「『国連軍司令部』の怪」
「『国連軍司令部』の怪」
名田隆司
1.
米国は12年1月に発表した新国防戦略で「国連軍司令部」を「多国籍連合機構」に変更して、アジア版北大西洋条約機構(NATO)の母体にすることを明らかにした。
今後10年内に多国籍連合機構を使って、海外に配備している米軍武力の60%を、アジア太平洋地域に集中させようとしているのだ。
その目的は、中国や朝鮮民主主義人民共和国 (以下、朝鮮)などが、今後、米国ら勢力と対敵し得る勢力に成長できないように包囲網を形成し、軍事的抑制を続けていくことにあるとしている。
そのため同時に、同地域内での米国との二国間の同盟関係にある各国を、順次に NATOのような統一的な作戦指揮体系に整え、アジア版多国間軍事同盟とすることを目論んでいるのである。
冷戦時代、米国は欧州のNATOに依拠して、旧ソ連と東欧社会主義諸国を抑制し、崩壊させた経験が忘れられず、それをアジア太平洋地域でも再現し、自らの潜在的ライバル(朝鮮と中国)を包囲する集団的軍事機構を設定しようとしているのだろう。
今年の7月27日、朝鮮停戦協定が調印されてから60年を迎える。
朝鮮半島では、未だに法的には戦争が終っていないのだ。
平和を保障する制度的装置が構築されないまま、朝鮮半島は戦争でもない平和でもないという不安定な状態が、60年間も続いていたことになる。
その不安定で危険な状態を、平和安定に代えるための協議を、朝鮮は米国に呼び掛け続けてきた。
その米国は、朝鮮が呼び掛ける平和協定締結には応えず、あくまでも停戦協定状態を維持させたまま、あまつさえ国連軍司令部という冷戦時代の遺物を、再び活用しようとしている。
米国は以前から、日米軍事同盟と米韓軍事同盟を合体させた三角軍事同盟を進めようとしてきたが、12年、過去の歴史を清算していない日本との軍事同盟化に、韓国民衆と議会が反対して頓挫してしまった。
それで、そうした関係国の反揆を避けるため、新たな軍事機構を設けるよりも、看板だけの「国連軍司令部」の機能を復活させ、その名の元での連合武力を形成することを考えたのだと思われる。
2.
国連軍司令部とは、朝鮮戦争時に米国が追従国家の兵力を引き入れ、自らが指揮権を行使して、朝鮮半島で戦ったときの連合部隊名のことである。
「国連軍」と国連機関の名前を勝手に使用した、米国のための戦争推進「道具」であった。
1950年6月当時、国連安全保障理事会 (国連安保理)の常任理事国であった旧ソ連は、国連での中国代表権を中華人民共和国ではなく、中華民国 (台湾)が行使していることに抗議 (米国に)して、理事会を欠席(50年1月13日から)する作戦をとっていた。
第2次世界大戦直後の中国では、蒋介石率いる国民政府軍と毛東沢率いる中国共産党軍との国共内戦が展開していた。
49年5月、国民政府軍が敗れ、蒋介石らの勢力は台湾へと逃れた。
同年10月、毛東沢率いる中華人民共和国が樹立された。
この時点で中国大陸の正式な政府は、中華人民共和国になったのであるから、安保理常任理事国の中国側代表権は、中華民国から中華人民共和国に変更していなければならなかった。
代表権交代に米国が抵抗していたから、直ぐには実現しなかった。
中国内戦時の米国は、国民政府軍側を軍事的にも政治的にも支え、援助していた。
国民政府軍が敗れ、共産党軍が勝利したことに米国は大変なショックを受け、米国自身が敗れたようにも感じていた。
そのために米国は東アジア戦略の再考と、日韓を中心とした反共防衛戦線の構築作業を急ぐ必要に迫られていた。
米国がとった台湾政府の居座り作戦は、その一環ではあったものの、時間稼ぎでもあった。
ソ連が中国代表権問題で理事会欠席戦術をとっている間隙を利用して、米国は朝鮮半島を手中にする作戦にとり掛かっていた。
南北分断の現実から対立を煽り、軍事紛争、そして戦争へのシナリオを描いていたのであろう。
国連安保理は5常任理事国と、任期2年で選ばれた10カ国(当時は7カ国)の非常任理事国からで構成されている。
国連憲章第27条は、国連安保理の主要な評決方法を、手続き事項については任意の9カ国の同意を得ればよいとしているが、主要な決定は5常任理事国のすべてを含む9カ国以上の同意を必要としている。 (常任理事国の拒否権が発生する問題)
拒否権保有国に対しては、制裁を加えることが難しいため、これまではそのような例はなかった。
常任理事国のうち1カ国でも同意しなければ、重要な決定は裁決できない仕組みになっているのだ。
ソ連が出席すれば反対票を投じ、採決できないことが分かっていた米国は、ソ連欠席という願ってもないテコを利用して、朝鮮半島で戦闘が勃発した6月25日の当日に、国連安保理を招集して、北の朝鮮人民軍を「侵略軍」だと定める決議を強引に決定してしまった。 (国連安保理決議第82号)
しかしこの決議は、厳密にいえば国連安保理違反で無効である。
安保理では、侵略者に対して軍事力による制裁を決定するなどの、強力な権限が与えられている。
米国はこの安保理権限、侵略者に対する軍事力による制裁権を、強引に解釈して活用することを考えたものと思われる。
侵略とは本来、他国に軍事侵入して領土を奪うことを意味しているのであるから、民族紛争に適用することは間違っている。
「国連軍」を組織することを考えていた米国は、無理矢理な解釈を当てはめ同盟国に押しつけた。
帝国主義者の勝手な論理そのものだ。
帝国主義的といえば、南の李明博政権は「2012国防白書」 (12年12月発刊)で、「北の政権と軍隊はわれわれの敵」とし、朝鮮西海の北方限界線に対して「以南は自分らの管轄水域」であると、記載していた。北方限界線とは、停戦協定直後の53年8月30日、「国連軍」司令官であったクラークが、朝鮮西海に一方的に引いた海上の境界線であった。
米軍のクラークは、韓国海軍の北上を防ぐ意図で、陸上の軍事境界線を意識して臨時海上制約線としたのだ。
問題は、停戦協定調印者の相手側の朝鮮には何の協議もなく、米国が勝手に西海5島を起点 (停戦協議当時、島を国連側が占領していたため)として引いた線で、朝鮮側は今日まで認めていない。
南の「国防白書」に北方限界線を「実質的な海上境界線」だと書き入れたのは、李明博政権が始めてで、それだけでもこの政権が南北対決姿勢を露にしていたかが分かる。
北との関係を民族同士として考えるのではなく、対立する国家間のような感覚で対応してきたのは、米国の要請でもあったろう。
それこそ、朝鮮民族の分断を追及している米国政治のカイライの役割を演じてきた、悲しくも侘びしい政権であったと思う。
米国は、北の朝鮮人民軍を「侵略者」だとするために、彼らからの軍事的挑発を誘引する仕掛けを、米国お得意の「誘引作戦」を幾重にも準備した。
朝鮮の親日派と右翼連中と、米軍政庁の軍事力によって支えられていた李承晩政権は、民衆からの激しい反発を受け続けており、インフレーションも政権を攻撃していた。
この頃の南朝鮮民衆たちの生活は、不景気、失業、物価高の最悪の状態がずっと続き、そのうえ政治の不正腐敗と政権延命のためにする各種の不条理、担造事件とテロルまでが相次いで発生するという、暗黒社会となっていた。
48年以降、南朝鮮各地では反政権闘争が武装闘争へと発展し、遊撃戦が繰り広げられていた。
各地の遊撃隊に、麗順反乱事件の主力部隊が合流し、武装遊撃隊-と成長を続けながら、李政権に打撃を与えていた。
武装遊撃隊は49年5月頃になると、遊撃戦区創設に力を注いだ。湖南 (全羅道)、智異山、大白山、嶺南 (慶尚道)、済州島など、南朝鮮133郡のうち118郡にまで遊撃戦区を形成するほど、戦線が拡大していた。
その中心は智異山で、そこではパルチザン闘争が繰り広げられていた。
7月以降、戦闘組織はさらに拡大し、人民遊撃隊へと再編している。
李政権は、遊撃隊地区の住民を強制移住させるなどして、遊撃隊の掃討作戦を展開 (この段階ですでに南朝鮮一帯は内戦状態となっていた)した。
50年4月の1カ月間の交戦回数は2948回、参加人数は6万5000名を越す戦闘となっていたのだ。
朝鮮戦争勃発後は、彼らは南部軍として再編されて、遊撃戦を続けている。
米軍政庁は、南朝鮮のこのようなパルチザン闘争を利用し、帝国軍にパルチザン部隊を追っかけるふりをして、38度線を越境する小競り合いを繰り返し続けさせた。
小競り合いは銃撃戦となり、追撃戦となり、本格的な戦闘場面が増加していった。
誘引作戦として米国は、宣伝戦も大いに利用した。
その一つがアチソン・ラインであった。
アチソン米国務長官は50年1月、対中国・北朝鮮の防衛線として、マーシャル列島-日本-沖縄-フィリピンを結ぶ線に定めるとする内容を発表した。
南朝鮮と台湾が防衛戦から除外されていたため、米国は南朝鮮を重視していなかったのではないかとの憶測で、アチソン・ラインを信じて、金日成が南侵を決定したのではないかとの、研究者たちが今も存在している。
そうした論調こそ、米国の思惑と宣伝に嵌まった思考である。
「北朝鮮軍が侵攻した」「北が戦争を始めた」との解釈論こそ、米国が安保理を利用する際の主張であった。
47年後半の米国が、日本と南朝鮮を東アジアの要石として、反共防衛ラインの中心に据える決定をしていたことを考えれば、アチソン・ラインで南朝鮮を外したのは、まさしく北を誘導する作戦の一部であったことが理解できるだろう。
ソ連政府は6月29日と7月7日に国連安保理に電文を送り、常任理事国であるソ連と中国の支持なしに採択した決議は、国連患章に違反しており、効力はない旨を通告した。
ソ連が安保理を欠席していたのは、50年1月13日から51年1月までの1年余であった。
朝鮮問題からすれば、欠席戦術を取っていたソ連は、常任理事国としての役割を果たしていたのかと、疑問点を抱いてしまう。
米国の陰謀が明らかとなった後も、電文だけでの抗議というのは、その後の米国の行動を暗黙の内に承認していたようなものである。
そのようなソ連の抗議など平気で無視した米国は、続く7月7日に再びソ連欠席のもとに招集した会議で、朝鮮戦争に国連加盟国が武力を派遣し、それを米軍の指揮下の「連合司令部」に結集させると同時に、その司令部に「国連旗を使用」することを決議させた。(国連安保理決議第84号)
「国連軍司令部」と似た名称に、国連軍がある。
国連軍は、国際連合憲章第42条の規定に基づき、国際連合加盟国によって組織される軍隊である。
国際平和の維持、侵略の阻止のために、安保理の下に軍事参謀委員会をおき、軍事力を組織すると規定していたが、この方式はまだ実現していない。
50年のスエズ戦争、60年のコンゴ戦争、61年のキプロス紛争などに出動した部隊も、「国連軍」もしくは「国連平和維持軍」の名称を冠せていたが、朝鮮戦争時の手法を用いたもので、国連憲章に規定された本来の国連軍ではない。
朝鮮の場合は、もちろん国連憲章が定めたものではなく、米国が細工した安保理の「決定」での勧告に応じた国連加盟国の軍事行動であった。
安保理で決定していた当初の名称は「連合司令部」であったが、米国が安保理に連合司令部の報告書を提出する7月25日に、名称を勝手に「国連軍司令部」と変更し、以後はその名称を使用している。
米国が作成したペーパー上の名称であから、「国連軍司令部」は米国が詐称したものだとする所以である。
名称は国連軍ではあったが、実質は米軍との連合軍であったから、米国政府が任命した司令官が指揮をとるようになったのは、当然といえば当然であったろう。
理事会の「勧告」に応じるかたちで兵力をおくったのは英国、オーストラリア、トルコ、ニュージランド、フランス、カナダ、南アフリカ共和国、タイ、コロンビア、エチオピア、ギリシャ、オランダ、フィリピン、ベルギー、ルクセンブルクの15カ国であった。
米国は安保理「決議」に先立って軍事行動をとっていた。
ソ連が国連安保理の理事会活動に復帰した直後の51年1月31日、安保理議定(50年6月25日の第82号)から「大韓民国に対する侵略に関する提訴」の案件を削除することを提起し、採択 (決議第 90号)された。
米国が強引に朝鮮人民軍を「侵略軍」だとして、安保理でレッテルを貼り付けたものが、剥がされたことになる。
このことについては、ソ連の成果であった。
この時点で、「国連旗」のもとに結集していた武力は、朝鮮半島で戦う何等の根拠もなくなっていたのだ。
最早や「国連軍司令部」は、国連安保理が管轄する機構ではなくなっていたのだから、解散する必要があった。
それにも関わらず「国連軍」という名称のまま、米国の戦争「道貝」となって朝中人民軍と戦い続けていたことになる。
歴代の国連事務総長も、国連機構の中で「国連軍司令部」は存在していなかったことを認めている。
ブトロス・ガリ事務総長は「連合司令部は国連安保理が自らの統制下にある付属機構として設立したのではなく、それは米国の指揮下に置かれるようになった」 (94年6月の朝鮮外交部長への書簡)。
コフイ・アナン事務総長「私の先任者のうちの誰も、国連の名と結び付けることをどの国にも許諾したものがいない」 (98年12月の朝鮮最高人民会議常任委員会委員長への書簡)。
さらに国連の報道官も「国連軍司令部は国連の軍隊ではなく、米国が主導する軍隊」 (04年7月と06年3月での談話)だと認めている。
以上のように、国連機関も「国連軍司令部」は国連の軍隊ではなく、米国が主導した軍隊で、「国連軍」の名称も米国が誰かの承認もなく勝手に使用したことを証明している。
3.
朝鮮停戦協定が調印 (53年7月27日)した直後、国連旗の下で戦った参戦国は、米軍以外はほとんど朝鮮から撤退している。
「国連軍司令部」を構成しているのは米軍と韓国軍だけとなり、板門店軍事分界線南側に駐屯しているのは、実質、米韓連合軍であった。
現在でもまだ、米軍板門店駐屯地前の国旗掲揚ポールには、参戦国の16本の国旗が風に揺れている光景は、米国政治の虚勢を見るようである。
韓国は戦争中の50年7月12日、米国と「大田協定」を結んでいる。
協定の内容は、戦時下の駐留米軍の指揮および裁判管轄権に関するもので、米軍の違法行為に韓国政府は何等の措置もとることができないとする、一方的な「奴隷」的な内容であった。
同時に7月14日、米軍に韓国軍の作戦権まで引き渡す条約を、国会の批准もなく李承晩が決めてしまった。
こうして行政権も軍事権も米国に引き渡した李承晩は、自己の保全だけを願った、売国奴だと批判されても仕方がないだろう。
植民地時代、日本帝国主義者は強権でもって外交権、内政権、軍事権まで奪い取ってしまったけれども、李承晩の場合は自ら売り込んだのである。
そこが日帝と違った、現代帝国主義の米国のもっとも狭いやり方であった。
第30回国連総会(75年11月)で、「国連軍司令部」解体問題に関する2件の決議が提案され、2件とも採択された。
米国が提案した「停戦を管理できる他の装置が設けられれば、76年1月1日までに国連軍司令部を解体できる」 (決議3390A号)とするもの。
もう1点は非同盟諸国などが提出した「国連軍司令部を無条件に即時解体すること」 (決議3390号)であった。
米国案の「条件付き」解体論は、当時、非同盟諸国が台頭してきた国際社会の声を反映したもので、条件付きではあったが、解体案を出さざるを得なかったことを物語っている。
とはいえ、これは即時解体論を回避するための、米国流の巧妙なペテン策であって、解体はしないという意思表示であったのだ。
「決議 3390号 A,B」両決議の採択を受けて、「国連軍司令部」は国連機関から正式に解体宣言を受けたに等しい。
もともと実態がなかったものに解体宣言を行ったのだから、誰もその後の存在にについては気にもしていなかったものと思われる。
しかし米国だけは、解体しないための「条件」探しを行っていたようだ。
それはまた、停戦協定を存続させるためであって、戦争の遺物「国連軍司令部」の名称にしがみつく必要があったのであろう。
停戦協定を転換する政治討議(朝鮮統一問題)が、予定よりも大幅に遅れて54年4月26日、スイスのジュネーブでインドシナ問題の討議とともに開かれた。
朝鮮問題の討議には、米国をはじめとする参戦16カ国と南北朝鮮、中国、ソ連が参加した。
南朝鮮側代表は、国連監視下の自由選挙、立法部の代議員は人口比例、大統領制、統一された朝鮮政府の樹立が完全に達成されるまでは国連軍は撤収しない、統一された朝鮮全土と独立は国連軍によって保障されること-などと、完全に米国の代弁者的提案を行った。
一方、朝鮮側代表は外国軍の撤収と兵力の削減、あらゆる手続きを討議する全朝鮮委員会の構成など、自主朝鮮国家の樹立を提案した。
会議は進展せず、国連参戦国の16カ国は6月15日、「共産主義者がひたすら自由選挙を不可能にすることに固執しているから、われわれはこれ以上、朝鮮問題を討議することができなくなったことを遺憾に思う」との共同宣言を出して、代表団は帰国してしまった。
会議は何の成果もなく終り、それ以降、今日まで会議は開かれていない。
米国は、停戦協定で規定されていた、協定調印後の 3カ月以内に、一段上の政治会議を開催することを、パフォーマンス的に実施してみせたにしか過ぎない。
会議の決裂も、会議が再開されない理由も、全てを共産主義者側に問題があるからだと、言い訳けができるようにして。
一方で米国は、駐韓米軍の永久駐屯を法的に支えるため、急いで「米韓相互防衛条約」をワシントンで締結(53年10月1日締結、54年1月13日発効)した。
その骨子は、条約は無期限に有効であるとするもので、米国が考えていた米軍の永久駐屯を表現していた。
さらに、ソウルに置いていた国連軍司令部司令官が在韓国連軍司令管 (実質、在韓米軍司令官)を兼ねるとし、72年に最後の「国連軍」タイ軍が撤収して以降、在韓国連軍と在韓米軍は、一体化している。(これとて、あくまでも米軍内の虚構的な方法論上のことでしかないのだが)
78年11月に米韓連合軍司令部 (米韓軍の連合作戦司令部)を創設して以降、韓国軍の作戦統制権は米軍が掌握するとともに、在韓国連軍司令官の権限は、軍事停戦協定に関する部分に縮小し、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権は、米軍が掌握することになった。
ということは、板門店での停戦会議出席者は、名称だけの「在韓国連軍司令官」が米軍側の代表として出席していたことになる。
「国連軍司令部」の名称を残すための、米国の苦肉の細工であったろう。
板門店での軍事停戦委員会は、軍事停戦の実施状況の維持、違反に関する処理を協議するために設置された機関である。
朝中側と国連軍側、それぞれ 5人で構成されていた。
ところが 91年になると、国連軍側首席代表に黄源卓韓国軍少将を任命 (3月25日)したことで、朝鮮側は抗議して、軍事停戦委員会本会議への出席を拒絶した。
以来、停戦委員会は機能不全となった。
そのうえ、中立国監視委員会の共産側のチェコスロバキア代表団が93年4月に、ポーランド代表団が95年2月に撤退してしまった。
国連軍側監視委員であったスイスとスウェーデン代表団も止むを得ず撤退したので、中立国監視委員会の構成の地位が保障できず、機能も遂行できなくなったので解体された。
停戦協定によって設置された軍事停戦委員会と中立国監視委員会は、ともに解体されてしまったことになる。
軍事停戦委員会代表部に代わる機関として94年5月から、朝鮮人民軍板門店代表部となり、米軍との接触機関となっている。
米軍側は朝鮮人民軍板門店代表部の正統制を容認はしていないが、現実的な朝米軍事部門協議の板門店代表部として接触をしている。
一方、在韓米軍は94年12月、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権を、平時のみ韓国軍に返還した。
戦時については依然として米軍が掌握していて、2015年にはこれも返還するとしているのだが、まだはっきりとはしていない。
戦時の統制権については、朝鮮以外の第三国との紛争では適用しないため、このような変則的で例外的なことにも、対朝鮮にのみ向けられた事項であった。
4.
米国は91年3月、軍事停戦委員会国連軍側首席代表を米軍将官から、韓国軍将官に替える措置を講じた。
停戦協定相手側の朝鮮人民軍側とは事前協議もせず、しかも停戦協定調印者でもない帝国軍将官を据えたことなどが、重大な停戦協定違反行為を犯していたことになる。
停戦協定第5条61項には、停戦協定に関する修正と添付がある場合、必ず敵対する双方の司令官の相互の合意を経なければならない、としているため、これに違反していた。
首席代表を韓国軍将官にしてしまった「国連軍司令部」は、停戦管理のための協議資格を自ら失ってしまったことになる。
これは、米軍が国連軍側代表権を自ら失ったことと同じで、以後、板門店での軍事停戦委員会は麻揮状態となり、事実上、委員会は解体されたも同然で機能はしていない。
このため、軍事停戦委員会の朝中側の一員であった中国人民志願軍代表団は94年12月、撤退してしまった。
朝鮮側も従来の朝中側代表団に代わって、朝鮮人民軍板門店代表部を設置し、停戦を管理する機構とした。
以上のような経過を通じて停戦管理機構は、完全に機能麻樺状態に陥ってしまった。
このため停戦状態の管理に関する問題は、従来の朝中側対国連軍の関係から、朝鮮人民軍側と米軍側との協議によって処理されるようになった。
さらに、朝鮮半島の停戦協定を維持する外部環境も変化していたのだ。
80年代末から東欧社会主義諸国と、ソ連共産党体制が崩壊した。
つまり、世界は冷戦体制を維持していく必要性がなくなったことを意味していた。
朝鮮半島にもその変化の兆しがあり、91年9月には南北国連同時加盟が実現した。
米国は毎年、形式的に韓国の国連加盟承認を国連に上程していたが、70年代に入ると多くの非同盟諸国が国連に加盟し、南北朝鮮の支持がほぼ拮抗するようになった。
そこで米国は、米中接近などの緊張緩和 (デタント)を進めたニクソン政権以来、朝米関係にも変化球を投げ掛けた。
73年以降の米国は、南北朝鮮の国連同時加盟作戦へと変更した。
同時に「クロス承認」プランもすすめている。
クロス承認とは、日米が朝鮮を、中ソが韓国をそれぞれ承認することによって、南北朝朝鮮の平和共存を周辺4大国が保障していくという意味内容であった。
これに対して朝鮮は、「国連軍」と戦闘を交えたことで、国連への不信感を持っていたことと、国連同時加盟案もクロス承認案も結局のところは、外部勢力の干渉によって統一問題を許し、そのことが南北分断を固定化する作用になるとの立場で、拒否を続けてきた。
しかし73年には、ニューヨークに国連代表部を設置している。
翌74年に、停戦協定の平和協定への転換のための朝米直接交渉を公式に提案した。
韓国も北方政策を追及していて、90年9月にソ連と国交樹立、中国も韓国との国交樹立 (92年 8月)を考慮していたことなどから、朝鮮も国連同時加盟を決意した。
中ソの韓国との国交樹立後、米国はクロス承認の片割れ、日米と朝鮮との国交樹立を全く進めなくなった。
そのことで、クロス承認プランが平和共存という名の、反共反北政策の変種であったことが分かる。
これらは米国が、朝鮮半島の冷戦構造を維持し、追及してきた結果である。
南北朝鮮の国連同時加盟が実現したことで、冷戦体制の遺物であった停戦協定を維持していく必要性はなくなっていたはずだ。
むしろ、停戦協定に代わる平和協定を早期に締結し、朝鮮半島の平和保障問題を協議する環境が生じていたのである。
朝鮮半島の平和保障体系を協議する停戦協定の規定では、軍司令官ではなく一段上の政治会議で議論することを定めている。
停戦協定締結の当事者である「国連軍司令部」の実際の政治的上級者は、国連機構ではなく米国政府である。
歴代の国連事務局長たちも認めているように、国連が正式に国連軍司令部を組織していなかったからである。
停戦協定を解体し、代わりに朝鮮半島の平和協定締結を確立していく政治会議の構図は,朝鮮と米国、朝鮮・中国と米国・韓国、朝鮮と米国・韓国などが考えられる。
直接、停戦協定を調印した政肘間協議であれば、朝鮮・中国と米国ということになる。
しかし中国軍はすでに撤退していたこともあり、実質は朝鮮対米国による協議体が現実的になる。
朝鮮政府は94年4月28日、朝鮮半島の新たな平和保障体系を樹立する提案を行った。
この平和構想は、朝米の和解と平和協定の下で、朝鮮半島の平和保障を実現していこうとする考え方である。
さらに、朝米間の停戦協定に代わる暫定協定の締結に関する提案をも追加した。(96年2月)
それは朝鮮半島で完全な平和協定が締結されるまで、武力衝突と戦争の危機を取り除き、停戦状態を平和的に維持していくための朝米間での、平和協定締結までの暫定措置を協定するというものであった。
当時の朝鮮半島、朝米間は、核戦争前夜の危機に見舞われていたためでもあった。
朝鮮半島の恒久的な平和体制を樹立する問題では、朝鮮、米国、中国、韓国の4者会談も開催され、論議も行われた。
ワシントンで2000年10月に行われた朝米高位級会談では、朝鮮半島の緊張状態を緩和し、停戦協定を強固な平和体系に替えて、朝鮮戦争を公的に終結させるうえで、4者会談などがあることを確認する「朝米共同コミュニケ」を発表(10月12日)した。
また、南北朝鮮首脳会談が行われた07年10月、直接関係のある3者、または4者の首脳が、朝鮮戦争の終戦を宣言する問題を推進していくことを、金正日総書記が提案し合意している。(07年10月4日、南北関係発展と平和繁栄のための宣言)
このように、朝鮮半島の平和・安定・繁栄問題での合理的提案は出揃っており、一部は米国政府も同意している。
後は米国が、どの会談のテーブルに着席するのかということだけで、どのテーブルにも朝鮮半島の強固な平和保障体制が用意されていた。
だから米国の覚悟が遅れているのだろう。
これまで朝鮮半島の平和移行問題でのどの会議でも、国連軍司令部の存在を前提にしたり、問題にしたりする言及はなかった。
すでに解体されているとの認識が、世界および関係機関では共通認識になっていたからである。
死滅しているはずの国連軍司令部の名称を、米国が再び口にしている。
それも多国籍軍を結成するために利用し、またまた戦争の「道具」にしようとしている。
このようなことは朝鮮半島を含むアジア太平洋地域の、安全を保障する見地からも、絶対に看過できない問題である。
朝鮮戦争を終結させる体制をつくらないで、幻の国連軍司令部の名称を復活させるということは、朝鮮戦争を他地域にも拡大していくことにつながり、非常に危険なことである。
第2次安倍政権が自衛隊を「国軍」化してくことに触れているが、そのような日本が米国と結託して、アジア太平洋地域の緊張と脅威を高めていこうとしている。
米国は国連軍司令部を解体できない理由に、「北の軍事力強化」「北の核開発」などの論を言っている。
朝鮮の12年12月の人工衛星打ち上げや、13年2月の小型化した核実験に対して、国連安保理での制裁決議を騒ぎ立ててきたのも、自らの帝国主義的、軍産国家体制を維持していくためであったのだ。
朝鮮は以前から、朝米間の平和体系が整うなら、核もミサイルも必要はないと主張している。
ニューヨークでの学術会議(12年3月9日)に参加していた朝鮮の李容浩外務次官は、核の放棄よりも朝米関係改善が先決で、「核武装は自衛装置であり、まず米国の敵視政策の撤回が必要」だと主張した。
そうした言葉に一度も耳を貸すことなく、幻の国連軍司令部を存続させ、平和協定締結にも進んでいこうとしなかった米国こそが、朝鮮半島を含むアジア太平洋地域での最大の脅威国であったのだ。
5.
これまで、朝鮮戦争を戦った「国連軍司令部」とは何だろうかと、追及してきた。
この軍隊は国連機構ではなく安保理のなかで、しかも常任理事国の旧ソ連が欠席している間隙での強引な決議であったのだから、安保理決議でも無効な決議であった。
このように「国連軍」とは、米国が反共政策を推進するうえで、国際社会をめくらませするための創作物であったことが分かった。
停戦協定後も「国連軍」の名称で韓国に駐屯してきた実質米軍を、朝鮮側は実態的な無効作戦に出て、国連軍解体作業を続けてきた。
今日まで、板門店停戦ラインで繰り広げられてきた朝米間の協議、それがもう一つの戦いでもあった。
ところで駐韓米軍は、国連軍と駐韓米軍の撤収にともなう作戦指揮体系を効率化するとの名目で、78年11月7日に「米韓連合司令部」なるものを創設した。
その理由は、韓国軍をより直接的に米軍指揮下に編入するために取られた措置で、戦争遂行本部 (対朝鮮)として位置付けた。
米韓連合司令部は、韓国軍と駐韓米軍を統制指揮し、その最高司令官は駐韓米軍司令官が兼務することになっている。
この連合軍部隊の使用を決定できる参謀長と作職・軍需・企画担当参謀のすべては、米軍将校によって占めている。
さらに驚くべきことに、合同司令官はただ米国の合同参謀本部にだけ報告する義務があって、韓国政府に対しての報告義務は必要ないとしている点である。
韓国「領土」に駐屯している外国軍隊が、作戦行動を伴う場合にも、当該政府の了解も報告も必要がないなどとは、植民地軍と同じことではないのか。
韓国軍は全面的に、米軍の統制下に置かれている一部隊でしかないということだ。
それ以前に開催されていた米韓定例安保協議会(68年5月から、毎年開催されている)では、朝鮮半島の安全保障、韓国軍の国防装備現代化などの問題を討議する場になっている。
その実態は、米国が92年9月に北の核問題をクローズアップ化させて以降、対北の合同軍事演習の強化、米軍中古兵器の契約問題、駐韓米軍の経済的支援問題など、専ら米軍問題のために時間が費やされている。
土地と金を提供し、地位も権利も米軍が握ったままの米韓連合司令部とは、果たして誰のために必要であったのかと、南朝鮮人民たちの強く鋭い疑問は米国に向けられている。
昨年6月,日韓政府間ですすめていた「日韓軍事情報包括保護協定」締結が、署名直前になって韓国側から延期の申し入れがあった問題などは、そのことを如実に示している。
この協定は、米国がアジア地域の共同軍事同盟強化策として、米韓、日米の軍事の輪を補強する鎖として、以前から推進してきたものであった。
署名に至らなかった理由として、韓国側は、日本の植民地支配に対する後遺症で、日本の軍事的進出を警戒した野党や世論の反発を考慮したからだと説明している。
確かに、そのことも大きな問題であったろうが、その底流にあったのは南朝鮮民意の反米自主意識にあったのだ。
このような反米意識はやがて、反帝自主闘争へと転化していく源泉となっていくだろう。
この原稿を書き終えた日が、偶然にも3月1日であった。
瞬間、その日から 94年が過ぎ去っていることを理解していた。
朝鮮で 1919年に興った「3・1 民族独立闘争」記念日のことである。
さすがに日本のマスメディアのどこも、この間題を扱ってはいない。
これまで原稿で、朝鮮人民の米国との自主権闘争を考えてきたので、その延長上で3・1の今日性に触れてみたいと思う。
3・1独立運動は、一部の親日派や民族反逆者を除いた全朝鮮人民が、3月1日を期して朝鮮全土で展開した民族独立要求運動であった。
朝鮮が日帝に併合(10月22日)された後、暴圧と略奪、搾取に呻吟していたその10年目の1919年に、日本帝国主義の支配に反対して立上がり、朝鮮の独立 (自主権)を熱望する意志を全世界に表示し、なおかつ反帝闘争への助走となった。
この運動の推進力であったのが、貧窮する農民大衆、中小商工業者、労働者、都市貧民、学生たちであったことを知れば、彼らがその後の反日反帝、自主自立運動の主体となっていったことも理解できるだろう。
運動が朝鮮全土に拡大していく様に驚愕した日本側は、軍隊と警察を差し向けて、武器ももたない無抵抗な人々に武力鎮圧を強行した。
運動の参加者は200万人余とも、それ以上とも伝えられているが、日本の警察発表では、どうしても過少評価数字しか伝えられていない。
それでも当時の全朝鮮218郡のうち、211郡で運動があったことを記録している。
死者8000余、負傷者4万5000余、投獄された者5万3000余を出している反日運動は、単に朝鮮民族だけの自主要求運動ではなかったのだ。
3・1独立運動の直前、ロシアではレーニンが率いるロシア革命が勝利(第1次1905年1月、第2次1917年3月)していて、民族の実際的分離独立、民族解放の実例を世界に示していた。
同時に、第1次世界大戦後のベルサイユ講和会議 (フランス)で、米大統領ウィルソンが、民族自主権の考え方を提起していた。
ウィルソンの提起は、全世界の被圧迫民族が解放を要求していく端緒となった。
中国では「5・4運動」が発生している。
5月4日、北京で学生たちが起こした日本帝国主義に反対するデモは、中国全土に広がり、反日運動となって燃え上がった。
その後この運動は、中国での反帝反封建闘争を展開していく基礎となっている。
革命勝利後のロシアでは、レーニン指導下で共産党の国際組織、コミンテルン (共産主義インターナショナル、第3インター)を1919年3月に結成している。
インドもガンジーの指導で、反英運動を非暴力不服従遊動へと導き、世界的な反帝運動へと結び付けている。
こうした世界の新しい潮流と連座した朝鮮の3・1運動は、世界の反帝闘争をも担っていたのは当然のことであったろう。
従って運動は朝鮮全土ばかりか、朝鮮人が多住する中国東北地方にまで波及し、そこでも反日反帝闘争が繰り広げられていった。
朝鮮や中国での反帝闘争は、白頭山や中国の間島などを中心とした抗日武装闘争を展開していく根拠地闘争へと発展し、民族解放を勝ち破るまでのパルチザン闘争が展開されていった。
30年代以降、パルチザン闘争を指導した金日成は、3・1運動を平壌で7才のときに父親とともに参加している。
この時の経験が、生涯を反帝闘争へと向かわせたバネの一つとなっていたのではなかろうか。
現在の朝鮮半島は、3・1運動に参加した金日成や朝鮮人たちが、命をかけて闘った結果とは違ったかたちとなっている。
つまり民族が南北に分断されていて、南朝鮮に米軍が駐屯し、米国が朝鮮停戦協定を維持させたままになっているからである。
これまで南朝鮮で大規模な反米反帝闘争が何度も実行されてきたとはいえ、米国と結託している勢力などによって阻まれてきた経緯がある。
だが朝鮮半島の統一、民族の統一は、全朝鮮人民の真っ当な要求であり、当然の権利であり、自主権の行使であるから、その要求は少しずつではあるが前進してきている。
朝鮮民族の自主権闘争の今後は、3・1運動当時とは違ったかたちで、朝鮮半島で展開されていくだろう。
朝鮮半島統一への闘争も、単なる朝鮮半島や朝鮮人民だけの闘争ではなく、反帝反米闘争が世界的な潮流となっている現在、世界の自主化実現問題としっかりと結び付いた主張であり、闘争なのである。
2013年3月1日 記
名田隆司
1.
米国は12年1月に発表した新国防戦略で「国連軍司令部」を「多国籍連合機構」に変更して、アジア版北大西洋条約機構(NATO)の母体にすることを明らかにした。
今後10年内に多国籍連合機構を使って、海外に配備している米軍武力の60%を、アジア太平洋地域に集中させようとしているのだ。
その目的は、中国や朝鮮民主主義人民共和国 (以下、朝鮮)などが、今後、米国ら勢力と対敵し得る勢力に成長できないように包囲網を形成し、軍事的抑制を続けていくことにあるとしている。
そのため同時に、同地域内での米国との二国間の同盟関係にある各国を、順次に NATOのような統一的な作戦指揮体系に整え、アジア版多国間軍事同盟とすることを目論んでいるのである。
冷戦時代、米国は欧州のNATOに依拠して、旧ソ連と東欧社会主義諸国を抑制し、崩壊させた経験が忘れられず、それをアジア太平洋地域でも再現し、自らの潜在的ライバル(朝鮮と中国)を包囲する集団的軍事機構を設定しようとしているのだろう。
今年の7月27日、朝鮮停戦協定が調印されてから60年を迎える。
朝鮮半島では、未だに法的には戦争が終っていないのだ。
平和を保障する制度的装置が構築されないまま、朝鮮半島は戦争でもない平和でもないという不安定な状態が、60年間も続いていたことになる。
その不安定で危険な状態を、平和安定に代えるための協議を、朝鮮は米国に呼び掛け続けてきた。
その米国は、朝鮮が呼び掛ける平和協定締結には応えず、あくまでも停戦協定状態を維持させたまま、あまつさえ国連軍司令部という冷戦時代の遺物を、再び活用しようとしている。
米国は以前から、日米軍事同盟と米韓軍事同盟を合体させた三角軍事同盟を進めようとしてきたが、12年、過去の歴史を清算していない日本との軍事同盟化に、韓国民衆と議会が反対して頓挫してしまった。
それで、そうした関係国の反揆を避けるため、新たな軍事機構を設けるよりも、看板だけの「国連軍司令部」の機能を復活させ、その名の元での連合武力を形成することを考えたのだと思われる。
2.
国連軍司令部とは、朝鮮戦争時に米国が追従国家の兵力を引き入れ、自らが指揮権を行使して、朝鮮半島で戦ったときの連合部隊名のことである。
「国連軍」と国連機関の名前を勝手に使用した、米国のための戦争推進「道具」であった。
1950年6月当時、国連安全保障理事会 (国連安保理)の常任理事国であった旧ソ連は、国連での中国代表権を中華人民共和国ではなく、中華民国 (台湾)が行使していることに抗議 (米国に)して、理事会を欠席(50年1月13日から)する作戦をとっていた。
第2次世界大戦直後の中国では、蒋介石率いる国民政府軍と毛東沢率いる中国共産党軍との国共内戦が展開していた。
49年5月、国民政府軍が敗れ、蒋介石らの勢力は台湾へと逃れた。
同年10月、毛東沢率いる中華人民共和国が樹立された。
この時点で中国大陸の正式な政府は、中華人民共和国になったのであるから、安保理常任理事国の中国側代表権は、中華民国から中華人民共和国に変更していなければならなかった。
代表権交代に米国が抵抗していたから、直ぐには実現しなかった。
中国内戦時の米国は、国民政府軍側を軍事的にも政治的にも支え、援助していた。
国民政府軍が敗れ、共産党軍が勝利したことに米国は大変なショックを受け、米国自身が敗れたようにも感じていた。
そのために米国は東アジア戦略の再考と、日韓を中心とした反共防衛戦線の構築作業を急ぐ必要に迫られていた。
米国がとった台湾政府の居座り作戦は、その一環ではあったものの、時間稼ぎでもあった。
ソ連が中国代表権問題で理事会欠席戦術をとっている間隙を利用して、米国は朝鮮半島を手中にする作戦にとり掛かっていた。
南北分断の現実から対立を煽り、軍事紛争、そして戦争へのシナリオを描いていたのであろう。
国連安保理は5常任理事国と、任期2年で選ばれた10カ国(当時は7カ国)の非常任理事国からで構成されている。
国連憲章第27条は、国連安保理の主要な評決方法を、手続き事項については任意の9カ国の同意を得ればよいとしているが、主要な決定は5常任理事国のすべてを含む9カ国以上の同意を必要としている。 (常任理事国の拒否権が発生する問題)
拒否権保有国に対しては、制裁を加えることが難しいため、これまではそのような例はなかった。
常任理事国のうち1カ国でも同意しなければ、重要な決定は裁決できない仕組みになっているのだ。
ソ連が出席すれば反対票を投じ、採決できないことが分かっていた米国は、ソ連欠席という願ってもないテコを利用して、朝鮮半島で戦闘が勃発した6月25日の当日に、国連安保理を招集して、北の朝鮮人民軍を「侵略軍」だと定める決議を強引に決定してしまった。 (国連安保理決議第82号)
しかしこの決議は、厳密にいえば国連安保理違反で無効である。
安保理では、侵略者に対して軍事力による制裁を決定するなどの、強力な権限が与えられている。
米国はこの安保理権限、侵略者に対する軍事力による制裁権を、強引に解釈して活用することを考えたものと思われる。
侵略とは本来、他国に軍事侵入して領土を奪うことを意味しているのであるから、民族紛争に適用することは間違っている。
「国連軍」を組織することを考えていた米国は、無理矢理な解釈を当てはめ同盟国に押しつけた。
帝国主義者の勝手な論理そのものだ。
帝国主義的といえば、南の李明博政権は「2012国防白書」 (12年12月発刊)で、「北の政権と軍隊はわれわれの敵」とし、朝鮮西海の北方限界線に対して「以南は自分らの管轄水域」であると、記載していた。北方限界線とは、停戦協定直後の53年8月30日、「国連軍」司令官であったクラークが、朝鮮西海に一方的に引いた海上の境界線であった。
米軍のクラークは、韓国海軍の北上を防ぐ意図で、陸上の軍事境界線を意識して臨時海上制約線としたのだ。
問題は、停戦協定調印者の相手側の朝鮮には何の協議もなく、米国が勝手に西海5島を起点 (停戦協議当時、島を国連側が占領していたため)として引いた線で、朝鮮側は今日まで認めていない。
南の「国防白書」に北方限界線を「実質的な海上境界線」だと書き入れたのは、李明博政権が始めてで、それだけでもこの政権が南北対決姿勢を露にしていたかが分かる。
北との関係を民族同士として考えるのではなく、対立する国家間のような感覚で対応してきたのは、米国の要請でもあったろう。
それこそ、朝鮮民族の分断を追及している米国政治のカイライの役割を演じてきた、悲しくも侘びしい政権であったと思う。
米国は、北の朝鮮人民軍を「侵略者」だとするために、彼らからの軍事的挑発を誘引する仕掛けを、米国お得意の「誘引作戦」を幾重にも準備した。
朝鮮の親日派と右翼連中と、米軍政庁の軍事力によって支えられていた李承晩政権は、民衆からの激しい反発を受け続けており、インフレーションも政権を攻撃していた。
この頃の南朝鮮民衆たちの生活は、不景気、失業、物価高の最悪の状態がずっと続き、そのうえ政治の不正腐敗と政権延命のためにする各種の不条理、担造事件とテロルまでが相次いで発生するという、暗黒社会となっていた。
48年以降、南朝鮮各地では反政権闘争が武装闘争へと発展し、遊撃戦が繰り広げられていた。
各地の遊撃隊に、麗順反乱事件の主力部隊が合流し、武装遊撃隊-と成長を続けながら、李政権に打撃を与えていた。
武装遊撃隊は49年5月頃になると、遊撃戦区創設に力を注いだ。湖南 (全羅道)、智異山、大白山、嶺南 (慶尚道)、済州島など、南朝鮮133郡のうち118郡にまで遊撃戦区を形成するほど、戦線が拡大していた。
その中心は智異山で、そこではパルチザン闘争が繰り広げられていた。
7月以降、戦闘組織はさらに拡大し、人民遊撃隊へと再編している。
李政権は、遊撃隊地区の住民を強制移住させるなどして、遊撃隊の掃討作戦を展開 (この段階ですでに南朝鮮一帯は内戦状態となっていた)した。
50年4月の1カ月間の交戦回数は2948回、参加人数は6万5000名を越す戦闘となっていたのだ。
朝鮮戦争勃発後は、彼らは南部軍として再編されて、遊撃戦を続けている。
米軍政庁は、南朝鮮のこのようなパルチザン闘争を利用し、帝国軍にパルチザン部隊を追っかけるふりをして、38度線を越境する小競り合いを繰り返し続けさせた。
小競り合いは銃撃戦となり、追撃戦となり、本格的な戦闘場面が増加していった。
誘引作戦として米国は、宣伝戦も大いに利用した。
その一つがアチソン・ラインであった。
アチソン米国務長官は50年1月、対中国・北朝鮮の防衛線として、マーシャル列島-日本-沖縄-フィリピンを結ぶ線に定めるとする内容を発表した。
南朝鮮と台湾が防衛戦から除外されていたため、米国は南朝鮮を重視していなかったのではないかとの憶測で、アチソン・ラインを信じて、金日成が南侵を決定したのではないかとの、研究者たちが今も存在している。
そうした論調こそ、米国の思惑と宣伝に嵌まった思考である。
「北朝鮮軍が侵攻した」「北が戦争を始めた」との解釈論こそ、米国が安保理を利用する際の主張であった。
47年後半の米国が、日本と南朝鮮を東アジアの要石として、反共防衛ラインの中心に据える決定をしていたことを考えれば、アチソン・ラインで南朝鮮を外したのは、まさしく北を誘導する作戦の一部であったことが理解できるだろう。
ソ連政府は6月29日と7月7日に国連安保理に電文を送り、常任理事国であるソ連と中国の支持なしに採択した決議は、国連患章に違反しており、効力はない旨を通告した。
ソ連が安保理を欠席していたのは、50年1月13日から51年1月までの1年余であった。
朝鮮問題からすれば、欠席戦術を取っていたソ連は、常任理事国としての役割を果たしていたのかと、疑問点を抱いてしまう。
米国の陰謀が明らかとなった後も、電文だけでの抗議というのは、その後の米国の行動を暗黙の内に承認していたようなものである。
そのようなソ連の抗議など平気で無視した米国は、続く7月7日に再びソ連欠席のもとに招集した会議で、朝鮮戦争に国連加盟国が武力を派遣し、それを米軍の指揮下の「連合司令部」に結集させると同時に、その司令部に「国連旗を使用」することを決議させた。(国連安保理決議第84号)
「国連軍司令部」と似た名称に、国連軍がある。
国連軍は、国際連合憲章第42条の規定に基づき、国際連合加盟国によって組織される軍隊である。
国際平和の維持、侵略の阻止のために、安保理の下に軍事参謀委員会をおき、軍事力を組織すると規定していたが、この方式はまだ実現していない。
50年のスエズ戦争、60年のコンゴ戦争、61年のキプロス紛争などに出動した部隊も、「国連軍」もしくは「国連平和維持軍」の名称を冠せていたが、朝鮮戦争時の手法を用いたもので、国連憲章に規定された本来の国連軍ではない。
朝鮮の場合は、もちろん国連憲章が定めたものではなく、米国が細工した安保理の「決定」での勧告に応じた国連加盟国の軍事行動であった。
安保理で決定していた当初の名称は「連合司令部」であったが、米国が安保理に連合司令部の報告書を提出する7月25日に、名称を勝手に「国連軍司令部」と変更し、以後はその名称を使用している。
米国が作成したペーパー上の名称であから、「国連軍司令部」は米国が詐称したものだとする所以である。
名称は国連軍ではあったが、実質は米軍との連合軍であったから、米国政府が任命した司令官が指揮をとるようになったのは、当然といえば当然であったろう。
理事会の「勧告」に応じるかたちで兵力をおくったのは英国、オーストラリア、トルコ、ニュージランド、フランス、カナダ、南アフリカ共和国、タイ、コロンビア、エチオピア、ギリシャ、オランダ、フィリピン、ベルギー、ルクセンブルクの15カ国であった。
米国は安保理「決議」に先立って軍事行動をとっていた。
ソ連が国連安保理の理事会活動に復帰した直後の51年1月31日、安保理議定(50年6月25日の第82号)から「大韓民国に対する侵略に関する提訴」の案件を削除することを提起し、採択 (決議第 90号)された。
米国が強引に朝鮮人民軍を「侵略軍」だとして、安保理でレッテルを貼り付けたものが、剥がされたことになる。
このことについては、ソ連の成果であった。
この時点で、「国連旗」のもとに結集していた武力は、朝鮮半島で戦う何等の根拠もなくなっていたのだ。
最早や「国連軍司令部」は、国連安保理が管轄する機構ではなくなっていたのだから、解散する必要があった。
それにも関わらず「国連軍」という名称のまま、米国の戦争「道貝」となって朝中人民軍と戦い続けていたことになる。
歴代の国連事務総長も、国連機構の中で「国連軍司令部」は存在していなかったことを認めている。
ブトロス・ガリ事務総長は「連合司令部は国連安保理が自らの統制下にある付属機構として設立したのではなく、それは米国の指揮下に置かれるようになった」 (94年6月の朝鮮外交部長への書簡)。
コフイ・アナン事務総長「私の先任者のうちの誰も、国連の名と結び付けることをどの国にも許諾したものがいない」 (98年12月の朝鮮最高人民会議常任委員会委員長への書簡)。
さらに国連の報道官も「国連軍司令部は国連の軍隊ではなく、米国が主導する軍隊」 (04年7月と06年3月での談話)だと認めている。
以上のように、国連機関も「国連軍司令部」は国連の軍隊ではなく、米国が主導した軍隊で、「国連軍」の名称も米国が誰かの承認もなく勝手に使用したことを証明している。
3.
朝鮮停戦協定が調印 (53年7月27日)した直後、国連旗の下で戦った参戦国は、米軍以外はほとんど朝鮮から撤退している。
「国連軍司令部」を構成しているのは米軍と韓国軍だけとなり、板門店軍事分界線南側に駐屯しているのは、実質、米韓連合軍であった。
現在でもまだ、米軍板門店駐屯地前の国旗掲揚ポールには、参戦国の16本の国旗が風に揺れている光景は、米国政治の虚勢を見るようである。
韓国は戦争中の50年7月12日、米国と「大田協定」を結んでいる。
協定の内容は、戦時下の駐留米軍の指揮および裁判管轄権に関するもので、米軍の違法行為に韓国政府は何等の措置もとることができないとする、一方的な「奴隷」的な内容であった。
同時に7月14日、米軍に韓国軍の作戦権まで引き渡す条約を、国会の批准もなく李承晩が決めてしまった。
こうして行政権も軍事権も米国に引き渡した李承晩は、自己の保全だけを願った、売国奴だと批判されても仕方がないだろう。
植民地時代、日本帝国主義者は強権でもって外交権、内政権、軍事権まで奪い取ってしまったけれども、李承晩の場合は自ら売り込んだのである。
そこが日帝と違った、現代帝国主義の米国のもっとも狭いやり方であった。
第30回国連総会(75年11月)で、「国連軍司令部」解体問題に関する2件の決議が提案され、2件とも採択された。
米国が提案した「停戦を管理できる他の装置が設けられれば、76年1月1日までに国連軍司令部を解体できる」 (決議3390A号)とするもの。
もう1点は非同盟諸国などが提出した「国連軍司令部を無条件に即時解体すること」 (決議3390号)であった。
米国案の「条件付き」解体論は、当時、非同盟諸国が台頭してきた国際社会の声を反映したもので、条件付きではあったが、解体案を出さざるを得なかったことを物語っている。
とはいえ、これは即時解体論を回避するための、米国流の巧妙なペテン策であって、解体はしないという意思表示であったのだ。
「決議 3390号 A,B」両決議の採択を受けて、「国連軍司令部」は国連機関から正式に解体宣言を受けたに等しい。
もともと実態がなかったものに解体宣言を行ったのだから、誰もその後の存在にについては気にもしていなかったものと思われる。
しかし米国だけは、解体しないための「条件」探しを行っていたようだ。
それはまた、停戦協定を存続させるためであって、戦争の遺物「国連軍司令部」の名称にしがみつく必要があったのであろう。
停戦協定を転換する政治討議(朝鮮統一問題)が、予定よりも大幅に遅れて54年4月26日、スイスのジュネーブでインドシナ問題の討議とともに開かれた。
朝鮮問題の討議には、米国をはじめとする参戦16カ国と南北朝鮮、中国、ソ連が参加した。
南朝鮮側代表は、国連監視下の自由選挙、立法部の代議員は人口比例、大統領制、統一された朝鮮政府の樹立が完全に達成されるまでは国連軍は撤収しない、統一された朝鮮全土と独立は国連軍によって保障されること-などと、完全に米国の代弁者的提案を行った。
一方、朝鮮側代表は外国軍の撤収と兵力の削減、あらゆる手続きを討議する全朝鮮委員会の構成など、自主朝鮮国家の樹立を提案した。
会議は進展せず、国連参戦国の16カ国は6月15日、「共産主義者がひたすら自由選挙を不可能にすることに固執しているから、われわれはこれ以上、朝鮮問題を討議することができなくなったことを遺憾に思う」との共同宣言を出して、代表団は帰国してしまった。
会議は何の成果もなく終り、それ以降、今日まで会議は開かれていない。
米国は、停戦協定で規定されていた、協定調印後の 3カ月以内に、一段上の政治会議を開催することを、パフォーマンス的に実施してみせたにしか過ぎない。
会議の決裂も、会議が再開されない理由も、全てを共産主義者側に問題があるからだと、言い訳けができるようにして。
一方で米国は、駐韓米軍の永久駐屯を法的に支えるため、急いで「米韓相互防衛条約」をワシントンで締結(53年10月1日締結、54年1月13日発効)した。
その骨子は、条約は無期限に有効であるとするもので、米国が考えていた米軍の永久駐屯を表現していた。
さらに、ソウルに置いていた国連軍司令部司令官が在韓国連軍司令管 (実質、在韓米軍司令官)を兼ねるとし、72年に最後の「国連軍」タイ軍が撤収して以降、在韓国連軍と在韓米軍は、一体化している。(これとて、あくまでも米軍内の虚構的な方法論上のことでしかないのだが)
78年11月に米韓連合軍司令部 (米韓軍の連合作戦司令部)を創設して以降、韓国軍の作戦統制権は米軍が掌握するとともに、在韓国連軍司令官の権限は、軍事停戦協定に関する部分に縮小し、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権は、米軍が掌握することになった。
ということは、板門店での停戦会議出席者は、名称だけの「在韓国連軍司令官」が米軍側の代表として出席していたことになる。
「国連軍司令部」の名称を残すための、米国の苦肉の細工であったろう。
板門店での軍事停戦委員会は、軍事停戦の実施状況の維持、違反に関する処理を協議するために設置された機関である。
朝中側と国連軍側、それぞれ 5人で構成されていた。
ところが 91年になると、国連軍側首席代表に黄源卓韓国軍少将を任命 (3月25日)したことで、朝鮮側は抗議して、軍事停戦委員会本会議への出席を拒絶した。
以来、停戦委員会は機能不全となった。
そのうえ、中立国監視委員会の共産側のチェコスロバキア代表団が93年4月に、ポーランド代表団が95年2月に撤退してしまった。
国連軍側監視委員であったスイスとスウェーデン代表団も止むを得ず撤退したので、中立国監視委員会の構成の地位が保障できず、機能も遂行できなくなったので解体された。
停戦協定によって設置された軍事停戦委員会と中立国監視委員会は、ともに解体されてしまったことになる。
軍事停戦委員会代表部に代わる機関として94年5月から、朝鮮人民軍板門店代表部となり、米軍との接触機関となっている。
米軍側は朝鮮人民軍板門店代表部の正統制を容認はしていないが、現実的な朝米軍事部門協議の板門店代表部として接触をしている。
一方、在韓米軍は94年12月、帝国軍主力部隊に対する作戦統制権を、平時のみ韓国軍に返還した。
戦時については依然として米軍が掌握していて、2015年にはこれも返還するとしているのだが、まだはっきりとはしていない。
戦時の統制権については、朝鮮以外の第三国との紛争では適用しないため、このような変則的で例外的なことにも、対朝鮮にのみ向けられた事項であった。
4.
米国は91年3月、軍事停戦委員会国連軍側首席代表を米軍将官から、韓国軍将官に替える措置を講じた。
停戦協定相手側の朝鮮人民軍側とは事前協議もせず、しかも停戦協定調印者でもない帝国軍将官を据えたことなどが、重大な停戦協定違反行為を犯していたことになる。
停戦協定第5条61項には、停戦協定に関する修正と添付がある場合、必ず敵対する双方の司令官の相互の合意を経なければならない、としているため、これに違反していた。
首席代表を韓国軍将官にしてしまった「国連軍司令部」は、停戦管理のための協議資格を自ら失ってしまったことになる。
これは、米軍が国連軍側代表権を自ら失ったことと同じで、以後、板門店での軍事停戦委員会は麻揮状態となり、事実上、委員会は解体されたも同然で機能はしていない。
このため、軍事停戦委員会の朝中側の一員であった中国人民志願軍代表団は94年12月、撤退してしまった。
朝鮮側も従来の朝中側代表団に代わって、朝鮮人民軍板門店代表部を設置し、停戦を管理する機構とした。
以上のような経過を通じて停戦管理機構は、完全に機能麻樺状態に陥ってしまった。
このため停戦状態の管理に関する問題は、従来の朝中側対国連軍の関係から、朝鮮人民軍側と米軍側との協議によって処理されるようになった。
さらに、朝鮮半島の停戦協定を維持する外部環境も変化していたのだ。
80年代末から東欧社会主義諸国と、ソ連共産党体制が崩壊した。
つまり、世界は冷戦体制を維持していく必要性がなくなったことを意味していた。
朝鮮半島にもその変化の兆しがあり、91年9月には南北国連同時加盟が実現した。
米国は毎年、形式的に韓国の国連加盟承認を国連に上程していたが、70年代に入ると多くの非同盟諸国が国連に加盟し、南北朝鮮の支持がほぼ拮抗するようになった。
そこで米国は、米中接近などの緊張緩和 (デタント)を進めたニクソン政権以来、朝米関係にも変化球を投げ掛けた。
73年以降の米国は、南北朝鮮の国連同時加盟作戦へと変更した。
同時に「クロス承認」プランもすすめている。
クロス承認とは、日米が朝鮮を、中ソが韓国をそれぞれ承認することによって、南北朝朝鮮の平和共存を周辺4大国が保障していくという意味内容であった。
これに対して朝鮮は、「国連軍」と戦闘を交えたことで、国連への不信感を持っていたことと、国連同時加盟案もクロス承認案も結局のところは、外部勢力の干渉によって統一問題を許し、そのことが南北分断を固定化する作用になるとの立場で、拒否を続けてきた。
しかし73年には、ニューヨークに国連代表部を設置している。
翌74年に、停戦協定の平和協定への転換のための朝米直接交渉を公式に提案した。
韓国も北方政策を追及していて、90年9月にソ連と国交樹立、中国も韓国との国交樹立 (92年 8月)を考慮していたことなどから、朝鮮も国連同時加盟を決意した。
中ソの韓国との国交樹立後、米国はクロス承認の片割れ、日米と朝鮮との国交樹立を全く進めなくなった。
そのことで、クロス承認プランが平和共存という名の、反共反北政策の変種であったことが分かる。
これらは米国が、朝鮮半島の冷戦構造を維持し、追及してきた結果である。
南北朝鮮の国連同時加盟が実現したことで、冷戦体制の遺物であった停戦協定を維持していく必要性はなくなっていたはずだ。
むしろ、停戦協定に代わる平和協定を早期に締結し、朝鮮半島の平和保障問題を協議する環境が生じていたのである。
朝鮮半島の平和保障体系を協議する停戦協定の規定では、軍司令官ではなく一段上の政治会議で議論することを定めている。
停戦協定締結の当事者である「国連軍司令部」の実際の政治的上級者は、国連機構ではなく米国政府である。
歴代の国連事務局長たちも認めているように、国連が正式に国連軍司令部を組織していなかったからである。
停戦協定を解体し、代わりに朝鮮半島の平和協定締結を確立していく政治会議の構図は,朝鮮と米国、朝鮮・中国と米国・韓国、朝鮮と米国・韓国などが考えられる。
直接、停戦協定を調印した政肘間協議であれば、朝鮮・中国と米国ということになる。
しかし中国軍はすでに撤退していたこともあり、実質は朝鮮対米国による協議体が現実的になる。
朝鮮政府は94年4月28日、朝鮮半島の新たな平和保障体系を樹立する提案を行った。
この平和構想は、朝米の和解と平和協定の下で、朝鮮半島の平和保障を実現していこうとする考え方である。
さらに、朝米間の停戦協定に代わる暫定協定の締結に関する提案をも追加した。(96年2月)
それは朝鮮半島で完全な平和協定が締結されるまで、武力衝突と戦争の危機を取り除き、停戦状態を平和的に維持していくための朝米間での、平和協定締結までの暫定措置を協定するというものであった。
当時の朝鮮半島、朝米間は、核戦争前夜の危機に見舞われていたためでもあった。
朝鮮半島の恒久的な平和体制を樹立する問題では、朝鮮、米国、中国、韓国の4者会談も開催され、論議も行われた。
ワシントンで2000年10月に行われた朝米高位級会談では、朝鮮半島の緊張状態を緩和し、停戦協定を強固な平和体系に替えて、朝鮮戦争を公的に終結させるうえで、4者会談などがあることを確認する「朝米共同コミュニケ」を発表(10月12日)した。
また、南北朝鮮首脳会談が行われた07年10月、直接関係のある3者、または4者の首脳が、朝鮮戦争の終戦を宣言する問題を推進していくことを、金正日総書記が提案し合意している。(07年10月4日、南北関係発展と平和繁栄のための宣言)
このように、朝鮮半島の平和・安定・繁栄問題での合理的提案は出揃っており、一部は米国政府も同意している。
後は米国が、どの会談のテーブルに着席するのかということだけで、どのテーブルにも朝鮮半島の強固な平和保障体制が用意されていた。
だから米国の覚悟が遅れているのだろう。
これまで朝鮮半島の平和移行問題でのどの会議でも、国連軍司令部の存在を前提にしたり、問題にしたりする言及はなかった。
すでに解体されているとの認識が、世界および関係機関では共通認識になっていたからである。
死滅しているはずの国連軍司令部の名称を、米国が再び口にしている。
それも多国籍軍を結成するために利用し、またまた戦争の「道具」にしようとしている。
このようなことは朝鮮半島を含むアジア太平洋地域の、安全を保障する見地からも、絶対に看過できない問題である。
朝鮮戦争を終結させる体制をつくらないで、幻の国連軍司令部の名称を復活させるということは、朝鮮戦争を他地域にも拡大していくことにつながり、非常に危険なことである。
第2次安倍政権が自衛隊を「国軍」化してくことに触れているが、そのような日本が米国と結託して、アジア太平洋地域の緊張と脅威を高めていこうとしている。
米国は国連軍司令部を解体できない理由に、「北の軍事力強化」「北の核開発」などの論を言っている。
朝鮮の12年12月の人工衛星打ち上げや、13年2月の小型化した核実験に対して、国連安保理での制裁決議を騒ぎ立ててきたのも、自らの帝国主義的、軍産国家体制を維持していくためであったのだ。
朝鮮は以前から、朝米間の平和体系が整うなら、核もミサイルも必要はないと主張している。
ニューヨークでの学術会議(12年3月9日)に参加していた朝鮮の李容浩外務次官は、核の放棄よりも朝米関係改善が先決で、「核武装は自衛装置であり、まず米国の敵視政策の撤回が必要」だと主張した。
そうした言葉に一度も耳を貸すことなく、幻の国連軍司令部を存続させ、平和協定締結にも進んでいこうとしなかった米国こそが、朝鮮半島を含むアジア太平洋地域での最大の脅威国であったのだ。
5.
これまで、朝鮮戦争を戦った「国連軍司令部」とは何だろうかと、追及してきた。
この軍隊は国連機構ではなく安保理のなかで、しかも常任理事国の旧ソ連が欠席している間隙での強引な決議であったのだから、安保理決議でも無効な決議であった。
このように「国連軍」とは、米国が反共政策を推進するうえで、国際社会をめくらませするための創作物であったことが分かった。
停戦協定後も「国連軍」の名称で韓国に駐屯してきた実質米軍を、朝鮮側は実態的な無効作戦に出て、国連軍解体作業を続けてきた。
今日まで、板門店停戦ラインで繰り広げられてきた朝米間の協議、それがもう一つの戦いでもあった。
ところで駐韓米軍は、国連軍と駐韓米軍の撤収にともなう作戦指揮体系を効率化するとの名目で、78年11月7日に「米韓連合司令部」なるものを創設した。
その理由は、韓国軍をより直接的に米軍指揮下に編入するために取られた措置で、戦争遂行本部 (対朝鮮)として位置付けた。
米韓連合司令部は、韓国軍と駐韓米軍を統制指揮し、その最高司令官は駐韓米軍司令官が兼務することになっている。
この連合軍部隊の使用を決定できる参謀長と作職・軍需・企画担当参謀のすべては、米軍将校によって占めている。
さらに驚くべきことに、合同司令官はただ米国の合同参謀本部にだけ報告する義務があって、韓国政府に対しての報告義務は必要ないとしている点である。
韓国「領土」に駐屯している外国軍隊が、作戦行動を伴う場合にも、当該政府の了解も報告も必要がないなどとは、植民地軍と同じことではないのか。
韓国軍は全面的に、米軍の統制下に置かれている一部隊でしかないということだ。
それ以前に開催されていた米韓定例安保協議会(68年5月から、毎年開催されている)では、朝鮮半島の安全保障、韓国軍の国防装備現代化などの問題を討議する場になっている。
その実態は、米国が92年9月に北の核問題をクローズアップ化させて以降、対北の合同軍事演習の強化、米軍中古兵器の契約問題、駐韓米軍の経済的支援問題など、専ら米軍問題のために時間が費やされている。
土地と金を提供し、地位も権利も米軍が握ったままの米韓連合司令部とは、果たして誰のために必要であったのかと、南朝鮮人民たちの強く鋭い疑問は米国に向けられている。
昨年6月,日韓政府間ですすめていた「日韓軍事情報包括保護協定」締結が、署名直前になって韓国側から延期の申し入れがあった問題などは、そのことを如実に示している。
この協定は、米国がアジア地域の共同軍事同盟強化策として、米韓、日米の軍事の輪を補強する鎖として、以前から推進してきたものであった。
署名に至らなかった理由として、韓国側は、日本の植民地支配に対する後遺症で、日本の軍事的進出を警戒した野党や世論の反発を考慮したからだと説明している。
確かに、そのことも大きな問題であったろうが、その底流にあったのは南朝鮮民意の反米自主意識にあったのだ。
このような反米意識はやがて、反帝自主闘争へと転化していく源泉となっていくだろう。
この原稿を書き終えた日が、偶然にも3月1日であった。
瞬間、その日から 94年が過ぎ去っていることを理解していた。
朝鮮で 1919年に興った「3・1 民族独立闘争」記念日のことである。
さすがに日本のマスメディアのどこも、この間題を扱ってはいない。
これまで原稿で、朝鮮人民の米国との自主権闘争を考えてきたので、その延長上で3・1の今日性に触れてみたいと思う。
3・1独立運動は、一部の親日派や民族反逆者を除いた全朝鮮人民が、3月1日を期して朝鮮全土で展開した民族独立要求運動であった。
朝鮮が日帝に併合(10月22日)された後、暴圧と略奪、搾取に呻吟していたその10年目の1919年に、日本帝国主義の支配に反対して立上がり、朝鮮の独立 (自主権)を熱望する意志を全世界に表示し、なおかつ反帝闘争への助走となった。
この運動の推進力であったのが、貧窮する農民大衆、中小商工業者、労働者、都市貧民、学生たちであったことを知れば、彼らがその後の反日反帝、自主自立運動の主体となっていったことも理解できるだろう。
運動が朝鮮全土に拡大していく様に驚愕した日本側は、軍隊と警察を差し向けて、武器ももたない無抵抗な人々に武力鎮圧を強行した。
運動の参加者は200万人余とも、それ以上とも伝えられているが、日本の警察発表では、どうしても過少評価数字しか伝えられていない。
それでも当時の全朝鮮218郡のうち、211郡で運動があったことを記録している。
死者8000余、負傷者4万5000余、投獄された者5万3000余を出している反日運動は、単に朝鮮民族だけの自主要求運動ではなかったのだ。
3・1独立運動の直前、ロシアではレーニンが率いるロシア革命が勝利(第1次1905年1月、第2次1917年3月)していて、民族の実際的分離独立、民族解放の実例を世界に示していた。
同時に、第1次世界大戦後のベルサイユ講和会議 (フランス)で、米大統領ウィルソンが、民族自主権の考え方を提起していた。
ウィルソンの提起は、全世界の被圧迫民族が解放を要求していく端緒となった。
中国では「5・4運動」が発生している。
5月4日、北京で学生たちが起こした日本帝国主義に反対するデモは、中国全土に広がり、反日運動となって燃え上がった。
その後この運動は、中国での反帝反封建闘争を展開していく基礎となっている。
革命勝利後のロシアでは、レーニン指導下で共産党の国際組織、コミンテルン (共産主義インターナショナル、第3インター)を1919年3月に結成している。
インドもガンジーの指導で、反英運動を非暴力不服従遊動へと導き、世界的な反帝運動へと結び付けている。
こうした世界の新しい潮流と連座した朝鮮の3・1運動は、世界の反帝闘争をも担っていたのは当然のことであったろう。
従って運動は朝鮮全土ばかりか、朝鮮人が多住する中国東北地方にまで波及し、そこでも反日反帝闘争が繰り広げられていった。
朝鮮や中国での反帝闘争は、白頭山や中国の間島などを中心とした抗日武装闘争を展開していく根拠地闘争へと発展し、民族解放を勝ち破るまでのパルチザン闘争が展開されていった。
30年代以降、パルチザン闘争を指導した金日成は、3・1運動を平壌で7才のときに父親とともに参加している。
この時の経験が、生涯を反帝闘争へと向かわせたバネの一つとなっていたのではなかろうか。
現在の朝鮮半島は、3・1運動に参加した金日成や朝鮮人たちが、命をかけて闘った結果とは違ったかたちとなっている。
つまり民族が南北に分断されていて、南朝鮮に米軍が駐屯し、米国が朝鮮停戦協定を維持させたままになっているからである。
これまで南朝鮮で大規模な反米反帝闘争が何度も実行されてきたとはいえ、米国と結託している勢力などによって阻まれてきた経緯がある。
だが朝鮮半島の統一、民族の統一は、全朝鮮人民の真っ当な要求であり、当然の権利であり、自主権の行使であるから、その要求は少しずつではあるが前進してきている。
朝鮮民族の自主権闘争の今後は、3・1運動当時とは違ったかたちで、朝鮮半島で展開されていくだろう。
朝鮮半島統一への闘争も、単なる朝鮮半島や朝鮮人民だけの闘争ではなく、反帝反米闘争が世界的な潮流となっている現在、世界の自主化実現問題としっかりと結び付いた主張であり、闘争なのである。
2013年3月1日 記
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