「731部隊と朝鮮戦争」(後編)
「731部隊と朝鮮戦争」(後編)
名田隆司
6.ハルピンの「731部隊陳列館」を訪問

国際旅団の周保中、金日成、シリンスキー 43年10月当時

中国・北朝鮮・ソ連軍の国際第88旅団
私は今年の9月下旬、731部隊の遺跡地と「侵華日軍第731部隊陳列館」などを訪れた。ついでに、ハイラル、ハルピン、藩陽、撫順など周辺地を含む中国東北地方の旅をした。
ハルピン(哈爾浜)は、黒竜江省の省都である。
20世紀初頭、ロシア人によって開発されたこともあってか、現在でもロシア風建築や石畳の道路、町並み風景が残っている。
市街地に松花江の大河が流れており、 731部隊は実験用に殺害した捕虜たちの死骸や遺骨を、この河に捨てていたようだ。
中国を訪問した時期が、反日デモの盛んなときと重なったため、街並みなどはバスの中での見学になってしまった。その代わり、予定していた各展示館や施設では、警察官の護衛付きでゆっくり見学ができた。(中国人たちの入館を禁止して)
哈爾浜市平房区にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」は、元731部隊の残存建造物である。
入って正面の陳列館と事務室の建物は、731部隊の1号棟 (総務部、診察部、隊長室)と呼んでいた中心建造物で、2階建てになっている。
細長いレンガ造りの中央部の建物は、三角形の赤レンガ屋根のある近代建造物である。
正面右側の2階の端の部屋が、石井四郎が使用していたところで、現在は事務室としている。
この建物は2000年まで、地元の中学校の校舎として使用していたが、01年9月に展示館となった。
なぜ、731部隊がこのハルピンに建設されたのであろうか。
対ソ戦の準備、部隊の秘密保持(国内外)、被実験材料(マルタ)の確保が容易であったこと、だと731部隊の元第4製造部長の川島清がハバロフスク軍事裁判で証言している。
館内はテーマ別の12の部屋に分かれていた。
膨大な資料を整理し、細菌爆弾や実験道具の模型、当時の建造物や犠牲者たちの写真、細菌や毒ガスの投下実験、野外実験場などのパノラマなどで構成されていた。
展示写真の中に、東北抗日連軍隊員たちもいた。その一葉で、軍服姿の金日成(主席)と出会った。
写真は、国際連合軍当時の1943年10月に、ハバロフスクで撮影されたもので、周保中とソ連軍人のシリンスキーの間で写っていた。
同じ写真を以前、金日成回顧録『世紀とともに』第8巻の扉写真で見つけていた。
国際連合軍の編制は、朝鮮と中国東北地方解放を目的に対日戦の準備のために、42年8月にソ連のハバロフスクで結成された部隊である。
朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍、ソ連極東軍などで編制された。
形式上はソ連極東軍独立88旅団と称し、部隊の対外番号は8461歩兵特別旅団とした。
周保中は国際連合軍の旅団長、金日成は第1支隊(朝鮮部隊)の支隊長であった。
連合軍は当初、対日決戦に備えるために、朝鮮及び中国東北地方を小部隊による軍事偵察を主任務としていた。
周保中は解放後の46年、東北民主連軍副総司令員兼吉遼軍区司令員の肩書きで、国共内戦の指揮をとった。
国共内戦では、東北地方は重要な地域であった。このため周保中は、金日成に支援要請の使者を派遣している。金日成もまた周保中の要請に応えて、数千人の戦友 (旧パルチザン隊員を中心に)と物資を送っている。
後刻、毛沢東と周恩来からも要請があり、東北地方に居住していた朝鮮人を含めて数万人の志願朝鮮人部隊を結成し戦った。
朝中は現在でも、「唇歯の関係」を強調している。
それは、東北地方での抗日戦闘と国共戦闘、さらに朝鮮戦争で共に帝国主義と戦い勝利を共有したことを、誇っての表現である。
周保中は48年、吉林省政府主席兼東北区副司令員となり、家族と共に何度か金日成がいる平壌を訪問している。
金日成と周保中の二人は、生涯の戦友であった。
金日成は『世紀とともに』第8巻の「最後の決戦の日」で、次のように記している。
「最後の決戦のころを思い出すたびに残念でならないのは、ソ連の訓練基地で数年間、祖国解放作戦の準備を進めてきた朝鮮人民革命軍の主力部隊が従来の計画どおりに作戦をおこなえなかったことです。
わが軍が北部国境地帯で日本軍との交戦状態にあったとき、わたしは前線部隊の作戦を指揮するかたわら、空挺隊の朝鮮出撃準備を完了していました。
前線の状況に合わせて空挺隊を部分的に改編もし、武器や弾薬、装具類一式を新品で供給もしました。
そうして空挺隊はトラックで飛行場に向かいましたが、そこで引き返さなければなりませんでした。
それは、日本が突如として降伏したからです」
このことから、金日成らの朝鮮支隊は落下傘で平壌周辺に降下し、侵攻してくるソ連軍とともに日本軍を挟み撃ちで撃退する計画であった事が分かる。
それを裏付ける情報が、8月11日頃の731部隊の無線機が捕らえていた。
ソ連軍の交信から、15日にハルピンを含む東北地方一帯に、ソ連軍の空挺隊が降下してくるという情報をキャッチしていたのだ。
それで731部隊関係者は、14日までに荷物もろとも大急ぎで撤退したのであろう。
石井四郎ら一部幹部たちは、逃走途中の朝鮮南部の釜山辺りで、天皇の敗戦の弁を聞いていたのかも知れない。
展示館の出口通路の両面に、731部隊が行った実験で犠牲となった数百名の名前が刻まれていた。ここに出ている人達はごく一部ではあったのだろうが、捕虜を移送するときに形式的な尋問調書が作られ、それが残っていたため、名前が判明したと思われる。
大半は中国人であったが、数人のモンゴル人、ロシア人に混って、6名の朝鮮人の名前が読み取れた。
コチャンリョ、イキスウ、ソントクリョン、キムソンチョ、イチュチョン、チャ (名前不明であった)であったが、もちろん朝鮮人被害者が、この6名だけであるはずがない。
ハルピン近郊は、朝中合同部隊であった東北抗日連軍第2路軍 (軍長・周保中)がいたから、多くの朝鮮人パルチザンたちが活躍した場所であり、また反日反満人士たちも多く居住していた所である。
私は、長く彼らの名前を見つめながら、731部隊の蛮行によって、名前も所在も判らなくなってしまった他の多くの朝鮮人革命家たちの無念さに、涙していた。
翌日、ハイラル区にある市民公園に寄った。公園内に、伊敏河に掛かっていた伊敏橋の「断橋」が残っていた。
この断橋は、日本軍が早期に撤退する際に爆破したものだという。
断橋を見て私は、『世紀とともに』第8巻のなかの、ある一節を思い出していた。
「そのころ、関東軍の敗残兵が牡丹江の南にある鉄道のトンネルを爆破したのです。
敵は迂回道路に通ずる橋梁や牡丹江飛行場の滑走路まで破壊していたので、われわれは自動車も汽車も飛行機も利用できないありさまでした。それでやむなく牡丹江から極東基地に引き返し、ウラジオストクから軍艦で帰国の途についたのです」
金日成らはこの断橋にも妨害されて、結局、元山港に上陸したのは45年9月19日であった。
公園の中には、この断橋に向かって立つ小さな銅像があった。
銅像は、小さな子供の手を引いた日本婦人が、重そうなトランクを前に置いて、はるか東の方向に手をかざしている姿であった。
説明文がなかったので、中国人の旅行ガイドに銅像の意味を尋ねた。
像の婦人の目先の断橋はつまり、一般の日本人を置き去りにして、いち早く逃走した日本軍が途中の橋まで爆破して壊し、一般住民を無視していることを象徴しているのだという。
この断橋と婦人像が象徴していることは、帝国主義のもっとも醜い姿を象徴しているように思えた。

ハイラル平和公園内の「断橋」伊敏河に架かっていた伊敏橋

ハイラル平和公園内の「日本を望む母子像」
7.朝鮮戦争の原因
一般に朝鮮戦争の始まりを、1950年6月25日早朝(午前4時)、数個師団の北朝鮮軍が突然38度線を突破し南進したことを前提として、論をすすめている。
その結果として、金日成はソ連のスターリンと中国の毛沢東から事前の了解と支持を得ていたとし、だからこれは米ソの代理戦争だったと論評する人々が多くいる。
これらの人たちは、米国が国連安保理を活用したときの報告と論理を、そのまま信じているのだ。
そして奇妙に、6月25日説と米ソ代理戦争説とをセットで論を展開しているのだが、これらは米国側の情報だけを活用しているからであろう。
これこそ、北朝鮮軍に「侵略軍」とのレッテルを張り付けるため、米国は国連と国際社会で多くの真実を隠し通し、その上に事実を歪曲した「国連軍」を朝鮮半島に差し向け、多くの朝鮮人民を殺傷して、自身の犯罪を隠蔽する創作言語を多用した結果である。
日本ではまだ、その呪縛から解放されていないためか、引き続き、北朝鮮への敵視政策を施行している。そのような政権に多くの日本人も、疑問を呈したことがないようだ。
38度線付近では、特に西部及び中部戦線では、49年に入る頃から韓国軍からの軍事的挑発が絶えずあり、時には南北両軍の銃撃戦や越境事件などの小衝突が、当時から報告されていた。
50年の5月、6月頃は、韓国軍からの越境・侵犯事件によって、追跡した北朝鮮軍が38度線を越えての戦闘も増加している。
その頃から、韓国軍の規模の大きな誘因作戦が多発していて、どの時点での、どの小競り合いが戦争へと発展したのかについては、特定が難しい。
だから、朝鮮戦争での勃発を50年6月25日早朝だと断じることと、それが北朝鮮軍からだとすることには、なお、多くの疑問が指摘されている。
例えば、同じ6月25日の早朝 (午前 3時頃)、 38度線のすぐ北にある海州(ヘジュ)の町を、南の軍隊が挑発的に攻撃しているのだ。
それが大規模な北からの報復を引き起こして、本格的な戦闘が始まった可能性を指摘する研究者もいる。
海州は甕津 (オンジン)半島東部入江に面していて、38度線のすぐ北に位置している。
南朝鮮単独選挙・政権樹立に抗議して、48年8月25日、朝鮮民主主義人民共和国を創建するため最高人民会議代議員選出の南北総選挙が実施された。
南では地下選挙の形で360人(全議員572人)が選出されている。
その際、南で選出された代議員会議が開かれた場所が海州である。
海州を含む甕津半島は西部戦線地域で、朝鮮戦争の戦端が西部地域から開かれたとする説とも符号する場所となっている。
1950年当時、韓国海軍参謀総長であった李竜雲少将は回顧談(1977年)で、開戦に関して次のように発言している。
「6月23日、つまり戦争勃発の2日前、韓国陸軍参謀総長は『戦闘命令第2号』を発令した。これによって陸軍のすべての部隊は警戒体制に入り、『6月25日午前 5時を期して行動に入るよう』命令をうけた。
北にたいする来るべき全面的攻撃から、敵の注目をそらすための陽動作戦として、23日午後10時から部分的な攻撃戦が開始された・・・この攻撃戦で、海州地方攻撃の任務を帯びて小さな艦隊を指揮した」(ギャバン・マコーマック著「侵略の舞台裏」)
韓国海軍の李竜雲少将の告白は、6月23日の午後10時以後、韓国軍の陸・海軍が海州地方を中心に甕津戦線を攻撃したことを、はっきりと認めたことになる。
また、「6月25日午前5時に一斉攻撃」への命令を受けていたことも告白している。
ところが米国の公式戦史は、50年6月当初の韓国軍の攻撃や反撃については、いっさい認めず、記録もしていない。
従って、米国情報だけを信じた場合、北側からの侵攻説を当然視し、疑うことを知らないことになってしまうだろう。
さらにまた、開戦直前の李承晩政権自体が、崩壊寸前であったのだ。
50年5月30日、韓国では第2回の選挙(国会議員)があった。
この選挙期間中、多数の野党候補者や応援者が投獄され、さらにテロによる暗殺や弾圧が横行していた。
これほど不正な選挙は、軍事政権下でもなかったほど、反対者や対立者への暴力が常態化していたのだ。
それでも李承晩派は議席の30%を割り、統一に向けての南北間交渉を支持する議員が増加した。しかも、インフレが手に負えない状態になっており、李承晩の立場はますます悪くなっていたから、そこから脱出するためにも北進の必要性を強調していた。
米軍と李政権は6月13日、「非常戒厳令」を実施し、同18日に米国務長官ダレスが38度線を視察して、朝鮮戦争へのゴーサインを出している。
一方、北側の祖国統一民主主義戦線中央委員会は6月7日、「平和的祖国統一策推進に関するアピール」を発表すると同時に、統一問題を協議する3人の使者を派遣することも発表した。
9日には国連朝鮮委員会も、この協議にオブザーバーとして出席することを決定していた。ところが李政権は10日、38度線付近で待ち伏せしていて、3人の使者に銃撃を加えて殺傷し追い返してしまった。
なぜ追い返してしまったのかについては、国連も朝鮮委員会も、まして米国も問題にすることはなかった。
このような状況や報告を全く無視した国連朝鮮委員会(6月26日のソウルでの委員会)は、「北朝鮮は韓国に対して綿密な計画に基づいた本格的侵攻を行っている」として、韓国軍は全くの不意打ちをくらわされた-という内容の結論を出して、国連安保理に提出した。
国連安保理は、6月27日午後3時 (ソウル時間午後5時)の会合で、北朝鮮軍を「侵略軍」と規定して、「国連軍」の組織化を決定した。
こうして国連が、朝鮮戦争に参加するようになった。
国連が朝鮮での戦争に関与していく決定のすべては、ソ連が安保理を欠席している時であった。
ソ連は、中国の国連での代表権を北京政府に移行する問題で、安保理内の多数派と意見を異にして、安保理への出席を拒んでいた。
国連憲章第27条(3項)は、「(議事手続き事項以外の)その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意票を含む7つの理事国(注-1963年からは9理事国となっている)票によって行われる」と、定めている。
だから、ソ連が安保理を欠席している間に採択し、決定したいかなる内容も、第27条違反になる。
このことから、「国連軍」部隊の編制も、朝鮮半島への出兵も、参戦も、全てが国連憲章違反である。
しかも、北朝鮮軍を「侵略軍」だと決め付けたことも、理屈に合わない。
侵略とは、A国家によるB国家にたいする場合にのみ当てはまるもので、同一民族内における競合的な二つの体制間に関しては内戦となるはずだ。
国連や米国は、いつ頃から「侵略」の定義を、このように自己流に変更したのであろうか。国連軍(米軍)の参戦を正当化するためのテクニックとして、朝鮮戦争の真犯人をソ連や中国、またはその両者(共産主義者)だとする必要性があったからだろうか。
金日成はスターリンの了解を得た戦争であって、これは米ソの代理戦争だとの虚偽内容さえも流布させた。
仮に北朝鮮軍が38度線を越えて南進したことを、安保理が「侵略」だと非難するのならば、50年10月以降、国連軍が38度線を突破して北進したことについては、侵略ではなかったのだろうか。
この時期、ソ連は中国問題でのボイコットをやめ、安保理に復帰していたため、米国は安保理での主導権が取りにくくなっていた。
このため米国は、国連総会の場を利用して、国連軍による38度線突破を、「平和のための統一」との理屈で可決させ、 50年10月からの38度線突破への正当化を図った。
45年9月以降、米国は朝鮮問題(独立した自主政府樹立案)を議論する場を、米ソの二大国から、モスクワ協定に署名した4大国会談へ、さらに国連安保理、国連総会の場へと、常に米国を支持する多数国の場へと移して、自らのプランを実現させてきた。
当時の国連における米国の影響力からすれば、会議参加国が多いほど、米国に有利であったからである。
それは現在でもさほどの変化はなく、北朝鮮の核問題について、朝米2国間協議を避けて、六者協議、国連安保理、国連総会の場へと移し替えていく手法も同じである。
ちなみに国連軍に軍隊を派遣した国は、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コロンビア、エチオピア、フランス、ギリシア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージランド、イギリス、タイ、フィリピン、トルコ、南アフリカ共和国、アメリカの16カ国である。
極めてわずかな隊員しか参加させなかった国も、多数ある。
1951年末現在の国連軍の構成をみれば、この国連軍は米軍主体であることが、よりはっきりとするだろう。
陸軍 (米軍 50. 32% 韓国軍 40. 10% その他 9. 58%)
海軍 (米軍 85.89% 韓国軍 7.45%, その他 6. 66%)
空軍 (米軍 93. 38% 韓国軍 5. 65% その他1.97%)
50年10月25日、中国人民志願軍が参戦して、国連軍が敗走する。
面子を失したトルーマン米大統領は「国家非常事態宣言」を発表する一方、「原爆の使用もある」(12月30日)と言明した。
急いで国連総会に働きかけ、中国を「侵略者」とする決議を採択させた。
51年6月頃になると、両軍は38度線一帯での攻防が続くようになる。
ソ連が休戦会談を提言(同年6月23日)、米国も停戦協議を提案(6月30日)。
こうして7月10日から、開城で休戦会談の本会議(8月23日にはいったん中断)を開くことになった。
だが、その一方で国連軍は「夏季および秋季攻勢」と名付けた戦闘を準備し、作戦を続行している。
米国には、休戦会談中でも戦闘を中止する考えはなかったようで、少しでも陣地を押し挙げて、有利な状態での停戦を引き出そうとしていた。
38度線を挟んでの軍事的膠着状態が続き、戦争が長引いている間に、米軍は52年から爆撃による北朝鮮各地への破壊をエスカレートさせていた。
ダム、堤防、発電所、灌漑用水、運河や一般市民が密集している地域を狙って爆撃を行っていた。
このような爆撃、機銃掃射、ナパーム弾投下などは、民間人の殺傷を目的としていたから、戦争被害を一層拡大した。
こうした米軍の行為を、朝鮮戦争は汚い戦争の中でも際立っていると、ギャバン・マコーマックは自著『侵略の舞台裏』で、米国を告発している。
その上、細菌爆弾を使用し、朝中人民を伝染病の苦しみへと突き落としている。
朝鮮戦争で米軍が使用した細菌兵器のことは、すべて共産主義者側の宣伝だと米国が強弁しているのは、731部隊の石井四郎らを戦犯免責取引で使った手口と同じである。
1951年末、石井四郎が朝鮮にいたという記録(1968年のロイター通信)もある。
1940年代の初め以降、中国東北地方での731部隊の作戦実施には、必ず石井自身が実地監督を心掛けていたとの証言がある。
そのような彼の性向から、自らの研究開発した細菌兵器を、朝鮮で実施する際にも、その現場に赴いただろうことは十分に考えられる。
朝鮮と中国から被害提訴をしたが、国連そのものが戦争の一方の当事者であったから、国連以外の中立機関での調査が必要となった。
関連機関の国際赤十字も世界保険機構も、ともに米国の影響下にあったため、中国側が受入れを拒否した。
結局、世界平和協議会の斡旋でブラジル、イギリス、フランス、イタリー、スウェーデン、ソ連からなる科学者で構成する「朝鮮・中国における細菌戦に関する事実調査のための国際科学委員会」が組織された。
委員会は52年6月から8月にかけて、朝鮮と中国東北地方で調査を行った。
その調査報告は、細菌による伝染の被害実態があり、その原因は米軍から投下した細菌弾の疑いはぬぐえない、というものであった。
当時の情勢から、はっきりとした米国の犯罪性を告発できなかったことを、調査報告は物語っている。
ところで日本の敗戦時、瀬戸内海の大久野島を米軍が接収し、朝鮮戦争勃発と同時に、そこに米軍は弾薬庫を設置した。
毒ガス弾の遺棄、処理が完全にできなかった可能性がある場所に、朝鮮戦争で使用する各種爆弾、弾薬庫が保管されたのである。実際、米軍は化学兵器も使用している。
朝鮮戦争当時、日本は北朝鮮に空爆を繰り返す米軍機の基地を提供したのである。
沖縄、横田基地から飛び立っていった米軍機に、この大久野島の毒ガス弾が積み込まれていたかも知れないのだ。
北朝鮮攻撃の最前線基地を提供した「報償」として、日本は軍事的特需による経済復興を手に入れた。
そのことが今も、北朝鮮に対して植民地時代の清算を、逆にサボタージュさせているように思える。
結論から言えば、朝鮮戦争は国連の帽子をかぶった米国が、南朝鮮に単独選挙・単独政権樹立を強行したことが、引き金となって勃発したのである。
米国が強行してきた単独政権樹立に反対した朝鮮人民たち、南も北の人民たちも、民族の自主権をかけて反対闘争を戦った。
その彼らを米軍は徹底的に弾圧し、蛮行を働き、虐殺した。
米軍の蛮行は、なにも北朝鮮・信川だけではなく、韓国側にも多く存在している。
その最も象徴的なのが、50年7月25日での忠清北道の老斤里(ノグンリ)事件である。当時、大田を占領し南下してくる朝鮮人民軍と、敗走していく米軍とが、近くで遭遇し銃撃戦を繰り広げていた。
避難していた住民たちに米軍が、安全な場所に連れていくからと700余人の老人、女性、子供たちを、京釜線の線路上に誘導し、米軍機からの爆撃とともに機銃掃射で400余人を殺害してしまった。
線路上で住民たちを殺害したのは、北朝鮮軍の輸送利用を妨害することと、手足まといになる避難民たちを除去することが目的であったようだ。
事実、その折りの反撃戦を担当していた米第25師団長のウィリアム・キーン少将は、「戦闘地域で動くすべての民間人は敵と見なせ」と命令していた。
このため兵士は、「子供や女性を問わず目につくものはすべて殺した」(レスター・トド2等兵)と証言している。
以上のような米軍の蛮行は、ほんの一部である。
現在まで米政権は朝鮮戦争時の蛮行の全てを、「なかったこと」として書き換え、不名誉な行為の全てを共産軍が実行したのだと、臆面もなく言い切っている。
先のトド元2等兵のテレビでの証言(99年 10月 8日の米 CBCテレビ)に驚いた米政府高官たちは、トド氏への口封じを行っている。
米国は、朝鮮半島で蛮行を実行したことと、それを隠蔽してきたこととの、二重の犯罪を犯している。
否、自らの蛮行の全てを、共産主義勢力が行ったとの虚偽報告とを併せれば、三重の犯罪を犯していることになる。
やがて朝鮮戦争停戦協定から60年になる。
米国は60年間、朝鮮半島での犯罪をまだ清算できずにいるのだが、自ら撒いた悪の種を、遅まきながらも自らで刈り取る時期にきている。
米軍の犯罪性は朝鮮戦争の場で、731部隊の細菌戦と大久野島の毒ガス弾が結び付いていたから、日本もまた犯罪性を背負っていることになるのだ。

ハイラル要塞遺跡博物館入口

ハイラル、日本軍のトーチカ跡
8.おわりに
この小論を書き終って、改めて感じた事を、最後に書きとめておきたい。
日本も米国も自由主義国で、表現の自由、言論の自由が許されていると、理解している人たちが沢山いる。
今回、731部隊長の石井四郎が米国と裏取引をしたこと、朝鮮戦争の原因と米国の役割りなどに関して、資料を探してみたが、図書館でも古本屋でも見つからなかった。
ちなみに、図書館にあった数冊の関連本の頁を開いてみたが、表現に強弱の違いはあるものの、どれも国連や米国側の情報と思考に立った内容であったがため、がっかりしたことを覚えている。
「自由」許容内での表現しか許されない社会であるから、表現も、書籍も、全ては「商品化」や「流通」するものしか許されないということも、仕方がないと言うべきなのか。
さて、中国黒竜江省ハルピンで展開していた関東軍防疫給水部隊こと「関東軍第731部隊」のことについては、森村誠一氏が『悪魔の飽食』で、彼らの非人間的な所業を発表して以来、人体実験や細菌戦の一部が明らかとなった。
731部隊で働いていた日本人軍属・家族たち約3000人が、日本に帰国してから後、自らの所業については沈黙を守り通したが、当時、惨たらしい様子を直接見聞していた中国人たちによって、語り出されたことによって、その「悪魔性」の姿がよりはっきりと現れた。
その一方で、敗戦後に石井四郎がハルピンから逃れ、日本(東京および千葉)での潜伏生活以後のことが、タブー視されて語られてこなかった。
そうした背景には、米国家戦略会議とGHQとの意向が大きく働いていると思われる。
石井ら731部隊高級幹部たちの所業は、死刑に値する戦争犯罪であった。
このため、米軍が45年9月に日本に上陸すると共に、日本列島内でのGHQと石井らの「鬼ごっこ」や「隠れん坊」が始まった。
ついに45年末、石井四郎らの「戦犯免責」と引き換えの、彼らの膨大な実験データーを米国に引き渡すことでの、闇取引が成立した。
ところが、731部隊の一部幹部がソ連軍によってシベリア送りとなっていて、その彼らが石井部隊の秘密を暴露していた。
ソ連も細菌戦の実験データーが欲しかったため、石井四郎ら幹部たちの聴取と、その犯罪性を極東軍事裁判で明らかにすることを要求した。
米国は、731部隊が満州で行っていた悪魔的所業は証拠不十分だとし、それらの実験資料は日本には持ち帰っていないし、石井四郎の存在はつかめていない等として、いずれも拒否していた。
極東軍事裁判では、731部隊の細菌戦問題については、それが全く存在していなかったかのごとくにして、取り上げようとはしなかった。
そればかりか、ソ連が外野(裁判所以外)で、731部隊の犯罪性を主張しているのは、共産主義者の担造だと宣伝する始末であった。(日本の世論にも)
これが米国の、第一の陰謀であった。
第二の陰謀は、朝鮮戦争の後半に朝鮮と中国東北地方に細菌爆弾を投下し、多くの一般住民らに伝染病を蔓延させていた問題への態度である。
朝中両政府が、米軍捕虜や被害住民たちの証言を通じて抗議したことに対して、それは共産主義者のデマ宣伝だと一蹴しようとしていたことである。
国際調査団の調査結果に対しても、全ては共産主義者の作文だとする非難キャンペーンを行ったりしている。
米国による第一と第二の陰謀によって、米国への細菌戦問題の追及、石井四郎らとの闇取り引きの実態、石井四郎が朝鮮戦争の戦線に現れていた問題、米軍が投下した細菌爆弾の問題-などについては、米国は全てを闇の中に押し込め、なかったかのようにして取り繕っている。
しかし改めて一部関係資料を読み、この原稿を書きながら米国の犯罪性を強く感じ、強い怒りさえ覚えた。
また、朝鮮戦争については、ごく一部の資料を除き、大半が戦争は「1950年6月25日の早朝、北朝鮮軍の攻撃で始まった」と表現していた。
こうした史観からすすめていく現在の朝鮮半島政治問題、朝米関係、南北統一問題などの理解と理論展開は、部分的には米国の政策を批判する箇所があったとしても、基本的には、米国史観に基づいた内容で展開されていくことだろう。
なぜ米軍政庁は親日派を重用したのか、なぜ自主政府の活動を弾圧したのか、米国の価値観で支配されている日本では、そのようなことは疑問でもないのかも知れない。
米国のマイドコントロール下に置かれている日本では、米国情報のみが唯一正しいのだとする、前提条件がある。
その米国版情報を下敷きにした報道、考察、主張、政治決定の氾濫を私はもっとも恐れている。
ところで、2012年1月、オバマ米政権は「米国の世界的なリーダーシップの維持-21世紀の国防における優先事項」なる報告書を発表して、アジア回帰を宣言した。
アジア回帰とは、アジア太平洋地域が政治、経済、軍事安保で世界の中心として浮上しているとして、だから、(米国は)必然的にアジア太平洋地域への重心を追及すると、米内外に宣言した内容である。
何ごとも傲慢で、鼻持ちならない米国流表現であるが、経済的には中国を、軍事的には中国と北朝鮮を、ともに意識したものであろう。
これらの国を包囲するため、日米韓、日米豪、日米印の3つの3カ国協力 (米国主導の日本機軸体制)を計画しているようだ。
米国はまた、韓国の軍事的、安保への役割力の強化支援をも画策している。
そうした結論からは、北朝鮮への軍事的、経済的圧力だけを強めていくことになる。
それが米国の本心なのか、または望みなのか。
「世界的なリーダーシップ」を意識する米国の、そのように軍事安保力を強化していくことだけが、リーダーシップを維持していくために必要だと理解しているのだろうか。
このような発想法こそ、常に敵を必要とする帝国主義者の思考でしかない。
朝鮮半島での軍事的緊張感を解くことこそが、世界的リーダーシップを自認する米国に求められているはずだろう。
朝米平和協定を締結することこそ、自称「世界のリーダーシップ」に相応しい決断であり、行動であることを、2期日のオバマ米政権に贈るものである。
2012年11月16日 記
-参考資料-
1.金日成回顧録「世紀とともに」第8巻 (1998年、平壌外国出版社)
2.「731」青木冨貴子著(新潮社)
3. 「悪魔の飽食」森村誠一著 (光文社)
4.「地図から消された島」武田英子著(ドメス出版)
5.「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)
6.「侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実」キャヴアン・マコマック著(シアレヒム社)
7.「死ぬまえに真実を-731部隊の犯罪」上・下(1997年青年出版社)
名田隆司
6.ハルピンの「731部隊陳列館」を訪問

国際旅団の周保中、金日成、シリンスキー 43年10月当時

中国・北朝鮮・ソ連軍の国際第88旅団
私は今年の9月下旬、731部隊の遺跡地と「侵華日軍第731部隊陳列館」などを訪れた。ついでに、ハイラル、ハルピン、藩陽、撫順など周辺地を含む中国東北地方の旅をした。
ハルピン(哈爾浜)は、黒竜江省の省都である。
20世紀初頭、ロシア人によって開発されたこともあってか、現在でもロシア風建築や石畳の道路、町並み風景が残っている。
市街地に松花江の大河が流れており、 731部隊は実験用に殺害した捕虜たちの死骸や遺骨を、この河に捨てていたようだ。
中国を訪問した時期が、反日デモの盛んなときと重なったため、街並みなどはバスの中での見学になってしまった。その代わり、予定していた各展示館や施設では、警察官の護衛付きでゆっくり見学ができた。(中国人たちの入館を禁止して)
哈爾浜市平房区にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」は、元731部隊の残存建造物である。
入って正面の陳列館と事務室の建物は、731部隊の1号棟 (総務部、診察部、隊長室)と呼んでいた中心建造物で、2階建てになっている。
細長いレンガ造りの中央部の建物は、三角形の赤レンガ屋根のある近代建造物である。
正面右側の2階の端の部屋が、石井四郎が使用していたところで、現在は事務室としている。
この建物は2000年まで、地元の中学校の校舎として使用していたが、01年9月に展示館となった。
なぜ、731部隊がこのハルピンに建設されたのであろうか。
対ソ戦の準備、部隊の秘密保持(国内外)、被実験材料(マルタ)の確保が容易であったこと、だと731部隊の元第4製造部長の川島清がハバロフスク軍事裁判で証言している。
館内はテーマ別の12の部屋に分かれていた。
膨大な資料を整理し、細菌爆弾や実験道具の模型、当時の建造物や犠牲者たちの写真、細菌や毒ガスの投下実験、野外実験場などのパノラマなどで構成されていた。
展示写真の中に、東北抗日連軍隊員たちもいた。その一葉で、軍服姿の金日成(主席)と出会った。
写真は、国際連合軍当時の1943年10月に、ハバロフスクで撮影されたもので、周保中とソ連軍人のシリンスキーの間で写っていた。
同じ写真を以前、金日成回顧録『世紀とともに』第8巻の扉写真で見つけていた。
国際連合軍の編制は、朝鮮と中国東北地方解放を目的に対日戦の準備のために、42年8月にソ連のハバロフスクで結成された部隊である。
朝鮮人民革命軍、東北抗日連軍、ソ連極東軍などで編制された。
形式上はソ連極東軍独立88旅団と称し、部隊の対外番号は8461歩兵特別旅団とした。
周保中は国際連合軍の旅団長、金日成は第1支隊(朝鮮部隊)の支隊長であった。
連合軍は当初、対日決戦に備えるために、朝鮮及び中国東北地方を小部隊による軍事偵察を主任務としていた。
周保中は解放後の46年、東北民主連軍副総司令員兼吉遼軍区司令員の肩書きで、国共内戦の指揮をとった。
国共内戦では、東北地方は重要な地域であった。このため周保中は、金日成に支援要請の使者を派遣している。金日成もまた周保中の要請に応えて、数千人の戦友 (旧パルチザン隊員を中心に)と物資を送っている。
後刻、毛沢東と周恩来からも要請があり、東北地方に居住していた朝鮮人を含めて数万人の志願朝鮮人部隊を結成し戦った。
朝中は現在でも、「唇歯の関係」を強調している。
それは、東北地方での抗日戦闘と国共戦闘、さらに朝鮮戦争で共に帝国主義と戦い勝利を共有したことを、誇っての表現である。
周保中は48年、吉林省政府主席兼東北区副司令員となり、家族と共に何度か金日成がいる平壌を訪問している。
金日成と周保中の二人は、生涯の戦友であった。
金日成は『世紀とともに』第8巻の「最後の決戦の日」で、次のように記している。
「最後の決戦のころを思い出すたびに残念でならないのは、ソ連の訓練基地で数年間、祖国解放作戦の準備を進めてきた朝鮮人民革命軍の主力部隊が従来の計画どおりに作戦をおこなえなかったことです。
わが軍が北部国境地帯で日本軍との交戦状態にあったとき、わたしは前線部隊の作戦を指揮するかたわら、空挺隊の朝鮮出撃準備を完了していました。
前線の状況に合わせて空挺隊を部分的に改編もし、武器や弾薬、装具類一式を新品で供給もしました。
そうして空挺隊はトラックで飛行場に向かいましたが、そこで引き返さなければなりませんでした。
それは、日本が突如として降伏したからです」
このことから、金日成らの朝鮮支隊は落下傘で平壌周辺に降下し、侵攻してくるソ連軍とともに日本軍を挟み撃ちで撃退する計画であった事が分かる。
それを裏付ける情報が、8月11日頃の731部隊の無線機が捕らえていた。
ソ連軍の交信から、15日にハルピンを含む東北地方一帯に、ソ連軍の空挺隊が降下してくるという情報をキャッチしていたのだ。
それで731部隊関係者は、14日までに荷物もろとも大急ぎで撤退したのであろう。
石井四郎ら一部幹部たちは、逃走途中の朝鮮南部の釜山辺りで、天皇の敗戦の弁を聞いていたのかも知れない。
展示館の出口通路の両面に、731部隊が行った実験で犠牲となった数百名の名前が刻まれていた。ここに出ている人達はごく一部ではあったのだろうが、捕虜を移送するときに形式的な尋問調書が作られ、それが残っていたため、名前が判明したと思われる。
大半は中国人であったが、数人のモンゴル人、ロシア人に混って、6名の朝鮮人の名前が読み取れた。
コチャンリョ、イキスウ、ソントクリョン、キムソンチョ、イチュチョン、チャ (名前不明であった)であったが、もちろん朝鮮人被害者が、この6名だけであるはずがない。
ハルピン近郊は、朝中合同部隊であった東北抗日連軍第2路軍 (軍長・周保中)がいたから、多くの朝鮮人パルチザンたちが活躍した場所であり、また反日反満人士たちも多く居住していた所である。
私は、長く彼らの名前を見つめながら、731部隊の蛮行によって、名前も所在も判らなくなってしまった他の多くの朝鮮人革命家たちの無念さに、涙していた。
翌日、ハイラル区にある市民公園に寄った。公園内に、伊敏河に掛かっていた伊敏橋の「断橋」が残っていた。
この断橋は、日本軍が早期に撤退する際に爆破したものだという。
断橋を見て私は、『世紀とともに』第8巻のなかの、ある一節を思い出していた。
「そのころ、関東軍の敗残兵が牡丹江の南にある鉄道のトンネルを爆破したのです。
敵は迂回道路に通ずる橋梁や牡丹江飛行場の滑走路まで破壊していたので、われわれは自動車も汽車も飛行機も利用できないありさまでした。それでやむなく牡丹江から極東基地に引き返し、ウラジオストクから軍艦で帰国の途についたのです」
金日成らはこの断橋にも妨害されて、結局、元山港に上陸したのは45年9月19日であった。
公園の中には、この断橋に向かって立つ小さな銅像があった。
銅像は、小さな子供の手を引いた日本婦人が、重そうなトランクを前に置いて、はるか東の方向に手をかざしている姿であった。
説明文がなかったので、中国人の旅行ガイドに銅像の意味を尋ねた。
像の婦人の目先の断橋はつまり、一般の日本人を置き去りにして、いち早く逃走した日本軍が途中の橋まで爆破して壊し、一般住民を無視していることを象徴しているのだという。
この断橋と婦人像が象徴していることは、帝国主義のもっとも醜い姿を象徴しているように思えた。

ハイラル平和公園内の「断橋」伊敏河に架かっていた伊敏橋

ハイラル平和公園内の「日本を望む母子像」
7.朝鮮戦争の原因
一般に朝鮮戦争の始まりを、1950年6月25日早朝(午前4時)、数個師団の北朝鮮軍が突然38度線を突破し南進したことを前提として、論をすすめている。
その結果として、金日成はソ連のスターリンと中国の毛沢東から事前の了解と支持を得ていたとし、だからこれは米ソの代理戦争だったと論評する人々が多くいる。
これらの人たちは、米国が国連安保理を活用したときの報告と論理を、そのまま信じているのだ。
そして奇妙に、6月25日説と米ソ代理戦争説とをセットで論を展開しているのだが、これらは米国側の情報だけを活用しているからであろう。
これこそ、北朝鮮軍に「侵略軍」とのレッテルを張り付けるため、米国は国連と国際社会で多くの真実を隠し通し、その上に事実を歪曲した「国連軍」を朝鮮半島に差し向け、多くの朝鮮人民を殺傷して、自身の犯罪を隠蔽する創作言語を多用した結果である。
日本ではまだ、その呪縛から解放されていないためか、引き続き、北朝鮮への敵視政策を施行している。そのような政権に多くの日本人も、疑問を呈したことがないようだ。
38度線付近では、特に西部及び中部戦線では、49年に入る頃から韓国軍からの軍事的挑発が絶えずあり、時には南北両軍の銃撃戦や越境事件などの小衝突が、当時から報告されていた。
50年の5月、6月頃は、韓国軍からの越境・侵犯事件によって、追跡した北朝鮮軍が38度線を越えての戦闘も増加している。
その頃から、韓国軍の規模の大きな誘因作戦が多発していて、どの時点での、どの小競り合いが戦争へと発展したのかについては、特定が難しい。
だから、朝鮮戦争での勃発を50年6月25日早朝だと断じることと、それが北朝鮮軍からだとすることには、なお、多くの疑問が指摘されている。
例えば、同じ6月25日の早朝 (午前 3時頃)、 38度線のすぐ北にある海州(ヘジュ)の町を、南の軍隊が挑発的に攻撃しているのだ。
それが大規模な北からの報復を引き起こして、本格的な戦闘が始まった可能性を指摘する研究者もいる。
海州は甕津 (オンジン)半島東部入江に面していて、38度線のすぐ北に位置している。
南朝鮮単独選挙・政権樹立に抗議して、48年8月25日、朝鮮民主主義人民共和国を創建するため最高人民会議代議員選出の南北総選挙が実施された。
南では地下選挙の形で360人(全議員572人)が選出されている。
その際、南で選出された代議員会議が開かれた場所が海州である。
海州を含む甕津半島は西部戦線地域で、朝鮮戦争の戦端が西部地域から開かれたとする説とも符号する場所となっている。
1950年当時、韓国海軍参謀総長であった李竜雲少将は回顧談(1977年)で、開戦に関して次のように発言している。
「6月23日、つまり戦争勃発の2日前、韓国陸軍参謀総長は『戦闘命令第2号』を発令した。これによって陸軍のすべての部隊は警戒体制に入り、『6月25日午前 5時を期して行動に入るよう』命令をうけた。
北にたいする来るべき全面的攻撃から、敵の注目をそらすための陽動作戦として、23日午後10時から部分的な攻撃戦が開始された・・・この攻撃戦で、海州地方攻撃の任務を帯びて小さな艦隊を指揮した」(ギャバン・マコーマック著「侵略の舞台裏」)
韓国海軍の李竜雲少将の告白は、6月23日の午後10時以後、韓国軍の陸・海軍が海州地方を中心に甕津戦線を攻撃したことを、はっきりと認めたことになる。
また、「6月25日午前5時に一斉攻撃」への命令を受けていたことも告白している。
ところが米国の公式戦史は、50年6月当初の韓国軍の攻撃や反撃については、いっさい認めず、記録もしていない。
従って、米国情報だけを信じた場合、北側からの侵攻説を当然視し、疑うことを知らないことになってしまうだろう。
さらにまた、開戦直前の李承晩政権自体が、崩壊寸前であったのだ。
50年5月30日、韓国では第2回の選挙(国会議員)があった。
この選挙期間中、多数の野党候補者や応援者が投獄され、さらにテロによる暗殺や弾圧が横行していた。
これほど不正な選挙は、軍事政権下でもなかったほど、反対者や対立者への暴力が常態化していたのだ。
それでも李承晩派は議席の30%を割り、統一に向けての南北間交渉を支持する議員が増加した。しかも、インフレが手に負えない状態になっており、李承晩の立場はますます悪くなっていたから、そこから脱出するためにも北進の必要性を強調していた。
米軍と李政権は6月13日、「非常戒厳令」を実施し、同18日に米国務長官ダレスが38度線を視察して、朝鮮戦争へのゴーサインを出している。
一方、北側の祖国統一民主主義戦線中央委員会は6月7日、「平和的祖国統一策推進に関するアピール」を発表すると同時に、統一問題を協議する3人の使者を派遣することも発表した。
9日には国連朝鮮委員会も、この協議にオブザーバーとして出席することを決定していた。ところが李政権は10日、38度線付近で待ち伏せしていて、3人の使者に銃撃を加えて殺傷し追い返してしまった。
なぜ追い返してしまったのかについては、国連も朝鮮委員会も、まして米国も問題にすることはなかった。
このような状況や報告を全く無視した国連朝鮮委員会(6月26日のソウルでの委員会)は、「北朝鮮は韓国に対して綿密な計画に基づいた本格的侵攻を行っている」として、韓国軍は全くの不意打ちをくらわされた-という内容の結論を出して、国連安保理に提出した。
国連安保理は、6月27日午後3時 (ソウル時間午後5時)の会合で、北朝鮮軍を「侵略軍」と規定して、「国連軍」の組織化を決定した。
こうして国連が、朝鮮戦争に参加するようになった。
国連が朝鮮での戦争に関与していく決定のすべては、ソ連が安保理を欠席している時であった。
ソ連は、中国の国連での代表権を北京政府に移行する問題で、安保理内の多数派と意見を異にして、安保理への出席を拒んでいた。
国連憲章第27条(3項)は、「(議事手続き事項以外の)その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意票を含む7つの理事国(注-1963年からは9理事国となっている)票によって行われる」と、定めている。
だから、ソ連が安保理を欠席している間に採択し、決定したいかなる内容も、第27条違反になる。
このことから、「国連軍」部隊の編制も、朝鮮半島への出兵も、参戦も、全てが国連憲章違反である。
しかも、北朝鮮軍を「侵略軍」だと決め付けたことも、理屈に合わない。
侵略とは、A国家によるB国家にたいする場合にのみ当てはまるもので、同一民族内における競合的な二つの体制間に関しては内戦となるはずだ。
国連や米国は、いつ頃から「侵略」の定義を、このように自己流に変更したのであろうか。国連軍(米軍)の参戦を正当化するためのテクニックとして、朝鮮戦争の真犯人をソ連や中国、またはその両者(共産主義者)だとする必要性があったからだろうか。
金日成はスターリンの了解を得た戦争であって、これは米ソの代理戦争だとの虚偽内容さえも流布させた。
仮に北朝鮮軍が38度線を越えて南進したことを、安保理が「侵略」だと非難するのならば、50年10月以降、国連軍が38度線を突破して北進したことについては、侵略ではなかったのだろうか。
この時期、ソ連は中国問題でのボイコットをやめ、安保理に復帰していたため、米国は安保理での主導権が取りにくくなっていた。
このため米国は、国連総会の場を利用して、国連軍による38度線突破を、「平和のための統一」との理屈で可決させ、 50年10月からの38度線突破への正当化を図った。
45年9月以降、米国は朝鮮問題(独立した自主政府樹立案)を議論する場を、米ソの二大国から、モスクワ協定に署名した4大国会談へ、さらに国連安保理、国連総会の場へと、常に米国を支持する多数国の場へと移して、自らのプランを実現させてきた。
当時の国連における米国の影響力からすれば、会議参加国が多いほど、米国に有利であったからである。
それは現在でもさほどの変化はなく、北朝鮮の核問題について、朝米2国間協議を避けて、六者協議、国連安保理、国連総会の場へと移し替えていく手法も同じである。
ちなみに国連軍に軍隊を派遣した国は、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コロンビア、エチオピア、フランス、ギリシア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージランド、イギリス、タイ、フィリピン、トルコ、南アフリカ共和国、アメリカの16カ国である。
極めてわずかな隊員しか参加させなかった国も、多数ある。
1951年末現在の国連軍の構成をみれば、この国連軍は米軍主体であることが、よりはっきりとするだろう。
陸軍 (米軍 50. 32% 韓国軍 40. 10% その他 9. 58%)
海軍 (米軍 85.89% 韓国軍 7.45%, その他 6. 66%)
空軍 (米軍 93. 38% 韓国軍 5. 65% その他1.97%)
50年10月25日、中国人民志願軍が参戦して、国連軍が敗走する。
面子を失したトルーマン米大統領は「国家非常事態宣言」を発表する一方、「原爆の使用もある」(12月30日)と言明した。
急いで国連総会に働きかけ、中国を「侵略者」とする決議を採択させた。
51年6月頃になると、両軍は38度線一帯での攻防が続くようになる。
ソ連が休戦会談を提言(同年6月23日)、米国も停戦協議を提案(6月30日)。
こうして7月10日から、開城で休戦会談の本会議(8月23日にはいったん中断)を開くことになった。
だが、その一方で国連軍は「夏季および秋季攻勢」と名付けた戦闘を準備し、作戦を続行している。
米国には、休戦会談中でも戦闘を中止する考えはなかったようで、少しでも陣地を押し挙げて、有利な状態での停戦を引き出そうとしていた。
38度線を挟んでの軍事的膠着状態が続き、戦争が長引いている間に、米軍は52年から爆撃による北朝鮮各地への破壊をエスカレートさせていた。
ダム、堤防、発電所、灌漑用水、運河や一般市民が密集している地域を狙って爆撃を行っていた。
このような爆撃、機銃掃射、ナパーム弾投下などは、民間人の殺傷を目的としていたから、戦争被害を一層拡大した。
こうした米軍の行為を、朝鮮戦争は汚い戦争の中でも際立っていると、ギャバン・マコーマックは自著『侵略の舞台裏』で、米国を告発している。
その上、細菌爆弾を使用し、朝中人民を伝染病の苦しみへと突き落としている。
朝鮮戦争で米軍が使用した細菌兵器のことは、すべて共産主義者側の宣伝だと米国が強弁しているのは、731部隊の石井四郎らを戦犯免責取引で使った手口と同じである。
1951年末、石井四郎が朝鮮にいたという記録(1968年のロイター通信)もある。
1940年代の初め以降、中国東北地方での731部隊の作戦実施には、必ず石井自身が実地監督を心掛けていたとの証言がある。
そのような彼の性向から、自らの研究開発した細菌兵器を、朝鮮で実施する際にも、その現場に赴いただろうことは十分に考えられる。
朝鮮と中国から被害提訴をしたが、国連そのものが戦争の一方の当事者であったから、国連以外の中立機関での調査が必要となった。
関連機関の国際赤十字も世界保険機構も、ともに米国の影響下にあったため、中国側が受入れを拒否した。
結局、世界平和協議会の斡旋でブラジル、イギリス、フランス、イタリー、スウェーデン、ソ連からなる科学者で構成する「朝鮮・中国における細菌戦に関する事実調査のための国際科学委員会」が組織された。
委員会は52年6月から8月にかけて、朝鮮と中国東北地方で調査を行った。
その調査報告は、細菌による伝染の被害実態があり、その原因は米軍から投下した細菌弾の疑いはぬぐえない、というものであった。
当時の情勢から、はっきりとした米国の犯罪性を告発できなかったことを、調査報告は物語っている。
ところで日本の敗戦時、瀬戸内海の大久野島を米軍が接収し、朝鮮戦争勃発と同時に、そこに米軍は弾薬庫を設置した。
毒ガス弾の遺棄、処理が完全にできなかった可能性がある場所に、朝鮮戦争で使用する各種爆弾、弾薬庫が保管されたのである。実際、米軍は化学兵器も使用している。
朝鮮戦争当時、日本は北朝鮮に空爆を繰り返す米軍機の基地を提供したのである。
沖縄、横田基地から飛び立っていった米軍機に、この大久野島の毒ガス弾が積み込まれていたかも知れないのだ。
北朝鮮攻撃の最前線基地を提供した「報償」として、日本は軍事的特需による経済復興を手に入れた。
そのことが今も、北朝鮮に対して植民地時代の清算を、逆にサボタージュさせているように思える。
結論から言えば、朝鮮戦争は国連の帽子をかぶった米国が、南朝鮮に単独選挙・単独政権樹立を強行したことが、引き金となって勃発したのである。
米国が強行してきた単独政権樹立に反対した朝鮮人民たち、南も北の人民たちも、民族の自主権をかけて反対闘争を戦った。
その彼らを米軍は徹底的に弾圧し、蛮行を働き、虐殺した。
米軍の蛮行は、なにも北朝鮮・信川だけではなく、韓国側にも多く存在している。
その最も象徴的なのが、50年7月25日での忠清北道の老斤里(ノグンリ)事件である。当時、大田を占領し南下してくる朝鮮人民軍と、敗走していく米軍とが、近くで遭遇し銃撃戦を繰り広げていた。
避難していた住民たちに米軍が、安全な場所に連れていくからと700余人の老人、女性、子供たちを、京釜線の線路上に誘導し、米軍機からの爆撃とともに機銃掃射で400余人を殺害してしまった。
線路上で住民たちを殺害したのは、北朝鮮軍の輸送利用を妨害することと、手足まといになる避難民たちを除去することが目的であったようだ。
事実、その折りの反撃戦を担当していた米第25師団長のウィリアム・キーン少将は、「戦闘地域で動くすべての民間人は敵と見なせ」と命令していた。
このため兵士は、「子供や女性を問わず目につくものはすべて殺した」(レスター・トド2等兵)と証言している。
以上のような米軍の蛮行は、ほんの一部である。
現在まで米政権は朝鮮戦争時の蛮行の全てを、「なかったこと」として書き換え、不名誉な行為の全てを共産軍が実行したのだと、臆面もなく言い切っている。
先のトド元2等兵のテレビでの証言(99年 10月 8日の米 CBCテレビ)に驚いた米政府高官たちは、トド氏への口封じを行っている。
米国は、朝鮮半島で蛮行を実行したことと、それを隠蔽してきたこととの、二重の犯罪を犯している。
否、自らの蛮行の全てを、共産主義勢力が行ったとの虚偽報告とを併せれば、三重の犯罪を犯していることになる。
やがて朝鮮戦争停戦協定から60年になる。
米国は60年間、朝鮮半島での犯罪をまだ清算できずにいるのだが、自ら撒いた悪の種を、遅まきながらも自らで刈り取る時期にきている。
米軍の犯罪性は朝鮮戦争の場で、731部隊の細菌戦と大久野島の毒ガス弾が結び付いていたから、日本もまた犯罪性を背負っていることになるのだ。

ハイラル要塞遺跡博物館入口

ハイラル、日本軍のトーチカ跡
8.おわりに
この小論を書き終って、改めて感じた事を、最後に書きとめておきたい。
日本も米国も自由主義国で、表現の自由、言論の自由が許されていると、理解している人たちが沢山いる。
今回、731部隊長の石井四郎が米国と裏取引をしたこと、朝鮮戦争の原因と米国の役割りなどに関して、資料を探してみたが、図書館でも古本屋でも見つからなかった。
ちなみに、図書館にあった数冊の関連本の頁を開いてみたが、表現に強弱の違いはあるものの、どれも国連や米国側の情報と思考に立った内容であったがため、がっかりしたことを覚えている。
「自由」許容内での表現しか許されない社会であるから、表現も、書籍も、全ては「商品化」や「流通」するものしか許されないということも、仕方がないと言うべきなのか。
さて、中国黒竜江省ハルピンで展開していた関東軍防疫給水部隊こと「関東軍第731部隊」のことについては、森村誠一氏が『悪魔の飽食』で、彼らの非人間的な所業を発表して以来、人体実験や細菌戦の一部が明らかとなった。
731部隊で働いていた日本人軍属・家族たち約3000人が、日本に帰国してから後、自らの所業については沈黙を守り通したが、当時、惨たらしい様子を直接見聞していた中国人たちによって、語り出されたことによって、その「悪魔性」の姿がよりはっきりと現れた。
その一方で、敗戦後に石井四郎がハルピンから逃れ、日本(東京および千葉)での潜伏生活以後のことが、タブー視されて語られてこなかった。
そうした背景には、米国家戦略会議とGHQとの意向が大きく働いていると思われる。
石井ら731部隊高級幹部たちの所業は、死刑に値する戦争犯罪であった。
このため、米軍が45年9月に日本に上陸すると共に、日本列島内でのGHQと石井らの「鬼ごっこ」や「隠れん坊」が始まった。
ついに45年末、石井四郎らの「戦犯免責」と引き換えの、彼らの膨大な実験データーを米国に引き渡すことでの、闇取引が成立した。
ところが、731部隊の一部幹部がソ連軍によってシベリア送りとなっていて、その彼らが石井部隊の秘密を暴露していた。
ソ連も細菌戦の実験データーが欲しかったため、石井四郎ら幹部たちの聴取と、その犯罪性を極東軍事裁判で明らかにすることを要求した。
米国は、731部隊が満州で行っていた悪魔的所業は証拠不十分だとし、それらの実験資料は日本には持ち帰っていないし、石井四郎の存在はつかめていない等として、いずれも拒否していた。
極東軍事裁判では、731部隊の細菌戦問題については、それが全く存在していなかったかのごとくにして、取り上げようとはしなかった。
そればかりか、ソ連が外野(裁判所以外)で、731部隊の犯罪性を主張しているのは、共産主義者の担造だと宣伝する始末であった。(日本の世論にも)
これが米国の、第一の陰謀であった。
第二の陰謀は、朝鮮戦争の後半に朝鮮と中国東北地方に細菌爆弾を投下し、多くの一般住民らに伝染病を蔓延させていた問題への態度である。
朝中両政府が、米軍捕虜や被害住民たちの証言を通じて抗議したことに対して、それは共産主義者のデマ宣伝だと一蹴しようとしていたことである。
国際調査団の調査結果に対しても、全ては共産主義者の作文だとする非難キャンペーンを行ったりしている。
米国による第一と第二の陰謀によって、米国への細菌戦問題の追及、石井四郎らとの闇取り引きの実態、石井四郎が朝鮮戦争の戦線に現れていた問題、米軍が投下した細菌爆弾の問題-などについては、米国は全てを闇の中に押し込め、なかったかのようにして取り繕っている。
しかし改めて一部関係資料を読み、この原稿を書きながら米国の犯罪性を強く感じ、強い怒りさえ覚えた。
また、朝鮮戦争については、ごく一部の資料を除き、大半が戦争は「1950年6月25日の早朝、北朝鮮軍の攻撃で始まった」と表現していた。
こうした史観からすすめていく現在の朝鮮半島政治問題、朝米関係、南北統一問題などの理解と理論展開は、部分的には米国の政策を批判する箇所があったとしても、基本的には、米国史観に基づいた内容で展開されていくことだろう。
なぜ米軍政庁は親日派を重用したのか、なぜ自主政府の活動を弾圧したのか、米国の価値観で支配されている日本では、そのようなことは疑問でもないのかも知れない。
米国のマイドコントロール下に置かれている日本では、米国情報のみが唯一正しいのだとする、前提条件がある。
その米国版情報を下敷きにした報道、考察、主張、政治決定の氾濫を私はもっとも恐れている。
ところで、2012年1月、オバマ米政権は「米国の世界的なリーダーシップの維持-21世紀の国防における優先事項」なる報告書を発表して、アジア回帰を宣言した。
アジア回帰とは、アジア太平洋地域が政治、経済、軍事安保で世界の中心として浮上しているとして、だから、(米国は)必然的にアジア太平洋地域への重心を追及すると、米内外に宣言した内容である。
何ごとも傲慢で、鼻持ちならない米国流表現であるが、経済的には中国を、軍事的には中国と北朝鮮を、ともに意識したものであろう。
これらの国を包囲するため、日米韓、日米豪、日米印の3つの3カ国協力 (米国主導の日本機軸体制)を計画しているようだ。
米国はまた、韓国の軍事的、安保への役割力の強化支援をも画策している。
そうした結論からは、北朝鮮への軍事的、経済的圧力だけを強めていくことになる。
それが米国の本心なのか、または望みなのか。
「世界的なリーダーシップ」を意識する米国の、そのように軍事安保力を強化していくことだけが、リーダーシップを維持していくために必要だと理解しているのだろうか。
このような発想法こそ、常に敵を必要とする帝国主義者の思考でしかない。
朝鮮半島での軍事的緊張感を解くことこそが、世界的リーダーシップを自認する米国に求められているはずだろう。
朝米平和協定を締結することこそ、自称「世界のリーダーシップ」に相応しい決断であり、行動であることを、2期日のオバマ米政権に贈るものである。
2012年11月16日 記
-参考資料-
1.金日成回顧録「世紀とともに」第8巻 (1998年、平壌外国出版社)
2.「731」青木冨貴子著(新潮社)
3. 「悪魔の飽食」森村誠一著 (光文社)
4.「地図から消された島」武田英子著(ドメス出版)
5.「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)
6.「侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実」キャヴアン・マコマック著(シアレヒム社)
7.「死ぬまえに真実を-731部隊の犯罪」上・下(1997年青年出版社)
スポンサーサイト