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「朝鮮半島が記録する6月」⑥米国の誘因作戦

「朝鮮半島が記録する6月」⑥米国の誘因作戦

                                               名田隆司


 1949年、50年の南朝鮮社会は、反米意識が非常に高まっていた。

 38度線にいる韓国軍は、北に対する挑発・誘導作戦を繰り返していた。

 戦闘は焦眉の日程にあったといってもいい。

 ソ連との約束(遅れて)だったとはいえ、そのような時に米軍部隊を引き揚げさせるといったようなゆとりが、米国にあったのだろうか。

 何らかの意図があって、それを実行したと理解することの方が現実的ではなかろうか。

 米国の戦争史のなかで「誘因」「捏造」劇は、いくらでも語られている。

 
 1942年12月の日本軍真珠湾攻撃・太平洋戦争(誘因)。

 1946年8月のベトナム・トンキン湾事件(捏造)。

 2002年9月の「9.11米国同時テロ事件」(誘因)。

 2003年3月の「イラクの自由」作戦でサダム・フセイン政権への攻撃(捏造)。

 など、産軍体制下の米国の戦争には常に疑問符がついてまわる。

 それは経済的利益と密接に結び付いているからであろう。

 朝鮮戦争もまた、米国による誘因・挑発・捏造産物の結果だと考えることができる。

 そのためこれまでは、戦争前の李承晩政権と韓国社会の実態を述べてきた。

 同時に朝鮮戦争に至る動きは、当時の日本政治とも無関係ではなかった。

 47年3月、ソ連封じ込めを目的とした「トルーマン・ドクトリン」を発表した米国は、ソ連との対決の接点(最前線)にあたる韓国と西ドイツとを、反共の防壁として固める政策を、より明確に打ち出していった。

 同時に韓国の後方に位置する日本列島での、安全で強固な軍事基地建設とその整地作業を急いでいたようだ。

 1948年、済州島で「4.3人民抗争」が起こっていた頃の日本は、GHQの意向で右傾化路線を強要されている。

 日本の右傾化路線は48年1月6日、サンフランシスコでロイヤル米陸軍長官が、日本を極東における全体主義に対する防壁にすべきだと演説したことから始まっている。

 翌7日、GHQの意向を受けた日本政府は、経済・言論関係者55人の公職追放と、3月20日にも著述家270人の追放を発表した。

 1月24日は文部省が、設定した教育水準に達していないとの理由で、朝鮮学校設立を不承認とし、閉鎖へと乗り出した。

 4月24日、兵庫県庁前で数千人が朝鮮学校の閉鎖命令撤回を要求して、抗議デモを行った。(阪神教育闘争)

 彼らに恐れをなしたGHQが翌日、神戸地区に占領後初めての非常事態宣言を出し、多数の朝鮮人たちを逮捕した。

 首謀者9人(うち一人は日本人)を軍事裁判にかけ、全員重労働の有罪とした。

 さらに26日には、大阪府庁前での抗議集会に警察官が発砲して、16歳の少年が死亡するという事件が発生した。

 このようにGHQや武装警官が過剰な警備で在日朝鮮人を弾圧していた理由は、同時期の済州島での革命運動の延長、連鎖反応と交流とを恐れていたためでもあった。

 46年頃に南朝鮮でコレラが発生していて、南朝鮮からの密航者を防ぐと同時に、在日朝鮮人の帰国をも足留めする目的で、米国は日本に海上保安庁を発足(48年5月)させたのも、そうした一環であった。

 48年後半の日本政治は、GHQによって防共列島化へと一直線に動かされていた。

 同年7月31日、マッカーサーの意向で公務員の労働基本権が禁止措置(政令201号)となった。

 9月8日には在日朝鮮人連盟ら朝鮮人4団体に団体等規制令(4月4日に吉田内閣が突如として公布した。これにより、政党や労働組合の動きを監視することができ、レッドパージヘの伏線となった)を適用し、それぞれに解散命令を出した。

 同時に、共産党政治局員の金天海を含む幹部36人を公職追放にした。

 このように左派在日朝鮮人と共産党との結び付きを切り離し、在日朝鮮人が南朝鮮の革新勢力と同盟することを恐れて、それぞれの組織を解散させた。

そのうえで12月24日,岸信介、笹川良一、児玉誉土夫らA級戦犯容疑者19名を釈放して、主要戦犯処理はこれで終了したと発表した。(東条英機ら7名の絞首刑は11月12日に行った)

 米国は、日本を自国の軍事体制下の一環として、共産圏に対する有効な基地へと変貌させるために、一つは49年秋ごろから「単独講和」を推進し、もう一つは左派と在日朝鮮人組織を解散させることに力を注いだ。

 49年1月の総選挙結果で、その実施の徹底化へと動いた。

 選挙は、与党の民主自由党が過半数を制したものの、他の野党と革新政党が議席を減らしたにも関わらず、共産党だけが4議席から35議席を獲得して躍進していた。

 共産党の躍進を問題にしたGHQは、第3次吉田内閣にレッドパージと共産党の解散を命じた。

 その後、教育法違反だとして全国の朝鮮学校(58校)の、即時閉鎖指令(10月19日)を出した。

 全国各地の朝鮮学校にトラックで乗り付けた警察官が、小学生の子供たちにまで警棒をふるい、机・椅子・看板などを持ち出してしまった。

 マッカーサーは、50年の年頭の辞で「日本国憲法は自己防衛の権利を否定せず」と声明して、日本の軍事基地化、再軍備化の方向を示した。

 1月10日になると、沖縄での恒久的な基地づくりの建設を始動した。

 基地は占領期間中は存続すると、マッカーサーが声明(4月4日)し、同日の憲法記念集会で、共産党は侵略の手先だと非難し、非合法化を示唆した。

 6月中旬からは、集会もデモも禁止されていて、GHQによって日本列島全体は、窒息状態に陥っていたのだ。

 日本も南朝鮮も、米国によって反共基地に仕立てられていたことになる。

 この頃、米国による朝鮮半島での戦争準備が終了していたとみてもいい。


                                        2012年7月4日 記
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「朝鮮半島が記録する6月」⑤朝鮮戦争前夜

「朝鮮半島が記録する6月」⑤朝鮮戦争前夜

                                               名田隆司

 48年後半からの南朝鮮全域では、内戦状態が続いていた。

 麗水・順天地区で死傷者4千人を越す韓国軍の反乱(48年10月)-大邱駐屯第6連隊の反乱(48年12月)-韓国軍一個大隊の越北事件(49年5月)-南労党国会フラクション事件(49年5月)-智異山一帯でのパルチザン闘争が激化(49年1月)-などと、ほぼ内戦状態になっていた。

 49年に入ると、38度線の北と南を守備する両軍隊間でも、特に西部戦線と中部戦線一帯では、しばしば越境しながら銃撃戦を展開していた。

 現実的には、小競り合いから双方に戦死者を出すほど、38度線を挟んでの紛争の火の手が断続的に噴いていたことになる。

 もともと38度線を境に分断統治した米ソ両軍が、朝鮮を占領支配したときから、南北間の軍事的緊張は高まっていたといってもよい。
 南北に両政権が樹立されるとさらに、その緊張感はいっそう高まり、38度線を挟んでの軍事的紛争へと発展するのも時間的な問題であった。

 こうした背景の重要な点は、米国政権と李承晩自身の反共という政治的姿勢が一致していたため、なお、軍事的対立への危険な情勢を作り出したということである。

 50年5月30日に南で実施した選挙結果は、全210議席のうち、李承晩派が27名で同調者を含めても50名足らずの少数派に転落していたことが、「戦争状況」づくりを急がせた一因になっていただろう。

 無所属128名の議員は、北朝鮮側が主張していた南北の平和統一を支持している。

 6月19日の韓国議会で李承晩は、「われわれは共産主義者との妥協または譲歩を拒否する。それは破滅への道である」と訴えた。

 それ以前の米国議会(50年2月)で、「大韓民国に共産党または、現在北韓政府を支配している政党の党員(注-南朝鮮労働党・南労党)一名以上の参加する連立内閣が成立した場合」は、援助を打ち切るとした『対韓援助法』が念頭にあったのだろう。

 米国の支持と支援がなければ存在できない韓国政治(李承晩政権)が生き残れる只一つの道は、米国が推進する「反共」を最大の武器として、北を攻撃し、容共容北の左翼陣営をたたきつぶすしかなかった。

 でなければ、中国・蒋介石政権が台湾に追放されたように、李承晩政権も南朝鮮から追放されてしまうという、恐怖感をもっていただろう。

 一説によれば、李承晩政権下で「アカ」として殺害された数は、50万人以上とも言われている。この事実に恐怖感を覚える。

 李承晩の存在によって、南北の平和統一は完全に消えてしまったことになる。

 後は武力統一だけで、それこそが李政権と米軍の望む方向であったのだろう。

 従って南朝鮮社会では、日帝時代以上の反共ファッショ政治が横行し、人民たちの反ファッショへのたたかいは、自主化・民主化・統一要求へと向かっていった。

 戦争は、朝鮮人民たちの自主化実現へのもう一つの表現でもあった。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」④単独選挙・政権樹立

「朝鮮半島が記録する6月」④単独選挙・政権樹立

                                               名田隆司


 米ミズリー州におけるチャーチルの「鉄のカーテン」演説(46年3月5日)の2年後、米陸軍長官ケネス・ロイヤルは、日本を「全体主義による戦争の脅威に対抗する抑止力の役割を果たすべきである」と発言(48年1月)。

 その頃から南朝鮮内にも、反共意識、反北認識、反ソ宣伝が米軍政庁によって、政治化政策化していく時期と重なる。

 この反共キャンペーンによって南朝鮮は、日帝の植民地体制へと後戻りしてしまった。

 したがって、米軍政庁は反共主義者の李承晩をこころおきなく使用できた。

 米軍政庁は「信託統治」プランを、南朝鮮内で李承晩体制(反共体制)が整うまでの、ソ連との駆け引き道具にしていたようだ。

 ソ連が米ソ共同委員会で、48年初めまでに米ソ両軍の朝鮮からの撤退を提議したが、米は拒否(47年9月)をしている。

 逆に米国は47年11月14日の国連総会で、「国連臨時朝鮮委員会」(自由選挙監視団)の設置を許可させている。

 その国連臨時朝鮮委員会一行がソウルに到着(48年1月8日)したが、北朝鮮側は立入り拒否の声明を発表。

 3月31日に米軍司令官ハーチ中将が、5月9日(のちに10日に変更)に南朝鮮での単独選挙を実施することを発表。

 2月頃から南朝鮮の各地で、単独選挙反対・反米運動が展開している。

 4・3済州島人民抗争(48年)は、最も典型的な反米・反李承晩運動として記録されている。

 「統一・独立」要求のデモや集会を行っていた島民たちに向かって、警察と軍が無差別な発砲と暴行を続けた。

 このため、若者たちが漢拏山麓に集まり、徹底的な抵抗戦(済州内戦)を行った。

 この人民抗争は内戦に近く、犠牲も大きく、次の朝鮮戦争という規模の大きな内戦の序奏となっていった。

 このような南朝鮮人民の抵抗を無視した米軍政庁は、予定通り5月10日に単独選挙を強行してしまった。

 街角に戦車を配置し、各投票所には銃を構えた米軍および国軍兵が立って監視するという戦闘準備態勢下での、異常な選挙風景だった。
 米軍政庁のスケジュールに従って、南朝鮮制憲国会を開き(5月31日)、国号を「大韓民国」(7月1日)とし、初代大統領を予定通り李承晩(7月20日)とし、8月15日に大韓民国(李承晩政権)の樹立を宣言した。

 李承晩政権を樹立した祝典で、米極東軍司令官マッカーサーは「正義の隆盛をみるこの吉日にあたり、勝利の喜びをくもらしているのは現代史上最大の悲劇の一つ、貴国を分断する人工の障壁である。この障壁はこわさねばならず、またかならずこわされるだろう」と語った。

 この言葉を聞いた李承晩は、マッカーサーに軍事援助と助言を改めて強く求めた。49年に、李承晩が東京を訪問したときにも、マッカーサーは「私が自分の祖国の国土を守るのと同じ気持ちで、韓国を守るものと期待してよろしい」と、38度線への軍事力の準備を約束している。

 ところで、おかしなことに単独政権が樹立される前の8月5日、「韓米暫定軍事協定」を結んでいる。米軍を駐留させておく法的根拠を、速やかに確定しておきたかったのであろう。

 一方、北朝鮮側では南の単独選挙に反対する勢力らと共に、48年4月19日、平壌で「南北朝鮮諸政党・社会団体代表者連席会議」(南北政治協商会議)を開催した。

 この会議には、南から苦労して38度線を越境してきた金九、朴憲氷(解放後の朝鮮共産党再建の中心人物)らを含む、56の政党・社会団体代表695名が参加した。(38度線を越えられず、途中で殺害された活動家たちも多くいる)

 会議では、南朝鮮単独選挙反対、米ソ両軍撤退要求、朝鮮民主主義臨時政府樹立などを決議している。

 同年8月24日、海州地区で朝鮮最高人民会議議員選挙のための「南朝鮮人民代表者大会」を開催し、翌25日に間接選挙でもって360名の南朝鮮出身代議員を選出した。

 9月2日、海州で選出された南朝鮮360名の代議員も出席して、朝鮮最高人民会議第1期第1回会議を開催(南朝鮮でのように、銃剣付きの単独選挙ではなく、南北で選挙を行った結果)

 9月9日、朝鮮民主主義人民共和国を樹立(首相・金日成)した。

 以上、南北朝鮮で二つの政権が誕生してしまった。

 それは、米軍が遠隔操作で38度線を米ソ両軍の占領分割線としたときから、予定されていたといえよう。

 しかも、ソ連軍が北朝鮮から完全撤退を完了したと発表(48年12月25日)したにも関わらず、米軍は翌49年5月28日に、在韓米軍撤収を発表(軍事顧問団の500名は除外して)したが、完全撤退ではなかった。

 大韓民国が成立してから以降、南朝鮮全域がゼネスト以上の人民抗争・内戦への様相となっていて、ますます軍事力を必要としているときに、なぜ、軍部隊のみを撤退させたのであろうか。

 米国は南朝鮮からの撤退など本気で考えたこともなく、この時もなんらかの「意図」があっての撤退ジェスチャーだったのではないかと思われる。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」③信託統治案

「朝鮮半島が記録する6月」③信託統治案

                                               名田隆司


 45年12月、モスクワで開かれていた米・英・ソ3カ国外相会議(15~28日)で、朝鮮問題に関する決定が発表された。

 モスクワ三相会議は、世界平和再建に関する問題を討議していたが、その中で朝鮮の独立に関する問題も討議され決定した。

 決定内容は、43年のカイロ宣言と45年のポツダム宣言第48条(カイロ宣言の条項は履行せられるべし)の国際公約を、具体化したもので4項からなる国際的協定であった。

 第1項「日本の朝鮮支配を清算するために臨時朝鮮政府をつくる」、第2項「臨時朝鮮政府の樹立を助けるため、米ソ両軍指令部の代表者で共同委員会を組織し、委員会は朝鮮の民主主義的政党および社会団体と協議すること」、第3項「共同委員会は、臨時朝鮮政府と協議したのち、5年以内の朝鮮信託統治に関する協定作業を行う」、第4項「米ソ共同委員会の会議を2週間以内に招集すること」-となっていた。

 一般的には、この三相会議の決定を「信託統治」ととらえている。

 それは、右派・反動分子たちが、連合国(米英ソ中)の共同支配にするための決定だと読み替えて、「反託連動」を繰り広げたためである。

 第3項はあくまで、朝鮮独立のための国際的援助をうたったものである。

 「独立」を叫んだ右派たちの反託運動が結果的に、現在の南朝鮮での米帝国主義支配を許してしまったというアイロニー。

 三相会議の決定が実現されれば、台頭してきた親日派や民族反逆者たちと、専制政治を続けようとする李承晩一派たちは、朝鮮半島社会から追放される運命にあった。

 このため、彼らが掲げる「反託スローガン」は、自らの黒い野望を追及していくためにこそ、必要であったのだ。

 三相会議の決定に基づいて、米ソ共同委員会予備会議(46年1月)が開かれた。

 右派たちの主張を受け入れた米国は、共同委員会の機能さえ果たそうとはせず、意見対立(5月6日)のまま、無期休会にしてしまった。

 帝国主義者たちの二枚舌は、戦略のひとつではあっても、余りにも甚だしい。

 これ以降、米軍政庁支配下の南朝鮮では、左派陣営(信託に賛成)に対する弾圧は、戦争社会を思わせるほどの過酷さを極めていった。
 李承晩一派は、自らの基盤を確立するためにも右翼青年団(テロル集団)を使って、対立する側の指導者たちを次々と殺害させていた。
 白昼テロルが横行する社会が実現していたのだ。

 呂運亨が白色テロルによって暗殺(47年7月)され、金九もまた李承晩が放った刺客の銃(49年6月)によって倒されてしまった。
 米軍政庁は46年5月23日に38度線の無許可越境を禁止し、26日には軍政違反に関する犯罪令を布告するなどして、軍事的な取締りを強化して李承晩側をサポートした。

 左翼陣営側はテロルと戦いながらも、ゼネストなどを組織して抵抗した。

 労働者たちは、9月ゼネスト(46年)-大邱人民抗争(46年10月)-人民抗争は南朝鮮全域に波及-米軍、大邱に非常戒厳令宣布(46年10月)-米軍政庁、ソウル市内を非常警成(47年1月)-流血事件(47年3月)-南朝鮮全域で24時間ゼネスト(47年3月)-左翼団体傘下の活動家らが大量検挙される(47年8月)。

 やがてゼネスト程度の抵抗では間に合わない時代がやってくる。


                                        2012年7月4日 記

平壌市の風景①

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2011年8月撮影

「朝鮮半島が記録する6月」②米国の朝鮮半島政策

「朝鮮半島が記録する6月」②米国の朝鮮半島政策

                         名田隆司


 朝鮮半島にとっての1945年8月15日は、日本帝国主義・植民地支配からの解放と民族独立が、国際社会から「約束」されていた日であった。

 日帝解体と日本軍の武装解除を論じてきた国際会議は、1943年11月のカイロ宣言(米英中首脳)以降、ポツダム宣言(米英ソ中)までのどの会議においても、朝鮮は「やがて自由かつ独立」が確認されていた、国際公約であったのだ。

 そのため日本が無条件降伏を受け入れ、ソ連が参戦したことを知った直後から、朝鮮総督の阿部信行は、朝鮮半島上での逆転した自らの立場を理解し、降伏後の混乱事態を防ぐための対処に努力を傾けた。

 80万余名の在朝日本人の安全と財産の保護、10万余名の朝鮮軍の速やかな撤収を行うことであった。

 そこで当時、朝鮮内で声望のあった朝鮮人政治指導者・呂運亨に事後を託す事を決めた。

 呂運亨(1886~1947)も、阿部総督の意向を受け入れた。

 解放前の呂運亨は、1919年4月に上海で「上海臨時政府」を組織すると、朝鮮の独立を主張して、モスクワの極東人民代表大会(1921年11月)に出席したり、中国の孫文や蒋介石らと親交をもち、反日闘争をすすめていた。

 1927年からの3年間の服役後、「中央日報」を経営しながら同紙に反日と新生朝鮮への建筆をふるい、多くの愛国者や青年層の支持を受けていた。

 一貫して反日本帝国主義闘争を続けて、44年8月には秘密結社の「朝鮮建国同盟」を組織していた。

 反日・反帝主義を貫いてきた闘士で指導者であった呂運亭に、朝鮮植民地支配者の責任者であった阿部信行が、自分たちの事後を託したということが歴史のアイロニーであった。

 事後を託された呂運亨は、直ちに「朝鮮建国準備委員会」(建準)を組織した。

 「建準」組織が瞬く間に朝鮮全土に広がったのは、44年に組織していた「朝鮮建国同盟」が母体となっていたからでもあった。

 米軍が仁川から上陸(9月8日)する直前の9月6日、「建準」を発展的に解消して「朝鮮人民共和国政府」の樹立宣言をしていた。

 一方、米国政権の高官たちが8月10日夜、ワシントンに集まって朝鮮半島の戦略について協議していた。

 トルーマンとスターリンの間では、朝鮮半島を米ソで共同占領を行うところまでは合意(密約)ができていた。

 しかし、ソ連軍の参戦が予想よりも早かったことと、米軍自身はフィリピン・沖縄戦で手間取っていたりしたため、朝鮮半島への到着が遅れて、ソ連軍に先を越されてしまうのが決定的だった。

 10日夜の米国緊急会議の議題は、朝鮮半島を占領する米ソの分割線を、早急に、どこに引くのかということであった。

 朝鮮地図を前にした米政権高官の-人が、首都ソウルが南域(米占領地)に入る北緯38度の緯度線上を、こころみに鉛筆で東西に線を引いた。

 それが朝鮮を二分する場合に、米国にとって都合のよい分担線として決定してしまった。

 朝鮮占領への準備ができていなかったソ連側も、38度線で合意した。

 10日夜に地図の上でこころみに線を引いた北緯38度線が、13日にトルーマン大統領の裁可をえて、15日に米陸軍太平洋司令官マッカーサーへの「一般命令第1号」として伝えられた。

 北緯38度線の以北をソ連軍が占領し、以南を米軍が占領して日本軍の降伏受理と武装解除に当たるプランは、そのまま朝鮮半島を南北に区切る「分断線」となってしまった。

 米国首脳陣は急いで朝鮮半島の米ソ占領分担線を決定しただけで、「解放・独立」後の朝鮮への体制プランが未定のまま、米軍は朝鮮半島に上陸することになる。

 9月2日に連合軍最高司令官が、38度線を米・ソ両軍によって、日本降伏接収の境界線として規定したことを正式に発表した。

 こうして遠隔操作していた米軍は、9月8日に仁川から朝鮮に上陸した。

 米軍の遠隔操作は8月16日、米軍が上陸するまでは朝鮮統治を継続するようにとの、朝鮮総督府への機密指令から始まっている。

 朝鮮と朝鮮人のことをほとんど理解していなかった米国は、日本側の朝鮮統治機構を保全させ、それをそのまま連合軍(米軍)に引き渡す事を指令していたのだ。

 米国の政治指導者たちの間では、ソ連が日本参戦を決定した時から、戦後の国際社会で、ソ連が米国に対抗し得る唯一の勢力として台頭してくるだろうとの、予感と恐れがあったようである。

 広島・長崎への原爆投下を決定したのは、戦後の国際政治上の自らの位置を計算していたからであろう。

 朝鮮半島を38度線で分断し、その以北にソ連軍を留めておくという考え方も、戦後の米ソ関係を意識してのことであったろう。

 38度線を境とする米ソによる進駐・占領は、その後の北の革新政府、南の保守反動政府の樹立が予定されていた。

 9月9日の日本の降伏調印式には、米側代表が沖縄第24軍団長ホッジ中将と第57機動部隊司令長官のキンケード大将。

 対する日本側は朝鮮総督阿部大将と朝鮮軍管区軍司令官上月中将が出席、降伏文書に署名した。そこには朝鮮側の代表者は誰一人として出席が認められていなかった。

 現在でも続いている、米国による朝鮮無視の一つの象徴的な事柄であった。

 9月11日から始まった米軍政庁の政治は、朝鮮総督府からの植民地政策をそのまま引き継いだ統治内容となり、朝鮮人の意思と介入を拒否し、専ら親日派や民族反逆者・右派たちを活用する政治スタイルとなった。

 当然、呂運亨らの朝鮮人民共和国政府の運動は否定され、弾圧されていった。

 独立を希望する朝鮮人たちは、米軍は解放軍ではないことを理解し、反米軍政庁の声を挙げるようになった。

 朝鮮人の反米闘争は、すでにこの時期から始まっていたのだ。

 総督府の政治を引き継いだ米軍政庁は、自らの手先に利用するため、反共主義者で70歳という高齢の李承晩を米国から帰国(45年10月16日)させた。

 同日、偶然にも米国務省は朝鮮半島の信託管理の意思を表明している。

 李承晩(1875~1965)は、1904年に米国に渡り、米国に留まりながら19年に中国・上海臨時政府の要職に就任した。

 朝鮮の独立には米国の支持が絶対に必要だと主張して、呂運亨らの武装闘争派とは対立していた。21年には上海臨時政府から不信任を受け、在米朝鮮人社会でも対立していて、常に少数派で孤立していた。

 反共・反北タッグを組んだ米軍政庁と李承晩派は、共産党を含む左派系の団体と人物を排除していった。

 当然、自主化・民主化を要求する陣営との衝突は激しさを増し、内戦状態へと発展した。

 戦争は、「外部の敵」との武力による戦闘行為(銃撃戦)だけではない。「アカ」「非国民」などといった嫌悪する言葉で、「内部の敵」をつくり出し、対立する勢力を浮かび上がらせて、彼らを排撃していく政治が戦争を生産していく。

 「敵」と「味方」を峻別していく激しい思考が、戦争状態を生み出していくのだ。

 まさしく、米軍政庁の忠実な使徒となった李承晩登場以来の南朝鮮社会は、戦争状態が作り出されていたといえよう。


                                        2012年7月4日 記

「朝鮮半島が記録する6月」①二つの6月

「朝鮮半島が記録する6月」①二つの6月

                                               名田隆司


 朝鮮人民自身は、反帝と民族自主化を闘ってきた長い歴史(現在も闘っている)をもっており、従ってそのことを記録する多くの「記念日」も持っている。

 なかでも6月は民族の希望、民族の主体性の声を凝縮した「記念日」を多く記録している。

 朝鮮の6月は、長く厳しい冬の寒風から脱出した4、5月に、そこかしこで一斉に花々が咲き競い、果実と種子を準備していく季節に充当している。

 それはあたかも、民主・自主化社会を構想して闘って勝利し、それらの成果を誇る段階の時期にも似ていると言えよう。

 その朝鮮半島が記録する、幾つかの6月をみてみよう。

*1883年6月15日、東菜での民間人の反乱。
仁川港開港、海関税と日本漁民への優遇策などに怒った民衆数百人が、官庁などに乱入して抗議活動を行った。

*1894年6月10日、日本軍仁川に到着(22日、ソウルに入城)、閔氏政権を打倒し、大院君政権を樹立する。

*1907年6月29日、ハーグ密使事件。
第2回万国平和会議に、日帝の「保護」化に反対を訴えたが、参加さえ拒否された。

*1926年6月10日、「6・10万歳」運動。

*1937年6月4日、朝鮮人民革命軍による普天堡戦闘。
この戦闘勝利で、日帝支配下の朝鮮人民に解放の希望を与えた。

*1949年6月30日、平壌で南北労働党連合委員会を開催(~7月1日)し合党して「朝鮮労働党」を結成。

*1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。

*1965年6月22日、日韓基本条約、東京で調印。

*1967年6月28日、朝鮮労働党中央委員会第15次全員会議で唯一思想体系確立。

*1987年6月10日、10日から29日まで続いた韓国の民主化を求める「6月民主化抗争」。当時の全斗煥大統領が軍事政権を継続させる目的で、改憲論議中止を発表後、その撤回を実現するまで続いた民衆の抗争。

*1994年6月16日、金日成主席とカーター元米大統領との会談。
この会談で、第2次朝鮮戦争を防ぎ、朝米会談が始まった。

*2000年6月13日、金正日総書記と金大中大統領との南北首脳会談(~15日)
この会談から「6・15南北共同宣言」「わが民族同士」が生まれた。

 以上、近代社会以降の主な6月を挙げてみた。

 現代社会に視点を移せば「6・25」と「6・15」が、朝鮮半島の現在と未来を象徴する記念日になっている。

 1950年の「6・25」は、南北分断の現在を形作ったものとして、2000年の「6・15」は南北統一の方向性を思考したものとして、統一をキーワードとした両端の位置にあるものとして、一般には理解されている。

 しかし双方とも、民族自主、統一を志向した別の表現であったのだと、考えることができる。以下、そのことを論じる。


                                        2012年7月4日 記

朝鮮半島をめぐる「東北アジア研究会」第19回研究討論会の案内

「朝鮮半島をめぐる『東北アジア研究会』第19回研究討論会の案内」


                                 愛媛現代朝鮮問題研究所代表 名田隆司



・日時

 2012年9月1日(土)午後1時30分~午後5時


・会場

 松山市民会館1階第2会議室(松山市堀之内)


・研究討論

 1.「関釜連絡船と朝鮮人強制連行」 報告/井手久美子さん(下関チュチェ研)

 2.「12年憲法と幾つかの論文から-金正恩体制を考える」 報告/名田隆司さん(共同代表)


・参加費用

 500円(参加は自由)


・連絡先

名田隆司 松山市土居田町544サーパス土居田東602 TEL/089-971-0986

日米韓3カ国軍事一体化に反対

日米韓3カ国軍事一体化に反対

                                               名田隆司


 今年6月、朝鮮戦争開戦から62年目になる。

 朝鮮戦争はまだ停戦協定のままであったから、対戦した朝鮮 (北朝鮮)と米国との間では、戦争は終結していない。

 ちょっとした不注意で、開戦前夜状況にまでエスカレートしてしまうほど敵対的で、双方とも不信感を強く持つ関係が続いてきている。

 このような非平和的で、不経済的な関係を解消しようとして、朝鮮側は以前から「朝米平和協定」の締結を要求している。

 一方の米国は、毎年のように韓国軍との合同軍事演習を実施して、再戦争を誘発しているようにみえる。

 今年はさらに挑発的で、 6月21・22日の 2日間、南北非武装地帯(DMZ)に近い京畿道抱川市の演習場を使用して、過去最大規模となる米韓合同の実弾訓練を行った。

 訓練は北朝鮮軍 (朝鮮人民軍)による DMZ内での軍事挑発、ならびに全面的な南下を想定して行われた。韓国陸空軍と在韓米軍のアパッチ攻撃へリ部隊など38個部隊の兵士2千人余、多連装ロケット砲、 K9自走砲、戦車、 F16戦闘機などが参加した。

 砲弾など計数千発の発射は、実践さながらの訓練であったと報道している。何より、DMZ間近で軍事行動 (訓練であっても、実弾を使用していたことが問題)を実施していたことは、危険な行為であって許し難い。

 一方、海上自衛隊と米韓両海軍による初の本格的な日米韓3カ国合同軍事訓練が、21日午前(2日間の日程)、朝鮮半島南方の公海上で実施していたことも報じられている。

 同訓練には、米海軍横須賀基地に配属されている米原子力空母ジョージ・ワシントンの参加(初参加)があった。

 空母ジョージ・ワシントンは、過去に米韓と日米との軍事的ブロックを結ぶ象徴的な役割を果たしていたから、今回はその完結だともいえる。

 海自からはイージス艦や大型護衛艦など3隻が参加し、3カ国間で相互運用性や通信能力を向上させ、海上の安全確保や災害救助での協力を促進することを目的としている、と発表していた。

 だが実際には、海自を参加させた第一の目的は、日米韓3カ国による海洋進出と防衛を活発化させて、北朝鮮や中国を牽制する米国のアジア・太平洋戦略を現実面で強化したい米国側の狙いにあったのであろう。

海自を米軍の戦略化に組み込んでおくためのもので、絶対に許せない。

 韓国内の一部世論は、日本の植民地支配やこれまでの歴史的経緯から、海自の艦艇が朝鮮周辺海域に進出していたことと、軍事訓練まで行っていたことに強い懸念を表明している。「なし崩してきに日米韓の軍事協力が進められているのを阻止すべきだ」との声があったのは、当然のことである。
 
 海自の合同軍事訓練参加は、憲法違反であるばかりでなく、朝鮮半島再侵攻への危険な道につながりかねないからである。その点での日本国内で、批判がなかったこともおかしなことだ。

 さらに米韓両軍は、23~25日に韓国西方の黄海で、約8千人規模の定期訓練をおこなうとしている。

 このように各地域で継続的に米韓両軍が軍事訓練を行う意味は、「北朝鮮を牽制する」「韓国の自由と平和を守る」(6月21日の訓練に出席した金滉植韓国首相の挨拶)という以上に、朝鮮戦争前夜の情勢をつくり出し、北朝鮮からの攻撃を誘発しようとしているとしか思えない。こうしたことは、非常に危険で、卑怯な行為である。

 危険な「火あそび」をしているのは米韓両国であって、日本もそこに積極的に参加していこうとしていることが分かってきた。

 米韓両国とも、この秋の大統領選必勝法の一つに、「北朝鮮脅威」世論づくりに一生懸命になっていることの、政権末期の危険な政治がそこに垣間見える。

 日本の野田政権も、同様である。


2012年6月23日


「制裁一辺倒政策は止めろ」⑦拉致問題解決のために

「制裁一辺倒政策は止めろ」⑦拉致問題解決のために

                                              名田隆司


 2000年9月にブッシュ「特使」役を立派に果たした小泉純一郎に、ブッシュは「ごほうび」を支払っていた。

 03年5月22日訪米した小泉首相は、テキサス内のブッシュ大統領の私邸のクロフォード牧場に招かれ、ブッシュと二人だけの非公式会談を2時間近く行った。

 その夜の小泉は、牧場に宿泊している。

 「クロフォード牧場への招待は外交上の最高のごほうび」(米ワシントン・ポスト)だと言われ、宿泊した外国首脳は小泉で5人目だという。

 どうりで小泉政権は、米英軍によるイラク侵攻を早々と支持し、有事法制関連三法案を衆院本会議で可決(5月15日)し、米軍の後方支援態勢を万全なものとしていた直後でもあったから、二人の息もぴったり合っていたのだろう。

 その上、外国為替・外国貿易法の解釈を、従来の国連決議など多国間の取組みから、日米などの「二国間の合意」に変更した。

 つまり、米国の要請だけで、対北朝鮮送金停止ができるようになってしまったのだ。

 その後、ブッシュの戦争政策と経済政策を全面的に受け入れた小泉は、ますます米国の意向に沿った政治を実施している。ひどい首相だ。(税と一体改革、オスプレイ等の現野田佳彦氏も同類だ)

 ブッシュとの「密約」であった、朝鮮を国際的に追い詰めていく政治的道具とした「拉致問題」を早々と国際化のなかでも実行している。

 03年4月16日、国連人権委員会が「北朝鮮の人道状況を厳しく非難し、日本人などの拉致問題の解決を求める決議」を賛成多数で採決した、という出来事に、最もよく現れている。(国連人権委員会で北朝鮮非難決議が採択されたのは初めて)

 仮にも日本が、小泉政権が、拉致問題の全面的な解決を真剣に考えていたのなら、この時期の国連人権委員会に「北朝鮮非難決議」を提起することなど、あり得ないことだった。

 拉致が明らかになった瞬間から、日本社会の右翼団体などから一斉に、北朝鮮非難、圧力への声が噴出してきた。

 それらの声は、安倍晋三氏らの右派政治家たちを力づけて、まるで日本列島全体が「北朝鮮非難」一色となってしまったかのようであった。

 非難の声が,圧力や制裁へとエスカレートするに時間はかからなかった。

 「拉致被害者家族会」の人たちも、そのような社会的雰囲気に染まり、解決のためにこそ「制裁」強化が必要だとの、逆転した考え方が支配的になっていったようだ。

 それこそ、小泉のブッシュ「密約」が作ったワナであった。

 国連人権委員会の決議案は、EUが提出し,日本と米国が共同提案国という形にはなっているが、実際には米国が主導してきた。

 米国は、毎回のように提出してきた中国非難決議を引っ込めて、中国を牽制し、他国を取り込もうと政治行動を行っていた。

 委員会の決議権があるのは53カ国。

 賛成は28カ国で、かろうじて過半数であって、必ずしも「多数決」との表現が妥当だとは言えない。

 反対10カ国。(中国、ロシア、キューバ、シリア、リビア、スーダン、アルジェリア、ジンバブエ、マレーシア、ベトナム)

 棄権14カ国、不参加1カ国。(韓国)
 
 韓国の盧武鉉政権は、悩んだ末での、投票不参加という行動を取ったのだろう。

 その盧武鉉大統領は、小泉首相が訪米を果たす直前の5月14日、ホワイトハウスでのブッシュ大統領との、初の韓米首脳会談を行っている。

 首脳会談は、オーバル・オフィス(大統領執務室)での35分間という、極めて儀礼的で短いものであった。

 小泉首相との待遇面での違いは、余りにも極端であった。

 ブッシュには、金大中政権当時から進んでいる南北交流事業のスピードが気に食わなかったのか、「北の核」を追求することだけはしっかりと要求した。

 盧武鉉は,北とは「平和的解決」を追求すべきだと,ブッシュの強い不機嫌をかわし、自主性を主張した。

 そうした政治姿勢が、後の「10.4宣言」につながっていくのだ。

 この点でも,親米だけの小泉との政治力が大きく違っている。

 さて、拉致問題が「政治化」していくに従い、拉致問題の解決は、日本国内向けへの掛け声だけに終始していった。(解決なくしては云々・・・と)

 基本的に解決する意思も方法論も持ち合わせていなかったのだから、朝鮮を悪者にするしか拉致被害者家族の人たちには顔向けが出来なくなっていたことになる。

 そのような政治家たちの「北朝鮮制裁」発言は、政治家にあるまじき幼稚な言動や発信さえもが、彼らが政治権力を持っているがため、北朝鮮制裁法なり政策となって、朝鮮との関係はますます遠ざかっていく現実が、日本の情けない姿となっていった。

 決して拉致問題解決に向かってはいない日本政府は、そのことで二つの「問題」を隠していると言った。

 これまで述べてきたことは、ブッシュ米政権との間の「密約」、つまり拉致問題の「政治化」のことであった。

 他の一つの問題は、日本自身の問題である。

 日本の過去歴史関係の清算、につながる問題であった。 (拉致問題と過去問題の関連性については、別の原稿にも書いているので、子細はそちらに譲る)
 
 日本の過去清算問題は、日朝平壌宣言のなかでも取り上げられており、拉致問題 (懸案事項)と共に「一括妥結」方式で解決していくことが明記されている。

 そのため、拉致問題の解決を迫れば迫るほど、過去清算問題の解決も、同時に対応していかなければならないというように、平壌宣言は主張している。

 どちらの問題も、日朝政府間での協議が必要であるのは論をまたない。

 08年8月以後、日本政府が朝鮮とのあらゆる対話の窓口を閉ざしていることは、自らの過去清算を朝鮮側とはまだ話し合い解決をしたくない、出来ないという表明でもあったことになる。

 これまで「拉致被害者家族会」側も、朝鮮とは対話も行わないとの強硬姿勢を支持してきたように思う。

 朝鮮との対話・交渉がなかったために、少なくともここ10年近くは、「敵対的」感情すらが生まれている。

 ところで拉致被害者は、朝鮮人強制連行者たちの「後衛」だと言われている所以を知っているだろうか。

 戦前の朝鮮人強制連行者については、日本政府が未だに明確な数字もしめさず、謝罪もしなければ、彼らに対する何らの清算も果たしていない。

 日本政府が植民地体制・思考を完全には解体していないために、日本の裁判所さえ彼らの補償要求を認めてこなかった。

 戦後70年近く経っても、何ら解決へと動いてこなかった朝鮮への過去清算問題。

 従って、朝鮮人強制連行者とその家族たちは、まだ日本への怨念を抱えたままでいる。

 日本政府が、拉致問題を解決していこうとすればするほど、日朝政府間交渉を続けていくしか方法がない。

 政府間交渉を行うということは、日朝平壌宣言をベースに行うということである。

 朝鮮との間に過去の問題を日本が解決してこなかったために、問題が今日もなお残っている。だから、日本政府が過去清算をサボタージュすればするほど、拉致問題解決も遠ざかっていくという関係になっていることが、これで分かるだろう。

 拉致被害者が、朝鮮人強制連行者と同じ歴史をたどらないためにも、日朝政府間交渉を続けるしかないことを、先ずは理解しなければいけないだろう。

 最後に、拉致問題と朝鮮を報道してきたメディアの姿勢について、ふれておきたい。

 小泉首相の訪朝によって拉致問題が明らかになって以降、それを焦点化し、(北)朝鮮に対する悪感情がメディアによって広範に流布された。
 たちまち、拉致被害者とその家族へは「国民的悲劇」の主人公としての報道姿勢が貫かれ、今もそれは続いている。

 そのことによって (北)朝鮮に対する悪感情、ひいては敵感情までが拡大し深化していくと共に、在日朝鮮人や民族教育を理解するファクターを大きく後退させた日本人の感情は、まだ修復されていない。

 現在でも、家族会や救う会などの言動について、それを批判したり相対化したりする視点を、各メディアは全く失っている。

 それは同時に、「自由主義史観」や「歴史修正主義」などが主張する土壌を用意し、過去の歴史を清算する姿勢を疎外してしまったことにつながる。

 そのことを自覚していないメディアは、朝鮮にとって「紙爆弾」「映像爆弾」になっていることを指摘し、戒めておきたい。


※参考資料

「朝鮮韓国近現代史事典」第2版 日本評論社
「強盛大国へ向かう朝鮮」名田隆司著 さらむ・さらん社

2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」⑥ブッシュとのもう一つの約束

「制裁一辺倒政策は止めろ」⑥ブッシュとのもう一つの約束

                                               名田隆司

 
 ブッシュが小泉純一郎に約束させたもう一点こそ、「北朝鮮問題」であった。

 ワシントンでブッシュと再会する前の8月30日、福田康夫官房長官(当時)が、9月17日に首相が北朝鮮を訪問することを発表していたから、ワシントンも「拉致疑惑」問題で行くことを察知していただろう。

 当時のブッシュは、国際テロ対策と朝鮮とを結び付けて理解し、朝鮮との対話・交流を閉じていた。

 朝鮮に大量破壊兵器等の拡散問題が存在していると、朝鮮は大量破壊兵器とミサイルで武装している「ならず者」国家だと非難し、状況が整えば核による先制攻撃もためらわないぞと、朝鮮政策に怒りを持っていたブッシュの感情があった。

 だからこの時期の小泉純一郎の訪朝は、ブッシュにとっては歓迎すべき事柄であった。 (この点でも、先行の訪朝者たちとは違っている)

 従って小泉首相の平壌訪問の真の目的は、拉致疑惑問題の解決を掲げていたこととは違い、ブッシュ大統領の「特使」的役割を第一に担っていただろうと考えられる。
 
 国際テロ関連の解決も国際社会の連携を必要としていた米国にとって、朝鮮に関するすべての「疑惑」を国際社会のなかでさらけ出す方法は、朝鮮を多国間協議の枠内に導くことしかないと判断し、そのことを小泉に要請したと思われる。

 小泉はブッシュとの約束を、日朝平壌宣言の第4項で表現した。

 第4項は「核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に開し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した」となっていて、ブッシュとの約束を果たしている。

 一年後、第4項は「六者協議」となって姿を現し、第1回会合が北京 (中国が議長のため)で開催された。(03年8月27~29日)

 この六者協議の基本テーマであった「朝鮮半島の非核化」問題が、いつの間にか「北朝鮮の非核化」問題にすり替えられ、朝米の対立点となって今も残っている。 (それも米国流の戦術なのだろう)

 さて、小泉訪朝のテーマであった「拉致疑惑」解決は、日朝首脳会談のなかで金正日総書記が、日本側が要請していた13名の拉致を認め、謝罪し、ふたたび同じあやまちは繰り返さないことを誓った。

 そこで問題となったのは、5名が生存、他は死亡したと伝えられたことだ。

 日本人拉致被害者の多くが死亡していると伝えられたことが、日本国内での朝鮮への反発感情は、日米両政権の予想をはるかに越えていたに違いない。

 日本人の誰もが悲しみと怒りを共有して、その「嫌悪感」は朝鮮と指導者、果ては在日朝鮮人たちにまで向かっていった。

 拉致「問題」を政治化し、朝鮮を人権問題で追及していく「武器」にと「密約」していた小泉とブッシュにとっても、日本国内での反応は想像を越えていただろうと思われる。

 その後、02年10月15日に生存が確認された拉致被害者5名が日本に帰国。(一時帰国の約束を日本側が無視する)

 04年2月11日、外務省の田中均外務審議官らが、拉致問題などを協議するために訪朝(~14日)。

 04年5月22日、小泉首相再訪朝。

 拉致被害者家族5名が同時に帰国。

 安否不明の10名を再調査することで合意。

 曽我ひとみさんの家族3名は本人の希望で帰国を見送り。

 05年、第3回日朝実務者協議で、横田めぐみさんの遺骨を引き渡し(11月9~11日)、日本はDNA鑑定の結果が別人のものとして、鑑定結果だけを伝達。(12月25日)

 ここで問題となったのは、十分な鑑定結果ではなかったことで、国際機関での再鑑定が必要であったにも関わらず、遺骨を破棄してしまったことである。

 日本政府は、朝鮮側が生存と伝えた拉致被害者とその家族たちの帰国には力をいれたが、死亡が確認された被害者たちの問題に対しては、朝鮮に再調査を約束させただけで、十分で誠実な対応をしてこなかった。

 むしろ日本国内で朝鮮側の不実を誇大に宣伝し、反朝鮮感情を煽るだけであった。

 その結果、04年に、改正外為・外国貿易法-単独での朝鮮への輸出入・送金の停止、または制限を可能にした。(2月9日)

 さらに特定船舶入港禁止法(6月14日)-などによって、朝鮮への経済制裁の体制を整えてしまった。

 拉致問題に対する官民あげての相乗効果が、確実に「政治化」して、反朝鮮へと向かっていたのもこの時期からである。

 これこそが小泉-ブッシュ間での約束 (密約)の、もう一つであったのだろう。

 日本側はこれまで、日朝交渉の席上では必ず北朝鮮の「核」および「ミサイル」開発関連を持ち出して、交渉進展をストップ・決裂を繰り返してきた。

 つまり、日朝正常化はもちろんのこと、北朝鮮側が有利となるような問題のすべてで、拒否の態度を貫いてきた。

 その際に持ち出す切り札が、「核」および「ミサイル」開発であった。

 北朝鮮の核もミサイルも日本自身のテーマというよりも、米国から要請された交渉ストップ要因であった。

 核・ミサイルは国際的関心のテーマであったとはいえ、日朝交渉での日本側の直接的な問題ではなく、まして日朝共通のテーマとはなりにくい問題であった。(他に解決すべき問題や、日本白身が率先して解決しなければならない問題があったから)

 そこで登場したのが、「拉致問題」であった。

 これは日本自身が解決しなければならない問題であったことから、先「拉致問題」解決という主張が、日本国内の世論に受け入れられたのだと思う。

 問題を解決していくのではなく、日朝間の疎外要因として存在させておくという方式で、米国も小泉の2度の訪朝を受け入れたのであろう。
 これは日米双方にとっての、拉致問題の「政治化」への始まりであった。

 それが横田早紀江さんが「何か」ということへの、第一の問題点である。

 小泉政権は日本の政・経・軍体制を忠実に「アメリカ化」させ、次の安倍政権は政治延命と人気取りのためにだけで-両政権とも「拉致問題」を政治利用してきた点では、同罪だと言わねばならない。


2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」⑤ブッシュ米政権の登場

「制裁一辺倒政策は止めろ」⑤ブッシュ米政権の登場

                                               名田隆司


 01年に登場した米ブッシュ政権の対朝鮮政策は、前クリントン政権末期に実施してきた融和政策を否定し、朝鮮への姿勢を硬化させている。 (情報不足の面もあるが)

 そのうえ、9月11日に発生した米国同時多発テロ事件によって、一気に、国際的な反米テロのネットワークの存在と朝鮮とを結び付けて意識し嫌悪し、恐怖感すら持ってしまった。

 そのことは02年1月の大統領年頭教書演説で、北朝鮮、イラク、イランを名指しで「悪の枢軸」と非難したことに、最もよくあらわれている。

 米国の年頭教書は、大統領が議会に対して内政や外交の現況を定期的に説明するもので、米国政治の位置を米国民と世界に向けたメッセージであった。

 9・11以降のブッシュ政権は、国家「敵」の概念を北朝鮮、イラク、イランばかりでなく、組織や個人にまで広げて、「対テロ戦争」とリンクさせ、そこにも軍事力を行使することを認めて、その権限を大統領個人に集中させるようにした。 (恐怖の裏返しか)

 さらにテロ戦略となる「ブッシュ・ドクトリン」 (先制攻撃)を、「米国の安全保障戦略」として議会に提出(02年9月20日)した。

 その主な内容は、1.米国は自由と正義の側に立ち、人間の尊厳を擁護し、テロリストや独裁者と戦って世界平和を守る、 2.テロを共通の敵とする世界の主要国の団結を基礎に、世界の安全保障推進のリーダシップを把握する、 3.テロリストやならず者国家 (北朝鮮、イラン、イラクなど)には従来の国際法にとらわれず、危険に応じて先制攻撃を加える、 4.テロリストやならず者国家には米ソ冷戦のような核使用自粛の共通認識は期待できない。 (以上、「朝鮮韓国近現代史事典」第2版日本評論社)

 核の先制攻撃もためらわないとしているから、膨大な軍事予算を必要とし、それを浪費する国家になることを意味していた。

 しかし02年以降の米国には、経済回復の勢いに陰りが見られ、一層の貿易自由化、貿易ルールの改善と策定を通じて、世界貿易を拡大していく必要にも迫られていて、自国を中心とする国際社会の連携が欠かせない位置にもあったのだ。

 小泉純一郎首相が訪朝する前に、ブッシュ米大統領とは二度も、首脳会談を行っている。

 ブッシュにも小泉にも、どちらにも自らの懸案の課題があったからでもあろう。

 02年2月のブッシュ大統領の訪日時と、同年9月(訪朝直前)の小泉首相の訪米の2回で、北朝鮮やイラク情勢を含む国際社会の様々な課題解決と、米国の経済回復に向けた緊密な約束事をしていただろうことは、その後の小泉政権の政治が表現している。

 ブッシュから押しつけられたテーマは、二つであった。

 一つは経済回復に苦悩していた米国が、日本からのカネを吸い上げるための直接的な要求であった。

 金融改革、財政再建、特殊法人改革という名の日本の不良債権処理の加速化を行い、日本の金融部門に米経済界が自由に参入させる貿易自由、自由経済への約束-これは郵政民営化 (小泉氏の持論でもあった)法案を実現して果たしている。

 自由貿易部門の他の一点は、世界貿易機関(WTO)を中心とする多角的自由貿易体制を補完・強化する-自由貿易協定 (FTA)締結に向けた動きを促すことであった。

 これもFTA締結に向けた動きを加速させて応えている。 -日本経済の完全な「アメリカ化」を、ブッシュは小泉に約束させていたのだ。


2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」④朝鮮「越境者」問題

「制裁一辺倒政策は止めろ」④朝鮮「越境者」問題

                                               名田隆司


 「好事魔多し」という諺が、2000年前後の朝鮮の国際政治には当てはまるようだ。

 2000年前後の朝鮮の国際政治と国際関係は、かつてないほどの好意的で良質な内容となって進められていた。

 朝鮮統一の方向性も、米国との正常化の方向性も、希望を持って語ることができるほどになっていたことは間違いがない。

 それだからこそ、反社会主義勢力や反朝鮮勢力などの陣営では、現在進行形の朝鮮の姿などは見たくなかったのであろう。

 そのために彼らが利用したのは、朝鮮「越境者」 (脱北者)であった。

 90年代の朝鮮は、最も苦しんだ時代だった。

 経済関係だけではなく、社会主義陣営の崩壊、金日成主席の急逝、米国の核脅迫などが重複し、通常なら国家体制が何度でも倒れていても不思議ではないという、政治状況下にあった。

 当然、経済政策は低迷し、人民たちの生活は困窮していた。

 人民たちが自らの生活難、経済難をカバーするために、中国東北地方に居住する親類・知人たちを頼って仕事や食糧を求めて「越境」 (半公認)していったのは、必然的なことであったろう。

 当初の「越境者」たちの目的が、経済活動だけであったから、再び朝鮮に戻ることを予定していた。

 そうした彼らの仕事や経済活動を、人道支援団体なども支えていたが、いつの間にかブローカや政治プロパガンダに身を置く連中たちが侵入し、甘言で「越境者」たちを国外に連れ出して利用 (一部はビジネスとして)するようになった。

 ブローカーたちは、多くの「脱出者」たちが続いているとして、政治ショーを演出してテレビカメラに彼らの姿を撮らせて、世界に流すようになった。

 在瀋陽日本総領事館への一家5人の駆け込み「脱北者」事件 (01年5月)は、反朝鮮キャンペーンを仕掛けていた連中たちの仕事であった。

 また彼らの一部は、「脱北者」たちをおびき寄せて、一定期間匿っている振りをしながら、キリスト教の「神」概念を植え付けて、こっそり聖書を持たせて朝鮮に再び戻す作業をしている団体 (人道支援とかボランティアとか名乗って)もあった。

 これらの団体は、社会主義を否定しキリスト教を信じ込ませ、朝鮮人たちに「神」概念を広めさせることによって、結果的に社会主義朝鮮を内部から崩壊へと導く手段に「脱北者」を利用していたのだ。

 社会主義朝鮮の体制崩壊を意図しているのは、米国政治の原則であった。

 従って、中国東北地方で活動する幾つかのニセ人道支援団体(キリスト教を布教するという団体も)や、朝鮮に向かって反共番組を流している「自由アジア放送」 (RFA)や「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)などには、米国政府から活動資金が提供(予算化)されている。

 米国(日本も)が裏で「越境者」を操って、「反朝鮮」国際世論を工作していたことになる。

 だからこそ朝鮮側も中国側も、「越境者」を政治問題化しざるを得なくなった。

 「越境者」を犯罪者化することが目的ではなく、公然と内政干渉を行っている米国や日本政府に対する抗議の意味で取締を強化していった。


2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」③2000年の国際政治

「制裁一辺倒政策は止めろ」③2000年の国際政治

                                               名田隆司


 では、小泉純一郎首相 (当時)が02年9月、平壌を訪問し日朝首脳会談を行い、日朝平壌宣言(9月17日)を発表しても、政治生命を絶たれなかったのは何故なのか。

それを解く鍵は、小泉訪朝前の朝鮮半島をとりまく国際情勢の変化、米国政治の変化、日米関係の変化を理解しておく必要がある。

 変化の起点は、 21世紀直前の2000年である。

 2000年以降、朝鮮は EU各国と国交を樹立し、ロシアとも「友好善隣協力条約」 (2000年2月)を結ぶと、プーチン大統領の訪朝(7月)、金正日総書記のモスクワ訪問(01年8月と02年8月)での朝口首脳会談を経て、朝口関係は完全に復活した。

 中国との関係は、一層緊密な関係を築いている。

 中国とは、首脳会談 (金正日総書記が訪中した00年5月、01年1月、04年4月、06年1月と、江沢民中国主席が訪朝した01年9月)のほか、党・政府・軍関係者ら要人との相互訪問が相次いだ。

 また、韓国の金大中大統領が平壌を訪問(00年6月)し、史上初の南北首脳会談を実現し、「南北共同宣言」を発表した。

 これは大きな成果となり、それ以降の南北関係は「わが民族同士」の言葉のもと、政治から経済、文化、スポーツに至る幅広い分野の交流が続いた。

 一方、米国は 90年代当初に持ち出した「北朝鮮核疑惑」が、結局は朝鮮に核とミサイルを用意させてしまい、核対決の状況を作り出して、関係改善が出遅れていた。

 クリントン政権末期の2000年、政権内部では一部に反対があったものの、朝鮮との「特使交換」を行う段階までやっと追いついていた。

 朝米特使交換は、クリントン大統領の訪朝、朝米首脳会談、朝米国交正常化、双方の首都への連絡事務所設置-などが準備されていた。

 趙明禄国防委第一副委員長のワシントン入り(10月9日)、オルブライト米国務長官の平壌入り(10月23日)までは、順調に進行していた。

 オルブライト氏も、クリントン大統領の訪朝を促していた。

 だが政権内、国防総省や軍高官らが主張する北朝鮮の核・ミサイル開発、輸出疑惑問題が障壁となった。

 その障壁を取り除くためのマレーシア会談 (11月1~3日)でも、朝鮮の核・ミサイル開発・輸出を抑制する手段への合意点が見つけられず、問題を残してしまった。

 クリントン大統領は12月28日、平壌訪問を断念するとの声明を発表した。

 断念した理由は、大統領選で共和党・プッシュ陣営に負けていたため、平壌訪問までに、障壁を取り除く時間が足りなかったことにある。時間切れであったのだ。

 とはいえ、クリントン政権末期のこの時期が、朝米間の政権が一番接近していた時期で、南北朝鮮の「わが民族同士」の推進をサポートしていたことは疑えない。

 が、北の核・ミサイル開発「疑惑」問題を、次期政権に引き継いでしまったことは、米国政治にとっては大きな「問題点」を残したことになった。
 以上のように、 EU各国や中ロ関係、南北関係、朝米関係など、朝鮮との関係では、すべてが好意的に動いていたから、日本も黙って見ているわけにはいかなかった。

 95年3月に連立与党3党代表団(自民、社会、新党さきがけ)が、97年11月に森喜朗自民党総務会長ら連立3党代表団が、それぞれ訪朝していた。
 しかし、帰国後の彼らの成果はなにもない。

 99年12月に社民党の村山富市元首相を団長とする超党派の国会議員団が訪朝し、日朝会談再開問題などを協議したが、なぜか力不足でこれも進まなかった。

 かえって核・ミサイル開発疑惑、拉致疑惑問題などを出してしまい、次回の協議日程さえ決められないほど、悪感情を双方に残してしまった。

 以上のように、 21世紀を目前にした2000年の朝鮮・国際政治状況は、日本と米国だけが反朝鮮キャンペーンにする「問題」の種を残していただけで、他は良好であった。

 後に六者協議のメンバーとなる日、米、中、ロ、韓のすべてが、朝鮮との良好なコマを進めていたことになる。

 これは朝鮮側から考えれば、先軍政治が勝利して2000年を迎えた、ということになるのだろう。

 事実、この年の後半には「苦難の行軍」を突破し、「強盛大国」建設を築くための基礎が整えられたと発表している。


2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」②90年代前半の朝鮮半島

「制裁一辺倒政策は止めろ」②90年代前半の朝鮮半島

                                               名田隆司


 日本政府が朝鮮に対して、戦時賠償・戦後補償・国交正常化問題で動き出すのは、 80年代の末期からであった。

 それ以前から朝鮮半島をめぐる国際政治は、デタントの方向に動いていた。

 90年1月の新年の辞で、金日成主席は南北高位級政治会議の開催を提案すると、同年9月にはソウルで第1回南北首相会談を開催し、南北首脳会談、南北交流・統一問題などを話し合っている。

 同年9月30日に韓国とソ連が国交を樹立。(中国とは92年8月)

 91年9月17日、南北朝鮮は国連に同時に加盟した。

 92年1月、米ニューヨークで朝米高位級会談が行われた。

 92年2月に「南北間の和解と不可侵および協力・交流に関する合意書」と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」が発効した。

 米国が朝鮮半島の南北分断固定化を意図して提案していた「南北クロス承認」案は、 92年8月までには韓国側で完了していて、米国プランは達成していたことになる。

 このため米国は、92年1月の朝米高位級会談が必ずしも希望する方向へと進展しなかったことも含めて、日本と米国が朝鮮と国交を樹立するプランについては、解消する方針を固めていたと思われる。

 南北の関係改善が先行し、朝米関係がやや遅れるかたちでの朝鮮半島のデタント化が進んでいた89年から90年の情勢に刺激されて、日本もやっと動き出すことになる。

 90年9月24日、自民 (金丸信元副総理)と社会 (田辺誠副委員長)両党の代表団が訪朝(~28日)し、金日成主席と会談した。

 9月28日、自民・社会・朝鮮労働党で、8項目からなる「3党共同宣言」を発表した。

 その骨子は、「3党は過去に日本が36年間、朝鮮人民に与えた不幸と災難、戦後45年間、朝鮮人民が受けた損失について、共和国に対して十分に公式的に謝罪を行い、償うべきである」 (第1項)であった。

 「戦後45年間」の問題は、当時の金丸信は「利息のようなものだ」と表現していた。

 「利息」という意味は、1965年の日韓基本条約に基づいて韓国側に支払った無償3億ドル、有償2億ドルの経済的援助金の、その間の物価上昇分の金額だということか。
 
 3党共同宣言に基づいた日朝国交正常化のための政府間交渉(第1回が91年1月から)が始まる前に、米国側が日本にクレームを付けてきた。

 金丸・田辺訪朝団前に、日本側が交渉内容を米国に事前に了解を得ていなかったことと、戦後45年補償は韓国側とバランスが取れず、踏み込み過ぎているということであった。
 
 米側の注文は、 1.北朝鮮の原子力施設について、国際原子力機関の査察を受けるように働きかけること、 2.戦後45年間の損失に日本が償うことは、朝鮮半島に緊張をもたらした北朝鮮の戦後外交を認めることになり、容認できない、 3.仮に日本が戦前・戦中の36年間の償いとして、経済協力を行う場合でも、その援助が北朝鮮の軍事強化につながらない「保証」を取り付けること、 4.南北朝鮮の対話が後退しないよう配慮すること-などと、圧力をかけてきた。

 当時の圧力内容も、現在、米国が対朝鮮政策で日本に要求している核廃棄、経済制裁、南北交流先行などと、同じようなものである。

 日本が米国側の圧力に屈することは、日朝国交正常化のための政府間交渉であっても、交渉決裂が予定されていることと同じである。そうしたスタイルは、現在も何ら変わることがないので、日朝交渉に先行する朝米関係を見ておく必要があるだろう。

 曲がりなりにも日朝政府間交渉が、2000年8月の第10回(日本・千葉で)まで続行したのは、朝鮮側の粘り強く真筆な交渉姿勢にあったからである。

 その朝鮮側の交渉術さえつぶしてしまったのは、日朝交渉の日本側の中心人物であった金丸信の政治献金疑惑を暴露して、彼の政治生命を絶ってしまったのが米国側であった。

 90年代の三党共同宣言と日朝政府間交渉こそは、日本の植民地主義思考を解体し、朝鮮半島の統一発展に貢献し、米国政治からの自立をもたらす、日本国家にとっての「主体性」を試験するまたとないチャンスであった。

 それが、米国アジア戦略の前で、強引に挫折させられてしまったことになる。

 しかも、それ以降の朝鮮や中国、その他の国際政治の舞台で、米国の了解なく先行交渉する政治家は、例え首相や大物といえども、その政治生命を絶たれてしまうといった「金丸トラウマ」となった日本の政治家たちは、特に朝鮮との関係では何もできなくなってしまっていた。

 米国側もまた、朝鮮核情報と各種ネガティブ・キャンペーン情報を出して、日本に牽制球を投げる事を忘れてはいない。


2012年6月21日

「制裁一辺倒政策は止めろ」①なぜ「拉致問題」の解決が進まないのか

「制裁一辺倒政策は止めろ」①なぜ「拉致問題」の解決が進まないのか

                                              名田隆司

 
 日本政府は08年8月以降、朝鮮民主主義人民共和国 (以下、朝鮮、韓国との場合は北朝鮮とする)との政府間交渉を断ち切ったままでいる。

 その結果、政治家の個人的パフォーマンスが時々ありはするが、朝鮮との交渉窓口はすべて閉じており、制裁強化だけが続行している状況である。

 ここにきて、それまで声高に「拉致問題の解決を」「北朝鮮制裁強化を」などと叫んでいた政治家たちの言動に、疑問を抱く層が増えてきているが、それは当然のことであったろう。

 私は早くから、当時の小泉・安倍両政権とブッシュ米政権との間で何らかの「密約」があり、そのため「拉致問題」が利用されてきたことを表明してきた。

 そのような意見には今も、人道・人権問題だと主張する声の前で、社会全体が聞く耳を持っていないようだ。

 交渉の窓口を閉じてしまって、どのようにして解決していくのかという疑問は、誰でもが持っていたのではなかろうか。

 その疑問の声を、6月15日号(899号)の『週刊金曜日』が掲載していた。

 同誌の記者に答えるかたちで、拉致被害者家族会の横田滋・早紀江さんのインタビュー記事「制裁一辺倒ではなく、交渉の糸口を掴んでほしい」である。

 記者の質問に横田早紀江さんが、「北朝鮮は難しい国ですが、拉致問題が解決できないのは北朝鮮だけに問題があるのか、分からなくなってきました。日本国内にも解決を遅らせるようなものが、どこかにあるのではないでしょうか。」と、答えている。

 その間、拉致問題担当大臣は6人も輩出した。

 彼らは問題解決のために、どのような活動をしてきたのであろうか。

 私にも記憶にはない。

 日本政府は自縄自縛に陥って、解決に向かうことができないため、朝鮮に向かっては強硬な言動を繰り返す必要があったのではと思う。

 横田早紀江さんが疑問だとしている「日本国内にも解決を遅らせるような」何かについては、二点存在する。

 そのことを考察するためには、「拉致問題」が政治化する以前の、朝鮮半島状況から考えておく必要がある。


2012年6月21日
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