「朝鮮半島が記録する6月」⑥米国の誘因作戦
「朝鮮半島が記録する6月」⑥米国の誘因作戦
名田隆司
1949年、50年の南朝鮮社会は、反米意識が非常に高まっていた。
38度線にいる韓国軍は、北に対する挑発・誘導作戦を繰り返していた。
戦闘は焦眉の日程にあったといってもいい。
ソ連との約束(遅れて)だったとはいえ、そのような時に米軍部隊を引き揚げさせるといったようなゆとりが、米国にあったのだろうか。
何らかの意図があって、それを実行したと理解することの方が現実的ではなかろうか。
米国の戦争史のなかで「誘因」「捏造」劇は、いくらでも語られている。
1942年12月の日本軍真珠湾攻撃・太平洋戦争(誘因)。
1946年8月のベトナム・トンキン湾事件(捏造)。
2002年9月の「9.11米国同時テロ事件」(誘因)。
2003年3月の「イラクの自由」作戦でサダム・フセイン政権への攻撃(捏造)。
など、産軍体制下の米国の戦争には常に疑問符がついてまわる。
それは経済的利益と密接に結び付いているからであろう。
朝鮮戦争もまた、米国による誘因・挑発・捏造産物の結果だと考えることができる。
そのためこれまでは、戦争前の李承晩政権と韓国社会の実態を述べてきた。
同時に朝鮮戦争に至る動きは、当時の日本政治とも無関係ではなかった。
47年3月、ソ連封じ込めを目的とした「トルーマン・ドクトリン」を発表した米国は、ソ連との対決の接点(最前線)にあたる韓国と西ドイツとを、反共の防壁として固める政策を、より明確に打ち出していった。
同時に韓国の後方に位置する日本列島での、安全で強固な軍事基地建設とその整地作業を急いでいたようだ。
1948年、済州島で「4.3人民抗争」が起こっていた頃の日本は、GHQの意向で右傾化路線を強要されている。
日本の右傾化路線は48年1月6日、サンフランシスコでロイヤル米陸軍長官が、日本を極東における全体主義に対する防壁にすべきだと演説したことから始まっている。
翌7日、GHQの意向を受けた日本政府は、経済・言論関係者55人の公職追放と、3月20日にも著述家270人の追放を発表した。
1月24日は文部省が、設定した教育水準に達していないとの理由で、朝鮮学校設立を不承認とし、閉鎖へと乗り出した。
4月24日、兵庫県庁前で数千人が朝鮮学校の閉鎖命令撤回を要求して、抗議デモを行った。(阪神教育闘争)
彼らに恐れをなしたGHQが翌日、神戸地区に占領後初めての非常事態宣言を出し、多数の朝鮮人たちを逮捕した。
首謀者9人(うち一人は日本人)を軍事裁判にかけ、全員重労働の有罪とした。
さらに26日には、大阪府庁前での抗議集会に警察官が発砲して、16歳の少年が死亡するという事件が発生した。
このようにGHQや武装警官が過剰な警備で在日朝鮮人を弾圧していた理由は、同時期の済州島での革命運動の延長、連鎖反応と交流とを恐れていたためでもあった。
46年頃に南朝鮮でコレラが発生していて、南朝鮮からの密航者を防ぐと同時に、在日朝鮮人の帰国をも足留めする目的で、米国は日本に海上保安庁を発足(48年5月)させたのも、そうした一環であった。
48年後半の日本政治は、GHQによって防共列島化へと一直線に動かされていた。
同年7月31日、マッカーサーの意向で公務員の労働基本権が禁止措置(政令201号)となった。
9月8日には在日朝鮮人連盟ら朝鮮人4団体に団体等規制令(4月4日に吉田内閣が突如として公布した。これにより、政党や労働組合の動きを監視することができ、レッドパージヘの伏線となった)を適用し、それぞれに解散命令を出した。
同時に、共産党政治局員の金天海を含む幹部36人を公職追放にした。
このように左派在日朝鮮人と共産党との結び付きを切り離し、在日朝鮮人が南朝鮮の革新勢力と同盟することを恐れて、それぞれの組織を解散させた。
そのうえで12月24日,岸信介、笹川良一、児玉誉土夫らA級戦犯容疑者19名を釈放して、主要戦犯処理はこれで終了したと発表した。(東条英機ら7名の絞首刑は11月12日に行った)
米国は、日本を自国の軍事体制下の一環として、共産圏に対する有効な基地へと変貌させるために、一つは49年秋ごろから「単独講和」を推進し、もう一つは左派と在日朝鮮人組織を解散させることに力を注いだ。
49年1月の総選挙結果で、その実施の徹底化へと動いた。
選挙は、与党の民主自由党が過半数を制したものの、他の野党と革新政党が議席を減らしたにも関わらず、共産党だけが4議席から35議席を獲得して躍進していた。
共産党の躍進を問題にしたGHQは、第3次吉田内閣にレッドパージと共産党の解散を命じた。
その後、教育法違反だとして全国の朝鮮学校(58校)の、即時閉鎖指令(10月19日)を出した。
全国各地の朝鮮学校にトラックで乗り付けた警察官が、小学生の子供たちにまで警棒をふるい、机・椅子・看板などを持ち出してしまった。
マッカーサーは、50年の年頭の辞で「日本国憲法は自己防衛の権利を否定せず」と声明して、日本の軍事基地化、再軍備化の方向を示した。
1月10日になると、沖縄での恒久的な基地づくりの建設を始動した。
基地は占領期間中は存続すると、マッカーサーが声明(4月4日)し、同日の憲法記念集会で、共産党は侵略の手先だと非難し、非合法化を示唆した。
6月中旬からは、集会もデモも禁止されていて、GHQによって日本列島全体は、窒息状態に陥っていたのだ。
日本も南朝鮮も、米国によって反共基地に仕立てられていたことになる。
この頃、米国による朝鮮半島での戦争準備が終了していたとみてもいい。
2012年7月4日 記
名田隆司
1949年、50年の南朝鮮社会は、反米意識が非常に高まっていた。
38度線にいる韓国軍は、北に対する挑発・誘導作戦を繰り返していた。
戦闘は焦眉の日程にあったといってもいい。
ソ連との約束(遅れて)だったとはいえ、そのような時に米軍部隊を引き揚げさせるといったようなゆとりが、米国にあったのだろうか。
何らかの意図があって、それを実行したと理解することの方が現実的ではなかろうか。
米国の戦争史のなかで「誘因」「捏造」劇は、いくらでも語られている。
1942年12月の日本軍真珠湾攻撃・太平洋戦争(誘因)。
1946年8月のベトナム・トンキン湾事件(捏造)。
2002年9月の「9.11米国同時テロ事件」(誘因)。
2003年3月の「イラクの自由」作戦でサダム・フセイン政権への攻撃(捏造)。
など、産軍体制下の米国の戦争には常に疑問符がついてまわる。
それは経済的利益と密接に結び付いているからであろう。
朝鮮戦争もまた、米国による誘因・挑発・捏造産物の結果だと考えることができる。
そのためこれまでは、戦争前の李承晩政権と韓国社会の実態を述べてきた。
同時に朝鮮戦争に至る動きは、当時の日本政治とも無関係ではなかった。
47年3月、ソ連封じ込めを目的とした「トルーマン・ドクトリン」を発表した米国は、ソ連との対決の接点(最前線)にあたる韓国と西ドイツとを、反共の防壁として固める政策を、より明確に打ち出していった。
同時に韓国の後方に位置する日本列島での、安全で強固な軍事基地建設とその整地作業を急いでいたようだ。
1948年、済州島で「4.3人民抗争」が起こっていた頃の日本は、GHQの意向で右傾化路線を強要されている。
日本の右傾化路線は48年1月6日、サンフランシスコでロイヤル米陸軍長官が、日本を極東における全体主義に対する防壁にすべきだと演説したことから始まっている。
翌7日、GHQの意向を受けた日本政府は、経済・言論関係者55人の公職追放と、3月20日にも著述家270人の追放を発表した。
1月24日は文部省が、設定した教育水準に達していないとの理由で、朝鮮学校設立を不承認とし、閉鎖へと乗り出した。
4月24日、兵庫県庁前で数千人が朝鮮学校の閉鎖命令撤回を要求して、抗議デモを行った。(阪神教育闘争)
彼らに恐れをなしたGHQが翌日、神戸地区に占領後初めての非常事態宣言を出し、多数の朝鮮人たちを逮捕した。
首謀者9人(うち一人は日本人)を軍事裁判にかけ、全員重労働の有罪とした。
さらに26日には、大阪府庁前での抗議集会に警察官が発砲して、16歳の少年が死亡するという事件が発生した。
このようにGHQや武装警官が過剰な警備で在日朝鮮人を弾圧していた理由は、同時期の済州島での革命運動の延長、連鎖反応と交流とを恐れていたためでもあった。
46年頃に南朝鮮でコレラが発生していて、南朝鮮からの密航者を防ぐと同時に、在日朝鮮人の帰国をも足留めする目的で、米国は日本に海上保安庁を発足(48年5月)させたのも、そうした一環であった。
48年後半の日本政治は、GHQによって防共列島化へと一直線に動かされていた。
同年7月31日、マッカーサーの意向で公務員の労働基本権が禁止措置(政令201号)となった。
9月8日には在日朝鮮人連盟ら朝鮮人4団体に団体等規制令(4月4日に吉田内閣が突如として公布した。これにより、政党や労働組合の動きを監視することができ、レッドパージヘの伏線となった)を適用し、それぞれに解散命令を出した。
同時に、共産党政治局員の金天海を含む幹部36人を公職追放にした。
このように左派在日朝鮮人と共産党との結び付きを切り離し、在日朝鮮人が南朝鮮の革新勢力と同盟することを恐れて、それぞれの組織を解散させた。
そのうえで12月24日,岸信介、笹川良一、児玉誉土夫らA級戦犯容疑者19名を釈放して、主要戦犯処理はこれで終了したと発表した。(東条英機ら7名の絞首刑は11月12日に行った)
米国は、日本を自国の軍事体制下の一環として、共産圏に対する有効な基地へと変貌させるために、一つは49年秋ごろから「単独講和」を推進し、もう一つは左派と在日朝鮮人組織を解散させることに力を注いだ。
49年1月の総選挙結果で、その実施の徹底化へと動いた。
選挙は、与党の民主自由党が過半数を制したものの、他の野党と革新政党が議席を減らしたにも関わらず、共産党だけが4議席から35議席を獲得して躍進していた。
共産党の躍進を問題にしたGHQは、第3次吉田内閣にレッドパージと共産党の解散を命じた。
その後、教育法違反だとして全国の朝鮮学校(58校)の、即時閉鎖指令(10月19日)を出した。
全国各地の朝鮮学校にトラックで乗り付けた警察官が、小学生の子供たちにまで警棒をふるい、机・椅子・看板などを持ち出してしまった。
マッカーサーは、50年の年頭の辞で「日本国憲法は自己防衛の権利を否定せず」と声明して、日本の軍事基地化、再軍備化の方向を示した。
1月10日になると、沖縄での恒久的な基地づくりの建設を始動した。
基地は占領期間中は存続すると、マッカーサーが声明(4月4日)し、同日の憲法記念集会で、共産党は侵略の手先だと非難し、非合法化を示唆した。
6月中旬からは、集会もデモも禁止されていて、GHQによって日本列島全体は、窒息状態に陥っていたのだ。
日本も南朝鮮も、米国によって反共基地に仕立てられていたことになる。
この頃、米国による朝鮮半島での戦争準備が終了していたとみてもいい。
2012年7月4日 記
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