強固で安定的な後方基地化とする必要から、続いて、団体等規制令(49年9月8日)を発して、当時の在日朝鮮人の結集体であった朝連に強制解散命令 (他に在日本朝鮮民主青年同盟ほか、2団体)を出した。

 これらの団体には、米占領軍に反抗したとの理由で、解散および閉鎖令を適用し、幹部36名(うち朝連と民青は28名)を追放処分とした。同時に日本政府は、全国の朝連と民青の会館、朝鮮学校(337校)に対する閉鎖措置を強行した。

 それでもGHQは、在日朝鮮人と日本の左派勢力との結び付きを許さず、日本共産党中央委員全員(24名)の公職追放を指令(50年6月6日)と、レッドパージ(同年7月)とによって、日本列島は赤狩りの嵐が激しく吹き荒れた。

 朝連の多くの幹部が日本共産党の「民族対策部」の下で活動していたから、共産党中央委員の公職追放などで、朝連の後継組織づくりが困難になっていた。

 その後、「在日本朝鮮民主主義統一戦線」を結成(51年8月15日)し、米帝国主義の朝鮮侵略撃退と祖国防衛闘争、祖国統一闘争を掲げて GHQと日本政府と闘う組織とし、在日の立場から朝鮮戦争を北の政府を支持して闘った。

 GHQの斡旋で東京で始まった日韓予備会談、本会談(51年10月)で韓国側が、在日朝鮮人の法的地位問題(永住権、強制退去、生活保護など)への配慮を要求したのに対して、日本側は彼らの特別扱いを嫌って拒否していた。

 在日朝鮮人の法的地位問題で日本は、サンフランシスコ講和条約の発効(52年4月28日)までは、朝鮮人は依然として日本国籍を保有するとしている。

 講和条約発効の当日に日本政府は、大韓民国を黙示的に国家承認したことによって、以後、在日朝鮮人の全てを韓国国民とみなし(法務当局)、その本国法の韓国の国籍法を前提とした国籍処理を行った。

 一方で今日まで、朝鮮民主主義人民共和国の国籍(朝鮮)を否定し、北朝鮮の国籍法を無視した国籍行政を行っている。

 その結果、「朝鮮」は国籍ではないとして、朝鮮戦争以後は朝鮮「籍」保有者への取締りを厳しく行っている。

 朝鮮停戦協定によって、38度線が軍事分界線と確定される以前から、在日朝鮮人社会に「38度線」の見えざる分断線を日本政府が持ち込み、在日を差別した。

 65年6月に締結した日韓基本条約の、在日朝鮮人の法的地位に関する協定で、「韓国籍」が基本となったことによって、在日朝鮮人社会に「分断」という反人権的で犯罪的政策を強要するようになった。


12.おわりに

 以上みてきたように、朝鮮戦争において日本が「立派」な17番目の、参戦国の役割を果たしていたことを証明した。

 ただ、その戦史に日本国の名前が記載されていなかったのは、戦争が本格的に勃発した50年6月当時、日本はまだ先の戦争責任を清算しておらず、米軍占領下にあって独立国でもなく、国際社会からは自主、自立の国家として認知されていなかった、というだけのことであった。

 一方の米国側は、日本列島を強力で安定的な兵站基地に、朝鮮半島の後方基地建設へと、47年後半期から着手している。

 この一時からして、米国の朝鮮戦争計画が早くから進められていたことと、その際の日本列島の重要性と必要性とに着目して、十分な準備作業をすすめていたことが読み取れる。

 米国はアジア地域における自らの野心を実現するため、日本を活用するシナリオづくりに着手してきた。

 サンフランシスコ講和条約会議(51年9月4日から)、対日平和条約(51年9月8日)、日米安全保障条約(51年9月8日)、日韓協定協議の開始(51年10月)、旧財閥解体指令解除(51年5月)、兵器製造許可(52年3月)、海上保安庁の発足(48年5月)、警察予備隊創設(50年8月)-これらの全ては、朝鮮戦争以前から米国が構想準備してきたものであって、そうした体制が整った日本列島こそ、米軍の安定的な後方基地ともなり安全な前方基地機能を、十分に果たすことができたのである。

 いつの時代のどの戦役も、後方基地機能が果たす役割は、その戦争・戦闘を左右するほど重要であった。

 その意味で、日本列島が果たした朝鮮戦争時の後方基地機能は、米国自身が賞賛するほどにも満足させた。

 日本はそのことで、朝鮮戦争責任・犯罪者として、被告席に座らなければならない。

 ところが朝鮮戦争の戦果として米国から戦争特需と、その後の経済成長への端緒、国連加盟(56年12月)という果樹が与えられて、日本は傲慢(アジアの孤児)になってしまった。

 ところで、現在の日本はどうなのか。

 日米安保という「首輪」をはめられているため、日本は何かにつけて米国の影を踏み締めるしかないという、自主国家とはほど遠い位置にいる。

 米国のアジア戦略は、朝鮮停戦協定の現状を維持し、ときおり朝鮮半島脅威をつくり出すことであった。

 日本もその一環を補強し、朝鮮半島の南北分断固定化に寄与している。

 だが日本の朝鮮半島との関わりは米国と違って、植民地支配時代の負の遺産を未だに完全清算していない点にあって、二重の意味での犯罪を犯し続けて、朝鮮人民をよけいに苦しめていることにある。

 特に北朝鮮に対しては、70年近く経っても過去の清算が出来ず、朝鮮戦争に参戦してきた事実も認めず、敵視政策と在日朝鮮人への差別政策を続けているという、負のスパイラルに陥っている。

 そればかりかこの数年は、北朝鮮攻撃を目的とする米韓合同軍事演習に自衛隊が参加する、日米韓3カ国合同軍による軍事演習まで実施している。

 第2次安倍政権は防衛費を増額し、自衛隊を「国防軍」的性格へと格上げし、いつでも戦争ができる国家を建設しようとしている。非常に危険なことだ。

 過去の歴史から何も学ぼうとしない政治ほど、「危機」や「脅威」をつくり上げて暴走してしまう。

 日米韓3カ国政府は1月31日、外務・防衛当局による局長級会合を開いた。

 目的は、3カ国とも新政権が発足するにともない、アジア太平洋地域の平和と安定への認識を確認したかったのであろう。

 議題の中心は、北朝鮮の核・ミサイル開発に関する対応のようであった。

 北朝鮮に対して「国際的な脅威であり、北東アジア地域の平和と安定を損なう」と発表した共同文書が,そのことを表現している。

 北の核やミサイル開発が平和と安定に脅威を与えているのなら、米国が保有している核とミサイルは脅威ではないのだろうか。

 日本の突出した防衛費は脅威を与えていないのか。

 アジア地域での脅威で言えば、朝鮮停戦協定が60年経っても平和協定へと転換しようとしない米国の、アジア政策こそが一番の脅威になっている。

 その米国の戦略を後押し、朝鮮半島の分断政策を進めている日本もまた、アジアの脅威ではなかったのか。

 「北朝鮮脅威論」を叫び続ける日米の算段こそ、世界に脅威を与え続けている。


                                       2013年1月31日 記

「朝鮮戦争と日本の関係」③

「朝鮮戦争と日本の関係」③

                                               名田隆司


7.朝鮮戦争の前線基地化

 朝鮮戦争が始まる2年前の1948年、米国は対日占領政策を転換している。

 日本の反共防壁化政策、再軍備化、兵器廠化、大々的な軍事基地化などであった。

 まるで朝鮮戦争を予見していたようで、日本を政策転換して、米軍が安定に使用できる軍事基地作業を進めようとした。

 ライシャワ一元駐日大使は「これなくしては(日本での準備)、朝鮮戦争をまったく、またかくも効果的に戦うことは、ほとんどできなかったであろう」と語っている。 (「太平洋の彼岸」)

 日本国内で新たに建設した米軍基地と、それを支える体制がなければ、朝鮮戦争を戦うことも継続することも出来なかったと語っている。

 この米国の期待に応えた日本の、朝鮮戦争で果たした役割は絶大なものがあった。

 「日本人は驚くべき速さで、かれらの 4つの島を一つの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、朝鮮戦争を戦うことはできなかったはずである」 (マーフィ初代駐日大使)

 「日本における車両修理および再生役務の実績なかりせば、朝鮮事変は3カ月間も維持できなかったであろう」(リッジウェイ米第8軍司令官)-というように、当時の米指導者たちも、日本の役割を賞賛している。

 日本列島は国連軍(米軍)の後方基地であり、朝鮮戦争の前線基地ともなった。

 米空軍は6月27日から出撃している。

 日本駐留(沖縄)の第5空軍、第20空軍を中心に、B26爆撃機、B29爆撃機、F80戦闘機、F82戦闘機などが毎日、朝鮮に向かって出撃していった。(27日中にはF80,F82戦闘機が163波も出撃している)

 韓国内の滑走路の使用が限定されていたため、米国機のほとんどは朝鮮戦争中、沖縄を含む日本各地の空港から出撃していった。

 また砲弾、銃弾、弾薬などを運ぶ米海軍輸送艦も、横浜や横須賀から出港している。

 間もなくして、戦場で破損した戦車、ジープ、トラック、各種兵器などが運び込まれ、各地で修理が急ピッチで進められ、後方基地機能が強化されていった。

 戦争後半からは、戦死した米兵の遺体が、毎日のように数十体以上が運び込まれた。

 弾痕で破壊された遺体を修復し、米国に送り還す作業が急増した。

 武器修理作業とは違ってデリケートで急ぐため、一遺体の処理が当時としては高額の1万円が米軍から支給された。しかし、余りにも惨たらしい遺体が多かったためか、後半になると日本人の従事者が減少したという。(戦争の厳しさを物語っている)

 それより驚くべきことは、多くの日本人が直接、間接に朝鮮戦線の地に立っていたことである。

※作業要員として
軍事顧問 200名 (韓国軍参謀指揮部)
地上兵 7000~8000名(米軍及び韓国軍に編入)
航空兵 4名(B26, B17で朝鮮への空輸任務)
掃海部隊 1200名(米海軍任務部隊に編入)
その他 若干名(通訳、運転手として米軍に随伴)

※輸送要員として
LST乗組員 2000名(米軍直接雇用、上陸・撤退作戦などの輸送)
CI等乗組員 2500~3000名(政府雇用で提供、水先案内)
荷役労働者 3000名(政府雇用で提供)
関釜連絡船乗組員 5000名(旧国鉄職員)

 以上、軍事評論家の林茂夫氏の調査から。

 他に技術要員として、兵器・艦船などの修理、海底ケーブルの修理・新設、発電所・発電船の操作、発電所建設の監督(以上は済州島),製氷工場(釜山)、電話局復旧工事など(ソウル、大邸)、港湾における飲料水補給、沈没船引き揚げ作業(以上は釜山、仁川、群山)、浚渫作業(釜山、馬山、仁川、群山)、印刷工場設置・監督。

 また、女性もタイピスト、メイド、看護婦(師)、「街の女」(慰安用として約340名)など、 3万名以上の日本人が、朝鮮の地に派遣されて、戦争に参加していた。

 それ以外に日本内地では、26-29万名もの基地労働者(沖縄以外で)、米軍業務に直接従事していた国鉄、電通、 NHK(朝鮮向けの放送)、赤十字、医療、地方自治体職員たちなどがいる。

 戦場に立った彼らのうち、記録によれば戦死者1名、重軽傷者数十名を出している。

 80年代の中葉、朝鮮問題の研究家・活動家としての私に、松山市のある高齢男性から、長文の手紙を貰った。

 文面は朝鮮戦争当時、LST乗組員として下関港から「出撃」した一人だったことと、下関で多くの旧軍の同僚たちと再会したこと、朝鮮に行ったときのこと、下関に米軍関係の仕事を求めて復員軍人や引上げ者たちが、多く集まっていたことなどが綴られていた。

 さらに現在は入院中で、まだ声が出せる間に、あなたに朝鮮でのことを詳しく話しておきたいので、ご足労だがお会いしたいと結んでいた。

 1, 2度、手紙の人と会って、話を聞いた。

 彼の体力が弱っていたから、長時間の会話が無理で、いつも思いを残しながら退出した。それ以上は会えず、亡くなられてしまった。

 話の内容は風聞以上ではなく、個人的な体験と再び戦闘に参加したことで、朝鮮人への贖罪感を表明し、それを私からでも伝えてほしいとのことであった。

 話の内容より、朝鮮戦争に実際に参加していたという人が、身近に居られたことのショックの方が大きかった。

 朝鮮戦争が始まり、彼が参戦していたという1950年といえば、私はまだ一寒村の中学生で、しかも病気療養中だった。

 その病床で聞いていたラジオから、確か「朝鮮」とか「戦争」とか「爆撃」とかの過激な表現を、聞いていたことを思い出す。

 当時の新聞からも、朝鮮戦争で被害を受けていた人達の写真を、私は見ていたはずだ。

 私が病床にあったときの日本列島の状況は、旧国鉄、電信、道路、行政、警察、赤十字、各種病院、海上保安庁、警察予備隊などのほか多くの一般日本人たちも、米軍の戦争に利用されていた。

 さらに仁川上陸作戦でのLST(戦車揚陸艦)を動かし、元山港での機雷撤去作戦の掃海艦乗員など、実際の戦闘地域に派遣されていた日本人が多くいたのだ。

 横田基地や沖縄・嘉手納基地から、B29が毎日のように飛び立って朝鮮を爆撃し、私と同じ年齢の朝鮮の子女たちを殺傷していたことを、新聞やラジオのニュースから知り、聞こえるはずもない朝鮮人たちの悲痛な叫び声に涙していた。

 何もできない非力で幼稚な私自身にも、解放された朝鮮が再び戦場となっていることの、その不合理な政治と周辺の大人(両親も含めて)たちに対して、不満だったことなどを、手紙の人から朝鮮戦争をキーワードに、60数年前の悶々としていた少年時代のことを思い出していた。

 朝鮮、朝鮮人民、朝鮮半島、在日朝鮮人のことを考えるとき、日本人たる私たちの立場は「あやふや」であってはならないと思う。

 朝鮮の植民地支配、朝鮮戦争、朝鮮半島の南北分断化-の3度も日本は、朝鮮に政治的な大罪を犯してきた。

 最早、朝鮮人民に日本の過去の政治を謝罪するだけでは済まないほど、罪の大きさと深刻さを知らなければいけないと思う。

 現在の分断固定化と北朝鮮への敵視政策を、日本は直ちに中止しなければならない。

 そのことを主張することに、私たちも躊躇してはならないと考えている。


8.細菌戦での参戦

 北朝鮮の南日外相は52年2月22日、米軍が細菌式武器を使用しているとの声明を発表した。

 同年5月4日には、米軍捕虜が細菌戦を実施しているとの自供があったと、中国と北朝鮮が共同で発表している。

 米国側は再三再四、これを否定している。

 米国は51年4月25日に、「満州爆撃」を参戦国に通告し、51年後半から朝鮮北部と中国東北地方への爆撃を行っている。中国からの補給路を遮断することと、朝中の避難民たちをも殺傷して、朝鮮の後方地域を破壊する意図をもっていたからである。

 その作戦で用いられたのが細菌爆弾で、通常の爆撃と同時に1個から2個を投下していた。

 51年後半頃から、朝鮮北部や中国東北地域の人々から、奇妙な爆弾が投下された後に、必ずハエや蚊などの小さな虫たちが大量に発生し、しばらくすると周辺の人々がコレラや赤痢などの伝染病にかかり、さらに死亡しているといった報告が寄せられるようになった。

 こうしたことを裏付ける内容が、米空軍捕虜たちの証言によって具体化された。

 この時期の米国は、日本を安定した反共陣営の基地として築くため、対日講和会議をスムースに成立させることを、主要国との間で事前折衝していた。

 さらに日韓体制を構築するため、その日韓予備会談開催への裏工作をも行っている時であった。この米国の目論見への成功は、朝鮮戦争が継続していることによってのみ、成立するものであった。そのため朝鮮戦争が停戦合意したのでは困るので、再三、対立点を捜し出しては停戦協議を延期にしたり、難題を持ち出すなどを操り返す作戦を行っていた。

 米軍の細菌兵器使用は、停戦会談を妨害することと、その後の戦闘を有利に導くための作戦だったと考えられる。45年8月の時点で、第2次世界大磯の主要参加国のほとんどが、細菌兵器の研究を進めていたが、まだ実戦使用するにははど遠かった。

 そのなかで、日本の731部隊の石井四郎式のものが、群を抜いた成果を誇っていた。

 石井たちは人体実験 (中国人や朝鮮人たち)を繰り返し、その成果を実戦で確認していたからである。

 当然、各国とも石井式の細菌兵器に注目し、その研究データと実物の爆弾の入手と、石井ら731部隊幹部たちからの情報を得ようと暗躍していた。

 石井たちも戦争犯罪人とのレッテル貼りから逃れるため、実験データもろとも隠れていた。

 日本占領の有利な地位を利用した米国は、石井たちを発見し、彼らの戦犯免責と引き換えに、細菌兵器データと資料を独占してしまった。

 そうした事実と共に、石井ら731部隊幹部らの存在まで、米国は長年にわたって隠蔽してきた。

 中国軍の捕虜となった米軍将校たちは、生きた細菌は東京や千葉などの工場で培養され、そこで爆弾にして朝鮮に運び、兵器として使用したことを証言した。

 米軍捕虜などが証言する東京や千葉などで細菌を培養し、爆弾づくりをしていた連中こそ、石井四郎ら731部隊の幹部(医師及び技術者)たちであったろう。

 彼らはGHQに匿われていて、朝鮮戦争の最も汚い兵器づくり作業を行っていたことになる。

 最もそうした作業は、彼らにとっては戦前からの延長であった。

 彼らは、植民者としての何等の思考的切り替えもなく、再び、朝鮮侵略の前線に立っていたことになる。

 私たちは、そのような彼らの行いを、一度も糾弾できずに来てしまったことは、悔しい限りだ。

 その石井四郎本人は、朝鮮戦争の前半期、実際に戦場視察をしていた姿を2、3度、新聞記者たちによって目撃されている。

 朝鮮・中国が要請して結成された「国際科学委員会」は、52年9月15日の報告で「朝鮮や中国東北地区で細菌戦がやられているとの主張が、52年のはじめ頃に出始めるまえ、新聞が引き続き2回にわたって、石井四郎の南朝鮮訪問を報道したこと、そのうえ彼が3月またも南朝鮮にやってきたことは忘れてはならない」と、石井四郎が戦線に立っていた事実を伝えている。

 また、中国の新華社電も「米軍は、かつて日本帝国主義が中国を侵略していた時期に細菌戦を実行した大戦犯、石井四郎、若松和次(731部隊の姉妹部隊である第100部隊長)、北野政次らの身柄を拘束し、東京から朝鮮半島へ移した」と報じている。 (52年2月22日)

 一方、広島県瀬戸内海の大久野島で、旧日本軍が保有していた毒ガス弾が敗戦後、全てが破棄されないまま、密かに米軍が保管庫を接収し、自らの弾薬保管庫として使用していた。

 朝鮮戦争時、大久野島の弾薬保管庫に保管した爆弾・弾薬は、朝鮮の戦場で使用された。

 同時に旧日本軍の残存毒ガス弾も、使用された可能性が十分にある。

 米軍が朝鮮戦争時に使用した悪魔の兵器、細菌弾と毒ガス弾はともに、旧日本軍の落し子であった。

 731部隊の細菌兵器も、大久野島の毒ガス弾も、かって旧満州地域で共同研究、共同開発して、中国人・朝鮮人たちに苦痛を与えてきたものだ。

 この日本産の細菌弾と毒ガス弾は、朝鮮戦争においても、朝鮮人・中国人たちのうえで悪魔性を発揮した。

 そのことによって日本は、朝鮮人民を二重、三重に苦しめてしまったことになる。


9.戦後復興と経済成長

 米国は48年12月、日本に経済安定9原則を指令した。(ドッチ・ライン)

 この頃、米国経済が低下していたためもあって、日本経済の自立化を促す名目で、対日援助を軽減していくことと、経済面からも日本の米従属化を進めていくことが、主な目的であったようだ。

 経済9原則の内容は、以下であった。

1.政の均衡、2.徴税の強化促進、3.融資の制限(復興金融公庫融資の停止、補助金の削減)、4.賃金の安定、5.価格統制の強化、6.貿易、為替管理の改善、7.輸出の振興、 8.重要原料などの増産、 9.食糧供給の改善-など、当時の日本社会にあっては厳しい内容であった。

 その中心は単一為替レートの設定(1ドル360円とする)と、敗戦後からのインフレーションを収束させることにあった。

 ドッチ・ラインは、日本人に耐乏生活を要求しつつ、経済生活も米経済の枠組みへと組み込むためであった。

 米国から強いられた耐乏生活、ヤミ市生活、職もなく不安定収入生活などから抜け出していく端緒となったのは、米国が仕掛けた朝鮮戦争であった。

 朝鮮戦争下、下関や北九州(空襲警報のサイレンが鳴ったという)地域以外の日本人は、戦争による喧騒など知る由もなく、日々、種類が増えていく物資や商品と、落ち着きをみせていく物価などによって、生活が安定していく様を実感していた。

 日々の生活が豊かになっていくその先に、朝鮮人たちの惨禍や死のことなど、多くの日本人は考えることもなく、何事も知ろうともしなかった。

 GHQは、家族主義的な閉鎖性だけを払拭させた旧財閥系大企業(三井、三菱、住友、安田など)に、独占資本の地位を復帰させて、兵器製造の許可を日本政府に指令(52年3月8日)し、日本列島を米占領下の基地づくりに邁進した。

 大企業はもちろんのこと、中小企業も、家内工業までが、米軍の戦争経済に寄与した。

 こうして日本列島は、朝鮮戦争による「国連軍」(米軍)の兵站基地となった。

 日本経済はそこからの特需によって、その後の急激な経済発展のきっかけをつかんでいった。

 朝鮮人民の膏血を吸って成長した経済復興であった。

 トヨタ自動車、日産自動車、東芝、松下電器(現、パナソニック)、早川電機(現、シャープ)、新日鐵、三菱重工業、住友化学、日立造船、川崎重工業-など、今も世界企業として営業しているこれら巨大企業群は、このときの朝鮮戦争特需から出現してきた。

 朝鮮人民の苦痛と犠牲のうえで、経済復興を遂げた日本は、植民地時代の反省と謝罪もなく、再び朝鮮人民の自主権を踏みにじってしまった。

 そのような罪過のうえになお、南北分断政策勢力に積極的に荷担し、その政治的利益のなかにいる現在の日本の姿勢を改めない限り、朝鮮人民を二重、三重に苦しめてきた歴史清算の重いつけの支払を、やがて果たさなければならないときがやってくるだろう。


                                                 続く

「日本は、朴槿恵氏の呼び掛けに応えよ」

「日本は、朴槿恵氏の呼び掛けに応えよ」

                                               名田隆司


 朴槿恵(パク・クネ氏)は、韓国初の女性大統領として2月25日午前、ソウルの国会前広場で就任式を行った。

 就任式の演説で、「経済復興」「国民幸福」「文化隆盛」の3つの課題を推進し、「希望の新時代を切り開く」と宣言した。

 世界的に経済が低迷しているなかで、いま、政治指導者たちに求められているのが、国内経済の再建であったから、経済復興への強い意欲を示したことは、当然のことであった。

 北には、核実験は「(韓国)国民の生存と未来への挑戦、最大の被害者は北朝鮮となることをはっきりと認識すべきだ」と非難し、「確かな抑止力を土台に南北間の信頼を構築するため、一歩ずつ進んでいく」とも発言した。

 選挙時よりは積極的ではないが、南北関係の改善を図ることにも言及したことになる。

 就任式後、相次いだ各国要人らとの会談で、麻生太郎副総理兼財務相とも会談した。

 彼女は、日韓両国の新政権が未来志向で緊密な協力をしていくことで一致したことを伝えていたが、それは最初の挨拶言葉以上の意味はないだろう。

 朴新大統領が、麻生氏に「真の友好関係構築のためには歴史を直視し過去の傷が癒されるよう努力し、被害者の苦痛に心からの理解がなければならない」と、婉曲に日本のこれまでの政治姿勢、特に朝鮮関連への歴史問題への姿勢を批判したのである。

 翌26日、福田康夫元首相や日韓議員連盟会長の額賀福志郎元財務相らとの会談では、朴大統領は日韓関係について、さらに突っ込んだ発言を行っている。

 「過去の荷物を降ろし新しいスタートを切りたい。そのために正しい歴史認識の下で両国指導者が信頼を築くことが大事だ」と述べ、単なる挨拶言葉ではないことを示した。

 2日間の、短時間での日本要人との会談で、韓国側は日本に歴史や領土問題に対して、きっちりと認識し清算をしたうえで、お付き合いをしたいと言っているのだ。極めて常識的なことである。

 具体的な懸案には言及しなかったが、直接的には従軍慰安婦と領土問題を指していたのであろう。

 だが、朴槿恵氏が言った「正しい歴史認識」とは、日本の植民地支配の歴史事実、朝鮮人の強制連行に関する認識、現在もまだ続いている朝鮮民族への民族差別の解消などの清算を指している。

 それだけではない。

 安倍晋三首相と自民党政権の対北朝鮮観、歴史観に向けた言葉であろう。

 先の日米首脳会談で訪米し、ワシントンのシンクタンクで講演した安倍氏は、朴槿恵大統領との親密度、日韓間の親密さの基点となる関係について触れた発言が、朴槿恵氏と韓国を不快にしている。

 「朴槿恵氏の父である朴正煕元大統領は私の祖父(岸信介元首相)の親友。朴元大統領は日本と非常に親しかった」と、朴氏との縁をアピールし、日韓関係構築への自信を語った部分である。

 さすが、自称「歴史オンチ」だけのことはある。

 「日本と親しかった」とは「親日派」のことを指している。親日派は、植民地時代に日本の代弁者となり、民族の魂を売って日本に協力し、同族の朝鮮人を苦しめてきた人間のことである。

 今でも、親日派とみられる人物については批判され、排除されている。

 朴正煕氏が、元満州国軍将校であり、65年の日韓請求権協定締結でも、日本側の主張に歩み寄り日本に同調した人物として批判されている。

 そのような父をもつ娘としては、それが一番の弱点で、昨年の大統領選でも野党側からの攻撃材料にされていた。

 言わば、「親日的」との表現は禁句であったのだ。

 そのように、忌避すべき過去の「親日」を基礎に、未来志向で緊密に協力していこうと呼び掛けられても、朴槿恵氏と韓国政権が厳しい視線を向けられるのは当然のことであったろう。

 それに安倍氏の直近の発言も、朴氏は問題にしていたはずだ。

1.(旧日本軍)従軍慰安婦問題の強制性を認めた河野官房長官談話を見直すとしたこと。

2.(朝鮮半島への)侵略、植民地支配を認め謝罪した村山首相談話を見直すとしたこと。

3.近隣諸国に配慮する教科書検定基準を見直すとしていること。

4.来年、政府主催の「竹島の日」式典を開くとしていること。

 以上のような安倍氏の思考(後ろ向き)では、日本帝国主義者の政策によって被害受けてきた人たちとの和解など、不可能である。

 安倍政権の一連の言動から、「戦前回帰」「軍国主義の復活」だと、韓国側が警戒感を強く抱くのも無理はない。

 それより、私たちの歴史観さえ裏切っていて、許せない。


                                       2013年2月28日 記

「朝鮮戦争と日本の関係」②

「朝鮮戦争と日本の関係」②

                                               名田隆司


4.警察予備隊(自衛隊)の創設

 朝鮮戦争勃発(50年6月25日)から14日目の朝、国連軍最高司令官のダグラス・マッカーサーから吉田茂首相あてに、一通の書簡が送達された。

 「日本警察力の増強に関する」内容のもので、書簡でマッカーサーは、7万5千人からなる国家警察予備隊を設置するとともに、現有海上保安庁に8千人を増員することを許可するとしていた。

 「国家警察予備隊」の設立を「許可」するとしているが、当時の吉田政権は警察予備隊の許可など、願い出たことはない。

 この表現は帝国主義者一流のもので、「指令」を装った押しつけの「命令」であった。
(事実、ポツダム緊急政令として指令したのである)

 GHQの命令に背く事など出来ない吉田政権にとっては、警察予備隊の設置への協議を GHQの民政局と進めることになった。

 当初、日本側は国家警察の予備員程度に理解していたが、GHQ側は現行の警察法にしばられない「軍隊的なもの」だとして、日本防衛を担う将来の日本陸軍創設であることを説明した。

 このことは、戦争および戦力を永久に放棄し、いかなる種類の軍隊も保持しないとする日本国憲法に抵触するうえ、戦闘中の敵(北朝鮮)には秘密にする必要があるとして、予備隊が将来の陸軍になるということも、協議そのものさえ、極秘のうちにすすめられた。

 朝鮮での戦局が不利に展開していたこともあってか、GHQ側は協議の結論を急いだ。

 8月10日に「警察予備隊令」を公布し、50年10月9日には7万5千人の警察予備隊が発足した。

 7万5千人という数は米軍4個師団と同じで、朝鮮に出動していく米軍の穴埋め的役割が、警察予備隊の当面の任務であった。

 8月13日、全国の警察署を窓口として一般隊員(第一次)を募集した。(応募締切り8月15日、試験17日、第1回入隊者集合23日)

 朝鮮戦線への米軍移動日程を調整した結果の日程で、遅延は許されなかった。

 「平和日本はあなたを求めている・・・」との、隊員募集ポスター (新聞、ラジオ、映画館でも呼び掛けている)によって、38万2003人もの応募があった。(わずか3日間であったのにもかかわらず)

 当時の日本世論は、警察予備隊創設は再軍備化につながり、憲法にも違反しているとして、応募者にも冷たい態度を取る風潮があった。

 だが、経済が復興する前であったことと、旧軍隊や大陸などからの引き揚げ者が増加していたことなどもあって、失業者が溢れていた。

 それに月給5000円と退職金6万円の好条件が若者たちを引きつけたようだ。

 隊員となった半数以上が旧軍 (元下士官もいた)経験者であった。

 指揮官など小隊長以上の幹部は、米軍が受け持って訓練した。

 これは、警察予備隊創設での日米協議で、旧軍出身者を幹部に登用しないことを確認していたことと、旧軍将校の大半が公職追放中であったからである。

 だがこれらの約束を覆したのはGHQであった。

 指揮官を充足するために、旧軍将校を一切採用しないとの部分を修正し、旧満州国軍に所属していた日本人将校と公職追放令に該当しなかった者(大尉以下)たちで、800人の中堅幹部を採用した。

 まだ不足していた高級幹部を、公職追放中の旧軍幹部たち3250人を追放解除することで充当した。

 後に自衛隊となる国家警察予備隊設置の任務と目的こそ、朝鮮戦争を直接の引き金として発足し、朝鮮の戦場に出動する在日米軍をカバーするものであった。

 隊員の半数以上と中堅幹部の全てが旧軍出身者たちが占めていて、直ちに米軍の補完作業が果たせる能力を持っていた。

 講和条約の交渉と並行して、米政権内では日本を再軍備することについての議論を深めていた。

 時あたかも、朝鮮戦争は中国の参戦という、予想もしていなかった事態に直面していた米総合参謀本部(ICS)は51年2月、4個師団で構成している警察予備隊を、10個師団にまで拡大する方針を打ち出した。

 さらに、朝鮮戦争にも対応できる十分な装備や兵器を、日本に提供することなども決定していた。

 法整備や手続きなどがあって、米軍から警察予備隊に105ミリ及び155ミリ榴弾砲計40門と20トン型戦車(M24)40両など重火器の武器供用が開始されるのが52年に入ってからのこととなる。

 GHQは3月8日に、日本に兵器製造を許可している。

 これらの兵器は当初、小型の銃や105ミリ榴弾砲などで、米軍が朝鮮戦争で使用していた。 (航空機製造法の公布は7月26日)

 同年5月には旧財閥解体指令が解除され、旧三菱も商号使用禁止が解除(5月29日)されて、新三菱重工業として発足し、その定款に「艦艇、航空機、兵器」などの製造を追加した。

 旧財閥が復活すると共に、新軍需産業界もスタートした。

 同時にマッカーサーの指令によって、海上保安庁に8千人が増員された。

 海上保安庁は、すでに1948年5月に発足している。

 海軍省の廃止(45年11月30日)直後、日本列島周辺海域に敷設されている10万発以上もの日米両軍の機雷除去(掃海任務)を任務とする、旧海軍軍人を「継続招集」して、「日本海軍掃海部隊」が設立されていた。

 彼らの任務は、引き続いての掃海業務とともに、沿岸および港湾警備がGHQによって命じられていたのだ。

 日本敗戦直後に南朝鮮に帰国していた在日朝鮮人たちは、帰国してもすでに住む家や田畑も失っており、インフレーションと政治的テロルのうえに、46年6月頃から蔓延したコレラなどによって、多くの人たちが再び日本に密かに戻っていた。

 GHQでは、コレラ保菌者の密入国に伴う日本国内での感染拡大を防ぐ意味で、沿岸および港湾警備を強化し、旧海軍たちが結集していた「掃海部隊」を海上保安庁として、彼らに警備任務を任せた。

 マッカーサーが海上保安庁の増員・増強を意図したのは、朝鮮戦争への「従軍」を命じるためでもあった。

 マッカーサーは仁川奇襲上陸によって、釜山包囲網を切断した作戦に続き、元山上陸作戦で戦局を転換させることを計画していた。

 元山港にはソ連製機雷が敷設されている可能性があるとして、極東海軍司令官ジョイは10月9日、海上保安庁掃海隊に機雷掃海の協力を要請(命令)した。

 翌10日、極秘裏に海上保安庁「特別掃海隊」(総指揮・田村久三航路開発本部長)の92名は、掃海艇20隻、試航船1隻、その他4隻に分乗して掃海に従事し、12月15日に解散して米軍の露払い作戦を終えている。

 途中作業の10月17日、永興湾でMS14号艇が触角機雷に触れて沈没、中谷坂太郎(当時 21才)が死亡(戦死)し、負傷者18人を出す事故があった。

 朝鮮戦争への対応として発足した警察予備隊は、保安隊(52年8月)から自衛隊(54年7月、陸海空3軍体制確立)へと名称を変えて、実質、軍隊へと変身して、米軍との共同作戦を繰り返し、朝鮮半島に脅威を与え続ける存在となっている。


5.サンフランシスコ平和条約体制

 朝鮮に自主独立の、臨時統一政府をつくるための米ソ共同委員会が、46年5月6日に無期休会となった頃から米国は、ソ連との対決(冷戦)を意識していたようである。

 この時期、南朝鮮で米軍政庁の庇護を受けていた親日派、民族反逆者らが、民族独立を追及する闘志たちにテロルを実施しており、李承晩は「北侵統一」を叫んでいた。

 東アジアに強力な「反共の砦」を築くことを考えていた米軍政庁は、南朝鮮での単独政権樹立をめざして、反共右翼らの横行を許していた。

 日本に対しては、太平洋戦争の終結と日本と旧連合国との国交回復作業を急いでいた。

 それが、サンフランシスコで51年9月4日から開かれていた講和会議、サンフランシスコ平和条約であった。

 講和条約は、米国・英国など48カ国と日本との間で調印されたが、ソ連・チェコスロバキアは調印せず、インド・ビルマ(現ミャンマー)・ユーゴスラビアは会議の招請には応じず、中国(中華人民共和国、中華民国のいずれも)は会議に招請されなかった。

 東西冷戦を反映して、共産国など多くの国々がボイコットした状況下での、講和条約の成立であった。

 従って、片面条約とも言われている。

 この対日平和条約案は、米国が作成し米国が進めていった。

 米国は47年以来、数次にわたって条約案を作成し、大韓民国成立後には韓国政権を出席国に含めて、51年1月には正式な出席要請の公文を出していた。(北朝鮮政権には連絡せず)

 韓国に出席要請をした理由は、41年12月9日の大韓民国臨時政府の対日宣戦布告があったことを根拠(後日、米国は承認していなかったと、否定している)にしていたからである。

 大韓民国臨時政府は中国の上海で組織したが、内紛を繰り返し、独立軍を持たず、まして日本軍と戦ったことなどはない。だから対日宣戦布告などは考えられない。

 実際に日本軍と戦っていたのは、朝鮮人民革命軍(東北抗日連軍第2路軍)だけであったから、対日講和会議への出席要請をするなら朝鮮民主主義人民共和国に出すべきであったろう。

 日本は、韓国の出席要請に反対した。韓国とは交戦国ではなく、それに在日朝鮮人が連合国人(戦勝国人)となって補償の権利を有するのは不都合だとの理由を付けた。

 在日朝鮮人への戦争補償を、何も考えていなかったことが分かる。

 英国も韓国が対日抗戦国ではないとして反対したため、米国は韓国招請を見送ってしまった。(それを知った李承晩は怒った)

 結局、日本が植民地支配をした朝鮮半島の南北両政権とは、対日講和条約は結ばず、二国間協議に委ねるとの不合理な内容となった。

 しかも日本資産問題などを含めて、韓国との2国間協議に委ねるとのみ明記していたため、ここでも北朝鮮政府を無視した反共精神を表現していたことになる。

 このように反共・反北内容を精神とするサンフランシスコ講和条約を、朝鮮半島に当てはめると、「反共・反北統一論」の李承晩の主張と重なってしまう。

 米国は日本を侵略戦争が出来ない国にする憲法を自ら指定しておきながら、47年頃から日本列島を反共体制のアジアの要とするため、カモフラージュ細工を考えていた。

 太平洋戦争の終結と、日本と旧連合国(55カ国)との間で国交回復させるために、講和条約を結び、日本が占領体制から脱して独立国にすることであった。

 国際条約としての対日平和条約、米国との2国間安全保障条約、独立国としての自衛軍を保有させること、それが米国のシナリオであった。

 日本との国際条約を成立させるためのタイミングを図っていたが、朝鮮戦争勃発の方が先に発生してしまったようだ。

 だが、そのことを逆手に取った米国は、日本国民に対しては隣国の現実的な戦争場面を突き付けることで、憲法条文を乗り越えさせようとし、サンフランシスコ会議に参加するとの態度変更したソ連に対しては、北朝鮮軍・中国軍を「侵略軍」だとする国連決議を突き付けることによって、突破しようとした。

 51年7月、北朝鮮の南日外相が停戦会議を提起した。

 米国は1951年9月4日からのサンフランシスコ会議を目的どおりに終了させることを、優先事項としていたために、焦りはじめた。

 これまでの国際会議では、戦勝国は敗戦国に厳しい懲罰的な内容の講和条約を強いてきた。第1次世界大戦後の、敗戦国ドイツには天文学的な賠償金を科している。

 第2次世界大戦の場合でも、ドイツは4カ所に分割支配され、指導勢力であったナチズムは破壊・追放された。

 一方で日本は、サンフランシスコ講和条約によって、歴史に類例のない寛大な内容を受けとることになった。

 日本には軍部への制裁が科されることもなく、戦争犯罪者としての昭和天皇も731部隊の幹部たちも免責され、米英が率先して賠償請求を放棄すると、他国もそれに倣い、多くはその後の日本との2国間協議の中で、経済協力として論じられることとなった。

 それに反して最も過酷な状況に置かれたのは、解放民族であった朝鮮である。

 日本こそ、ドイツと同じように分割されるべき立場であったにも関わらず、サンフランシスコ講和条約体制下の日本は、朝鮮半島の南北分断と北朝鮮敵視政策を今だに続けている、不合理な現実がある。

 朝鮮半島との法的な関係は、米国が現在もまだ朝鮮戦争を継続していることと、日本は対北朝鮮とは植民地支配の関係を清算していない、ということである。

 朝鮮戦争当時の日本支配層は、米国の戦争政策に全面的な協力姿勢をとりつつ、自らの朝鮮再侵略シナリオを構築していた。

 朝鮮戦争勃発直後に開催された国会の施政方針演説で、当時の吉田茂首相は「かかる事態(朝鮮戦争)に直面いたしまして、いまなお全面講和とか永世中立とかいう議論がありますが、これはたとい真の愛国心から出たものであったとしても、まったく現実から遊離した言論であります。

 みずから共産党の謀略に陥らんとする危険千万な思想であります。やがて自由主義国家の一員として迎えられ、わが国の安全が保障せらるるにいたるのであります」(50年7月14日)と、発言している。

 吉田茂が日本の早期独立・片面講和を推進した結果、日本は早期占領解除という果実(これとて米国の戦略上のこと)を得たかわりに、日本が侵略したアジア諸国との関係修復は重たい課題として、残されることになった。

 特に朝鮮半島との関係修復はまだ未清算で、南北分断という後遺症を加重している。

 その罪は、米国によってサンフランシスコ講和体制が「保障」されたことにある。

 日米ともにサンフランシスコ講和体制を利用して、北朝鮮と敵対関係を維持してきた。

 しかも北朝鮮と直接的に対峙している南朝鮮政権を活用しての、帝国主義手法によって民族対立、民族分裂政策を実施している。

 日本が現在に至るも、北朝鮮との日朝国交正常化への協議の席に座らないことも、米韓との軍事同盟を結んで北朝鮮を恫喝していることも、全てはサンフランシスコ講和体制から発している。


6.日米安保体制の形成

 昨年12月26日に発足した安倍晋三政権は、開口一番、外交スタンスを日米安保を基軸にすると発言した。

 日本のどの政権も、これまで日米安保基軸を表明しているから、特別なことではない。

 このように日本政治の基軸となっている日米安保(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約)は、サンフランシスコ講和条約調印と同時に、サンフランシスコ市内の米軍基地内で調印した、日米間の軍事同盟である。

 条約は、ソ連封じ込めをを第一目的とし、同時に日本の防衛と極東での米国権益の確保、極東有事の際の対応に関すること、日本の軍事大国化の阻止、朝鮮半島及び中国地域との戦争対処なども想定されていた。

 だが実際には、日本独立後(サンフランシスコ講和条約後)にも、引き続き米軍の日本駐留を認めるための、日本国内の米軍駐留と基地の治外法権的使用という、米軍がアジア地域で安定的に軍事プレゼンスが果たせるためのものであった。

 当時、米国務省顧問であったダレスは、「アメリカ側が望むだけの期間、日本本土のどこにでも望むだけの規模の軍隊を駐留させる」ことが出来ると発言し、米国の本心を語っていた。

 60年1月19日、岸信介首相(当時)はワシントンで、新安保条約に調印した。

 調印後の岸は「日米新時代の精神を具現するものだ」との抱負を語っていたが、それまでは米軍の日本駐留が暫定的であったものが、長期固定として認めたこと、さらに広大な米軍基地の使用継続も承認していたことなど、内容的には後退していた。

 サンフランシスコ講和条約によって、日本は独立したにも関わらず、外国軍(米軍)の駐留を永久的に許すとした新安保条約の締結に、「安保改定反対」とのシュプレヒコールを国会内外で叫んだ60年安保闘争も、6月末に岸政権退陣と引き換えの条約自動承認劇によって、熱い政治の季節が終わってしまった。

 つづく70年安保の改定は自動延長となり、日本の防衛費はGNPの1%内に押さえることが決められた。(これは、東西緊張緩和の時代を迎えていたからである)

 だが、その1%の防衛費でも、かつて日本によって侵略、植民地支配されていたアジア諸国にとっては、大きな脅威となった。

 侵略時代の清算が終わっていないか十分ではなかったためと、GNP1%内でも米国に次ぐ世界第2位の軍事費であったため、「日本軍国主義の復活」と叫ばれた。

 中曽根政権時代(80年代)、「日米は運命共同体」だとして、防衛費の1%枠が外されてしまった。

 1%枠を外したのは、79年に米軍駐留経費の一部を、日本が負担する措置(思いやり予算)が開始されたからでもある。

 日米が運命共同体だとする表現は、日本が駐留経費の負担をした米軍によって、日本および極東を防衛してもらっているのだと言うことになる。

 日本はまだ外国軍隊の駐留を必要とする、真の独立国ではないということになる。

 日米安保からみて、自衛隊の存在はどのような意味があるのか。

 78年の「極東有事の際のガイドライン」では、米国が攻撃し、日本が防御を担当することと策定している。

 このガイドラインによる日本駐留米軍は、日本の防衛義務がないことになっていた。

 日本は、米軍のための基地と巨額な駐留経費も負担しながら、その軍隊によっては防衛されないということになっている。

 日米安保条約は日本防衛を規定したものではなく、米国のアジア戦略上、地政学的な日本と日本の経済を必要とした、米国が日本を支配する条約となっている。

 日本にとって、真に必要な条約であったのかどうか、なぜ誰も疑問としないのか。

 また日米安保は、ソ連(共産主義勢力)の脅威を第一目的にしてきたが、90年代初頭の冷戦終結によって、その本来の目的も失っていたはずだ。

 特に94年以降は、対北朝鮮脅威、対中国脅威をつくり上げることで、そうした既成事実を積み重ねるなどして維持してきた側面がある。

 この日米安保体制を形成している限り、日本は米国とともに今後とも、朝鮮半島有事と北朝鮮脅威、中国脅威のシナリオづくりに邁進しつつ、逆に日本脅威を演出していく存在になっていくだろう。

 日米の軍事と経済体制は、日米安保によって一体となっている。

 米国が北朝鮮との間で、朝鮮停戦協定を朝米平和協定へと転換しない限り、日本もまた北朝鮮敵視政策から解放されない、という関係になっているからだ。

 日米安保条約を第一基軸にしている限り、日本は米国から解放されない。

 占領軍から駐留軍へと名称を変更した在日米軍の存在は、「極東における国際の平和と安全の維持」に寄与するとともに「日本国における大規模の内乱及び騒乱を鎮圧するため」に用いられると、条約に明記されていることをよく理解しておくよう、第一基軸者たちに言っておきたい。

 これは、日米が対等や同盟関係の条約ではなく、不平等の関係を規定している。

 米国防省では日本を、日本の技術力と工業基盤をもとに、核兵器、大量破壊兵器を短期間に製造・実戦配備することが出来る国として、また、かつての植民地支配思考を完全に払拭されていない国として、安全保障上の見地からの対処計画を用意する、仮想敵国リストとしても記載している。

 いかなる国際条約・2国間条約といえども、それに優る自国権益上からは、紙のごとく破り捨てられるという冷酷な歴史事実を、過去に日本は幾度も繰り返してきた歴史をもっていたから、忘れてはいないだろう。

 そのような意味でも日米安保が、日本政治の第一基軸だと広言する政治や政治家は、自主化の真の意味を理解していないといえよう。

 米国からみる地政学上の日本列島が、米軍の最も重要な戦略展開拠点となっていることから、日本は朝鮮半島と敵対関係になっている。

 ところが第2次安倍晋三政権は、集団的自衛権行使の見直しと、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の改定を並行して協議することを決定した。(13年1月15日)

 現行のガイドラインが策定された79年に比べ、中国の軍事力が飛躍的な増強と、北朝鮮が核拡大しているために、それへの対策を協議するとしている。

 その米国は、国防費の総額を大幅に削減した分を、日本の防衛努力の強化にオンブしようとしている。


                                                 続く
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