fc2ブログ

「731部隊と朝鮮戦争」(後編)

「731部隊と朝鮮戦争」(後編)

                                               名田隆司


6.ハルピンの「731部隊陳列館」を訪問

                
                236.jpg
               国際旅団の周保中、金日成、シリンスキー 43年10月当時

                234.jpg
                     中国・北朝鮮・ソ連軍の国際第88旅団


 私は今年の9月下旬、731部隊の遺跡地と「侵華日軍第731部隊陳列館」などを訪れた。ついでに、ハイラル、ハルピン、藩陽、撫順など周辺地を含む中国東北地方の旅をした。

 ハルピン(哈爾浜)は、黒竜江省の省都である。

 20世紀初頭、ロシア人によって開発されたこともあってか、現在でもロシア風建築や石畳の道路、町並み風景が残っている。

 市街地に松花江の大河が流れており、 731部隊は実験用に殺害した捕虜たちの死骸や遺骨を、この河に捨てていたようだ。

 中国を訪問した時期が、反日デモの盛んなときと重なったため、街並みなどはバスの中での見学になってしまった。その代わり、予定していた各展示館や施設では、警察官の護衛付きでゆっくり見学ができた。(中国人たちの入館を禁止して)

 哈爾浜市平房区にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」は、元731部隊の残存建造物である。

 入って正面の陳列館と事務室の建物は、731部隊の1号棟 (総務部、診察部、隊長室)と呼んでいた中心建造物で、2階建てになっている。

 細長いレンガ造りの中央部の建物は、三角形の赤レンガ屋根のある近代建造物である。

 正面右側の2階の端の部屋が、石井四郎が使用していたところで、現在は事務室としている。

 この建物は2000年まで、地元の中学校の校舎として使用していたが、01年9月に展示館となった。

 なぜ、731部隊がこのハルピンに建設されたのであろうか。

 対ソ戦の準備、部隊の秘密保持(国内外)、被実験材料(マルタ)の確保が容易であったこと、だと731部隊の元第4製造部長の川島清がハバロフスク軍事裁判で証言している。

 館内はテーマ別の12の部屋に分かれていた。

 膨大な資料を整理し、細菌爆弾や実験道具の模型、当時の建造物や犠牲者たちの写真、細菌や毒ガスの投下実験、野外実験場などのパノラマなどで構成されていた。

 展示写真の中に、東北抗日連軍隊員たちもいた。その一葉で、軍服姿の金日成(主席)と出会った。

 写真は、国際連合軍当時の1943年10月に、ハバロフスクで撮影されたもので、周保中とソ連軍人のシリンスキーの間で写っていた。

 同じ写真を以前、金日成回顧録『世紀とともに』第8巻の扉写真で見つけていた。

 国際連合軍の編制は、朝鮮と中国東北地方解放を目的に対日戦の準備のために、42年8月にソ連のハバロフスクで結成された部隊である。

 朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍、ソ連極東軍などで編制された。

 形式上はソ連極東軍独立88旅団と称し、部隊の対外番号は8461歩兵特別旅団とした。

 周保中は国際連合軍の旅団長、金日成は第1支隊(朝鮮部隊)の支隊長であった。

 連合軍は当初、対日決戦に備えるために、朝鮮及び中国東北地方を小部隊による軍事偵察を主任務としていた。

 周保中は解放後の46年、東北民主連軍副総司令員兼吉遼軍区司令員の肩書きで、国共内戦の指揮をとった。

 国共内戦では、東北地方は重要な地域であった。このため周保中は、金日成に支援要請の使者を派遣している。金日成もまた周保中の要請に応えて、数千人の戦友 (旧パルチザン隊員を中心に)と物資を送っている。

 後刻、毛沢東と周恩来からも要請があり、東北地方に居住していた朝鮮人を含めて数万人の志願朝鮮人部隊を結成し戦った。

 朝中は現在でも、「唇歯の関係」を強調している。

 それは、東北地方での抗日戦闘と国共戦闘、さらに朝鮮戦争で共に帝国主義と戦い勝利を共有したことを、誇っての表現である。

 周保中は48年、吉林省政府主席兼東北区副司令員となり、家族と共に何度か金日成がいる平壌を訪問している。

 金日成と周保中の二人は、生涯の戦友であった。

 金日成は『世紀とともに』第8巻の「最後の決戦の日」で、次のように記している。

「最後の決戦のころを思い出すたびに残念でならないのは、ソ連の訓練基地で数年間、祖国解放作戦の準備を進めてきた朝鮮人民革命軍の主力部隊が従来の計画どおりに作戦をおこなえなかったことです。

 わが軍が北部国境地帯で日本軍との交戦状態にあったとき、わたしは前線部隊の作戦を指揮するかたわら、空挺隊の朝鮮出撃準備を完了していました。

 前線の状況に合わせて空挺隊を部分的に改編もし、武器や弾薬、装具類一式を新品で供給もしました。

 そうして空挺隊はトラックで飛行場に向かいましたが、そこで引き返さなければなりませんでした。

 それは、日本が突如として降伏したからです」

 このことから、金日成らの朝鮮支隊は落下傘で平壌周辺に降下し、侵攻してくるソ連軍とともに日本軍を挟み撃ちで撃退する計画であった事が分かる。

 それを裏付ける情報が、8月11日頃の731部隊の無線機が捕らえていた。

 ソ連軍の交信から、15日にハルピンを含む東北地方一帯に、ソ連軍の空挺隊が降下してくるという情報をキャッチしていたのだ。

 それで731部隊関係者は、14日までに荷物もろとも大急ぎで撤退したのであろう。

 石井四郎ら一部幹部たちは、逃走途中の朝鮮南部の釜山辺りで、天皇の敗戦の弁を聞いていたのかも知れない。

 展示館の出口通路の両面に、731部隊が行った実験で犠牲となった数百名の名前が刻まれていた。ここに出ている人達はごく一部ではあったのだろうが、捕虜を移送するときに形式的な尋問調書が作られ、それが残っていたため、名前が判明したと思われる。

 大半は中国人であったが、数人のモンゴル人、ロシア人に混って、6名の朝鮮人の名前が読み取れた。

 コチャンリョ、イキスウ、ソントクリョン、キムソンチョ、イチュチョン、チャ (名前不明であった)であったが、もちろん朝鮮人被害者が、この6名だけであるはずがない。

 ハルピン近郊は、朝中合同部隊であった東北抗日連軍第2路軍 (軍長・周保中)がいたから、多くの朝鮮人パルチザンたちが活躍した場所であり、また反日反満人士たちも多く居住していた所である。

 私は、長く彼らの名前を見つめながら、731部隊の蛮行によって、名前も所在も判らなくなってしまった他の多くの朝鮮人革命家たちの無念さに、涙していた。

 翌日、ハイラル区にある市民公園に寄った。公園内に、伊敏河に掛かっていた伊敏橋の「断橋」が残っていた。

 この断橋は、日本軍が早期に撤退する際に爆破したものだという。

 断橋を見て私は、『世紀とともに』第8巻のなかの、ある一節を思い出していた。

 「そのころ、関東軍の敗残兵が牡丹江の南にある鉄道のトンネルを爆破したのです。

 敵は迂回道路に通ずる橋梁や牡丹江飛行場の滑走路まで破壊していたので、われわれは自動車も汽車も飛行機も利用できないありさまでした。それでやむなく牡丹江から極東基地に引き返し、ウラジオストクから軍艦で帰国の途についたのです」

 金日成らはこの断橋にも妨害されて、結局、元山港に上陸したのは45年9月19日であった。

 公園の中には、この断橋に向かって立つ小さな銅像があった。

 銅像は、小さな子供の手を引いた日本婦人が、重そうなトランクを前に置いて、はるか東の方向に手をかざしている姿であった。

 説明文がなかったので、中国人の旅行ガイドに銅像の意味を尋ねた。

 像の婦人の目先の断橋はつまり、一般の日本人を置き去りにして、いち早く逃走した日本軍が途中の橋まで爆破して壊し、一般住民を無視していることを象徴しているのだという。

 この断橋と婦人像が象徴していることは、帝国主義のもっとも醜い姿を象徴しているように思えた。

                284.jpg
              ハイラル平和公園内の「断橋」伊敏河に架かっていた伊敏橋

                    289.jpg
                   ハイラル平和公園内の「日本を望む母子像」



7.朝鮮戦争の原因

 一般に朝鮮戦争の始まりを、1950年6月25日早朝(午前4時)、数個師団の北朝鮮軍が突然38度線を突破し南進したことを前提として、論をすすめている。

 その結果として、金日成はソ連のスターリンと中国の毛沢東から事前の了解と支持を得ていたとし、だからこれは米ソの代理戦争だったと論評する人々が多くいる。

 これらの人たちは、米国が国連安保理を活用したときの報告と論理を、そのまま信じているのだ。

 そして奇妙に、6月25日説と米ソ代理戦争説とをセットで論を展開しているのだが、これらは米国側の情報だけを活用しているからであろう。

 これこそ、北朝鮮軍に「侵略軍」とのレッテルを張り付けるため、米国は国連と国際社会で多くの真実を隠し通し、その上に事実を歪曲した「国連軍」を朝鮮半島に差し向け、多くの朝鮮人民を殺傷して、自身の犯罪を隠蔽する創作言語を多用した結果である。

 日本ではまだ、その呪縛から解放されていないためか、引き続き、北朝鮮への敵視政策を施行している。そのような政権に多くの日本人も、疑問を呈したことがないようだ。

 38度線付近では、特に西部及び中部戦線では、49年に入る頃から韓国軍からの軍事的挑発が絶えずあり、時には南北両軍の銃撃戦や越境事件などの小衝突が、当時から報告されていた。

 50年の5月、6月頃は、韓国軍からの越境・侵犯事件によって、追跡した北朝鮮軍が38度線を越えての戦闘も増加している。

 その頃から、韓国軍の規模の大きな誘因作戦が多発していて、どの時点での、どの小競り合いが戦争へと発展したのかについては、特定が難しい。

 だから、朝鮮戦争での勃発を50年6月25日早朝だと断じることと、それが北朝鮮軍からだとすることには、なお、多くの疑問が指摘されている。

 例えば、同じ6月25日の早朝 (午前 3時頃)、 38度線のすぐ北にある海州(ヘジュ)の町を、南の軍隊が挑発的に攻撃しているのだ。

 それが大規模な北からの報復を引き起こして、本格的な戦闘が始まった可能性を指摘する研究者もいる。

 海州は甕津 (オンジン)半島東部入江に面していて、38度線のすぐ北に位置している。

 南朝鮮単独選挙・政権樹立に抗議して、48年8月25日、朝鮮民主主義人民共和国を創建するため最高人民会議代議員選出の南北総選挙が実施された。

 南では地下選挙の形で360人(全議員572人)が選出されている。

 その際、南で選出された代議員会議が開かれた場所が海州である。

 海州を含む甕津半島は西部戦線地域で、朝鮮戦争の戦端が西部地域から開かれたとする説とも符号する場所となっている。

 1950年当時、韓国海軍参謀総長であった李竜雲少将は回顧談(1977年)で、開戦に関して次のように発言している。

 「6月23日、つまり戦争勃発の2日前、韓国陸軍参謀総長は『戦闘命令第2号』を発令した。これによって陸軍のすべての部隊は警戒体制に入り、『6月25日午前 5時を期して行動に入るよう』命令をうけた。

 北にたいする来るべき全面的攻撃から、敵の注目をそらすための陽動作戦として、23日午後10時から部分的な攻撃戦が開始された・・・この攻撃戦で、海州地方攻撃の任務を帯びて小さな艦隊を指揮した」(ギャバン・マコーマック著「侵略の舞台裏」)

 韓国海軍の李竜雲少将の告白は、6月23日の午後10時以後、韓国軍の陸・海軍が海州地方を中心に甕津戦線を攻撃したことを、はっきりと認めたことになる。

 また、「6月25日午前5時に一斉攻撃」への命令を受けていたことも告白している。

 ところが米国の公式戦史は、50年6月当初の韓国軍の攻撃や反撃については、いっさい認めず、記録もしていない。

 従って、米国情報だけを信じた場合、北側からの侵攻説を当然視し、疑うことを知らないことになってしまうだろう。

 さらにまた、開戦直前の李承晩政権自体が、崩壊寸前であったのだ。

 50年5月30日、韓国では第2回の選挙(国会議員)があった。

 この選挙期間中、多数の野党候補者や応援者が投獄され、さらにテロによる暗殺や弾圧が横行していた。

 これほど不正な選挙は、軍事政権下でもなかったほど、反対者や対立者への暴力が常態化していたのだ。

 それでも李承晩派は議席の30%を割り、統一に向けての南北間交渉を支持する議員が増加した。しかも、インフレが手に負えない状態になっており、李承晩の立場はますます悪くなっていたから、そこから脱出するためにも北進の必要性を強調していた。

 米軍と李政権は6月13日、「非常戒厳令」を実施し、同18日に米国務長官ダレスが38度線を視察して、朝鮮戦争へのゴーサインを出している。

 一方、北側の祖国統一民主主義戦線中央委員会は6月7日、「平和的祖国統一策推進に関するアピール」を発表すると同時に、統一問題を協議する3人の使者を派遣することも発表した。

 9日には国連朝鮮委員会も、この協議にオブザーバーとして出席することを決定していた。ところが李政権は10日、38度線付近で待ち伏せしていて、3人の使者に銃撃を加えて殺傷し追い返してしまった。

 なぜ追い返してしまったのかについては、国連も朝鮮委員会も、まして米国も問題にすることはなかった。

 このような状況や報告を全く無視した国連朝鮮委員会(6月26日のソウルでの委員会)は、「北朝鮮は韓国に対して綿密な計画に基づいた本格的侵攻を行っている」として、韓国軍は全くの不意打ちをくらわされた-という内容の結論を出して、国連安保理に提出した。

 国連安保理は、6月27日午後3時 (ソウル時間午後5時)の会合で、北朝鮮軍を「侵略軍」と規定して、「国連軍」の組織化を決定した。

 こうして国連が、朝鮮戦争に参加するようになった。

 国連が朝鮮での戦争に関与していく決定のすべては、ソ連が安保理を欠席している時であった。

 ソ連は、中国の国連での代表権を北京政府に移行する問題で、安保理内の多数派と意見を異にして、安保理への出席を拒んでいた。

 国連憲章第27条(3項)は、「(議事手続き事項以外の)その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意票を含む7つの理事国(注-1963年からは9理事国となっている)票によって行われる」と、定めている。

 だから、ソ連が安保理を欠席している間に採択し、決定したいかなる内容も、第27条違反になる。

 このことから、「国連軍」部隊の編制も、朝鮮半島への出兵も、参戦も、全てが国連憲章違反である。

 しかも、北朝鮮軍を「侵略軍」だと決め付けたことも、理屈に合わない。

 侵略とは、A国家によるB国家にたいする場合にのみ当てはまるもので、同一民族内における競合的な二つの体制間に関しては内戦となるはずだ。

 国連や米国は、いつ頃から「侵略」の定義を、このように自己流に変更したのであろうか。国連軍(米軍)の参戦を正当化するためのテクニックとして、朝鮮戦争の真犯人をソ連や中国、またはその両者(共産主義者)だとする必要性があったからだろうか。

 金日成はスターリンの了解を得た戦争であって、これは米ソの代理戦争だとの虚偽内容さえも流布させた。

 仮に北朝鮮軍が38度線を越えて南進したことを、安保理が「侵略」だと非難するのならば、50年10月以降、国連軍が38度線を突破して北進したことについては、侵略ではなかったのだろうか。

 この時期、ソ連は中国問題でのボイコットをやめ、安保理に復帰していたため、米国は安保理での主導権が取りにくくなっていた。

 このため米国は、国連総会の場を利用して、国連軍による38度線突破を、「平和のための統一」との理屈で可決させ、 50年10月からの38度線突破への正当化を図った。

 45年9月以降、米国は朝鮮問題(独立した自主政府樹立案)を議論する場を、米ソの二大国から、モスクワ協定に署名した4大国会談へ、さらに国連安保理、国連総会の場へと、常に米国を支持する多数国の場へと移して、自らのプランを実現させてきた。

 当時の国連における米国の影響力からすれば、会議参加国が多いほど、米国に有利であったからである。

 それは現在でもさほどの変化はなく、北朝鮮の核問題について、朝米2国間協議を避けて、六者協議、国連安保理、国連総会の場へと移し替えていく手法も同じである。

 ちなみに国連軍に軍隊を派遣した国は、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コロンビア、エチオピア、フランス、ギリシア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージランド、イギリス、タイ、フィリピン、トルコ、南アフリカ共和国、アメリカの16カ国である。

 極めてわずかな隊員しか参加させなかった国も、多数ある。

 1951年末現在の国連軍の構成をみれば、この国連軍は米軍主体であることが、よりはっきりとするだろう。

 陸軍 (米軍 50. 32% 韓国軍 40. 10% その他 9. 58%)
 海軍 (米軍 85.89% 韓国軍 7.45%, その他 6. 66%)
 空軍 (米軍 93. 38% 韓国軍 5. 65% その他1.97%)

 50年10月25日、中国人民志願軍が参戦して、国連軍が敗走する。

 面子を失したトルーマン米大統領は「国家非常事態宣言」を発表する一方、「原爆の使用もある」(12月30日)と言明した。

 急いで国連総会に働きかけ、中国を「侵略者」とする決議を採択させた。
 
 51年6月頃になると、両軍は38度線一帯での攻防が続くようになる。

 ソ連が休戦会談を提言(同年6月23日)、米国も停戦協議を提案(6月30日)。

 こうして7月10日から、開城で休戦会談の本会議(8月23日にはいったん中断)を開くことになった。

 だが、その一方で国連軍は「夏季および秋季攻勢」と名付けた戦闘を準備し、作戦を続行している。

 米国には、休戦会談中でも戦闘を中止する考えはなかったようで、少しでも陣地を押し挙げて、有利な状態での停戦を引き出そうとしていた。

 38度線を挟んでの軍事的膠着状態が続き、戦争が長引いている間に、米軍は52年から爆撃による北朝鮮各地への破壊をエスカレートさせていた。

 ダム、堤防、発電所、灌漑用水、運河や一般市民が密集している地域を狙って爆撃を行っていた。

 このような爆撃、機銃掃射、ナパーム弾投下などは、民間人の殺傷を目的としていたから、戦争被害を一層拡大した。

 こうした米軍の行為を、朝鮮戦争は汚い戦争の中でも際立っていると、ギャバン・マコーマックは自著『侵略の舞台裏』で、米国を告発している。

 その上、細菌爆弾を使用し、朝中人民を伝染病の苦しみへと突き落としている。

 朝鮮戦争で米軍が使用した細菌兵器のことは、すべて共産主義者側の宣伝だと米国が強弁しているのは、731部隊の石井四郎らを戦犯免責取引で使った手口と同じである。

 1951年末、石井四郎が朝鮮にいたという記録(1968年のロイター通信)もある。

 1940年代の初め以降、中国東北地方での731部隊の作戦実施には、必ず石井自身が実地監督を心掛けていたとの証言がある。

 そのような彼の性向から、自らの研究開発した細菌兵器を、朝鮮で実施する際にも、その現場に赴いただろうことは十分に考えられる。

 朝鮮と中国から被害提訴をしたが、国連そのものが戦争の一方の当事者であったから、国連以外の中立機関での調査が必要となった。

 関連機関の国際赤十字も世界保険機構も、ともに米国の影響下にあったため、中国側が受入れを拒否した。

 結局、世界平和協議会の斡旋でブラジル、イギリス、フランス、イタリー、スウェーデン、ソ連からなる科学者で構成する「朝鮮・中国における細菌戦に関する事実調査のための国際科学委員会」が組織された。
 
 委員会は52年6月から8月にかけて、朝鮮と中国東北地方で調査を行った。

 その調査報告は、細菌による伝染の被害実態があり、その原因は米軍から投下した細菌弾の疑いはぬぐえない、というものであった。

 当時の情勢から、はっきりとした米国の犯罪性を告発できなかったことを、調査報告は物語っている。

 ところで日本の敗戦時、瀬戸内海の大久野島を米軍が接収し、朝鮮戦争勃発と同時に、そこに米軍は弾薬庫を設置した。

 毒ガス弾の遺棄、処理が完全にできなかった可能性がある場所に、朝鮮戦争で使用する各種爆弾、弾薬庫が保管されたのである。実際、米軍は化学兵器も使用している。

 朝鮮戦争当時、日本は北朝鮮に空爆を繰り返す米軍機の基地を提供したのである。

 沖縄、横田基地から飛び立っていった米軍機に、この大久野島の毒ガス弾が積み込まれていたかも知れないのだ。

 北朝鮮攻撃の最前線基地を提供した「報償」として、日本は軍事的特需による経済復興を手に入れた。

 そのことが今も、北朝鮮に対して植民地時代の清算を、逆にサボタージュさせているように思える。

 結論から言えば、朝鮮戦争は国連の帽子をかぶった米国が、南朝鮮に単独選挙・単独政権樹立を強行したことが、引き金となって勃発したのである。

 米国が強行してきた単独政権樹立に反対した朝鮮人民たち、南も北の人民たちも、民族の自主権をかけて反対闘争を戦った。

 その彼らを米軍は徹底的に弾圧し、蛮行を働き、虐殺した。

 米軍の蛮行は、なにも北朝鮮・信川だけではなく、韓国側にも多く存在している。

 その最も象徴的なのが、50年7月25日での忠清北道の老斤里(ノグンリ)事件である。当時、大田を占領し南下してくる朝鮮人民軍と、敗走していく米軍とが、近くで遭遇し銃撃戦を繰り広げていた。

 避難していた住民たちに米軍が、安全な場所に連れていくからと700余人の老人、女性、子供たちを、京釜線の線路上に誘導し、米軍機からの爆撃とともに機銃掃射で400余人を殺害してしまった。

 線路上で住民たちを殺害したのは、北朝鮮軍の輸送利用を妨害することと、手足まといになる避難民たちを除去することが目的であったようだ。

 事実、その折りの反撃戦を担当していた米第25師団長のウィリアム・キーン少将は、「戦闘地域で動くすべての民間人は敵と見なせ」と命令していた。

 このため兵士は、「子供や女性を問わず目につくものはすべて殺した」(レスター・トド2等兵)と証言している。

 以上のような米軍の蛮行は、ほんの一部である。

 現在まで米政権は朝鮮戦争時の蛮行の全てを、「なかったこと」として書き換え、不名誉な行為の全てを共産軍が実行したのだと、臆面もなく言い切っている。

 先のトド元2等兵のテレビでの証言(99年 10月 8日の米 CBCテレビ)に驚いた米政府高官たちは、トド氏への口封じを行っている。

 米国は、朝鮮半島で蛮行を実行したことと、それを隠蔽してきたこととの、二重の犯罪を犯している。

 否、自らの蛮行の全てを、共産主義勢力が行ったとの虚偽報告とを併せれば、三重の犯罪を犯していることになる。

 やがて朝鮮戦争停戦協定から60年になる。

 米国は60年間、朝鮮半島での犯罪をまだ清算できずにいるのだが、自ら撒いた悪の種を、遅まきながらも自らで刈り取る時期にきている。

 米軍の犯罪性は朝鮮戦争の場で、731部隊の細菌戦と大久野島の毒ガス弾が結び付いていたから、日本もまた犯罪性を背負っていることになるのだ。

                225.jpg
                       ハイラル要塞遺跡博物館入口

                245.jpg
                        ハイラル、日本軍のトーチカ跡 


8.おわりに

 この小論を書き終って、改めて感じた事を、最後に書きとめておきたい。

 日本も米国も自由主義国で、表現の自由、言論の自由が許されていると、理解している人たちが沢山いる。

 今回、731部隊長の石井四郎が米国と裏取引をしたこと、朝鮮戦争の原因と米国の役割りなどに関して、資料を探してみたが、図書館でも古本屋でも見つからなかった。

 ちなみに、図書館にあった数冊の関連本の頁を開いてみたが、表現に強弱の違いはあるものの、どれも国連や米国側の情報と思考に立った内容であったがため、がっかりしたことを覚えている。

 「自由」許容内での表現しか許されない社会であるから、表現も、書籍も、全ては「商品化」や「流通」するものしか許されないということも、仕方がないと言うべきなのか。

 さて、中国黒竜江省ハルピンで展開していた関東軍防疫給水部隊こと「関東軍第731部隊」のことについては、森村誠一氏が『悪魔の飽食』で、彼らの非人間的な所業を発表して以来、人体実験や細菌戦の一部が明らかとなった。

 731部隊で働いていた日本人軍属・家族たち約3000人が、日本に帰国してから後、自らの所業については沈黙を守り通したが、当時、惨たらしい様子を直接見聞していた中国人たちによって、語り出されたことによって、その「悪魔性」の姿がよりはっきりと現れた。

 その一方で、敗戦後に石井四郎がハルピンから逃れ、日本(東京および千葉)での潜伏生活以後のことが、タブー視されて語られてこなかった。

 そうした背景には、米国家戦略会議とGHQとの意向が大きく働いていると思われる。

 石井ら731部隊高級幹部たちの所業は、死刑に値する戦争犯罪であった。

 このため、米軍が45年9月に日本に上陸すると共に、日本列島内でのGHQと石井らの「鬼ごっこ」や「隠れん坊」が始まった。

 ついに45年末、石井四郎らの「戦犯免責」と引き換えの、彼らの膨大な実験データーを米国に引き渡すことでの、闇取引が成立した。

 ところが、731部隊の一部幹部がソ連軍によってシベリア送りとなっていて、その彼らが石井部隊の秘密を暴露していた。

 ソ連も細菌戦の実験データーが欲しかったため、石井四郎ら幹部たちの聴取と、その犯罪性を極東軍事裁判で明らかにすることを要求した。

 米国は、731部隊が満州で行っていた悪魔的所業は証拠不十分だとし、それらの実験資料は日本には持ち帰っていないし、石井四郎の存在はつかめていない等として、いずれも拒否していた。

 極東軍事裁判では、731部隊の細菌戦問題については、それが全く存在していなかったかのごとくにして、取り上げようとはしなかった。

 そればかりか、ソ連が外野(裁判所以外)で、731部隊の犯罪性を主張しているのは、共産主義者の担造だと宣伝する始末であった。(日本の世論にも)

 これが米国の、第一の陰謀であった。

 第二の陰謀は、朝鮮戦争の後半に朝鮮と中国東北地方に細菌爆弾を投下し、多くの一般住民らに伝染病を蔓延させていた問題への態度である。

 朝中両政府が、米軍捕虜や被害住民たちの証言を通じて抗議したことに対して、それは共産主義者のデマ宣伝だと一蹴しようとしていたことである。

 国際調査団の調査結果に対しても、全ては共産主義者の作文だとする非難キャンペーンを行ったりしている。

 米国による第一と第二の陰謀によって、米国への細菌戦問題の追及、石井四郎らとの闇取り引きの実態、石井四郎が朝鮮戦争の戦線に現れていた問題、米軍が投下した細菌爆弾の問題-などについては、米国は全てを闇の中に押し込め、なかったかのようにして取り繕っている。

 しかし改めて一部関係資料を読み、この原稿を書きながら米国の犯罪性を強く感じ、強い怒りさえ覚えた。

 また、朝鮮戦争については、ごく一部の資料を除き、大半が戦争は「1950年6月25日の早朝、北朝鮮軍の攻撃で始まった」と表現していた。

 こうした史観からすすめていく現在の朝鮮半島政治問題、朝米関係、南北統一問題などの理解と理論展開は、部分的には米国の政策を批判する箇所があったとしても、基本的には、米国史観に基づいた内容で展開されていくことだろう。

 なぜ米軍政庁は親日派を重用したのか、なぜ自主政府の活動を弾圧したのか、米国の価値観で支配されている日本では、そのようなことは疑問でもないのかも知れない。

 米国のマイドコントロール下に置かれている日本では、米国情報のみが唯一正しいのだとする、前提条件がある。

 その米国版情報を下敷きにした報道、考察、主張、政治決定の氾濫を私はもっとも恐れている。

 ところで、2012年1月、オバマ米政権は「米国の世界的なリーダーシップの維持-21世紀の国防における優先事項」なる報告書を発表して、アジア回帰を宣言した。

 アジア回帰とは、アジア太平洋地域が政治、経済、軍事安保で世界の中心として浮上しているとして、だから、(米国は)必然的にアジア太平洋地域への重心を追及すると、米内外に宣言した内容である。

 何ごとも傲慢で、鼻持ちならない米国流表現であるが、経済的には中国を、軍事的には中国と北朝鮮を、ともに意識したものであろう。

 これらの国を包囲するため、日米韓、日米豪、日米印の3つの3カ国協力 (米国主導の日本機軸体制)を計画しているようだ。

 米国はまた、韓国の軍事的、安保への役割力の強化支援をも画策している。

 そうした結論からは、北朝鮮への軍事的、経済的圧力だけを強めていくことになる。

 それが米国の本心なのか、または望みなのか。

 「世界的なリーダーシップ」を意識する米国の、そのように軍事安保力を強化していくことだけが、リーダーシップを維持していくために必要だと理解しているのだろうか。

 このような発想法こそ、常に敵を必要とする帝国主義者の思考でしかない。

 朝鮮半島での軍事的緊張感を解くことこそが、世界的リーダーシップを自認する米国に求められているはずだろう。

 朝米平和協定を締結することこそ、自称「世界のリーダーシップ」に相応しい決断であり、行動であることを、2期日のオバマ米政権に贈るものである。

                         
                                      2012年11月16日 記

-参考資料-
1.金日成回顧録「世紀とともに」第8巻 (1998年、平壌外国出版社)
2.「731」青木冨貴子著(新潮社)
3. 「悪魔の飽食」森村誠一著 (光文社)
4.「地図から消された島」武田英子著(ドメス出版)
5.「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)
6.「侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実」キャヴアン・マコマック著(シアレヒム社)
7.「死ぬまえに真実を-731部隊の犯罪」上・下(1997年青年出版社)
スポンサーサイト



「第4報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」

「第4報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」

                                               名田隆司


 直前まで、日本側の拉致問題の議題化強硬派らによる態度で、協議自体が懸念されていたが、モンゴルで11月15,16両日、日朝外務省局長級協議が開催されたことで、先ずはよかったと思う。

 協議継続のため、協議内容の子細が伝えられなかったが、日朝双方の協議感触そのものは悪くなかったようである。

 それは多分、私が先に触れていたように、今後の交渉を日朝平壌宣言で確認されている「双方の懸案事項」の一括妥結協議方式で、納得したからだろうと考えられる。

 協議後に、杉山晋輔外務省アジア太洋州局長が、拉致問題に関して「さらなる検討のため、今後も協議を継続することで一致した」と語っていたことから、拉致問題を議題化することで一致したことが確認できる。

 これを報道するマスメディア側が、揃って拉致問題継続で一致などと、まるで日朝間協議の中心テーマが、拉致問題であるかのようにして報道していたことに対して、クレームをっけておきたい。

 マスコミの一部にはまだ、日朝協議の中心議題がさも拉致問題であるかのように「錯覚」して、この問題が議題化したか、進展したのか、また北朝鮮側が経済支援を狙っての駆け引きか、などの「解釈」をふりまわして報道している。

 こうした報道姿勢は、一方の側に余りにも偏していて、誤報とまでは言わないが、虚報に近いものがある。

 結果として、多くの国民に日朝問題で解決すべきは拉致問題である類いの認識をさせ、嫌北朝鮮感情を煽っていることになる。

 マスコミが第3とか第4の権力だと言われているが、そうだとするならば、これまで彼らが果たしてきた役割は、反北朝鮮ブームを作り上げる側に荷担してきだけだと言わざるを得ない。

 このごに及んでもまだ、そのような姿勢から抜け切れていないということは、1936年以降、軍部情報だけを真実のようにして報道し、国民を目隠しにして、侵略戦争へと協力させていった当時の姿勢と、通底しているように感じられ、危機感を持っている。

 日朝間に横たわっていて、協議を継続して解決していかなければならない問題は、これまで日本側がサボタージュしてきたがため、山積している。

 今回の協議再開につながった日本人遺骨問題、日本人妻帰国問題、戦前の朝鮮人強制連行や日本軍慰安婦問題、日本の過去の清算問題など、緊急に解決を要する問題から、今後の日朝間政治を規定する問題まで、目白押しである。

 拉致問題は、それらの中の一つの問題であったことの理解に欠けている。

 それとも政府や世論への顔向けとしての姿勢に終始しているのだろうか。

 今回は、日朝間の対話の窓口がやっと開いた、ということである。

 日本は来月16日、衆議院選挙を控えており、その選挙結果によっては、政権の枠組みが変化する可能性がある。

 例え日本側の政権が交代したとしても、現在の日朝政府間協議自体は、このまま継続ていくことこそ大事で必要である。

 先のモンゴル協議では,交渉の継続性を日朝双方とも希望し確認しているようだから、次回協議の日程を、水面下で探っているようだ。

 一方、日朝局長協議で拉致問題が継続協議になったとの報告を受けた拉致被害者家族連絡会の飯塚繁雄代表は16日の記者会見で、「協議自体は半歩前進だ。以前になくこの問題が進んでいるという実感を受けた。北朝鮮には次回協議の早期開催を絶え間なく要請してほしい」と語った。

 北朝鮮側が拉致問題を議題化したことを、評価しているのだろうか。

 それとも今後とも交渉による解決を期待し、その立場に立ったことを表明しているのだろうか、彼らのそれ以前の激しい反北朝鮮言動を考えるとき、判りづらいものがある。

 また,自民党の安倍晋三総裁が21日、衆院選の政権公約を発表した。

 外交・安全保障の項で、北朝鮮とは、「対話と圧力」の方針を貫き、拉致問題の完全解決と核・ミサイル問題の早期解決に全力を傾注する、としている。

 これも以前の彼の態度は、「制裁と圧力」を主張し、対話を否定していた。

 それが、今回は「対話と圧力」だとして、「対話」もスタンスの視野に入れている。

 とは言えそれに続く文言からは、対話を通じての問題解決を目指している風には考えられない。

 選挙結果によって、自民党が第一党となり、安倍政権が誕生することもあり得る。

 選挙対策のために「対話」を入れただけかもしれない。

 だとすると、現在の局長級協議のなかで、拉致問題を第一議題とする圧力を掛けて、せっかく開かれた日朝対話の窓を、再び閉じさせてしまう可能性もある。

 そのようなことになれば、家族会は安倍「政権」を批判するだろうか。

 安倍氏は、「政権公約」で尖閣諸島の実効支配、国防軍の保持、経済のインフレ方向、日米同盟の強化、憲法改正--など、極めて危ない政策を掲げているから、これらのスタンスと相俟って、対北朝鮮関係をその強硬方向へとカジを切ってしまうことも考えられる。

 そうした意味からも、日朝双方は次回協議の日程を、選挙前で探っているのだろうと思うし、それが賢明であろう。

 次回協議では、例え日本側がどのような政権になっても、交渉の窓口自体を閉じることなく、協議を続けていくための、枠組み合意の成立が求められる。


                                      2012年11月22日 記

「731部隊と朝鮮戦争」(前編)

「731部隊と朝鮮戦争」(前編)

                                               名田隆司


1.はじめに

                358.jpg
               第一棟の建物 現在は展示館の事務室と会議室として使用

                357.jpg
                       731部隊 第一棟建物の裏側 

 
 悪魔の部隊と言われてきた「関東軍731部隊」(部隊長・石井四郎中将)が、朝鮮半島内で細菌兵器の使用や人体実験を行ったことはない。

 なのに、原稿の標題を「731部隊と朝鮮戦争」としたのかは、朝鮮戦争の後半期に米軍が、細菌爆弾を朝鮮と中国東北地方に投下して、一般民衆に病魔菌をばらまき、感染させていたことと関係がある。

 米国はこうした事実を、基本的には現在も否定したままである。

 第2次世界大戦時の後半、日本やドイツはもちろんのこと、アメリカ、イギリスなど各国とも、細菌兵器と化学兵器 (毒ガス)の研究を続けていた。

 各国の中では、日本の実験成果が群を抜いていた。

 旧満州・ハルビンの広大な地域に本拠を構えていた細菌部隊の 731部隊は、細菌兵器の性能レベルを上げるため、人体実験を繰り返し、その成果を実戦で確認していたからである。

細菌戦を追及していた各国とも、人体実験データまでは揃えられなかったため、戦後、日本を占領した優位さを利用した米国は、 731部隊の石井四郎ら高級幹部たちの戦犯免責と引き換えに、彼らが所有していた膨大なデータを独占し隠匿した。

 米軍が独占した731部隊の細菌兵器のデータを解析し、製造した細菌爆弾を最初に投下した地域が、朝鮮戦争中の朝鮮北部や中国東北部であった。

 しかも、生きた細菌を培養し、爆弾に詰め込む作業を行っていたのが、東京近郊(多分、元 731部隊の幹部たちが密かに従事していたのであろう)であったというから、二重の意味で、朝鮮や中国東北地方に投下した細菌爆弾のツールは、 731部隊そのものであり、日本であったのだと言ってもよいだろう。

 このように 731部隊が、朝鮮と深い関わり(マイナー的な)があったことになる。

 731部隊の悪魔性や帝国性については、すでに森村誠一の『悪魔の飽食』そのほか、多くの報告で発表されているため、この原稿は、 731部隊そのものを告発することが目的ではなく、帝国主義者(日本と米国)の戦争観を暴くことを目的としている。

 朝鮮戦争は、未だに「停戦」のままである。

 来年、 2013年には停戦協定 60年を迎える。これほどの長い戦争は、人類史上、まだ記録してはいない。

 一般的に戦争の終了とは、双方が戦闘行為を停止した後、第一段階で停戦(休戦)協定を結び、第二段階で講和条約 (平和条約)の交渉と調印という手順を踏むことによって、はじめて終戦(終了)が成立し、平和交流と平和体制が実現することになる。

 日本の場合で言えば、 45年 8月 15日は「ポツダム条約」 (米国、英国、ソ連、中華民国)を受諾して、戦闘行為を終えて時局を収拾することを宣言、各国に通告した日である。

 日本の敗戦(終戦)の日は、東京湾上の米国戦艦ミズリー号で、降伏文書に調印した9月2日になる。

 朝鮮半島の場合はどうか。朝米の双方が戦闘行為の停止を確認したのが53年 7月27日で、この日に停戦協定を結んだ。

 停戦協定には、3カ月以内に講和条約(平和協定)を結ぶための協議を行うことになっている。

 にも関わらず、未だに米国側が拒否をしていて、第一段階のままの状態が60年間も続いていることになる。

 ということは、双方が戦闘行為の停止までは合意したものの、戦争そのものはまだ継続中だということになる。

 このことからいって、不測の事態から戦闘行為が再開し、戦争へと発展しないとも限らない、危険な状態にあるのが現在の朝鮮半島情勢である。

 このような危機的な現状を転換させるために、朝鮮民主主義人民共和国 (以下、北朝鮮)は米国に対しては「平和協定」の締結を、韓国に対しては「わが民族同士」の交流拡大(南北統一)を呼び掛けてきた。

 つまり、第二段階への移行である。

 米国はまだ応じる気配がない。

 米国と敵対している北朝鮮にとっては、常に軍事的緊張関係が強いられるという、過酷な環境下に置かれてきた。

 ところで、日本の歴代政権は必ず、日米安保条約が日本の第一基軸だと言ってきた。

 ということは米国とは第一同盟であり、米国の朝鮮半島での戦争政策を支持し、どこまでも追従していくことを表明したことと同じになる。

 このように日米安保体制下から抜け出すことを思考しない日本政治と日本人は、米国と敵対関係にある北朝鮮に対しては、やはり敵対的に向き合っていることになる。

 日本は国連加盟国の中で唯一、北朝鮮とのみ国交を結んでおらず、さらに植民地支配時代の清算もまだ行ってはいない。

 それはまるで、かつて「国を守る」という名目で、為政者から強制的に武器を握らされ、他国領土に足をつけ、他民族に銃口を向けてしまった日本人(個人)の姿と重なり合う。

 それは、現在の日本は日米安保上から、米国の政策に無批判的になって北朝鮮と敵対し、制裁と圧力だけを強化していることを言っているのだ。

 このような行為と思考こそ、過去の問題を清算できずに、それ以上に北朝鮮に対しては過去の戦争をまだ継続しつつ、新たな「銃口」を向けていることになるからだ。

 日本は北朝鮮に対しては、現在もまだ「戦争」の影を色濃く引きずっている。

 否、行使 (戦時中)していると言ってもいい。

 私には以上のような思考があったがため、 731部隊の「悪魔性」が米国というツールを通じて、朝鮮半島にも及んでいたことを、少しみていきたいと考えた。

            
                232.jpg
                   731部隊長であった石井四郎と北野政次

                    262kai.jpg
                  旧満州とモンゴルの境界に建てた国境碑(現物)


2.朝鮮戦争と細菌兵器

 米国の歴代政権(特にタカ派のジュニア・ブッシュ政権時)は、北朝鮮を悪魔だと決め付けて、「次なる戦争(第2次朝鮮戦争)」のとき、北朝鮮は必ず米軍部隊に対して生物兵器を仕掛けるだろうと、恐怖感をもって喧伝していた。

 このブッシュ発言は、現在にもつながる米国の北朝鮮への目的や行動、思考法そのものであり、また、50年代の朝鮮戦争時の自らの行為を想起していたものだろう。

 米軍は朝鮮戦争で、朝鮮と中国東北地方に細菌爆弾を投下し、多くの朝中一般民衆を被災させたことを、人類に対する犯罪だとの認識にはまだ到達していないようである。

 中国政府は、朝鮮戦争で細菌作戦を行った米空軍捕虜19名の供述書を、雑誌『人民中国』 (1953年)に発表した。

 以下、その主な供述をみてみよう。(注は筆者が記す)

イ.「1952年1月13日、米空軍B-26爆撃機で細菌戦を実行中、朝鮮安州上空で撃墜された」 (米空軍飛行士K.L.イノック中尉と操縦士ジョン・クイン中尉)

ロ.「戦争を成功裡に急速に終わらせるためには、北朝鮮と中国の東北地方で細菌戦を行うことが必要であった」(米空軍第4戦闘機連隊第4戦闘応撃機大隊第363戦闘応撃機中隊操縦士ヴァンス・ R・フリック少尉-52年10月9日証言)

ハ.「細菌戦は、できるだけ早く戦争を終わらせる事にあった」(第334戦闘応撃機中隊チャールス・M・カー少尉-52年5月23日証言)

ニ.「油槽缶型の容器と細菌爆弾の弾体と信管などはみなアメリカでつくっており、細菌そのものは東京近郊のある工場でつくられるのです。これらの細菌類は容器につめて、空路朝鮮にある二つの細菌兵器庫(注-釜山と大邸の兵器庫)へ運びこまれます」(米空軍第58戦闘爆撃機連隊副連隊長アンドリュー・J・エヴァンス大佐-53年8月18日証言)

 雑誌『人民中国』は米空軍捕虜たちの証言から、次のような結論を導き出していた。

 「アメリカは、日本の細菌戦犯石井四郎などの力を借りて、日本軍閥が行っていた細菌戦の実施方法についての研究を受け継ぎ、いろいろな細菌兵器の製造を発展させた」とし、「つねに細菌を撒布する任務と普通の爆弾を投下する任務が同時に行われるようにし、朝鮮・中国人民に悟られないようにした」と断じている。

 これらの証言などから、この時の米軍の細菌作戦は、人口が密集していた地点や軍隊の集結地、交通の要所や道路、鉄道、橋梁などを爆撃して破壊した後に、細菌兵器を投下していたようである。

 こうした方法は、鉄道や道路の復旧工事にあたる労働者たちを伝染病に感染させ、復旧工事を遅らせたりさまたげることと、細菌爆弾の投下作戦を隠すためでもあったようだ。

 川や飲料水にも細菌をばらまいたりしていたから、小さな子供たちまで感染した。

 私は1996年に平壌を訪問したおり、細菌戦の被害にあった4人の男女に取材をしたことがある。

 彼らは50代後半の教員、農場員、医師たちで、10代前半に感染被害にあっていたから、当時の状況をよく記憶していた。 (それぞれ52年に被害にあったと言っていた)

 一機、または数機が低空飛行してきて、爆撃のあとに奇妙な爆弾を投下したという。

 爆撃の後には必ず蠅、蚊、蜘蛛などの小さな虫たちが、特に空爆で出来た水溜りなどに、それらの虫が多く集まった。

 何も知らない子供たちは、そんな虫たちを追っかけていたから、感染力も高かったようだ。

 そのために大人たちも伝染病を患い、死亡した人たちも多くいたという。

 教員だった女性の場合、ペストに感染して20数年間も下痢や体調不良に悩まされて、全く仕事が出来ず、貴重な青春時代を犠牲にしてしまったと涙した。

 朝鮮人や中国人の被害者のなかでも、ペストに感染した被害者たちほど長く苦痛にさいなまされて、自らの被害体験を語り出す事さえできず、なお絶望感を経験している。

 ペスト患者の最後が、身体の激しい変形や変色、悪臭を放つ排泄物などと、強い伝染性などによって、被害者家族までが親戚や近隣の人たちから疎遠されて、社会生活さえ支障が生じていたからである。

 さらに、彼らを社会から孤絶させていたもう一つの理由は、病気の原因が米軍の細菌爆弾によるものであることを、社会がまだはっきりと認識していなかったことにもある。

 そのため、彼らは何も語る事ができず、告発することもできずに亡くなり、死亡後も多くは社会に迎えられず無縁墓地に埋葬されるという、理不尽な現実にさらされていたようだ。 (注-石井四郎自身も、そのようなことを知っていたからか、ペスト菌の兵器転用への発想をもち、それに力をいれていた)

 米軍が行った細菌戦・化学戦の事実と告発及び記録資料を集めた展示物が、北朝鮮の黄海南道信川(シンチョン)の「信川博物館」第2号館(98年9月に開館)にある。

 1958年にオープンした博物館内には、50年10月17日から12月7日までの52日間、信川郡住民の4分の1にあたる3万5383人もの一般住民が、米軍によって虐殺された人々への鎮魂の場であり、米帝国主義の蛮行を糾弾する場でもあった。

 防空壕に強制的に閉じ込めた住民をガソリンをまいて焼殺し、母親と子どもたちを無理やり引き離した後、別々の倉庫に閉じ込めてガソリンを撒き火を放って虐殺するなど、この展示館を訪れば、余りにも酷い米軍の蛮行に身震いし、言葉さえ失ってしまうだろう。

 ピカソが1951年に、軍人(米軍)が裸になった妊婦と子どもたちに銃を向けている姿を措いた油絵、『朝鮮の虐殺』をご存じだろうか。

 偉大な芸術家が、この場所での米軍の蛮行に怒り、世界の人々に告発したのだ。

 米軍が使用した細菌爆弾は、約1メートル50センチの鉄板製(磁器のもあった)の弾体で、中は4室に仕切られた筒内に、マラリア、ペスト、腸チフス、発疹チフス、赤痢に感染させた蠅、蚊、蜘蛛、蚤などの毒虫を詰めていた。(米空軍第4戦闘応撃機連隊第4戦闘応撃機大隊長ウォーカー・M・マフリン大佐の証言)

 尾部に4枚の鉄羽根が取り付けられていて、目的地に安全に落下できるような仕掛けになっていた。

 731部隊の石井四郎がGHQに提出した細菌爆弾のデータは、細菌容積容量や弾筒性能の違いなど、計9型あったようである。主に実戦使用していたのは、「宇治型」と「ガ型」であった。

 宇治式は弾筒が陶磁器からなり、高度2-300メートル上空で爆発、中から多彩な細菌溶液が出てくる仕掛けとなっていた。爆弾の大きさの違いで、それにも3型ほどあったようである。

 ガ型はガラス製の弾筒を使用したもので、これも多用したようである。

 朝鮮戦争時に米軍は、宇治型とガ型の改良を使用したようである。

 52年2月22日付けの新華社(中国)電は、次のように伝えている。

「・・・本社前線記者の報道によるとアメリカ軍は、いま、朝鮮前線や後方に対して正義と国際法に違反して、朝鮮居住民や、朝鮮・中国人民部隊の大規模な殺戮を日的とし、人間を絶滅しかねない細菌戦争をおこなっている。

 今年の1月28日から2月17日まで、アメリカ侵略軍の軍用機は、連続して朝鮮のわが軍陣地と後方部隊に、大量の細菌と各種毒虫を散布した。

 1月28日、敵機は伊川東南、金谷里ほか一帯の地上に、細菌の付着した三種類の昆虫(注-これまで朝鮮ではみなかった黒蠅、蚤、蜘蛛)を散布した」

 具体的な報告をしていた。

 これに対して米・国連軍当局側は、こうしたことは「共産主義者の政治的宣伝であり、事実無根だ」などと、否定する回答を行っている。

 朝鮮および中国側は国連に提起した。

 国連はそれでも「国際科学委員会」を編成(スウェーデン、フランス、イギリス、ブラジル、イタリア、ソ連)し、52年8月に朝鮮・中国の被災地に出向させて調査した。

 報告書で、朝鮮と中国の人々は実際に、バクテリア兵器の標的とされた。これらの兵器は、米軍機が用いたものだと結論した。

 しかし米国の力によって、そのような意見は国連には反映されず、国際社会からの関心を引くようなこともなかった。

 まして、53年7月27日の停戦協定にも盛り込まれなかった。

 こうして米国の恐るべき犯罪は、「なかった」かのようにして隠蔽されてしまった。


                    329kai.jpg
                          マルタをつないだ鎖

                265.jpg
                          特移の細菌実験 写真


3.米国と石井四郎の裏取引

 極東国際軍事裁判(東京裁判、46年5月3日から48年11月12日)の開延にあたって、ソ連は関東軍第731部隊の石井四郎以下、指導幹部たちの取り調べと処罰を要求した。

 これに対してGHQは、石井四郎以下の幹部たちの所在は不明で、731部隊は戦犯に値しないとする見解をソ連側に伝えた。

 石井四郎ら731部隊の高級幹部たちは、研究資料とともにハルビンから逃亡し、いち早く日本に帰国(遅くとも8月25日までには)し、 GHQからの逃避生活を送っていた。

 が、46年1月にGHQは、石井四郎の潜伏先を突き止めた。

 石井四郎は、 731部隊の情報はすべて米国側に提供するから、その代わり戦犯免責の約束を文書でもらいたいと、マッカーサーに要求した。

 米国側の東京(GHQ)とワシントン (米国務省)とのロング協議の結果、「石井らに戦犯免責の言質は与えないが、米国当局は、米国の安全保障上の見地から、石井とその同僚に対し、戦争犯罪の責任は追及しない」(47年9月8日)と決定した。

 この時の米国は、日本の細菌戦の経験は、今後の米国の細菌戦研究計画にとって、大きな価値を持つものだと判断したようだ。それは対ソ連に対してである。

 石井らを戦犯追及することによって生じる価値を越えるほどの価値とは、 731部隊の研究成果のすべてを独占し、ソ連側に渡さないことが米国家安全保障上でもっとも、価値があると判断したことになる。

 石井らの情報をソ連側に渡さない(妨害)ために、以後はウイロビー少将(参謀第2部、G2)らが中心になって動き、日本の細菌戦・毒ガス戦の証拠いっさいを、東京裁判に出さないために努力した。

 その裏には、情報の独占とともに、原爆投下の責任についての提起を恐れていたためで、 731部隊の存在や細菌戦の存在まで認めないという、徹底した秘密作戦を取った。

 これらは軍事的利益を優先させた、米国一流の政治的判断であった。

 同時に、日本軍によって捕らえられていた米捕虜たちが戦後、米政府に対して、 731部隊の悪魔性への真相究明と、捕虜虐待に対する補償要求を出していた。

 戦前、満州・藩陽(当時は奉天)に日本軍の捕虜収容所が存在していた。

 そこに南方戦線で捕らえられた米英人などの連合軍捕虜たちが、多数収容されていた。

 731部隊では、人種によって細菌兵器に使われる菌株に対する効力の違いなどの調査資料のために、彼ら連合軍側の捕虜たちを使用していたのだ。

 彼らの血液を採取したり、実験的なワクチンなどを接種したり、検査のため収容所内で発生した赤痢などの伝染病での死亡者を解剖することなどを行っていた。

 こうした内容を米政府に報告していたのだが、米政府は彼らの報告と要求を無視し、無かった事として沈黙を守り通した。

 731部隊の細菌兵器開発用の、生体実験データを独占するため、731部隊の犯罪と闇取引をした米政権は、自国軍の被害者の声まで「抹殺」して、国際的にも国内的にも「秘密」を持ってしまったことだけは事実である。


                340.jpg
            安達特設実験場の模型-10~15メートル間隔にマルタをくくりつけた


4.毒ガス弾と細菌弾

 人類史上、究極の兵器と言われる毒ガス及び細菌兵器は、どのようにして出現してきたのであろうか。

 第1次世界大戦(1914年~18年11月)は、飛行機、戦車、機関銃、長距離砲などとともに、化学兵器(毒ガス弾)の近代兵器が著しく発達した戦争であった。

 その毒ガス戦を告げたのは、開戦から9カ月後の1915年4月22日、ベルギー・イーブル付近のドイツ軍が、フランス・アルジェリア軍に向けて、大量の塩素ガスを放射したことから始まる。

 その後、大戦に参加したイギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの欧米諸国が、化学戦の研究と開発を推し進めていった。

 化学戦・毒ガス弾の出現に刺激を受けた日本は、1916年頃から資料収集と研究に取り組んでいる。

 1927年8月、広島県豊田郡大久野島(忠海町)に、陸軍造兵廠火工廠忠海派出所が設置され、毒ガス弾の製造をはじめた。

 この時から瀬戸内海の大久野島は地図から消されてしまった。

 日本軍が最初に毒ガス弾を使用したのは、1930年10月末、台湾・霧社事件である。

 日本の過酷な植民地支配に抗議し、蜂起した台湾中部の先住民タイヤル人に対して、日本軍(台湾軍)は徹底的に鎮圧するため、ガス弾(青酸ガス弾)を使用した。

 毒ガス兵器開発において日本は、後進国であった。

 その毒ガス兵器と毒ガス戦に異常な関心を寄せていたのが、若き軍医の石井四郎であったのだ。

 石井四郎は、千葉県芝山近くの加茂村(現、成田空港の近くで、拡張工事などで田畑が随分と削られてしまった)で、 1892年6月に生まれた。

 京都帝大医学部を卒業後、陸軍軍医学校、東京第一衛戌病院に勤務の後、京都帝大大学院に移る。大学院では細菌学、血清学、予防医学などの研究を行い、その研究の延長上から1928年、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ソ連、アメリカなど、欧米25カ国を視察旅行した。(視察というよりは、毒ガスや細菌戦などの情報収集による、スパイ活動ではなかったのかと言われている)

 1930年に帰国後、陸軍軍医学校教官(少佐)となり、細菌戦の必要性を強く唱えるようになった。

 彼の細菌戦プランを受け入れたのが、永田鉄山・石原完爾ら関東軍閥 (陸軍統制派)であった。

 以後、石井四郎を首班とする軍「細菌研究所」を経て、1933年に中国東北地方のハルビン・平房(ビンファン)に、細菌部隊の第731部隊が出現した。

 表向きは「関東軍防疫給水」部隊と称して、常時3000人近い隊員とその家族、軍属として配属されていた医師・研究者たちが、4つの部と20余のプロジェクト・チーム(研究班)に勤務していた。

 ところで、満州事変後の1932年2月から34年末まで、国際連盟ジュネーブ一般軍縮会議が開催されていた。

 日本代表は、化学兵器・細菌兵器特別委員会(32年11月24日)で、次のような主張を行っている。

 「催涙ガスはその害毒の程度において顕著なるものには非ざるべきも、これを一般攻撃に併用するときは甚だしき惨害をかもすに至るべきを以て、そのガスと個別の取扱をなさず、これを禁止の範囲内に置くべきものなり」

 戦場での催涙ガスを通常兵器と併用して使用すれば、大きな被害をもたらすから、使用は禁止すべきだと主張したのだ。

 それ以外にも、化学兵器・細菌兵器・焼夷兵器などの使用の絶対的禁止(相互主義の反対)、平時軍隊での訓練の禁止、平時における化学兵器などの準備禁止、防御的器材・物体の禁止、報復的使用の禁止-などの主張をしていて、全く正当な内容を展開していた。

 国内で細菌兵器の研究がまだ進んでいなかったための、国際社会への牽制球的言辞であったのかも知れない。

 同じ頃、中国側の提訴により、満州事変調査のため国際連盟理事会が、イギリスのリットン氏を団長とする米、伊、独、仏各国委員の調査団(リットン調査団、約40人)が、1932年 2月から約5カ月かけて中国、満州、日本を回っていた。

 調査団に敵意を持っていた日本軍部(特に関東軍)は、731部隊が生体実験したコレラ菌をつけた果物を一行に差し出して、全員の病殺を企てた。

 幸い、この事件は失敗に終わっている。(元 731部隊の高級軍医の証言)

 国際連盟での提言とこの幼稚な事件との関連こそ、帝国主義者の二面性をよく表現している事柄である。

 そうであるから、国際連盟での立派な言葉は、発言と同時期に、日本軍隊の実際の行動によって、自らで裏切っていくことになる。


5.731部隊の犯罪性

 日本軍は日中全面戦争(1937年7月)以降、特に中国東北地方では、「討匪」 (抗日パルチザン)を名目とした一般住民にまで、催涙ガス、毒ガス、細菌作戦を実行している。

 同時に、ハルピンの731部隊の関連施設の建設が、急速にその数を増やしている。

 ところで、瀬戸内海の大久野島での毒ガス弾生産も、日中戦争後は上昇している。

 大久野島の主要毒ガスは、イペリット、ルイサイト(びらん性、持久性)、青酸、塩化アセトフェノン、ジフェニールシアンアルシンなど、すべて国際法上使用を禁じているものばかりであった。

 これら毒ガス成品を1939年8月、満ソ国境のチチハルの関東軍技術部隊に移送し、毒ガス弾をノモンハン事件に使用している。

 関東軍技術部隊は41年、「満州第516部隊」となり、第731部隊の兄弟部隊として、共同で毒ガスの人体実験などを行っていく。

 中国ハルピンと瀬戸内海の大久野島とが、石井四郎を頂点として結び付いてしまったことになる。

 関東軍憲兵隊は38年1月26日、「特別移送」(マルタ)指令を出し、移送する捕虜の基準を規定している。

 それによると、各地の憲兵隊が中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人などの抗日運動家や反満分子らを、スパイや思想犯として逮捕し、厳しい尋問と酷い拷問を行ってから、重罪と思われるものを正式の裁判を受けさせることもなく、731部隊に送り、細菌兵器開発の研究用の被験者として提供するよう、指示を出したのだ。

 「特別移送」とは、捕虜を731部隊に送って研究材料にすることで、隠語で「マルタ」と呼んでいた。

 捕虜 (マルタ)の輸送は、各地からハルピン駅までは列車で、駅から731部隊のある平房までは、幌と鎖付きのトラックで特別移送した。

 元ハルビン日本領事館の地下室は、捕虜たちを一時期隔離しておくための施設として使用していたから、領事館も特送任務を担当していたことになる。

 1938年から45年8月までの7年間の特移扱は、6000人を超えるのではないかとの調査もある。(元ハルピン731部隊罪証陳列館館長の金成民)

 一方、元隊員たちの証言によると、監獄に送り込まれてくるマルタを、医学者たちは2日に3~4体のペースで生体実験を行っていたとし、その惨たらしい犠牲者は1939年から45年の7年間で、おおよそ3000人以上ではないかとしている。

 ソ連軍参戦が知らされ、撤退することになった8月10日現在、監獄には 40数人の捕虜が収容されていた。証拠湮滅のため、10日、11日と彼らを青酸ガスで毒殺した後、ガソリンと重油をかけて焼却し埋めた。

 8月10日早朝の関東軍指令部からの命令は、「ソ連軍の進撃速度大、 731においては、独断専行(一刻も早く、独自の判断で退却せよ)してよし」というものであった。

 関東軍指令部も東京との連絡がつながらず、9日からのソ連軍攻撃にあわてており、各部隊独自判断の行動を伝達するのが精一杯のようであった。

 731部隊内では11日から証拠物を焼却し、隊員・研究者・家族たちも、それぞれが逃亡準備に集中した。

 中国人労働者たちの証言では、8月11日から14日まで、毎日1本の貨車(部隊内まで専用線が施設されていた)が入ってきて、中国人労働者たちに運ばせた食糧や日用品と一緒に、日本人隊員・家族たちがグループに分かれて退却していったという。

 731部隊の幹部たちは、戦後、全く口を閉ざしている。

 特に生体解剖を行った軍医たちは、帰国後に大学の医学部や民間研究所に職を得て(戦争のため、人材不足であったとしても)、何等の反省も責任も感じず、敗戦後の日本医療部門のリーダーになった。

 医学部門だけではなく、すべての部門で彼らのことを問題にしてこなかったがために、加害者意識を置き忘れた平和論や、無責任日本を形作ってしまった。
                                                                                               (後編に続く)

「3・11に届けられた声」

「3・11に届けられた声」

                                               名田隆司

1.
 2011年3月11日、東北3県を中心に大震災と大津波 (東日本大震災)の大惨事が襲った。

 被害者への支援と声援は、日本各地からだけではなく、世界の各国・団体から今も届けられている。

 多くの人々からの支援と声援のなかでも、災害直後に朝鮮半島の2カ所から届けられたことに、私は強い印象をもった。

 一つは、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)からのものであった。

 挺対協は、日本軍「慰安婦」問題の解決を求めて1990年に結成し、92年から活動と主張の中心を、日本軍「慰安婦」ハルモニたちと共に毎週水曜日12時に、ソウル市鍾路区中学洞 (チョンノグ チョンハクドン)の日本大使館前で、「水曜デモ」を開いてきた。

 日本大使館をガードする大使館前の警官隊に向かって毎回、数人のハルモニたちと性別、年齢、国籍(日本人もいる)の異なる人々が、「日本政府は日本軍『慰安婦』に対して公式謝罪し賠償せよ」と、声を合わせて叫ぶ。

 赤いレンガ塀の日本大使館はいつも、大きな鉄扉を固く閉ざして、無人の監視カメラだけがデモをする人々を見つめている。(このような風景は、個人賠償問題に対して、歴代の日本政府が取ってきた姿を象徴しているようだ)

 抗議デモは雨の日も、風の強い日も、暑い日も、冬の寒い日にも欠かさず続けて、2011年12月には1000回に達し、今もまだ続けられている。

 このように長い期間続けられてきたデモは、世界に例をみないという。

 これほど長い間デモを行ってきたということは、日本が過去の歴史を未だに清算していないことを意味している。

 デモの主催者側は、デモの回数を重ねていくことに意味があるのではないという。

 日本軍「慰安婦」ハルモニたちの怒りの声を日本政府に届け、日本政府から彼女たちへの謝罪と賠償をもって終了することを願っている。

 だから、問題が解決し一日でも早くデモが終わる事を願って、デモを続けている。

 日本の東北3県を襲った東日本大震災があった3月11日は金曜日だった。

 この大惨事と多くの被害者たちのことを心配したハルモニたちは、「今度の水曜日は、日本の被災者のための追悼集会にして、自分たちの水曜デモは次にしよう」と提案した。

 そして彼女たち自身は、それぞれが10万ウォンずつを封筒に入れて、被災者支援の募金を始めるために動いた。なんと優しい心根だろうか。

 ハルモニたちにとっての水曜デモは、自らの尊厳を取り戻すための大切な場所であって、貴重な時間のはずであった。

 私はこのハルモニたちの言動と心情を知ったとき、なぜか涙が出てきて、涙を止めることが出来なかったことを覚えている。

 国籍や性別、時代を越えても、苦痛と悲痛を体験した者の共感、それを人間的に共有していくことができるという、かくも美しく結ばれていくことを改めて理解した。

 それにしても、その正反対に位置している日本政府の、人権政策への鈍感さに強い怒りを覚えたものである。

2.
 もう一つは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮赤十字会が3月24日、東日本大震災の被害者に見舞い金10万ドルを、同時に金正日総書記が在日同胞被害者に50万ドルを、それぞれ送ったことである。 (実は、95年の阪神大震災のときにも、04年の新潟県中越地震のときにも、それぞれ日赤を通じて見舞い金が届けられている)

 マスコミはそのことを全く報道していなかったから、多くの日本人は今に至るもそのことを知らないのではないか。

 日本赤十字社に集まった一般的な見舞い金・支援金として扱われて、被害を受けた東北 3県の人々も知らないのではなかろうか。

 加えて、被害を受けた福島県の朝鮮学校への支援の手は、十分には延びていないというひどい状況のことが伝えられている。

 厳しい経済建設の最中、北朝鮮は隣国日本の大惨事・被害に対する見舞い金をいち早く提供した.金額の多寡より、その行為と意思と誠意こそが、日本にとって何より貴重ではなかったろうか。

 特に東北3県の人々には、そのことを知っておいてほしいと考え、この原稿を書いている。

 東北在住の在日朝鮮人たちの多くが、今回の被害を受けていたから、金正日総書記はいち早く支援の手を差し延べ、彼等の事を決して忘れてはいないというメッセージを送った。

 同時に日本人被害者へも、同じようなメッセージを送ったのだと思う。

 朝鮮解放後からずっと、日本と米国から一貫した敵視政策と、圧力政策を受け続けてきた北朝鮮は、それでも自主政治と自立的民族経済建設とによって、あらゆる困難性を克服しながら社会主義体制を誇っている。

 大震災によって、瞬時に家族と資産、家屋や仕事まで失ってしまった日本人被害者たちの悲哀感と喪失感とを、朝鮮人たちは共有できていたのではないだろうか。

 植民地支配によって国も言語も名前も財産さえも日本に奪われながら、祖国を収り戻し、新しい国を建設していったことを、その勇気と努力のメッセージを、日本人被害者に伝えたかったのではないだろうかと、私は理解している。

 執筆していた『強盛大国へ向かう朝鮮』の最後の取材を兼ねて、3月下旬に平壌を訪れた。

 原稿の最後の部分に入れるため、強盛建設に取り組んでいる人たち、様々な職種の10人ほどの人たちをインタビューしたときのことである。

 取材を受けてくれた誰もが、東日本大震災被害の見舞いの言葉を伝えてくれたことに、私自身びっくりした。

 討論を行った幹部や学者たちからも、すでに丁重な見舞いの言葉を受けていたので、インタビューのため初めて出会う一般の人々からまで、見舞いの言葉を受けようなどとは予測もしていなかったので驚き、感謝の言葉を伝えた。

 インタビューで彼らに、日本のこと、過去の清算問題のことなどについても質問をしていた。

 ある若い女性は「日本は自らの過去の清算に対しては何もせず、逆に今は、悪法でもってわが国に臨んでいます。でも、友好的な人民たちもいるので、その人たちと仲良くしながら朝日両国の友好を築くようにしたいと思います。

 また、東北大震災で被災された方々には、人道的な立場から一日も早く復興し立ち直られることを願っています」と、一気にはなしてくれた。

 彼女の前半の話は、厳しい内容ではあったが、真っ当なことを言っている。

 多分、朝鮮人ならどこに住んでいようとも、共通して持っていた認識ではなかったろうか。日本は自らの過去について、未だにしっかりとした責任も果たしていないし、謝罪もしていない。ましてや清算もしていない。

 日本の歴代政権は、口を開けば1965年の日韓基本条約と日韓賠償請求権条約で、問題は解決していると主張してきた。

 仮に、日本政府が言うそれらの条約によって「賠償請求権」が解決していたとしても、それはあくまでも韓国(南朝鮮)とだけであって、共和国(北朝鮮)との賠償問題は残されたままなのである。

 さらに韓国側にあっても、個人賠償請求権は「条約」によっても未解決であったことが、明らかになってきた。

 その一つが、日本軍「慰安婦」ハルモニたちの叫びとなっているのだ。

 だから、北朝鮮の若い女性が言った「日本は自らの過去の清算に対しては何もせず、逆に今は、悪法でもってわが国に臨んでいる」との発言こそ、現在の日本の姿勢を.正しく言い当てたことになる。それは忠告でもあった。

 その上で,東北3県被害者への哀悼を伝えてくれたのだ。

 一瞬私は、そのギャップに戸惑ってしまったものの、多くの人たちから同じように哀悼の言葉を聞いていたから、それが北朝鮮側からの正直なメッセージだろうと受け止める事ができた。日本側も彼女たちの哀悼の気持ちを、素直に受け止めるべきではなかろうか。


3.
 大災害から一年余、被災地では東京電力福島第1原発事故による放射能汚染問題が深刻化している。

 そのため被災地への復興も、被害者の生活再建も、予定よりは随分と遅れていて、政府の政治的責任問題が追及されている。

 同じ事で、水曜デモを中止して追悼集会を行った日本軍「慰安婦」 ハルモニたちの心情を踏みにじる行為を、一部の日本人たちが繰り返し行っていることだ。

 ソウルの日本大使館前にある「少女像」 (慰安婦を象徴)に、「竹島は日本固有の領土」と書いた杭を縛り付け(6月)、米ニュージャージ州パリセイズパーク市にある軍慰安婦碑にも同一文言の杭を縛る(10月)などの行為が発見された。

 このような行為は、ハルモニたちの名誉と尊厳を著しく傷つけるだけではなく、戦前戦中の朝鮮人への侮蔑的な行為を再び繰り返していることになっている。

 彼らにそのような行為を平気でさせているのは、野田政権にこそ責任がある。

 韓国政府や国連人権委員会などから再三、日本軍「慰安婦」たちへの謝罪と賠償請求に応じることを求められてきたにも関わらず、1965年条約によって解決済みとの態度から、まだ一歩も出ようとしないそのような態度に問題が潜んでいるのだ。

 そうした野田政権の硬直した、歴史オンチの態度が、竹島問題を引きだして日本の右翼を元気づけてきた反面、多くの戦争被害女性たちの名誉や尊厳を著しく傷つけてきた。

 一方、北朝鮮との関係は、「拉致問題」で立ち往生したままで、日本人遺骨問題(敗戦直後、北部朝鮮で亡くなり埋葬された人たち)さえ、責任をもった協議を進められずに右往左往している。

 一年数か月前、東日本大震災被害への見舞い金が、北朝鮮から届けられたということを、野田政権は知っているのだろうか。

 知らないはずはないし、知っていたのなら、今年の夏、北朝鮮が台風と大雨による水害に見舞われていることに、見舞いの言葉と支援があってしかるべきであったろう。

 それが人道的と名付けようと、隣国への義理と名付けようと、どのような名称でも構わなかったから、見舞いと支援を行うべきであった。

 そのことが、東日本大震災見舞い金へのお返し的意味もあったとしても、現在の硬直した日朝関係を少しでも動かせるキッカケになっただろうと思う。

 固く閉じたままの日朝間の扉を少しでも動かすことになれば、現在の問題である、日本人遺骨問題、拉致被害者問題、過去清算問題、日本軍「慰安婦」問題などへの解決に光明が射し、解決への出口を探り当てることが出来たかも知れなかった。

 こうした点でも野田政権は愚鈍で、人権感覚に欠けた、どうしようもない政権だ。

 人権感覚に欠けているからなのだろう、被災地への復興ビジョンもまだはっきりしない。


                                      2012年10月29日 記

「第3報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」

「第3報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」

                                               名田隆司

1.
  4年ぶりに開かれた日朝政府間交渉が、案の定、膠着状態に陥っている。

  10月31日、「北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会」会長代行の泉田裕彦・新潟県知事らと会談した藤村修官房長官 (拉致問題相を兼務)が、今後の日朝政府間協議について、北朝鮮が課長級会合を再び行うことを求めていることを明らかにした。

 8月末の課長級協議では、次回を「より高いレベル (局長級)で、できるだけ早い時期に北京で開催する」ことで合意していた。
 
 しかし、その議題に関して、日本側が拉致問題を取り上げる事になるとしていたが、北朝鮮側は「本会談の議題に拉致問題を含めることを受け入れたというのは全く事実と異なる」と、反論していた。

 このため、その調整で9月、10月の2カ月間を空費してしまった。

 結局、拉致問題を議題化したというのは、あくまで日本国内向けのメッセージにしか過ぎなかったことが分かった。

  8月末の日朝予備会談自体が、日本人遺骨問題を円滑に解決するために、両政府間の関与が必要だとの見解の一致をみて開かれた。

 だから議題は、日本人の遺骨問題についてであり、その間題をさらに円滑に解決するために、局長級協議へとレベルを上げる事を日本側が要請した。

 そうした協議現場の内容を正確に報告せず、拉致問題が議題化したかのように加工言語を公表したがため、野田政権は身動きが取れなくなったまま、時間を消費してしまった。

 自縄自縛に陥ってしまっている。

 日本人遺骨問題については、拉致問題などで日本政府関係者が北朝鮮側と極秘接触していた2011年頃、終戦前後の混乱期に北部朝鮮で死亡した日本人と思われる遺骨が大量に見つかったとして、北朝鮮側が遺骨収集や埋葬地整備などの協議を提案していた。

 この時点でも日本政府内は、北朝鮮に対する制裁も解除していないし、拉致問題への解決も見通せない段階では、時期尚早ではないかとの意見が支配的となり、協議に否定的で遺骨関連の家族たちの意思を見殺す方向で動いていた。

 同時に、「全国清津会」(北朝鮮からの引き揚げ者団体)から出されていた墓参希望者のビザ申請さえ、「北朝鮮渡航自粛」を理由にして出していなかった。

 海外旅行をしたことのある人なら、パスポートを提示する出国ゲート前に、大きな活字で「経済制裁の一環として、日本人に北朝鮮への渡航自粛を求めています」との、掲示板があることに気付かれたことだろう。

 北朝鮮への渡航制限だけではなく、平壌からアメ玉1個さえ日本国内に持ち込ませないという態度が、現在の外務省の態度である。

 北朝鮮との関係で、人・物の交流を大幅に制限をしているから、必然的に政府間協議の窓口も閉じてきたことになる。

 このように交流窓口のすべてを細めたり閉じたりしているから、北朝鮮との緊急的なことや人道問題の解決さえ、自らでは交渉や解決が出来なくなっている。

 そのようなことにさえ気付いていないのが、現在の日本社会ではないか。


2.
 今年4月、金日成主席生誕百周年の日本側慶祝団の一人として参加し、宋日昊(ソンイルホ)日朝国交正常化交渉担当大使と会った。

 彼は日本人遺骨問題に関して、墓参や調査のことがあるので、民間団体の訪問をいつでも受け入れる(かたくなな日本政府の態度のために)用意があるとし、都市開発の途次で発見したため、遺骨は埋め戻しをして保管している状態だと言った。

 強盛建設のため道路、住宅、公園等の開発を行っていて、日本人らしい遺骨を大量に発見したのだという。

 この遺骨問題を丁重に解決し、早く都市開発建設にかかりたい、というのが北朝鮮側の原則態度ではなかろうか。

 だから局長級協議にも応じ、早期の円滑解決を進めようとしたのだと思う。

 ところが、日本側から「拉致問題」の先行議題が持ち出されたため、協議が進まなくなってしまった。

 その間、日本側の当事者たちは、「北朝鮮地域に残された日本人遺骨の収容と墓参を求める遺族の連絡会」(北遺族連絡会、10月9日に結成)が、遺族、外務省、北朝鮮への調整を行っていくことを確認した。

 すでに墓参・調査などで北朝鮮を訪問した人たちは、30人近くを数える。

 まだ多くの人たちが訪問を希望し、申請を行っているという。

 北朝鮮を訪問した人や申請をしている人たちは、70歳代後半から80歳を越えていることから、彼らが安心して墓参し遺骨を収集できる環境を、早急に整える責任が日本側にある。

 この間題では、日朝双方とも早期に協議し解決することが求められていることになる。

3.
 昨年後半頃から、拉致被害者家族会メンバーの一部から、政府間交渉で拉致問題を早期に解決することを要求するようになった。

 彼らが従来、北朝鮮への圧力と制裁を強化し、拉致問題以外では何も協議するな、と主張していたことと、方向転換をしたのだろうか。

 「制裁」ということと「交渉」ということとの開きは、まるで正反対だ。

 「交渉」を主張するようになった理由を、彼らからまだ聞いていないため、実際に方向転換をしたのかどうかも分からないが、 4年ぶりの政府間交渉への期待を語っているのだろうと思う。

 そのことは、これまで政府が拉致問題を優先して取り組むと言ってきたことは、すべて空念仏でしかなかったために、北朝鮮との交渉の窓が開いたことで、その期待感への圧力を一気に政府にぶっつけているのだろうか。

 しかし今回のことは、日本人遺骨問題の解決のために始まり、その円滑解決のための交渉であることを、彼らも知らぬはずがないだろう。
 
 であるとすれば、基本議題ではない拉致問題を強引に議題化させて、先拉致問題の解決を強調すればするほど、始まろうとしている日朝政府間協議さえ、つぶしてしまうことになりかねないことの理解は誰にでもできるだろう。

 4年ぶりに開かれようとしている協議を、つぶしてしまうことに、彼らにとってもどれほどの意味があったのだろうか。

 ここは、日本人遺骨問題での政府間協議を続けて、引き続き日朝平壌宣言に則った交渉で、拉致問題解決の協議を行っていくことを提案する。

 拉致被害者家族会には、そのような度量を持ってもらいたい。

 北朝鮮での日本人埋葬地は現在、判明しているだけでも咸鏡北道古茂山や平壌市などで71カ所にも及ぶ。

 しかもその関係家族たちのほとんどが80歳前後と、高齢者ばかりである。

 墓参、調査、発掘、埋葬、収骨などの北朝鮮側との調整問題は、「北遺族連絡会」だけでは手に余るだろう。遅れれば遅れるほど、訪問事業さえ難しくなる。

 日朝政府間交渉が急がれる所以である。

 政府や拉致被害者家族会の双方が、拉致問題が議題化しない政府間交渉など必要がないとの主張を押した場合、北遺族連絡会の人々を困惑させるだけである。

 立場と状況が違うとはいえ、拉致被害者家族会と北遺族連絡会とが、対立するような状況をつくってはいけない。

 その点でも、日本政府の責任は重大である。

 北朝鮮側が再提案してきた、日本人遺族問題解決への課長級協議の再開から始めて、難問解決の次のステップへと繋げて行く外交努力が、野田政権に求められている。

 と同時に、拉致被害者家族会はいまこそ、寛大な気持ちで先日本人遺族問題解決への政府間協議をと、度量を示すべき時にきているのではないだろうか。

 そうしてこそ、世論の一層の後押しとともに、難問解決に近付いていくのではないかと考える。


                                       2012年11月2日 記

「朝鮮関連本の『読書会』開催のお知らせ」

「朝鮮関連本の『読書会』開催のお知らせ」


1.ジャンルは、朝鮮半島関連の近現代史とし、

2.各自が好みの本を持ち寄って、各自講評し、問題テーマを抽出して共同討論する。その場合、1度に一冊すべてではなく、適度に区切って発表することも可。(ブログに掲載されている各種原稿の感想または意見でもかまいません)

3.定例会は基本的には、毎月第4日曜日の午後2時~5時とし、会場は「松山朝鮮問題研究会」会議室。(松山市三番町5丁目2の4ハヤシビル4F)

4.松山市以外(愛媛県外)の方及び当日参加できない方は、FAXまたは郵送での参加(書面参加)とする。

5.FAX、または郵送での参加の場合、
 
  書名、著者名、感想、意見、問題点、疑問点、質問、氏名、住所、電話などを明記して送ること。

  後日、主催者がまとめて、参加者(会員)に配付する。

6.主催/松山朝鮮問題研究会

  問い合わせ等は下記まで

7.連絡先/松山市土居田町544サーパス土居田東602
      TEL/FAX 089-971-0986番

「強盛大国へ向かう朝鮮」

               譁ー縺励>繧、繝。繝シ繧ク_convert_20120529134627

              -2012年4月、国際図書コンクールでの最優秀賞作品-

『強盛大国へ向かう朝鮮』


目次 第1章 運命の岐路に立つ
    第2章 朝鮮の選択
    第3章 歴史の奇跡
    第4章 統一運動への転換点
    第5章 国際環境の変化
    第6章 強盛大国の朝鮮
    
 以上,現代朝鮮を理解するためのテキストとなっている。


著者/名田隆司        発行/さらむ・さらん社
定価/2,000円(税込)  送料290円
申込/郵便振替番号 01640-4-31068


プロフィール

takasi1936

Author:takasi1936
愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR