「中国東北地方の旅行報告」
中国東北地方の旅行報告
名田隆司
1.はじめに
9月11日から18日まで、「平頂山事件80周年式典」とシンポジュウムに参加するためと、ついでに中国・東北地方を旅してきた。
丁度、尖閣諸島(中国名は釣魚島)の日本国有化に抗議する反日デモが中国各地で相次いでいた、まさにその時期と重なってしまった。
出発直前、日中間で尖閣諸島問題が政治進行していて、式典及びその他の行事の開催が危倶されていた。
私たちは北京空港に降り立ち、ハイラル(内蒙古自治区)日本軍遺構と日本軍要塞跡、ノモンハン(戦役遺跡陳列館と戦場跡)、ホロンバイル大草原(金帳汗蒙=キプチャクハンの古部落)、ハルビン(黒竜江省)の731部隊旧跡と陳列館、撫順戦犯管理所、さらに「平頂山事件80周年記念式典」と平頂山事件国際学術シンポジウムに参加し、瀋陽、上海など、多くの地域を巡った。
北京空港に到着した11日、中国の旅行会社の担当者からは、9.16(平頂山事件)と9・18(柳条湖事件)の時に東北地方に行くため、反日デモなどが激化する地域を訪れることになるので、気を付けてほしいとの注意があった。
バスが空港から高速道路を抜けて北京市内へと入っても、いつも見慣れている(毎年訪れているので)風景であったため、安心していた。
しかし、ホテルの部屋で観たCCTV(国営中国中央テレビ)の番組 (ニュース及び特番)では、毎時間、日本及び釣魚島を日本が国有化(11日に)したことに対する、日本批判の内容ばかりを流していた。
「9・18」が近付くにつれ、中国識者たちの声を利用した「日本がまたもや釣魚島を奪った」と、批判のトーンを上げていた。
私たちを受け入れてくれた中国側の各関係団体では、私たちへの安全への配慮を優先して、各展示館の一般参加者の入館を禁じたり、時間調節をしてくれたりしていた。
731部隊陳列館参観の 15日以降の3日間は、数人の屈強な男性(中国の公安警察官や武装警官たち)が、私たちをホテルの中までボディーガードしてくれていた。
移動するバスにも、公安警察の車が先導し、中国人たちの車をガードするというものものしさだった。
こうした中国側の警備に配慮するため、街中に出かける際でも2,3人の組みで、日本語はできるだけ使用しないようにとの、自粛注意となった。
どのホテルでも缶詰め状態であったため、中国に滞在している間は、反日デモなどの様子は全く分からなかった。
帰国して日本の新聞を読んではじめて、私たちが滞在していた時期の撫順や瀋陽、上海でのデモの激しかったことを知り、私たちをガードしてくれていた中国側の関係団体と警察に改めて感謝している。
さて、今回の問題の発端となった尖閣諸島(釣魚島)について、日本側が日米安保条約の適用対象(米側も同様意見)としているのに対して、中国側は国連海洋法条約(94年発効)に基づく領有権(自国沿岸から12マイル=約22キロの領海、さらに12マイルまでの水域を接続水域としている)を主張している。
水域内では沿岸国に通関、財政、出入国管理などの規制が認められている。
接続水域(本質上は公海)での規制内容は検査、警告、予防にとどまり、拿捕、逮捕といった強制措置までは含まれていない。
70年代以降、尖閣諸島周辺の海底が産油埋蔵地域であることが分かってから、中国・台湾側が島の領有権を強く主張するようになった。
このため、たびたび日中間、日台間で緊張が高まり、そのつど政治決着が図られてきた。
今回、日本が国有化したために、80年前の9・18事件や7.7(盧溝橋事件=日中戦争)を中国人民に想起させ、いっそうの反発が起こったともいえるだろう。
さらに中国側は歴史関連も持ち出している。
日清戦争末期の1895年(注-下関での日清講和条約調印。遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲するとしたが、三国=露、独、仏の干渉があり、日本は遼東半島だけを返還した)に釣魚島などを日本に奪われていたのが、「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」によって、国際法上中国に帰属した。
日本の島購入は、世界の反ファシズム戦争勝利の成果を公然と否定するもので、戦後の国際秩序への重大な挑戦であると、歴史的経緯から強い日本批判を繰り返している。
日本政府が20億円で個人所有者から尖閣緒島3島を購入し、「国有化」したことに中国側が敏感に反応したことによって、政治問題化してしまった。
中国最高指導部の政治局常務委員(9人)のうち、8人が釣魚島の歴史関連での発言を相次いで(9月20日までに)するなど、日本への強い不満と政治的不信感を表現しているのもそのためであろう。
歴史的経緯からみても、中国側の主張に理があるように思う。
野田政権が11日に島購入をしたその同じ11日から、中国全体が強い日本批判をはじめたのは、日本の再侵略、再占領との認識に立っていたからであろう。
帝国主義時代の歴史清算がしっかりとできていない日本は、尖閣講島問題に対する歴史問題への配慮に欠けた失策を行ってしまったといえよう。
日中ともに政権末期のため、現政権での一応の幕引が行われたとしても、事態への収拾には、今後ともなおも険しい対立が待っているだろう。
以下、今回は「平頂山事件」「ノモンハン事件」「撫順戦犯管理所」の3点の簡単な報告を併せて行う。
2.平頂山事件
平項山は、遼寧省撫順市にある小さな集落である。
近くに東洋最大の出炭量を誇っていた撫順炭鉱(現在も採炭)があり、さらに恒仁県に古代高句麗王国(紀元前1世紀から7世紀)の王都(2度目で紀元3年以降)と陵墓(12の王陵と26の貴族の墓陵)があり、集安には好太王碑(高さ6.39m)が現存している。
1932年9月15日の夜、中国の抗日義勇軍が撫順市内と撫順炭鉱を夜襲、日本軍守備隊と炭鉱に被害を与え、平頂山集落を抜けていった。
当時、撫順市の警務守備についていたのが関東軍独立守備隊第2大隊第2中隊と憲兵隊であった。
面目を失った日本軍は、「抗日義勇軍が通過していたことを日本軍に知らせなかった」との理由で、平頂山集落の住民を皆殺しにすることを決定した。
翌16日の朝、日本軍守備隊と憲兵隊は、集落西南にある崖下の広場に全住民(乳幼児を含む3000人と伝えられている)を集め、機銃による一斉射撃を行って殺害した。
まだ息のある者には、兵士が銃剣で一人ずつ刺殺していった。
その後、死体に重油をかけて焼却し、崖をダイナマイトで爆破して、その土砂で死体を覆い、さらに全ての住居に火を放ち、自らの蛮行の証拠を隠蔽してしまった。
このように徹底的に破壊しつくされた平頂山ではあったが、親が覆いかぶさって奇跡的に助かっていた子供(4才から6才ぐらい)たちが、数人いて死体のなかから泣きながらはい出してきた。
どのような時代、どのような社会状況下であれ、このような蛮行は決して許されるものではない。
事件があった1932年9月は、柳条湖事件から1年後、「満州国」設置から6カ月後のことで、以後、日本軍(関東軍と満州国軍)は、中国人・朝鮮人革命家たちからなる東北抗日連軍からの攻撃に悩まされていく。
その反動として、集落住民の10人に1人は共産党員だからと、報復ないしは見せしめのために、住民たちを無差別に虐殺していく事件(ミニ平頂山事件)を繰り返す。
日本政府は現在まで、このような被害者たちへの謝罪も補償も行っていない。
平頂山事件で奇跡的に生き延びた被害者(彼らを幸存者と呼んでいる)のうち3名(莫徳勝さん、揚宝山さん、方素栄さん)が、事件発生から64年目の1996年3月、日本政府に損害賠償を求める裁判を起こした。
東京地裁は02年6月、加害と被害の事実を認めながら、戦前の行為について政府は責任を問われない(国家無答責の法理)として、原告らの請求を棄却した。
以後、戦後補償の各種裁判においても、この国家無答責の法理を持ち出して、過去の国家犯罪の責任を問わず、免責にしている。
これは帝国主義国家の法理論であって、このような理屈を正当化している限り、どのような国家も決して国民にやさしい政治など実行するはずはない。
高裁も同様判断をし、最高裁もまた06年5月に上告を棄却し、裁判は完全敗訴となってしまった。
司法は日本政府の思考を容認し、政府は司法判断を持ち出して、過去の歴史的な犯罪への責任から逃れようとしている。全く怒りを覚える。
無条理な日本政府に対して、高齢となった幸存者らを支える中国側・日本側の市民団体が手を握り、事件の事実と責任を問い続け、日本政府が公式な謝罪をするまで、活動を続けていくとしている。
3.ノモンハン事件
または、ハルハ河会戦ともいう。
第1次(39年5月12~31日)と第2次(同年6月27日~9月15日)の長期間にわたる戦闘で、関東軍・満州国軍対ソ連軍・モンゴル軍との局地戦となった。(ソ連はモンゴル人民共和国との相互援助条約によって参戦)
旧満州国と当時のモンゴル人民共和国との間に広がるノモンハン付近のホロンバイル大草原での、国境をめぐる衝突事件から局地戦へと発展した。
実際、この大草原に立ってみると、360度の地平線と心地よい風に吹かれているなかで、70数年前の日本の戦闘の意味が何であったのかを、現在も問い続ける必要性を感じていた。
ホロンバイル草原をハルハ河が流れている。
この付近の国境線の認識を、日本側はハルハ河だとしていたが、ソ連側はハルハ河を含むその北方のノモンハン付近だと主張して、対立していた。
1939年5月、外蒙古軍の一部部隊がノモンハン付近でハルハ河を越えた。(彼らからすれば、国境を越えたとは認識していなかった)
守備をしていた満州国軍は、関東軍の応援を得てこれを撃退した。
28日になると、外蒙古軍にソ連軍が加わってふたたびノモンハン付近に出現した。
関東軍部隊が攻撃をするが、ソ連軍の攻撃力の前に大打撃を受けた関東軍部隊は、ハイラル方面に撤退した。 (日本軍の負け)
このように国境紛争は、起こるべくして起こったと言えるだろう。
だが、日本の守備隊が敗走したことによって、関東軍中枢の一部は、独善的な強硬論をふりかざし、不毛な戦闘を続けて死傷者を増やしてしまった。
関東軍は、独断決行・事後報告主義、大本営の戦闘不拡大方針と対立して戦線を拡大、敵情判断の甘さで兵力を無駄に消耗させ、部隊の独断撤退や捕虜になることを許さず、近代的装備の遅れを精神主義で補い、独断性と非人間性を主張するなど-後の日本軍の性格そのままに、犠牲を拡大していった。
その元凶は、独断先行・戦線拡大・強硬論一辺倒によって関東軍を引きずっていった、作戦参謀の服部卓四郎中佐と辻少佐たちにあった。
彼らはいったん他の職に転じられたが、まもなく、参謀本部の作戦課長と主任に就任して、2年後の米英開戦を指導、推進力となっている。
このため、彼らのような強硬論を唱えることが、積極果敢な軍人の態度だと錯覚して評価される大日本帝国軍隊へと仕上がってしまった。
8月下旬、ますます戦況が悪化したことで、強硬派グループは逆上し、関東軍の大部分の兵力をノモンハン方面に集中させて、ソ連軍との決戦に挑もうとしていた。
彼らの意思のままいくと、ソ連との全面戦争は避けられない状況となった。
ソ連との戦争を避けたい大本営は、「小さな兵力でノモンハンを持久すべし」との命令を出すが、関東軍側は反撃戦への意図をなおも捨てなかった。
この間、国際情勢が大きく変化していた。
8月にドイツとソ連との間で、独ソ不可侵条約が調印された。
ドイツはポーランド分割と東方安定のため、ソ連はドイツの侵略がソ連に向けられるのを防ぐために締結した。
内容は、相互不可侵と第三国との戦争の際の他方の中立維持を協定。
ところで日本はドイツと防共協定を結んでいたため、他国よりも大きな衝撃を受け、当時の平沼政権が「複雑怪奇な新情勢」の出現と言い、総辞職してしまった。
9月1日にはドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦がはじまってしまった。
ソ連との戦争を回避したい日本は9月15日、停戦協定を結んだ。
ソ連側も、主張していた国境線を回復したので、以後は攻勢にでることはなかった。
ところで関東軍はこのノモンハン事件後、731部隊による細菌戦実験や細菌部隊を常設させ、その方面での犠牲者を多く出している。
ノモンハン事件の別の一面には、細菌作戦が隠されている。
細菌戦・細菌部隊で有名なのが731部隊(石井四郎隊長)である。
関東軍は1930年、ハルビン南東郊外の寒村・背陰河に、暗号名「東郷部隊」の防疫研究室の秘密実験場を置いて活動をはじめる。
36年、関東軍防疫部を新設し、石井四郎が部長となる。
38年、ハルビン南方約25キロの原野・平房に移転し防疫部を建設(~39年)し、施設規模を拡大する。
本拠地をハルビン郊外に構えた理由の一つに、いずれソ連と戦闘状態になったとき、満州から細菌兵器を使用するのが容易で便利だからと考えていた節がある。
ノモンハン事件が終わる頃から、731部隊の活動は拡大されていった。
平房近辺集落に住む人々を立ち退かせ、東北各地から集めた労働者たちに多くの建物を建てさせた。
40年になると、強制的に狩り出してきた労働者たちを、平房特別区内で働かせた。
常時2000人から3000人が、過酷な環境下(雨風が吹き付ける飯場、食事はコウリャンの粉、トウモロコシの粉とトチの実の粉を混ぜてつくったマントウ、凍り付いた白菜が入った薄いスープ。衣服は一枚きりの袷せで、それも 3~5年間も着たままのもの。
病気であろうとも息をしている間は、労働現場に引き摺り出され、殴るなどの暴力は常のことであった。餓死、病死、凍死、過労死、暴行死などは日常的に発生していたと、中国人元労働者は証言している)で苦しめられていた。
石井部隊の表の顔は、「防疫給水」(40年に部隊名を関東軍防疫給水部と名称を変更している)である。同時に731部隊とも呼ばれるようになる。
疫病対策や飲料水の確保は、衛生環境の悪い地域などに軍隊が入る時には、重要な任務となる。その対策に石井四郎は「石井式瀘水機」で応えた。
細菌爆弾の製造容器と、防疫給水(浄水)容器とは、形状など多少の違いはあっても、双方の容器の主な原料は珪藻土で、一定の形に仕上げていく工程には、それ程の違いはなかった。だから部隊名に「防疫給水」と付いたのだろう。
ノモンハン事件はソ連軍との戦闘であったから、当然のようにして細菌戦を実施した。
関東軍は40年以降、中国各地で細菌戦を行い、多くの人々を苦しめた。
4.撫順戦犯管理所
管理所は元日本の監獄(1936年建造)である。
日本の占領支配に抵抗した多くの中国人・朝鮮人たちが、拷問や虐待のなかで死亡していった場所であった。
1950年2月5日、ソ連訪問でモスクワ郊外に滞在していた毛沢東を訪ねたソ連外相ヴィシンスキー(当時)が、「シベリアに残っている約2500人の日本人捕虜の中から、中国で重い罪を犯した者、満州国人捕虜合わせて1000人を送るから、その処理を行ったらどうか」とのスターリンの提案を伝えた。
北京に戻った毛沢東と周恩来は、戦犯政策を公安部が担当し、その総指揮を周恩来が行い、戦犯収容所を撫順市の東北司法部直轄監獄(元日本の監獄)を改造して当てる事に決定した。
監獄の壁は白く塗り替え、冬に備えてボイラー室と暖房用のパイプを引き、理髪室、医療室を設け、風呂好きの日本人のための大浴場を設け、中庭には野菜畑、ミニ運動場、演芸ホールなども設置した。
日本人捕虜969人は7月18日の夕方、ソ連から綏芬河駅に到着。
翌19日、中国の客車に移された。この時から日本人は、「捕虜」から「戦犯」身分として取り扱われるようになったという。
管理所に収監された日本人戦犯の内訳は、満州国司法行政関係29名、満州国軍関係25名、満州国警察関係119名、満州国鉄路警護軍48名、関東州庁関係その他33名、関東軍憲兵関係103名、関東軍隷下部隊582名(以上、「撫順から未来を語る実行委員会」編)
このなかに、愛新覚羅薄儀や古海忠之(元満州国総務庁次長)らがいた。
中国側の戦犯政策は、連合国各国が行った報復的な「勝者の裁き」とは違って、「改造」にもとづいて行われた。
「改造」とは、教育によって新しい人間に蘇生させることである。
中国共産党の方針であった「敵軍兵士の大部分は、貧しい労働者か農民であって、搾取階級ではない。ほとんどが支配階級の間違った教育を強制され戦場に連れてこられた人たちで、もともと自分たちと同じ階級のものである。
したがって、道理を話せば必ず理解できる。辛抱強く教育すれば新しい人間に生まれ変わる事が出来る」を、日本人戦犯「改造」に適用したのである。
東北地方は14年間も日本に支配されていたから、所長以下管理職員のほとんどが、日本軍による何らかの被害を受けており、日本人と聞いただけで怒りが込み上げて来る感情をどうしようもなく持っていた。
それでも周恩来は「戦犯の人格を尊重し、侮蔑したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」と指示を出した。
この時から管理所内では、同時に2つの異なる激しい思想闘争が行われた。
第一は、職員自身の思想認識問題(個人の恨みや憎しみを超えること)との格闘であり、第二は日本人戦犯たちの人間としての覚醍(中国・朝鮮人蔑視観や罪への自覚)への闘いであった。
共に壮絶な学習や討論を繰り返しながら、自己変革を遂げていった。
54年4月に宮崎弘(第39師団第232連隊第一大隊中隊長)が30余名の惨殺を告発し、同年5月に古海忠之が集会で極刑にしてくださいと泣き崩れる-そのような頃から罪の告白雰囲気が全体に出てきて、グループ別認罪運動が始まっていく。
こうした戦犯たちの態度をみて、罪状調査(裁判用)がすすんでいく。
55年秋に各人の起訴状の作成が終わる。
内容は、極刑(死刑)が70人にも達していた。これは、当時の中国人職員たちの素直な、精一杯の表現であったろう。
検察団と管理所の代表が北京で周恩来に会って、この作成内容を報告した。
周恩来は、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期刑も出してはならない。有期刑もできるだけ少数にして、特に罪の重かった45名をのぞいた、他の戦犯たちは不起訴・即釈放の決定を下した。
代表者たちは周恩来の決定内容を、職員たちに伝えた。
余りにも寛大すぎる、納得できないとの決意となり、再び代表たちが周恩来に会って職員たちの声を伝えた。
周恩来は「日本人戦犯に対する寛大な措置については、20年後に君たちも中央の決定の正しさを理解できるようになるだろう。侵略戦争で罪行を犯した人が十分に反省し、その体験を日本の人々に話す、われわれが話すよりも効力があると思わないかね」と諭した。
56年6月19日、最高刑20年(1名)、8年から18年の有期刑44名、他は6月21日に不起訴即時釈放の判決が下りた。
第1次釈放335名が56年7月3日、興安丸で舞鶴港に到着。
第2次328名が同月28日に、第3次354名が8月31日に。
最後の受刑者3名(城野宏、斉藤美夫、富永順太郎)が64年4月9日に帰国した。
帰国者たちは57年に「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成。
以来、全員がその後半生を中国に感謝し、日中友好・反戦平和のために努力を続けていた。この点で、他の多くの戦友会の活動とは異なっている。
高齢化した元戦犯たちは、02年に中帰連を解散。彼らの精神と事業を「撫順の奇跡を受け継ぐ会」によって引き継がれ、今も活動が行われている。
戦犯たちが帰国する際、管理所の中国人指導員は「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」と、全員にアサガオの種を渡した。
「日本へ帰ったら、きれいな花を咲かせて幸せな家庭を築いてください」とも言葉をかけられた。帰国した戦犯たちは、これを「赦しの花」と名付けて咲かせ続けて、多くの人達に配った。
数年後、一人の戦犯が咲かせ続けていた花の種を持って管理所を訪れた。
そのアサガオの子孫は、いまも管理所の中庭で咲き続けている。私が訪れた時には、すでに花の季節が終わっており、その黒い種を少し持って帰った。
※731部隊については、別の機会に原稿とする。
2012年9月20日 記
名田隆司
1.はじめに
9月11日から18日まで、「平頂山事件80周年式典」とシンポジュウムに参加するためと、ついでに中国・東北地方を旅してきた。
丁度、尖閣諸島(中国名は釣魚島)の日本国有化に抗議する反日デモが中国各地で相次いでいた、まさにその時期と重なってしまった。
出発直前、日中間で尖閣諸島問題が政治進行していて、式典及びその他の行事の開催が危倶されていた。
私たちは北京空港に降り立ち、ハイラル(内蒙古自治区)日本軍遺構と日本軍要塞跡、ノモンハン(戦役遺跡陳列館と戦場跡)、ホロンバイル大草原(金帳汗蒙=キプチャクハンの古部落)、ハルビン(黒竜江省)の731部隊旧跡と陳列館、撫順戦犯管理所、さらに「平頂山事件80周年記念式典」と平頂山事件国際学術シンポジウムに参加し、瀋陽、上海など、多くの地域を巡った。
北京空港に到着した11日、中国の旅行会社の担当者からは、9.16(平頂山事件)と9・18(柳条湖事件)の時に東北地方に行くため、反日デモなどが激化する地域を訪れることになるので、気を付けてほしいとの注意があった。
バスが空港から高速道路を抜けて北京市内へと入っても、いつも見慣れている(毎年訪れているので)風景であったため、安心していた。
しかし、ホテルの部屋で観たCCTV(国営中国中央テレビ)の番組 (ニュース及び特番)では、毎時間、日本及び釣魚島を日本が国有化(11日に)したことに対する、日本批判の内容ばかりを流していた。
「9・18」が近付くにつれ、中国識者たちの声を利用した「日本がまたもや釣魚島を奪った」と、批判のトーンを上げていた。
私たちを受け入れてくれた中国側の各関係団体では、私たちへの安全への配慮を優先して、各展示館の一般参加者の入館を禁じたり、時間調節をしてくれたりしていた。
731部隊陳列館参観の 15日以降の3日間は、数人の屈強な男性(中国の公安警察官や武装警官たち)が、私たちをホテルの中までボディーガードしてくれていた。
移動するバスにも、公安警察の車が先導し、中国人たちの車をガードするというものものしさだった。
こうした中国側の警備に配慮するため、街中に出かける際でも2,3人の組みで、日本語はできるだけ使用しないようにとの、自粛注意となった。
どのホテルでも缶詰め状態であったため、中国に滞在している間は、反日デモなどの様子は全く分からなかった。
帰国して日本の新聞を読んではじめて、私たちが滞在していた時期の撫順や瀋陽、上海でのデモの激しかったことを知り、私たちをガードしてくれていた中国側の関係団体と警察に改めて感謝している。
さて、今回の問題の発端となった尖閣諸島(釣魚島)について、日本側が日米安保条約の適用対象(米側も同様意見)としているのに対して、中国側は国連海洋法条約(94年発効)に基づく領有権(自国沿岸から12マイル=約22キロの領海、さらに12マイルまでの水域を接続水域としている)を主張している。
水域内では沿岸国に通関、財政、出入国管理などの規制が認められている。
接続水域(本質上は公海)での規制内容は検査、警告、予防にとどまり、拿捕、逮捕といった強制措置までは含まれていない。
70年代以降、尖閣諸島周辺の海底が産油埋蔵地域であることが分かってから、中国・台湾側が島の領有権を強く主張するようになった。
このため、たびたび日中間、日台間で緊張が高まり、そのつど政治決着が図られてきた。
今回、日本が国有化したために、80年前の9・18事件や7.7(盧溝橋事件=日中戦争)を中国人民に想起させ、いっそうの反発が起こったともいえるだろう。
さらに中国側は歴史関連も持ち出している。
日清戦争末期の1895年(注-下関での日清講和条約調印。遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲するとしたが、三国=露、独、仏の干渉があり、日本は遼東半島だけを返還した)に釣魚島などを日本に奪われていたのが、「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」によって、国際法上中国に帰属した。
日本の島購入は、世界の反ファシズム戦争勝利の成果を公然と否定するもので、戦後の国際秩序への重大な挑戦であると、歴史的経緯から強い日本批判を繰り返している。
日本政府が20億円で個人所有者から尖閣緒島3島を購入し、「国有化」したことに中国側が敏感に反応したことによって、政治問題化してしまった。
中国最高指導部の政治局常務委員(9人)のうち、8人が釣魚島の歴史関連での発言を相次いで(9月20日までに)するなど、日本への強い不満と政治的不信感を表現しているのもそのためであろう。
歴史的経緯からみても、中国側の主張に理があるように思う。
野田政権が11日に島購入をしたその同じ11日から、中国全体が強い日本批判をはじめたのは、日本の再侵略、再占領との認識に立っていたからであろう。
帝国主義時代の歴史清算がしっかりとできていない日本は、尖閣講島問題に対する歴史問題への配慮に欠けた失策を行ってしまったといえよう。
日中ともに政権末期のため、現政権での一応の幕引が行われたとしても、事態への収拾には、今後ともなおも険しい対立が待っているだろう。
以下、今回は「平頂山事件」「ノモンハン事件」「撫順戦犯管理所」の3点の簡単な報告を併せて行う。
2.平頂山事件
平項山は、遼寧省撫順市にある小さな集落である。
近くに東洋最大の出炭量を誇っていた撫順炭鉱(現在も採炭)があり、さらに恒仁県に古代高句麗王国(紀元前1世紀から7世紀)の王都(2度目で紀元3年以降)と陵墓(12の王陵と26の貴族の墓陵)があり、集安には好太王碑(高さ6.39m)が現存している。
1932年9月15日の夜、中国の抗日義勇軍が撫順市内と撫順炭鉱を夜襲、日本軍守備隊と炭鉱に被害を与え、平頂山集落を抜けていった。
当時、撫順市の警務守備についていたのが関東軍独立守備隊第2大隊第2中隊と憲兵隊であった。
面目を失った日本軍は、「抗日義勇軍が通過していたことを日本軍に知らせなかった」との理由で、平頂山集落の住民を皆殺しにすることを決定した。
翌16日の朝、日本軍守備隊と憲兵隊は、集落西南にある崖下の広場に全住民(乳幼児を含む3000人と伝えられている)を集め、機銃による一斉射撃を行って殺害した。
まだ息のある者には、兵士が銃剣で一人ずつ刺殺していった。
その後、死体に重油をかけて焼却し、崖をダイナマイトで爆破して、その土砂で死体を覆い、さらに全ての住居に火を放ち、自らの蛮行の証拠を隠蔽してしまった。
このように徹底的に破壊しつくされた平頂山ではあったが、親が覆いかぶさって奇跡的に助かっていた子供(4才から6才ぐらい)たちが、数人いて死体のなかから泣きながらはい出してきた。
どのような時代、どのような社会状況下であれ、このような蛮行は決して許されるものではない。
事件があった1932年9月は、柳条湖事件から1年後、「満州国」設置から6カ月後のことで、以後、日本軍(関東軍と満州国軍)は、中国人・朝鮮人革命家たちからなる東北抗日連軍からの攻撃に悩まされていく。
その反動として、集落住民の10人に1人は共産党員だからと、報復ないしは見せしめのために、住民たちを無差別に虐殺していく事件(ミニ平頂山事件)を繰り返す。
日本政府は現在まで、このような被害者たちへの謝罪も補償も行っていない。
平頂山事件で奇跡的に生き延びた被害者(彼らを幸存者と呼んでいる)のうち3名(莫徳勝さん、揚宝山さん、方素栄さん)が、事件発生から64年目の1996年3月、日本政府に損害賠償を求める裁判を起こした。
東京地裁は02年6月、加害と被害の事実を認めながら、戦前の行為について政府は責任を問われない(国家無答責の法理)として、原告らの請求を棄却した。
以後、戦後補償の各種裁判においても、この国家無答責の法理を持ち出して、過去の国家犯罪の責任を問わず、免責にしている。
これは帝国主義国家の法理論であって、このような理屈を正当化している限り、どのような国家も決して国民にやさしい政治など実行するはずはない。
高裁も同様判断をし、最高裁もまた06年5月に上告を棄却し、裁判は完全敗訴となってしまった。
司法は日本政府の思考を容認し、政府は司法判断を持ち出して、過去の歴史的な犯罪への責任から逃れようとしている。全く怒りを覚える。
無条理な日本政府に対して、高齢となった幸存者らを支える中国側・日本側の市民団体が手を握り、事件の事実と責任を問い続け、日本政府が公式な謝罪をするまで、活動を続けていくとしている。
3.ノモンハン事件
または、ハルハ河会戦ともいう。
第1次(39年5月12~31日)と第2次(同年6月27日~9月15日)の長期間にわたる戦闘で、関東軍・満州国軍対ソ連軍・モンゴル軍との局地戦となった。(ソ連はモンゴル人民共和国との相互援助条約によって参戦)
旧満州国と当時のモンゴル人民共和国との間に広がるノモンハン付近のホロンバイル大草原での、国境をめぐる衝突事件から局地戦へと発展した。
実際、この大草原に立ってみると、360度の地平線と心地よい風に吹かれているなかで、70数年前の日本の戦闘の意味が何であったのかを、現在も問い続ける必要性を感じていた。
ホロンバイル草原をハルハ河が流れている。
この付近の国境線の認識を、日本側はハルハ河だとしていたが、ソ連側はハルハ河を含むその北方のノモンハン付近だと主張して、対立していた。
1939年5月、外蒙古軍の一部部隊がノモンハン付近でハルハ河を越えた。(彼らからすれば、国境を越えたとは認識していなかった)
守備をしていた満州国軍は、関東軍の応援を得てこれを撃退した。
28日になると、外蒙古軍にソ連軍が加わってふたたびノモンハン付近に出現した。
関東軍部隊が攻撃をするが、ソ連軍の攻撃力の前に大打撃を受けた関東軍部隊は、ハイラル方面に撤退した。 (日本軍の負け)
このように国境紛争は、起こるべくして起こったと言えるだろう。
だが、日本の守備隊が敗走したことによって、関東軍中枢の一部は、独善的な強硬論をふりかざし、不毛な戦闘を続けて死傷者を増やしてしまった。
関東軍は、独断決行・事後報告主義、大本営の戦闘不拡大方針と対立して戦線を拡大、敵情判断の甘さで兵力を無駄に消耗させ、部隊の独断撤退や捕虜になることを許さず、近代的装備の遅れを精神主義で補い、独断性と非人間性を主張するなど-後の日本軍の性格そのままに、犠牲を拡大していった。
その元凶は、独断先行・戦線拡大・強硬論一辺倒によって関東軍を引きずっていった、作戦参謀の服部卓四郎中佐と辻少佐たちにあった。
彼らはいったん他の職に転じられたが、まもなく、参謀本部の作戦課長と主任に就任して、2年後の米英開戦を指導、推進力となっている。
このため、彼らのような強硬論を唱えることが、積極果敢な軍人の態度だと錯覚して評価される大日本帝国軍隊へと仕上がってしまった。
8月下旬、ますます戦況が悪化したことで、強硬派グループは逆上し、関東軍の大部分の兵力をノモンハン方面に集中させて、ソ連軍との決戦に挑もうとしていた。
彼らの意思のままいくと、ソ連との全面戦争は避けられない状況となった。
ソ連との戦争を避けたい大本営は、「小さな兵力でノモンハンを持久すべし」との命令を出すが、関東軍側は反撃戦への意図をなおも捨てなかった。
この間、国際情勢が大きく変化していた。
8月にドイツとソ連との間で、独ソ不可侵条約が調印された。
ドイツはポーランド分割と東方安定のため、ソ連はドイツの侵略がソ連に向けられるのを防ぐために締結した。
内容は、相互不可侵と第三国との戦争の際の他方の中立維持を協定。
ところで日本はドイツと防共協定を結んでいたため、他国よりも大きな衝撃を受け、当時の平沼政権が「複雑怪奇な新情勢」の出現と言い、総辞職してしまった。
9月1日にはドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦がはじまってしまった。
ソ連との戦争を回避したい日本は9月15日、停戦協定を結んだ。
ソ連側も、主張していた国境線を回復したので、以後は攻勢にでることはなかった。
ところで関東軍はこのノモンハン事件後、731部隊による細菌戦実験や細菌部隊を常設させ、その方面での犠牲者を多く出している。
ノモンハン事件の別の一面には、細菌作戦が隠されている。
細菌戦・細菌部隊で有名なのが731部隊(石井四郎隊長)である。
関東軍は1930年、ハルビン南東郊外の寒村・背陰河に、暗号名「東郷部隊」の防疫研究室の秘密実験場を置いて活動をはじめる。
36年、関東軍防疫部を新設し、石井四郎が部長となる。
38年、ハルビン南方約25キロの原野・平房に移転し防疫部を建設(~39年)し、施設規模を拡大する。
本拠地をハルビン郊外に構えた理由の一つに、いずれソ連と戦闘状態になったとき、満州から細菌兵器を使用するのが容易で便利だからと考えていた節がある。
ノモンハン事件が終わる頃から、731部隊の活動は拡大されていった。
平房近辺集落に住む人々を立ち退かせ、東北各地から集めた労働者たちに多くの建物を建てさせた。
40年になると、強制的に狩り出してきた労働者たちを、平房特別区内で働かせた。
常時2000人から3000人が、過酷な環境下(雨風が吹き付ける飯場、食事はコウリャンの粉、トウモロコシの粉とトチの実の粉を混ぜてつくったマントウ、凍り付いた白菜が入った薄いスープ。衣服は一枚きりの袷せで、それも 3~5年間も着たままのもの。
病気であろうとも息をしている間は、労働現場に引き摺り出され、殴るなどの暴力は常のことであった。餓死、病死、凍死、過労死、暴行死などは日常的に発生していたと、中国人元労働者は証言している)で苦しめられていた。
石井部隊の表の顔は、「防疫給水」(40年に部隊名を関東軍防疫給水部と名称を変更している)である。同時に731部隊とも呼ばれるようになる。
疫病対策や飲料水の確保は、衛生環境の悪い地域などに軍隊が入る時には、重要な任務となる。その対策に石井四郎は「石井式瀘水機」で応えた。
細菌爆弾の製造容器と、防疫給水(浄水)容器とは、形状など多少の違いはあっても、双方の容器の主な原料は珪藻土で、一定の形に仕上げていく工程には、それ程の違いはなかった。だから部隊名に「防疫給水」と付いたのだろう。
ノモンハン事件はソ連軍との戦闘であったから、当然のようにして細菌戦を実施した。
関東軍は40年以降、中国各地で細菌戦を行い、多くの人々を苦しめた。
4.撫順戦犯管理所
管理所は元日本の監獄(1936年建造)である。
日本の占領支配に抵抗した多くの中国人・朝鮮人たちが、拷問や虐待のなかで死亡していった場所であった。
1950年2月5日、ソ連訪問でモスクワ郊外に滞在していた毛沢東を訪ねたソ連外相ヴィシンスキー(当時)が、「シベリアに残っている約2500人の日本人捕虜の中から、中国で重い罪を犯した者、満州国人捕虜合わせて1000人を送るから、その処理を行ったらどうか」とのスターリンの提案を伝えた。
北京に戻った毛沢東と周恩来は、戦犯政策を公安部が担当し、その総指揮を周恩来が行い、戦犯収容所を撫順市の東北司法部直轄監獄(元日本の監獄)を改造して当てる事に決定した。
監獄の壁は白く塗り替え、冬に備えてボイラー室と暖房用のパイプを引き、理髪室、医療室を設け、風呂好きの日本人のための大浴場を設け、中庭には野菜畑、ミニ運動場、演芸ホールなども設置した。
日本人捕虜969人は7月18日の夕方、ソ連から綏芬河駅に到着。
翌19日、中国の客車に移された。この時から日本人は、「捕虜」から「戦犯」身分として取り扱われるようになったという。
管理所に収監された日本人戦犯の内訳は、満州国司法行政関係29名、満州国軍関係25名、満州国警察関係119名、満州国鉄路警護軍48名、関東州庁関係その他33名、関東軍憲兵関係103名、関東軍隷下部隊582名(以上、「撫順から未来を語る実行委員会」編)
このなかに、愛新覚羅薄儀や古海忠之(元満州国総務庁次長)らがいた。
中国側の戦犯政策は、連合国各国が行った報復的な「勝者の裁き」とは違って、「改造」にもとづいて行われた。
「改造」とは、教育によって新しい人間に蘇生させることである。
中国共産党の方針であった「敵軍兵士の大部分は、貧しい労働者か農民であって、搾取階級ではない。ほとんどが支配階級の間違った教育を強制され戦場に連れてこられた人たちで、もともと自分たちと同じ階級のものである。
したがって、道理を話せば必ず理解できる。辛抱強く教育すれば新しい人間に生まれ変わる事が出来る」を、日本人戦犯「改造」に適用したのである。
東北地方は14年間も日本に支配されていたから、所長以下管理職員のほとんどが、日本軍による何らかの被害を受けており、日本人と聞いただけで怒りが込み上げて来る感情をどうしようもなく持っていた。
それでも周恩来は「戦犯の人格を尊重し、侮蔑したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」と指示を出した。
この時から管理所内では、同時に2つの異なる激しい思想闘争が行われた。
第一は、職員自身の思想認識問題(個人の恨みや憎しみを超えること)との格闘であり、第二は日本人戦犯たちの人間としての覚醍(中国・朝鮮人蔑視観や罪への自覚)への闘いであった。
共に壮絶な学習や討論を繰り返しながら、自己変革を遂げていった。
54年4月に宮崎弘(第39師団第232連隊第一大隊中隊長)が30余名の惨殺を告発し、同年5月に古海忠之が集会で極刑にしてくださいと泣き崩れる-そのような頃から罪の告白雰囲気が全体に出てきて、グループ別認罪運動が始まっていく。
こうした戦犯たちの態度をみて、罪状調査(裁判用)がすすんでいく。
55年秋に各人の起訴状の作成が終わる。
内容は、極刑(死刑)が70人にも達していた。これは、当時の中国人職員たちの素直な、精一杯の表現であったろう。
検察団と管理所の代表が北京で周恩来に会って、この作成内容を報告した。
周恩来は、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期刑も出してはならない。有期刑もできるだけ少数にして、特に罪の重かった45名をのぞいた、他の戦犯たちは不起訴・即釈放の決定を下した。
代表者たちは周恩来の決定内容を、職員たちに伝えた。
余りにも寛大すぎる、納得できないとの決意となり、再び代表たちが周恩来に会って職員たちの声を伝えた。
周恩来は「日本人戦犯に対する寛大な措置については、20年後に君たちも中央の決定の正しさを理解できるようになるだろう。侵略戦争で罪行を犯した人が十分に反省し、その体験を日本の人々に話す、われわれが話すよりも効力があると思わないかね」と諭した。
56年6月19日、最高刑20年(1名)、8年から18年の有期刑44名、他は6月21日に不起訴即時釈放の判決が下りた。
第1次釈放335名が56年7月3日、興安丸で舞鶴港に到着。
第2次328名が同月28日に、第3次354名が8月31日に。
最後の受刑者3名(城野宏、斉藤美夫、富永順太郎)が64年4月9日に帰国した。
帰国者たちは57年に「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成。
以来、全員がその後半生を中国に感謝し、日中友好・反戦平和のために努力を続けていた。この点で、他の多くの戦友会の活動とは異なっている。
高齢化した元戦犯たちは、02年に中帰連を解散。彼らの精神と事業を「撫順の奇跡を受け継ぐ会」によって引き継がれ、今も活動が行われている。
戦犯たちが帰国する際、管理所の中国人指導員は「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」と、全員にアサガオの種を渡した。
「日本へ帰ったら、きれいな花を咲かせて幸せな家庭を築いてください」とも言葉をかけられた。帰国した戦犯たちは、これを「赦しの花」と名付けて咲かせ続けて、多くの人達に配った。
数年後、一人の戦犯が咲かせ続けていた花の種を持って管理所を訪れた。
そのアサガオの子孫は、いまも管理所の中庭で咲き続けている。私が訪れた時には、すでに花の季節が終わっており、その黒い種を少し持って帰った。
※731部隊については、別の機会に原稿とする。
2012年9月20日 記
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