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「中国東北地方の旅行報告」

中国東北地方の旅行報告

                                               名田隆司


1.はじめに

 9月11日から18日まで、「平頂山事件80周年式典」とシンポジュウムに参加するためと、ついでに中国・東北地方を旅してきた。

 丁度、尖閣諸島(中国名は釣魚島)の日本国有化に抗議する反日デモが中国各地で相次いでいた、まさにその時期と重なってしまった。

 出発直前、日中間で尖閣諸島問題が政治進行していて、式典及びその他の行事の開催が危倶されていた。

 私たちは北京空港に降り立ち、ハイラル(内蒙古自治区)日本軍遺構と日本軍要塞跡、ノモンハン(戦役遺跡陳列館と戦場跡)、ホロンバイル大草原(金帳汗蒙=キプチャクハンの古部落)、ハルビン(黒竜江省)の731部隊旧跡と陳列館、撫順戦犯管理所、さらに「平頂山事件80周年記念式典」と平頂山事件国際学術シンポジウムに参加し、瀋陽、上海など、多くの地域を巡った。

 北京空港に到着した11日、中国の旅行会社の担当者からは、9.16(平頂山事件)と9・18(柳条湖事件)の時に東北地方に行くため、反日デモなどが激化する地域を訪れることになるので、気を付けてほしいとの注意があった。

 バスが空港から高速道路を抜けて北京市内へと入っても、いつも見慣れている(毎年訪れているので)風景であったため、安心していた。

 しかし、ホテルの部屋で観たCCTV(国営中国中央テレビ)の番組 (ニュース及び特番)では、毎時間、日本及び釣魚島を日本が国有化(11日に)したことに対する、日本批判の内容ばかりを流していた。

 「9・18」が近付くにつれ、中国識者たちの声を利用した「日本がまたもや釣魚島を奪った」と、批判のトーンを上げていた。

 私たちを受け入れてくれた中国側の各関係団体では、私たちへの安全への配慮を優先して、各展示館の一般参加者の入館を禁じたり、時間調節をしてくれたりしていた。

 731部隊陳列館参観の 15日以降の3日間は、数人の屈強な男性(中国の公安警察官や武装警官たち)が、私たちをホテルの中までボディーガードしてくれていた。

 移動するバスにも、公安警察の車が先導し、中国人たちの車をガードするというものものしさだった。

 こうした中国側の警備に配慮するため、街中に出かける際でも2,3人の組みで、日本語はできるだけ使用しないようにとの、自粛注意となった。

 どのホテルでも缶詰め状態であったため、中国に滞在している間は、反日デモなどの様子は全く分からなかった。

 帰国して日本の新聞を読んではじめて、私たちが滞在していた時期の撫順や瀋陽、上海でのデモの激しかったことを知り、私たちをガードしてくれていた中国側の関係団体と警察に改めて感謝している。

 さて、今回の問題の発端となった尖閣諸島(釣魚島)について、日本側が日米安保条約の適用対象(米側も同様意見)としているのに対して、中国側は国連海洋法条約(94年発効)に基づく領有権(自国沿岸から12マイル=約22キロの領海、さらに12マイルまでの水域を接続水域としている)を主張している。

 水域内では沿岸国に通関、財政、出入国管理などの規制が認められている。

 接続水域(本質上は公海)での規制内容は検査、警告、予防にとどまり、拿捕、逮捕といった強制措置までは含まれていない。

 70年代以降、尖閣諸島周辺の海底が産油埋蔵地域であることが分かってから、中国・台湾側が島の領有権を強く主張するようになった。

 このため、たびたび日中間、日台間で緊張が高まり、そのつど政治決着が図られてきた。

 今回、日本が国有化したために、80年前の9・18事件や7.7(盧溝橋事件=日中戦争)を中国人民に想起させ、いっそうの反発が起こったともいえるだろう。

 さらに中国側は歴史関連も持ち出している。

 日清戦争末期の1895年(注-下関での日清講和条約調印。遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲するとしたが、三国=露、独、仏の干渉があり、日本は遼東半島だけを返還した)に釣魚島などを日本に奪われていたのが、「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」によって、国際法上中国に帰属した。

 日本の島購入は、世界の反ファシズム戦争勝利の成果を公然と否定するもので、戦後の国際秩序への重大な挑戦であると、歴史的経緯から強い日本批判を繰り返している。

 日本政府が20億円で個人所有者から尖閣緒島3島を購入し、「国有化」したことに中国側が敏感に反応したことによって、政治問題化してしまった。

 中国最高指導部の政治局常務委員(9人)のうち、8人が釣魚島の歴史関連での発言を相次いで(9月20日までに)するなど、日本への強い不満と政治的不信感を表現しているのもそのためであろう。

 歴史的経緯からみても、中国側の主張に理があるように思う。

 野田政権が11日に島購入をしたその同じ11日から、中国全体が強い日本批判をはじめたのは、日本の再侵略、再占領との認識に立っていたからであろう。

 帝国主義時代の歴史清算がしっかりとできていない日本は、尖閣講島問題に対する歴史問題への配慮に欠けた失策を行ってしまったといえよう。

 日中ともに政権末期のため、現政権での一応の幕引が行われたとしても、事態への収拾には、今後ともなおも険しい対立が待っているだろう。

 以下、今回は「平頂山事件」「ノモンハン事件」「撫順戦犯管理所」の3点の簡単な報告を併せて行う。


2.平頂山事件

 平項山は、遼寧省撫順市にある小さな集落である。

 近くに東洋最大の出炭量を誇っていた撫順炭鉱(現在も採炭)があり、さらに恒仁県に古代高句麗王国(紀元前1世紀から7世紀)の王都(2度目で紀元3年以降)と陵墓(12の王陵と26の貴族の墓陵)があり、集安には好太王碑(高さ6.39m)が現存している。

 1932年9月15日の夜、中国の抗日義勇軍が撫順市内と撫順炭鉱を夜襲、日本軍守備隊と炭鉱に被害を与え、平頂山集落を抜けていった。

 当時、撫順市の警務守備についていたのが関東軍独立守備隊第2大隊第2中隊と憲兵隊であった。

 面目を失った日本軍は、「抗日義勇軍が通過していたことを日本軍に知らせなかった」との理由で、平頂山集落の住民を皆殺しにすることを決定した。

 翌16日の朝、日本軍守備隊と憲兵隊は、集落西南にある崖下の広場に全住民(乳幼児を含む3000人と伝えられている)を集め、機銃による一斉射撃を行って殺害した。

 まだ息のある者には、兵士が銃剣で一人ずつ刺殺していった。

 その後、死体に重油をかけて焼却し、崖をダイナマイトで爆破して、その土砂で死体を覆い、さらに全ての住居に火を放ち、自らの蛮行の証拠を隠蔽してしまった。

 このように徹底的に破壊しつくされた平頂山ではあったが、親が覆いかぶさって奇跡的に助かっていた子供(4才から6才ぐらい)たちが、数人いて死体のなかから泣きながらはい出してきた。

 どのような時代、どのような社会状況下であれ、このような蛮行は決して許されるものではない。

 事件があった1932年9月は、柳条湖事件から1年後、「満州国」設置から6カ月後のことで、以後、日本軍(関東軍と満州国軍)は、中国人・朝鮮人革命家たちからなる東北抗日連軍からの攻撃に悩まされていく。

 その反動として、集落住民の10人に1人は共産党員だからと、報復ないしは見せしめのために、住民たちを無差別に虐殺していく事件(ミニ平頂山事件)を繰り返す。

 日本政府は現在まで、このような被害者たちへの謝罪も補償も行っていない。

 平頂山事件で奇跡的に生き延びた被害者(彼らを幸存者と呼んでいる)のうち3名(莫徳勝さん、揚宝山さん、方素栄さん)が、事件発生から64年目の1996年3月、日本政府に損害賠償を求める裁判を起こした。

 東京地裁は02年6月、加害と被害の事実を認めながら、戦前の行為について政府は責任を問われない(国家無答責の法理)として、原告らの請求を棄却した。

 以後、戦後補償の各種裁判においても、この国家無答責の法理を持ち出して、過去の国家犯罪の責任を問わず、免責にしている。

 これは帝国主義国家の法理論であって、このような理屈を正当化している限り、どのような国家も決して国民にやさしい政治など実行するはずはない。

 高裁も同様判断をし、最高裁もまた06年5月に上告を棄却し、裁判は完全敗訴となってしまった。

 司法は日本政府の思考を容認し、政府は司法判断を持ち出して、過去の歴史的な犯罪への責任から逃れようとしている。全く怒りを覚える。

 無条理な日本政府に対して、高齢となった幸存者らを支える中国側・日本側の市民団体が手を握り、事件の事実と責任を問い続け、日本政府が公式な謝罪をするまで、活動を続けていくとしている。


3.ノモンハン事件

 または、ハルハ河会戦ともいう。

 第1次(39年5月12~31日)と第2次(同年6月27日~9月15日)の長期間にわたる戦闘で、関東軍・満州国軍対ソ連軍・モンゴル軍との局地戦となった。(ソ連はモンゴル人民共和国との相互援助条約によって参戦)

 旧満州国と当時のモンゴル人民共和国との間に広がるノモンハン付近のホロンバイル大草原での、国境をめぐる衝突事件から局地戦へと発展した。

 実際、この大草原に立ってみると、360度の地平線と心地よい風に吹かれているなかで、70数年前の日本の戦闘の意味が何であったのかを、現在も問い続ける必要性を感じていた。

 ホロンバイル草原をハルハ河が流れている。

 この付近の国境線の認識を、日本側はハルハ河だとしていたが、ソ連側はハルハ河を含むその北方のノモンハン付近だと主張して、対立していた。

 1939年5月、外蒙古軍の一部部隊がノモンハン付近でハルハ河を越えた。(彼らからすれば、国境を越えたとは認識していなかった)

 守備をしていた満州国軍は、関東軍の応援を得てこれを撃退した。

 28日になると、外蒙古軍にソ連軍が加わってふたたびノモンハン付近に出現した。

 関東軍部隊が攻撃をするが、ソ連軍の攻撃力の前に大打撃を受けた関東軍部隊は、ハイラル方面に撤退した。 (日本軍の負け)

 このように国境紛争は、起こるべくして起こったと言えるだろう。

 だが、日本の守備隊が敗走したことによって、関東軍中枢の一部は、独善的な強硬論をふりかざし、不毛な戦闘を続けて死傷者を増やしてしまった。

 関東軍は、独断決行・事後報告主義、大本営の戦闘不拡大方針と対立して戦線を拡大、敵情判断の甘さで兵力を無駄に消耗させ、部隊の独断撤退や捕虜になることを許さず、近代的装備の遅れを精神主義で補い、独断性と非人間性を主張するなど-後の日本軍の性格そのままに、犠牲を拡大していった。

 その元凶は、独断先行・戦線拡大・強硬論一辺倒によって関東軍を引きずっていった、作戦参謀の服部卓四郎中佐と辻少佐たちにあった。

 彼らはいったん他の職に転じられたが、まもなく、参謀本部の作戦課長と主任に就任して、2年後の米英開戦を指導、推進力となっている。

 このため、彼らのような強硬論を唱えることが、積極果敢な軍人の態度だと錯覚して評価される大日本帝国軍隊へと仕上がってしまった。

 8月下旬、ますます戦況が悪化したことで、強硬派グループは逆上し、関東軍の大部分の兵力をノモンハン方面に集中させて、ソ連軍との決戦に挑もうとしていた。

 彼らの意思のままいくと、ソ連との全面戦争は避けられない状況となった。

 ソ連との戦争を避けたい大本営は、「小さな兵力でノモンハンを持久すべし」との命令を出すが、関東軍側は反撃戦への意図をなおも捨てなかった。

 この間、国際情勢が大きく変化していた。

 8月にドイツとソ連との間で、独ソ不可侵条約が調印された。

 ドイツはポーランド分割と東方安定のため、ソ連はドイツの侵略がソ連に向けられるのを防ぐために締結した。

 内容は、相互不可侵と第三国との戦争の際の他方の中立維持を協定。

 ところで日本はドイツと防共協定を結んでいたため、他国よりも大きな衝撃を受け、当時の平沼政権が「複雑怪奇な新情勢」の出現と言い、総辞職してしまった。

 9月1日にはドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦がはじまってしまった。

 ソ連との戦争を回避したい日本は9月15日、停戦協定を結んだ。

 ソ連側も、主張していた国境線を回復したので、以後は攻勢にでることはなかった。

 ところで関東軍はこのノモンハン事件後、731部隊による細菌戦実験や細菌部隊を常設させ、その方面での犠牲者を多く出している。


 ノモンハン事件の別の一面には、細菌作戦が隠されている。

 細菌戦・細菌部隊で有名なのが731部隊(石井四郎隊長)である。

 関東軍は1930年、ハルビン南東郊外の寒村・背陰河に、暗号名「東郷部隊」の防疫研究室の秘密実験場を置いて活動をはじめる。

 36年、関東軍防疫部を新設し、石井四郎が部長となる。

 38年、ハルビン南方約25キロの原野・平房に移転し防疫部を建設(~39年)し、施設規模を拡大する。

 本拠地をハルビン郊外に構えた理由の一つに、いずれソ連と戦闘状態になったとき、満州から細菌兵器を使用するのが容易で便利だからと考えていた節がある。

 ノモンハン事件が終わる頃から、731部隊の活動は拡大されていった。

 平房近辺集落に住む人々を立ち退かせ、東北各地から集めた労働者たちに多くの建物を建てさせた。

 40年になると、強制的に狩り出してきた労働者たちを、平房特別区内で働かせた。

 常時2000人から3000人が、過酷な環境下(雨風が吹き付ける飯場、食事はコウリャンの粉、トウモロコシの粉とトチの実の粉を混ぜてつくったマントウ、凍り付いた白菜が入った薄いスープ。衣服は一枚きりの袷せで、それも 3~5年間も着たままのもの。

 病気であろうとも息をしている間は、労働現場に引き摺り出され、殴るなどの暴力は常のことであった。餓死、病死、凍死、過労死、暴行死などは日常的に発生していたと、中国人元労働者は証言している)で苦しめられていた。

 石井部隊の表の顔は、「防疫給水」(40年に部隊名を関東軍防疫給水部と名称を変更している)である。同時に731部隊とも呼ばれるようになる。

 疫病対策や飲料水の確保は、衛生環境の悪い地域などに軍隊が入る時には、重要な任務となる。その対策に石井四郎は「石井式瀘水機」で応えた。

 細菌爆弾の製造容器と、防疫給水(浄水)容器とは、形状など多少の違いはあっても、双方の容器の主な原料は珪藻土で、一定の形に仕上げていく工程には、それ程の違いはなかった。だから部隊名に「防疫給水」と付いたのだろう。

 ノモンハン事件はソ連軍との戦闘であったから、当然のようにして細菌戦を実施した。

 関東軍は40年以降、中国各地で細菌戦を行い、多くの人々を苦しめた。


4.撫順戦犯管理所

 管理所は元日本の監獄(1936年建造)である。

 日本の占領支配に抵抗した多くの中国人・朝鮮人たちが、拷問や虐待のなかで死亡していった場所であった。

 1950年2月5日、ソ連訪問でモスクワ郊外に滞在していた毛沢東を訪ねたソ連外相ヴィシンスキー(当時)が、「シベリアに残っている約2500人の日本人捕虜の中から、中国で重い罪を犯した者、満州国人捕虜合わせて1000人を送るから、その処理を行ったらどうか」とのスターリンの提案を伝えた。

 北京に戻った毛沢東と周恩来は、戦犯政策を公安部が担当し、その総指揮を周恩来が行い、戦犯収容所を撫順市の東北司法部直轄監獄(元日本の監獄)を改造して当てる事に決定した。

 監獄の壁は白く塗り替え、冬に備えてボイラー室と暖房用のパイプを引き、理髪室、医療室を設け、風呂好きの日本人のための大浴場を設け、中庭には野菜畑、ミニ運動場、演芸ホールなども設置した。

 日本人捕虜969人は7月18日の夕方、ソ連から綏芬河駅に到着。

 翌19日、中国の客車に移された。この時から日本人は、「捕虜」から「戦犯」身分として取り扱われるようになったという。

 管理所に収監された日本人戦犯の内訳は、満州国司法行政関係29名、満州国軍関係25名、満州国警察関係119名、満州国鉄路警護軍48名、関東州庁関係その他33名、関東軍憲兵関係103名、関東軍隷下部隊582名(以上、「撫順から未来を語る実行委員会」編)

 このなかに、愛新覚羅薄儀や古海忠之(元満州国総務庁次長)らがいた。

 中国側の戦犯政策は、連合国各国が行った報復的な「勝者の裁き」とは違って、「改造」にもとづいて行われた。

 「改造」とは、教育によって新しい人間に蘇生させることである。

 中国共産党の方針であった「敵軍兵士の大部分は、貧しい労働者か農民であって、搾取階級ではない。ほとんどが支配階級の間違った教育を強制され戦場に連れてこられた人たちで、もともと自分たちと同じ階級のものである。

 したがって、道理を話せば必ず理解できる。辛抱強く教育すれば新しい人間に生まれ変わる事が出来る」を、日本人戦犯「改造」に適用したのである。

 東北地方は14年間も日本に支配されていたから、所長以下管理職員のほとんどが、日本軍による何らかの被害を受けており、日本人と聞いただけで怒りが込み上げて来る感情をどうしようもなく持っていた。

 それでも周恩来は「戦犯の人格を尊重し、侮蔑したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」と指示を出した。

 この時から管理所内では、同時に2つの異なる激しい思想闘争が行われた。

 第一は、職員自身の思想認識問題(個人の恨みや憎しみを超えること)との格闘であり、第二は日本人戦犯たちの人間としての覚醍(中国・朝鮮人蔑視観や罪への自覚)への闘いであった。

 共に壮絶な学習や討論を繰り返しながら、自己変革を遂げていった。

 54年4月に宮崎弘(第39師団第232連隊第一大隊中隊長)が30余名の惨殺を告発し、同年5月に古海忠之が集会で極刑にしてくださいと泣き崩れる-そのような頃から罪の告白雰囲気が全体に出てきて、グループ別認罪運動が始まっていく。

 こうした戦犯たちの態度をみて、罪状調査(裁判用)がすすんでいく。

 55年秋に各人の起訴状の作成が終わる。

 内容は、極刑(死刑)が70人にも達していた。これは、当時の中国人職員たちの素直な、精一杯の表現であったろう。

 検察団と管理所の代表が北京で周恩来に会って、この作成内容を報告した。

 周恩来は、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期刑も出してはならない。有期刑もできるだけ少数にして、特に罪の重かった45名をのぞいた、他の戦犯たちは不起訴・即釈放の決定を下した。

 代表者たちは周恩来の決定内容を、職員たちに伝えた。

 余りにも寛大すぎる、納得できないとの決意となり、再び代表たちが周恩来に会って職員たちの声を伝えた。

 周恩来は「日本人戦犯に対する寛大な措置については、20年後に君たちも中央の決定の正しさを理解できるようになるだろう。侵略戦争で罪行を犯した人が十分に反省し、その体験を日本の人々に話す、われわれが話すよりも効力があると思わないかね」と諭した。

 56年6月19日、最高刑20年(1名)、8年から18年の有期刑44名、他は6月21日に不起訴即時釈放の判決が下りた。

 第1次釈放335名が56年7月3日、興安丸で舞鶴港に到着。

 第2次328名が同月28日に、第3次354名が8月31日に。

 最後の受刑者3名(城野宏、斉藤美夫、富永順太郎)が64年4月9日に帰国した。

 帰国者たちは57年に「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成。

 以来、全員がその後半生を中国に感謝し、日中友好・反戦平和のために努力を続けていた。この点で、他の多くの戦友会の活動とは異なっている。

 高齢化した元戦犯たちは、02年に中帰連を解散。彼らの精神と事業を「撫順の奇跡を受け継ぐ会」によって引き継がれ、今も活動が行われている。

 戦犯たちが帰国する際、管理所の中国人指導員は「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」と、全員にアサガオの種を渡した。

 「日本へ帰ったら、きれいな花を咲かせて幸せな家庭を築いてください」とも言葉をかけられた。帰国した戦犯たちは、これを「赦しの花」と名付けて咲かせ続けて、多くの人達に配った。

 数年後、一人の戦犯が咲かせ続けていた花の種を持って管理所を訪れた。

 そのアサガオの子孫は、いまも管理所の中庭で咲き続けている。私が訪れた時には、すでに花の季節が終わっており、その黒い種を少し持って帰った。

※731部隊については、別の機会に原稿とする。


                                       2012年9月20日 記
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「第一報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」 

「第一報 4年ぶりの日朝政府間交渉の行方」 

                                                名田隆司


 戦時中及び日本の敗戦直後に、朝鮮北部で亡くなった日本人の遺骨調査・収集や遺族たちの慰霊 (墓参)実現のため、日朝赤十字会談が8月9・10日、北京で開催された。

 この問題は昨年末頃から、日本の民間団体(「全国清津会」など)や個人などを通じて、北朝鮮側から「民間団体を受け入れる」とのメッセージが伝えられていた。 (現在、政府間交渉の窓口がないため)

 にも関わらず野田政権では、「拉致問題が動く見通しが立たないのに、遺骨問題を認めることはない」などの意見に押されて、政府間接触はおろか、民間団体の「全国清津会」の訪朝要請さえ認めてこなかった。

 4月以降、多くの親朝鮮団体や一部メディアを通じての情報と、遺族たちの強い要望もあって、外務省も「政治問題」から人道問題へと理解するようになったようだ。

 北朝鮮側は、住宅や道路建設中に埋設されていた日本人のものと思われる遺骨が大量に出てきたために、建設工事などを中止して、早く日本側に引き取ってもらいたいと関係団体に連絡をしていた。工事建設関係が遅れるため、急いでいたのだ。

 そのような事情を知ってか知らずにか、野田政権を後押ししたのは、拉致被害者家族会の「遺骨収集も使って、金正恩に届くパイプを作らなければ、拉致問題は解決できない」 (横田滋氏)のひと言であったことを知って私は、 4年ぶりの政府間交渉の行方に危惧すると同時に懸念をしていた。

 日本人遺骨問題が人道問題だと納得した野田政権はやっと、日朝赤十字会談(10年ぶり)に同意した。

 赤十字会談では、双方とも以後の会談では政府間交渉の必要性を認めて、8月29日から政府間予備交渉(課長級)を開催することで合意した。

 北朝鮮との政府間交渉が4年ぶりとあってか、それとも米国・中国・ロシア・韓国などとの外交関係の閉塞感を打破するキッカケにしようと考えたのか、政権内外での高揚感が気になっていた。

 「拉致問題を(交渉の)争点から外すようなことがあってはならない」(玄葉外相)、「(北が)遺骨問題を提起し、拉致問題の棚上げを図るのではとの懸念する意見も多々ある」 (松原拉致担当相)、「日朝両国には、遺骨問題に限らず、拉致問題をはじめさまざまな諸懸案がある。日本としては、拉致問題は、当然議題に含まれるとの姿勢だ」 (藤村官房長官)-などと、政府間予備会談が始まる前から、会談の性格やテーマを無視した発言が相次いでいた。

 マスメディア側も、さも「拉致問題」が交渉テーマであるかのようにして、報道をし解説をしていた。

 野田政権もまた、暗礁に乗り上げた局面打開への糸口を探るため、本議題とは関係のない 1.拉致問題、 2.核・ミサイル問題、 3.特定失踪者問題、 4.よど号犯問題、 5.日本人妻の一時帰国問題などを、議題にすることを早々に決めていた。

 またしても「拉致」一辺倒の声を背に受けて、日本の担当者は北京での8月29日からの政府間予備会談に臨むことになった。

 北京での予備交渉の子細が明確に報道されなかったために、決して順調に議題がこなされているとは思えなかった。

 日本側担当者が律儀に、本テーマとは別の拉致やその他の問題を押し込むため、苦労している様子が、少ない報道の裏側からでも透けて見えていた。

 案の定、双方が本国との協議時間が必要なため、2日間の予定を1日延ばして、本協議開催 (局長級)へとつなげることができたようである。

 報道側も、拉致問題が本協議の議題に入ったかどうかが、さも重要なことのようにして伝えていた。

 政府側も「確定的には言えない」と「事実上同意した」との見方に分かれていて、「拉致問題」が確実な言語表現として交渉できなかったことを示していた。

 にも関わらず松原仁拉致問題担当相は9月1日、東京都内のホテルでの拉致被害者家族会との懇談会で、「拉致問題を次回協議(政府間交渉)のテーマに挙げることで、一定の位取りができた」と成果を強調していた。

 内外の政治的難題を抱え込んでいる野田政権の、せめてものリップサービス言語だったとはいえ、オプティミズム以下の場当たり的発言のように聞こえる。

 こうした政府側の言動を受けた被害者家族会も、「今後失敗したら大変な問題だ。スピーディーに解すべく計画を立てて、北朝鮮に対して強い態度で臨んでいただきたい」 (家族会代表の飯塚繁雄氏)、「どういう折り合いになるか分からないが、少し希望を持ちたい」 (横田早紀江さん)などと、政府間交渉に期待をつなごうとしていた。

 その気持ちはよく分かる。
 
 それでも、今回の政府間交渉のきっかけが、日本人遺骨問題であったことを知っていたのなら、日本人遺族の人たちに対してひと言でも、ねぎらいの言葉を付け足して発言してほしかった。

 家族会の誰からもそうした言葉を聞くことがなかったことを、非常に残念に思っている。
(それとも記者たちが聞きもらしたのであろうか)

 しかし、10年以上前の家族会の主張は、「北朝鮮とは交渉するな」「北朝鮮への制裁を強化せよ」「金正日体制を崩壊させる」-などではなかったのか。

 忘れっぽい日本人は、10年以上前の発言など誰も覚えていないのだろう。

 今回、家族会の主要メンバーたちの「政府間交渉による解決を、期待」の発言を知って、おやっ、態度変更をしたのかなと考えたのは、私ひとりではあるまい。

 彼らが交渉による解決へと変化したことを、それでも私は了解したい。

 だが、今回もまた拉致問題一辺倒になっていることに、私が憂慮していたように、北朝鮮外務省報道官が9月5日、「本協議の議題に、拉致問題が含まれることを我々が受け入れたなどと日本側が言っていることは全く事実に合わない」(朝鮮中央通信)と、日本側の発言を完全否定していた。

 これまで野田政権側が言ってきた、本協議では双方が関心を有する事項を議題とする-日本側の関心事項に拉致問題が含まれるのは明らか-相手も日本側の考えを十分に理解していると考えている、などの言説は、全く日本側による日本人向け (主として家族会など)のものでしかなかったことが、これでよく分かった。

 またしても日本の稚拙な外交交渉を、見せつけられた思いだ。

 日本社会は、「拉致トラウマ」に陥ってしまっていて、北朝鮮との政治交渉では未熟なところが散見される。自らの未熟さを、相手(北朝鮮)に押しつけ、相手だけの問題にすることだけは避けてほしい。

 いかなる結論になろうとも、今回の責任は野田政権が負わねばならないだろう。


                                        2012年9月6日 記

「橋下大阪市長の『慰安婦』発言を糾す」

「橋下大阪市長の『慰安婦』発言を糾す」

                                               名田隆司


 大阪市の橋下徹市長は8月21日、政府が韓国との間で領土や歴史認識 (軍慰安婦)問題などでトラブっている事に関連して、市役所で記者団

の質問を受けた。

 そのなかで戦時中の従軍慰安婦問題に関し「慰安婦が軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられた証拠はない。あるなら韓国にも出してもらいたい」と述べていたことを、短く報道していた。(22日付)

 橋下氏は「慰安婦制度は今から考えると倫理的に問題のある制度なのかも知れない」 (いま考えなくとも倫理的に問題があることにも気付かない、あいまいな認識だ)と説明し、「韓国の言い分を全部否定しているわけではない」とも述べた。

 その上で (韓国側の認識を理解した上でということ)、論点を整理すべきだと、弁護士らしい持論を展開していた。

 従軍慰安婦問題に関しては、南北朝鮮、中国、フィリピン、タイ、台湾などから、彼女たちが直接、日本政府を訴えていたこともあって、93年に重い口を開いた。

 当時の河野洋平官房長官が談話で、慰安所の設置、管理、慰安婦移送に関する「旧日本軍の直接、間接の関与」と、慰安婦募集をめぐる強制性を認めた。

 橋下氏も軍慰安婦の存在自体は否定していないから、河野談話のことは知っていたものと思われる。

 彼が言うように、彼の発言を少しだけ「論点整理」してみよう。

 「慰安婦が軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられた証拠はない」との発言は、「軍は(慰安婦に)暴行、脅迫」はしていないと言っているのか、それとも「軍は (直接的には)関与していない」と言っているのか、その表現の強調の仕方によっては迷うところであるが、いずれにしても「軍の関与」を弱めようとしているようだ。

 また、彼女たちを連行する際の「暴行、脅迫」などの証拠はないと主張しているのだが、では各戦場地に彼女たちが納得して赴いたとでも言うのであろうか。

 今では日本の学者・研究者たちも、彼女たちを連行したのは旧日本軍の命令であったことと、連行する際の甘言、暴行、強制などを実証報告している。

 先の河野談話(宮沢政府)においても、慰安婦募集に関して、旧日本軍の「直接、間接の関与」と連行する際の「強制性」を認めている。

 日本軍「慰安婦」研究家の西野留美子氏は彼女たちが募集された形態を、第1に「よい働き口を紹介する」といったような就職詐欺ケース、第2に居住地や路上からの拉致による強制連行のケース、第3に「挺身隊」の名目で連れ出されたケース、第4に借金のかたに軍委託業者らに売られたケースがあり、第2のケースが最も多かったとしている。

 ということは、ほとんどが詐欺的な強制連行による暴力であったことになる。

 連行された女性たちのなかには、11,12才の少女たちが多くいたというから、決して本人同意や契約があってのものではないだろう。

 しかも行き先も告げられずに、見知らぬ土地に着いたその日から、暴行を受け続けた少女たちは、肉親や故郷とは完全に遮断された、孤独と暴力の世界に投げ出されてしまったのだ。

 どれほどの寂寥と荒涼たる風景が、彼女たちを苛んだことであろうか。

 彼女たちの募集、徴集、連行、監視に関わってきたのは、日本各県の勤労報告会、警察、特高、憲兵の組織で、しかも国策としての軍管理・統括の慰安所システムのなかに、若き女性たちを放り込んだのだ。

 軍隊が駐屯する先々には軍が管理する慰安所が設置(民間業者にやらせる)された。

 慰安所の設備などは軍が直接的に関与し、営業に関することは軍指定の民間業者が行った。 (営業だといっても、彼女たちは金品を貰っていない)

 以上、いかに橋下氏でも慰安所が旧軍の施設であったことを、否定はできないだろう。

 当時、儒教概念の強かった朝鮮社会に住んでいた女性たちにとって、性を強要されるような場所で働くことなど、死ぬほど恥ずかしいという道徳観を持っていたはずだ。(公娼制度があった日本でも)

 「性慰安所」などのようなところで、誰が働きたいと思うだろうか。

 だから旧軍も公権力の機関と人間を駆使して、嘘を付き甘言を弄し、畏怖させるなどして、無理に狩り集める(本人の意向に反して)ことしかできなかったのだ。

 彼女と保護者たちも精一杯の抵抗をしただろう。

 そのような現場では、言葉や行為以上の暴力があってもおかしくはない。

 橋下氏らが言う暴力などの証拠はない、という思考は男の論理でしかない。

 さらに橋下氏は傘にかかって、そのような証拠が「あるなら韓国も出してもらいたい」などと、被害者側の実証責任論という古臭い弁護士手法を持ち出してきたが、傲慢な態度そのものである。

 「証拠」なら、これまで各国から本人たちが証言している。橋下氏には、彼女たちが「恥じ」を忍んで発言していた時期には、耳を塞ぎ目を塞いでいたのであろうか。

 知らなかったとは言わせない。日本軍は敗戦直後に部隊を撤退させる場合、慰安所にいた女性たちには何も告げずに現地に置き去りにした。
 
 部隊が撤退した後で事情を理解した彼女たちは、現地人(中国人など)たちの助けを受けて、かろうじて朝鮮にまでたどり着いた。

 帰国した彼女たちと彼女の周辺社会では、貞操観、蔑視観、畏怖観、精神的トラウマなどが疼いていて、故郷も安住の地ではなく、「慰安婦」であったことなどは語ることもできずに伏せて、かろうじて身を潜めて底辺の生活を維持することだけであった。
(日本帝国主義の最も残酷な後遺症に、彼女たちは長年苦しめられ続けてきた)

 元「慰安婦」の彼女たち (南北朝鮮とアジア各地)が、長い沈黙を破って勇気を出して日本帝国を告発(90年代)したときには、彼女たちは老齢期を迎えていて、肉体は蝕まれ、「証拠物件」など持ち合わせてはいなかった。

 旧軍の日本兵たちも、自らの経験を「恥じ」として、誰一人として語り出すこともなかった。橋下氏などが言う「証拠」とは、どのような物を指しているのだろうか。

 93年4月、在日韓国人の宋神道 (ソン・シンド)さんが、たった一人の「従軍慰安婦」戦後補償裁判を、日本政府相手に起こした。

 彼女は「死ぬ前に真実を話しておきたかったからだ」と、やっとの思いで人間としての尊厳、生存権、主体性を吐露する決心をしたことになる。

 ここまでに50年近い葛藤の歳月を必要とした。

 その頃までには韓国の元「慰安婦」たちの、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求」裁判なども進んでいた。

 宋神道さんは「金が目的ではない。日本政府に心から謝ってほしいだけだ」として、金銭による補償請求ではない「謝罪請求」裁判を続けた。

 私自身、93と94年に北朝鮮に住んでいる元「慰安婦」数名の方々を、平壌でインタビューしたことがある。

 彼女たちも「自分の青春を返してもらいたい」「日本政府に謝罪をして貰いたいだけである」などと、その無念の人生を涙を流しながら訴えていたことを、いまも思い出す。

 こうした一連の勇気ある提訴、告発の声を受けた日本政府は、「従軍慰安婦」についての第一次調査報告(92年7月)、第二次調査報告(93年8月)を発表した。

 第二次調査報告 (宮沢政権時)が、先の河野談話であった。

 最近、河村たかし名古屋市長が「南京市民30万人殺害(1937年12月)はなかった、と発言して中国などから批判されていた事件があった。

 旧日本軍が南京を占領した際に、多数の中国兵士、捕虜、市民、女性、子供たちを虐殺し、略奪、強姦、暴行、放火など、目も当てられぬ惨状を重ねた事件である。

 当時から中国側は、30万人殺害説を主張していたが、日本は当時の軍部から「皇軍の名誉」に関わるとして、新聞各社に虐殺の事実などは検閲でカットして報道させた。

 そのため新聞報道などでは、中国人の死者は4万人ほどだと、でたらめな少ない数字を扱った。(軍などが米英からの批判を恐れていたからである)

 その後も、この新聞報道が一人歩きをはじめた。敗戦後も日本の歴史学会、政界、言論界などの一部では、当時の新聞情報を「証拠」だとして、 30万人殺害説を否定する論陣を展開していった。

 証拠があるなら出せと、中国側に言い募ってきたのも、「軍慰安婦」の軍関与や強制連行などで、「証拠」を朝鮮側に出せと言っていることと同じである。

 河村氏の発言は歴史と真実を否定し、中国人をも侮蔑している態度になっている。

 さらに重傷的問題なのは、日本の一部歴史学会、言論界、政界、マスコミ界などで、彼のような発言を肯定的に受けとめる傾向があり、河村発言を批判追及していない点である。

 「軍慰安婦」については、さすがにその存在を否定できないため、橋下氏も彼女たちの悲惨な存在を認めたうえで、旧軍の関与をできるだけ軽減しようとする思考的態度がみられる。

 日本帝国・植民地時代の歴史認識においては、橋下氏も河村氏と少しも変わらない。橋下氏は「国民への近現代史教育に力を入れる必要性」を主張していたが、そのことについては賛成である。だが氏もまた、しっかりと学んでもらいたいものである。

 橋下氏が近現代史を学ぶ前に、タデウス・シマンスキ氏の言葉を贈っておきたい。

 「知らなかったことは、忘れることはできない。忘れるには、まず、知らなければなりません。忘れることができるのは、知っていることだけです」 (岩波ブックレット「恐怖のアウシュビイッツ」)

 シマンスキ氏はアウシュビイッツの生き証人の一人であったため、長い間、自らのことが語れなくて苦しんできたという。

 私たちは帝国日本が犯してきた罪、植民地主義者が犯してきた罪、その歴史的事実と内容を、どれだけ知っていると言えるのか。

 軍慰安婦、731部隊が展開した細菌戦と人体実験、南京大虐殺、朝鮮人の強制連行や名前や言語を奪ったこと等を、その歴史的事実と内容を、私たちはどれほど知っているのだろうか。

 知らないということや、知らなかったという責任は、非常に重いということを知らなければならない。

 日本政府は未だに、各国の「軍慰安婦」たちが願っていた謝罪さえ実現することなく、彼女たちの人間性をさえ回復させていないため、無視・無言の時間だけを重ねている。何と傲慢なことであることか。だから、河村氏や橋下氏のような発言を、平気で迎える社会になっているのだと思う。

 「慰安婦」関連の最近の動きを記しておこう。

 韓国の元「慰安婦」たちや韓国挺身隊問題対策協議会などが、90年代初めから駐韓日本大使館前で行っていた「水曜デモ」が、2011年12月で1000回を迎えた。

1000回デモを記念して、日本大使館前に「少女像」 (連行された当時の彼女たちの姿)を建立した。

 「水曜デモ」は、日本大使館前で毎週水曜日正午、被害者ハルモニたちを含む支援者たちが集会とデモンストレートを行ってきたのだ。

 92年1月から毎週同じ時間に同じ場所に立って、「日本政府は私たちに公式謝罪をせよ」の言葉だけを叫び続けてきた。(過去に1回だけ中止したことがある。95年1月18日の水曜日、前日に発生した「阪神淡路大震災」被害者の日本人に同情して)

 日本政府は、被害ハルモニたちや「韓国挺身隊問題対策協議会」が公然と名乗りでた91年当初、「民間業者がやったことで政府も旧軍も関与はしていなかった」と白を切っていた。宮沢政権の93年になって河野談話を出し、公式的な関与を認めたのだ。
(関与を認めたとは言え、その後の歴代政権は公式的な補償も謝罪もしてこなかった。 村山政権の「アジア女性基金」は、国家賠償ではなく国民からのカンパであった)

 さらにソウル市内に「戦争と女性人権博物館」 (12年5月5日開館式)をオープンしている。

 同館は日本軍「慰安婦」問題の解決を求めるとともに、この間題を後世に伝え、帝国主義を告発していく拠点にしようとしている。

 建物は地下1階、地上2階建てで、「慰安婦」問題関連資料室、「慰安所」の再現室、解決運動史、「慰安婦」被害者らの遺品展示室などからなっている。

 ゲイ・マクドウーガル元国連人権委員会特別報告官は12年2月17日、大韓国際法学会での基調演説で、日本は「1965年の日韓請求権協定に依存し、法的責任を免れようとすべきではない」と指摘した。

 さらに「慰安婦問題は記憶可能な戦争犯罪のうちで最も極悪なもので、『慰安婦』とか『慰安所』といったえん曲な表現は、性奴隷、強かんセンターと言いかえるべきだ」と、日本政府の態度をはっきりと批判した。

 現野田政権までの日本政府は、戦後補償が問題になるたび、戦後補償問題は解決済みだとの主張を繰り返してきた。

 その理由として、1965年に締結した日韓請求権協定の第2条、二国間請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」を持ち出して、法的にも政治的にも決着しているとの立場を取ってきたのだ。(都合のよい解釈だ)

 ところが宮沢政権末期になって、日韓条約で完全かつ最終的に解決 (相互に放棄した権利)したものは、日韓両国が国家として持っていた外交保護権だとの認識を表明した。

 つまり、国家間の請求権は放棄したけれども、個人の請求権まで消滅したのではないとの見解であった。

 「慰安婦」や強制連行労務者たちの個人の請求権は、決して奪われないものであるということであり、前向きな開かれた解釈であった。

 同様のことは、韓国最高裁が12年5月、「不法行為に起因する損害賠償請求権が、協定の適用対象に含まれるとみるのは難しい」との判決を下し、個人の補償請求権は存在していることを、はっきりと結論した。

 このように日韓および国際社会では、「慰安婦」など個人の戦後補償、帝国・植民地被害への清算と解決を、早急に行うことを要求していた。

 また、米国在住韓国系団体が、米紙ニューヨーク・タイムズに5月29日付けで、全面意見広告を掲載した。

 「覚えていますか?」と題した広告は、1970年に西ドイツのプラント首相がワルシャワのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)碑前でひざまずいている写真を掲載し「日本はドイツの行為から学ぶ必要がある」として、「軍慰安婦」問題に対して適切な謝罪や補償をしていない日本政府を批判して、一刻も早く「心のこもった謝罪をしなければならない」ことを主張している。

 こうした行為は一部のインテリだけではない。米ニュージャージ州パリセイスバーグ市の公立図書館に、慰安婦の碑が設置(10年10月)された。

 韓国系米国人の団体が設置したのだが、慰安婦は日本帝国政府と軍によって拉致された20万人以上の女性と少女たちだとしている。12年5月に日本の自民党有志議員団が撤去を求めたが、市側は拒否をした。

 2つ目の「慰安婦」碑が、ニューヨーク近郊のナッソー郡アイゼンハワーパーク内に設置(12年7月)された。

 碑文には、「日本軍が性的奴隷にするため、20万人を超える少女らを強制動員した。これらの犯罪は必ず認められるべきで、絶対に忘れられない」と、強いメッセージで日本を告発している。

 在米韓国人らは、少女たちを軍が「拉致」「強制動員」したと主張している。敗戦から67年、元「軍慰安婦」たちもほとんどが無念の涙のなかで、日本政府に恨みを残して亡くなってしまった。

 亡くなってしまった元「慰安婦」たちのためにも、ソウルの「少女像」に嫌がらせメッセージを付けたり、米ニュージャージ州やニューヨークの「慰安婦」碑撤去を求めるなどの、姑息な行為は止めるべきだ。

 「1965年の日韓請求権協定に依存し、法的責任を免れる」べきではないとのゲイ・マクドウーガル氏の言葉は、野田政権に忠告しているのではないか。

 日本の政権、政治、司法は、個人の請求権を奪ってはいけない。あくまでも被害者個人を、一日も早く救済する思考力に立ってもらいたい。

 67年経ってもまだ、彼女たちに謝罪も補償も出来ない日本政府は、帝国主義・植民地主義の酒算を終えていなかったことを、私たちはしっかりと告発していく必要がある。



-追記-

 以上の原稿を書き終え、さらに別のテーマの短い原稿執筆を終えたところで、息抜きのために図書館へ行き、読売新聞(購読していなかったもので)を読んだ。

 小さな記事ではあったけれど、東京の石原慎太郎知事と大阪市の橋下徹市長がそれぞれ、「河野談話を否定」との24日の記者会見の記事が目についた。

 「橋下氏を糾す」を執筆したばかりの私には、他の大きな活字見出だしよりも、この記事がいやがおうでも飛び込んできた。

 石原氏は「日本軍が強制して売春させたなんて証拠がどこにあるのか」と語り、河野談話を「訳も分からず(強制)を認め、日本と韓国の関係を駄目にした」と、93年当時の政府を批判した。

 橋下氏もまた同じく、河野談話について「無理やり強制連行させたと韓国側が受けとるあいまいな表現になっているのが一番の問題で、日本政府は大失態だ」と批判し、「政府は直ちに是正すべきだ」と訴えた。

 「軍慰安婦」たちへの強制性(連行および性行為)がなかったと強調する二人の精神構造は、正常と異常が区別できない地点に達しているパラノイア症に陥っているといえよう。

 どの時代どの国の女性たちも、一日に30人も40人も性の相手をさせられて納得する者などいない。それは全く異常な世界である。

 そのような異常な世界に誰が、好んで存在したいと言うだろうか。

 「慰安婦」に関する全ての「強制性」を否定する二人には、その否定する根拠となる「証拠」を提出してもらいたい。

 彼らは自己都合のよい資料から、断片的な部分を取り出して発言し、帝国社会を紡いでいこうとしていて、非常に危険な存在だ。

 彼らこそ、過去と未来の歴史を冒涜する者だ。

 二人は河野談話を否定し、この談話によって韓国に誤ったメッセージを送り、日韓間をだめにしていると断じている。

 93年当時の日本政府が「河野談話」を出したことは、「軍慰安婦」問題で当時の政府と旧軍の関与を認めるという歴史認識を示し、その後の謝罪と補償問題を後継政権に委ねたのである。

 後継の歴代政権が、宮沢政権のメッセージを実行してこなかったことのつけが、たびたび外交問題を引き起こしているのだ。

 現野田政権にしても、韓国との戦後補償は65年に締結した「日韓請求権協定」で政治的に、完全かつ最終的に解決していると言い、93年の河野談話は尊重していると矛盾したスタンスを取っている。

 これは何も実行したくない、実行できないと言っているのと同じで、歴史健忘症に陥っている。

 歴史健忘症たちのためにも、河野談話が出された歴史的背景を考えておく必要がある。

 90年代に入り、「軍慰安婦」ら戦争犠牲者たちが長い沈黙ののち、自らの言葉を紡ぎ始め、それを法廷に持ち出した。

 51年9月に対日講和条約が調印された直後から、「戦争犠牲者援護」問題が浮上し、「戦傷病者遺族等援護法」(52年4月)が公布された。

 だが、その対象は軍人、軍属、準軍属など、戦犯を含めた戦争責任の主体者(日本人)を保護するシステムでしかなかった。

 このような国内法、国内政策は、戦争を真に反省している行為ではない。

 しかも日本国籍に拘泥し、日本国内にのみに向けられたもので、アジア各国に対する加害行為への認識と反省に全く欠けていた。

 このため「醜業を行はしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」(軍慰安婦)、「強制労働に関する条約」(強制連行労務者)など、数々の国際法違反行為・条約義務違反があるとして、個人への戦後補償・被害者への個人救済問題が、国内外で大きな論点となっていった。

 軍慰安婦問題について言えば、上記のような動きが背景にあって、宮沢政権になって国会での議論があり、政府は91年12月から関係資料の調査を始めた。

 宮沢首相(当時)が92年1月に訪韓した際、盧泰愚大統領(当時)から(慰安婦)実態解明への強い要請があった。

 それ以外にも関係諸国からの強い関心への表明があって、政府の調査作業が急がれた。

 調査地域と内容の範囲は広く、学術的にも精査された。

 政府が発表した調査の具体的な概要は以下の通りである。

*調査対象機関/警察庁、防衛庁、法務省、外務省、文部省、厚生省、労働省、国立公文書館、米国国立公文書館

*関係者からの聞き取り/元従軍慰安婦、元軍人、元朝鮮総督府関係者、元慰安所経営者、慰安所付近の居住者、歴史研究家等

*参考とした国内外の文書及び出版物/韓国政府が作成した調査報告書、韓国挺身隊問題対策協議会、太平洋戦争犠牲者遺族会など関係団体等が作成した元慰安婦の証言集等。その他数多くの関係出版物に当たったとしている。

調査結果で、以下の点が明らかにされた。

*慰安所設置の時期/昭和7年・上海事変が勃発した頃より存在し、その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりをみせた。

*慰安所が存在した地域/確認できた国または地域は、日本・中国・朝鮮半島・台湾・フィリピン・インドネシア・マラヤ (当時)・タイ・ビルマ(当時)・マカオ・ニューギニア(当時)・仏領インドシナ(当時)・香港。

*慰安婦の出身/日本・朝鮮半島・中国・台湾・フィリピン・インドネシア・オランダ。

 戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本を除けば朝鮮半島出身者が圧倒的に多い。

*慰安所の経営及び管理/一部地域では旧日本軍が直接経営したケースもあった。民間業者が経営していた場合でも、旧軍がその開設、整備、利用時間、利用料金、注意事項などの面で、直接関与した。
 
 慰安婦たちは戦地においては、常に軍の管理下において軍とともに行動させられ、自由もない痛ましい生活を強いられていた。

*慰安婦の募集/軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者らがこれに当たることが多かった。戦争の拡大とともに人員の確保の必要性が高まり、その状況下で、業者らが甘言を弄し、畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集められた。

 以上の調査結果を踏まえて、河野談話となったのである。

 河野官房長官(当時)は、談話の最後で「我々はこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。

 我々は、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と結んだ。

 立派な言葉だ。以降の政権がこの河野談話の地点を踏まえ、そこから戦後処理問題を解決し、過去の清算を行っていたならば、今日のようなトラブルはなかったであろう。

 ところで「日本版ネオコン」(教科書問題など)たちが登場してきた時の彼らの主張と、橘下・石原・河村氏らの主張とが、そっくり同じである。

 日本版ネオコンたちは、南京大虐殺はなかった、性奴隷としての日本軍慰安所制度はなく、単なる商行為、売春婦にすぎない、南京大虐殺や従軍慰安婦問題は、「国内外の反日勢力」のプロパガンダによってでっちあげられたものである、大東亜戦争はアジアを植民地支配から解放する戦争であった、などと盛んに宣伝していた。

 こうした言動をする者こそ、植民地支配を反省しない無責任な超国家主義に陥っており、韓国や中国、アジア諸国が警戒している。

 最後に、05年時の二人のメッセージを紹介する。一人は、第86周年3・1節記念式辞(2005年3月1日)での盧武鉉大統領の演説と、もう1人は、「ジャーリスト同盟」(東京)での「05年1月勉強会」で元慰安婦の李容洙(リヨンス)さんのメッセージの一部を伝えておこう。

 05年は、今回と同じく、領土問題(竹島-独島)と歴史認識問題(軍慰安婦問題など)で、双方ともナショナリズム爆発していた。また、両国政府間で合意し、進めていた「日朝歴史共同研究」(6月10日に報告書を公開)でも見解が対立していた時期であった。

 盧武鉉大統領は、日本との健全な未来関係の構築のために、極めて抑制的に語り、日本政府に過去の問題に対して真摯に向かうよう訴えていた。

 「・・・(日本との)二国間関係の更なる発展には、日本政府と日本国民の真摯な努力が必要です。日本は過去の真実を究明し、必要があれば賠償し、和解しなければなりません。それが世界のあらゆる国々で見られる歴史清算の普遍的なやり方です。私は日本人拉致問題を巡る日本国民の怒りを十分に理解します。しかし、同じように日本が自らを反省することも同時に要請したいのです。

 日本が、強制徴用から従軍慰安婦問題に至るまで日帝36年間に数千、数万倍の苦難を強いられた我が国民の憤怒を理解することを望みます。

 私は今再び、日本人の知性に訴えたいのです。日本が、誠実な自己反省に基づき、韓日間の感情的なしこりを取り除き、傷口を癒すことに主体を発揮して欲しいと思います。

 それこそが、先進国として誇り高い日本が、知性的国家としての存在を示すことであります。そうしなければ、日本は過去の束縛から逃れられないし、経済力や軍備面でいかに強力になろうとも、日本が隣国の信頼を得て国際社会で指導力を発揮するのは難しいことです。

 ドイツはそれができた。その結果、それだけの待遇を受けいてます。ドイツ人は自らの過去を探求し、賠償をし、これらの断固たる倫理的行為により、欧州統合において指導力を発揮しました。

 ・・・韓日関係の国交正常化自体は不可避であったと考えます。永久に対日関係を修復せずにはいられないし、当時の政府が我々の求める全ての項目を勝ち取れなかったのには理由があったでしょう。

 しかし、日本の支配下で苦しみを受けた個人の立場から見て、国家が国民個々人の賠償請求権を一方的に処理したことは納得しがたいことだろうと思います。

 遅まきながら、政府はこの問題の解決に向けて積極的に努めてゆきます。

 政府は、適切な解決を求めて、一般国民の声に耳を傾け、国会とも協議してゆきます。

 ・・・賠償請求権への取組みと並行して政府は、これまで葬られてきた真実の究明に力を尽くす一方で、日本での韓国人被害者の遺骨回収と本国帰還など、関連の問題に積極的に放り組んでゆきます。

 日本も法的側面を超えて、人類社会の普遍的な倫理と隣国からの信頼にかかわる問題という認識をもって積極的な姿勢を見せてくれなければなりません・・・。」


李容洙さんのメッセージ。

 「今年は解放から60年を経過しますが、日本は本当に反省していない。過ちを感じていない。・・・私が名乗り出て13年経ってもまだ日本は反省しておらず、罪を犯したことを感じていない。将来を担う若者に教訓になるように育てて、平和に解決してほしい。

 ・・・私は日本が犯した罪が憎い。罪は絶対に許さない。しかし人間は憎くはない。

 日本政府は謝罪し、それも土下座までして謝らないといけないと思う。

 私が幼かった15才のある晩、軍服を着た日本人が一人の女性と一緒にやって来て、私を連れ去った。私は何がなんだかわからなかった。

 ・・・子供のような、まだ咲いていない花をむしり取った罪を反省して欲しい。本当に悪いことをしたと思って、日本は青春を賠償しない限り、進むことができない。

 ・・・昨年12月に訪日の際、一番大きく報道されていたのが北朝鮮による日本人拉致問題だった。毎朝毎日毎晩、ずっと放送していた。拉致事件に怒りを感じ、それを報道することが大事だと思うのは、それは命が大事だからだ。

 しかし数十万名の子供たちを連れ去って性的暴力を加えた、そのために60,70、80歳になっても独身で過ごしているその人たちに、青春を奪った罪を謝罪してから、北朝鮮にも謝罪を要求してください。間違っているだろうか。自分のやったことは、必ず巡って戻ってくる。罪を犯したままで生きていくことはできない。

 ・・・たくさんのおばあさんたちがハン(うらみ)を抱き、病に苦しんでこの世を去っていった。ハルモニたちの涙は血の涙だ。・・・あなたたちは人の命がどれだけ尊いか知っているか。あなたたちも命は大事だ。私たちの命も同じだ。みな人間として、我々の痛みも分かるはずだ。

 ・・・日本は必ず我々に公式謝罪をして欲しい。失われた青春に賠償して欲しい。」
(翻訳 ジャーナリスト川瀬俊治氏ら)-注、 05年の朝鮮半島は日帝解放から60周年と、日韓国交正常化40周年を迎えていた。


以上、この文章を読まれた方々の知性にまかせて、私からは何もコメントはしない。


                                   2012年8月24日と25日 記

「張成沢国防副委員長の訪中を考える」

「張成沢国防副委員長の訪中を考える」

                                               名田隆司


 中国を訪問していた朝鮮の張成沢国防副委員長は8月17日、胡錦涛国家主席、温家宝首相など、中国首脳と北京で相次いで会談している。

 張成沢氏は朝鮮労働党の立場で、貿易と朝中経済協力などについて指導しており、今回の訪問で、朝中国境近くの羅先地区、黄金坪島 (ファングムピョンド)・威化島 (ウィツァド)地区での朝中共同開発に関する会議(13日に北京入りし、14日に)出席して北京に戻った模様である。
 黄金坪島・威化島での共同開発は、中国側が同地域を「市場メカニズム」方式での開発にこだわっていたこともあって、合意から一年以上、工事が進んでいなかった。

 今回も中国側 (温家宝氏)は、市場メカニズムの機能を活用すれば「土地や税収面で良好な条件を生み出せる」と、法律の整備や企業投資の奨励、関税、サービス関連の改善など、「中国式」経済改革方式を求めていたようだ。

 張氏は「中国と緊密な連携を取りながら協力を発展させていきたい」と応じ、経済の「中国式」改革には慎重な言い回しで否定した。

 4月、金正恩第一書記が最高指導者として登場して以降の朝鮮は、党を中心とした社会主義体制本来の政治スタイルに戻し、引き続き経済発展を第一主義に掲げた。

 また、金正恩体制を法的に支えるため、党規約と社会主義憲法を修正・補充した。

 金日成・金正日主義を唯一の指導思想とし、金正日同志を永遠の総書記(党規約)、金日成同志を永遠の主席に、金正日同志を永遠の国防委員会委員長(憲法序文)とした。

 つまり、今後の政治スタイルも金日成・金正日時代と変化がないことを法制化したことになる。

 ただ、金正日時代に強調していた軍中心スタイルから、党を中心としたスタイルに戻したことで、西側の周辺諸国では安堵と共に、何らかの変化があるのではないかとの期待をしてきた。
 
 それは彼らの帝国主義的観点からの、楽観論にしか過ぎないようである。

 確かに2010年頃から、外国からの投資が予定以上には集まらず、今年の早魃と水害が重なって農業や炭鉱などに甚大な被害を与えていて、経済政策に苦しんでいる。

 張氏が中国を訪問したのも、その苦境からの脱出にあったのだろう。

 中国は、自らも経験した効率の悪い社会主義経済政策の衣を脱ぎ捨てることを、再三にわたって朝鮮側に忠告してきた。

 近年、朝鮮との共同開発や共同事業を進めているのも、東北地域への経済開発を推進していく一つの手段と、「中国式」経済改革を朝鮮側に教えて、自らの経済活性化へと導く思惑があったのだろう。

 朝鮮側がそのレールを走らないため、共同開発現場では齟齬が生じており、中国側も朝鮮への投資を控える側面があった。

 その空白を埋めることが、今回の張氏の役割であったのだろう。

 金正恩朝鮮 (張成沢氏)は、これまで独自の経済利益を持っていた軍の抵抗を押さえ、経済政策を党中心に内閣一元化で進めることと、国境地帯の朝中共同開発では投資関連法の改訂などで、環境整備を進めていくことを説明したと思われる。

 朝鮮側としては、ぎりぎり一杯のところであったろう。

 なぜ中国は朝鮮に、経済の「中国式」を要求するのであろうか。

 中国が要求することは、経済理論の問題のようでいて、しっかりとした政治的問題なのである。しかもそれは、朝鮮対米国との戦いなのである。

 現在の米国と中国は、軍事的には対立ポーズを取りつつ、経済関係ではどちらも重要なパートナだと認識をして対応している。

対朝鮮関係でも、米中の思惑はおおむね一致しつつ、別々の顔を持って対処している。

 朝鮮と敵対関係にある米国は、国交も開かず、経済投資も行ってはいない。

 だからと言って、経済・投資・市場・貿易分野での朝鮮に魅力を感じていない、という訳ではない。

 朝鮮の貴重な各種地下資源については、すでに十分な調査を済ませて、第三国企業経由での資本参加や開発プロジェクトに加わっている。

 また、幾つかの一般商品も他国企業を通じて(間接貿易)朝鮮(少なくとも平壌には)に到着している。

 なぜ、このようなまだるっこい、間接的な市場確保しか行わないのだろうか。

 第一は、朝鮮がまだ社会主義体制を堅持しているからである。

 朝鮮が社会主義体制のままでは、米国内の法律との整合性との関係で、投資や貿易に限界があるからである。

 第二は、米国自身の政治問題である。軍産体制の帝国社会では、常に敵国と脅威対象が必要であるから、一方では社会主義朝鮮を必要としている、米国政治の矛盾である。

 中国との軍事的対立もそうした一環上にあり、自らの核政策維持にも朝鮮の「核開発」行為を必要としていたのである。

 米国側の主張に一貫性がないのも、米帝国主義の性格上からきている。

 朝鮮戦争の停戦協定を転換して朝米平和協定が結べない理由が、米国にとって朝鮮をまだ「敵国」として必要としていたからでもあった。

 アジア地域で中国一国だけが、米国の軍事力に対抗し得る勢力であったのでは、軍事的に危険過ぎて、アジア・太平洋地域脅威論を組み立てる際に問題があったからであろう。

 経済的パートナーでもあった中国とは、政治的軍事的に決定的な対立が出来ない事情を、米中ともに抱えている。

 米中は、呉越同舟というところか。

 米国自身は朝鮮には、経済の間接関与しか出来ず、また、朝鮮の体制転換も間接的にしか出来ないため、それを中国側にやらせようとしている。

 中国と朝鮮は、 日帝および米帝とは共に戦って勝利した歴史的な間柄で、両国間の友誼関係は厚い。

 朝鮮が「苦難の行軍」時代を進んでいた90年代、経済全般の支援を行っていたのは中国だけであった。

 富強体制を築くと宣言した2000年以降も、中国側の投資は群を抜いている。

 米国は国連を通じて朝鮮に経済制裁を行っていたにも関わらず、中国が朝鮮市場を独占してしまうことを、黙ってみていたわけではない。

 米国企業の中国への資本投下と、中国企業の米国市場進出の場合に、何らかのかたちで釘をさすことを忘れてはいない。

 そして中国側の幹部たちのロから、朝鮮に「中国式モデルの経済改革」を事あるごとに発信させている。

 中国側も腹黒い米国の意図を知りながら、朝鮮が経済改革政策に踏み切れば、 1.朝鮮北部と一体となった中国東北地域の経済開発が安い資本で進められること、 2.朝鮮への経済・食糧支援が軽減されること、 3.朝鮮の市場化が進行することによって、朝鮮半島での有利な地位を占めること、 4.朝鮮への経済指導を通じて、自らの「中華思想」を刺激すること-などで、朝鮮半島において米国よりは好位置を確保できるだろうと考えているのではないか。

 外貨が不足している朝鮮ではこれまで、地下資源 (共同開発や50年、100年の貸与)、国土 (経済特区や共同開発、地域の整備)、営業権 (テナント、賃貸)などの切り売りでしのいできた。

 そこには、中国(一部韓国も)企業が必ず進出している。

 朝鮮側が幾ら社会主義的経済を発信したとしても、すでに朝鮮内で営業活動を行っている資本主義企業群が、いつまでもおとなしく社会主義的枠内に収まっているという保障はないだろう。

 さらに、朝鮮側が外国企業に投資を呼び掛けているから、一段の投資環境整備を行う必要がある。その意味で、経済の窓口の一部は、外に向かって開いているといえようか。

 また、経済を内閣に一元化する措置を取ったとはいえ、これまでの第2経済(軍関係)、第3経済(各団体)などとの整合性が必要になってくる。これは短時間では難しいだろう。

 時代と経済発展の需要スピ-ド、その時々の国際政治の変化に対応しつつ、朝鮮の経済政策はまだ社会主義体制をしっかりと固守しているといえる。

 しかし、その内容は80年代中頃 (社会主義経済圏がまだ健在であった頃)までとは違っている。その上に、中国や米国などから執拗に「経済改革」要求の政治的圧力が強まってきたという点で、大きく環境が変化している。

 こうした国際的圧力に抗して金正日時代は、軍を中核に据えた「先軍政治」で対応し、苦しい経済状況下でも社会主義経済(自立的民族経済)を堅持してきたという自負心を、人民たちに与えた。

 金正日総書記が06年1月、10年5月,10年8月、11年5月、11年8月と中国を訪問し、朝中首脳会談を重ねてきたことの理由は、「中国式」経済とは違った方式での経済発展と政府間での朝中合弁・共同開発を説得し確認するためであったろう。

 中国側に経済の「中国式モデル」を発信させているのは、米国の信号でもある。

 米国は現在も、様々なチャンネルや媒体 (国連もその一つ)を使って、朝鮮式社会主義体制を「民主主義」体制に転換させようとしている。

 朝鮮が経済改革の方向へ少しでも舵を切った場合、米資本は南朝鮮経済を押し立てて中国企業を凌駕していくだろう。

 その後は朝鮮半島の経済的統一、つまり資本主義体制の統一を推進していくだろう。

 もうその時には、朝鮮との 「平和協定」も「国交正常化」プログラムも、誰はばかることなく無視をして、朝鮮半島の自由体制統一を推進 (米国式プログラム)をしていけばいいのだから。

 もちろん中国は朝鮮半島の「米国式プログラム」などは望んではいない。

 「中国式」の経済改革実施を指導することで、朝鮮の経済発展を見ているのだろう。

 しかし朝鮮は、経済の自由主義化を実施してきた中国、ベトナムなどとは、政治的地勢学上で大きく違っている。

 朝鮮は南北に分断されていて、どちらの政権も人民も、統一を希望している。

 その希望の内容は、「6・15南北宣言」に凝縮されている。

 どちら側の体制吸収も考えず行わず、「わが民族同士」で交流を継続して「一つの朝鮮」を目指すことを、約束していたからなのだ。

 そうは言っても李明博政権のように、時の政権の性格によって南朝鮮社会が大きくプレてしまうことがある。

 南北朝鮮が「6・15」を約束しただけで、その実践が行われていない時期に、北側が経済関連の窓口を少しでも「自由」の方向に開ければ、間違いなく米資本をバックボーンに持つ韓国企業が無制限に押し寄せてくるだろう。

 資本と商品の常套手段として、それらはいつでも朝鮮社会のキャパシティーを越えてしまうから、経済のアメリカ化は瞬時に始まってしまう。

 アメリカ化は経済だけに止まらず、政治、社会、文化、人生観にまで浸透していくだろう。そうした意味から、朝鮮が経済の「中国式」を取り入れるのは、社会主義政治体制にとっては非常に危険な行為である。

 強盛国家建設中の朝鮮にとっては、まだ苦しい時期が続くのかも知れないが、「思想戦」による勝利を信じている。


                                       2012年8月18日 記

「言葉のレトリック」

「言葉のレトリック」

                                               名田隆司


 これまでの日韓関係(日朝関係も)は、歴史認識問題で日本の政治家の妄言で、時の首相や大臣が「遺憾」とか「反省」という修辞法での言葉で、いつも言い逃れてきたために「悪化」と「修復」を繰り返してきた。

 93年の非自民連立政権の細川護煕首相は、過去の戦争は「侵略戦争」であり、朝鮮を「植民地支配」したと、明確な表現で過去の歴史を語った初めての首相となった。

 その言葉一つのために日本は、敗戦後48年間を必要とし、しかも非自民連立政権によってでしか、朝鮮半島の植民地支配への政治言語を語れなかったことになる。

 しかし自民党や日本遺族会などの右派からは、主語抜きの「侵略行為」の表現を使って反発してきた。

 そのうえ再び自民党政権に戻ってからは、「侵略行為」言語の意味と表現が迷走するようになってしまった。アジア各国は、そのことに嫌悪感を示している。

 自らの過去を反省しない日本が、侵略行為の歴史を隠蔽して、新しい侵略準備を進めるための言語表現ではないのかと警戒をしているのだ。
 言語は、使用する人間の思考力の表現である。

 90年代以降の日本で、戦前回帰の政治的な言語レトリックが多様化してきたことと、政治・社会が右傾化してきたこととは重なっている。

 戦前からの政治家たちの失言、妄言などを通じて、日本語の修辞法は磨かれてきたようである。秀逸は「遺憾」表現である。

 多様な解釈を可能とする遺憾表現は、表現者は決して謝罪などしていないレトリックを行使しているから、この表現が多く用いられている時の政治的風景こそ、右傾化の元凶となっている。

 右傾化の元凶の故郷こそ、朝鮮に強要した「皇国臣民」化政策へと繋がっている。

 朝鮮人への「皇国臣民」化は、まるで「善政」を施しているかのような言語レトリックを使用して、日朝両人民を騙してきた。

 このような植民地主義者たちが未だに反省もせずに使用しているレトリック言語の、幾つかを紹介しよう。

1.「朝鮮の繁栄」
 この言葉の真意は、朝鮮内における日本帝国主義の発展と繁栄のことであったのだから、決して朝鮮と朝鮮人民の生活向上のためのものではなかった。
 旧満州やロシア沿海州への進出を目的に、鉄道施設や道路建設、工場建設などの、朝鮮への投資の全てを朝鮮を繁栄させるものであると当時はもちろん、現在でもそのことを信じて主張している人たちがいる。
 彼らは、今も帝国主義言語レトリックの魔術からは解放されず、朝鮮の植民地化さえ疑問視していない。

2.「文盲退治」
 朝鮮人に近代化教育を施してきたかのような表現であるが、とんでもない。
 これは、日本語を知らない朝鮮人に日本語を教えることであって、決して朝鮮の文字や文化を教えることではなかった。 (逆に朝鮮文化を否定した)
 朝鮮人の日本人化教育(初等科)を施す一方で、朝鮮人への高等教育や日本人との同席授業は最後まで拒んできたことの矛盾。
 朝鮮人たちを日本人の下で、無批判的に働ける実用型人間(労務者)の育成だけを目指したことが、文盲退治政策の本質であった。

3.「差別の撤廃」
 日本人、朝鮮人という意識境界を朝鮮人の側でなくし、一視同仁、内鮮一体、皇国臣民精神を育むためのレトリック言語であった。
 朝鮮人から朝鮮人意識(民族性)を抹殺させるために、この言葉が多様された。

4.「近代化」
 遅れた朝鮮社会(封建的遺制社会)に対して、進んでいる日本の文物を移入し、朝鮮人の「日本」化を促進していくことである。
 そのことによって、朝鮮の近代化促進を助けたと考えている。
 当時、多くの知識人たちがこのレトリックに陥り、朝鮮と朝鮮人を下位(指導すべき民族)に視ていた。
 その後遺症が今、朝鮮軽視、蔑視観となって、新たな朝鮮人差別を生産している。

5.「生活の刷新」
 朝鮮社会に日本式作法の普及をはかり、完全日本人化をめざしたレトリック。
 女性には着物や下駄スタイルを習慣化させ、お茶や生け花を教えた。
 これも朝鮮民族の習慣や文化を否定し、壊すために多用された。

6.「道義の仁政」
 朝鮮民族の生活と意識化を弾圧し、朝鮮の民族的個性いっさいを、全面的に破壊するために用いられた。

7.「国語」
 朝鮮人からする国語とは、朝鮮語であることは自明のことであった。
 ところが、朝鮮人に日本語を押しつけて、日本人となる方式を採用したために、日本人と朝鮮人との共通言語・日本語を「国語」と称した。
 その一方で、朝鮮語を「地方語」と呼び、ひとつの方言のように扱うという矛盾した政策を行っていた。
 これは朝鮮半島を「併合」しておきながら、日本を「本土」とし、朝鮮を「半島」と称して区分したレトリックと同じだ。

 以上のような言語レトリックの使用は、戦前の「教育勅語」精神にその基底がある。

 だからこそ戦後、その「教育勅語」精神を否定し、帝国主義・植民地主義的精神をも一掃する目的で、「教育基本法」(47年3月)が制定された。

 平和主義、民主主義の教育理念への転換が強く求められた教育基本法ではあったが、これを在日朝鮮人史の側からみれば、十分には戦前の精神から解放されていない最大のレトリックを駆使した「傑作」となっていたのだ。

 教育基本法制定当時の文部省調査局審議課長の西村巌は、「従来のわが国の教育は『国家のため』に奉仕すべきものとされ、『皇国民の練成』ということが主張されて国家を超越する普遍的道徳の存在を無視し、個人の独自の侵すべからざる権威・価値が軽視された。

 また国家に有用なもののみが真理とされ、真理のための真理の探求の精神が軽視され、はては疎外されたと言った。

 彼は「個人の尊厳」の尊重を教育理念の中心におくことも力説していた。

 個人の尊厳とは、人間がそれぞれ持っていて、他人をもって代えることも、他人が犯すこともできない貴重な性質のことであって、「人間尊重」の理論である。

 教育基本法は、個人を抹殺した戦前の軍国主義教育・皇国臣民化(国家主体)からの解放と、個人の価値を高めることが目的であった。

 だが、このように国家からの個人の尊厳や解放を高らかに主張する意識の中に、果たして在日朝鮮人たちの民族教育への視点があったのだろうか疑問である。

 その後の政府や文部省が在日朝鮮人の民族教育を弾圧していく通達を何度も出してきた政策からは、人権や世界性への視点が非常に欠落していたと言える。

 そのことは国際化時代の個人の尊厳と解放とに大きく矛盾していて、まだ、皇国臣民精神から解放されたとは言えない状況になっている。

 現今の日本語のレトリックには、戦前志向の臭気が十分に漂っているものが、まだ多く使用されている。


                                         2010年10月 記

「閣僚の靖国神社参拝に反対」

「閣僚の靖国神社参拝に反対」

                                               名田隆司


 今年の8月15日は、気象的には微風も吹いて例年よりはしのぎやすかったが、政治的風景では、韓国とは竹島問題と軍慰安婦問題、中国とは尖閣島 (中国名、釣魚島)をめぐる、領土と歴史問題で精鋭化し熱くなった。

 その上、羽田雄一郎国土交通相と松原仁国家公安委員長の、野田政権2閣僚が靖国神社を参拝したことで、韓国、中国を含むアジア諸国との間で政治的な問題を残してしまった。

 野田政権は昨年9月発足時に、「閣僚の靖国神社公式参拝は自粛する」ことを確認していた。

 8月に入って羽田・松原両氏が靖国参拝を示唆していたことに対して、 8月10日、野田佳彦首相は首相官邸での記者会見で、「野田内閣が発足した時、首相と閣僚は (靖国神社を)公式参拝を自粛する方針を決めているので、他の閣僚も従ってもらえると考えている」と述べた。

 だが、羽田・松原両氏は閣内での方針も、改めての首相の自粛要請も、無視した行動をとってしまった。

 自らの約束も、責任者からの要請も守れないようでは、二人とも子供のような振る舞いで、政治家・閣僚としての責任も資格もない人間だと言わざるを得ない。

 靖国神社は、1869年に東京招魂社として創建され、10年後の1879年に靖国神社と社号を改称。

 1874年の台湾出兵 (神社側の「戦役事変別合祀祭神数」では「台湾征討」としている)の1130柱から海外派兵における戦死者の合祀を開始し、日清戦争を経て日露戦争後には日本戦没者祭祀施設の中心となり、近代日本国が行ったすべての戦争に関わってきた「戦争施設」であった。

 念の為、靖国神社が公表している「戦役事変別合祀祭神数」をみてみよう。

 明治維新/7751柱、西南戦争/6971柱、日清戦争/13619柱、台湾征討/1130柱、北清事変/1256柱、日露戦争/88429柱、第1次世界大戦/4850柱、済南事変/185柱、満州事変/17176柱、支那事変/191250柱、大東亜戦争/2133915柱、合計2466532柱(2004年1O月現在)。

 上記のなかには、台湾出身者2万8千余柱、朝鮮出身者2万1千余柱、女性約5万7千柱が合祀されている。

 明治維新と西南戦争は日本の内戦であるが、日清戦争以降は、旧日本帝国が植民地を獲得 (台湾、朝鮮、樺太、南洋群島、旧満州など)してきた戦争である。

 つまり侵略戦争であった。

 どの戦争も侵略戦争であったことをしっかりと認識しておれば、靖国神社「英霊」の遺族たちの背景には、必ず日本の植民地支配や侵略戦争の犠牲となった朝鮮、中国をはじめとするアジア各国人民たちの多くの遺族が控えていたことを、理解できるはずだ。

 そのアジア諸国の遺族たちは、日本の首相や閣僚たちが靖国神社に参拝 (特に8月15日の場合)するたびに、怒りや哀しみに襲われてきたはずだ。

 日本人の多くは、靖国神社を参拝する理由として、「国を守るために命を落とした先人の哀悼の誠をささげるのは当然」 (参院愛媛比例の桜内文城氏)だと発言している。

 こうした発言は、靖国神社の歴史やその位置付けを無視した飛躍した思考で、内向き姿勢になっている。

 政治家、少なくとも時の閣僚が内向き思考や姿勢になったり、内向き政治をする場合、必ずナショナリティーを強調し過ぎて危険である。

 靖国神社の歴史と意味を考える時、以上のことを無視してはならない。

 靖国神社が「国を守る」ために戦死した者だけを合祀している施設ではないことは、一般戦没者の合祀をほぼ終えてから、59~66年にかけて約1000柱のBC級戦犯を、78年には14人のA級戦犯を合祀していることでも分かる。

 BC級戦犯約5700人の裁判は、約50カ所の各国地域で45~51年にかけて行われ、920人が死刑を執行され、90人以上が自殺や病気で獄死している。

 また、A級戦犯は28人が起訴され、25人が有罪判決を受けた。うち7人が48年12月にスガモ・プリズンで絞首刑となり、罪に問われた7人が刑死以外で死亡している。

 A級戦犯14人の合祀 (秘密裏に行われた)は、靖国神社の原則が「戦って亡くなった人々を祀る」施設であったことからしても、非常にイレギュラーである。

 一般に、靖国神社に合祀している戦死者を「英霊」「護国の神」として顕彰しているが、これは彼らが戦死したどの戦争も侵略戦争ではなく、日本が進むべき正しい戦争であったことを、全国民挙げて正当化するための「装置」でもあった。

 A級戦犯を合祀したことでなお、過去の戦争の性格をあいまいにし、次の戦争準備につなげようとしているようにもみえる。

 だから朝鮮や中国側が敏感に反応するのである。

 特に閣僚以上が参拝した場合、韓国側では「日本の帝国主義の被害を受けた国家と国民の感情を配慮しない無責任な行為で、極めて遺憾だ」 (8月15日の韓国外交通商省担当官)と発言していて、閣僚参拝に厳しい発信をしている。

 一方中国側も、一部の閣僚が個人の立場で参拝したことについて「道義を失した国とどうして平和なつきあいができるのか」 (「人民日報」)と、不快感を表明している。

 羽田氏は「(みんなで靖国神社参拝する国会議員の会)副会長として私的に参拝した」とし、松原氏は「私的参拝。一人の日本人として自分の信条に従った行動だ」と、いずれも「私的」参拝を強調している。 (私的と強調しざるを得なかった、と言った方がいい)

 松原氏は参拝時「臣 松原仁」と記帳したというから、時代感覚にそぐわない一面も覗かせていた。

 二人が信念の参拝だというのなら、何故、大臣を辞任してから参拝しなかったのか。

 彼らの「信念」という内容が、いま一つはっきりとしないけれど、「国のために殉じた」「英霊」だと言っているから、日本が行ったこれまでの戦争を侵略戦争だとは考えていない、ということを表明したも同然である。

 私たちは、このような歴史認識に欠けた大臣を選任(支持)した覚えはない。

 問題は2人の参拝に対して、野田首相は「外交に余計な風波を立てるのは避けてほしい」とだけで、はっきりとしないことである。

 藤村修官房長官は15日の記者会見で、「(2閣僚の参拝を)私人として参拝した。政府として答えることではない」として、政府が関与しないことを強調していたことだ。

 さらにこうした政府の態度や、参拝した2閣僚に対してマスコミ各社が、一言も論評や批判をしない現実にも、日本社会の凋落ぶりを見る思いがする。

 現在の野田政権は、それでなくとも尖閣諸島 (中国)と竹島 (韓国)との領土問題を抱えていて、この間題での沈静化を早く図ることに心をくだいているためか、 2閣僚の閣議決定違反などは問題にするつもりもないようだ。

 閣内の約束事も守れない政権の政治など、彼らがどのような美辞麗句を並べ立てようとも、信頼などできるはずがないではないか。

 靖国神社を参拝した2閣僚には早く辞任してもらい、政治不信に陥っている内外政策を立て直してもらいたい。

 野田首相にはせめて、2閣僚を罷免するだけの力量を示して、内外の政治難題を消化し、政権最後の有終の美を飾ってもらいたいものだ。


                                       2012年8月15日 記

「4年ぶりの日朝政府間交渉に向けて」

「4年ぶりの日朝政府間交渉に向けて」

                                               名田隆司


 米韓連合軍は8月20日、朝鮮半島有事 (北朝鮮への攻撃想定)を想定した定例の指揮所演習「乙支フリーダムガーディアン」を始めた (31日まで)と発表した。

 コンピュータシュミレーションで実施し、米軍は海外の部隊動員を含め計約3万人、韓国軍は約5万6千人が参加 (昨年とほぼ同規模)した。

 実質は北朝鮮軍を壊滅するための予行演習を積み重ねているのである。

 当然、北朝鮮側は同演習に強く反発しており、「容認できない軍事的挑発で、全面的な宣戦布告だ」との非難声明を米韓に向けて発表した。

 このように米韓両軍は、年中、対北朝鮮攻撃を想定した軍事演習を行っている。

 いずれも米軍主導とはいえ、北朝鮮の眼前で軍事挑発を繰り返し行うことは、米国式戦争誘因作戦で北を攻撃していることに他ならず、非常に危険な行為だ。

 金正恩第一書記が「敵がわれわれの領土に火花を一つでも落とせば祖国統一の聖戦につなげよ」と、人民軍に指示したとされるが、北はこれまでにもよく隠忍自重してきたといえる。

 ところで李明博政権は同日、北の深刻な水害被害を支援するため、人道目的での救援用品を提供する計画をしていると発表した。

 あながち政権末期によくある人気取り政策の一つとして、表明したのでもないだろう。

 北朝鮮各地は6月未から7月、8月に入っても梅雨前線と台風7号の影響での激しい風と大雨による被害で苦しんでいた。

 その被害地域は、平安北道(新義州を中心に)、平安南道、黄海南道 (南浦市など)、黄海北道 (沙里院市など)、咸鏡南道 (成興市など)、咸鏡北道(金策市など)、江原道(元山市など)、慈江道などと、ほぼ北朝鮮全域が大雨被害に襲われていた。 
 
 8月に入って平壌市中を流れる普通江の数箇所が決壊し、市内の一部が水浸したという。

 この豪雨による被害で農耕地が冠水し、住宅・道路・線路・橋・防波堤・電力・通信網や炭鉱などが被害を受けているという。

 被害の集計を朝鮮中央通信は8月4日、 6月未から7月31日の間に台風と豪雨、大雨による洪水で169人が死亡、144人が負傷し、400人が行方不明になったと伝えている。

 各地で8600余棟の家屋が全半壊して4万3770余世帯が浸水し、21万2200余人が家を失った。

 6万5280余ヘクタールの農耕地が流失、埋没、冠水した。

 最も被害が深刻な地域は平安南道 (2万1900余ヘクタール)、平安北道(2万3400余ヘクタール)、咸鏡南道(5670ヘクタール)、咸鏡南道(7220余ヘクタール)であったと発表した。

 この発表では、穀物生産の中心地域や炭鉱地域での冠水・浸水がひどいようで、今後の経済政策推進に大きな打撃を与えるかもしれず、心配である。

 大統領任期中の5年間、北とは政治的軍事的に対立政策だけを続けてきて、その後遺症を残した李明博が、北の水害被害に対して援助計画を表明したことは、必ずしも政権末期特有のパフォーマンスだとも言えまい。

 ひるがえって日本の野田政権はどうなのか。

 8月29日から北京で、日本人遺骨関連の調査での政府間予備会談が始まる。政府間交渉が4年振りとあってか野田政権とその周辺筋は、妙に騒ぎ過ぎていて、拉致、核、ミサイル問題を要求していくべきだと、本来とは関係のないテーマを要求するかのように囃立てている。

 このため北朝鮮側からは、何を交渉し解決したいのかもっとはっきりとすべきだと、釘をさされる始末だ。

 ここにも日本外交の稚拙さが出てしまったようだ。

 野田政権の稚拙な外交力は、現実的に対米国、対中国、対韓国、対ロシアなどとも、最悪の情勢となっている。

 野田政権が稚拙外交から少しでも脱皮するためには、久方振りの北朝鮮との政府間交渉をうまく進める必要があるだろう。

 その一つの鍵は、水害被害への支援要請を北朝鮮に表明するかどうかにかかっている。

 これは野田政権の政治姿勢そのもの、対北朝鮮外交姿勢とも関連している。

 現在の野田政権には、外を見るゆとりがないのかも知れない。

 または人道支援への思考力に欠けるのか、今に至るもそのような素振りを見せていない。

 米国がまだ北への支援を表明していないからでもあるのだろうが、だからこそ、日米安保に引きずられての外交姿勢ばかりではなく、日本の主体的な意思を示すチャンスだと思うのだが。しかもそのメッセージが北朝鮮に届くことによっても、北朝鮮との政府間交渉も速やかに進むと思うのだが。

 何故、そのことに気付かず、北朝鮮への人道支援ができないのであろうか。


                                       2012年8月21日 記

金日成主席生誕100周年記念行事にて

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楊亨燮 共和国最高人民会議常任委員会副委員長と撮影   2012年4月13日 

「朝鮮半島が記録する6月」⑪主体を打ち立てる

「朝鮮半島が記録する6月」⑪主体を打ち立てる

                                               名田隆司


 「6.15」とそれを実践するための「10.4」は、統一を前提とする南北交流事業での現実的な「宣言」となっている。

 しかも、共に時の最高指導者が同意して調印したものである。

 今後、朝鮮半島の統一を望む者であれば、誰であれこの両宣言を無視して、統一を云々することなどは出来ない。

 ところが南に李明博政権(08年2月~13年2月)が登場すると、金大中・盧武鉉両政権が積み上げてきた統一政策を否定して、「失われた10年」だと言って、「反北」政治に舵を切ってしまった。

 「失われた10年」と言ったのは李明博ではあったが、それは米政権自身の思いであったのだろう。

 李政権は開城工業団地以外の南北交易・交流地域のすべてを閉鎖し、人的・物的交流までもストップしてしまった。

 当然、必要最小限度の実務会談以外の政治折衝も行われない。

 まるで50年代、60年代の没交渉時代に戻ってしまったような状況になった。

 このようなことは李明博自身の「反共」姿勢によるところがあったとはいえ、もっと重要なことは、オバマ米政権の忠実な使徒になり下ってしまった結果だとみなすことができる。

 米国の政治はまだ朝米交渉、朝米国交正常化、朝米平和協定締結、在韓米軍撤退などの各テーマを消化するだけの力量には達していなかったのだから、金大中・盧武鉉両政権が追及した「わが民族同士」には賛同できないのだ。

 確かに李明博政権になってから、米国は「南北の対話先行」を主張している。

 それとて六者協議や朝米会談・日朝交渉を回避するため、「隠れ蓑」としての表現でしかない。

 実際に南北対話が進み交流関係が発展すると、米国は様々な問題を持ち出して妨害してくるだろう。

 だから李明博を政権の座につかせたともいえる。

 「反共」の李政権を北の方が嫌って、南北交流はそれほど進まないだろうと見越しての「南北対話」先行を米国は主張しているのだ。

 そのような米国政治にとって李政権は、自己の都合のよい「意思」行使役になっており、使い勝手がよかったのである。

 南北統一を実現していくには、従って南朝鮮自身の政治体質の「自主」度いかんにかかっているともいえるだろう。

 南朝鮮では金大中・盧武鉉両政権のように「わが民族同士」第一を追及した政権のみが、南北の統一事業を積極的に実践していくことが出来るということを実証した。

 「わが民族」よりも「米国が第一」を掲げた政権の場合には、時の米政権の思考次第で、統一政策が揺れたり後退してしまうこともまた、実証されてきた。

 70年代に「北のスパイ」容疑で獄中にあった徐勝氏は、「統一は外勢に反対する闘争であり、私たちの主体を打ち立てる問題」だと言っている。

 「外勢」とは米国のことである。

 南北朝鮮ともに、米国とのたたかいで勝利し、主体を打ち立てたときにのみ、統一は実現するのだ。

 朝鮮の統一事業は、主体の問題であった。

 だからこそ「わが民族同士」なのである。

 そうした主張が「6・15」であり、「10・4」である。

 「10・4」はまた、統一への実践通過点でもあった。

 それらを否定した李明博政権といえども、先ずは「6・15」を認識し確認する作業から始めねばならなかったほどに、南北統一は理念的には成立しているのだと言ってもよい。

 そのような意味でも、「6・15」の理念は朝鮮半島統一史上において、金字塔を打ち建てたと言えるだろう。

 朝鮮人民にとっての自主化実現の第一も第二も、南北朝鮮統一事業であり、一つになった朝鮮が国連や国際社会、または東北アジアでの政治的リーダーシップをとって、活動することである。

 分断から55年後、自主を追及してきた朝鮮人民が確実に手にしたのが、「6・15」であり「10・4」である。

 米帝国主義といえども、この理念を壊すことは出来ないだろう。

 今後、南北で誰が首脳になろうとも、統一事業の作業は「6・15」から始めねばならないからである。

 「6・25」の実践が「6・15」だと私は考えているため、朝鮮は確実に民族自主の道を歩んでいると確信している。


                                       2012年7月4日 記
                               (「7・4南北共同声明」発表40周年に)

-参考資料-

1.「朝鮮社会運動史事典」社会評論社

2.「秘史朝鮮戦争」L・F・ストーン著 新評論社

3.「朝鮮韓国近現代史事典」(1860-2005)日本評論社

4.「強盛大国へ向かう朝鮮」名田隆司著 さらむ・さらん社

「朝鮮半島が記録する6月」⑩「6・15の実践へ」

「朝鮮半島が記録する6月」⑩「6・15の実践へ」

                                               名田隆司


 金大中政権の統一事業方針を継承する約束で大統領となった盧武鉉(03年2月~08年2月)は、大統領就任時の演説で、南北平和繁栄政策の4大原則を発表した。

 北とは、1.対話解決、2.信頼と互恵、3.当事者中心の国際協力、4.国民的参加と超党的協力-として、金大中政権時代の南北統一方向の政策を引継ぎ、発展させるとした。

 ところで、米国にとって金大中時代(彼にノーベル平和賞を授けたとはいえ、それさえ米国一流のパフォーマンスであった)の南北関係の発展は、予想以上のスピード違反だと感じていた節がある。

 米国軍部は、米韓合同軍事演習を従来以上の高度な内容(北朝鮮への意図的な挑発)と頻度を増していた。

 「フォール・イーグル」(04年3月と05年2月)、「ウルチ・フォーカスレンズ」(06年8月)などの、大規模長期の合同軍事演習以外にも、短期や図上演習をも織り込んでいた。さらに03年3月から、前線地帯の板門店での対北非難宣伝放送を再開し、西海での北側領海侵犯行為(04年6月と10月)などの挑発行為を繰り返していた。

 そうした韓国軍の挑発の裏側で、米国の意図を見ていた北朝鮮は、六者協議参加の無期限中断と核兵器製造を明言(05年2月)、軍事訓練の一環としてミサイルを発射(06年7月)、地下核実験(06年10月)などを行った。

 盧武鉉政権は「わが民族同士」を追及しながらも、一方では米軍主導の軍事的挑発を実施していて、統一と反統一との間で大きく揺れていた。

 政治的に動揺する彼を突き動かしたのは、北朝鮮側と南朝鮮民衆たちの「わが民族同士」への熱い声であった。

 当初、盧武鉉大統領の平壌訪問は、07年8月28日から30日にかけてであった。

 訪問直前になって豪雨があり、大同江が氾濫して平壌市内が浸水し、被害が大きくなったために10月に延期された。

 10月2日から4日に平壌を訪問した盧武鉉は、金正日総書記との首脳会談の結果、「10.4共同宣言」を発表した。

 分断から60数年間、南北首脳会談が一度も持てなかったのに、2000年からの7年間で2度の首脳会談を開催したという朝鮮人のバイタリティーこそ、主体を打ち立てようとする民族の意志であったと思う。

 2回目の首脳会談は、2000年ほどの派手な報道はなかったものの、発表された「10・4」は「6・15」を具体的に推進していくための重要な内容となっている。

 「(両首脳が)6・15共同宣言に沿って南北関係を拡大・発展させるために、つぎのように宣言する」として、8項目と2つの付属項目からなる内容を発表した。

 8項目の内容を要約する。カッコ内は筆者。

* 6.15を記念する法案を講じる。(自主統一分野)

*南北関係を統一志向的に発展させるために、それぞれ法律的・制度的措置整備をすること。(自主統一分野)

*西海での偶発的衝突防止のための共同漁労水域を設定する。(軍事的和解協力分野)

*停戦体制を終わらせ、平和体制を樹立するため、終戦宣言問題を三者または四者の首脳会談で推進する。(軍事的和解協力分野)

*朝鮮半島の核問題(非核化)解決で協力する。(軍事的和解協力分野)

*投資を奨励し、民族内部協力事業の特殊性に合致する各種の優遇条件と特恵を推進すること。(経済協力分野)

*西海岸平和協力特別地帯を設置する。(経済協力分野)

*開城工業団地事業を加速し、鉄道貨物輸送を開始する。(経済協力分野)

*開城-新義州鉄道と、開城-平壌高速道路を共同で利用するための改補修問題のための協議をする。(経済協力分野)

*安辺と南浦に造船協力団地を設置する。(経済協力分野)

*白頭山観光を実施し、白頭山-ソウル直行便を開設する。(交流協力分野)

*離散家族再会事業を拡大し、ビデオレター交換事業も進める(交流協力分野)

 以上、6・15精神の具体的な設計図となっている。

 しかし惜しむらくは、盧武鉉政権の末期になっていて、それを実行に移す時間が足りなくて、ほとんどの分野を次期政権に委ねざるを得なかった点が、問題を残してしまった。

 でなければ、念願の南北鉄道と南北高速道路は開通して、開城工業団地以外にも南浦やその他の南北協力経済団地、白頭山と金剛山にも共同の観光地帯、西海が平和の海となって出現していただろう。

 さらに朝鮮半島の非核化と、朝鮮戦争終結・平和協定が協議されていたはずである。

 米国にとっては、最後の分野の朝鮮戦争終結・平和協定を推進していくといった事項が、特に許せなかったのではなかろうか。
 
 そこで盧武鉉スキャンダル(経済上の)を散布しながら、次期政権準備に「李明博」を用意していた。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」⑨「6・15南北共同宣言」

「朝鮮半島が記録する6月」⑨「6・15南北共同宣言」

                                               名田隆司


 2000年6月15日、「6・15南北共同宣言」が調印された。

 宣言は5項目からなっている。

1.南と北は国の統一問題を、その主人であるわが民族同士で互いに力を合わせ、自主的に解決していくことにした。

2.南と北は国の統一のため、南側の連合制案と北側のゆるやかな段階での連邦制案が、互いに共通性があると認め、今後、この方向で統一を志向していくことにした。

3.南と北は今年の8・15に際して、離散家族、親戚の訪問を交換し、非転向長期囚問題を解決するなど、人道問題を早急に解決していくことにした。

4.南と北は経済協力を通じて、民族経済を均衡的に発展させ、社会、文化、体育、保健、環境など諸般の分野での協力と交流を活性化させ、互いの信頼を固めていくことにした。

5.南と北は、以上のような合意事項を実践に移すため、早い段階に当局間の対話を開催することにした。

以上、「6.15」の基本精神は、「国の統一問題」は「その主人であるわが民族同士」が「自主的に解決」していくというところにある。

 そのことを南北がともに確認し、互いに力を合わせて実践していくことを誓い合った。

 その歴史的意義は、朝鮮半島だけに止まらない。

 意義は、

イ.91年に調印した「南北の和解と不可侵の合意書」の精神を引継ぎ、実際に統一へ至る道へと着手すべき課題を提示していること。

ロ.これまで南北間で交わしてきた宣言・合意書とは違って、時の最高権力者が調印し、統一政策での共通点・合意可能点での共通項が明確になったことで、今後、この南北和解の方針を誰も後戻りさせることが出来ないものとなったこと。

ハ.21世紀内での南北交流拡大と統一方向性が、より鮮明になったこと。

二.同年10月の米国との「朝米共同コミュニケーション」発表と、オルブライト米国務長官の訪朝(10月23~24日)を引き出したこと。

へ.EU各国をはじめとする多くの国家の朝鮮との国交樹立を促し、朝鮮半島の平和安定を保障したこと。

 -以上のように、朝鮮半島ばかりか世界平和へと大きく寄与した。さらに、南朝鮮社会では「金正日像」のインパクトは強く、メディアを通じて報道される金正日総書記や北朝鮮の風景によって、彼らの意識上の南北間の距離がずっと近付いたようだ。

 「わが民族同士」の言葉は、単にキャッチフレーズとしてだけではなく、北朝鮮の人々も同じ民族であったのだということを南朝鮮社会に実感させたようだ。(これまで南では、その政治性のために同一民族であったとの認識が稀薄化していた)

 南北共同宣言が発表された2000年、南北会談・接触も活発に行われた。

6月27日、金剛山での南北赤十字会談。(9月20日にも)

7月29日、ソウルでの第1回南北高位級会談。

8月5~12日、南の主要新聞・放送会社の社長・役員ら言論界代表団の平壌訪問。

8月、離散家族訪問団交換(11月にも)

9月25~26日、済州島での南北軍事部長級会談。

9月25日、平壌での南北経済協力推進委員会会議。(12月27日はソウルで)

10月10日、朝鮮労働党創建55周年で、南の14の政党・団体代表とマスコミ関係者ら78名が訪問。

 このように2000年の1年間で、南北を往来した人々(主に政治・経済関係者)は、7986人であった。

 これ以降、一般の人たちの往来も増え5年後の05年には、1年間で8万8341人という驚異的な数字となっている。

 この8万8341人という数字は、解放直後から04年までの60年間に南北を往来した人数の累計が8万5400人であったことを考え比較しても、驚くべき現象であった。

 60年間かけて、しかもその時々の政治的課題を消化するための政治家と官僚だけであったことと、05年一年間に往来した人々と、人数は同じようでもその意味するところは全く違っている。

 05年一年間で38度線を溶かし、今後は南北間の交流と協力が飛躍的に拡大していくことを示唆していた。

 同時に南朝鮮では、これまで統一事業を妨害してきた米国への反感が募り、反米感情が一気に高まっていった。

 「わが民族同士」が確実に進行していたといえよう。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」⑧南北首脳会談の実現

「朝鮮半島が記録する6月」⑧南北首脳会談の実現

                                               名田隆司


 朝鮮戦争勃発の6月25日は、朝鮮人民が自主化を追及して米国と戦った日である。

 6月15日の「南北共同宣言-わが民族同士」も、その自主化の力をみせつけた日として、朝鮮人民にとっては重要な記念日である。

 2000年6月13日午前10時25分、韓国大統領の金大中が平壌市郊外の順安空港に降り立った。(当初の予定は12日であったが、北朝鮮側の都合で日程を一日ずつずらし、13日となった)

 空港には金正日総書記が出迎えていて、二人は固く握手をし、抱き合った。

 その時の写真が配信され、世界の目は平壌と二人の指導者の動静に釘付けとなった。

 空港からの沿道には、大統領を歓迎する平壌市民60万(朝鮮中央通信発表)が埋め尽くしていた。

 金大中大統領(98年2月~03年2月)は70年代の国会議員時代から、連合方式による南北統一を主張していた。

 大統領就任直後に「太陽政策」を掲げている。

 統一を前提に、融和的な対北政策を主張し、外交圧力や経済制裁などで北を苦しめるのではなく、食糧・経済援助などの「太陽」方式で、北との関係を進めていくことを基本原則とするのが「太陽政策」であった。

 その方法論として、「北朝鮮によるいかなる武力挑発も認めない、吸収統一は行わない、南北間の和解と協力は可能な分野から積極的に進めていく」との3原則を発表した。

 3原則論は、現実的な思考である。

 しかし当時の朝鮮半島は、98年8月に北朝鮮が人工衛星を発射したのを機に、緊張関係が高まっていた。

 99年2月、黄海での南北軍事衝突、同年3月の東海での国籍不明船2隻(現実には北朝鮮のものとみられる)侵入事件、同年6月の黄海での南北艦船の銃撃戦-などがあって、南北間での緊張状態が続いていた。

 それでも金大中大統領は、2000年3月にヨーロッパ4カ国歴訪の途上、ドイツのベルリンで「太陽政策」の具体的プランを発表した。(3月9日「ベルリン宣言」)

 ベルリン宣言は、1.韓国は北朝鮮に対して社会資本整備援助の用意がある。2.朝鮮半島の当面の目標は統一よりも冷戦終息と平和定着、3.離散家族問題への積極的対処を北朝鮮に要望、4.以上の問題解決には南北当局間の対話が必要-として、南北特使の交換を提案した。

 金大中の現実論的なラブ・コールであった。

 金大中のラブ・コールの背景には、99年9月にベルリンで行った朝米高官協議で、北がミサイル発射凍結を約束していたので、これ以降、緩和の流れができていたからでもあった。

 南北首脳会談実現に向けた秘密交渉が、2000年3月17日から始まった。

 交渉は難航していたが、4月7日になって会談再開に合意。

 当初の6月12日から14日が、直前になって13日から15日に変更となり、金正日総書記と金大中大統領との南北首脳会談が史上初めて実現した。

 南北首脳会談は実に10回に及び、述べ15時間余もの共同の時間を二人は過ごして、南北共同宣言に署名した。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」⑦国連安保理

「朝鮮半島が記録する6月」⑦国連安保理

                                               名田隆司


 ソウルの国連朝鮮委員会が、軍事的紛争発生の可能性を探るためとして、戦争が始まる直前の6月9日から24日まで、38度線視察のための現地視察員を出している。

 その彼らの報告が24日に朝鮮委員会に出され、後に国連安保理に提出されている。

 報告は「韓国軍はまったく防衛のために組織されたものであり、北鮮軍に対して大規模な攻撃を実行しうるような状態にない」として、「一般的に言うと、韓国軍司令官たちの態度は、厳重警戒を怠らない防衛態勢で」、「彼らの指令は、攻撃を受けたらあらかじめ準備された陣地に退却せよという範囲で」、「師団または連隊司令部には、攻撃作戦の準備と思われるような異常な活動はみられなかった」としながら、「38度線の一般情勢に変化がさしせまっていることを示す異常な活動が北鮮軍側に認められる」と結論づけている。

 彼らは何をどのように見聞したのかは知らないが、韓国軍が軍事行動を起こす事はないというアリバイづくりには好都合で、北朝鮮軍からの不意討ちだという「物語」には役立っている内容の報告をしている。

 戦争を始める一週間前、米国務長官顧問ダレスは、南朝鮮で3日すごし、東京でもマッカーサーと数日すごしている。

 ダレスは南朝鮮訪問中、情勢が緊迫していたことは知っていたが、「北鮮の攻撃は予想以上に早く」やってきたと報告している。このような認識は、北からの不意討ち論とはそぐわない。

 ダレスは南朝鮮滞在中の韓国国会(6月19日)で、共産主義の侵略に抵抗する国には援助を与えるというような意味のことを言い、「人類の自由という偉大な計画における自己の役割をいままでどおり立派に果たすかぎり…諸君は、孤立していない」と演説し、韓国軍が反共十字軍になることを説いた。

 ソウルの駐韓米大使のジョン・T・ムチオは、朝鮮戦争の第一報を6月24日午後9時26分(東京時間25日午前10時26分)に米国務省におくった。

 「行動は午前4時頃、甕津、北朝鮮軍に砲撃され、…6時頃には北朝鮮軍歩兵部隊が38度線の越境を開始した」としている。

 この報告では、午前4時以前の両軍の動きを伝えていないため、北朝鮮軍が不意に突然攻撃してきたような印象を与えている。

 李承晩も、それが北朝鮮軍による挑発されざる侵略によって始まった、と発表した。

 これに反して北朝鮮政府は、韓国軍が3カ所で38度線を越境してきたので撃退したのち、攻撃に移ったと報告している。

 6月26日(米国時間25日)、米国によって国連安全保障理事会が召集された。米国は「6月25日朝、北鮮軍は正規軍4個師団および警官隊3個旅団という大部隊を繰り出して攻撃を開始した」、「突然の侵入」で「不意討ちをくった」と報告した。

 米国が報告したような大規模軍事活動の準備には、通常、1カ月近い期間が必要となる。このような強力な軍事活動の準備を、しかも長期間にわたって、米諜報機関が見逃すはずがないだろう。

 500名以上の米軍将校団と700名以上の文官専門家、さらにCIAの活動家たちと韓国軍専属の諜報員たちが、常時活動していたはずだ。

 幾重にも張り巡らされた諜報活動の網の目にも関わらず、ソウルの在韓米軍も、韓国軍も、東京の米軍総司令部も、すっかり不意討ちをくらったということが本当であれば、彼らの全員が好意に目を閉じていたのではなかろうか。

 ユーゴ代表は、米国からの第一報やその他の報告は暖昧で、結論を導くにはもっと慎重な調査が必要で、この時点で北朝鮮を「侵略者」とすることには反対だと発言した。

 また、ソウルの国連朝鮮委員会の現地調査団報告は、韓国側が、攻撃を受けたのは自分の方だと主張していること、さらに韓国がまず攻撃し、北朝鮮軍がそれを軽く撃退したのち、続いて攻撃に移ったと主張している北朝鮮側の主張を韓国が否定していることを述べているにすぎない内容であった。

 このため初日の安保理は、誰が戦争を始めたかについての結論は出せず、何の意見も発表できなかった。

 ただ、南北の平和を要請するだけにとどまった。

 米国は、安保理に対して聴問も調査も認めず、北朝鮮に「侵略者」の烙印を押す事だけを要求した。

 27日、安保理は北朝鮮を「侵略者」と決め付けて、制裁を可決した。(現在の安保理も同様の状況を続けている)

 米国が提出した決議案は、北朝鮮だけに向けられた戦闘停止要求であった。

 これでは戦闘はいったいどちらからなのか、どのようにして始まったのか-などの疑問は解明されることなく、今日も明らかにされていない。

 7月7日の安保理は、1.すべての加盟国が兵力その他の援助を米軍の指揮下にある統合司令部に提供すること、2.米国に対してこのような軍隊の司令官を任命するよう要請すること、3.統合司令部が国連旗を北朝鮮にたいする作戦中使用することを許可する-などの「自作自演」のもと、米軍を中心とする国連軍が出現し、参戦した。

 7月12日には韓国軍も、その指揮権を国連軍司令官に委譲する「太田協定」を結んだ。

 これによって、朝鮮戦争は民族内戦から朝鮮人民対米軍(国連軍)の対戦となった。

 この戦争は明らかに米国によって仕組まれ、挑発されたものである。

 この戦争の主力部隊は、南朝鮮側は米軍部隊であり、北朝鮮側は朝鮮人民軍部隊であった。

 多くの歴史家や研究者たちは、20世紀最大の出来事のうち、第2次世界大戦終結に伴う植民地主義の敗北と民族解放とその勝利を挙げるだろう。

 朝鮮半島ではどうだろうか。

 朝鮮人民にとっては結果的に、解放が民族分断の始まりとなってしまった。

 朝鮮人民の抑圧者は、日本帝国主義者から米帝国主義者へと、交代しただけとなった。

 従って朝鮮戦争は、米帝国主義者を朝鮮半島から追放する民族自主権の戦いで、それは今も続いていることになる。

 だから、朝鮮人民の自主化が実現されるまでは、米国との戦争は続いていくことになるので、米国の将来は、朝鮮半島での敗北しか約束されていないことになる。

 米国には、惨めな姿で朝鮮半島から退散していく前に、朝鮮半島での名誉ある態度を示す道が一つだけ残されている。

 それが「朝米平和協定」を締結することである。

 朝米平和協定が成立すると、朝米国交正常化、南北朝鮮の交流、南北統一方向、在韓米軍の撤退、日朝国交正常化、朝鮮半島の非核化、朝鮮半島の平和発展、東アジア地帯の平和へと、進行していくことが予定されている。

 ここでいま一度、戦争直前の米国側の動きを考えてみよう。

 ダレスの韓国と東京訪問、それに続く東京でのマッカーサー、ジョンソン(国防長官)プラッドレー(米合同参謀本部議長)らとの4者会談、李承晩政権側の5月11日以降の沈黙、韓国軍の防衛態勢のみの布陣の怪、国連朝鮮委員会の38度線視察報告内容の疑問、-など、すべてが北朝鮮側からの攻撃を誘導させるための「作戦」に結び付く。

 朝鮮問題の研究家や歴史家たちは、こうした動きをどのように判断するのであろうか。

国連や米国側からの情報を信じた場合、北朝鮮側に「侵略」の意図があって、ソ連・中国との共同謀議のうえ、6月25日早朝攻撃をしたのだとの結論に到達するのであろうか。

 若しそのような結論で満足しているとしたら、現在の朝鮮半島の状況、停戦協定を朝米平和協定に転換することを拒否している米国の態度を、どのように考えるのであろうか。

 戦争により朝鮮半島全体を破壊しつくして、民族を分断してしまった傷跡は、在日朝鮮人社会にまで、今も深い分断線を押しつけ増幅している。

 朝鮮戦争の始まりは、6月25日なんかではなく、それ以前である。

 始まりを決めるのは重要だが、歴史の始まりは、常に事件のそれ以前にあった何かの所産、その連続にある。始点の選定と解釈によって、その後の事柄の意味が違って「決定」されてしまう。朝鮮戦争は、朝鮮民族にとっての「祖国解放」戦争、自主を追及する問題であったのだ。


                                        2012年7月4日 記

平壌市の風景②

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バドミントンを楽しむ年金者たち 2011年8月撮影


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光復通りを走る路面電車① 2011年8月撮影


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光復通りを走る路面電車② 2011年8月撮影


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光復通り 2011年8月撮影


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ローラースケートで遊ぶ5歳児 2011年8月撮影


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日本ではめずらしいカチガラス 2012年4月撮影

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青年節(8月28日)の風景 2011年8月撮影









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愛媛現代朝鮮問題研究所のブログです。

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